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ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

「ナンシー関のいた17年」を観た

2015年01月17日 | テレビ番組

 昨年12月に放送されたのを録画しておいて、そのままになっていたNHKBSプレミアムのドキュメンタリードラマ、「ナンシー関のいた17年」を観た。
 
 生前、活躍していた当時は、消しゴムで似顔絵版画を描く人、という程度の認識だった。それが突然死んだというニュースが入ってから、さまざまなところで特集番組や雑誌記事が組まれ、「ああ、人気があったんだなあ」と初めて認識した。彼女が活躍していた当時の僕は、たぶん全く別なところに興味があって、週刊誌などに眼を通すことがなかったのだと思う。実際、タウン誌や週刊誌が嫌いだった。今でもあまり好きでない。
 
 それはそれとして、消しゴムで版画を描くって、それって、中高生の授業中のいたずらではないのか? 僕の中高生時代にも器用なやつがいて、消しゴムでスポーツカーを作って、それをシャープペンシルのバネで飛ばして友だちと競い合っていた。
 僕はそのたぐいのいたずらはやらなかった。真面目だったからではない、消しゴムがもったいなかったからだ。
 
 妙に保守的なところがあって、「モノ」には本来の目的というのがある。つまり消しゴムは鉛筆で書いた文字を消すことが目的。その目的を違えた使い方をするというのは、消しゴムに対して失礼であると考えていた。だから、消しゴムで版画を描くというナンシー関の行為には、少なからぬ驚きだったが、あまり好感を持てなかったことも事実だ。あんなものが仕事として認められるということにも驚いた。
 
 しかし、消しゴムは文字を消す道具以外の何ものでもないと決めつけてしまうのは、それこそ消しゴムの可能性に枠をはめていることになる。だいいち、誰が決めたわけでもなく、「消しゴムは文字を消す以外に使用してはならない」などという法律もない。
 
 たとえば、マッチ棒で戦艦大和を作る者もいれば、割り箸で小さなこけしを作る者もいる。それらはすべて、本来の目的から離れて、創造物の素材の一つと考える発想で、発想の転換はアーチストの基本中の基本である。
 
 20代の頃に十二指腸潰瘍で入院していたとき、同室の同年輩の男が、歯ブラシの柄を削って小さな下駄を作り、それを根付けにしてお気に入りの看護師にプレゼントしていた。それが実に上手で売り物にしても良さそうなほど完成度が高く、もらった看護師もちょっと嬉しそうだった。彼はドヤ顔で2足目に挑戦したが、完成する前に退院してしまった。
「ガラスの底に顔があったっていいじゃないか」という岡本太郎の発想から、あるウィスキーのコマーシャルが生まれたことがあったが、それもグラスを彫刻の素材と考えてのことだ。
 
 つまり、ナンシー関にとって消しゴムは、「ケシゴム」という名前の素材だったのだ。(ちなみに、消しゴムの原料はゴムではなくプラスチックである)
 ナンシー関の場合、版画の大きさが消しゴムの大きさに限られる。大きな作品はいくつもの消しゴムを並べて作る。だったら消しゴムメーカーに断裁前の大きな板を注文すればいいものをそうしなかった。彼女ならそれは出来たはずだが、あの大きさにこだわった理由は、ドラマではわからない。
 
 ナンシー関の人間像は、そんな訳でほとんど知らなかった。異様に太った巨体に似合わない、小さな版画というアンバランスで、あの姿は一度見たら忘れない。
 彼女を見出したのは、当時「ホットドックプレス」の編集部員だったいとうせいこうで、「ナンシー関」というペンネームも彼が考えた。本名は関直美。版画に注目しただけでなく、コラムニストとしての才能を見出したのも彼だ。
 
 急速に人気が高まった彼女は、膨大な仕事を引き受け、しかも締め切りに遅れることはない。編集者にとってこんなにありがたい作家はいないから、ますます仕事が増える。生涯で5千を超える作品を残した。ほぼ毎日一つは作っていたことになる。加えてコラムも書いていたのだから、確実に限界は超えていたはずだ。
 
 義理堅くもあったようだ。
 多忙な時間を割いて友人たちとの食事会に出向き、仕事が残っているからと中座して帰宅する途中、タクシーの中で倒れた。
 病院に担ぎ込まれたものの、翌未明に息を引き取った。虚血性心不全、心筋梗塞である。
 見るからに太り過ぎの体型に加え、ヘビースモーカー。その体で無理を重ねれば心臓は悲鳴を上げる。
 まさに、走り抜けた生涯、という印象だった。

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 「NHKBSプレミアム。プレミアムって何だ? 
 それはさておき、ドキュメンタリードラマ『ナンシー関のいた17年』を観た。
 ナンシー関の人生を描く、とか言っておいて、結局お涙頂戴ってどうなのよ。
 保険かけてどうする。
 NHKの限界を見た。
 合掌。」

三谷幸喜ドラマ「オリエント急行殺人事件」

2015年01月14日 | テレビ番組

(フジテレビホームページより)
 
 11日―12日の2夜連続で放送された三谷幸喜脚本の「オリエント急行殺人事件を観ての、いささか独善的な感想。
 原作はアガサ・クリスティの代表作で、ミステリーファンならたいてい筋を知っているので、果たしてどんな脚色がなされているのだろうか、というのが楽しみだった。
 三谷幸喜といえば「やっぱりネコが好き」とか「今夜、宇宙の片隅で」などのテレビドラマで、独特の世界観を感じてささやかなファンになっていた時期があった。ところが、監督した映画は総じてはしゃぎ過ぎのうるさい作品ばかりで、いささかうんざりしていた。しかも、体制べったりの無難な内容だから中味がない。
 したがって、フジテレビ開局55周年記念と銘打った今回のドラマは、三谷幸喜というよりもフジテレビが総力を挙げ、たっぷりと予算をかけてどんな作品に仕上げているのかが楽しみだった。
 
 さて、ミステリーなので、いくら有名な作品といってもこれから原作を読んでみようという人もいるだろうからストーリーには触れない。
 
 第一夜は、エルキュール・ポアロに相当する勝呂武尊(野村萬斎)が、一人ひとり尋問するシーンで構成され、これは原作にそったものだ。しかし、ドラマにするといかにも退屈である。これでは第2夜の視聴率を下げるだろうと思ったら、案の定わずかだが下げてしまった。普通、面白ければ第2夜は上がるものなのだが。それでも1夜16.1%、2夜15.9%は高視聴率の部類に入るだろう。ただ、あれだけのキャストを揃え、撮影費も相当かかっているだろうから、フジテレビとしてはせめて20%超えはしてほしかったのでは。
 退屈の原因の一つに野村萬斎の演技がある。台詞が作り過ぎているものだから聞いていて疲れる。ただでさえものすごい扮装をしているのに、あそこまで臭い芝居をしなくても良かったのではないかと思う。それが脚本や演出からの注文なのか、野村萬斎自身のアイデアなのかはわからないが、相当無理をしているようすが鼻についた。
 時代設定は昭和の初期ということだ。細かなところは目をつぶることにして、出演者の衣装や建物の雰囲気など、国籍不明、時代考証適当なところは三谷作品らしくこだわらない。まあ、そこに期待はしていない。突っ込みかけてやめた。
 良い子は参考にしないように。
 
 あまり期待せずに観た三谷幸喜のオリジナルの第2夜はけっこう面白かった。ここでは殺人に至るプロセスがドラマチックに描かれている。野村萬斎には申し訳ないが、皮肉なもので、あまり勝呂武尊(ポアロ)が登場しないシーンの方が安心して観られる。
 シリアスな中にコミカルな芝居を取り入れる技術は、さすが三谷幸喜といっていい。ただ、せっかくオリジナルなのだから、当時の華族や軍人たちがどういう立場であったのか、多少は時代背景に触れてほしかったのだが、それはほとんどない。
 能登巌(沢村一樹)という陸軍大佐が殺人計画に加わる理由は戦場での体験である。それは時代からして第一次世界大戦。陸軍だから中国の青島あたりの戦場だろうか。第一次世界大戦は日本に一時的な好景気をもたらすが、終戦とともに一気に下落。一転して大恐慌に陥った。ドラマの舞台はそんな時代背景で、華族や軍人であってものんびり夜行列車で旅行などできる状態ではなかったはずなのだが……ああ、やっぱり突っ込んでしまった。
 
