『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⓻

2018年04月07日 | 学ぶ

  ブログを読んでいただいているみなさんへ。
 
「殺人犯はタブレット」について、さまざまなご意見をいただきます。しかし、真剣に子どもたちの現状を見据え教育に携わっているひとりとして、今回のような「教師側の『精神性の根幹』や『倫理観』にかかわる事件」は、やはり捨て置けません。
 政界の隠ぺい問題の論議が喧しいですが、今回はそれどころではありません
。子どものときからの「隠蔽教育」です。子どもたちの成長後の姿・社会を考えてください。「すべて最悪の事件が起きる背景には、その『最悪』を生み出す『くさった現実』が、既に根深く浸潤していること」が通例です。不幸にも友が遭遇してしまった事件の経緯を、もう一度ていねいに辿ってください。


 「小学校低学年で思わず手を初めてしまった『窃盗』」に対して、親が「その犯人である自らの子どもの『指導』や『立ち直り』、『行く末」に、まず目を留めることなく、『保護責任』という『社会に対するけじめ』も果たすことなく』、『自らの保身や体裁のみ』を頭に「事件の隠蔽と責任逃れを図る」。
 しかも、その手段として、自分たちのみならず、自らの同僚や子どもも含め2年間世話になった「窃盗された当の被害者」に、「子どもを使って盗聴して捏造したテープ」を聞かせ、「相手の人格を否定する言辞」を弄し、自分たちの「逃亡」と「責任放棄」の「スケープゴート」にする。
 
それによって「他の保護者がだまされ誤解」し、水谷が「4年以上手塩にかけて育て上げた生徒たちが、事情も知らずやめる」羽目になる。これが一連の流れです。
 画策・実行した犯人は教職です。この事件に潜む、果てしなく重大な意味が、心ある先生方には、よく分っていただけると思います。
子どもたちを教育・指導する「環境」「資質」「感覚」が、死に瀕しています。目をつむっては通れません。教育は次代を担う「地球の後輩」たちの「成長の総て」にかかわります。「他人事」ではありません。「たいせつな子どもたちが、現にその中で今育ちつつある」わけですから、見過ごすわけにはいきません。


 ぼくたちのころには考えられない、「教育界の倫理観の破綻、善悪基準判断の問題点」が露呈しているわけです。心ある先生方、そして子どもたちの教育に「生命」をかけている先生方、指導者のみなさん、周囲を見回し、指導する側の「適性」と「必要条件」に、もう一度厳しい目を向けてください。
 水谷の身に起きた「この上もなく卑劣なできごと」に対する抗議です。未来ある、多くの子どもたちの指導と教育に携わるべき公教育界の「まぎれもない現状」であることを、ぜひ正しく認識・判断してください。この重要性は何度云っても言い足りないことはありません。理解していただける人が、まだまだ、たくさんいることを信じています。
 ほんとうに、これで指導や教育が成立するのか? 子どもたちの心身ともの健やかな成長が持続可能なのか? ぼくにとってはフィクションですが、水谷にとっては「紛れもない現実」です
 
4月21日のブログから、こんな汚い現実や詐欺まがいの捏造画策事件に背を向け、子どもたちとの明るい学習指導・発展的な指導の探索に邁進しましょう。
 
ぼく宛に来た水谷の手紙。先週の続き(後半)を掲載します。なお、「付箋番号②とは、『許せない順・2番目』という意味だ」という水谷の言葉は、先日お伝えしました。

殺人犯はタブレット

付箋番号②玉川 海への手紙Ⅱ
 
守るべきこと
 薄っぺらな、自分たちの体裁や見栄のためだけに企てられた、とんでもない策謀。そうですね、玉川さん
 しつけや教育の整っていなかった自らの子どもの窃盗事件を、何とかごまかして「なかったことにしたい」(無理です、そんなことは。その時点で一般常識人、良識人とは言えません。倫理感ゼロです)。だから、その迷惑をかけてしまった「当の盗まれた被害者」に罪をかぶせるその時点で既に、「あなた方に身についていない」一般常識から考えて、「ふつうの人」ではありません。わかってますか?
 良識人なら、「子どもとともに心の底から謝り、自らの子育ての失態と子どもの罪の許しを乞う」ものですそれが「常識があり、子どもを思う日本の親」です。しかも、あなた方は親であるだけではありません。二人とも「子どもを教えなければならない責任ある立場」です。


 その方法が、また。勉強に行かせている小学生の子どもに「タブレット端末」を持たせ授業のようすを「盗聴録音」する。しかも、その中から録音した相手のセリフを、自分たちの都合のよいように切り貼り、編集する。その編集目的は、「いかに相手が人」であるかの「証明になるような創作」。さすが、ご主人は「素晴らしい国語力!」です。しかし、「力の使い道」を完全にまちがっています。
 半年近くを、高々「エアガンの窃盗」といった「いたずらの隠蔽(!)」捏造に使ったその時点で既に、子どもたちのことを思い、指導する責任と情熱を、きれいに忘れています。ほんとうの先生なら、子どもたちの国語の指導の、さらなる向上を目指し考察と努力を続けています。それが「正しい」先生です。指導者として、あってはならない「努力?!」はまだ続きます。
 捏造音声を、今度は一緒に塾に通っていた子どもの保護者たちに聞かせ、自分たちがやめざるを得なくなった理由がわからないように、そして罪がばれないように、その音声の拡散とともにデマ情報を流し、「彼女らに塾をやさせめるように」仕向ける最後には、成否確認のために、こっそり立ち聞きしたり、不法侵入して、結果や様子を探りに来る。いやはや、何をか云わんや。
 犯行を脚色したテレビドラマでも見られないほど、ひどい話です。さらに、こうして事件の経緯をたどる度に思うのは、「ふだん、相手と顔を合わせているのに、当たり前の顔をして画策していた凶悪さ」、これも尋常ではありません。あなた方も人生もう半ば、20年近く教員生活をしているはずです。 子どもに厳しくするのが『苦手』であろうと、市内の中学校で担任をもち役職にもつくようになった。しっかり指導計画も立てなければいけないのに、長時間かけて立てたのは、何の計画ですか?


 「こうした教育界・教育者の変質」自体が、いくら考えてもまだ理解できないし、教育界の行く末・子どもたちの成長に、今回ほど寒気を感じたことはありません。「市の学力低下問題」以前の、「人を育てるための指導・人間教育に対する根本的な破綻」です。
 「卑劣で情けない人間にならないように長年子どもたちを育て築き上げてきた『信頼』と、半生をかけた『夢と努力の証』」、「その思い」を、こんな理不尽な凶行で、ふいにするわけにはいきません。あなた方に仕掛けられた、それも「後ろから切りかかる」というような卑怯な冤罪に対する自らの「無実」の証明のために、確認できる「どえりゃあややこしい」事実を積みあげる度に、これらの解明が終わったら、『粉砕器にでもかけ、二度と姿を見ないように粉々にしないと、たまらんな』。そう思い続けてきましたしかし逆に、解明が終った今、あなた方に邪魔されてしまった、ささやかながら「正当な子育ての牙城」を絶対崩してはいけないという思いの方が強くなりました
 同じ職業でも、あなた方の指導ではそんなことは関係がありませんか? 頭に浮かびませんか? 「ヒトを育てている」という自覚より、「生計の資」が優先? それが当たり前? それでは、子どもたちがかわいそうです。それなら、他の「銭儲け」、もっと儲かる仕事をなさい。 ぼくが今の指導をはじめた理由は、「生計の資」ではなく、「死ぬまで、どう生きるか」です。「自分の生まれてきた意味は?」です。あなた方は、考えたことがありますか? わかりますか、その差が? その塾に、今回、思いもかけぬ「汚泥」をかけられたわけです。

 「優れた学力には『ふさわしい人格』がともなわないと、『クソ』」だ。「あなた方に『切り貼り』され、上手に「ぼくの『人格否定』のために利用された捏造データ」の言葉遣いで云えば、ぼくの考えは、こうなります。「人格・学力ともに優れた子どもたちを育てよう」と、強く心に決め、開設した塾と学習指導です
 ぼくの指導スタイルや方法は、「あなた方がわかろうとわかるまい」と、すべて、その信念から発しています。ぼくの「信念」で、ぼくの「生命」ですから、「卑劣な悪意と手段で、汚水まみれにされ、糞尿や汚泥で汚され、そのまま固まるのを、黙って見過ごすわけにはいきません。糞尿や汚泥の中にまぎれてしまった「磨けば光る玉」を、もう一度みんなに、発見してもらわなければなりません
 「共犯のご主人(あなた方のやったことは、れっきとした犯罪です。わかってますか? 罪状5件)」宛の手紙にも書いたように、昨年の夏、彼が親せきの店で缶ビール片手にテレビを見ていたとき、リラックスしたようすだったので、「あなた方の子ども」の話にふれました。ぼくは、わざわざ、「姉(長女)の方の問題点」を挙げ、逆に、弟に対する『正直な告白』を期待したのですが、「なしのつぶて」でした。その後、夏の終わり、あなたにも「何か、ご相談していただくことはないですか?」と答えを振りました
 ふたりのうちの一人でも「正常な感覚」をもち、「いや~、実は、この間、エアガンを持って帰ってしまって・・・」という正直さがあれば、次の「生活指導」や、「より大きく子どもが成長するたいせつな階段」を、一歩一歩しっかり前に進めることができたのではありませんか? それが教育で、教育者が採るべき姿勢です。 

 根っからのスポーツウーマンのはずですね、子どもを教える立場ですね
 子どもたちの未来に対する義務、教育者としてのプライドと責任感は、どこへ行ってしまったのですか?
 「天の与うるを取らざれば反って其の咎めを受く」ということわざがあります。「好機を逃してしまうと、かえって災いを招く」。ことわざは「人倫の鏡」です。
 ぼくは、窃盗犯罪の確証をつかんでから、「どうすべきか」を考えました。そして、まず「あなた(方)の誠意」に期待しました。
 なぜか? あなたがたは「意識・無意識は別として」人間だからです。 職業柄、「当然もっていなければならない正しい倫理観をもっているだろう」と想像したからです。
 そうした「『正常な(というより、ぼくに云わせれば、それがふつうの)倫理観』が身についていなければ、どこの子どもであろうと、子どもを正しく指導したり教育することはできない」と考えているからです

 玉川さん。先生や親が守るべきものは何でしょう? 「犯した罪を隠す」ことですか? 「臭い物にふたをする」ことですか? それが「無垢の子ども」を育てる倫理なのですか? 「一人前の社会人を育てなければならない責任ある」先生の指導なのですか?
 そうではないでしょう。罪は罪です。だから、犯してはいけない。犯したら償うべきです。被害者がいるわけですから。
 自分だけの問題じゃないんです。それが、われわれが生きている社会です。これからも続いていく社会です。
 あなたたちが、その「指導の最後の砦」とも云うべき、「わが子の指導判断」でそれができていなかった。とすれば、おそらく勤務先でも、それらを徹底させていることは考えられません。それが、教育や子育ての現状、教育界の「今」ですか? あなたがたが通った最高学府の教えなのですか?
 親が、それぞれ自分の子どもをしつけ、きちんと指導し教育さえできれば、世の中で問題は起こりません。ところが、なかなかそうはいきません。人間はまちがいを犯すし、失敗もします。だから「次はしないように、指導し教育すること」が基本原則です。保護者と先生のつとめです


 他に誰ができますか? しなければ、犯罪者か犯罪者予備軍の拡大再生産です。欠かせないもの、守るべきは「再発防止の指導と教育」です。
 「事件の後、まずやるべき」は、「その現実をきちんと受け止め、子どもの指導に正しく関与できなかったという反省に頭を巡らせ、今後わが息子が二度と過ちを犯さないような教育と指導を、どう徹底していくか」に、最大限の精力と努力を傾注すること」でした。それが、ほんとうに『子どもの未来』を守る先生や親の義務であり、責任です
 「隠すこと」ではありません。ましてや、「人に罪をかぶせること」では決してありません。わかりますか? 自らが責任を取らないで、どうして子どもが「責任をとる人」に育つのですか

水谷は、この後、相手二人が、まだ自らの子どものような年頃であることを思い出したのか、冷静に説得を進めています。
 
天は高きに処(お)って卑(ひく)きに聴く
 『自分たちの罪を隠すために、人を罪に陥れる』というのは、最も卑劣な行為です。そういうとき、「天は高きに処(お)って卑(ひく)きに聴く」という判断を下します。
 「天帝は高いところに居ながら、下界の人の言葉を聴き、人間の善悪に対して厳正な判断を下す」ということです。よくかみしめてください。
 「邪悪さを排除することができない」僕たちは、「必ずそういうイメージをよりどころとして」、正しい判断を下さなければなりません。それが「ヒトの成長」です。まず、それを教えることがたいせつです。それが「心ある親」のしつけです
 これらのことわざが伝えるのは「受験知識」ではありません。賢明な先人たちが、「人間の愚かしさ」に出会い、それらを目にし、「おそらく後世にも、こうした愚行を繰り返す『バカ』が出てくるだろうから、注意してあげよう」という思いやりです。

 ことわざや慣用句、漢文・古文・歴史、いや「学習するものはすべて、先例に学んで、より良き人生、より良き社会、より良き未来を創造するために存在」します。先生であれば、受験用の暗記を教える前に、まずその意味をしっかり考え、きちんと伝えてくださいあなた方が育てているのは「人間」です。「受験生」ではありません
 今回の「鼬の最後っ屁」のような、「悪意ある情報の拡散」がもたらすものは、畢竟、自身の「カタストロフィー」です。また、「自らの良心に恥じるような行為」は精神衛生だけではなく、自らの健康も大きく損ないます。
 人間には良心があります。ありますね。

 「良心にそぐわない行為や行動」に対しては、やがて良心が激しく抵抗します。その行為や行動が心の中で「黒く大きく」育ち、心のゆがみはもちろん、身体の不調や病気の原因になります、「生まれつきの悪魔」でなければ
 交感神経の緊張です。交感神経の極度の緊張がつづくと、自律神経の不調が慢性化・常態化し、それが病気のもとになります。人間の生命活動は、交感神経と副交感神経のバランスが保たれることで正常に行われます。これは健康維持のイロハです。
 思い出しませんか? 夏以降。後半は窃盗事件の隠蔽と捏造データの制作と拡散に奔走していましたが、最初は、よく途中で具合悪くなって、どこかに姿を隠し、休憩(?)をしなければなりませんでしたね。夏前の「窃盗の事実」を「隠しきる」のがしんどく、「長い時間、顔を合わせられなかった」のでしょう。

 そうです。それが、決して無くしてはいけなかった、あなたの「かけがえのない良心」です。そのときこそ、その「人間らしい心の訴え」にしたがうべきなのです。それが、「一番楽で、楽しく、まっとうな生き方」です
 ところが、あなた方二人のやったことは、『窃盗の隠蔽』と『退塾の見かけの理由』づくり。自分たちの「見え」や「立場」を守るために、何とも手の込んだ、「タブレット盗聴による『でっち上げ人』肉声捏造データの拡散」と「そのデータによる『デマ退塾教唆』」でした
 「良心の行動」・「正義に基づく行動」には、『齟齬』は起きません。起きようがありません。「心の揺れ」もなく、態度も堂々としたものです。
 懇意にしている、「あなた方が教唆した」保護者のお母さん(生徒のおばあちゃん)に、今回のぼくに対する誤解を解くために、事件の経緯を説明しました。「『何があったのか』、娘さんから盗聴のこともお聞きになっていた」お母さんに、「盗聴は犯罪です。盗聴した文言を第三者にばらすと、犯罪になります!」と伝えました。正直なお母さんは、急に落ち着きがなくなりウロウロ、じっとしていられないようでした。それが普通の人です。常識人です先生であるあなたは、同僚が「卑劣な方法」に困惑し、困っていたことを知りながら、その同じ手を使った、自分たちの保身だけのために。正常な倫理感とは云えません。


 「悪意ある犯罪」や「嘘」、「捏造」は、やがて「中身」が現れます。「ほころび」や「ぼろ」が出ます。政界や実業界の数々のスキャンダルをごらんなさい。思い出しなさい。犯人たちは、それらの露呈を恐れ、さらにバレてしまうような、「余計な行動」に出る。あるいは『頭隠して、尻隠さず』状態になる。
 身近な例。「『でっちあげ話や悪意のある音声捏造情報』を振りまいたことがばれるかも」という心配から、話を『立ち聞き』しようとした(あなたのご主人、古田さんの合格のお礼あいさつのとき)。塾と「関係を絶ってからまで、防犯カメラの付いている『二重の扉』を抜けて、『様子を窺いに』来なければならなかった(あなた。「高見かれんちゃん」の退塾如何の偵察)。
 ふたりとも、その「『不自然さがわからないほど」、『策略の結果』が気になり、周囲が見えなくなってしまっていること」・「悪意によるいびつな判断や行動がそうさせること」に、早く気づきなさい。子どものころ、親にその「人倫のしくみ」をきちんと教えられないと、今回のようなことが起きます。そして、その後も連鎖します。覚えさせるべきは、「天は高きに処(お)って卑(ひく)きに聴く」です。

 水谷は、玉川 海への手紙の最後を、次のように結んでいます。

天は自ら助くるものを助く
 ともあれ、
 「天は自ら助くるものを助く」ということわざがあります。意味が正確には理解されていない場合も多々ありますが、「独立独行、依頼心なく、奮闘努力するものを、天は助けて幸福を与える(「広辞苑」より)」という意味です。ぼくも、「独立独行、依頼心なく、一生懸命奮闘努力してきた」のですが、今回のような「理不尽」や「悪意のデータ捏造画策」が、これ以上まかり通ると、友人の教員連中やあちこちの仲間たちに助けを求めなければならないことも出てきます。大事(おおごと)です。既に「犯罪」だからです。それほど馬鹿じゃないと思いますが、捏造した卑劣な情報拡散は、「天に唾する行為」であることを自覚するように。あなた方の行動を知らないわけではありません。


 戦うときは、「戦う相手」や「敵」をまちがえないようにしなさい。玉川さん。あなた方が戦わなければならないのは、まず、「自分たちの邪悪な心」です。それにきちんと目を向けなさい。それが教育者としてのプライドであり、職責であり、正しい指導の実践です。

 「優秀で、人格も優れた子どもたちを育てよう、たくさん増やしたい」という思いは、ぼくの中で未だ燃え尽きていません。「自ら責任がとれる行動」ならともかく、自分が関与しない、「事実を捻じ曲げた悪意の火の粉」は、降りかかれば、やはり、きれいに払っておかなくてはなりません。「会社を辞め、生命をかけて20数年続けてきたかけがえのない指導や職業」に泥を被せる、これ以上の「悪意の捏造情報の拡散」は絶対しないように。


 世の中のことをわからない人(世間知らず)もたくさんいますが、まじめに一生懸命生きている人には、「ちゃちな」ごまかしは利きません。社会や人生を見る目の鋭さ・深さが、まったくちがうからです。つまらない行為や行動に早く終止符を打って、『正しい素直な心』をとりもどしてください。後悔のない、「お二人の」仕事と人生のために
 「天を怨みず人をとがめず」(論語)ということわざもあります。「目をつぶること」も、やぶさかではありませんが、良心が残っているなら、まず菅原・古田・高見さんの三人の保護者に、事実を正直にきちんと説明し、状況を原状に復しなさい。話せば、おそらく相手は分かってくれるでしょう。その方が、「わけのわからないうちにこうなってしまった」相手方も「心の処理」が容易です。
 それが、あなた方が今抱えている「黒いわだかまり」や「心の澱」が溶け、平安とカタルシスを手にできる、唯一の方法です。


発想の転換が可能性を開く⑥

2018年03月31日 | 学ぶ

「先生も、こういうふうに勉強してるんだよ」を教えましょう
 小さな子どもたちに勉強を教えるわけですから、彼らは、まだ自分の中で勉強する意味やおもしろさについて考えているわけではありません。周囲から「受験するのであれば」とか、「良い学校に行きたければ」という、一見現実的、実はすこぶる抽象的な「勉強する意味」を伝えられるわけです。ところが、勉強させようとする人たちは、既に、自らはほとんど勉強していないのが実態です。つまり、「現に勉強していない人が『勉強しなさい』と云っても」、ほとんど説得力がありません。そこに「『子どもたちに学習させる』際の大きなバリア」が存在するわけです。それを乗り越えること。


 それらを解消させるには、こちらも「勉強している」という姿を、まず見せることがたいせつになってきます。掲示のノートは、京都大学に進んだY君と「老人と海」を読んだ時に、ぼくが「学習したノート」です。子どもたちに、よくこうしたノートを見せて「自ら学習したようす」を紹介します。
 たいていの子どもたちは、付箋や新たに紙を張り付けて訂正したり、追加したりしているノートを見て、びっくりします。「勉強に対する意識」が大きく変化するようです
 さらに、そこで、指導を敷衍します。「こういうことがわかった」「有名な翻訳本にも、こういうまちがいがある」あるいは、「ここは、こういうふうに解釈できるが、君たちは、どう思うか?」など、成長に応じて内容は変わりますが、これらも、「団のOB諸君が前を目指すための指導の力」になってきたのではないか、と今感じています。


 さて、友人の水谷豊川から届いた手紙。卑劣な画策を計った「残りの一人宛て」、そのまま紹介します。

殺人犯はタブレット⑤

付箋番号② 玉川 海への手紙Ⅰ 

白砂青松からヘドロの海へ
 
 玉川 海 様
 
 海…。おそらく、ご両親は「広い心で周りの人や子どもを大きく包み込み、豊かな恵みをみんなにも与えるように」と夢と希望を託し、生まれた赤ん坊に「海」と名づけられたのではないでしょうか。あるいは「静かな波が、時に思いもかけず流れ着く、白砂の浜の悪や汚れもきれいに洗い流してくれるように、清らかな心で美しく生きてくれるように」とも。

 あなた(方)の今回の行動は、その「親の願い」に叶っているものでしょうか? 思いもかけず流れ着いた『悪』をきれいに流し、清めましたか? 窃盗事件は小さな悪です。あなた方がやったことは、まったく逆でしたね。
 子どもたちも楽しく遊べるようになった「風光明媚な穏やかな入り江」に、これ以上ないと云うほど「汚物」を集め、さらに「ヘドロ」を覆いかぶせ、さらに汚し「二度と使えない海」にしてしまった、ぼくはそう感じました。

 ご主人の手紙にも書きましたが、年を重ねるにつれ、「子どもたちへの思い」が、どんどん強くなります。
 自らの子どもたちや孫たちだけではなく、「未だ汚れを知らない子どもたち」を目にする度、そして「世の中の汚いこと」が、望みもしないのに次から次へと分かるようになるにつれ、「何とか美しい中で生きてほしい」・「『汚いもの』と『きれいなもの』が、『正しいこと』と『まちがっていること』が、きちんと区別できる子に育ってほしい」という願いが強くなります

 願いを叶えたいと、「小さな入り江」だが、毎年大きな恵みを与えてくれる「豊かな海」に育って欲しい、そう思って日々子どもたちと力を尽くしてきた『豊穣の海』です。二十年以上かけて、少しずつですが、恵みを毎年得られるようになっていました。
 あなたが入塾一年目から「参考にしたいと云ってるから」といって連れてこられた同僚の先生方、「苦労人だそうで、バランスよく子どもたちも育てられていることがよく窺えた奥島先生」、「子どものように周囲の事物に興味津々だった生田先生」、「小学校の指導で悩んでいらっしゃった若い横川先生」、ぼくは彼女たちにも、子どもたちの指導のようすをきちんと見ていただきたい、今後の指導に生かしてほしいと、できるだけ協力しました。あなたは、ぼくが期待していた、その先生方の「指導の広がり」をどうしましたか? 嘘で塗り固めたあなた方夫婦の仕業で「汚穢の海」になりはてました。青松白砂の明媚な風景が瞬時に消えました・・・。
 
 事件の首謀者への手紙は、続いて「教職者としての教育や指導についての誤謬や甘さ、その観念性・形式性」、「親としての自覚、その『底の浅さ』」を問います

子育ての「発想転換」
 玉川さん。あなた方の卑劣な『隠蔽工作』の跡をすべて解明し終わったとき、数年前はじめて塾に来られ、前の廊下であなたと「立ち話」をしたときのことを思い出しました。

 「・・・わたしたちも、同じようなことをやってみたいので、課外学習に『だけ』参加させてもらえませんか?」。 
 唖然として、ぼくは即座に断りましたね? 「ぼくの指導は、そういうものじゃない」。学習も課外活動もすべてが連動・関連していて、「ふつうの社会見学や総合学習と一緒に考えられては困る」、と
 「『見かけ・表面しか見ていない感覚』が、『ぼくの指導に対する思い』とは『正反対』」なので、少し腹立たしく、「すべての指導を通じて、人間性もふくめて、指導したいので、それは無理です」。たしか、そのように返答したと思います
 その後、数年して再訪され、「あなた方の子どもが入塾」という過程でした。こうしてスタートを考えると、最後の最後まで「『心』を理解してもらえなかった」ようです。素晴らしい学力の伸長には、ともなうべきものが必要なのです。家庭にも、過程にも、結果にも。

 一年目、『自分たちも同じようなことをやってみたい』と云うことだったので、野外の活動もふくめ、できるだけの指導のノウハウを紹介したつもりでした。(一年目は、ほとんど夫婦での参加はなかったですね、ぼくが「父親参加を促したこと」もありました)。
 最初の一年間、「課外学習に参加し同行していただくこと」で、「いろいろなこと」が見えてきました。年間を通じ、総合的に指導する目的で課外学習指導を行っているのに、「自由な判断で参加をチョイス」する。それでは「知識や学習内容の積み上げ」が「いびつ」になります。総合的指導という、「こちらの思惑」は大きく崩れます
 

