ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

東京大空襲

2008年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
Shoshitsu

 東京中心部の敗戦までに消失した地域。(岩波ジュニア新書『東京が燃えた日』より)

 63年前の今日、1945年3月10日、東京はB29(米軍の爆撃機)130機の大編隊による襲撃を受けて、下町を中心に焼け野原となりました。
 米軍は無差別に焼夷弾の雨を降らせ、この日だけで約10万人が亡くなりました。

 焼夷弾というのは当時、木造建築が多い日本の都市の特徴から、火災を起こすことが効果的と考えた米軍が開発した爆弾です。ひとつの爆弾の中にたくさんの小爆弾が詰まっていて、小爆弾が地上に落下すると、中に入った油が流れ出し、そこに火がついて猛火を発し、付近を焼き尽くします。
 大量の焼夷弾の投下で火に囲まれた住民は逃げ場を失い、火だるまになって逃げ惑い、次々に焼け死んでしまいました。

 ぼくが生まれたのは戦争が終わってからですが、両親から空襲の話を何度も聞きました。
 当時両親は幡ヶ谷に住んでいて、3月10日の大空襲は免れましたが、翌月の4月13日、四谷、新宿方面の空襲に遭遇しました。

 「空襲警報が鳴る前から、まわりは大騒ぎだったね。大きな真っ黒な飛行機がゴーッてたくさん飛んできてね、怖かったよ。何にも持たないで逃げようって、お父さん(ぼくの父)は言うんだけどね、鍋だの薬缶だのがなかったら逃げた先でも困ると思ってね、鍋を背中にしょって、薬缶の中には水をいっぱい入れて持って逃げたんだよ」

 「外へ出たら、夜なのに昼間みたいに明るくてさ。ほうぼうに火の手が上がってたよ。逃げようとする方に焼夷弾がシュシュシュシューってたくさん落ちてきて道をふさぐから、どこにも逃げようがなくなっちゃうんだよ。町内会長が、『防空訓練を忘れたのか、火を消せ! バケツリレーだ!』って叫んでるけど、誰もそんなこと聞いちゃいないよ。みんな一目散に逃げちゃったよ。あの町内会長、そんなこと言ってるもんだから死んじまったけどね」

 「お父さんが、人が逃げる方は危ないから、みんなが行かない方に行こうって言うんだけど、心細くてね。だけど、ついていくしかないから言う通りにしたんだけど、それでよかったんだね。たくさんで逃げた人たちはみんな死んじゃって、みんなと離れて逃げた人の方が助かってたね」

 「ようやく火の手がこないところまで逃げて一息つけたら、火であぶられたものだからのどがからから。やかんに入れた水を飲もうと思ったら、それがみーんな蒸発しちゃっててね。薬缶の中には砂がたまってたよ。がっかりしちゃった。背負ってきた鍋もいつの間にかどっかに行っちゃった。何から何までぜーんぶ焼けちゃったのさ」

 「あんな怖い思いをしたら、そんじょそこらのことじゃ驚かないね」

 逃げる途中、両親は火を避けて近くのドブ川に飛び込みました。すでに水はほとんど流れていませんでしたが、焔を頭の上でやり過ごすことができたようです。
 そこで父は、焼夷弾の行き先を見極めるために、ずっと上を向いていました。うつぶせになっていたのでは、いざという時に逃げられないからです。
 しかしそのために、強烈な閃光で目を傷め、右目の視力は死ぬまで半分以下しかありませんでした。

 今日、9時からTBSテレビで特集番組が組まれています。録画して後で見るつもりです。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。