 それにしても、これでもかと言わんばかりに主役級のキャストを揃えると、「さすがフジテレビ、すごいなあ」と感じつつも、そうとうなレベルの俳優が端役に甘んじていたりして「もったいないなあ」とも感じた。それに、これだけ個性の強い役者があつまると、一人ひとりが立ち過ぎてメリハリがなくなる、ということも知った。
 まるで宝石箱をひっくり返したようなキャスティングではなく、もう少し役柄中心にすれば、お祭りさわぎにならず、落ち着いたドラマになったのではないか。こういったドラマ作りはNHKやテレ朝の方がバランスがよくて上手い。

TBSドラマ「このミステリーがすごい!」

2014年12月30日 | テレビ番組
TBSドラマ このミステリーがすごい!
~ベストセラー作家からの挑戦状~



 (TBSホームページより)
 
 ミステリー好きとしては、ついタイトルに惹かれてしまった。
 『このミステリーがすごい!』、略して「このミス」は宝島社が毎年1年間のミステリー小説の中から、面白い作品を選んで解説している雑誌である。このドラマは過去に『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した作家の中から4人の書下ろし短編小説を「オムニバスドラマ」としたもの。

 4作品は放送順に、安生正『ダイヤモンドダスト』、海中山七里『残されたセンリツ』、海堂尊『カシオペアのエンドロール』、乾緑郎『黒いパンテル』。
 
 長くなるのであらすじははぶいて、感想のみ。
 2時間余の中に4本のドラマを入れているので、監督はずいぶん苦労したことだろう。いずれも限られた尺の中で、よくまとめられていたと思う。進行係は樹木希林とピースの又吉。だが、必要だったのかどうか疑問だ。樹木希林は役者としての技量は認めるけれど、台本にあったのかアドリブなのか、小保方晴子研究員のまねを何度もくり返すのには辟易した。そんな安っぽいギャグではなく、彼女ならもっと気のきいた台詞が言えたのではないか。
 
 4本の中で、よくできていて面白かったのは、最初に放送された『ダイヤモンドダスト』
 東京を、まるで「八甲田山死の彷徨」レベルの大吹雪が襲うという設定で、それを不自然と考えるか、今の世の中何が起きるかわからないとするかは置いといて、気象を完全犯罪に利用するというアイデアは斬新だ。喫煙者が大量に飲酒して低温の中に放り出されると命を失う、というのは、われわれが災害にあったときの警告ともとれた。
 4作品の中では飛び抜けて秀逸だった。
 
『残されたセンリツ』は、設定もトリックもよくありそうな構成で、新鮮みに乏しかった。ただ、ピアニストが工場排水による水銀中毒で演奏技術の衰えが止まらないという設定は、社会的なメッセージ性を感じたので、もう少し大事にしてよかったのではないか。
 ただ、そんな状態のピアニストが、最後に人生最高の演奏をするというのは、いささか無理を感じる。
 イッセー尾形は、コロンボを意識し過ぎ。
 
『カシオペアのエンドロール』はまるでアガサ・クリスティー『オリエント急行殺人事件』の縮小版。東京出身のはずが北海道方言につい反応してしまうことから犯人が分かるという設定は嫌いでない。しかし、芸能界のドロドロがもう少し描かれてよかったのではないか。まあ、尺が短いので無理だったのかもしれないが。
 吉田栄作はコミカルな中に鋭さを秘めた警視正という役柄だが、軽さばかりが立って演じきれていない印象だった。女優役の藤原紀香は、お約束の胸を強調した衣装で視聴者の悩殺を試みる。「あるよ」の田中要次が出ているのに、役柄は死体。もったいない。
 
『黒いパンテル』は内容も設定も漫画だった。死んだ人間が娘を誘拐し、しかも、霧のように消えたりする。4本の作品中で最もバカバカしい。あまり意味のない小惑星の接近ありショッカーモドキの登場あり、これはもうアニメの世界で、テレ東あたりの深夜番組にありそうなハチャメチャである。
 こういうのが好きな人はいるだろうし、他の時間帯で心の準備ができていれば面白く観られたかもしれない。が、すくなくとも、この4本の中に入れてほしくない作品だった。
 
 以上、独断と偏見に満ちた感想である。

松本清張ドラマ「坂道の家」「霧の旗」

2014年12月08日 | テレビ番組



 (写真はともに、テレビ朝日ホームページより)
 
 松本清張生誕105年ということで、(浅学をさらすことになるが、この105という数字にどんな意味があるのかよくわからない。太宰治をはじめ何人かの偉人・著名人の「生誕105年記念」なんやらというのがあるので、きっと意味があるのだろう)テレビ各局が松本清張原作ドラマの旧・新作を多数放送している。
 12月6・7日、2作品が2夜連続、テレビ朝日系列で放送された。
 
 松本清張ドラマと言えば、映画では「砂の器」、ドラマはテレビ朝日の米倉涼子ものが有名だが、連続・単発を含めてすさまじい本数の映画やテレビドラマが製作されている。同じタイトルの作品でも、キャストや演出を変えて複数あるので、筋を知っていてもけっこう楽しめる。
 
「坂道の家」の原作は、短編集「黒い画集」に収録されている一編だが、これがまた少しずつ設定を変えて何度もドラマ化されている。1960年のラジオ東京テレビジョン「現在のTBS」に始まって、今回で6回目だ。
 これまで最も印象に残っているのは、1983年日本テレビ制作の坂口良子・長門裕之版だ。昭和の香り一杯のドラマで、坂道にある家も愛人を匿うにはどうかと思えるような渋い一軒家であった。ただ、当時の坂口良子は演技力はともかく、人間ばなれした美しさがあった。それと好対照の地味な初老の男を演じる長門弘之の、鬼気迫る演技がすごい。
 たぶんどこかで再放送すると思うので、一見の価値ありだ。
 
 さて、今回の「坂道の家」は主演が尾野真千子、男が柄本明。原作とは設定が異なり、杉田りえ子(尾野)がキャバレーのホステスではなく、理容師になっている。寺島吉太郎(柄本)の職業も小間物屋ではなく布団屋。設定を変えたことに意味があるとは思えないし、理容師に布団屋が入れ上げるというのもいささか無理があると思うのだが、そこはまあ、これまでと同じにしたくないという脚本家の意地であろうと目をつぶることにする。
 りえ子が吉太郎を氷漬けにして殺すのは原作どおりだが(これを変更したら作品でなくなる)、恋人の川添直樹(小澤征悦)に大きめのクーラーいっぱいの氷を担がせて坂の上まで運ばせ(まずこれすらも無理)、坂の上から自宅まではりえ子が1人で運んでいる。どれだけ怪力なのかと思った。
 ちなみに原作と過去の作品では共犯者の名前が「山口武豊」であったが、これもなぜわざわざ変えたのかよくわからない。
 そもそも尾野真千子に、こういった男をたらし込むような役は合わない。好きな女優の1人ではあるが、どちらかというと女を感じさせないサバサバ系で、美人度もそこそこだ。過去にドラマで同じ役を演じた黒木瞳や坂口良子とどうしても比較してしまう。柄本明がはまり役だっただけにもったいない。
 ストーリーは上手くできているのに、各所にほころびが見られて残念。
 
「霧の旗」は映画化が2回、ドラマは今回で9回目という、清張ものの定番ともいえる作品である。有名なのは1977年の映画、山口百恵、三浦友和主演で、弁護士が三国連太郎という作品。なぜだかものすごく印象に残っている。映画館で公開時に観ただけで、さきごろCSで放送されたものは録画したまま観ていない。
 
 柳田桐子(堀北)の弟が殺人罪の容疑で逮捕された。あきらかに冤罪を疑われる事件だが、知的障害を持つ弟には、きちんと状況を説明する能力がない。そこで、冤罪訴訟で定評のある売り出し中の弁護士、大塚欽三(椎名桔平)に弁護を依頼するが、けんもほろろに断られる。愛人とゴルフ旅行に行くのが理由だった。
 懲役刑が確定した弟は、収監中に死亡する。桐子は依頼を断った弁護士にすべての責任があると、大塚を陥れる計画を実行する。
 