「熱心そうな、指導に賛同している、理解しているようなようすを見せてもらった」ので、「子どもたちも、うまく育ってくれるだろう」と期待していました。が、二人の姉弟の行動や振る舞いを見て、指導やしつけ・育てられ方の問題点が、月を経るごとに少しずつ明らかになってきました
 「指導の一貫性の無さ」・「バランスの悪さ」と「不徹底」です。たとえば、「『電車での飲食』や手洗いは、神経質にうるさく注意する」が、「『電車の床に直に座っても』何とも云わない」。
 衛生面から云えば、それがいちばん不潔でしょう。また、「休日に行く旅行のときの世間の飲食」を見ればわかるように、「休日、空いた電車で、ゴミに気をつける飲食」であれば、それほど問題はないのではありませんか? それより、もっと根本的な命題、今回あなた方二人で行った卑劣な捏造に対する倫理観、その是非を、一から、根本から考え直し、子どもたちに伝えるべきでしょう
 座る席がないのであれば、床に直にすわらせるのではなく、我慢して少し立って(立たせて)いなければいけないでしょう。立たせておくべきでしょう。それで『我慢』を覚えます。日ごろの指導やしつけについて、あまり考えていない。判断基準の一貫性のなさです。


 また、「大人と子どもはちがうというルール」を徹底していない。「親の『我慢』や『努力』が分かるように」育てなければならない。それがなければ、子どもの「リスペクト精神」は崩壊します。二人の子に、そういう指導はしてはいなかった。「親に文句を云うのは、おまえたちが親の面倒を見るようになってからだ」。ぼくは、そう注意しましたね、姉弟に
 子どもと大人は一緒ではありません。すべての条件がちがうことを、よく認識しなさい(させなさい)。大人は「人格」を認めなければなりませんが、子どもにあるのは「子格」です。平等を「分別」しなさい。決して、同じ「平等」ではありません。彼らの「人格」は、「今養っている最中」です
 一年経っても、二人ともなかなか変わらない。保護者同行のときのしつけや指導のようすを注視していると、「きちんとした善悪判断や指導・しつけの基準がないこと」、「当人の姿を見て躾や指導をするのではなく、『教科書(!)』で習った「見かけだけ(!)」を、『子どもをよく見もせず』やっていること」が、よく分かりました

 「子どもの指導」は「教科書を頭に入れてやるもの」ではありません。「教科書を頭に入れてやる」のは『受験勉強』だけです。子どもは刻々生きて動いて大きくなっていきます。「教科書を見て、子どもに向かう」のではなく、『まず、子どもをしっかり見て、子どもに向い』なさい。「そして、また子どもをしっかり見る」。そのくりかえしです。「賞めて育てる、金科玉条」型もそうですが、「教科書」や「美辞麗句」で、子育てはできません。教育原理や教育心理はテスト用です。良い成績をとっても関係ありません。
 また、「子どもの甘え方」を見ていると、「おそらく家では、男親が『きちんとしたリーダーシップをとれていない』だろうこと」が見て取れました。「やってはいけないことはやってはいけない」・「やらなくてはならないことは、有無をいわさずやらなければならない」こと等、「義務と責任」指導がまったく徹底されていない
 

「けじめ」がなくグズグズ、「切り替え」が、すぐできない。同じ甘えを何度もくり返す。「すぐ人を頼りに」して、楽や手抜きをする。
 これらは、「父母、どちらもの、しつけや注意が徹底していない、指導が子どもたちに届いていない」典型例です。そして、「それを修正し、そのときリーダーシップをきちんととれる(とらなければいけない)のは、やはり父親だ」とぼくは思っています。
 父親は、謂わば、「ガードレールの『役割』」です。「この区間ではスピードを出しても大丈夫だよ、自由にやってもよい。だけど、ここにはぶつかってはいけない、大きな怪我をするし、他の人に迷惑をかける・・・」。それらの「けじめ・指導の徹底がないから、けじめがない
 この点についても、『しつけやしかり方に問題があるのだろう。甘やかされていて、自分のことしか考えられない』と、何度も『お父さんの出番の必要性について』話しましたね。ご主人の手紙にも書いたように、『けじめ』がなく『切り替えができない』のは、「厳しく『したくない』」の『悪弊』でしょう
 指導を続けて、夏を越しても指導への理解が整わず、「見かけだけ」、「口だけ」の理解にしか見えず(表面的で)、あなた方の職業柄に思いが及んで、「指導やしつけに対する姿勢」を疑問視するようになりました。これが一年目です。そして二年目にすぐ、今回の「窃盗事件」です。
 
 水谷は「窃盗事件の子どもの育てられ方」に疑問を呈し、その原因を探っていきます。
 
「窃盗事件」のほんとうの原因
 「事件後のあなた方の行動」を、きちんと振り返りなさい。「なぜ、子どもが、まちがいを犯してしまったのか」という原因や反省点が、見事に明らかになってきます。 
 「子どもの窃盗事件」や、自らの子育て、教育や指導の不備がわからないように、自らの関係者(おい・めい・同僚)共々2年間も世話になった相手を「とんでもない悪人に仕立て上げる」、「目くらまし」の「卑劣な策略」に手を染める。「自分たちの『見え』や体裁、立場の保持」しか考えていない
 つまり、「『見かけ』だけ、うまく装う」「人は関係ない、自分たちだけよければいい」=自分勝手、わがまま。その時、「相手の存在」や「仲間の迷惑」・「自らの反省点」など、まったく意識と考慮の外です。つまり、「自分がほしいから、人のものでも持って帰る」。自分だけ良ければいい。同じでしょう?

 子どもは、親が無意識のうちにも、親の「影」を追います。「親の言動や振る舞い」を批評眼抜きで、「吸収して」育ちます。育った頃には、善悪の判断・正誤の判断ができなくなってしまっています
 「本来、窃盗事件が起きた時点で、『隠蔽』ではなく、『子どもの再教育や更正への方法と方向』に目を向けなければならなかった」のに、『臭い物にふたをする』『猫をかぶる』方向にしか、視線が向いていない
 こう振り返ったとき、日ごろの子どもの養育において、『しつけやしかり方に問題があるのだろう、甘やかされていて、自分のことしか考えられない』という、ぼくの観察が、きれいに透けて見えませんか

 子どもはひとりで育つわけではありません。「20年以上、ぼくの塾の指導の特殊性から、「課外学習でのサポーターや親子同行での取り組み」を観察することができました(それが学校の先生とはちがうところです、行住坐臥にまで目が届きます)が、子どもたちの行動パターンや判断基準には、信じられないほど大きな『保護者の影』が見えます
 「お母さんが四千円拾って、食事代が浮いたと喜んでいた」と、ひとりの子どもが教えてくれました。これが「犯罪であること」は、あなたもご存知ですね? 拾得物横領です。また、その行為によって「受けるべく罪以上の重罪」を犯していることがわかりますか? 子どもたちへの指導が崩壊するのです。子どもたちが「それらを良いことだと、ごく自然に、自らの善悪の判断基準に入れてしまう、という大きな罪」です。倫理観・道徳意識は、そうして崩れます
 「子どもと一緒に、交番へ」でしょう。徹底すべきでしょう。

 それじゃあ10円・1円を拾ったらどうするか? 同じです。交番に届けましょう。
 警官の応対次第で、次は、「どこかの子ども関連の基金にでも寄付する姿」を子どもに見せましょう。それが「子どもに示すべき」親や先生の態度です。明治時代の欧米人の日本滞在記には、「『日本人の正直さに驚く』記述」があふれています。これらの、世界に誇るべき特性や習慣は、できるだけ(歴史が続く限り)残すべきでしょう
 気づかぬうちに、子どもの倫理観の崩壊を招く行為は、未だあります。
 「クワガタ探し」のとき、「やぶ蚊」の猛襲に備えて「森林香」の携帯セットを2個準備しました。誰かがリュックに入れましたが、そのまま戻ってきません。

 また、課外授業の際は、使う道具が特殊な場合、なくなることが少数ながら、よくありました。「それらを返しなさい」と云ってるわけではありません。それらに対する「社会性」の意識を忘れてはいけないのです。ここでも、子どもに対する、躾や指導をする親や先生のあるべき姿が消えています。すべて、子どもの倫理観の崩壊(未形成)に結びつく姿です。
 「塾の道具」はみんなが使うもの、いわば「公共のもの」です。子どもたちに、その「躾」をしたいと思っています(そのしつけができるのです)。「『保護者や周囲のふるまいを見て、子どもたちがどう育つか』。「そのたいせつさを常に考えるのが、教師であり、子をもつ親のつとめだ」と云いたいのです
 「子どもたちに、『こうした行為の、実際の例』を挙げて『取るべき態度』を諭すこと」を、ぼくはよくやります。なぜか?「ワオ、ワオ、ワオ、耳ダンボ事件」もそうですが、「『なあなあ』で済むことと済まないことがあること」を教えなければなりません。「『子どもたちもよく知っている事例』・『目の前で起きた事件』について考えさせる」方が、彼らの理解が整い、正しい判断基準を「すばやくきちんと身につける(つけさせる)ことができるから」です

 かつては、童話やおとぎ話・偉人伝に触れることも多く、「その種の指導テキスト」には事欠きませんでした。しかし、今『ゲーム』に、「舌切り雀」や、「さるかに合戦」がありますか? 「ワシントン」が出てきますか? ゲーム以外に、みんな読んでいますか、これらの本を。「実体験」が、最適のタイミングです。
 わかりやすい、善悪基準を教訓にする材料がありますか? ぼくは日ごろから、そういうこともすべて考えながら、子どもたちを指導しています

 おそらく、「あなた(方)の半年間にわたるタブレットの盗聴音声」にも、何度も「類似の指導シーン」が収録されたでしょう。「それらの指導の前後」の音声もすべて、今回「教唆した」みんなに聞かせましたか? 「細切れにして、自分たちの卑劣なデータ編集用に使った」だけでしょう?
 
 ・・・「ぼくとぼくの指導に対する信頼」や、日本人が昔から大切にしてきた「正直という美徳」に、きちんと目が届いていれば、「窃盗事件」は事件ではなく、小さいころに身につけておかなければならない「倫理観」や「社会のルール」を学ぶ「糧」で済んだだろうが・・・。
 子どものときの「少し心が痛い想い出!」で済んだだろうが・・・。それによって、甘やかされて育ってきた息子が、一回りも、二回りも大きくなったはずだ。「自分たちの子育てのまちがい」に気づき、「育て方を考え直す機会も生まれた」はずだ
 誰も傷つけることなく、傷つくことなく終わったはずだ。そう思いませんか? 
 わかりますか? その大きなちがいが? 人の心やルールをもう一度考え直し、すべてルールに則ってやんなさい。おたがいにルールのある付き合いは、そうして成立します、あなた方は大人ですから。
 あなた方は「卑劣な『隠蔽工作』で子どもをかばって、得難い子どもの『学習』の機会を奪い、『自らの立場をよくするために相手を陥れること』によって『人としての心』を失い、これから『先々の心の平安』を失いました。
 罠にかけられた相手は、『半年にもわたるタブレット端末を利用した盗聴音声の捏造データの拡散』で、『長年築きあげた信用を失墜し、将来を楽しみにしていた子どもたち、という夢』まで失いました。失う必要があるものでしたか?

 この天地のちがいがわかりますか?
 本来、あなたがたが「もっともたいせつにしなければならないもの」は何ですか? それが、「ことごとくなくなってしまったこと」に、気づきませんか? 
 
 手紙は、次に、玉川夫妻の今回の行動にメスを入れます。

しつけや指導は「心から」
 まず。どうして、「問題になったエアガン消失の犯人」がわかったか?
 「数少ない生徒」ですから、「持ち帰ってしまう(窃盗する)タイミング」があるのはだれか? ぼくが「席を外したとき一人になれる」のは誰か? 指導の過程で、日常のようす・行動・性格などをつぶさに観察していると、考えたくはありませんでしたが、「想定」はすぐつきました。

 その後、あなたもよくご存じの、数週間体験指導をした『友だち』と一緒に、彼が教室に来たとき、その「はじめて教室を訪れた友だち」が、いきなり「エアガンがおいてあった近く」まで行きました。そして、「ねえ、ねえ、あのエアガン、どこにあったの?」。すると、本人が明らかに動揺を見せ、小さな声で『ムニャ、ムニャ』。
 もうひとつあります。その数日後、「クワガタ探し」の合宿に行きましたね。その友だちも含めて、みんなで。あなたも、そのときは未だ、彼が起こした事件に精神的に参っていたのでしょう、遠方のお姉さんに「同行応援」をたのみましたね。

 その晩宿舎での食事の際、ぼくが、そのお姉さんに、「子どもさんはいらっしゃらないのですか?」と聞きました。彼女は、即座に「子どもはいません」。そして唐突に、『子どもなんか要りません。問題ばかり起こすから・・・』。
 「敏感でシャープな人」なら誰でも、「事件の推移と、そのタイミング」で「どういう意味か推察できるはず」です。ぼくの場合はシャープでもなんでもなく、「ただ社会経験が豊富なだけ」ですが・・・。
 それ以外にも、何度も匂わせましたね、今回の一件を。覚えてますね、夏休みの終わり。ぼくが、あなた方の倫理観と、「職業柄期待したかった善悪基準」を信じ、一ヶ月余裕をあけた後です
 
 指導再開の挨拶で、「ぼくに、なにか相談していただくことはありませんか?」。一瞬びくっとして、慌てて、声を一段高めて、「いえ、別にありません」と、「『カンの鋭い人』を相手にしているとは思えない態度」で否定しました。その後すぐ、「何か、なくなりましたか?」と反問されましたね
 
 それ以降も、あなた(方)の職責や人柄・日ごろのおしゃべりや態度をまだ信じていたぼくは、「正直な言葉」を期待し続けました。次第に、不信感は募っていきましたが・・・。
 「半年以上、『今後のための最善の解決(正直に話してもらうこと)』を図ろうとしていた」のですが、その裏で、ぼくが思いもかけない、「『保身と退塾のための卑劣な策略』、『音声盗聴と捏造編集データの拡散』、『仕立て上げた極悪人塾を退塾させるための教唆』が進んでいた」というわけです

 あなたが「捏造音声データにより進めていた『ぼくの人間性否定の教唆』」が相当長期間にわたっていたことは、「あなたが拡散した三人の保護者のぼくに対する態度の変化を時系列で振り返ること」で理解できました。
 夏頃からです。菅原さんを篭絡し、古田さん・北見さん、そうですね、ご主人の応援も得て。
 玉川さん。「人間関係」というのは、「こうした事実を積みあげて『犯人捜しをする遊び』」ではありません。「心と心」です。わかりますか? 「子どもたちを教えられる」のは「心から」だけです。「子どもたちに教えなければいけないのも『心』です。『子どもがゆうことを聞かない』のは、「真剣さと心が足りないから」です
 「中身のない軽い言葉」・「おせじ」や「おべっか」が先にあるのではありません。日本では古来、「『心』が先にあって、言葉が紡ぎ出される」のです。指導が時に、「強い言葉」になったり、「手厳しく」なるのは、「心」があるからです。「心が云わせる」のです。だから「子どもが育つ」のです。おたがいが心を使えるように、心を使ってください
 そして、その方法が唯一「思いやりにあふれた、良好な人間関係をつくる、日本のルール」です。こういうことを、わざわざ話さなくてはいけないことを、今、とても腹立たしく思っています。(続く)


発想の転換が可能性を開く⑤

2018年03月24日 | 学ぶ

殺人犯はタブレット④
玉川宛ての手紙(続) 
目がものを言う
 玉川さん、あなたも、「子どもたちを教え、サッカーをはじめとするスポーツにも堪能だったと聞きました。奥さんも、バレーボールもサッカーもおやりになっていたとか? そうですね?」
 あなた方は今回の一連の行動で、少なくとも五つの罪を犯しています。「窃盗罪」「電波法違反」「名誉棄損」「営業妨害」そして無断でマンションに侵入した「住居不法侵入罪」。その世間での「重さ」がわかっていますか? そういう感覚だから、子どもが過ちを犯すのだと、思えませんか? 

 「使命や責任の重さ」をほとんど考えることのないまま、教員免許を取り、社会経験もほとんどなく、教職につき、ほんとうにきちんと子どもを教えられるのか? ぼくは常々、免許取得システムに大いに疑問をもっていました。「先生になる方法」と「受験勉強」は知っていて教えられるけど、「世の中で生きていくルールや責任という、一番大切なことはほとんど何もわかっちゃいない」、その後の世界も狭い。そう思うからです。「先生になるまで」は教えられるけど、「社会で生きていくルールや決まり事・常識・心構え」など、もっとたいせつなことを教えられるのか? これらは、よほどしっかりした家庭で育たないと、覚えられないでしょう。そして、フォローできるのは先生だけです。
 たとえば、あなた方は「そこそこ」スポーツをしていたかもしれませんが、「スポーツで、まず学ばなければならないこと」は何でしょう? 『ルールを学ぶこと』。 次に『フェアプレー精神』、『そして相手に対するリスペクト精神』・・・そうではありませんか? 
 現実問題として
「それさえ学んでいない」のではありませんか、今回の行動を見ていると。スポーツをやるのは、肉体の鍛錬もそうですが、「オリンピック憲章」を見るまでもなく、スポーツ・マインドの習得が大きな目的でしょう。ちがいますか?

 日本ではこれまで、「男と男」特に「スポーツを愛好する仲間」や「男らしい男たち」のあいだでは、「目は口ほどにものをいう」という「誇らしい習慣」が継続していました「男同士」、「気心の知れた間」では、口には出さなくとも、礼儀・信義・信頼関係やルールが「暗黙の了解事項」で、『話』はお互いに十分(以上)通じました。あなたも、この意味はご存じだと思いますが、恋愛感情のみに限りません。

 昨年夏頃、あなたの親せきのお店にポスターをプレゼントしに訪れ、あなたとお会いしたとき、「子どもの窃盗事件に対するあなたの、正直な対応」を期待したのですが、残念ながらそうはいきませんでした
 『目が、ものを云って』くれること。「窃盗の件」で、正直に口を切ってもらえれば、話が進みやすい。こちらから先に持ち出せば、否定されたとき、おたがいに気まずくなり、後々まで尾をひくあなたがスポーツマンであり、職業柄からも、「正義を貫け」・「潔くしろ」と、「自ら子どもにも教えることができる人」ではないかと想像していました

 最近の男と男、スポーツマンの間では、信頼関係や「男気(!)」はないのでしょうか? 破綻したのでしょうか? あるいはスポーツマン同士の間でも、「心の関係」が築かれにくい「他の条件」が発生しているのでしょうか。
 僕らの年代では「できるだけ倒れないようにする」のが、「あらゆるスポーツの真骨頂」でした。「進んで倒れても、場合によっては救われる、救われようとするスポーツ」が、近年とみに幅を利かしてきました。「相手のファウルをもらえばよい。ファウルじゃなくても、もらえば勝ちだよ」という感覚が生まれ、幅を利かすようになるとともに、「侍の姿が消えてしまった」ように感じるのですが、気のせいでしょうか

 流行の「ディベート」も、結局、「正邪や善悪ではなく、相手を言い負かせばよい、いかにも論理が通っているように聞こえればよい」という気味はないでしょうか? 「ものの本質」・「心の基準」ではなく、「見えかけ」、「見せかけ」で判断が行われる・・・。
「見えかけ」『見せかけ』ではなく、男であり、スポーツマンであり、「もつべき職業倫理があるはず」のあなたと、『心と心』で話そうと藻掻いていた間に、とんでもなく卑劣な裏工作が進んでいたというわけです
 この度の「窃盗事件」勃発以来、ぼくは常に、あなたの来歴、「まず男であること、スポーツマンである『らしい』、さらに、「公的な免許を取れる」それなりに高い学力を身につけられた(つまり知性と理性がともなっているはず)こと」を念頭に置き、「起こった事件」を正しく処理する方法を考えました。「その後の対応」を考慮に入れ、さわやかな結果を予想し、期待さえしてきました。失礼ながら、「バランスがとれていない子ども」が一回り大きくなるための「指導の肥やし」になる、そう考えたのです
 ところが、裏側では「小さな窃盗事件」が、さらに悪質になる策謀と「隠蔽工作」が進んでいたことになります。その方法を模索する中、妻の職場で2年前に起きた「保護者によるタブレット盗聴事件」は格好の「救いの神」に見えたのでしょう。

 「塾では所持が禁じられていた携帯」を子どもにもたせ、毎回、毎時間、その端末で盗聴を重ねた。授業が終われば、電話連絡をさせて、盗聴終了。それが繰り返された
 あなた方の「職業」は何ですか? 「そういうあなた方の行動パターンが子どもの倫理観や道徳心をめちゃくちゃにしてしまう」ということは考えないのですか? 
 「ばれなきゃ何でもあり」ですか? 「そういう発想や思考形態が、子どもにも伝染し、今度の事件の引き金にもなった」ということに思い至りませんか? 

 盗聴によって、「子どもの窃盗事件のことがばれている」と分かってから、あなたたちは、「何とか『自分たちの保身と見えや体裁』を守ることだけ」を考えた。いちばんたいせつな「窃盗した子どものフォローや教育なんか、そっちのけ」です。そういう対応が、「倫理指導の妨げ」になり、さらなる罪を重ねるかも知れない、そうは思わなかったのでしょうか
 好都合なことに、「ターゲットの相手(ぼくですが)は、指導に力が入り、興奮しはじめると、単刀直入、極端に言葉づかいも悪くなる」。集めた大量のデータは、週3回で6時間、半年では約180時間に及びます。その中から、「自分たちに都合の良い」言葉の端々、切れ端だけを集め、悪意の意図の元で、『一人の極悪人・人』の肉声を「捏造する」ことなんか、すこぶる容易です

 玉川さん。サッカーで教えられるのは、いや、すべてのスポーツで教えなければならないのは、まずスポーツ・マインドですね。そうではないですか? 「シミュレーション・プレー」を覚えるためではないでしょう?
シミュレーション・プレーは、子どものサッカーの審判ならともかく、能力の高い審判には見抜かれます。下手なサッカー選手のシミュレーション・プレーは、すぐばれるでしょ? そう思いませんか?

 水谷は、この後、玉川宛の手紙で、玉川が行った「最後のシミュレーション・プレー」の解説をします。
「天知る、地知る、子知る、我知る」
 一月、古田さんの奥さんが「合格のお礼」に来られて、ぼくと話し始めてもなお、「子どもを迎えに来た」あなたは、「脚でドアを押さえ不自然に長くドアを開けたまま」入り口に立っていました。不審に思ったぼくが、「なにか?」と入り口まで出向きましたね。

 あなたは、「挨拶をしていないので・・・」と、つじつまの合わない返答をして、慌てて帰って行きました
 奥さんの「『最後の捏造データの仕掛け』がうまくいったかどうか」、「思い通り古田君が退塾するかどうかを確認したかった」のでしょう? 「あなた方を信用して、あなた方の思い通り、古田さんが大悟君をやめさせるかどうか」、また「口を滑らせて、あなた方の策略がばれるような、余計なことを云わないか、どうか」。
 ぼくとの信頼関係をめちゃくちゃにした、古田家への「退塾教唆」は何のためですか? 「『窃盗事件』がデマであると思わせる」隠蔽工作と、あなた方の「見え」や「体裁」、「偽りの立場保持」のためでしょ? 大悟君の将来と、ぼくに、「どれだけひどいことをしたか」分かりますか

 そのとき、「同じように後ろで立ち止まっていた」高見さんは、「古田さんがほんとうにやめるかどうか」を知りたかったのです。まさか、そんなことが? 聞いたことは本当か? ほんとうか? という捏造データに対する疑念が、まだあったはずです。その根拠ですか?
 あなたの奥さんが、「自分の子どもをやめさせて、なお」2月になって、「教室の廊下の監視カメラのなか」「危ない橋」を渡り、こっそりドア開け、偵察(!)に」来られたこと、です。誰かと思い、ぼくが後を追いかけると、「青鬼のような横顔」を見せて自転車で走り去りました
 「『高見さんがうまく騙されて』、かれんちゃんが、ほんとうにやめたかどうか」の確認でしたね? 「自分たちの子育ての不備」と「窃盗事件」の事実を、「知っている周囲の人たち」に知られてはいけない・・・「職業柄と今後の体裁」があるから。
 正しく、みんなが「カタルシス」を覚える解決方法はいくらでもありました
 今回の画策で、すこぶる順調に進んでいた「かれんちゃんの未来」と、「ぼくと高見さんの信頼関係」に、どれだけ大きなひびが入ったか、わかりますか? 関係ないのでしょうね、あなたたちに、そんなことは。

 「天知る、地知る、子知る、我知る」という言葉はご存じですか?
  「十八史略」が出典で、『誰も知るまいと思っていても、天地の神々は決して見逃さない。君も私も知っている。隠し事は必ず露呈する』という、戒めです。「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉もありますね?
まず、それらを頭に描き、ことの処理に当たるのが、正当で、教育の本義にも叶った方法です
 今回のような隠蔽工作で、順調に成長しつつあった子どもたちの将来に「枷」をかけ、みんなを傷つけ、迷惑をかけ、さらに、自分たちも傷つきました。「本来は、あなた方の子どもに、この故事成語を『幾度も、幾度も』噛みしめさせなければならなかった」のです。それが「親」です。それが「先生」です。それが教育です
 昨夏の親せきのお店での「缶ビール」の時、あなたに「問題がある子には厳しくしないと」とアドバイスすると、「親父が厳しかった(!)ので、そういうふうにはしたくない」と、「思いもかけぬ返事」が返ってきました。

 「厳しくするか、しないか」は、その子の性格や日ごろの行動をよく見て、倫理基準・事態の正邪から判断すべきです。「あなたの、『あるようで、無い』判断基準」では、子どもを「正しい方向には」導けないでしょう。そんなやり方で指導できるのは、「もともと素直で害のない子」だけです。そんな子は、ほとんどいません。
 もし、ぼくが、あなたの親父だったら(年齢が近いはずなので)、「『優柔不断さ・軟弱さ』を矯正しなければ」と、お父さんとは比べものにならないくらい、厳しく指導したと思います「卑劣なことをするな、それも女の尻馬に乗って…」と、糾弾もしたでしょう。

 年齢を重ねると、特に近年はその傾向が強くなりましたが、「正しいもの・正しいことが隠蔽され、無視される世の中」を見過ごせなくなります。そういう事例を見ると、むなしくなります。子どもたちの将来に暗雲を見ます
 「『自分が美しくなくなる』のなら、せめて、『美しいもの』を残しておきたい。心だけでも美しくありたい」。そう思うのは錯誤でしょうか? 叶わぬ夢でしょうか。ちなみに、ぼくが、そう強く思うようになったのは、「『あなた方ぐらい』の年齢のとき」だったと思います。つまり、「塾をはじめたとき」です。

 人間だけ別格、「理性」と「知性」が備わっているのは、どうしてでしょう。
 「正しいもの」や「美しいもの」・「博愛」など、「『他の動物には理解不能なもの』が、生きていく上でたいせつであることを人間に知らしめるため」ではないですか? そうは思いませんか。
 「子どもを指導する人」はすべて、どんな時代になろうと、その基本を忘れてはならないと思うのです。あなたはいかがですか?
 「美醜や正邪の判断など一切なく、礼儀や信頼や相手の気持ちも立場も考慮に入れない凶行・蛮行が充満する」世の中で、自らのたいせつな子どもや孫が、「傷まみれ・汚泥や糞尿まみれになる未来」を、あなたは望まれますか

 できるだけ、子どもたちが「きれいな環境」の中で、「人間らしい仲閒たち」と健やかな生活ができるように、少しずつでも浄化しよう、努力しようとは思いませんか? 今回やったことは、世の中をきれいにすることでしたか? 
 ぼくは、自らの子どもたちはもちろん、「袖すりあう」子どもたちをも、「何よりもお互い同士のため」に、「思いやりや倫理感が身につき、高い能力と正義感あふれる、実行力や行動力がある人間に育ってほしい」、そう願って今まで指導してきました。 あなたたちはどうですか? 今回の行動は正義感にあふれるものでしたか? 正義は必要ないのですか?

 『高い能力や学力』を商売にし、「『生徒も』『自らも』金を儲けるためで、他のことは一切考えない」という指導をつづけているところもあるとは思いますが、そういう教育を、あなた方はどう思いますか? 
 こういう事件が起きた今振り返れば、「お世辞だった」と思いますが、「日ごろのぼくの判断基準」を、もし買っていただいていたとするなら、こう思いませんか? 「善悪の基準も分からず、バランス感覚もなく、正しいリーダーシップをとれない高い学力」など「クソ」だ、と。 
 
 水谷は手紙で、この後、自らの観察と経験から、子育てやしつけのアドバイスをつづけます。
医者になりたい子たちに
 あなた方の子どもが、「お医者さんになりたい」と云ったとき、「まず、『相手のことを考えられる』ようにならなければ、医者になったらダメだ」と云いました。これはあなた方の子どもだけではなく、「今まで教えたすべての子どもたち」に云ってます
 また、「どこに出しても恥ずかしくない子になってほしい、先輩たちのように」、あるいは「人格が整ってこない子には勉強は教えたくない。」とも言います。「人格が伴わない、高い学力など意味はないと思う」とも云います。
 当たり前です。そういう人を育てたいから、ぼくは塾を始めました。どこかまちがっていますか? 
 こういう「指導の文言」も、あなたたちの長期間の盗聴タブレットには、たくさん入っていたでしょう? 拡散するなら、省略また悪意の捏造編集はやめて、全部拡散なさい

 京都大学の大学院から神戸大学医学部に学士入学した金山君の小さいときにも、条件のたいせつさは話しています。彼は今、立派な医師に育ちつつあります。昨日、医学部の5年の最終試験を終えて一段落した彼と、酒を酌み交わしたときのことです。
 「どうしてそんなことが起きるのだろう、できるのだろう」と、ぼくの話を聞き涙をためていました。ぼくの「不遇」だけではなく、人間の愚かさ・浅ましさに、哀しくなったのです
 今ベトナムなので、わざわざ連絡はしていませんが、京大大学院の山北君も感覚は同じでしょう。京都大学の松尾君も同じでしょう。あなたの奥さんは、彼ら全部の「人となり」・やさしさ・優秀さをよくご存じです。何回もあってますから。

 金山君はさらに、夏期合宿で今回の3人を見かけ、「ぼくと同じように感じた」ようで、「能力が高く性格も整い、うまく育ちつつあった」龍生君や大悟君・かれんちゃんの退塾を、とても残念がってくれました。なぜか? 
 彼もぼくも、「こんな愚劣で理不尽な謀略」によって退塾する羽目になり、子どもたちの明るく大きな未来が、不透明になってしまったことが、悔しいのです。そのまま進めばすばらしく育ったであろうに・・・
 わかりますか? ぼくの教育や指導は、18年近く付き合っている彼やOB諸君、OBのお母さん方が、しっかり証明してくれているのではないですか?
 玉川さん、どうか、お持ちのはずの、あなた方の「美しい心」を、もう一度探してください。
 子どもが「医師になりたい」と云えば、「医師にふさわしい子」になるように、指導やしつけをしてください。あなたの優れた能力(嫌味では決してありません。今回のようなストーリーを描け、応答の「台本」まで思い浮かぶような能力)を、どうか「次世代の素晴らしい人材育成に傾注」されんことを
 十数年前から、偶々医師の仕事にかかわるようになり、近くでお年寄り(ぼくも既にそうですが)の患者さんの姿を見るにつけ、「医師に対するぼくの思い」は、さらに強くなりました。「人の寂しさの理解も含め、医師になるなら、患者さんの『心のひだ』にまで踏み込めなければ、正しい治療はできない」。そう、思うようになりました

 国家試験を合格しても、医師免許を持っていても、薬代や収入のことしか考えない医者は『クソ』です。そう思いませんか?
 患者は「苦しさや生命を何とかしてほしい、たすけてほしい」から医者を訪れるのに、その医者が患者のようすや心の状態、症状に最大限の心を配らず、思いやりもなく、「患者が札束にしか見えない」人だったら・・・あなたが患者だったら、どう思いますか? 「そんな医者は、いないほどよい」と思いませんか

 医者がそれなりに高い収入を保証されているのは、「ともなうべき責任」も大きいからです。正しい倫理観を身につけ、広く相手のことも考えられ、自己犠牲をいとわない。もちろん技量や優れた知識、日々の学習や研鑽を欠かさない。
 子どもが「医師になりたい」と云えば、そんな医師を目指すよう指導しなければならないのではないですか、先生や親は。「医者になりたい」のであれば、「医者に伴うべき条件」を欠かすことはできません。「ともなうべき人間性や倫理観・自己責任の自覚もないまま、学力だけを身につけた」医者がいれば、恐ろしいことになるとは思いませんか? 

 それでは、そういう指導を「事前に」行わなければならないのは「どこ」で、「誰」ですか? ぼくたちの仕事は「教育」ですね? 「子どもたちを育てること」ですね? 関われるのは『子どもを育てる人』と『教育』ですね?
 「能力が高いが、金のことしか考えない」。そんな医師を育てるのですか? 「倫理のはしくれも見られない」、そんな医者を社会に送り出すのですか?
 同じように公的免許を取得する教職も、医師と収入はちがえど、負けず劣らずたいせつな職務と責任があるのではないですか? どちらも「かけがえのない人間の人生」を「救う」のです。 その仕事に、自負と責任と正しい倫理観、バランスの良い判断基準は必要ないですか?
 あなたの子どもを、まだよく知らなかった2年前、化石採集に向かう電車の中で、僕は彼女の言い分を「ふん、ふん」と聞いていました。あなたも、傍にいましたね。その時は未だ、あなた方の倫理観を心底信じていたので、ぼくも一生懸命聞きました。彼女は、同じクラスのひとりの男の子のことを散々けなして、「自分の正しさ」を訴えていました。

 しかしその後、彼女のふだんのようすをよく注意していると、彼女自身が従来の子と比べても、相当自分勝手で、「自分のことも満足にできない」。「云うことだけは云う、さらに、そのことをまったく自覚していない」等がよく見えてきました。典型的な「王様育ち」です。「すぐ手抜きしようとする」、「人のことを考えられない態度(「ホタル狩り」や川遊びでの網を独占、なかなか人に譲らないような態度・奥さんがよく知っています)」・「自分勝手な物言い」や「リスペクトのない言動」・・・。ぼくは彼女の育てられ方、「真相」がよく見えたので、「2年目から」指導を厳しくするよう、方針チェンジしたわけです
 甘やかされて、問題ある子どもには、開設以来いつも採ってきた方法です。甘い顔はできません。「理屈がわかり、指導が身について、悪癖が直る」まで

 子どもの「人となり」や日々の「態度」に、あなたの「客観的な目」は届いていますか? わかっていますか? 失礼ですが、ぼくにはまったくそう見えませんでした。「甘いだけ」のようでした。そういう育ち方をしている子を、「そのことが分かった人」が、そのまま放っておいて良いのか?
 「ほっとけ、ほっとけ! どうせ他人(ひと)の子や!」。「そのうち、わかるやろ!」。他の先生なら、あるいは、そう考えるかもしれません。しかし、ぼくはそうではありません。ぼくたちが育てているのは、将来の「社会人」です
 「そのうち分かる子」など、『二上山でダイヤモンドを見つけるような確率』です。 その心は? 裏側のブラジルまで掘っても、見つかりません。

 「医者になる」なら、「『良識・社会常識・思いやり』の伴わない」医者は、ぼくの元からは育って欲しくありません。人のこと・苦しみや迷惑を考えず、金や自分のことしか考えない医者なら、「いればいるほど邪魔になる」のではありませんか? 
 失礼ながら、あなたは指導や教育をそこまで考えていますか? 「一人の人間(社会人)を育てている」という認識に思いが届いていますか 「将来ある可能性豊かな若者を指導する基準」に、「あなた方の行動」はふさわしいですか? 「あなた方の子どもを預かるのであれば、できれば『思いを共有』していただければ」、と思いながら、ぼくなりに2年間指導してきたつもりです
 「医者になりたいという子どもの気持ちを制限はしませんが、それにふさわしい人格や能力を備えさせるのも、教師のたいせつな役目」です。ぼくの頭は、「本人以外のことも」同時に考える頭です「医者になりたい、それはいいことだ、だったらこうしなければならない、そんな態度じゃだめだ」という視点や指導・教育は必要ではないですか? 

 かつて、「赤ひげ」という映画がありました。日本人が古来たいせつにしてきた、『仁』と『義』と『理』があふれていました。あなたたちの今回の仕業は、「仁」にあふれていましたか? 「義」にかなったものでしたか? 「理」に基づいたものでしたか? そのたいせつさを思い出してもらいたい、心からそう願っています。それらを忘れて、潤いのある人間社会は成立しません
  玉川さん、あなたも実際にお住まいだから、ご存知だと思いますが、ぼくはあなたの生まれるくらいのときから、つまり40年以上前から、この地にも住み、その事情をよく知っています。全国的に、この市は学力レベルも低く、特に近在は教育環境や学習環境、子育て環境でも、大きな問題を抱えています。ぼくが開塾以来、この地で続けてきたのは、この環境で生まれた子どもたちを、学力や人間性とも、屈指のレベルにひきあげたい、と思ったからです。ここで、子どもたちを育ててこそ意味がある、と思ってきたからです。あなたがたがやったことは、その思いを無にするだけではありません。自分たちの子どもも育っていく、たいせつな街、その未来をどうしようというのですか?  
 
水谷は、この問いかけの後、「これ以上の捏造データを作成し、拡散をしないこと」の約束、「データ捏造と悪意の教唆によって退塾した三人の保護者に対し、速やかに真実を明らかにすること」。それが、『人生の王道』に戻れる、唯一の道ではないでしょうか」と結んでいます。(つづく)


発想の転換が可能性を開く④

2018年03月17日 | 学ぶ

殺人犯はタブレット③
「君たち、ここで学んでいることはとても幸せなことなんだよ」
 手紙をくれた友の名は水谷明成。ところが、封筒には、「水谷豊川(ほうせん)」の署名。塾をはじめるとき、突発した事件に心を痛めて心機一転するため新たに通名をつけたといいます。

 寺子屋という塾の呼称にふさわしいように、また豊かな川は、飲料水としてはもちろん、さまざまな恵みを我々にもたらし、下流の作物や田んぼに豊富な栄養分さえ供給してくれます。生活総ての糧になる。塾で育っていく子どもたちもぜひそんなふうに育てたい、という思いもこめたと聞きました。
 タイトルの台詞は、ぼくがつくったコピーでも、水谷が云った言葉でもありません。水谷の塾で育ち、奈良県の進学校東大和学園から京都大学に進学した金君というOB生のセリフです。社会人になって水谷の塾を訪れたとき、勉強している後輩たちに、思いを込めてかけてくれた言葉、水谷には予想もできなかった。「感動」でした。

 塾は大きな商業都市の南端、さまざまな人種と猥雑さが同居し、その間を狭い小路が縦横に突き抜ける街の片隅にあります。近くの神社には、周囲が2メートルを超える楠の大木が並び、梢では鴉が宿る。耳も脚も尻尾も風化で欠け落ちた二匹の狛犬。表情さえ伺えないその姿から、その神社と町の歴史の古さも分かる、そんな一隅です。

 個人指導という利点を活かし、「日ごろのすべての行動」のなかから、「学ぶおもしろさ」や「学ぶ意味」を子どもたちに伝えていく。自然体験、宿泊をともなう野外活動や作業指導も、たいせつな学習の一環でした。
 「人とは何か、どうあるべきか」。「答えのない問い」にまで思いめぐらせ、「日ごろの行動の中から考え、学ばせる」ユニークな指導で、「本質を知る人たち」の間では、評価もそれなりに高かったのです。彼は、少数の子を心身ともにすこやかに、ていねいに見守り、育てていくことしか考えていません。
 15年くらい前、水谷が企画した「腕白大学」という特別授業で、特技を活かし、ぼくも「古いカメラで光を読む、世界を見る」というテーマで講義をしたことがあります。写真に興味をもたせると云うより、子どもたちが周囲の環境の学習対象や事物に関心と目を向けること、つまり周囲を見る、環境に気づく『感覚』を養って欲しいという願いからです。ジャズ・プレイヤーや手品師・医師など保護者の力も借り、多彩な授業は盛況でした。

 彼も自ら「言葉は生きている」というテーマで、「和歌の視点から表現を探った」国語の授業をしています。F.O.S(finding out something)という水谷の塾の歴史です。
 力の入った指導の積み重ねで、準備期間を含め、開設以来24年間。数は少ないものの、学力だけでなく、人柄もよく人格も優れた子どもたちが何人も巣立っています。学生・社会人を問わず、何人かは時間があるとき、休日を利用して、水谷と行動をともにし、自らに続くべく、後輩たちにやさしく接し、彼の塾や水谷の指導に触れられることのありがたさ・学ぶこのとのたいせつさを、一生懸命伝えてくれました。金君の言葉は、それらの代表と云えるかもしれません。

 OBの成長と、育っていく子どもたちの姿は、「ありがちな日々の雑念」をきれいに振り払い、人生半ばから志を立て、その後全力で走ってきた彼の疲れを、その都度癒してくれました。
 活動や指導応援をしてくれる人たちは、まだいます。水谷を信頼している気心の知れた、お父さん・お母さんたちです。みんなで塾の行事を手伝ってくれることがお母さん方の入塾時の暗黙の了解でした。指導のようすを近くで見て、彼の人柄はみんなに、よく理解されていました。

 育っていく子どもたち・お父さんお母さんと水谷、三者間で確固とした信頼関係が築かれ、それが学習面でもすばらしい効果を発揮しました。そんな塾です。「何を考え、どうしようとしているか、水谷は子どもをどのように育てようとしているか」という「共通認識」が成立し、「それらを土台にした『成長の証』が子どもたちからよく覗われる、現れていることがよく理解できた」保護者ばかりでした。二十数年の間、「受験学習にガチガチに偏った教育ママ」以外、その指導や指導方法が理解されないことはなかったのです。本来なら、その塾の歴史に、今年も新しく輝かしい一頁が加わるはずでした。
 いつもと同じように、公立の地元の小学校に通っていた二人の6年生は第一志望の難関中学に合格しました。さらに入塾して一年ながら、潜在能力が高く、性格も良い、先々楽しみな4年生の女の子がすくすく育っていました。
 年齢から、指導はこの先それほど長くはできないだろうという思いから、おそらく、この子が塾の『フィナーレ』を飾ってくれるだろう、大きく羽ばたいてくれるだろうと、水谷は楽しみでした。ところが。
 不審な事件の経緯を、水谷の手紙に基づき、たどってみます。

そして誰もいなくなった? 
 念願の私立中学に合格した塾生菅原君、そして続いて古田君が、あこがれの中学合格後すぐ、保護者とともに訪れ退塾を申し出ました。さらに、下の学年の4年生の女の子まで急な退塾。少ない人数ですから、ほぼ一度に全員です。ただ事ではありません。

 小学校3年生から満4年間、6年生二人には学習指導だけではなく、宿泊学習の渓流遊び・米づくりなどの課外活動も通じて、学習する意味やたいせつさ・立ち居振る舞いから社会道徳まで、できる限りのことを伝え、指導しました。「よりよき成長」と「さらなる飛躍」を願ってきたこどもたちでした。言葉荒く指導することもありましたが、厳しい指導の甲斐あって、学力も十分整い、従来の諸君と同じように、うまく成長してくれたといいます
 彼は順調に育ちつつある数名の子どもたちが、今までと同じくOB教室まで進んでくれることを期待していました。高い能力とやさしくバランスのとれた人間性を備えた子どもたちが、また増えるだろう。大いに楽しみな毎日だったのです。そんな矢先の衝撃
 子どもたちはうまく育ち、成長も順調だ。例年と何ら変わらない。何が起きたのか? 
 訳が分からず、当初は見当も付かなかった水谷は、指導や活動の日々を振り返り、些細でも違和感があり、腑に落ちない事実を積み重ねて、理由を探るべく探索と考えを進めていきました

 そうして見えてきた卑劣な策謀の数々、ぼくの元に届いた分厚い封筒には、ぼく宛のものと、彼の知り合いだろう、すべて別々の人宛ての手紙のコピーが6通。その凶悪さを糾弾し、改心を計るべき犯人たちへの二通。くわしいことはおそらく何も知らないだろう子どもたちへの二通、そして、悪意の情報操作に知らぬながら加担することになった保護者への二通。すべての手紙に目を通すと、やりきれない事件の全容が明らかになりました。
 海に落ち行く大きな夕日の写真を壁にかけ、自らの心に重ね合わせて、すがすがしくフィナーレを迎えるはずだった水谷が受けなければならなかった「卑劣な策謀に対する憤り」と、「冤罪だけは晴らさなければならない」。強い思いもうかがえます。

許せない順
 「孤軍奮闘し、卑劣な作為の真相を何とか究めようとしていた水谷の願いに、全力を尽くして応えよう」。「謝らせてくれ、俺の『環境』を、元通り、きちんと復元させてくれ」。手紙の後、電話での彼の依頼です。
 「わかった、ところで、手紙に付いている付箋の番号は何だ?」。
 「許せない順!」、そんな言葉が返ってきました。

 ぼく宛の手紙の一節です。
 
 「もし夫婦で、自分の夫や妻が無実なのに『殺人』の嫌疑をうけたら、みんなどうするだろう? 目の色を変えて、何とか、その嫌疑を晴らそうとするだろう。無実・無罪が確定するまで戦うだろう。
 俺にとっては、「塾と指導」は『最愛の相手』だ、これ以上ない相方だ。20年以上力を合わせて苦労を共にしてきた。一心同体だ。
 二人で築き上げて来たものが、云われもない汚泥にまみれ、「ぼろ切れ」になるなんて許せない。「妻」の命が奪われようとしているんだ。黙って指をくわえている奴はいない。守るのは当たり前だ。
半生をかけて探し求めてきた。双葉で芽生え、日々愛情をかけて、たいせつに育ててきた。生命の糧だ。生きがいだ。やっと実をつけはじめた。努力にこたえてくれ、毎年収穫の喜びに浸ってきた。それがゼロだ。苦労が水の泡だ

 俺にとって、それほど大切なものが犠牲にされねばならなかった理由は、なんだと思う? 
 「子どもの窃盗」の隠蔽のためだ。つまらん体裁、見栄のためだ。話にならない
 「『隠ぺいに走る前の彼ら』に俺が抱いていた」のと同じ信頼感があれば、「姑息な策略を弄さず、正直に打ち明けるという正常な感覚」があれば、もっと「簡単に、さわやかに」、「罪を犯した子どもの成長の肥し」にさえ、なるはずだった。保護者と教師の相互の信頼感がなければ、そもそも指導や教育は成立しない。彼らは教職だ。これを見たら、学校教育が大きな問題点を、今抱えていることが、分かるだろう。
 「生きがい」にし、喜びをかみしめてこられたものを「踏みつぶされた」。「聖域」に土足で上がられた。何度言云っても云い足りない。

 子どもの「窃盗」の件を云えない(謝れない)くらいなら、まだがまんもする。だが、人間としての、最低限のルールは守れ。「想い出の品、かけがえのないもの」を盗んで迷惑をかけた相手に、なお隠ぺいの「目くらまし」のためだけに罪を被せるのか・・・。
 それも、「自分の同僚も苦しんでいた卑怯な策略」を、その同じ策略を、曲がりなりにも2年間世話になった相手に仕掛けるか? こんなことがあっていいのか。
 二人であれば、「彼ら」のように口裏を合わせて「隠蔽工作」もできるが、俺はそうはいかない。「妻」は、無実の弁解ができないのだ。俺までだまっていれば、お人好しで無関心な世間は、やつらの云うがままだ。そんなばかなことがあってはならない!
 
水谷からの手紙① 
「『怖い』とゆうてる」―捏造の詳細
 まず、封筒に入っていた「1番の番号」が付いていた手紙です。

    玉川 共行 様

 挨拶の言葉は省略です。その理由は、よくおわかりのことと存じます。
 良心は痛みませんか? それとも、「そんなことは、構っていられない」人なのでしょうか? 
今回あなた方二人の仕組んだ一連の企みの解明には、年を重ねたせいか、かなり時間がかかりました。
ぼくの従来の経験値から想定される結論を、はるかに超える驚きの結果だったからです。
「アガサ・クリスティの作品名」のような事態がまず驚きでしたし、追求し明らかになった策謀の卑劣さと、企てた犯人が教職にあり、しかも共謀であったことが理解を超えていました。推理を重ね、関係者の行動パターンを読み、時々の反応と会話の応答を考え合わせて全容が明らかになるにつれ、「こんなことがあるのか」、「こんなことをできる人間がいるのか」と空恐ろしくなりました。
「できる」とは、ぼくが推理解明できたように、「あなた方の能力を認めたのではなく、一般社会のルールから、そして世間の一般倫理からあまりにも逸脱している事例だから」です。
 「人を人とも思わない」行動様態が腹立たしく、「目には目を」と、あなた方が「音声捏造データ」を拡散したように、あなた方の職場の同僚・関係先にすべて直接公開することも考えました。特に、同種の事件が過去にあった職場なら、その信憑性は絶大です。しかし、あなた方とちがって、ぼくは自制しました
 なぜだと思いますか? 
「人間」だからです。あなたたちの生計の資、収入も含めて、生活の基盤さえ奪ってしまうことになるからです。「やって良いことと悪いこと」があるからです。「そこを超えてしまうと、人間じゃない」という限度があるからです

 ぼくたちは人間です。そして、ぼくは男です。我慢しなければいけない、そして超えてはいけない法があるからです。
 今までの日本の男なら、まず、こんな卑劣なことはしません。いや、卑劣さが限度を超えているので、頭にも浮かばないでしょう。たとえ浮かんでも「心のストップ」がかかります。
 男の『恥』だからです。そういう男でなければ、世間の多くの人からは、男の風上にも「風下!」にもおけないやつだと、見られるからです。ハレンチ極まりなく、「小さな窃盗事件の恥」どころではありません
 「過去に同僚が卑劣なやり口に困っていたこと」をよく知っている妻が、自分も同じことをしようと企めば、良識ある男は止めます。「そんな汚いことはやめとけ!」です。ところがあなたは、「協力(強力)タッグ」を組みました。「タブレット」という凶器を隠して。まさか教職である二人が、「嘘を云うはずはない」と最後まで、周囲の「お人よし」のみなさんは騙されました。

 音声データにもこだわり、一月に入ってからも未だ継続録音しましたね。「捏造データ」の最後の仕上げに、「怖いとゆうてる」事件(?)の音声を収録しなければならなかった。偽りの「学習相談?」ですよ。アポまで取って、反応を予測する台詞まで考慮に入れて・・・。みんなが塾をやめたから、あなた方の策略は一応成功です。しかし、それによってあなた方の人間的価値は地に落ちました
 「捏造」データを完成するには、何としても、ぼくが「殊勝に(?!)、お詫びをする」スタイルの「音声」を録音する必要があった。そうではないですか? どうして分かったか? ぼくも、そこが推理の最後のしあげでした。まず、「文句をいいに来ている」割には、とても嬉しそうでした。「思い通りの一節」が肉声録音できましたね。
 
 ぼくが、「お宅の子どもさんは、甘やかされてわがままだし、自分勝手だから、わざと距離を置いている」と云いましたね。ところが、あなたは「でも、怖いとゆうてるから」と「何度も」繰り返しました。
 おかしいですね。その繰り返しは? ぼくの答えを想定して、期待する文言を待っていました。
 「それじゃあ僕も気をつけるようにしますから、そう思われたら心外だから・・・」と云う会話でしたね。ぼくの観察と云い分は正しかったのに、遠慮して答えました。
 あなたは、それを聞いて「やったね!」というような感じで、嬉しそうに帰って行きました。欲しかったんですね。その返事が
 陰謀というのは、積み重ねれば積み重ねるほど、襤褸が出ます。不自然な兆候が現れます。あなたの奥さんが、子どもがやめてから、監視カメラがあるのも忘れて、、教室のドアをこそっと開けて、「カレンちゃんが、ほんとうにやめたかどうか」探りに来たのも、余計でした。世間をなめてはいけません。能力が高いのは、あなたたちだけではありません