 主演の堀北真希がいい。彼女はこれまで、あまり女を武器にするような役はやってきていなかったが、もう26歳、十分大人の役がこなせる女優になった。ずいぶん色っぽくなったなあと、感心。
 原作と異なる点は、冤罪で獄中死する身内が原作では兄だが、本作では知的障害を持つ弟になっている。自分の身をまもることが思いどおりにできない人間が、潔白を証明するにはたよれる協力者の力が欠かせない。高名な弁護士(椎名桔平)に依頼することの必然性に説得力を持たせている。この設定の変更は納得できる。
 原作の時代は、すでに「はるか昔」になってしまった「昭和」。現代に引きつけることで、ややもすると不自然さが出てしまうものだが、抵抗なく観ることができた。
 エンディングで、してやったりの堀北真希が、うっすらと口元で笑う。それでも何ら気が晴れることのない微妙な表情がゾクリとする。好演の堀北真希に拍手。
 
 この2作品、ともに力の入った作品ではあるが、出来は「霧の旗」に軍配を上げたい。断っておくが、尾野真千子の演技が下手という意味ではないので悪しからず。

『失楽園』というパラレルワールド

2014年11月21日 | テレビ番組


 渡辺淳一の大ヒット作『失楽園』のドラマ版がDVD解禁され、宝島社から発売された。CS放送の日テレプラスでも、24日から放送される予定だ。
 理由はわからないがこのドラマ、何度かDVD化が発表されては立ち消えになっていた。
 R指定のない地上波連ドラで、濃密なシーンをたっぷり含んでいれば、今の放送倫理規定にはそぐわないのかもしれない。R指定の後付は聞いたことがないから、放送も販売もどうすべきか判断に苦しんだのだろう。ただし、視聴者が限定されるCS放送であれば、法に触れない範囲で放送可能ということなのだ。
 過去のテレビドラマはヌードシーンやベッドシーンは当たり前で、ほとんど問題になったことはなかった。それがいつのまにか規制がきびしくなり、地上波の放送で女性のバスとトップさえ自粛するようになってしまった。写真集などを紹介するときに、司会者が一部を手で隠したり修正をかけたりするのはかえって不自然だと思うのだが。
 しかし、ドラマ版『失楽園』が、長くDVD化されなかった本当の理由はわからない。
 
 それにしても、現在のテレビ界の規制は異常だ。障害者を扱ったドラマも、かなり台詞や映像に注意して作らなければならないと聞く。それでも、「どうしてそんなことが」と思われるような当たり障りのない言葉がクレームの対象になったりするそうで、その度にプロデューサーやディレクターが始末書を書かされるそうだから、たまったものではないだろう。
 もっとも、障害者問題でクレームをつけてくる大半は、障害者本人ではなく健常者だというから、それもまたふしぎなことである。
 
 渡辺淳一という作家は、エロチシズムをテーマにしていながら、女性のファンが非常に多い。いや、この発言は差別的だ。エロスを好むのが男性ばかりと思うのは女性に対する偏見である。
 評判になった役所広司、黒木瞳主演の映画『失楽園』には、女性ファンが殺到したと聴く。
 

 
 で、映画の『失楽園』はずっと前に見たことがあって、噂ほどではないと感じた。売り物のベッドシーンは薄暗くてよく見えず口ほどでもないし、ストーリーに至っては上映時間に合わせるためにかなりはしょっていて、脚本が無理をしている印象だった。
 ドラマ版の『失楽園』はリアルタイムでは観ていない。今回DVDではじめて観た。放送当時、だれだったか女性評論家のような人物が「川島なお美の安い裸」などと評していたのは覚えている。
 それが先頃、ホームドラマチャンネルで2時間に再編集した特別版を見ることができた。これはただ単にドラマを短縮しただけでなく、イタリアロケなどのオリジナルシーンを多く含んでいるものだ。そこに出てくる川島なお美が、「安い裸」どころか超一級品であることに驚いた。雰囲気も演技(このドラマに関してだけだが)も観賞素材としての肉体も実に見事だ。人により好みはあるだろうが、客観的に観て黒木瞳を凌駕していると感じた。僕自身はどちらのファンでもない。
 そこで、これは一度ドラマ本編を見ておきたいと思っていたら、運良く発売されたというわけだ。しかも非常に安価。(そう言った意味では安い裸だった=冗談である)
 
 テレビドラマは、合計で約10時間ほどあり、詳細な人間関係や両方の家族内のさまざまな問題などがよく描かれている。2時間程度でおさめなければならない劇場映画では不可能だ。
 川島なお美演じる松原凛子の夫春彦(国広富之)は、ことあるごとに社会倫理や勤務する病院での立場を口にする。凛子の母親をはじめとした周囲の人間たちの口からは、「ふしだら」とか「汚らわしい」といった言葉が連発される。僕が最も嫌う人間たちだ。既存の常識や周囲の評判に振り回される人間は、軽蔑に値する。
 
 原作は読んでいないからわからないが、ドラマを観て感じることは、久木と凛子のやっていることが、「ふしだら」とか「汚らわしい」というののしり言葉で安易に非難すべきでないということだ。既婚者同士がそれぞれ別の男女と恋愛することは、今の社会では「不倫」と言われ、社会的に非難される。しかしそれでも、「不倫」をする男女は後を絶たない。いったいなぜなのか。
 それはただの遊びの場合もあるだろうし、本気の場合もあるだろう。理由もきっかけもさまざまであるに違いない。それを「不倫」という言葉で一括りにし、社会秩序から外れているとか、ふしだらなどという理由で非難するのは、いったい誰のため、何のためだろうか。
 
 人間は永遠に変わらない生き物ではない。当初はうまくいっていた関係が、時とともに変化してどうにも修復できない状態になる場合も当然ある。問題は、一方がそう感じていながらもう一方は現在の関係に固執している状況だ。『失楽園』での久木と凛子はまさにそれである。
 男女の関係は、両方が納得しなければうまくいかない。未婚の男女なら何の問題もないが、不幸なのは夫婦同士の片思いである。紙切れ一枚で法律で夫婦と定められると、愛情が冷めてしまっても容易に別れることができなくなる。無理に別れれば必ずといっていいほどしっぺ返しが来る。
 だれが決めたかわからない規則や社会常識がまかり通る世の中では、離婚は社会的立場を悪くする原因になるのだ。また、離婚した女性、とくに専業主婦は、離婚した瞬間から経済が成り立たなくなる。日本のような男性中心社会ではとくにそうだ。こうした理由で、愛情が冷めたにもかかわらず表面的には夫婦を演じている「仮面夫婦」がけっこう多いと聞く。
 長い人生を我慢し続けて生きなければならないとすると、それは男女ともに不幸なことではないだろうか。
 
『失楽園』はパラレルワールドである。最後は社会のしがらみを突破できずに死を選んでしまうのだが、二人は結局もとに戻ることはなかった。戻ることは不幸の巻き戻しでしかないからだ。だが、二人が生き続けるには、あまりにも世間の風当たりは冷たかったのだ。
 それでも、久木と凛子の二人をうらやましいと感じた男女は、決して少なくはなかったのではなかろうか。結婚外での恋愛の多くは、結局あきらめて別れることになり、やがてただの浮気で片付けられる。それが現実であり、パラレルワールドの第一層だ。そして第二層が久木と凛子の世界である。もしその上の第三層に二人が生きたなら、関わるすべての人も含めて新たな幸福を得ているのではないだろうか。
 第三層はあくまで自由であり、社会が取り決めた不合理な道徳や秩序に縛られることはない。そういう世界は全人類の意識が変化しないかぎり不可能なのかもしれない。
 パラレルワールドなるものが存在するのであればの話だ。
 
 以前、若松孝二監督が某女性国会議員から「あなたが作った不潔でふしだらな映画を、私は決して観ません」といわれ、「不潔でふしだらなことを、あなたは決してしないのですね」と切り返したというエピソードを聞いたことがある。真実かどうかは定かでないが、本当なら実に見事だ。