 こういうストーリー考察・解明ができるから、ぼくも、子どもたちに「怖い」と云われます。しかし、子どもは幼い頃、そうした「天の声」や「神様の目」で善悪を覚えるのです。あなた方は、そういう先生にめぐりあえなかった。とても残念です
 ぼくの授業や指導を録音するなら、携帯端末での無断録音ではなく、正式に申し込んで、同意を得てください。そして、録音データを拡散するなら、あなた方が録音した、長期間・長時間の全部を、「TPOを明記して、前後の総ての文脈も含めて」流しなさい。「講義や指導を最初から終わりまで聞く子どもたちがよく理解してくれる」ように。大人の人たちにもよくわかるように、「悪意の切り貼りの捏造」ではなく、編集もせず、すべて流しなさい。そうすれば、講義や指導の心が、すべてわかります。塾の子どもたちは、そうして育ってくれました
 さて、あなたたちの夏から半年にわたっての一連の企て、「完全犯罪(?!)『子どもの窃盗の隠蔽』と、自分たちには一切非なく、『理不尽な(!)塾長のいる塾をやめるための証拠』」が、これで完成しました。
 しかし、奥さんが云った「塾をやめる理由」は、ほかの保護者が云った「捏造された、ぼくの人間性(!!)」にかかわる理由ではありません。「受験もしないし、経済的理由で」というものでした。あなた方の「策略(!)」は、ここでも「見え見え」です。
 さすがに、「捏造した理由」を自分も使うのは、「良心がとがめたのか?」、あるいは、「すぐ、あなた方と他の保護者の連携に疑念を抱き、ぼくに追求されることを警戒したのか」。こういう犯罪を企むくらいですから、おそらく後者でしょう。
 ちなみに、あなたたちが騙した保護者の皆さんは、「玉川さんの指示(!)と指揮(!)に、実に『忠実』でした。」あなた方の狙い通りに、捏造データにより「ぼくを極悪人(!)だ」と思い込みました。人が良くて、まさか「周りに、あなた方みたいな、詐欺師まがいの人がいる」とは、だれも思いません。こんな経験は、初めての人ばかりですから。ぼくも初めてです
 そして、落ち着きのない様子で動揺が見え見えの奥さんは、「ふつうなら二人に頭を下げさせなければならない」のに、弟の名前だけ言って、その頭を押さえて、ぼくに礼をするように仕向けました。その頭の中には、「彼の罪」が、しっかりしがみついていたはずです。声も、おそらく、後で自分が何を云ったか覚えていないだろうほど、あがっていました。
 こうした「何気ないしぐさや行動」に「心は現れてくる」のです。何気ないしぐさや行動が、事実と真実をすべて明らかにしてくれます
 証拠がない? 証拠は、あなたたちの心の中に、しっかり座っているでしょう。あなたたちは、まず、その心の声に耳を傾けるべきでした。

 奥さんには、別に手紙を送りますので、まず、あなたの行動からたどってみましょう。
 当初あなたの野外活動参加は稀でした。ですから、最初は、「長男の窃盗事件でほんとうに悩んでいた」妻の応援だったのでしょう。ところが後半から毎回参加しました。スポーツの指導で、本来、ほとんど休みがなかったはずですから、そうとうたいせつな理由があったはずです。活動理由は、自分たちの体裁や見栄のため、「自分たちに非がなく塾をやめるための画策」でした。捏造情報収集操作と他の保護者への「顔つなぎ」。さらに情報拡散の為。
 「毎回、具合が悪い」と姿を消す奥さんが、最初の方はともかく、秋ごろ、具合が悪い様子は見られませんでした。二上山の川で、子どもたちがパンニングをしていたとき、「姿を消して、戻ってこない!」奥さんのことを、ぼくが心配して訊ねると、あなたは、全然気にするふうもなく、平気で携帯をいじりながら、「大丈夫ですよ」と返答。
 おかしいでしょ。誰が考えても。もっと心配するでしょ、ふつうは? つまり、理由は他にあったからです

 こうして、あなた方は半年近くかけ、「徐々に保護者たちが僕に不信感を持つように仕向け、『悪意のもとに編集した捏造音声データという、とっておきの証拠』を使って、『人』を一人造りあげた」というわけです
 「ワオワオワオ、耳ダンボ」の大石君と保護者との後処理判断を材料にし、子どもたちに「『正直』や『誠実』という意味」について考えさせようとし、子どもたちに話している音声データ。それも、ぼくが「一生懸命力を入れれば入れるほど、あなたたちの策略には好都合」でした
 子どもの端末を通じて長期間・長時間録音しているので、音声データは山ほどありましたね、ぼくの肉声が。それを「こまめに」編集して、「とんでもない『人でなし』」に見せかける。そんなことが、よくできたものです。
 あなたたちがいつまでたっても「子どもの窃盗の白状(相談)をしない」ので、ぼくは次第に、その倫理観に不信感がつのり、「子どもたちに正義を教える」ために、「子どもたち自身の良心に訴えないといけない」と考えました
 みんなに「塾の教え」や、「悪事を隠すことで起きるからだへの悪影響」を教える話も、おそらく見事に「脅迫」のように編集されたでしょう。子どもたちは、「『ばれるはずのない事件』をどうしてぼくが知っているのか」と「動揺を浮かべたようす」が見られました。それが「『怖いとゆうた』顛末の最初のことば」ですね。
 それ以降は、あなたたちが、「ぼくが真相を把握しているかどうかの確認」情報を録り、その後、「自分たちに非が及ばないため」の捏造音声データ取得する「携帯」利用(かわいそうなことをしたらダメです)でした。
「子どもが『時間を気にしないような授業』をするため、携帯使用を禁止している」ので、「ばれるのが『怖い』」です。(追及はしませんでしたが、何度か子どもの携帯に信号音が入ることがありました。)


 「『怖い』とゆうてる」台詞は、あなた方が「音声捏造データ」を拡散したとき、タブレットに「僕の音声を盗聴取得した理由」にも使われたはずです。「『怖いとゆうてる』から調べた」。
 ふつうに考えたら、「ちょっとやりすぎちゃうん」と思えるのですが、「根回し」が済み、「人がよい人たち」は、見事にコロンとだまされました
 「盗聴のために携帯をもたせられる」。CIAですか? その時の子どもの気持ちは考えられないのですか?
 子どもに、そういう行動や精神負担がどれだけマイナスに作用するかに、思い至らないのですか? 「そういう周囲の行動が、子どもの判断基準や倫理観に、どれだけ大きく影響するか」分からないのですか? 事件の根も、結局そこにあると云うことが・・・。
 これは、今回、騙されてしまった保護者のみなさんにも訴えたいことですが、ぼくがこどもたちに、いいかげんな指導をしていて、金山君をはじめとする素晴らしい青年たちが育ちますか? それこそが指導の正しい結果ではないですか? あなた方の子どもたちは能力も高く、きちんと育ちませんでしたか

 「捏造データ」のようなセリフだけで、「ぼくのことを心配して涙を流してくれる」青年が育ちますか? 
 OBのお母さんたちも、話すとすぐわかってくれました。「そんなはずは、ぼくに限って絶対ない」と信じてくれているからです
 「肉声」だから無理もないとは思いますが、長年のあなたがたの子どもに対する指導と成長を考え判断し、「正直に、ぼくに確認と相談」はしてほしかった、そう思います。ぼくの不徳の致すところですが
 
 あなたたち以外の保護者には、「これをよく読んでほしい。バカじゃなければわかるはずだ」。心から、そう思います。

 玉川さん、こうしてあなた方の「行動解析」をしていると、「奥さんの勤務先多津美H小の捏造事件」も、「実は、『同僚が保護者にやられた』のではなく、あなた方が捏造したのではないか」とも、思えてきます。なぜか? 
 そういう事件に遭遇すれば、ふつうは「『してはいけないと云う方向』に行動がシフトする」、それが一般の「倫理観」「道徳意識」だからです

 あなた方に、今いちばん云いたいことは、「こうした音声データを捏造するアイデア・センス・努力・時間・能力を、どうして日ごろの『子育て』に傾注しないのか」、ということです。それが親でしょ? ほんとの親でしょ? 日々その「精力」を子どもたちの指導やしつけに傾注していれば、こんな問題は決して起こらなかったと思います。それが教育者でしょ
 「拾った金を食事代の足しにした」り、「借りた品物を返さない」、「バレなきゃ何をやってもよい」という、「小さな日ごろの倫理観のほころびでも、すべて子どもの脳に入力され、成長に影響するという、恐ろしさ」に思い至りませんか? 「やる前にわかる」のが、正しい倫理感です。それを教えていればエアガンはなくなりません。
 親の考えや行動が再生産されるのです教育はそれを防止するためにあります。それが教育の存在理由です。教育は、そこから始まります。(つづく


発想の転換が可能性を開く③

2018年03月10日 | 学ぶ

「シナリオ学習の報告―殺人犯はタブレット」は後半に掲載しています。「おもしろいですよ」。「じぶんからゆうてもうた、ごめん!」。

読解力を鍛える英英辞典の活用

 「わからない言葉の意味を調べるもの」。そうした感覚で辞典を利用するのが一般的ですが、ここでも「発想の転換」をすれば、生徒たちの語彙力の増強やセンス・読解力の向上に大きな成果が出る学習法があります。 
 英語の再学習を始めてから、主に英英辞典を利用していますが、OB生が英語にある程度慣れて、単語力もついてくると、どんどん英英辞典を利用するよう勧めます。
 英英辞典を引くことによって、「英語の言い回し」が少しずつ知らぬ間に脳内にインプットされていくという利点はもちろんなのですが、それに勝るとも劣らぬ利用法です。

 まず、英英辞典を開いてください。よほど英語に堪能な人でない限り、まだ知らない単語がたくさんあります。それらの英語の意味を読んで、逆にそれに当てはまる「日本語」をイメージしていく(させていく)読み方です。いわば「人間英和辞典」です
 たとえば、Oxford ADVANCED LEARNER‘S DICTIONARY でemotionless をひくと、not showing any emotionとあります。つまり、「感情を表さない」ということですから、訳語としては無感動・無表情・鉄面皮・ポーカーフェイスなど、微妙に意味が異なる日本語が浮かびます。その遊び(訓練)を進めるのです。英和辞典では出てこない、きらりと光る言葉が見つかる(考えつく)ことが、少なからずあります。
 これをロングマンやOxfordの学習者用の辞典で日々繰り返すと、子どもたちの使う言葉や解釈の言葉が、どんどん変わっていき、訳もシャープになります。中学初年度ではまだむずかしいのですが、団ではいつもお話ししている中一のH君は、例のLogan’s Choiceの講読でLONGMAN BASIC ENGLISH DICTIONARY をつかい、かなり成果を見せてくれるようになりました。英語に興味をいだくきっかけの一つになるかもしれません。「逆転の発想」です。
 

 もう一つ、「逆転の発想」を紹介します。団の子どもたちの指導方法です。
 「なぜ、人を殺してはいけないのですか」(ヒュー・ブラウン著 幻冬舎)に、こういう一節を見かけました。
 
 日本の学校では、すべて受験に向けて、ただ情報を詰め込むというか、丸暗記させることに力を注ぎます。そして試験のときに、それをもう一回吐き戻させるわけです。
 その教え方は、ちょっと間違っているのではないか、と思えてなりません。イギリスの学校では、子どもはまず自分で考えてみて、わからないところを先生に質問して教えてもらうのが、ふつうのやり方です。わからないまま丸暗記はありません。
(前記書p179~180・下線は南淵)
 
 団の指導方法と全く同じです。イギリスの方法をまねたわけではなく、ぼくが脳のはたらきについて調べ、「最も頭を働かせ鍛えられる方法のはずだ」と、開塾以来採用しています。自ら読み、自ら考えはじめる方法です。参考のために。

シナリオ学習の報告2―殺人犯はタブレット
テーマ1 悪人の中の善人を「殺す」しくみ
 どんな小説や映画の名作・大作・問題作であろうと、要約すれば、その内容は長くとも数行の文章で表せます。たとえば、ぼくがこれから親友Aからの手紙をヒントに、進めようとしている物語も、実に簡単な一文でおさまります。
 「子どもの窃盗事件の隠蔽工作が招いた、証拠なき殺人
 ぼくは先週、悪人の中に、善人がいれば、それがひとりであれば、時として「死に追い込まれる」、あるいは「殺される」、と述べました。この『殺される』は、口封じの為に「殺される」と云うより、「社会や世間に対する悲憤慷慨のために、簡単に言えば『生きているのが嫌になる』『絶望する』と云うことが起こりうる」と伝えたかったのです。殺したのはだれか?
 前回の「学生運動(?!この2つのマークがもっている意味は、経験者ならわかりますね。)」に対する質問もそうですが、「『社会人として社会で生きている』ぼくたちは、もっと『社会やその中で生きている(その中でしか生きられない)』という事実」にきちんと目を向け、「他人ごとでなく」「人まねではなく」、正しい判断や正直な意見の主張をすることをはじめなければいけないのではないか、怖がらずに「正しいことを見きわめ、正しいことが正しいといえるだけの『聡明さ』と『大きさ』」をもたなければならないのではないか

 社会で日々起きている事件も、新聞や雑誌の記事や主張を鵜呑みにするだけでは、ほんとうに正しいことは、ほとんどわかりません。テレビはその典型ですが、雑誌や新聞の主張にも、商業社会であるが故の、少なからず大衆に迎合する、つまり受け入れられやすい方向への阿り、傾斜が見られます。それらをそのまま信じる人、事情を知っているのに当然と聞き流す人、事情を知って悲憤慷慨する人、何も感じない人、さまざまです。しかし、「ほんとうはどうか」を知ろうとする姿勢は当然必要だし、その姿勢がないと、社会問題など、一向に解決しません。

 たとえば、教育界でも、テレビやマスコミで報道される『体罰』はほとんど全否定する論調が一般的ですが、その陰では、「きちんと子どもたちを育てたい・教育したいと思えば思うほど、そうせざるを得ないような現状」があり、現場では、「懊悩や煩悶があふれているのではないか」。「体罰(この一律の呼び方には、虫唾が走りますが)の必要性は、限りなく「正論」に近いのではないか。 
 「何でもかんでも、ひっくるめて『体罰』とくくってしまっている」が、アメリカでよく行われる「お尻ぺんぺん」なんか日本でやってみろ、「痴漢」や「愛撫」にまちがわれるやろ! Hなおじさんや! 暴力肯定するわけではないが、「それぞれの国の実情に応じた指導方法への議論を、もっともっと深めることが必要やろ」、そう思います。「何でもかんでも、馬鹿の一つ覚えで『体罰(?!)』や『パワハラ』と「ひとくくりにしない」心の広さや考え方でこそ、子どもたちとの心が通じ合える人間関係を築ける」と、日々小さな子どもたちと接しているぼくは思います。
 「子どもたちをひとりの人間として育てたい」、「バランス感覚や責任感のあるおとなに育って欲しい」という願いや思いが強ければ強いほど、指導は、やむを得ず「厳しい対応」にならざるを得ません。ニコニコでは済ませられないことが、日々いやというほど出てきます。特に、現状の子育て環境を見れば。「教条的な、中身のない、無責任な」指導法で、「群を抜ける若者」が育てられるか! オリンピック選手や有名スポーツ選手を見ろ!と思います。

 無責任に「オタマジャクシは、放っといてもカエルになるわ~」というような意識の低い、「ノー天気な先生の集まり」なら別ですが、良心的な先生、先生としての意識・理想や責任感が強ければ強いほど、そうなるでしょう。いや、そうならざるを得ないでしょう。
 そんな実情を一絡げで、「悪人の中の善人」まで悪人に仕立てあげ、抹殺し、「自分たちと同じ悪人ばかりの世の中」にしてしまってもいいのか? それが理想なのか? ただの無責任だろう?
 しかし、そういう主張や正論を表面化しようとすると、立場はもちろん、存在さえ危うくなるという状況が、世間ではあるのだろう。じゃあ、どうすればよいのか? 

 
教師であるぼくたちは、「バランス感覚や責任感のあるおとなに育って欲しい」という願いや思いをつらぬき、次世代の良心や責任感、能力・実行力に夢をかけることしかできません。そしてそれが「古来!」ぼくたち教師に課せられた大きな使命だろうと思います。「悪人の中の、善人をひとりずつ殺していってはいけない」、人がそんなふうに殺されてしまうことを許すわけにはいきません。
 さらに、その「『悪人に知らない間に荷担してしまう』ような世の中」になってはいけない、世間というものは、策略に、実にだまされやすい、「目くらまし」され、「善人に見える悪人のほうに、知らない間に荷担してしまっている」ことが、如何に多いか。これがテーマの一つです。
 ぼくは預かった子どもたちは、「正しいことや真実をきちんと見分ける子になってもらいたい」と、単刀直入(!)に、子どもたちにわかりやすく、日々指導を重ねています。彼らはきちんと聞いてくれ、みんな健やかに成長してくれました。

 ところが、「指導風景」を、悪意の捏造意図のもとに長期間携帯の端末を利用してタブレット経由で、多量に録音してデータを集め、故意に音声編集すれば、「無実の人」を「極悪人」に仕立て上げることも、すこぶる容易です。
 ふつうの人には、意図的であることなどまったくわかりません。正真正銘の本人の声ですから。   
 これは、馬鹿らしいほど、単純な理屈です。たとえば、「殺したのか!(あいつが!)なんて奴だ!」という大声を録音し、カッコ内の言葉を消去すれば、話し相手を強く責めているふうにしか聞こえません。「言いがかりをつけている言辞、とんでもないやつの音声データ」の完成です。
 聞いた人は、ものの見事に誤解するでしょう。あったはずの、その前後の文脈など出てきませんから、どんなに意味のあることを云っていても関係ないし、聞いた人は、まさかそんな(文脈)ものがあるとも思わないからです。音声データは「犯人の悪意のまま、その思いのまま」周囲に誤解され、当の本人は、そんなことをまったく知りませんから、弁解の余地さえありません。犯人の思うが儘です。
 データを4カ月、半年と長期間集め、こうした編集を重ねれば、何も知らない間に、善人も極悪人に「大へんし~ん!」です。「ほんとかよぉ、ひでえやつだな、あいつ」、というわけです。そんな卑劣な作意が、この世にあっていいのでしょうか! 恐ろしい話です。なお、この陰謀の詳細は、後日、「殺人犯はタブレット」本文内の「怖いとゆうてる」の章で紹介します。自らの友人が陥れられたタブレット犯罪を、あろうことか、今度は、自分たちの「犯行(!)」に悪用した事件の顛末です
 
 

テーマ2 子どもたちに何を教えるのか
 テーマ1の解説で、「子どもの窃盗事件の隠蔽工作が招いた、証拠なき殺人」と物語のストーリーを紹介しました。「小さな子ども窃盗事件の隠蔽工作」。
 これは現在の子どもの指導やしつけの上での、代表例です。「『犯人』に、またその犯行に、犯行が起きた原因に、きちんと目を留めず、「『建前』や『見栄』だけを考えた隠ぺい工作」で、自らが逃れることだけを考える保護者。そういう態度が「子育て」や「躾」に、どういう悪影響や取り返しのつかない災厄をもたらすか。「しつけ」や子育てが、どういう結果に終わるかなどにはとても考えが及ばず、その場をごまかすことしか考えない。それによって、子どもが犯した「小さな窃盗」をはるかに超える「大罪」を自らが犯していることに気づかない。
 それも三つの罪です。
 まず一つ目、子どもが「小さな罪」を犯したときに、今後それ以上の犯罪を犯さないような指導ができる機会を失っていること。二つ目、「子どもが犯した罪、またその理由や原因を考える機会を失ってしまっている」こと、それによって「自らの人間性の向上への機会も逸してしまっている」こと。三つ目、「被害を受けた相手に対するお詫びや礼儀を、全くわきまえていない」こと
 そういう感覚や視点をなくしてしまった「子育て」や「教育」の存在が、現状の混乱の「一助!」になってしまっていることが見えていない。この例は、「無責任にその本質を見逃されがちな」万引きや窃盗に対する考え方」への提案です。
 倫理観を身につけ(させ)、社会で生きていくルールを徹底すべき「子ども時代」。そこで何を教え、その思わぬ「犯行」や事件を、どう処理すべきかは、大きな問題です。今の社会問題に根付く「子育てにおける指導判断や倫理基準の誤謬あるいは責任逃れ」、その「覚醒」を図れる課題のひとつだと思います。これらの事件の当事者が、もし教職者であれば、なおさらです。

 まず、なにを教えるか?
 先人の教訓もさまざまあるでしょうが、僕が考える、子どもにも、親である自分にも、被害者をはじめとする周囲にも、カタストロフィーではなく、みんなにカタルシスをもたらす方法です
 親が(特に父親が!)犯行を犯した子どもにきちんと向かい、その非を諭し、「お父さんも品物をもって、一緒に相手にお詫びをするから、お前もきちんと、二度としない旨を伝え、心を込めて謝りなさい」。こういう行動をとって初めて、親子間でも親の権威や正しい愛情が担保され、子どもの犯行が、その子を一回り大きい子に育てる糧になります
 「子どもにかかわる人」・先生が、「こういう指導をできない、範を示せない」から、問題が多発すること、問題児が増える傾向への歯止めが利かないのです。これは「古い考え」でも、「道徳」でもなんでもありません。
 窃盗は泥棒です。こういう対応をするのが人間らしい社会の約束事です。「人間が生きていく上で守らなければならないルール」です
 こういう約束事を守れないで、いくら心身を鍛えるべくスポーツや運動をやらせても体は大きくなりますが、「スポーツの何たるか」など、決して分かりません。スポーツから本来学べる「スポーツマンシップ」や「ルール順守」、「相手に対するリスペクト精神」など、たいせつなことは一つも学べないでしょう。
 それじゃあ、スポーツマンの「着ぐるみ」です。心や中身のないスポーツです。ルールのないところにスポーツはありません。あるのは「犯罪」と「戦争」だけです。スポーツをやらせる意味は生きてきません。
 こういう処置が「心の弱さ」のためにできない(そんなことは本来あってはならないことですが、そういう心が次の犯罪を生むからです)場合、指導レベルはまったくちがいますが、次善の策は、その窃盗した品物に、本人と保護者両方の「お詫びの手紙」を添え、そおっと届けておくことです。おそらく、相手が日本人であれば(他国の習慣や倫理観はわかりませんので)ほとんど理解してもらえ、許してくれるはずです。犯罪には必ず相手がいるのですから、何よりもその相手に真摯に謝り、許しを乞う姿勢がたいせつです
 その次の策は、ただ品物だけを丁寧に包んで届けておく。「『倫理観に照らし合わせて、正しくふつうの人として理解される』のは、ここまで」だと思います。ぼくはそういう基準をもとに、子どもたちを指導しています
 ところが最近は、「まさか」と思うような、「一般常識をはるかに超える」事例が、同種の事件でも、後を絶ちません。「自分たちの立場・見え」を保持するために、「頬かむりする」ならまだましですが、その「罪」を「目くらまし」させ焦点をぼやけさせ、あらたに自らを正当化させるために、あくどい策略を重ねる。その愚かな行動によって、どれだけの人が迷惑をこうむるか、相手をどれだけ傷つけるかなど、全く考えない。さらにその作為に半年もの期間をかけ、信用させるべくデータを積み重ね、テレビ・ラジオ番組張りに編集製作する。そのうえ、それを周辺に拡散する

 みなさん。こう思いませんか?
 本来なら、それらの能力・実行力・「企画力!」・時間や観察力という、膨大なエネルギーを、その「些細な罪を犯した子ども」の「日ごろの指導やしつけ」に傾注すれば、そんな事態はおそらく起こらないだろう、そもそもの原因が消滅するはずだと。そうは考えませんか? こういう倫理観、規範意識の欠如が、子どもに浸潤します。子どもに移ります再生産です。子育てで怖いのはここです。親のその自覚の有無です
 こういう事態に遭遇するたびに、ぼくは昔被害にあった詐欺師や、今の「オレオレ詐欺」のことを思い出します。
 「どうして、そうした『恵まれた(!?)頭脳や労力』を、『自らの責任ある仕事』あるいは『社会』のために使わないのだろう」と嘆かわしくなるのです。そういう力を日ごろから正当に使っていれば、詐欺で儲けるより、はるかに素晴らしい収入を手にできるだろう。自らの子どもに傾注すれば、子どもはつまらない窃盗などせず、何の問題もなく、すくすく育つだろう!というわけです。
 こういう「問題個所」に介入でき、子どものころに是正できる可能性をもっているのは教育だけではありませんか? どうしてそういう視点をもてないのだろう
 こんな方向性が乱れた、「ほころびが見え始めた」社会で、「正しいことを正しい」と云える子どもに育つのか? 正しいことや正義を覚えられるのか。
 また、些細な窃盗であろうと、良心があるでしょうから、その澱を吐き出しておかないと、当の本人(子ども)は一生心の中に「闇」を抱え、生きていくことになります。それが人格や人生に及ぼす暗い影に考えが及ばないのか? そうした「『時代傾向』『時代背景の是非を問いたい」と考えています。
 

 この物語の事件はフィクションで、実在の人物事件とは何ら関係がありませんが、ぼく自身のささやかな体験でも、同種の問題事例は近年何度か耳にしました。
 物語の展開は初めての試みで、時間の足りなさ故に十分推敲できず、また稚拙さ故に、わかりにくいところもあるかもしれません。しかし、その中から「愚かな人間の倫理観の欠損とエゴが、『罪もない人(たち)』にどういう被害や災厄をもたらしたか」を感じとっていただければ、ぼくの後押しになり、また手紙をくれた友のためにも、これ以上喜ばしいことはありません
 卑劣な仕業がもたらした悲劇(悲喜劇)が次第に明らかになるとともに、教育界の問題点、学習や先生という存在・本質に対する問題意識が、新たに芽生えてくるであろうことを、心の底から期待しています。
 「見えなかった闇」に明かりを点すと現れる実態。それらを明らかにすることで、みなさんの「正義」はどう変化するのか? 軽佻浮薄な社会、「たいせつな次世代を育てるべき保護者と先生はどうあるべきか」。厳しく追及されるべきは何か?  
 これらの問いかけを、拙作の中からつかみ取っていただき、自らの周囲に存在する同種の事例やアイデアを、ぜひ、作品や論文のテーマとして取りあげていただけることを期待します。「教育環境」を少しでも良くする方向に導くには、現在最も待ち望まれる方法ではないでしょうか?