「明日、ママがいない」への抗議は正当か

2014年01月30日 | テレビ番組
Asu_mama

 日本テレビ系列の連続ドラマ「明日、ママがいない」【リンク:番組サイト】にたいし、病院関係者や児童福祉の関係者から抗議の声があがっている。
 日本で唯一「赤ちゃんポスト」を運営している熊本市の慈恵病院は、日本テレビに「放送中止」を求めたという。さらに、スポンサー企業に対しても抗議のメールが殺到し、その結果、全社がCMを自粛するという結果を招いた。
 昨日放送された第三話のコマーシャルのほとんどが、ACに差し替えられていた。にもかかわらず、視聴率は15%に上昇(初回は14%)、皮肉なものである。
 
 たしかに番組は過激である。現実にはほとんど伝わってこない養護施設の実態を、あのドラマをみた多くの視聴者が「養護施設とは何とひどいころなのか」という印象を持つことは否めない。
 慈恵病院は、「職員が子どもに暴言を吐き、泣くことを強要するなど現実と懸け離れたシーンが多すぎ、誤解や偏見、差別を与える」と指摘している。

 しかし一方で、施設出身者にはドラマの子供達に共感できるという声も多く聞かれる。「あんなものじゃない、もっとひどい」という意見もあったそうだ。
「『週刊文春』のアンケートでは、放送を中止すべきだとの意見が42%、継続すべきが58%」(『東京新聞』1月26日「話題の発掘」篠田博之)という。
 
 日本テレビ側は「ドラマは子どもたちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子どもたちの視点から『愛情とは何か』を描くという趣旨のもと、子どもたちを愛する方々の思いも真摯に描いていきたい」とのコメントを発表した。しかし、ドラマを通じてその真意が伝わらず、養護施設の否定的な部分ばかりがクローズアップされてしまったことは、受け取る側だけでなく、脚本・演出の問題点と言えなくもない。
 
 しかし、ここで言いたいのはドラマの内容についての可否ではない。問題は、テレビ局に「放送中止」を求めたり、提供スポンサーに圧力をかけるようなやり方である。「自分たちにとって都合が悪いから、放送を止めさせてやる」という意図以外の何ものでもない。「南京事件」関連の映画上映を映画館の前に宣伝カーを乗り付けて妨害する右翼の行為と同等であると思う。
 こうした行為は、表現の自由を萎縮させ、無用な放送自粛の拡大に繋がりかねない。スポンサーから難色や圧力があれば、すぐに脚本を書き換えたり番組をお蔵入りにすることが頻出するだろう。クレームを必要以上に恐れ、特に保守的な会長に交代したNHKなどは、政権からの圧力があれば、政府に都合の悪い内容の番組はますます放送しなくなり、御用テレビ局になる(すでにそうだが)。実際今朝の新聞には、脱原発論の大学教授に対し、担当ディレクターが「(脱原発論は)絶対止めてほしいと要請し、大学教授は「趣旨を変えることはできない」と出演を拒否したとの記事が掲載されていた(1月30日『東京新聞』1面、『朝日新聞』7面)。
 
 とりあえず現状では、日本テレビは全9回のすべてを放送すると言っているので、ぜひその姿勢は貫いてほしいところだ。
 
 どのような内容の番組であれ、それを批判することは全く自由であり、論議を戦わすことは放送界の発展につながる。肯定的な意見も否定的な意見もあって当然である。しかし、圧力をかけて放送中止に追い込んだり、妨害するなどということは、決してあってはならない。
 
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筑紫哲也 明日への伝言~「残日録」をたどる旅

2013年01月29日 | テレビ番組
『筑紫哲也 明日への伝言~「残日録」をたどる旅』を観た。
 
Chikushi
 
 筑紫哲也氏が亡くなって、早くも4年が過ぎた。もし、彼が生きていたら「多事争論」でどんなことを語ったろうかと、今でも思う。
 「残日録」は闘病記であると同時に、彼がどうしても残しておきたい言葉の記録でもある。
 そのなかに、「生存視聴率」という言葉が紹介されていた。彼の造語だという。番組が存続するために必要な最低限の視聴率を指すそうだ。
 「常に高い視聴率を狙おうとすれば、センセーショナルな話題などに偏っていく。生存視聴率とは、番組の質を保ち、かつ存続させる考え方」
 番組の質を保ちながら、打ち切りにならない程度の視聴率は確保する。それが、視聴者の信頼を得る、と筑紫哲也は語る。
 それについて、田原総一朗は筑紫との会話で、最低7パーセントだと言ったことを明かした。しかし「10パーセントになると他の番組になってしまう」とも。だから、7~10パーセントの間を維持することだと。
 結果、「ニュース23」の平均視聴率は8パーセントだった。
 
 「多事争論」は、90秒生の独り語りである。テレビで一人の人間が語り続ける限度は30秒といわれていた中で、異例のコーナーだった。その90秒間を筑紫哲也は原稿なしで語った。原稿を用意しても、番組が進行する中で言いたいことが変わってしまうからだという。
 18年間続いた「ニュース23」最後の「多事争論」は、2008年3月28日。体調は最悪で口が言うことをきいてくれない中で、90秒間の語りを終え、筑紫哲也はマイクをおいた。
「これからもニュース23をよろしくお願いいたします」
 が、筑紫が去った後の「ニュース23」は彼の言う生存視聴率を確保できず、かろうじて「NEWS23X」という新番組として継続するにとどまっている。
 番組を降りた後も、筑紫は講演会や取材を続けている。
 2008年7月6日、立命館大学で若者達に向けた講義「明日への伝言」が、活動の最後になった。

 2012年11月で、没後4年を迎えた筑紫哲也。彼が、病床でひそかに書き綴っていた闘病ノート「残日録」には、多くの人々との手紙のやり取りも、大事に張り付けて残されていた。書斎には、その他、未発表の多数のノートやメモもあった。
 今回、ご遺族のご理解を得て、その貴重で膨大な記録を読み解きながら、そこに登場する、各界のさまざまな人々を、沖縄、京都など各地を松原耕二が訪ね歩くロードムービードキュメンタリー。
筑紫哲也が、次の世代に伝えたかったメッセージを紐解いていく。(ホームページより)

 
 番組を観て、あの冷静な判断と分析が、労を惜しまぬ取材にあったことを知った。自分で観て聞いて語る、かつて朝日新聞の記者であって、根っからのテレビ屋でないジャーナリストとしての使命感を持ち続けた日とだったからこそ、「ニュース23」は多くの人の支持を得たのだと思う。
 
 ライバルとされたテレビ朝日のニュースステーションのキャスター、久米宏はそのコメントから、相当筑紫の影響を受けていたことが伺えた。
 あらためて言う「もし生きていたら」日本の情報番組は、もっと違ったものになっていただろう。
 
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ドラマ「ビブリア古書店堂の事件手帖」

2013年01月22日 | テレビ番組
Bibria
 
 「ビブリア古書店堂の事件手帖」が面白い。フジテレビの月9ドラマとしてはかなり異色。マニアックなドラマである。毎回絶版になっている古書がからんだ出来事が描かれている。扱われる「事件」そのものはなんということもない。ただ、知る人ぞ知る絶版本が毎回テーマになっているのだから、次はどんな本が登場するのか興味津々である。本好きにはたまらない。
 第一回は、新書判の漱石全集に納められた「それから」で、扉に書き込まれた「夏目漱石」という署名が本物のサインならそうとうな価値ではないかと、ビブリア古書店堂に持ち込まれる。
 この全集が刊行された当時、すでに漱石は他界しているのだから、本物であるわけはないのだが、いかにも古そうな漱石全集に署名があれば、本を知らない人は期待してしまうのかもしれない。
 この全集、以前紹介したように自分は蔵書している。旧字旧仮名で発行された最後の全集で、そういった意味では貴重品だ。
 
 今日放送された第2回は、小山清の『落穂拾ひ』。初版ではなく新潮文庫判である。ドラマの中ではさほど珍しいものではないといっているが、文庫本でも数千円は付けられているので、入手しにくい部類に入る。
 残念ながら、この本は蔵書していない。しかし、番組を見ていて、何となく読んだ記憶がよみがえった。
 「落穂拾ひ」は短編で、最後の方で女性が爪切りと耳かきを贈るシーンで記憶がよみがえった。しかしいつどこで読んだのか覚えていないし、詳細な内容も記憶にない。まあ、その程度の印象だったのだ。今読み直せば違ったかもしれないが、放送が終ったとたん、ネットの古書はすべて売り切れていて、残っているのは万単位の値段がついた単行本だけだった。今後気をつけないといけない……って何を気をつけるのかわからないが。
 ドラマの途中、女店主がフォークナーの「サンクチュアリ」を手にしているところがチラリと見えた。奇しくも今日から読み始めたところだ。
 
 このドラマの気に入ったところは、「古書は内容だけではない。人の手から手へとわたってきた歴史がある」と言っていることだ。日に焼け、擦り傷がつき、装幀にゆがみのある古書は、何人もの人に知識と感動を与えてきた勲章だ。それは、電子書籍では絶対に現れることのない、本が生きてきた証なのだ。
 
 主演の剛力彩芽はこれまでのぶりっ子とは違った雰囲気があってなかなかいい。前から彼女はこういうクールな役回りの方がいいのにと思っていた。
 ビブリア古書店堂の店内はドラマのために作ったものなのかどこかの古書店でロケを行ったのかわからないが、雰囲気はとてもいい。しかし、えらく本が探しにくそうな造りではある。
 
 第3回の予告で、青木文庫の表紙が見えた。旧ソ連で教科書として使われたこともあるクジミンの『論理学入門』。これも入手しにくい。青木書店が発行していた青木文庫は、おもにプロレタリア系、社会主義系の著作を総合的に網羅していたが、現在はすべて絶版である。自分は同じ内容のものなら岩波文庫か大月書店の国民文庫で揃えていたので、青木文庫は十数冊しかない。
 保守的なフジテレビがどう扱うのか、ちょっと興味がある。おそらくミソクソだろうが。
 
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「白い巨塔」(2003年)

2012年10月02日 | テレビ番組
Shiroikyotoh
 
 再放送中の「白い巨塔」(2003年版)を観ている。(今日、最終回の予定)
 原作はご存知、直木賞作家の山崎豊子が、社会派作家としての地位を確固たるものにした同名の長編小説である。これまで幾度かドラマや映画になっていて、田宮二郎主演の映画及びドラマが有名である。
 この2003年版の主演は唐沢寿明で、役者の存在感は田宮二郎と比べるべくもないが、それを知らなければなかなかの好演といえる。
 
 ここで言いたいのは、ドラマの評価ではない。ドラマ化されるごとに演出が加えられて多少の違いはあるが、基本的なテーマや筋は変わっていない。この作品に久しぶりに触れて感じるのは、1960年代に小説として描かれた、大学病院の中で繰り広げられる、患者無視の医者同士の権謀術数が、現在の日本という国のひな形に見えてきたのである。
 「白い巨塔」では、大学病院という巨大組織の中で、いかにしてのし上がり、権力を手中に収めるかがここの医師たちのトッププライオリティである。そして、守るべくは患者の命ではなく、医師の立場と、大学病院という組織、そして権威である。
 病院を日本という国に当てはめれば、大学病院は国家であり、医師は政治家である。そして、患者は国民だ。
 「白い巨塔」で治療法を決めるのは医師であって患者ではない。すなわち、「民意」は反映されないのだ。原発もオスプレイも、反対の声に耳を傾けることなく、政府の一方的な決断で行われてしまっている。戦前も戦後も、国が軍国主義から民主主義に変わっても、為政者という「医師」が守るのは、政治家自身であり、国体なのだ。
 ここに、代議制民主主義の「非民主性」がはっきりと現れている。
 
 ドラマの中で、財前五郎と原告側弁護士の間でこんなやりとりがある。
 「たった一人の患者が死んだことで、私が裁判で負け医師としての立場を失えば、3000人の助かる可能性がある患者の命が失われる。何が徳か考えてみるといい」
 「3000人の命を救っても、一人の助かる命を救えなければ、それは失敗ではないのか」
 この財前五郎の台詞は、いつぞや「1000人の命を救うために100人の犠牲は止む終えないという考えもある」といった某大臣の発言に似てはいまいか。
 
 いま、誰もが最善と思っている「民主主義」が、、実は大変不公平な制度であるのではないかと、問い直され始めている。代議制民主主義も、多数決も、きわめて不公平であるということなのだ。
 人気哲学者の小熊英二は、近著『社会を変えるには』(講談社現代新書)の中で、「プラトンの師ソクラテスは、アテナイの民主主義的な制度によって、死刑にされてしまいます」と書いている。
 
 誰もが信じて止まない「民主主義」がほんとうに「民主的」な制度なのかどうか、今こそ考え直す機会なのではないだろうか。
 ドラマ「白い巨塔」を観て、そう考えた。
 
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昼ドラ「ぼくの夏休み」(フジTV)

2012年08月03日 | テレビ番組
Boku_no_natsuyasumi
 先月(7月2日)から月曜ー金曜の毎日放送されている昼間のドラマが面白い。昼間なので観られないときには録画しておく。
 毎年この時期になると、昼ドラは子どもの視線を気遣っていわゆる「ドロドロもの」ではなく、健全路線に切り替わる。だもので、予定は夏休みが終わる8月31日までの2カ月間45回だ。30分枠なのでテンポが遅くなるのは否めないが、そのぶん「次はどうなるのだろうか」と見逃せない気分にさせるのだ。
 
 和也(綾部守人)とはる菜(二宮星)の兄妹は、夏休みを利用して茨城県牛久の祖父の家に行く。両親はその間、離婚の相談をするという、このあたりはいわゆる「昼ドラ」風の設定である。
 常磐線電車を途中下車して乗り換えようと駅で待つと、なぜかSLが来る。到着した目的の駅の表示は、横書きが右から左に書かれていた。
 二人は1944年にタイムスリップしていたのだ。出征兵士に出合ったり、時代に合わない服装から奇異に見られ追いかけられたりしながら祖父を探すが、たずねた先にに祖父の家はなかった。見知らぬ世界に放り込まれた二人は、たまたま拾ってくれた旅館で、習慣の違いにとまどいながら生きていく。
 反戦をテーマにしたドラマではない。テーマは現代の子どもに戦争の時代がどう見えるかである。戦争については否定も肯定もしない。1944年をリアルタイムで生きる人々の考えや行動に、2012年という戦争が遠い過去になった時代を生きて来た子どもたちは、そのギャップに激しい戸惑いを見せていたが、やがて過去の時代に同化していく。
 姿勢の上ではことさらに反戦を訴えているわけではないが、当時の若者が「家族を守る」と信じて出征して行ったこと、人身売買が公然と行われていたこと、スパイと疑われれば命をおびやかされること、軍に鉄製品が接収されて生活道具が亡くなってしまったことなどなど、戦時中の困難が特徴的に描かれているところなどは、保守的なフジTVとしてはよくやっている。戦場でノイローゼになった旅館の長男(崎本大海)がスパイを疑われ、特高(特別高等警察)から拷問を受け、結局無罪で帰ってくるが、そのあたりは拷問の形跡などがいささか甘い。
 あの無謀な戦争が、なぜ、だれによって引き起こされたのかは今までの所一切語られていない。ただ、戦争の結末を知る和也の口を通じ、「相手はアメリカだよ。なんでこんな無駄なことするの」「日本は滅びていません。平和です」などと、無謀かつ理不尽な戦争であることをそれとなく表現している。そんな発言はすべてスパイと疑われるのだが。
 ドラマは8月に入り、いきなり1年が経過して1945年の夏になる。広島・長崎に原爆が投下され、戦争は集結に向かっていく。そして、日本は食糧不足の時代に入る。
 ただ、B29は現れるが、今のところ空襲はない。広島・長崎の原爆投下の映像もない。東京大空襲もスルーした。つまり、戦争の悲惨な部分は極力避けている。しかしその分、戦時下、当時「銃後」といわれた庶民生活が強く印象づけられている。当時を描いたドラマのテーマはほとんどが「死」であったが、このドラマでは「生」がテーマなのだ。この時代を生き抜いた人々があったからこそ、現代の日本があると思うと感慨深い。
 
 時代考証はなかなかよくできていると思ったが、いくつかお愛嬌程度のほころびはある。一つは最初の頃、B29の編隊が現れるシーンで、爆音がB29のそれでなく、戦闘機の編隊の音だった。どのシーンだったか、若い看護婦が自分の年令を相手と比較して「私の方が一個上だね」という。当時は年令を「一つ二つ」と数えることはあっても、「一個二個」とはいわない。まあ、あらを探せばきりがないけれど。
 