 また、この稚拙なぼくの物語のラストが悲劇になるか、ハッピーエンドで終わるか。それは、登場人物が今後どう動いてくれるかにかかっています。すべての登場人物の、「良心」と「正義感」・「倫理意識」を信じたいと思っています。登場人物がヒトとしての姿を正しく理解し、心底謝ることでしか、ハッピーエンドはありえません
 この世は、「人間社会」だからです。彼らが彼らの環境、「人間の社会」の中で「意識改革」しない限り、ぼくたちが信奉している「教育そのものが崩壊する社会」が現れることになります。信頼や人間関係が根底から崩れさるからです。信頼や「心と心が通じ合う人間関係」がなければ、教育は成立しません
 先生という職業、子どもを守るべき親という存在から良心や正義感・倫理意識が消え去れば、「人間を育てること」はできません。未来が脅かされます。
 こう書き続けていると、やはり、映画のためのシナリオに書きあげるのが、一番インパクトがあるかな、という気がしてきました。また勉強することにしましょう


シナリオ学習の報告ー殺人犯はタブレット

2018年03月03日 | 学ぶ

なお、今週は昔懐かしい子どもたちの写真を掲載しています。
抹殺された真実
 子どもたちの入試が終わったら落ち着ける、と思っていたのですが、いろいろ野暮用が降りかかり、気の休まる暇のない毎日でした。「年をとってきたんやから、もう、ええ加減にしてや、勘弁してよ」という感じです。一時中断していたシナリオの学習を始めようとしましたが、何かと気の散ることも多く・・・なかなか進みません。
 そんなとき届いた分厚い封筒。名前の横には、「抹殺された真実」と朱書されています。
 しばらく音沙汰のなかった高校時代の親友からでした。トーマス・マンが大好きで、『魔の山』・『トニオ・クレエゲル』・『ヴェニスに死す』・『ファウスト博士』等の読後感を、目を輝かせて述べる彼と、ドストエフスキーや芥川龍之介、カミュやサルトルを読んでいたぼくの、お互いにいつも「かみ合わない会話」をしていたあの頃が、懐かしく蘇ってきました。


 封を切ると、中にはぼく宛の手紙と、彼が知り合いに宛てたであろう、長文の手紙のコピーが入っていました。ぼく宛の手紙には、彼一流の冗句で、「黄昏を迎えた長い『三分の二』生(!)を振り返ってみても、こんな複雑な方程式が解けるのはキミくらいだろうから・・・」という、「身に余るお褒めの言葉」とともに、いかにも「今風」、理不尽なできごとの「概略」、長年の夢と思いと努力を込めた一途な取り組みの仕上げの時に受けた、「悪意」と「謀略」による冤罪の経緯、その無念さを告発すべく「抹殺された真実」が明快に記されていました。第三者のぼくが見ても、姑息な手段を使った、とんでもない「濡れ衣」です。
 何度も手紙を読み返し、事実関係を辿り、できごとの経緯の探索を進めてみると、「隠蔽体質がもたらした袋小路」「浅薄で陰険な情報操作」「弱者の仮面をつけた魔女」等々、さまざまなコピーで代表されるテーマが脳裏をよぎります。「軽薄短小」という四文字熟語で代表されてきた「現代社会の闇」をえぐるべく、シナリオや創作を修業中のぼくには、まさに「天啓」です。

エゴン・シーレ
 数十年前、写真に夢中になっていた頃、訓導を受けた深瀬(昌久)さんが、ぼくが訪れた原宿のマンションの一室で、「鴉」という、壁一面の彼の作品を背に、「・・・おい、どうしてオレを撮らないんだョ、今!」と酔っ払っていました。
 泥酔で首を前後に揺らしながら、「・・・キミはすごいよ、・・・エゴン・シーレだ。そうだ、エゴン・シーレだ・・・暴くんだよ、キミは。暴く・・・キミの写真はすごい。カルチャーショックなんか、もつ必要はまったくない・・・」。

 ぼくが雑誌で深瀬さんの写真を見て、「この人なら・・・」と、彼に写真を見てもらいたく、作品の提出に「カメラ毎日」のコンテストを選んだことがまちがいではなかった、深瀬さんもぼくの感覚を理解してくれたと感じた、うれしい瞬間でした。
 深瀬さんに連れられて行った新宿駅前のパブでのパーティには荒木経惟さんも、当時元気だった奥さんの洋子さんを連れて出席されていました。トイレで、偶々荒木さんと一緒になり、朝顔に並びながら、平凡パンチでの選考のお礼を云うと、「ああ、君かァ、おい、奥さんだろ、もっときれいに撮ってやれよ~」と笑いながら、注意されました。「真実を暴く写真」の想い出です。
 その後、故あってカメラを目指すことはできませんでしたが・・・。
 手紙をくれた彼も、小さいころから見ていた、ぼくの感覚がわかっていたのでしょう。助けてくれないか? という叫び声が聞こえるようでした。

潮解するナメクジ
 何が正しいか? 真実は? そして人間とは? 
 正義、善、良心、信頼・・・そういう、人として「かけがえのないもの」が、ことごとく、「悪意」や「欲望」という塩で、ナメクジのように汚らしく、潮解してしまわなければならない時代なのか・・・。
 「正しく、健やかに、清らかに」、かつてはそういう子が育ち、そういう子が集ったはずの学校・教育界も、欲望まみれのさまざまな陰謀と策略が渦巻き、ノイローゼや退職に追い込まれる事態も頻発するようになっているようです。考えたくはないことですが、「人としての正しい判断力」や「正邪の感覚」・「倫理観」が崩壊し、子どもと教師、親と子の愛情・先生と親の信頼関係なんか「そっちのけで」、世は曲がって曲がって進んでいるのではないか?
 「自分さえ良ければよい」。「バレなければ何をしても良い」。「拾ったものは私のもの、借りたものも私のもの」。「バレそうになったら、うまくごまかせばよい」。「自分が助かればよい、相手のことなんか『くそ食らえ』」。そういう社会になってしまったとすれば、今こそ警鐘を大きく鳴らすことが必要です

 手紙をくれた彼と同じく、塾を自営しているぼくは、かつて、ひとりの団員のお母さんに、学生運動のことを聞かれたことがあります。ぼくは、党派に属していたわけではなく、「若さゆえの許せない正義心」から、「何とか良い世の中を」と、デモの隅っこで理想と悲憤にもだえながら隊列を組んでいただけなのですが・・・。
 「・・・なんで学生運動やったんですか?・・・」。
 ぼくは一瞬、唖然としました。エッ?! 何でやった? なんでやって? 本気で云ってるんだろうか? この人は! 「当時は、みんな、世の中を何とかよくしたい、何とか良くなって欲しい」という、心の底からの願いと熱情からに決まっているじゃないか! 
 想像もできなくなっているんだな。これじゃあ、こんな感覚じゃあ、デモや運動で大けがをしたり、なくなったりした仲間たちはすくわれないなあ

 自分以外のこと、世の中のことなんか「他人事」で、「世の中を見る視点」なんか、ほとんどないんだな。デモで怪我でもしたら、「バッカじゃないの!?」になるんだろう、きっと・・・。「少しでも世の役に立って欲しい、そんな子を育てたい」と、本気で考えてる人はどれだけいるんだろう? ほとんどないんだろうな。
 そういう子が増えなければ、自分たちの願いも、理想も、よりよい世の中も、決して叶えられることはない、ということがわからないんだろうか? 「子や孫の時代の理想」ではなく、自分の日々の欲望や欲求だけで生きてる人が、ホントに多くなってるんだろう・・・
 以前にも書きましたが、何度考えても、ぼくの東京時代、若かりし頃、彼が今度連絡をくれたような、「禍々しい事態」に遭遇したことはありません。「ものごとは、もっとストレートで、澄明でわかりやすく、人として、仲間として手を添えられる、理解が整う」日常でした。ぼくがだまされてしまった「詐欺師のやりくち」でさえも・・・。
 心から謝りなさい・・・。「あやまれ!」。ぼくは彼を陥れた「闇」に、そう声をかけたくなりました

著作権フリー
 近年は、汚くて情けなくて、「たとえ指先でも触れたら汚れる」ようなことが多すぎる気がします。日本人か? 日本人のやることか? いや日本人に限らず、人間がやることか? 

 「自分さえ良ければよい」、「自分が助かればよい。そのためには、人のことなんか、『構ってられるか』」。そういう社会になってしまったのでしょうか? 華やかで清々しいオリンピックの陰で。
 さて、来週から掲載するストーリ―等は、手紙をくれた彼の体験・内容を元にしていますが、登場人物の名前・職業・地域等すべてフィクションで、ぼくのオリジナルの作品です。実在の人物・事件とは何ら関係がありません。今後シナリオになるか、小説(まがいのもの)になるかは、残された時間の有無・ぼくの能力次第です。
 なお、このストーリー・物語の展開等、すべてのアイデアを「著作権フリー」にします。お譲りします。作品化されても、ぼくは抗議もしませんし、賠償請求も一切しません。逆に、ぼくが先に作品化したからと云って、著作権の主張はやめてくださいよ、お願いしますよ(ははっ)。
 どうして著作権フリーなのか? 今こそ、こういう事態・世相について、みんなで問題意識を共有することが、もっとも必要だと思うからです。シナリオ化、小説化、テレビ・ラジオドラマ化・・・。すべてフリーです。みなさんの体験を元に、ストーリーをふくらませてください。特に教育界に籍を置く方・学校関係者には、教育・指導方法の改善や現場環境等の告発・問題意識喚起に格好のテーマだと思います
 「深瀬さんの写真」に対した「ぼくの感覚が未だずれていないとすれば」、まちがいなく問題作・良い作品になるはずです。現社会の暗部をあぶりだせるはずです。

殺人犯はタブレット
 ストーリータイトルは、「殺人犯はタブレット」。「え~っ、タブレットなんかで人を殺せるの?」。
 即答で、「殺せます」。いや、「殺されます」かもしれない。それほど人間社会は魑魅魍魎にあふれるようになりました。
 理由です。

 ここに、芥川龍之介の『羅生門』があります。中・高の国語の教科書には、かつて(今も?)必ずと云ってよいほど掲載されていた(る)短編で、今昔物語に材をとった作品です。内容は違いますが、黒澤明の映画のタイトルにもなりました。
 さびれてしまった平安京の羅生門で、置き捨てられた死体の髪の毛を、金(かね)に換えようと抜いている「老婆」と、それを見つけた「仕事にあぶれた下人」という、ギリギリの状況にいる人間の、「心の闇」を表現しようとしたものです。国文学者の三好行雄の解釈に、そのヒントがあります。
 
 彼ら(下人・老婆)は生きるためには仕方のない悪の中でおたがいの悪を許しあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容した世界である。エゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する(「現代日本文学大辞典」より)

 「悪を許容しあって、悪の中で平気で生きることができる人間」の中に、「善人」が「ひとり」紛れ込んだとすれば、その善人は、「自ら生命を絶つ」か、「悪の暴露を阻止するための陰謀で殺される」しかないのではないか。
 今昔物語の時代には未だ決して複雑ではなかった、「善悪の基準」は疾うに崩壊したのだろう・・・。善人の追放や抹殺を企む、善の仮面をかぶった魑魅魍魎が、ぼくたちの社会を席巻しはじめているのではないか? ぼくはそう考えました。
 そうであれば、「タブレットひとつ」で、善人は死にます。ストーリーや登場人物は来週から順次掲載する予定です。

「もっとも危ない」のは「人の心」
 このブログを始めたころ、ぼくはナイフ(肥後守)を子どもたち一人一人に渡すことについて、こう考えを述べました。(当ブログ2012年9月15日アップ分『つくらせズ 肥後守は凶器か道具か』参照)
 ナイフや刃物の取り扱いも子どもたちを育てるに当たって考えなければいけない、大きなテーマです。
 かつては小学校のクラスの男の子はほとんど全員が切り出しや肥後守をもっていました。
 鉛筆を削るのはもちろん、枝を切る、皮をはぐ、木を尖らす、どんな遊び道具をつくる際にも重宝しました。竹とんぼや弓矢、釣り竿、水でっぽうや杉でっぽうづくりの大切な道具でした。女の子の筆箱にさえ、小さな刃がついた鉛筆削りが入ってました。
 切り傷や擦り傷、当時はほとんど毎日です。当たり前でした。みんな気になりません。きれいな切り傷であれば二十分位ぎゅっと押さえておくと、傷跡はくっつき血も止まりました。時には化膿することもありましたが、身体はそういうとき、見事な回復力を発揮してくれました。
 放課後や休日、男の子たちは肥後の守を使って、雨の日は近所の軒下で、晴れた日はあぜ道の陽だまりで、竹とんぼや水鉄砲をつくります。作業は簡単ではありませんし、刃物の扱いが常に危険と隣り合わせなことは、今も昔も変わりません。ナイフを使うには細心の注意はらい、集中し続ける力が必要になってきます。
 稲刈りの鎌でもナイフでも、刃物は使ってはじめて力加減・威力・便利さや怖さが分かります。使ってみてはじめて、ふざけて使ったら危険だということも分かるのです。注意力や集中力も実際に使ってみないと身につきません。

 刃物を扱っていれば怪我をすることもあります。今のお父さん、おかあさんなら大騒ぎするかもしれません。しかし、怪我をしたぼくたちは、指先の痛みとともに、小さな傷とは比較にならないくらい大切なことも学びました。相手に対する痛みです。
 心配する母親の気持ちを想い、自分と同じ血が流れる仲間の姿が見えました。自らが感じる痛みと相手に対する思いやりは決して切り離すことはできません。 ゲームでコントローラーを通じて画面の相手をKOしても、「抹殺」しても、相手の「痛み」は分からず快感しかありません。こんな危険な育ち方はありません。 ナイフ事件で大騒ぎする人たちは、倒しても傷つけても殺しても「快感」しかないゲームに夢中になることの恐ろしさを、どうしてもっと強くアピールしないのでしょうか。ここでも「危険であることの誤解」がはじまっています。
 ニュースなどで見る事件が悲惨な結果になるのは、多くの場合、「ナイフ」や「包丁」を「道具」として実際に使った経験がない、身に及ぶ危険や怖さを知らないで育った場合ではないでしょうか。 使った経験がなければ、危険度や与えるダメージの大きさを想像することができません。自らの身に及ばない危険は危険ではありません。自らの身に及ばない危険ばかりで育っていれば本当の危険はわかりません。
 開塾以来、子どもたちにナイフを渡しつづけ、また毎年の稲刈りでもよく切れる鎌を使いますが、過ちはもちろん、怪我もほとんどありません。その成長ぶりを見ていると、経験を重ねれば、今の子どもたちも僕たちのころと変わらないことがよくわかります。
 ナイフは道具であり、使い方やルールは使ってこそ会得できます。小さな怪我が大きな過ちを未然に防ぎます。使ってみなければ使えるようにならないし、怖さや危なさもわかりません。
 ヒトが創造的になっていったのは、道具を使い、「つくる」という経験を重ねていったからではないでしょうか。僕たちと道具を切り離すことはできません。道具はいつまでも現れ続けます。そしてナイフに限らず、使う人の心を育てない限り、道具はいつでも凶器に変わります。 セルフコントロールできる人・信頼できる子どもたちを育てられない環境・育てていこうとしない社会ほど、未来のない、そして恐ろしい社会はありません。 何よりもたいせつなことは、危険な道具を危険と認識し、使い方や使い道をわきまえている子どもたちを育てる環境を整えることではないでしょうか

善悪の彼岸
 ここでは「切れば血が出るナイフとゲーム機で養われる『感覚』と『感性』発達のちがい」について述べていますが、この中に、意識せぬ間に、現在さらに社会に深く浸潤している、「自らを律する、セルフコントロールできる倫理観の喪失」という問題が隠れているのがわかりますか? ゲームへの欲求をセルフコントロールできる子どもがどれだけいるのか、近くにあるコントローラーを平気で無視できる小さい子は何人いるのか? よほど「保護者の意識の高い」家庭でない限り、歯止めがきかない、コントロールできない日常がつづきます。
 心の「限度」、自分を律する『ガードレール』ともいうべき支えが、決定的に崩れはじめています。突き究めるべきは、ナイフを持っていようと、「何を持っていようと、何を持っていまいと」、「いけないことはいけないし、やってはならないことはやってはならない」という心の「崩壊」への傾向に歯止めが効かなくなる問題です。

 悲観論ではありません。心から、みんなで、よりよい社会を、という切なる願いのもとでの発言であることを、ご理解ください。
 この一節は、すでに当時もぼくの目には見え始めていた、そういう傾向を危惧する意味を込めても、述べたものでした。この比喩が「ナイフとゲーム」という間は未だ良かったが、ゲームで育った子どもたちがおとなになって、心そのもの、善悪の理念や正邪の判断基準などさえ崩壊しつつある社会が現れつつあるのではないか。子どもだけではなく、そういう洗礼を受けたおとなが(も)増えてきているように思えます。まさに「善悪の彼岸」です。
 ゲームでいつでも「一人遊び」でき、「何不自由ない環境で育った人は、別に相手に遠慮したり、相手に思いやりをかけたり、気を遣ったりする必要はありません」。昨年『忖度』という言葉が時流に乗りましたが、そんなに遠くない未来には、おそらく「忖度」という気づかいも、忖度という言葉もなくなるでしょう。自分以外の生きている相手に対する気づかいや思いやりなど、気づかなくなり、次第に関係なくなるからです。
 昔、「日本沈没」という小説が映画化されましたが、あのときは日本列島でした。しかし、今は日本人としての『たしなみ』・『気づかい』や『思いやり』も、海の藻屑になりつつある、と感じている熟年者が、未だ日本列島にたくさん残っていることを信じたいものですね。


発想の転換が可能性を開く②

2018年02月24日 | 学ぶ

ミツバチは刺すやん!布袋さんー
 光は春めくも年齢は「黄昏・・・」、物思うことが多い年頃です・・・だから炬燵の上には、本が山積み・・・あっ、忘れるとこやった! 前川さん、ミツバチは刺すやんか! ほんまに、もう。
 ミツバチの「毒」のことを、先週お伝えしましたが、念のために調べました。また、「布袋さん」の「騙し」にあうところでした、ハハッ! 以下は、「自然界83の謎 地球が生き残るための知恵」春田俊郎著(PHP文庫)からの引用です。


 「ミツバチは機嫌のよいときと、悪いときがある。機嫌のよいときは、巣箱に近づいても決して刺されることもなく、無数のハタラキバチは、つぎからつぎへと蜜を運ぶのにいそがしく、近くに立っている人間などは見向きもしない」。ふむ、ふむ。なるほど、そうなんや、前川さん、そこそこ正しいなあ。

 ところが「・・・これに対して機嫌の悪いときは、巣から離れていても、むやみに人間を邪魔者あつかいにし、早くどこかに消えうせろといわんばかりに、顔のまわりをぶんぶんブンブンとうるさく群れ飛んで、騒ぎ立てる。巣箱の近くに近寄ると、いきなり数十匹のハチが襲いかかり、うまく逃げないとたちまち何カ所か刺されてしまう」。なんや~あぶない。「刺すやんけ、布袋さん!」というわけです。

 さらに、機嫌が悪くなる時期は、梅雨時らしく、雨が降り続くと蜜を集められず、子どもたちは大きくなる時なので蜜がたくさん必要になる、そこでイライラが始まるようです。あまりにもエサが少なくなると「間引き」も始まるとか、こういう知識が、子どもたちにハチ(昆虫)に興味をもたせる、よいヒントになります。今度、前川さんに教えてあげよう。知らんやろ、布袋さんやから。

立体授業の「きっかけづくり」と「企画実施」までのお手伝いをします
 この本は他にも、身近な動物のエピソードが満載です。
 子どもたちの「環境への興味」は、常識やありきたりの知識を覆すエピソードや、「ふだんよく見ていても、あまり知られていない」「成り立ちとしくみの開示」がきっかけになります。つまり、「知っているつもり」を「粉砕」したり、「奥行きの深さ」を教えたり、という指導からです。

 身近な対象は、当然「人間生活や暮らしと深く関わってきている」はずです。その対象の「新たな一面」を伝えることで、子どもたちの周囲を見る目が深く鋭くなります。その方法が『環覚』育成の基本になります。「環覚」が身につくことによって、周囲の事物に目を向ける回数が増えます

 当然、変化や推移に目が届くようになり、不思議や謎が生まれます。子どもの頃エジソンが『エングル先生に嫌われた質問』もそうした習慣から生まれたものでしょう。そしてそれらが深化・拡大・発展して、諸々の研究や大発見のきっかけにもなり得るのだと、ぼくは思います。


 また、その過程で、当然学習対象や学習事項に対する親近感・環覚が生まれ、「学ぶおもしろさ」を獲得しやすくなる。さらなる「学業や研究」のステージに向かう、というのが、本来望まれるべき学習の流れだと思います。

 掲示の、15才になったOBのお母さんからのメールは、そうした団で指導を受けてくれた「感覚」の一端を表しているのでしょう。「ちがいがわかる成長」と云うわけです。
 さて、こうした書籍によるエピソードの紹介や読書は、そのくりかえしによって、たとえばミツバチのような昆虫の学習でも「奥行き」が生まれ、「からだのしくみ」という受験学習のポイントだけではない「学習」が始まります


 春になって野外に出ると、タンポポやレンゲにとまるハチが唯の「刺すハチ」ではなく、少しずつ正体を現し身近になります。自らに近しい「動物の仲間」が増えていきます。「生態系のつながり」にも目が届きます。「新聞を丸めて追いかけるゴキブリ退治の経験」と大ちがいなのは、よくおわかりでしょう。

 そうした「日々の生活や暮らしの微妙な差」が、「環覚」のちがいを生み、やがて「知性」や「学体力」という大きなちがいに結果してくると云うわけです。気づかない、何気ないような「日々の環覚のトレーニング」が、こうした差に変わります


 先ほどのミツバチの「間引き」の指導の敷衍は、「間引く」ということばから「野菜の栽培」や「杉林の間伐」につながり、「口減らし」に波及し、そこから「飢餓問題」や「地球環境」に話を広げることもできるでしょう。つながりです。その指導内容の考察のきっかけも、元を辿れば、この「自然界83の謎」のような小冊子で可能だということです。

 指導者の能力(努力)やセンスで、「子どもたちの知識の総体」のボリュームが大きく変わります。そしてそれらは、その大きさゆえ、あちこちで学習対象同士の関連や類似・比較が生まれ、立体授業が成立します。立体授業では、学習対象の関連や奥行きについて、子どもたちの興味を引きそうな、また科目を問わず関連をできるだけ多く考えることから、「学ぶおもしろさ」が引き出せます。意外性のトリックです。


 ふつう「勉強」と云えば、イメージは、教科書に書いてある「学習事項」「学習内容」を教える、指導するというところにつきます。ところが、それらは本来、自然にあるもの・事例や事象の抽象(物)です。つまり学習のもっとも先を考えると、ヒトはすべて「自然にある『もの』や『こと』」から学習することをはじめました。行為や行動が「学習」でした。

 ところが、現在はそれらの「まとめ」や「概略」を文字面で学ぶことから学習は始まります。しばらく前までは、知らない間に、小さいころから触れたもの、身の回りにあったものも数多く学習できたはずです。「学習するもの」や「こと」は決して「抽象だけのものに終わらなかった」、もっと馴染みがあったと思われます。

 それらは「手に触れられた」こともあったし、「指の中で動いていた」だろうし、その対象を手にするまでに、さまざまな「やりとり」や「準備」もあったはずです。子どもたちの行動を見ていると、それらの感覚や行動を通じて親しみがわき、おもしろさが増し、集中力もアップしていきます。
 そして、その作業や遊びの間に構造やしくみの理解が行き届き、知識も定着します。お仕着せの観察や実験ではない近しさも生まれます。それは、かつてぼくたちが周囲の事物を「生きるための手がかりや技術や道具」として「取得」していく過程と同じはずです。「学習」とは本来そういうものだったのです
 つまり、今の学習は、「学習のほんの一部」であり、その「周囲にあった『遊び』や『ゆとり』が、ほとんど捨象されてしまったものである」ということです。そうした「学習に対する逆転の発想」からこそ、子どもたちの「学ぶおもしろさ」は生まれるものなのだ、ぼくはそう思っています。こうした発想から課外学習を企画し、立体授業を組み立てていくわけです。

 ちなみに、『自然界83の謎』の中からおもしろい話ができそうなエピソードをピックアップしてみると、「海―地球こそ水の星である」「ガ―電灯には集まるが、月へは向かわない」「ウサギ―太陽から命令される体毛変化」等々、たくさんあります。
 このような立体授業の企画内容やテキストづくり・実施方法等はご連絡をいただければ、ご相談の上、実際に実施までの指導・応援をします。田舎や街のあちこちで寺子屋をつくりましょう。新しい「夜明け前」です。