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NHKドラマ「大地の子」

2012年07月27日 | テレビ番組
Daichinoko
 
 1995年に放送されたドラマ「大地の子」をチャンネル銀河の再放送で観た。
 全7回だが、1~6話までが1時間半、最終回は1時間50分という大作である。
 主役の上川隆也は当時まだ無名の新人で、作品の大半が中国ロケでしかも長期にわたる撮影期間という条件をクリアできるのは、有名俳優では困難という判断からだった。しかし、このキャスティングに原作者の山崎豊子氏は満足し、上川にとってはブレイクのきっかけになった。
 
 このドラマは日中合作でほとんどの撮影が中国で行われ、台詞の大半が中国語である。見事なのは上川隆也もその日本人の父親役である仲代達矢も、中国人と遜色ない中国語で話す。上川隆也はわずか1カ月あまりの特訓で発音をマスターしたという。
 
 さて、山崎豊子の作品はほとんどがドラマ化または映画化されていて、初期の頃の『ぼんち』から『白い巨塔』、そして最近作の『運命の人』までたいてい小説も読み映画・ドラマも見ているのだけれど、『大地の子』だけは原作も読んでいなければドラマも見ていなかった。20年前にNHKが放送していた当時、相当評判になっていたことは耳にしていたのだけれど、例の「受信料支払い拒否」の関係でNHKを観ることそのものを拒否していて見逃していた。だから、こんなにすごい作品だとは想像もしていなかった。
 NHKでなければできなかったろうと思われるほど大規模な撮影に加え、日本人と中国人の間の、複雑な感情的葛藤が実によく描かれている。これも、ある意味保守的なスポンサーに気を使って自粛する必要にないNHKならではの成果だ。
 中国人にとって日本人は、日中戦争で家族・親族を殺された敵である。それも、戦闘ではなく(これを書くとまた右翼がうるさいが)日本軍や開拓団の一部による理不尽な行いによって。
 そして、この作品の背景となった1960年から80年代には、日本人の中に中国人を見下した考え方を持つ人間が少なくなかった(一時減ったが現代はまた増えているようだ。石原慎太郎に影響されたかどうかは知らないが)。
 中国の製鉄工場を見て「遅れてるなあ、まるでおもちゃだ」などと不用意で傲慢な発言をする訪中団員がいたことも描かれている。
 
 (以下あらすじ、ネタばれあり)
 上川隆也演じる中国残留孤児の陸一心(日本名:松本勝男)はアジア太平洋戦争のさなか、満州開拓団として中国の東北部にわたった。敗戦後ソ連の攻撃などで祖父と母を失い、妹とも生き別れになってしまう。父親は徴兵されていて満州にはいなかった。
  幼い子にはあまりにも苛酷な体験が続き、勝男は自分がだれなのか、ほとんどすべての記憶を失い言葉さえも話せなくなる。、放浪中に人買いの手にかかり売られそうになった勝男は、小学校教師の陸徳志に助けられる。子供のない陸徳志夫妻は勝男を一心と名付け、実の子のように大切に育てた。
 一心は大学に進学し趙丹青という恋人ができるが、自分が日本人であることをなかなか言い出せないでいた。プロポーズをする前にとそのことを丹青に打ち明けると、「だまされた、日本人と知っていれば付き合わなかった」と別れを告げられる。
 私生活でも職場でも日本人であるがために不当な差別を受けながら、中国の発展のため尽くそうとするのだが、しかし、そんなおり文化大革命が勃発する。一心は、日本人であるという理由で反革命分子とされ、囚人の収容所である労働改造所に送られた。
 5年後、中国の父徳志の命がけの嘆願で釈放された一心は、労働改造所時代の命の恩人である巡回看護婦江月梅と結婚した。一心はその優秀な能力を認められ、日中共同のプロジェクトである製鉄所建設チームの一員として働くことになる。
 なんと、そのプロジェクトで中国に協力を要請された日本の東洋製鉄には、一心(勝男)の実父である松本耕次がいた。上海で顔を合わせた松本も一心も、そのときはお互いが親子であることを気付かず、激論を交わしたりもする。
 その後、日本に出張した一心は死んだ家族を弔うために、訪日団に隠れて木更津の松本の家を訪れる。しかし、この訪問が問題化し、また一心を快く思っていなかった同僚(実は元恋人の趙丹青の夫)に陥れられ、産業スパイとして内蒙古の製鉄所へ左遷させられてしまう。
 時を経たある日、丹青は自宅に残された告発文書のカーボン紙や、夫の浮気相手が残していった機密文書から、自分の夫が一心を陥れたことを知り、共産党幹部に告発した。冤罪が解けた一心は再びプロジェクトに復帰、完成した製鉄所の高炉に火が入り、日中の技術者たちは心を一つにして喜び合った。
 プロジェクト終了後、一心は日本の父と中国の父、二人の父への愛情に心は揺れる。苦悩の末、涙ながらに「私はこの大地の子です。そして、この大地が父、長江は母です」と答え、中国に残ることを決意する。
 一大プロジェクトを成功させた一心は、次の仕事として左遷時代に過ごした内蒙古の製鉄所へ、自ら転属を志願する。家族より一足先に内蒙古に向かった一心が製鉄所でかつての仲間達に暖かく迎えられるシーンでドラマは終る。
 この最後のシーンは原作にはない。原作は一心が日本人の父と長江川下りの途上、「私は、この大地の子です」と中国に残ることを決意して終る。
 
 山崎作品の映像化を多数見て来たが、この作品は出色である。おしいことに、このドラマが制作された1990年代はまだ放送がアナログで、画質が荒い。広大な中国の風景をデジタルハイビジョンで映像化したらどんなにすごいだろうと思うが、あのレベルを超えるドラマをリメイクすることは望むべくもないだろう。
 
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清張作品は時代劇か? 『波の塔』

2012年06月24日 | テレビ番組
 朝日新聞のラテ面に、この日(23日土曜日)放送される松本清張原作のドラマ「波の塔」の評が掲載されていて、「清張もの、もはや時代劇?」と見出しにあった。
 大げさなと思いつつドラマを見ると、その見出しの真意がわかった。
 
Naminotoh1
 
 『波の塔』が単行本化されカッパ・ノベルスで出版されたのは1960年、昭和で言うと35年のことである。日本は高度成長期で、4年後には東京オリンピックがひかえているという時代である。つまり、『三丁目の夕日』と同時期になる。
 過去、映画が1回、ドラマ化は今回を含めて8回にもおよぶ。松本清張の数少ないメロドラマでありながら、完成度の高い作品で、だれが脚本を書いても大崩れはしないという。
 ところが、大崩れしないまでも傑作にもならないところが清張作品の難しいところである。とくにキャスティングが難しくて、加藤剛主演の映画『砂の器』やビートたけし主演のドラマ『点と線』などのように、役柄がぴったりはまる例は少ない。
 昨年、2006年版のTBS製作の再放送を見て、麻生祐未はともかく、小泉孝太郎はいかがなものかと思った。切れ者の検事のイメージとあまりにも乖離しすぎている。
 今回も、キャスティングでは成功していないと思う。今の沢村一樹にドロドロしたメロドラマは似合わなすぎるし、羽田美智子を謎めいた美女というにはいささか抵抗がある。台詞に度々出てくる「すごい美人だなあ」とはあまりにわざとらしく聞こえる。
 
 閑話休題。
 この話ではなかった。時代考証についてである。
 先のTBSの2006年版では、時代の再現は無理と思ったか、あるいは現在の若年層の理解を得ようと思ったのか、時代を現代に引きつけていた。携帯やコンピューターが普通に登場する。
 しかし、2012年版の『波の塔』は時代考証にそうとうな努力が見られていて、その点を評価したい。理由は後で述べるが、清張作品は書かれたその時代でなければならない
 江戸時代以前の時代考証に比べて、昭和のそれは非常に難しい。なぜならその時代を知っている人がまだ多数いるからだ。したがって、背広の襟の幅やネクタイの結び方にまで気を配らなければならない。オフィスの備品一つとっても、当時なかったものが置かれていてはならないのだ。それをほぼ完璧にやってのけたのが『三丁目の夕日』だ。
 その点、今回の『波の塔』は80点ぐらいつけていいと思う。細かい点を言えば、ネクタイの結び目が多き過ぎる。幅ももう少し狭いはずである。当時の男性の半数以上は、外出にソフト帽をかぶっていた。同様に、年配の女性の外出着は和服である。フィルター付の煙草は1960年発売のハイライトが最初で、つまりこの年の新製品。他の種類はない。
 当然、ガスライターなどはないから、ライターといえばオイルライターで、ガスライターと違ってそんなに長く炎が伸びず、また風に強いので一息に吹き消すのは無理がある。
 単発ドラマでは予算と時間に制約があるから、いずれにしろ完璧は無理。それにしてはよくがんばったと思う。
 なぜこのような事を書いたかといえば、清張作品はその時代でなければ成り立たない要素が多いからだ。
 男女の関係も現在とはだいぶ異なり(明治大正とも違う)、半数は見合い結婚であった。社会における男女の住み分けがまだ残っていたのである。原作の台詞には、そのあたりが濃く反映されている。
 また、さまざまなトリックの多くは、現代の科学捜査であればたちまち暴かれてしまう。
 『波の塔』では富士の樹海が冒頭トラストのシーンで出てくるが、現在では樹海の中でも携帯電話が使用でき、GPSを使えば位置を特定できる。指紋などの照合もDNA鑑定も桁違いに進歩している。つまり、そういう意味であれば、清張作品は時代劇なのだ。
 しかし、それがメロドラマであろうとサスペンスであろうと、清張作品には現代に通じる社会性が必ず含まれている。『波の塔』でも建設省の役人と業者の癒着がもう一つのテーマになっていて、これはまさに今、リアルタイムで行われている事だ。
 科学は清張作品を時代劇に退けるほど発達したが、時代の根底に流れる汚れた泥の河は、何の進歩も変化もなく、平成の今も流れ続けているのだ。
 
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TBSドラマ「ブラックボード」三夜連続

2012年04月08日 | テレビ番組
 「ブラックボード」~時代と戦った教師たち~を三夜連続で観た。
 第一回については6日のブログにすでに書いた。ひじょうによくできていて、それを褒めたら、トンチンカンなエセ右翼から文句がきた。的外れな文句をつけてきて、反論しろと挑発する。
 右翼でも尊敬できる人を何人も知っているし、そういう本物の右翼はちゃんと勉強しているし礼儀もわきまえている。だが、ここにコメントを書き込んでくるエセ右翼の多くは論点が全くずれているので反論のしようもない。
 先日のエセ右翼からのコメントで、誰がどこで言っているのか知らないがこのブログ、「評判が悪い」そうだ。有り難いことである。それだけ影響を恐れているということだろう。
 
 それはともかくこのドラマ、初回の出来が良かったので二回目はかなり期待したのだが、ドラマとしてのできはつくりすぎていて今ひとつだった。
 1980年代、クラスの不良グループが教室を破壊しまくる、「校内暴力」がテーマである。佐藤浩市演じる「暴力教師」後藤明が周囲の反発にもめげずに一番の問題児、古沢ゆかり(志田未来)とのあいだに信頼関係を築きクラスをまとめていく。
 破壊行為はそうとうに激しくて、実際にあれほどの破壊行為になってしまったら手が付けられない。不良生徒たちの格好も、あまりにステレオタイプ過ぎる。生徒たちに変化があらわれるのはドラマとして普通の流れだが、そのプロセスにもいささか無理を感じたのだが。
 
 何が何でも教師の暴力行為を禁止する風潮には、もともと疑問を感じていた。だから、画一的な非暴力に対して一石を投じている意図が見られたことには共感できる。
 だいぶ前の話だが、どこだったか学校の前で署名をやっていた。暴力教師を排除するのが目的だという。「暴力反対ですよね」と署名を求めてきたので、「お断りします。暴力賛成ですから」といってやったら「マア」とかいって怪物でも見るような目つきをされた。何でも暴力に訴えるのはもちろん反対だが、全く否定することにも反対だ。
 「言葉の暴力に傷つく子どもだっている」という後藤の言葉には拍手したくなった。かつて、悪いことをすれば体罰を喰らうのは当たり前だったし、かえってそういう教師の方が信頼されていた傾向があった。
 バケツをもって廊下に立たされたり、下敷きをタテにして頭や手の甲を叩かれるなど普通のことで、子どもたちも悪いことをすれば当然と思っていた。
 子どもたちは教師による体罰を否定はしていなかったのだ。それをいつの間にか問題視するようになったのは、子どもでなく親の方だ。言葉の暴力が、体罰以上に子どもを傷つけることに気づかないのだろうか。言葉でぐずぐず言うよりは、パシッと一発ひっぱたくことで気づかされることもあるのだ。ただ、教師のほうも体罰の使い方がわかっていない。正しい体罰の使い方を教育実習で教える必要がある。
 ドラマは教師の暴力行為を勧めているわけでも許可しているわけでもない。ただ、どうにも止むに止まれずの体罰まで犯罪扱いすることには疑問を感じると提案しているのである。
 
 しかしいかにせん、ドラマとしては初回に比べて見劣りがしたことは残念だ。
 
          ◇
 
 3回目は、前夜があまりよくなかったのでどうなることかと思っていたら、初回ほどではなかったがそれなりによくできていた。
 時は現代、2012年である。テーマは「学級崩壊」。ドラマほどではないにしろ、崩壊しているかそれに準ずるクラスは、どこの学校にもひとクラスやふたクラスはあるという。原因の多くは、生徒の教師に対する不信感である。
 
 多くの教師が「学校は子どものためにある」ということを忘れ、サラリーマン化している。校長は自分の任期中何事もないことを願い、教師は子どもよりも自分の身をまもる。喧嘩が起きればきちんと止めに入ることすらできずにいる。ただ優しい、ただ親切な教師では子どもとつながることができないのはわかっている筈なのに、下手に叱ったりして子どもから、いや、その親から嫌われることを必要以上に恐れるのだ。
 このドラマに登場する女教師、滝沢桃子(松下奈緒)もやはり、優しくて気の弱い先生だった。そのために生徒たちから信頼されていなかった。
 あるとき、何を問われても「わかりませ~ん」としか答えない問題児の大宮正樹(神木隆之介)が転校したきたことをきっかけに、クラスは崩壊する。生徒はだれ一人、滝沢の授業を聞かなくなったのだ。
 滝沢は絶望し自殺を試みるが、シングルマザーとして自分を育てた母親から元気づけられ、崩壊したクラスの生徒たちと正面から立ち向かうことを決意する。
 クラスの崩壊は、大宮が転校してきたことが引き金になっている。そこで大宮の過去や家族環境を調べると、大宮は離婚した母親から幼い妹とともに育児放棄状態にあったことがわかった。「わかりません」というのは反抗してのことではなく、小学校も満足に通えなかったための知識の遅れで、ほんとうにわからなかったのである。そして、母親の愛に飢えていたことも。
 滝沢は授業の遅れを取り戻すために、大宮を放課後自宅に呼んで勉強を教えていた。そんなある日、滝沢に母を見た大宮から「抱いてほしい」とたのまれて、滝沢は大宮を抱きしめるが、それを同級生に写真を撮られ、裏サイトにアップされて淫行教師のレッテルを貼られる。それがPTAやマスコミにも知られることとなり、噂はエスカレートして滝沢は児童福祉法違反で逮捕されてしまう。
 