発想の転換が可能性を開く①

2018年02月17日 | 学ぶ

子どもたちの大きな可能性に、夢を!
 「子どもたちにとってのほんとうの教科書とは何か」というタイトルでブログアップをはじめて、6年経過しました。プロフィールにもあるように、何よりもまず、「子どもたちの受験(学習)=学習」という認識の『解体』を願って、また「現状の学習指導(法)に対する子どもたちと、周囲の「偏向」に対する疑念」からでした。
 当初、訪問は週数名だったのですが、最近では毎週450~500名の方々に読んでいただけるようになりました。ありがとうございます。ひとりの気楽さで、子どもたちの教育や学習指導(法)を自由に考え続けてきました。かなり効果のある方法も見つかり、理解者が増え、同じ思いを共有できるようになったのは心強い限りです。

 興味をもってご覧いただいているみなさまは、きっと、現状の教育や子育て・学習指導法に対する不安・不満・疑念・強い関心がある方、そして、それらの「より良き方法や方向性を模索していらっしゃる方」ばかりであろうと想像します。
 大手受験塾の、年間100万円以上というようなバカ高い授業料は払えないが、できれば中学受験をさせたいという方がいらっしゃるかもしれません。そうです、機会はもっと均等であるべきです。受験はしないが、子どもには「確かな学力」(ぼくはこの力を『学体力』と呼んでいます)をつけたいと考える方もたくさんいらっしゃるでしょう。そうです、「学体力」が一番大事です。
 また、逆に「指導する子には(受験)学力以上の力を」、と願う指導者もおられるかもしれません。あるいは勉強(学習)や学習指導法に悩んでいらっしゃるお父さん・お母さんも数え切れないと思います。
 以前、シリーズ(「夢の教科書を求めて」)が終わったら、「よほどの難関校でもない限り、家庭でも一日90分弱の勉強で中学受験にも対応できる(きちんとやれば一年でも十分)学習(法)を紹介する」とお約束しました。そう考えはじめた理由はふたつです。
 一つは、以前から多くの方にご指摘いただいていたことなのですが、地域性あるいはロケーションが不安で通塾させられないという意見、また通塾するのに不便だという意見が増えたからです。
 二つ目は以前も書きましたが、僕の願いである団で育ったOB諸君による、「100人の会」という組織をどうしても育てたい、団の指導法の正否を問いたいと考えました。それには指導の展開を大きく変える必要がある、という現実からです。より広く募らないとぼくの夢を、ぼくが考えるリミットまでに成就できない、というわけです。
 お約束に基づき、先の疑問及び要望について、また指導およびお問い合わせ方法等については、次週から順次ご案内します
 
 まず、
ミツバチの「毒」と心の「毒」
 母が幼稚園教諭をしていた関係で、ぼくは明日香村に出会いました。「立体授業」を十分機能させるには、「なじみのフィールド」が必要です。飛鳥は今、団の米づくりや土筆ハイクのフィールド、メインステージです。
 5才くらいだったと思うのですが、日曜出勤で、当時田んぼの真ん中にあった飛鳥幼稚園に同行しました。浮かぶのは、青空と白い雲を背景に、ミツバチがさかんに飛んでいたレンゲ畑でのワンシーン。

 一緒に遊んでいた幼稚園児のひとりが、「ミツバチは刺せへんねんで」とぼくに耳打ち。「えっ、ほんま?」。魚とりや川遊びはよく知っていたぼくも、蜂はまだ興味の対象外でした。アシナガバチには刺されたことがあり、痛いのはよく知っていましたが、「へえ、刺さないハチもいるんや~」と云うわけです。
 そうなると試してみたくなるのが「わんぱく」の常。おそるおそるミツバチをつかむと、瞬時の激痛。見事に一杯食わされました。それでも千切ったアロエを擦り付け、腫れた指のまま、みんなと夢中で遊んでいた想い出です。
 そのときのメンバーの顔もまったく思い出せないまま、ふと、「あの囁きは『いたずら心』からか、それとも『ただミツバチの知識を披露したかっただけか』」と、『ささやき犯人』のことが気になっていました。

 現在「田植え」や「タケノコ掘り」などでお世話になっている前川さん、応援してもらっている福田さんは母の教え子です。園卒業後数十年以上経った今でも、母に世話になったとぼくにも気を使っていただき、いつも感謝しています。
 年齢から云っても、そのときの「犯人!(ハハッ)」は、おそらく彼等の同級生グループのひとりだろう、と思っていたのですが、確認する機会がありませんでした。先週、「お世話になっているから」と、久しぶりに前川さんや福田さんと酒席をともにしたときのことです。
 「前川さん、前から気になってんねんけど、母親について幼稚園に行ったとき、『ミツバチは刺せへんでえ』っていわれて、きっちり痛い目にお~た(あった)ことあんね。おぼえてない? きれいにレンゲ咲いてたころやね・・・」。
 前川さんは鹿肉の鉄板焼きをほおばりながら、想い出を辿るように、「レンゲが咲いてたころなぁ・・・記憶にないなあ・・・せやけど、ミツバチは、こっちから行けへんかったら刺せへんねんで・・・」悪びれることなく、知識の披露。

 「・・・うん?!・・・それやん、そしたら前川さんやん!」とぼく。
 「そら、構いに行ったら刺すわ! ハハァ」と、いつもの調子でニコニコ。「布袋さん笑い?」です。
 「それ、ふつう先に云うやろ、『かもたら(構ったら)さされるで』って。オレ、そのときは、まだハチのこと知らんかったし・・・」と大笑い。
 というわけで、長年探していた犯人が、やっと見つかりました。いつも感じるのですが、心置きなく正面からぶつかることができる「清々しさ」・腹蔵ない人間関係は飛び切り美味い「酒の肴」です。感謝です。荒みきった心・ザラザラした心を、「刺さないミツバチ」が癒して、浄化してくれました。

ザラザラ
 つきあいも色々あります。「心あるやなしや」、「正邪の理解、あるやなしや」。いや今時に見られるようになった、心を経由しない浅い人間関係では、正邪の判断など余計なことかもしれません。だから、恥も外聞もなく真実の発覚を恐れて家宅侵入したり、手軽な電子機器で虚偽の情報を流したり、自分の罪をごまかすためだけに、無実の人を罪に陥れても平気な犯人が出てくるのでしょう。いくら邪悪な手段を使っても、真実はいつもひとつです。天網恢恢疎にして漏らさず。姑息な手段を使ったり、悪あがきををすればするほど、真実の露呈は早くなります。人の心にいる神様の目はごまかせません。犯罪の糊塗はさらに大きな犯罪を誘発し、後には引けなくなります。 
 表面だけの人間関係しか知らないで、「それ以上の心を遣う必要性」もなく育てば、「人の心の奥行きや深さ」を、信頼も、想像もできません。「関係の深さや心のつながり」というものが、よくわからなくなります。「刺さないミツバチ!」に出会ったことがないからです。写真で見て、刺されれば痛いことはよく知っている・・・しかし、生きて動いていることはわからない。「いきもの!」としての姿は見たことがない。テストには出てくるが、別によく見る必要はない。興味がないし、得にはならない…生きてても死んでても関係がない。問題はそこです。
 文字は読めるが文学鑑賞はできない。美しいものを知らない。受験で出てくるだけだから。知識だけで十分、それ以上のことは必要ない。関係あるところだけ読んでおこう。
 ぼくが今感じている『すさみ』や『ザラザラ』は、そのあたりに起因するのではないか?
 できの悪い政治家のように姑息な手段をとったり、詐欺師に「遜色ない行動やいいわけ」に終始したり・・・質の悪いシュミレーションプレーや反則逃れを探ったり・・・知力が高くて、文字も読めて問題の正解はわかっても、正しいことはわからない。心を忘れた受験に特化した指導や学習は、どんどん、自分だけ大事、心やヒトのことは考えない、そんな面倒なことは関係ない、という人間を育ててしまうのではないか? そうして育った感覚が、次の人を育てる環境にも蔓延すれば・・・先々の社会には大きな懸念が出てくるでしょう。

 怪物が受験をしたわけではありませんが、実は、みんなが怪物小説だと思っている「フランケンシュタイン」は、そうした人間の『心の闇』を抉った深い小説でもあります。国語の時間に子どもたちにも話してあげられる先生がひとりでも増えていくことをねがって、紹介しておきます。心のない解釈は「怪物フランケンシュタイン」をたくさん育てます
 ぼくたちが親としても社会人としても決して忘れてはならないことは、「ルール無視のプレーが悪しき伝統となる、次世代にも波及するということ」です。自分の子や孫の世界がそうなってしまう、ということです。子どもたちは目の前で、そのプレーを見ています。そのできごとや行動がインプットされた脳は、自分が死んでからも、子どもたちのなかで生きてます。その行動を左右します。それを忘れているのではないだろうか。そんな子育てで、いいのだろうか? それでスポーツマンシップや正邪の判断力が育つのか?
 「正邪の判断もできない、ルールを守らない子」が、社会生活をして相手や周囲に迷惑をかけてしまう責任はだれがとるのか? それらの事態を未然に防がなくてはならないのは誰か? 
 邪な政治家や、人の心を忘れた事件を批判するのなら、自らや周辺の日々の振る舞いにまず省察の目を向け、確かな判断を下せることが、事件や陰謀をなくす唯一最善の方法ではないか。それによって正しい判断がくだせるのではないか。改善できる道が開けるのではないか。それが子どもたちに範を示す姿勢ではないのか? それが一個人・市民としての責任と務めではないのか? 
 そうした行動や賢察が権力に対しても有効な攻撃手段となったし、「貧しくとも世界に誇れる近代化という夜明け」を成し遂げた、「日本人のたしなみとパワー」でもあったはずです。そして、今後も世界に誇れる国を維持するためのコンセンサスであるべきでしょう。
 「そんなことは関係ない」という「市民(無)意識」の人はいないと信じたいのですが、人によって、判断や、考え方や、おそらくものを考える深さもまったくちがうでしょう。しかし「建前ばかり」で推移する、よく見られるようになった「底の浅いつきあいや表面だけのコミュニケーション」では、「夜明けに向かう」どころか「闇夜に逆戻り」、「心を一つに」さえできません
 そういう世の中が希求されているのでしょうか? 疲れるだけで、心を許せる、人間らしいつながりが生まれにくいシュミレーションプレーが多いのは、時代の変化なのか、地域性なのか? それとも他に問題があるのか? 大学時代、神田や錦糸町・亀戸など、東京の下町で「明快に」過ごした際の、「裏表のない人間関係」や「目を見るだけで心が通じた」下町の人情を懐かしく思い出します。
 「建前だけの人間関係」は、時に、ミツバチが刺した「指の腫れ」どころではない、強毒を振りまきます。子どもたちには、建前ばかりの悪しき雰囲気は受け継いでもらいたくないものです。できるだけたくさんの、「きちんとした判断力」と「正直でまっすぐな心」を身につけた子どもたちに、ユルヌルや嘘や狡や手抜きのない世界を築きあげてほしいものです。
 さて、気を取り直して、夜明けを迎えましょう。未来を託せるように、子どもたちの学習問題の解決を図りましょう。

発想の転換から
 まず『勉強!』に対する発想の転換をはかってください。学習問題の解決・問題点の解消は考えているより、ずっと簡単です。考え方次第です

 従来から団OB諸君の中学進学実績、またOB教室を経た大学進学実績については、よくご紹介していますが、もう一度、掲示の実績を丁寧にご覧ください。そして次の1・2の二つの条件を考慮に入れて、その指導法の評価・判断をしてください
 
1 団は入塾に際して入塾テストや選抜は一切行っていません。子どもたちのほとんどが近隣の生野区・天王寺区等の公立小学校に通塾する、ごくふつうの子どもたちです

2 開塾から現在まで、そして小学生からOB教室大学受験生の指導まで、塾生の指導はすべてぼくひとりです。もちろん、大学受験ともなれば、すべての科目を国立難関大合格ラインまで指導することは不可能です。
 しかし、別掲のように難関大進学実績校に限らず、バラエティに富む進学校から難関大合格を果たしてくれました。これによって、個人個人が自らで学習を進めていく力・考える力、つまり揺るぎない『学体力』を身につけてくれたことが理解いただけるのではないでしょうか。
 この結果は、みなさんに学習問題について考えていただく、大きなきっかけになると思います。『学校は問わず』と云うことですから・・・。

 たとえば、進学先さえ気をつければ、大学受験は、一人でも乗り切れるということを暗示していませんか? それが『学体力』の基本です。本来、学習によって身につけるべきもの、目指すべきものは、いわゆる一般的に考えられている「学力(つまり、ほぼ=受験学力)」ではなく、「生きていくためには必須の学力」=「学体力」です。その力がついてこそ、ふだんの学習と学習指導も意味をもちます
 現状、学校や学習指導の場において、学力がそういうふうに意識されているでしょうか。最終的には、なにがしかの大学合格に集約する「目安」としてしか意識されていないでしょう。
 それでは、いつまで経っても学習が、受験学力判定の基準にはなっても、「生きていくには欠かせない学習」にはなり得ない。そして、その方向では、多くの子どもたちの「学習」という行動パターンの本来のモチベーションが機能しきれない、とぼくは考えています(このことについては、後日展開します)。

(受験)学力より学体力
 さてOB諸君の人としての成長ぶりによっても、ぼく自身が、「学力より学体力」という指導の有効性を年々確認しています。そのOB諸君の成長の経緯についはブログでも時折紹介していますので、ご存じの方もたくさんいらっしゃるかもしれません。

 指導はぼくひとりで行っています。ですから指導要領・指導内容をきちんと把握してさえいただければ、またその志と夢と心意気があれば、どこでも、たとえどんな田舎でも、どんな町でも、どんな組織でも、もちろん個人でも、指導展開も学習も十分可能だということが理解いただけるのではないでしょうか
 逆に、地方でこそ、名実ともに『草の根教育』ができます。まだ残っている自然環境をアドバンテージに、ブログでも紹介している、さらなる「立体授業」を取り入れることで、子どもたちは大きく飛躍するはずです
 受験も心配無用です。保護者との認識の共有で、いわゆる『勉強!』という認識の転換をはかり、日ごろから少し注意と工夫を重ねれば、せいぜい合計5000~10000円程度の市販の学習書(小学4~6年)と一日40~90分(団の予定では、日曜日は全休)の家庭学習で、子どもたちの学力は驚くほど伸びます。超難関校でもない限り、中学受験対応も十分可能です(掲示過去18年実績参照)。
 また中学受験を考えていない場合でも、中学進学後、また先々の学力の伸長を考えれば、小学校卒業時点で、難関中学に合格できるくらいの学力(学体力)を身につけておく方が、以降大学受験までの学習移行もスムーズに行えます

 これらの、「単に受験学力に終わらない自ら学びを進める力」、つまり『学体力』は、即座に身につくものではありません。子どもにもよりますが、ふつう半年から一年間を要します。しかし、いったんその力が身につけば、「中学進学以降のすべての学習」はほぼ独りで進みます。それが受験塾・受験指導で覚えた単なる(受験)学力とのちがいです
 みなさん、素晴らしい子どもたちと一緒に、まばゆい光を放つ大きな太陽を迎えましょう。
 日本中、田舎にも、紹介資料を抱えて応援に行きます(交通費・経費は「要負担」ですからね、ハハッ)。塾・小学校・自治体等、対象は問いません。連絡をください、協力します。
 一生を支配するのは(受験)学力ではなく、学体力=本物の学力です。発想の転換を。そして学体力を身につけるには、それ以前に自らの環境に気づく心、「環覚」の育成が欠かせません。
 それらが養成されないと、抽象学習に終わり、学体力を協力に補完する「学ぶおもしろさ」は生まれず、好奇心やモチベーションは機能しません。課外学習と立体授業はその仲介をします。次回は、そのことについてお話しします。


夢の教科書を求めて⑭

2018年02月10日 | 学ぶ

 DVDのカバーは再見してよかったもの。花マル二つ。初めて見たのでは「パッセンジャー」が花マル二つです。好評の名句選、残りも掲載。

光り輝くウンコ
 停滞感。鬱屈感。
 団を始めた時から感じているのですが、現在(いま)、この国は「二度目の夜明け前」ではないでしょうか? 未来志向や期待感が行き場を失い、それぞれの心の中に「とぐろを巻いたウンコ」のようにたまっていく…そう見えるのです。のっけから臭い話で恐縮ですが、お許しを…「光り輝くウンコ」を出せない「夜明け前」です。
 「新しい時代」や「夢のある未来」へ、というみんなの願望がある(とぼくは信じたい)のですが、「日々のささやかな幸福」にしか「目」と「思い」が届かなくなってしまっている…子どもは元気でかわいくて、ちょっとだけ(?)頭がよく、時にはバレーをしたり、ピアノを弾いてほしい。大きな夢なんか持たなくてもいいわ、私にはわからないから…。
 もし、そうであれば、とても残念です。日々の「ささやかな幸福」はとてもたいせつなものに違いありませんが、それだけでは「ふつうのウンコ」で、時代を変えるような「光り輝くウンコ」は出てきません。これらの感覚の定着が「夜明け前」の停滞の大きな原因なのでしょう

 ぼくは開塾以来、いつも、大きな可能性を秘めている子がたくさんいる、と信じて指導を重ねてきました。そして今もつづけています。最近は子どもたちがどんどん「小粒」になってきているような気がしています。
 うちの子は「元気で、毎日健康なウンコをしてくれればよい」と云う感覚の行く末は、自らと子どもの「小さなウンコ」に終始します。普通にしていれば、「ふつうのウンコ」は出るのですから、お互いに、それ以上楽なことはありません。しかしそれでは、「光り輝くウンコ」は出てきません
 一方で、何かを成し遂げたり、成就したりするためには、それに応じた義務や努力が欠かせません。その裏付けがなければ、かないません。つまり、能力の開花には、それに伴う本人と保護者の努力や鍛錬・研鑚が必要です。「ふつう」ではすみません

 ファインマンが未だ幼児用のハイチェアに座っているとき、サラリーマンだったお父さんが、どこかで古い「色つきのタイル」を手に入れてきて、ファインマンに青や白という色を意識して規則的に並べる「将棋倒し」の遊びをつづけさせました。
 お父さんは何気なくタイルをもって帰ってきたわけではないでしょう。「もって帰って、子どもとどうするか」というイメージを描いていたはずです。つまり、「光り輝くウンコ」を準備し始めたわけです。そしてウンコは、日々だからウンコです
 そのとき、それを見ていたお母さんは、小さいのだから、もっと自由に遊ばせてあげればと諭しますが、お父さんは数学の基礎であるパターンを教えるのだと云って、聞き入れません。「光り輝くウンコ」への誘いです。ここに「一緒にゲームをして、ただ遊ぶだけの子育て」との大きな違いがあります。そして数学から始めても、その後ファインマンは天才物理学者です。要は「きっかけ」です。

 ファインマンのお母さんは、その頃その努力の結果が未知数、当然、やがて天才中の天才と云われる結果が出ることなど思いもよりませんから、「自由に遊ばせてあげなさい」と思ったのでしょう。想像力の差です。
 ここで、もしお父さんがお母さんの「助言(?!)」を素直に(?)聞き入れ、それ以降も続く、さまざまなファインマンとの『遊び(?)』をつづけなければ、彼は、おそらく「天才中の天才」には変身できなかったでしょう。
 こうした能力の開発、脳がもつ可塑性については、後でも紹介する「天才を考察する」(デイビッド・シェンク著 中島由華訳 早川書房)に、多くの天才の成長の例が紹介されています。

 ファインマンのお父さんが、多くのお父さん・お母さんとちがうのは、ただ「既製の商品」やゲームソフトを買ってきて一緒に遊ぶという「子守スタイル」「ゲーム相手」ではなくて、「一緒にする行動の裏で、子どものことを思い、その将来を願い、自らも夢見、おもしろく遊べる、また行動できる『共有(共通)体験』とそのしくみを考えつづけたこと」です。「子どもを科学者にするんだ」という夢とともに
 ファインマンのお父さんとは比ぶべくもありませんが、20数年前ファインマンのお父さんのことをまだ存じ上げる(ハッ)前から、その方法論で指導を志していました。ファインマンのお父さんを知ってから(もちろん本の世界で)『我が意を得たり』と、また「専門家ではなく素人がなしえたこと」という「応援メッセージ」をもらったというわけです。素人ですから、ぼくに限らず、だれにでも可能です。あとは「志」と「光り輝くウンコ」です。

 世間では子どもが拒否することもあり勝ちですが、ファインマンは、そうした「お父さんのかかわり」を拒否するのではなく、「おもしろくてしかたがなかった」と回想しています。「無理矢理」、「お仕着せ」ではなく、「子どもの関心・子どものようすをよく観察しながら、考えながら相手を務めていた」というわけですそのあとから「学習(勉強)」はついてきます。モチベーションを倍加されて
 逆に考えれば、このようにふつうのお父さん・お母さんも子どものことをよく見、よく考え(つづけ)ることで天才が開花する可能性があると云うことです。そのあたりのしくみは、先の「天才を考察する」をごらんください。

 仲良くランチやディナー、遊園地という日々も、それなりにすばらしいかもしれませんが、「両親がもっともっと子どもを大きくとらえ発想を広げることで、そしてその『発想のレベル』に応じて子どもたちの可能性も広がる」と、先の書籍に限らず、日々指導による子どもの変化具合・柔軟性を見て、ぼくは感じ、考えるようになりました。

 ウンコには「光るウンコ」と「ただのウンコ」があります。ファインマンのお父さんのウンコは、天才を育てる、「立派な光るウンコ」でした。
 この、「親としての大きな差」をぼくは、自らの子育てがほぼ終わってから悟ったわけで、ものすごく残念で、そして子どもたちに申し訳ない気持ちで一杯になります。「彼らの能力の可能性がわかっていて、それを活かせなかった悔しさ」です。子どもに夢を抱く、あるいは大きな可能性の開花を願う、小さな子どもたちを育てている保護者のみなさんにお伝えしたいことです


 子どもは「信じられないくらい大きな可能性を秘めている」ことに、ぜひもう一度、目を向けてください。生まれた時のことを思い浮かべてください。出せるものが「光り輝くウンコ」のはずなのに、「ただのウンコ」ばかりでは、先人の誰かが云ったように、人間はただの『くそ袋』ではありませんか。それでは、あまりにも寂しいし、哀しい
 ある程度年を経ると、夢や未来という「光るウンコ」を出したり、そのことを口にするのが恥ずかしくもなるようです。ウンコはウンコだから出したくない、みっともないから見られたくない…そういう恥ずかしがりの人が多いかもしれません。
 なかには、もう『ウンコの出ない人』もいるかもしれません。しかし停滞や便秘は、精神的にも肉体的にもよくありません。ぼくたちの夜明けには、夢や未来という栄養を十分からだに供給できた、元気な「光り輝くウンコ」が欠かせません。

「通じ」の悪い場合
 ところで、ウンコが出ないのは、きっと、『ウンコのもとになる』栄養豊富な本を読まないからではないでしょうか。どんな本か?
 まず、古い本棚にあった一冊。「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」(マークス寿子著 草思社)。アマゾンのレビューを見てみると、案の定というか、評価が極端に分かれていて、情けないほど(!)おもしろい。ほとんどみんな、「ボロクソ」です。
 なかには、「著者が貴族と結婚していた」とか、「イギリスに住んでいる」とかの事実にまで、「情けなくも」噛みついているヒトもいます。「あんたは狂犬病か?」という感じです。

 そんなことは内容や評価とは全く関係ありません。自らと自らの国の現状を正視すること。よく見てよく考えること。それでなければ何にも始まらないし、どこへも進めません。数十年「日本だけで」生きてきて、「巷」をあちこち渡り歩いて、ぼくに見えてきた現実(現在)を、この本は見事に喝破しています
 件のレビュアーに云いたいのは、「云われる前に気づきなさい、だから云われるんだろ」という一言です。まず、虚心に目を向け、そこから出発すべきです。向上や進歩・反撃はすべて、「冷静に観察すること」から始まります。先のレビュアーは「誤字だらけ、文法めちゃくちゃのレビュー」を、「まず恥ずかしいと思う」心が先です。日本の言語です。そうでないと「日本の云々」は云えないはずです。だから云われるのです
 さて、「フワフワ~」の見出しを一部紹介すると、「食いものにされた福祉―厚生省の汚職事件」「中流意識と見せかけの豊かさ(これは章タイトル)」…この『見せかけの豊かさ』の意味が、現在では、もうすでに分からなくなってきているのでしょう(1997年8月初版)。
 さて、「伝統あっての流行―日本人に個性はあるのか」「文化の屋台骨はしつけ―まずは伝統を見直せ」「のぞき趣味の番組―ユーモア精神に反する」「人生にリプレイはない―日本の若者のゆくえ」…これくらいにします。

 いちいちもっともだと思いませんか? これらのひとつひとつは、今日本が抱えている問題点です。ある程度の年嵩の人がこれを見て、「なるほどな」と思わなかった(思えなかった)ら、日本が相当ひどい末期症状に入ってしまったな、それこそ日本ではない他国と、並べたくない「肩を並べてしまったな」との判断になるのではありませんか?
 「貴族」であろうと、「橋の下で寝起きするおじさん」が云おうと、正しいものは正しいし、まちがっているものはまちがっている。そこが原点です。まずそこから出発しないと、進歩も改善も改良もありえません、どこの国でも

 これらのレビューを見ていると、「あんたは新幹線に乗っているから…。それもグリーン車でしょ。鈍行の普通車のことはわからないでしょ。黙ってなさい」と云ってるようなものです。バカらしくて聞いていられない。
 「新幹線に乗っているからこそよくわかること」はあるし、「鈍行に乗っているから見えること」もあるし、「見なければならないこと」があります。また、見えなければ、乗った人の感想や観察をていねいに聞き取り考えること、鈍行に乗ることしかできなければ、逆に新幹線から見た鈍行の不便さや居心地の悪さをしっかり「想像」し、考え直し、改善を図るべきでしょう。
 現在は、「日本人としての誇りや自負など関係ない、あるいは考えない」という人も増えているように思いますが、ぼくは日本人としての矜持は人並み以上に持っています。だから決して「日本マゾヒスト(?!)」ではありません。悪いところは悪いし、良いところは良い。これらのレビューに書かれている「反論にもならない反論(?)」や「気づけない心」、島国根性(!)や「劣等感」丸出しなのが、腹立たしく、ほんとうに情けない。そこなんですよ、著者に指摘されているところは。

夜明け前
 「『自分たちの子育てや教育・指導を客観的にきちんと見ることなく過ごしているから、こういう指摘を受けてしまうのだ』という視点を、なぜもてないようになってしまったのか?」。 日本のモチベーションや活力は、本来そういうところ(気概)から生まれていたはずです。
 現在と似ていると(ぼくが勝手に)思っている江戸後期から明治維新の新時代に輩出した、「それぞれの(!)」グループのリーダーたちはみんな、伝統や歴史・文化、さらに新しい情報や文明を一生懸命消化し、「光り輝くウンコ」を出し続けたでしょう。
 「貴族」が云おうと、「すぐ入れ歯が外れる隣のご隠居さん」が云おうと、「良いものは良い」し「考えるべきものは考える」という視点をもたないと…素晴らしい未来や前進はありません。「しっかりしましょうね」、という思いでいっぱいです。あたりまえですが、世の中のことは自分のことだけ見ていては見えません。

 「光り輝くウンコ」を出すための本は他に、同著者では、「ふにゃふにゃになった日本人」(草思社)ですが、今読んでいる本で目先を変えるならば、先日も紹介した「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏 文春新書)も手ごろです。ただ、この本に書かれていることの実践は、その前段階として、もっと小さいころに、ぼくがいう「学体力」や「環覚」の育成を心がけておく必要があると思います(ファインマンの小さいころのように)。「さらなるファインマン」については、以前のブログ「ファインマンの父とエジソンの母」シリーズを、また「ファインマンさんは超天才」(C.サイクス著 大貫昌子訳 岩波現代文庫)が参考になります。また江戸時代から明治維新前後の欧米人の滞日記録に目を通してください。云っていることがよくわかると思います。

 「素晴らしい才能というのは、実は継続する努力だ」ということを先にも再確認しましたが、「『あの子は天才だから』という、本人も周囲も、その努力を放棄した、ありがちな子育て」が、「いかにまちがいであるか」を考察した「天才を考察する」(デイビッド・シェンク著 中島由華訳 早川書房)も、子どものしつけや教育を見直せる良い本だと思います。 この本を読めば、自分も子どもも、まだまだ「でっかい光り輝くウンコ」を生み出せる可能性があることが、よくわかります。特に若い人には。
 さて明治維新、「先の夜明け前」と「現在の夜明け前」では、何がちがうか。どうして「停滞の気運」から抜け出せないのか? 
 入試も一段落して、DVD「ディ・アフター・トゥモロー」を見直しているとき、思い至りました。ご存じの「地球温暖化による環境変化」を描いたパニック映画です。
 見ている途中、なぜか明治維新と、ぼくの曰く、現在の「夜明け前」の何がちがうのか、どこか違うのか。それが頭から消えません。「時代がちがう」では解決になりません。


 「ディ・アフタ~」は行動指針・行動選択の小さな差によって、多くの生命が失われ、あるいは助かってゆく。なるほど、そういうものかと思い、今こうしてパニック映画の極寒のシーンを見ているぼくたちの部屋は暖かく、凍死するわけではありません。いつでも画面を自由にコントロールできるリモコンを脇に、他人事を「鑑賞」している・・・そして「おもしろい」というわけです。しかし明治維新の夜明け前はそうではありません。
 生命のやりとりが人々の目前で起きたであろうし、刑死やさまざまな生命の消滅が、『画面』ではなく日常だったはずです。「極寒」を暖かい部屋で見ているのではなく、「身を切るような冷たさ」を肌で感じながら、実際にヒトが殺される(死ぬ)恐怖を体験しました。「明日しれぬ生命こそ現実のもの」だったわけです。
 それぞれがそういう現実を背負った、夜明け前の覚悟とパワーは尋常ではなかったでしょう。みんなが「光り輝くウンコ」を出せたのは、おそらく、そういう環境が大きな力として働いたからでしょう

 「寿命のあること」、「生命の限り」を忘れてしまったユルヌルが停滞の大きな原因であること。それとともに「光り輝くウンコ」が「ただのウンコ」になり、「くそ袋」になり・・・想像したくもないことですね。 
 その覚悟やパワーを少しでも取り戻そうと思えば、現在はイマジネーションしかありません。しかし、かけがえのないもの、人と人との信頼関係や敬意・愛・義理・責任・義務など、なくしてはならないものが薄くなり(そうではないですか?)、なくなりつつある今、何としても、その想像力を取り戻す必要があるようです。夜明け前


夢の教科書を求めて⑬

2018年02月03日 | 学ぶ

 先週「笑い転げた」と連絡をくれた同級生の要望に応えて、今週も卒業文集から「笑撃の名句選」のスライド残りも掲載しておきます。
云わずばおけまい
 「云わずにおくまい」でも「云わずにおけまい」でもありません。今日の話は、「云わずばおけまい」です。
 「本来なら」もっと真剣に取りあげられ、子育てや学習指導法検討の対象となり、参考図書になるべき(と考えます)本がここにあります。

 「本来なら」とカッコつきにしたのは、おそらく「より、売らんがため」、「目立たんがために」つけようとしたネーミングが仇になってしまった(だろう)からです。ひとつまちがえば「グズグズの環境をつくってしまう」、「正視することに対する躊躇」や「ユルヌルの環境を求めがちになってしまった現今の社会の精神性のゆえだろう」という意味です。
 「ほめると子どもはダメになる」(榎本博明著 新潮選書)。
 いずれにしろ、「正論でも、断言すると拒否感や敵をつくってしまう」、また「出る杭は打たれる」という反感を招く国民性のせいでしょう。このネーミングを「『ほめて育てる』子育ての嘘」や「ほめて育てた過誤」「褒められなければ死ねない」(笑い)くらいにしておけばよかったのかもしれません。

 ずいぶん昔になりますが、「うちのママは世界一」だの、「パパは何でも知っている」という「甘いタイトル」のアメリカ製ホームドラマが圧倒的な人気で迎えられたことがありました。毎週楽しみにしている家庭がたくさんあったはずです。当時、いかにも、それらが家庭や父親・母親の理想のようにとらえられ、あるべき家庭の姿と誤解されたゆえでしょう。
 戦後の混乱と自己否定の方向性は、日本の「味噌」も「糞」も、分別なく「ゴミ箱送り」に加速しました。何も知らないぼくたちの目の前でテレビから流れるそれらのシーンの数々は、自らや近所の家庭では「ありえない姿」でした。はたして、それがよかったのか? それでよかったのか?

 
 頑張れない、傷つきやすい、意志が弱い。生きる力に欠けた若者たちは、欧米流「ほめて育てる」思想の産物である。1990年代に流入した新しい教育論は、日本社会特有の「甘さ」と結びつき様々な歪みを引き起こした。「ほめても自己肯定感は育たない」「欧米の親はやさしい、は大誤解」「母性の暴走が弊害のもと」・・・臨床心理学データで欧米の真似ごとを一刀両断!
 (「ほめると子どもはダメになる」(榎本博明著 新潮選書より)
 
 前記書カバーのキャッチコピーです。新潮のセールスマンではありませんが、紹介しておきます。
 「ほめて育てる」指導を、「自らの実践経験や指導体験と照らし合わせず、右から左に、あるいは教条的に信奉する」指導は、百害あって一利なしです。学習指導法や子育ての今後の検討材料に加えてみてはいかがでしょう。

 現在の「子育て」の、そして子どもたちの「甘さ」や「ずるさ」を目にすると、そんな「剥製」の番組を見ていた、「頑固おやじ」や「よく観察していたのに知らんふりをして、さりげなく気を遣う」母ちゃんが多かった、当時の日本の貧しい家庭が、たとえそこに、北野武さんが「たけしくんハイ!」で、面白おかしく強調しているような親父やお袋がいたとしても、いかにも子どもが「夢」や「良心」や「思いやり」にあふれていた気がするのです
 小さな汚い家ばかり並んでいたそのころ、家が大きくても金持ちでも、「そのことだけ」を自慢にする子なんか、ほとんど見られませんでした、ぼくの周りでは・・・。周りのみんながうらやんだり、勝手に憧れたりすることはありましたが・・・。
 つまり、金持ちであろうと、貧乏人であろうとみんな、「そんなことを自慢にすること」が、「はしたないこと(!)」であり、「みっともないこと(!)」だと考えていた、知っていた、また教えられていた子が多かったのでしょう。「そんなことより、もっともっとたいせつなことがたくさんあること」が「わかっていた」わけです

 「街中のちょっとだけ大きい家より『大草原の小さな家』の方がどんなに良いか」、「『大きな心』や『大きな夢』の方がどんなに素晴らしいか」を、周囲の誰かに、あるいは、他の何かによってきっちり伝えられていたのだと思います
 ところが、大きくちがってきました、今は。
 「努力してまちがいを正したり、技術を高めたり、という日々のたいせつさや尊さ」を伝えても「私、そんなん、全然気にならんわ」と「高を括る(!)」ような子が、何か話題になれば、大きな家(?!)や家にあるもの、買ってもらったものを、ことあるごとに持ち出し、強調し、自慢する、という塩梅です。いずれも「飾り物」です。美しい心や正しい心以上にたいせつなものではありません。何がたいせつなのか? ほんとうに大切なものを、育てている人がわかっていない(考えていない)のでしょう。

 「怖い人」の前や「得をする人」の前ではおべっかを使ったり、よい子ぶったりして、それ以外、つまり「得にならない人」や「おとなしい友だち」の前では態度が豹変する、そういう「飾る」子、「たいせつなことを忘れた子」でよいのか? そういう「心を忘れた子育て」でよいのか? みなさんは、いかがですか?
 子どもたちのようすは、日ごろ言動をよく注意するとわかるはずです。それが見えないのか?「それでよい」と感じているのだろうか?
 「はしたないよ!」とすぐたしなめ、そんなことより、「大きな夢を描くことの方がいかに大切か」、「その夢をかなえるためには努力する(を続ける)ことがどれだけ大事か」などを、どうしてきちんと伝え続けないのか?
 時の言動に注意していると、子どもには、こんこんと説くべきことがたくさんあります。その務めを果たすことが、きちんとした親の責任であり、役割です。そして、それらを教えられている子どもたちが、ぼくが見ているかぎり、ちゃんと育っていきます(いきました)

 そういう指導ができないのは、「子どもを一人前に育てるには何がたいせつか」、「どうすればよいのか」を日々きちんと考えていない証ではないでしょうか。あるいは、そういう判断力を持ってない大人だと思われても仕方がありません。死ぬ前に、家は小さくとも、金はあってもなくても「うちのおやじは世界一」、「うちのお母んは世界一」と云われるような、「おとな」になりたいものです。

 さて、今年、あこがれの中学校に合格したN君とF君に、最後になる昨年の「稲刈り」の途次、
「N、人が、なんで生きてるのか、考えたことがあるか?」と問いかけました。甘やかされて育ってきた(ことがわかっていた)ので、試験を受ける前に、中学へ進む前に、ぜひ伝えておかなくては、と思ったのです
 しばらく考えていたN君は「・・・いや、わかりません・・・」。
 考えたこともなかったのでしょう。「Nなあ、人はな、一緒に生きてる周りの人を喜ばせるために生きてんねんで・・・。自分一人のためには絶対生きられへん・・・長い人生からの教訓や」。「君のお母さんも、おとうさんも、みんなそうなんやで・・・そういうこと考えられる人にならんとナ・・・なってや」。自らも反芻しながら、話しました。
 団から駅までの間のできごとです。ぼくと子どもたちの間では、短い時間ですが、時にこうした会話が続きます。こういう伝達も、お父さんやお母さんの理解と共感がなければ、うまくいきません。その時、同行されて話を聞いていた親御さんは、はたしてわかってくれたでしょうか。

「ねえ、ねえ、あのエアガンどこにあったの?」
 団では、子どもたちに元気よく「腕白遊び」をさせたいため、さまざまな遊びや取り組みを行います。渓流教室で毎年行う「射的大会」。釣り道具やアーミーナイフなどの景品を用意し、手作りの弓矢・吹き矢・パチンコなどを使って行う射的大会も、その「腕白遊び(!)」のひとつです。

 数年前、鶴橋駅近くの路上で、団で育った「レジェンド腕白」のひとりM君に遭遇(!)しました。4年生の時、魚釣りで川に行って釣りあげた魚をパチンコで撃って、「力も能力も勝っているものが逃げられない相手に危害を加えるなんて絶対やっちゃいけない。ルール違反だ(誤解を生まないように。逃げられる相手でもよくないことです)」と、こっぴどく叱られた「やんちゃ坊主」です。
 頭をきれいにセットし、きちんとスーツを着こなしています。就職して初任給をもらった旨、嬉しそうに教えてくれました。腕白当時の面影はまったくありません。はア、こうなるんや・・・。
 ひとしきり「思い出話」をした後、ふと思いついて、「M(彼の名)、お前、やんちゃしてたから、もう使てないエアガンもってるやろ?」とたずねると、「あります。あります」。
 「後輩に、渓流教室で使わせたいから貸してくれへんか」と云うと、「いいです、いいです。わかりました」。

 数日後、彼はきれいな箱入りの新品のエアガンをもってきてくれました。一週間コンビニでバイトしなければ買えないほど高価なものでした。「新しいやん、こんなんええんか?」とぼく
 「センセにお世話になったし、給料もらったし、良い記念です。後輩たちに勉強も遊びも頑張ってほしいし、プレゼントします。使ってください」。それから数年、毎年、そのエアガンの由来を子どもたちに伝え、楽しく、おもしろく射的大会を続けていました。
 ある年のこと。いつものように、優しい先輩OBの話を伝え、渓流教室の楽しいイメージを膨らませるために、教室の後ろに置いていたエアガンが、消えました
 ぼくはひとりで指導しているので、教室を空けるときがあります。その間子どもたちはひとりのときもあれば、数人でいるときもあります。それでもいつ消えたかは、想定がつくものです。


 あえて黙っていました。それから数日、教室に来たある団員が教室入るなり、教室に飾ってある古いスペイン銃のレプリカに触りながら、唐突に、「ぼく、この銃ほしくないねん・・・」。ぼく「・・・ん?!」。それでも子どもたちを疑いたくはありません。
 もし出来心で持って帰ってしまったとしても、そんな過ちを責めることはできません。低学年ではありがちなことです。しかし、親がそれを見のがしては話になりません。子どもにたいしても、迷惑をかけた相手に対しても、親は大きな責任があります。その後始末(責任の処理)の如何で、自分の子どもの人間性や社会的感覚・成長の方向が大きく変わってきます。「その子の人格を左右する」分岐点と云っても過言ではありません
 つまり両親は、子どもとともに自らの倫理感の確認をし、社会性を身につけ、子どもをより良き方向に導く絶好の機会です。

 かつてぼくの村には、乾物や日用品はもちろん、釣竿や空気銃の鉛の弾まで売っている「駄菓子屋?」がありました。子どもたちは乏しい小遣いを工面し、そこへメンコやビー玉を買いに行き、野辺や神社の境内・路地で腕白遊びをしていました。
 ある時、お金がなかった一人の子が5円のガムを数枚ポケットに入れてしまったのです。そのことを知ったお母さんがその子を連れて駄菓子屋まで行き、地面につくほど頭を下げて、横に並ぶ息子の頭を押さえながら、涙を流して何度も何度もお辞儀をしているのを見たことがあります。 
 小さな村、数十軒ですから、そんな話はたちまち知れ渡ります。しかし、そういう事件も含めて「人間社会らしい村」が成立していました。温かい血も流れていました。思いやりもありました。小さいころ、子どもたちはそうしたことに出会い、その様子を見て、心ならずもやってしまったことの責任と罪も覚えていきました


 「盗み」は家庭内の叱責で済む問題ではありません。被害を被る人がいるわけです。迷惑をかけてしまった相手がいます。
 それを忘れたり、その責任をどうするかを小さい間に教えておかなければ、正常な社会は成立しません。現状の多くの新聞ダネを見ればよくわかるのではないでしょうか。さらに責任を放棄し、放置すれば、そうした「倫理観」の欠如や乱れの底流が、やがて大きく社会構造を変えてしまうことになるでしょう。
 子どもたちを指導されている先生方にお尋ねしたいのですが、以前お伝えした、「ワオ!ワオ!ワオ!耳ダンボ~」もそうですが、こうした事例が多いのは、ぼくの近辺だけでしょうか? また、そういう時に、どう対処されているのでしょうか? そして、こうした事例が増加していくことについて、どう考えられているのでしょうか? 
 数十年の間に、これだけ社会構造や倫理が変わってしまっているのか、こうした底流が、どこでも一般的だとすれば、ものすごく先々が思いやられますね。

 ちなみに、スペイン銃のことに触れた子が、それ以後、団に友だち(!)と来たことがありました。
 「ねえ、ねえ、あのエアガン、どこにあったの? ねえ、どこにあったの?」と友だち。「ムニャ、ムニャ」と彼。「!!」とぼく。
 後輩に初任給で「飛び切り」のやさしさを見せてくれたOBのM君の思いも、温かい団の心のつながりも吹っ飛んでしまいました
 ぼくはその事件以降も、その子も含めた授業の度に、「人のものを黙って取ることはよくないこと」「ヒトのものを盗って自分は良くても、それをなくして困ったり、悲しんだりする人がいることがわからなければいけないこと」「過ちは誰にでもあることだから、間違ったと思ったら正直に謝ること」「人間は心底悪い人はいないと思うから、悪いことを認めない、また謝っておかないと、そのことで心の底に澱がたまり、性格や人相まで変わってしまうこと」「嘘や罪を隠すために使わなければいけないのは交感神経で、嘘をつき続けることで交感神経の緊張が続き、身体も不調になってしまうこと」等々、みんなを前に特定せず諭し続けました。機会がある度に、保護者に匂わせ続けましたが、動揺が見えても、「なしのつぶて」でした。そういう感覚で、子どもはちゃんと育ちますか? 責任は持てますか? 
 「ワオ!ワオ!ワオ!耳ダンボ」に続く、「なしのつぶて」の哀感です。
貴乃花元理事とサッカー
 「数十年前までの姿がすべてよい」という気は毛頭ありませんが、年末から続いている大相撲界の「トラブル(?)」での貴乃花元理事の主張を忖度すると、日本古来の精神性と歴史を内包している相撲道の伝統をいかに存続させていくか、という熱い思いが見えてきます。
 彼の方法は賛否両論でしょうが、日本古来の神事であるべき相撲が、ただの「プロ格闘技集団」に堕する姿を見ておけないのでしょう。「強ければ何でもよい」、「勝てばよい」。
 そのためには「かちあげ」とはとても云えない「ブレンバスター」や「ひじうち」、パンチまがいの「張り手」でひるませ(張り手は一瞬「意識が飛ぶ」、と聞いたことがあります)、美しくない「振る舞い」や勝ち方をする横綱。
 腹が立てば、負けが決まった相手を土俵外まで吹っ飛ばしたサッカーが好きだった元横綱。見方によれば、「相撲道」とその精神性が堕落していく過程だといえます。

 「伝統」は姿かたちだけではありません。精神性も含めて残していく努力をしないと、伝統は「まったく別もの」に変身してしまいます。「伝統」が伝統ではなくなります。
 日本が独自に持っていた(だから、世界中に「それぞれの国が存在する意味と価値」が生まれます)美しさも規律も精神性も見られなくなった相撲道など、世界から賞賛され、たいせつにされる道理はありません。存続させる意味はありません。
 そういう伝統や精神性にどんどんひびが入って、壊れていく過程を、ぼくたちの時代は見ているような気がします。「よいものを残しておこう」とするのは当たり前です。「貴乃花、頑張れ」です。

 ところで、ぼくはサッカーの試合も見て、もちろん日本代表を応援しますが、いつも、いつまでたってもすっきりと腑に落ちない、なにか「カスのようなもの」が心に残ります。
 何だろうか、と考えたのですが、あの接触プレーでのファウルをもらう、「倒れる姿」だとわかりました。それほど強く押されたわけでもない(と思えるときが多い)し、脚が少し接触しただけでも倒れる姿が、ぼくの中のスポーツマインドにフィットしないのです。
 メキシコオリンピックで3位になったサッカー(1968年)が、今の隆盛を思うと信じられないくらい長い間ポピュラーになれなかった(Jリーグ発足が1993年)のは、何か、そうしたプレーやルールが日本人の心に残る精神性と相いれない部分もあったのではないかと感じています。さすれば、日本人の心性も最近は変わってきたのかもしれません。


 いずれにしろ、サッカーの人気度や台頭が、今回の日本古来の相撲道の問題と相対して見えるのは僕だけでしょうか。それらの時代の変遷がよいか悪いか、是非は歴史にゆだねるとしても、それぞれの国の残しておくべき文化や伝統は、例えばクジラやイルカの問題も含めてしっかり考え、子どもたちに伝えていかなくてはならない課題だと思っています。
 補足。サッカーの台頭により、当時卒業式や諸々の機会にあれほど受け入れられがたかった国歌の斉唱への抵抗が一般的に激減したように見えるのは、どの国も国歌を厳粛に歌う、サッカーのオープニングセレモニーの力でしょう。 国歌は国歌。


夢の教科書を求めて ⑫

2018年01月27日 | 学ぶ

 今回は、おもしろすぎる中学校時代の友、孝ちゃんと卒業文集の傑作集(写真紹介)です。ホンマ、なんちゅう奴らや。
 今週のイラストは、いつもの「コピーしてそのまま使えるかわいいカットイラスト2000」(亀山利明著・日本文芸社)より、です。

「孝ちゃん」と「カワイのカーちゃん」
 子どもたちの入試が一段落して、少しゆっくりできる時期です。
 中学時代の「やんちゃ友だち」の孝ちゃんとの約束で、旧交を温めることになりました。「友達」は、なぜか「伝説の人」が多く、孝ちゃんもそのひとりです。
 「元」消防署員。時々「金の腕輪」や「金の鎖のネックレス」をしています。やんちゃですが、「堅気(!)」です。怖くはありません。
 田舎の消防署に勤めていた頃は暇だったみたいで、「消防署の隣の空き地で畑を作り、毎日野菜を育てていました」。「火事がないので、代わりに、畑に水をまいていた(!)」というわけです。もちろん、勤務中です。

 中学時代、30分に一本・単線のK鉄に乗って、越境していたぼくの生家まで遊びに来て、近くの山で一緒に「空気銃を撃った仲」です。ホントです。数十年前、田舎には「中折れスプリング式の空気銃」があることが珍しくなく、やんちゃ坊主たちは、「ぱかん、ぱかん」撃ちまくっていました。 
 もちろん、そのための怪我も珍しくなく、孝ちゃんは誤って友だちに手を撃たれたようだし、ぼくも中折れ式の折れた部分に指を挟んでいて、引き金をひいてしまい、指の先がつぶれたことがありました。

 田舎だから医者が少ないので、しっかりタオルを巻き、痛みで気が遠くなりそうになりながら、3kmぐらい先の「内科(!)エノモト医院」まで歩いて行きました。田舎の子は怪我するたびに強くなっていきました。強くならざるを得なかったのです
 あるとき、「『空気銃がゴロゴロあった』のは、ぼくたちの田舎だけだったのか」と不思議に思い、偶々乗りあわせて話が弾んでいた、九州出身だという同い年ぐらいのタクシーの運転手さんに尋ねました。
 「運転手さん、子どもの頃、空気銃で遊んだことない?」
 「あるある、撃ちまくってた・・・かすみ網、鳥もち、パチンコ・・・スズメ取り放題、カラス撃ち放題・・・」と、ぶっそーな返事が返ってきました。そうなんや、やっぱり・・・
 
 孝ちゃんにはブログの原稿も時々送っているのですが、きちんとファイルして残してくれているような律儀なところもあります。
 久しぶりに孝ちゃんと遊べば、かつて、きれいな「女性たち」が、行く店々で「別れの予感」で出迎えてくれたころの、懐かしい「遊び心」を、少し思い出せるかもしれません。懐かしい「想い出の写真」と「メロディ」が一杯詰まったスライドをつくりました。

 パソコンをエッコラ抱え、橿原神宮駅で降りると、頭が少し薄くなった孝ちゃんは黒のニット帽をかぶり、ニコニコ笑って待ってくれていました。
 「久しぶり!・・・」。男のあいさつはそれだけで済みます。駅前の小料理屋のカウンターで早速、映写会です。
 「むちゃ懐かしいな、コレ!」と孝ちゃん。喜んでくれました。
 嬉しそうにスライドを見ながら、「オレ、この子好きやってん・・・」。ふと見ると、「みどりちゃん」です。みどりちゃんもおとなしくてかわいい子でしたが、孝ちゃん、ぼくとは好みが若干ちがいました。バッティングはなかったようです。
 ぼくらは当時、硬派遊びに夢中で、女の子の好みは訊いたことがありません。いつも「パカン、パカン」でした。

 
 孝ちゃんの「スライドによる、懐かしいガールハント(!)」が終ったころ、たずねました。
 彼の一回り以上年下の、おきゃんで粋な、着物の似合う奥さんのことが気になったのです。
 
 「よめさん、どーしてんの」と聞くと、「あかん」。
 「あかんって、なにが?」。
 「5回結婚したけど、女は一緒や・・・」。
 「ぶほっ」、酎ハイを吹き出しそうになりました
 「・・・タ、孝ちゃん、ぜいたくゆーたらあかんわ。5回もしといて、えーかげんにしいや、ほんま~。負けたわ~」と諫めると、ニコッと笑い、いつになく、ちょっとしょんぼりしました。先日、お母さんも亡くなったのです。

 「ところで」とぼく。「気になっていたこと」の確認です。
 切符を買わずに、K鉄で死ぬまで無賃乗車を続けた伝説のゴーケツ、「M野君」のことは、以前、紹介しました。
 「いよっ!」と云うだけで駅の改札を「パス」できた、例の「M野君」です
 孝ちゃんも彼と同じ村で近所のはずです。「孝ちゃん、サンマが云うとってんけど、M野、全然K鉄の切符買わへんかったって、ほんまか?」。
 「ほんまや~、ほんま。あいつ、あの『大きな頭と怖い顔』やから、フリーパスやってん」。
 腹を抱えました。

  ・・・ぼくが漫画をほとんど読まないのは、きっと彼らがいる(いた)せいです。
 「ブチ(ぼくの当時のあだ名です)なァ、あいつ、中学卒業してすぐ就職したやろ、それで『あんなん(あんなふう)』やろ(勉強ができなかったことは以前伝えました)。・・・T井(駅名)にあった、オートメーションの『部品組み立て工場』に就職してんけど、あいつだけ要領悪うて、作業が間に合わんネ。両どなり(!)の女の人に助けてもろてたらしいわ」。・・・ズッコケました。

 オートメーション工場です! M野オ、いいかげんにせな、あかんわ・・・笑いすぎて涙が出ました。
 

 「それで、M野、仕事終わったら、毎晩、T井の駅前で酒飲んで、真っ赤な顔して帰って来るやろ。駅員も、そら怖いでエ。きっと『鬼』みたいやったやろ!」。 もーたまりません。

 無賃乗車の駅区間は、「U」から「T井」。約20年。M野君は酒を飲みつづけ、肝臓を傷め、既に旅立ちました。
 M野、一回飲みたかったな、ホンマ。合掌。
 

 孝ちゃんは、「・・・ところで、その話をしたサンマなあ、宝くじで3億円当たってん。京都かなんかに、でっかい家建てて、村捨てよったわ~」。
 「へえ、サンマが?」。
 ・・・話をそらして、酎ハイのジョッキを空けた孝ちゃんは「ブチ、M野なんか、未だまだ小者やでエ」。まだ、誰か、いるんかいな。
 「そういえば、中学校に(!)高下駄履いて来てる奴おったな。それで大学生らと喧嘩してるって聞いたことあるわ」とボク。
 「カワイのカーちゃんや」。
 「おれ等より3・4年上やったんちゃう?」とぼく。
 「ちゃう、ちゃう、イッコ(一こ)だけ~。オレ小さいとき、お母んに、『あの子にだけは喧嘩売りなや』ゆうて、育てられたんや」。そんなことゆうて、子どもを安全に育てるお母さんも、昔はいたんです。

 
 「そんなに、なにするか、わからん子やったんか?」。
 「ちゃう、ちゃう。朝吉や、八尾の朝吉!!」。
 懐かしいキャラクターです。今東光原作。勝新太郎と田宮次郎の極道映画のレジェンドです。弱きを助け、強きをくじくヒーローでした。今は弱気に強がり、強気に阿る人が、あまりにも多くありませんか?
 