 このドラマには現代ならではのいくつかの問題が含まれている。一つは貧困が原因の育児放棄であり、それによる教育格差である。家庭環境によって子どもの学力に差が現れることは、問題になって久しい。しかしそれに正面から立ち向かう教師はいない。
 が、滝沢はそれに自分ひとりで立ち向かおうとして、PTAばかりか同僚の教師からも反発されることになった。だが、現実問題として、滝沢のように勇気のある教師は皆無だろう。もしいたとしても、「腐った果物は棄てる」という事なかれ主義の風潮に押しつぶされるだろう。
 「子どもは一人一人みんな違う、同じように接するなど不可能だ。もしこれが依怙贔屓というなら、私は依怙贔屓をします」と言い放った滝沢に拍手を送りたくなった。
 平等とは公平ではない。たとえば消費税のように、大金持ちからも貧乏人からも同じ比率で税金を取ることが公平でないのと同じである。
 それは教育も同じである。全く同じ子どもなどひとりもいないのだ。それを見極めることなく「子どもたち」と一括りにするのが今の教育で、そこからはみ出したり飛び出す子どもを排除するのが、モンスターペアレントと呼ばれるPTAであり、それに追随する教師たちだ。
 特定の子どもを集めて特別な塾をつくった杉並区の山田前区長などは、それの極端な例だ。エリートを育て上げ、それ以外をその他大勢にして人格を無視し、格差を拡大することを露骨に実施した。
 
 学校とは閉鎖的な場所である。関わらなければ何もわからない。いま、教育はなしくずしにおかしな方向を向いている。子どもが成長して、自分たちはもう関係ないと考える人が多いかもしれないが、子どもたちの将来に向けてだれもが真剣に教育を考える必要があるのではないだろうか。
 
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「のだめカンタービレ」(再放送)

2012年03月23日 | テレビ番組
Nodame
 
 つい見てしまう。フジテレビTWOで深夜、「のだめカンタービレ」が再放送されている。本放送は2006年の10月期で、ちょうどこの時期は多忙でドラマどころではなく、全く観ていなかった。そうとうな話題になっていたが、どうせマンガが原作の軽いドラマだろうとたいして気にもとめていなかったのだ。
 劇場版が公開されたとき、家族が観に行きたいというので付き合ったのが運の尽き。はまった。
 ドラマそのものはどたばたコメディーでまるでマンガなのだが、想像以上に演奏がすばらしくすっかり考えが変わってしまった。
 しかし、映画で感動したからといってドラマまで見るつもりはなかったのだが、再放送されるとなれば話は別である。やっぱり観てしまう。
 
 自分はクラシック派ではない。ジャズやロックの方に興味があって、クラシックコンサートは友人が学生時代にベートーベンの第九をやるというので招待されて聴きにいったのが最初で最後だ。楽譜通りに忠実に演奏する音楽など、面白くもないと思っていたからだ。
 
 その考えに変化を引き起こしてくれたのは、かつて杉並公会堂のならびにあった新星堂レコード店本店の店員だった。いかにも実直そうな店員で、しかし、音楽に関してはジャズ、ポップスからクラシック、邦楽まで幅広い知識を持っていた。当時、住まいが近所だったので時おり顔を出してはジャズレコードの新譜を紹介してもらったり、購入したレコードの感想をいいあったりしていた。
 ある日、店内に流れていたBGMが、これまではそんなことはなかったのにやたらに気になって、その店員に「今かかってるのは何?」と訊いたのだ。
 「ショスタコーヴィッチですよ。交響曲第五番「革命」です」
 「すごいねこれ」
 「鬼気迫る感じですね」
 クラシック音楽を聴いてゾクッとしたのはこれがはじめてだった。
 「ショスタコーヴィッチってすごいんだね」
 「あ、この盤だけです、すごいの。他の聴いてみますか」
 別の指揮者のレコードを何枚か聴かせてもらったが、ぜんぜん違った。同じ曲で同じメロディーなのに違う。これまではクラシックなど、上手下手はあっても同じ楽譜で演奏しているのだから、プロが演奏するものにさほど差がある筈はないという偏見を持っていたのだ。よほど聴き込まなければ、クラシック音楽の善し悪しはわからないと思っていた。
 演劇が同じ脚本でも役者や演出家で全く違うものになるように、クラシック音楽も楽団や指揮者で全く違うものになるということを、このときはじめて体験した。
 今から40年以上も前のことである。
 
 誰の指揮でなんという楽団だったか、そのときに衝動買いしたレコードがあるはずだと探したが見つからない。カラヤンとかストコフスキーとかいう、だれでも知っている指揮者ではなかったと思う。
 
 現在でも、クラシックを敬遠する人の多くは、当時の僕と同じような考えらしい。ジャズの巨匠ジョン・コルトレーンでさえ、「楽譜にがんじがらめなクラシック音楽など、僕は演奏したくない」といっていた。
 「のだめカンタービレ」はそういう非クラシック派に一石を投じ、ドラマの放送期間中はクラシックCDの売り上げが倍増したと聞く。
 クラシックのコンサートはチケット代が高価で、富裕層しか聴くことができない(有名な演奏家のものは現在でも目玉が飛び出る)。それも、クラシックを庶民から遠ざけている理由の一つだ。「のだめカンタービレ」は、映画館で聴いた演奏なのに十分楽しめた。クラシック音楽の楽しみ方は、難しい顔をして頭を抱えながら聴くばかりでなく、さまざまあることも伝えていた。
 
 あまり堅苦しいことは考えず、ただ楽しめばいい。家族で観れば必ず笑顔になるはずだ。
 
 次は26日月曜日、午後11時から、#9、#10。27日に#11(最終回)、28~29日11時から二夜連続でスペシャルドラマ「inヨーロッパ」。
 
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「運命の人」最終回を観る

2012年03月19日 | テレビ番組
Unmeinohitookinawa

 最近のドラマは最終回で裏切られることが多々あったが、TBSのドラマ「運命の人」の最終回(2時間枠拡大)は見応えがあった。原作と共通する部分あり異なる部分あり、その引き合わせはあまり意味がないのでやめておくが、ひとつだけ、沖縄で弓成亮太が出合う謝花ミチは混血ではなく、暴行事件の被害者という設定になっている。
 この設定によって、弓成が「真実の沖縄」を探求するにあたっての象徴的な存在として描くことに成功している。
 
 TBSは、他の大手テレビ局が避けたいところを、真正面から〝ドラマで〟扱った。これは勇気のいることだったろう。
 「日本軍は住民を助けてくれなかった」
 「米軍はおそろしかったが、それ以上に日本軍はおそろしかった。住民を追い出して、自分たちの隠れ場所にした」
 こうした事実を「ミギ」の人たちがなかったことにしているからだ。
 
 地元住民の案内で、「集団自決」のあったガマを見に行く。そこで、「集団自決」の詳細な話を聞くことになる。
 これはチビチリガマの出来事を中心に、他のガマでの話がアレンジされている。が、竹槍で向かった住民が米兵に銃殺されたこと、ガマの中で積み上げた布団に火を放って自決を試みたことは実際にあった。
 日本兵が、中国で自分たちがおこなった非道を、米兵もおこなうからと住民を脅し、自決を促したこと。家族同士で殺しあったこと。すべて事実だが、大手マスコミ、とくに民放はスポンサーの圧力を感じて自粛してしまいがちな内容だ。
 少女暴行事件についても、その問題点を凝縮して語っている。加害者は強制帰国させられて、罰せられることは恐らくない。
 ヘリの墜落事故にも遭遇する。設定は中学校になっているが、間違いなく沖縄国際大学である。日本の警察は駐留米軍によって現場から追い出された。
 ほかに、銃剣とブルドーザー、騒音問題、少女暴行事件から発生した県民大会が85000人を集めておこなわれたこと。
 時系列は違って設定されているが、起きた出来事はすべて事実だ。
 これまで、沖縄問題に興味を抱かなかった人でも、多少ではあるが「真実の沖縄」を知るきっかけになるだろう。
 
 沖縄は、米軍と日本政府によって犯され続けている。これは返還後も続き、現在も何ら解決されていない。ドラマはこのことを、謝花ミチによって象徴しようとしたのであろう。
 
 経済を優先させる基地容認派の軍事基地地主が、基地反対運動の波に抗えず、反対運動に参加する姿も描かれる。ただ、「基地がなくなったら経済が成り立たなくなる」という容認派の言葉に、反論できない反対派地主シーンがあったが、現在はそれほど頼る必要がなくなっていることは描かれていない。それは残念な部分ではある。
 全10回のうち中だるみはあったものの、終盤の3回くらいはドラマとしても盛り上がった。そしてこの最終回、最近のドラマとしては非常によくできていた。
 しかし、こうした硬派の番組の視聴率が上がらないことそのものが、現在の日本の病的な実情をあらわしていると思う。

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