 「・・・売られた喧嘩は買うけど、自分からは絶対売らん。カーちゃんは、弱いものいじめもせん」。ヤンキーに聞かせたいものです。
 身長も165センチくらいと小さかったのですが、がっしりした体格で、根性もすごかった・・・ようです。D商大の3人に喧嘩を売られ、中学生の分際で、履いてた(!)下駄で、どつきまわしたようですから・・・。
 残念なことに、「カーちゃん」も亡くなりました。「カーちゃん」は同級生じゃなかったので、詳しく聞けず、武勇伝の詳細がわかりません。申し訳ない。

 それにしても、孝ちゃんも、おもろいわ~。孝ちゃんがまだ消防署にいたころ、お願いをして、団の子どもたちひとりひとりを、当時珍しかった40メートルのはしご車に乗せてもらったことがありました。孝ちゃん、また子どもたち乗せたってな。
 それから、5回目の奥さんと、あんまり喧嘩せんようにな。だいじにしいや。
 その後、三軒はしごして、最後はグダグダに酔っぱらった孝ちゃんでした。「孝ちゃ~ん、酔いを醒まさんと六回目になるでエ! いつまでも元気でな~」。

小学生とセンター試験
 ぼくは時々、センター試験の問題(現代文)や超難関校(中学)の問題(算数)を、入学テストが終わって、子どもたちの進路が決まってから、あるいは特別によくできる子が集まったクラスで、授業に使います。(写真はそれらの問題も掲載されている問題集。)

 その意味は、自分たちと同じ時期に、そうしたむずかしい問題を解いて進学する子もいるのだという自覚を促すためと、センター試験の問題は、例えば国語であれば、大学入試でもそんなにレベルが離れているものではない(わからないものでもない)という認識をもたせるためです
 もう一つ、現代文であれば、使われている漢字が読めなければ、手も足も出ない、という「漢字学習」の大切さを確認させるためです。それらを「難しいことを」、と考える人もいるかもしれませんが、そのあたりに、「指導する方の思い込みがありすぎる」とぼくは考えています。
 逆に、そうした問題を読んで、解答できた時、また解答への糸口をつかめた時の子どもたちの「モチベーションとパワー」を念頭に置くべきです。「むずかしいことも、決して手の届かないところにあるのではない。まずやってみなければならない」という、子どもたちの「学体力」への道筋も認識もそうして生まれます

 学習事項や受験内容を教え込むのが教育ではありません。まず身につけるべきは、「学ぶことのおもしろさ」と学習姿勢や学習態度であるべきです。指導要領で教えるのではなく、しっかり個々の子どもの態度やモチベーションの行方を見極め、子どもと格闘したい。ぼくはいつもそう思っています。
 「センター試験は大学受験生のテスト」ではなく、「難関校の入学試験は、受験しないから関係ない」のではない。「身のまわりにあるもの」は、「すべて学習材料である」、あるいは「学習に使えるものである」。そうではないでしょうか?


夢の教科書を求めて ⑪

2018年01月20日 | 学ぶ

「やりたいこと」と「やれること」
 子どものときはもちろん、大きくなっても未だ「やりたいこと」はたくさんあって、「あれもやりたい」「これもやりたい」という思うことがふつうです。ですが、「やりたいこと」はあっても、「やれたこと」は決して多くありません。
 「多くは想っているうちに『日が暮れてしまう(!)』」からでしょう。「日々やりたいことを思い続けて、それに向かって進んだり、力を尽くしたり、ということができないまま」陽が落ちてしまう。自戒です。

 「才能」とは、あるいは「天才」とは「やり続ける能力」だというようなことを、よく耳にしたり、目にしたりすることがあります。それらのことばが至言であるとわかるころ、つまり人生を半ば以上すぎると、切実な日々が待っています。哀しいことに「やりたいこと」が減り、「やれること」も次第に少なくなっていく・・・想像すらできなかった事態です。過去、多くの人が経験した現実なのでしょう。
 年をとると、「少年老い易く、学成り難し」や「光陰矢の如し」という故事成句やことわざは、「老年老いすぎて、行なり難し」や「光陰もう滅し」に代わります。そして、『時間のたいせつさ』こそ、「かけがえのない人生」を軽佻浮薄のままに終わらせないよう、子どもたちに伝えておかなくてはいけないことだと気づきます。
 「夢」というストップウオッチの裏側では針が日々刻々進んでいること。そして自ら手を伸ばすことをしなければ夢を手繰り寄せることはできないこと。子どもたちには、ぜひ、これらに目を向けられるように育ってほしいと思います。
 
学体力―「ひとりで考えつづけられる力」を育てることの意味
 今年もそうですが、子どもたちを指導していて、ぼくが考えている以上に『学力(学体力)』がついていることが、受験結果に現れてくるようになりました。教室での過去問の入試実践テストの得点に現れている結果以上の力、という意味です。どうしてでしょうか?
 毎年、甘やかされていたり、過保護ゆえの悪影響が子どもたちの学習に対する姿勢・取り組み方にも「浸潤」しつづけていることがわかります。「教えてもらうことを待っている」、「一人でできない」、また「忍耐力やがまんする力」の欠落です。それらの克服から団の指導は始まります

 これらの「症状」を客観的に考えると、「自分で考え続ける力」はもちろん、「『考える力を育てる力』そのものが弱くなっている」ということです。新しい学習・新しい問題に入るとき、「一人では何をしてよいか、どうしてよいかわからない」という戸惑い。「説明やヒントをもらっても、手取り足取り、かみ砕いてかみ砕いて説明しないと、集中して取り組めない」。
 みなさん、もう一度この姿をイメージしてみてください。これは「子どもたちは、次第にひとりでは、考えられなくなっている」ということでしょう。もちろん、もっと幼い頃の、学習の初めは別ですが、小学校の高学年までそのままでは、それ以降問題が多発します。ひとりでは、中学校・高校の高度な学習や大学受験には到底対応できない、ということです。これらを何とかしなければいけない、ぼくの指導法の原点です。たとえば、身近な問題であるテストというテストも、ひとりで立ち向かわなくてはならないからです。
 十年くらい前は、まだ半分くらいの子は何とか苦労しながらも「しがみついてきた」ものですが、今は、指導の中で、ぼくの予想通りに「問題に入っていける子」は、よくて数年に1~2名しかいません(なお、ぼくの塾は選抜試験がありませんので、ごく一般的な諸君が入団します)。

 なぜ問題が多発するのか? それらの姿勢が身につかないと、「自分のペースで学習を進めることができないから」です。いつまでたっても、「誰かが傍にいないとできない」、自分で考える、考え続けることができない。つまり、高校受験になっても、大学受験になっても、そのままの姿勢は継続するし、社会人になって仕事をはじめても、大差ないでしょう。
 社会や会社はそういう人を必要としているでしょうか? 逆に、少々の失敗はあったとしても、助けや指導がないところでも、自らのアンテナを活用し、積極的に仕事をこなしたり、プラスアルファの成果をもたらしたりすることが要求されるはずです。
 こういったからと云って「社会に貢献できるから育てたい」と願っているわけではありません。学体力が身につくことによって、夢が開花したり人生が大きく転換したり、という子どもたちの可能性が広がるからです

 「お母さんや塾の先生を頼りにするようなサラリーマン」は優秀でしょうか、有用でしょうか。子どもを育てる、あるいは指導する過程で、そういう問題意識が不問のまま、「大きくなればわかる、できるようになるという思い(込み)で、しつけや指導が見逃され(すぎ)ている」。それが現状です。
 また、「できないことをやる必要はない」、「誰かにやってもらえばいい」という依頼心の塊りが、大きくなって急に解消されるでしょうか。小さいころはお金を払って家庭教師を雇い、塾に通えば、受験学力や入学試験は望みがかなうかもしれない。しかし子どもたちは「受験をクリアするために」生まれてきたのでしょうか? 「死ぬまで受験ですごす」人生でしょうか? クリアすれば、充実した人生が送れるのでしょうか? それよりもっと大事なことがあるのではないでしょうか? 人生に塾や家庭教師はありません
 大きくなってきちんと仕事ができたり、社会で活躍するときの駆動力になるのは、「問題解決力」であり、それを可能にする「学体力」なのです。現状「華やか」で「にぎやかな」受験戦争の中で事態は相変わらず、その受験学力や入試対応力を可能にする、子どもに内在する「学体力」やすべてを含む「精神力」に、目が届いているようすはありません。「あなた任せの一本道」です。

 入学試験場でのぼりを片手に、大声でデモンストレーション指導をする学習指導と、冷気の中、白い息を吐きながら自らが受ける受験を想い、白く霜が降りている自らの周囲に目を見張り、学習内容を振り返る学習指導の、「子どもたちに与える大きな相違」にぜひ目を向けていただきたいと思います。「中学合格したら学校を平気で休ませる」ような子育てではなく、心身ともに健やかな子どもたちが一人でも増えることを願ってやみません。「学習するときに、学習する姿勢や態度」も覚えなければ、いつ身につける(られる)のでしょう?
 超難関校でもない限り、入試前にも学校は休まず一日2時間弱の家庭学習でも、十分受験対応は可能です。また、超難関校に入った諸君にそれほど「引けを取らない」実績を残している、一貫校出身のOB諸君の実績もご覧ください。ぼくが、考えている以上に、子どもたちが大きな力を発揮してくれるのは、こういう静かな時間や課外学習のゆとりが、精神的な構えに大きな影響を及ぼしているのでしょう。団の子どもたちが、想定以上に力を発揮してくれるのは、こういう理由です

むずかしいことは、ほんとうにむずかしいのか?
 むずかしいときに、あるいはむずかしければ、「取り組む前に投げ出してしまう」「できないものはしょうがない」という認識が、今はほとんどではないでしょうか。「何とかもう少しがんばって結果を出さなければ」という「当たり前のこと」ができているでしょうか。それができなければ、「学体力」も存在しません。
 「むずかしいときにでも、まずひとりで取り組む」という「気概」や「根性」や「忍耐力」がなく、「がまん」もできないと、やがて、ひとりでは何もできなくなります。つまり「教えてもらうのが当たり前」という意識から抜け出なければ、自分ひとりでは前に進めず、新しいことに取り組むことができません。
 ひとりで取り組み克服することで、自信が培われます。そして次の目標にも勇気をもって立ち向かえることが成長するということです。そして、その自立過程での自らの過ちに気づくことによって、メタ認知機能が発達し、成長は確実なものになります。ひとりで踏み出せなければ、どんな進歩もありません。

 ところが、むずかしいことや新しいことになると、いつも手伝ってもらったり、躊躇したり、あきらめたり、逃げたりしている習慣が「定着」してしまえば、それが本人の『生きる術』になってしまいます。そうこうしているうちに、自分では道が見えなくなり、人生の意味も見いだせなくなってしまう(「人生には意味がない」と考える人の人生を否定するつもりはありません)。
 また、『依頼心の強いままでは』本も読まない(読む必要を感じない)し、考えることもできない(考える必要を感じない)、つまり「知的な部分を半ば放り出さなければならない」ような後半生を送ることになってしまうのではないか、そうも自戒しています。
 できるだけ豊かな人生を送ってもらいたい考える団の子どもたちにも、さまざまな機会を通じて、ひとりで問題に取り組むよう指導し、解決を図る努力を奨励したいと考えています。

 さて、学体力が整ったときの学習方法を、ぼくが読んだ碩学の著書から紹介します。「『学習』が伴侶になったとき」の学習のノウハウです。これらはOB諸君に伝えています。

「学体力」がついてからの学習方法
 まず、哲学者の木田元さんの本の読み方とノーベル賞学者の福井謙一博士の学習法です。木田さんの引用部分は、大学院生相手の原書の読み方の指導です。以下、引用の下線はいずれも南淵。

 「哲学のばあい、本がきちんと読めなくては話になりません。ハイデガーの書いたものを読むということは、その思考を追体験するということです。だいたいわかればよいということではなく、ハイデガーの思考のあとを精密にたどることができなくては意味がありません。たとえば、ある文章と次の文章が「そして」でつながるのか、「しかし」でつながるのか。欧米の言葉ではそうした接続詞が表に出てこない場合が往々にしてありますが、それを読みこむことが本を読むということです。接続詞ひとつで意味ががらりとちがってきますから」。
               (「闇屋になりそこねた哲学者」木田元著 晶文社p183)

 これらの書には多くの数式が載っていたが、私はそのすべての式を、紙と鉛筆を用いて省略なしに導くことを実践した。それでもなお誘導できない式はいちいち原論文を読んで理解することにした。そして、この勉強が後で非常に役立ったのである・・・私は教え子にも文献を読むのは少なくてもいいが、一字一句をおろそかにしてはいけないと言ってきた・・・例えば湯川先生の著書のような簡潔にまとめられた書を読む時、一つひとつの数式を自分のわかっているところから始めて仕舞いまで誘導してみなければ、専門外のものにはなかなかそのエッセンスはわからないと思う。これは数理的要素の強い理論を読解する時の心得であるが、おしなべて文献を読む時は、字句の深層に横たわっているものを自分なりに捕捉しなければ本当に理解したとはいえないはずである。」そのためには手を動かす労を惜しんではならない。
(「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p116~117・文責南淵)

 たいてい一回読んでしまったら「読んだ」と納得(?)しがちですが、それは予行演習で、「一回読んで終わりの本」と「何回も読む本」とを区別することから読書は始まるということが、読書を重ねるとわかります。次は読んだことを定着させる方法です。

 「図書室で閲覧させてもらったそうした書物を読む時、私は関心を覚えた箇所があると必ず紙に写すことにしていた。外国の教科書で写したい箇所が厖大にある場合には、さすがに骨が折れるので、そのときは要点を書きとめることにした。これは複写機械の発達した今日からみると、いかにも手間のかかる方法だといわねばならないが、決して無駄ではなかったと思う。手を動かして学んだということが、血となり肉となったからである」。
                                                                                    (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p114~115)
 

 本を書き写すことより役に立つこと。それは要点をまとめることだと福井博士は云います。インプットしたのち、アウトプットの重要性です。これで理解は整います。これは以前紹介した、ファインマンの子ども時代の読書(学習)法でもあります。
 
 手を動かして学ぶということは記憶に役だったと思うが、それ以上に「要点を整理すること」が、役だったと思う。「コピーを取って保存しておくという方法に甘んじると、本のエッセンスは決して身につかない。古風なやり方ではあるが、本の内容を自分の血とし肉とするためには、自ら筆を取って写すか、要点をメモするのが、かえって近道なのである。経験による信念からそういうのであるが、これは若い読者にお勧めしておきたい事柄だと思っている」
                                                                                                            (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p115)

 次は学習の「量から質への転換」です。

広く学ぶことは大切である。そのために刻苦勉励することも、もちろん大切である。が、それは多数の文献を読み、多量の知識を不統一に吸収することとイクォールではない」。したがって、「私は多数の文献を読んで知識を集めるという、いわば衒学的勉強を捨て、数少ない文献を徹底的に読みこなす勉強態度を自分に課していた」。
                                                               (「学問の創造」 福井謙一著 佼成出版・p107~109)

 「人間は、やっぱり、平生から記憶をきちんと整理して、オルガナイズする、いろいろな知識を―自然とおぼえた知識でも、自分が努力して獲得した知識でも―自分なりにうまく組織化しておかなければなりません。整理のしかたには高度なものから非常に簡単なものまで、いろいろありましょうが、整理することと、理解することとは密接に関連しているように思われます。教育にはそういう、すぐに記憶を再生する能力が身につくようにする効果もある。そこで、そういう記憶と理解とかをもとにして、創造性を発現できるようにしたい」 
(「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p149)

 さて、最後は「東大・京大へ進んだ数学のできる秀才たちの勉強法」です。繰り返し問題演習の効用―「学体力」の必要性の確認です。斎藤孝さんの「偉人たちのブレイクスルー勉強術」(文藝春秋p239~241)に、斉藤さんが、秀才たちにその勉強方法を聞いたときの答えが書いてあります。

 「どうやってできるようになったの?」と聞いたときに、口々にこんなことを言いました。
 「ただ、問題集を五周、十周するだけですよ」
 「そうそう、十周すればたいていできるようになりますよ」
 
 彼らはこれぞ"鉄板"といわれているような問題集を、五回、十回と繰り返し解く。そのことを、「何周する」という言い方をするのです。みんな信じられないぐらい繰り返して鍛錬している。勉強には、理解するプロセスと習熟するプロセスの両方が必要です。そして、例題をわかっても、それは習熟したこと(理解が整って自分のものになった・南淵・注)にはならない、「わかるとできるは大違いなのです」と述べます。
 「重要問題集を十周しろと言われて、十周できる人はできるようになる。何周もできないとあきらめてしまう人はできないまま。比較的数学のできる人が鍛錬に鍛練を重ねて習熟していくので、ますますできるようになっていく。「数学が苦手だ」と思っている人ほど周回練習をやらない。これが現実なのです」
 
 これが『学体力』です。


2018年 合格速報

2018年01月14日 | 学ぶ

今年の中学受験合格速報です。今年も受験者三名全員、第一志望校に合格できました。「受験には何が必要か、子どもたちの健やかな成長には、何をまず大切にすべきか」を考えるきっかけを提供することができました。指導にご協力いただいた保護者、また関係者のみなさま、応援ありがとうございました。

 希望の中学校に進学できた団員諸君、君たちは今日、憧れの学校で学ぶという「許可書」をもらっただけです。夢をかなえ、責任を果たしていくことは、今から始まります。初心を忘れず、団の指導を忘れず、君たちが大きな夢を抱き、その夢をさらに大きくしていく、みんなが憧れるような人になってくれることを心から期待し、また応援したいと思っています

 ブログを読んでいただいているみなさま、土曜日(13日)アップのブログで、「受験当日まで『旗』を掲げて大声で『デモンストレーション指導すること』と、正反対の指導方法」を披露しています。
 「子どもたちの心」や「心のありよう」を考えない教育や指導は、成長の害になりこそすれ、寄与することは決してありません。ぜひ読んでみてください                     


 


夢の教科書を求めて ⑩ 耳の痛い話は成長の糧

2018年01月13日 | 学ぶ

「耳の痛い話」と合格祈願
 拙いブログを毎週350人の人が読んでくれるようになりました。土曜日には100人を超えることもあり、感謝に堪えません。数が少ないのか、多いのかわかりませんが、約5年前、週に数名(!)からはじまって、現在の人数になったことに驚くとともに、優秀で心身ともに健やかな子どもを育てたいと考えるお父さん・お母さん・先生方、志を同じくする人が増えることが、この上ない喜びです。
 毎回、「『耳の痛い話(?)』だろうな」と思うとき、極端にヒット数が減ります(ホント!)。しかし、長い人生から、自らが真剣に考え、手にした「正しいと思うこと」は、『ケツをくすぐったり(奈良で、いちばん言葉が悪いといわれる田舎の「近く」で育ちました!)』「おもねったり」はせず、『伝え続けたい』と思っています。

 子ども、特に小さい子どもは、「建前」では育ちません。たいせつなことは「心」と「心」のぶつかり合いです。また『純粋な子どもほど、建前を見抜きます』。ピュアで純粋な子に、「建前」を教えてしまえば、どんな子になっていくのでしょうか
 教えなくとも、やがて『建前』は覚えます(覚えざるを得ません)。「耳の痛い話」は、ぼくたち大人も子どももきちんと受け止め、「反省の材料」にするべきではないでしょうか。いつも子どもたちにアドバイスすることですが、「人はまちがうものだ。その過ちに目を留め、正面から見つめ、反省や再考をしないと、正しい答えは見つからないし、どんな成長もない」。
 当人にとって「耳の痛い話」というのは「自らも心当たりがあって、きちんと振り返るべきポイント・弱点」であることがほとんどです。「気になっている」から耳が痛いわけです。そうしたことを「避けて通るべきではない」、「目をつぶって、耳を押さえて見逃すべきではない」。直すために与えられたよい機会だ。ぼくは、そう思っています。
 正面から向かって、自らを振り返り、それを克服していくことで、「勉強(学習)」の正誤はもちろん、人としての大きな成長も期待できます。大人も子どもも問わず。

 さて、団では、他塾が缶詰め授業で大わらわのとき、子どもたちと毎年少し足を延ばし、奈良の桜井まで合格祈願に行きます。
 「苦しい時の神頼み」ではなく、「山の静かな雰囲気と清新な空気を子どもたちに味あわせたいから」です。試験の際は、何より「心の構え」がたいせつです。「心の構え」とは、「向かうもの」に心を整えること。「心を整える時間をもつこと」。「一生の大事」には、「心の構え」は欠かせません。 
 試験前になると『追い詰め・追い詰め』という指導がふつうのパターンでしょう。
 しかし、今まで学んだことを、「詰め込み」ではなく、「頭の『あるべき位置』」に整理していく余裕と、本人や周囲の「落ち着き」を取り戻さないと、受験勉強や受験生活は、「ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗っているようなもの」です。
 周りの景色も見えず、降りたい駅もわからない、降りる駅にも降りられない・・・そんな姿で一生過ごさなければなりません。子どもの「心の構え」にも思い至りません。自戒とともにですが、ただ『試験だけ』を乗り越えた体験で終われば、それ以外の方法や考えが浮かばないのかもしれません。

 しかし、そのままでは『生命の限り』と「それらを見越した上での日々の行動や日常まで想いが届かず」、何をしているのかも、どこへ向かうかもわからない、「他人任せ」の道程になりかねません。子どものときの「節目」にこそ、「そうではないものの見方があること」を伝えたいと思っています。 
 そこから見える景色は、「失敗や反省も、長い人生では自らを大きく成長させる良いきっかけ」です。絵馬をプレゼントし、子どもたちは、自ら志望校や氏名を書き込み奉納します。「どこかでもらってきたお守り」を渡すのもやさしい行為ですが、本人がその行為を確認できる機会があれば、経験値は、さらに豊かになります。
 神社の苔むした灯篭や大樹の間の石畳を抜け、裏道を通り田舎道を駅までゆっくり歩きます。
 サザンカの白や椿の赤に目を留め照葉樹の話をし、製材所のすぎの香りに出会えば、年輪の話題に触れます。課外学習での太陽の向きや大樹の枝ぶりから考える「方角判断」が「年輪」の実見で完結します。見える年輪が師管や道管や形成層のしくみを表現してくれます。また、板目や柾目は中学入試には出てきませんが、「学習対象の立体化」に一役買います。その「しくみ」が鳥の巣箱をつくるときの「のこぎりの手応え」で確認できます。

 道行くときに目を留めたり、凝らしたりする機会が、今はどんどん減っていきます。その減少とともに、子どもたちの学習対象は「やせ細って」いきます。それとともに「学ぶおもしろさ」は減退していきます。学習をおもしろく進めるためには、何よりも「学習対象への気づき」、「立体化による存在感」がたいせつになります。子どもたちの学習は、どんな意味においても「環境から」始まります。いや始めなければなりません。
 日ごろの課外学習の道行きもそうですが、「彼ら(ぼくたち)の身の周りにあるもの」を見ずして、気づかずして、何も始まりません。静寂の中の合格祈願、清々しい空気も、子どもたちの生活の一部であり、学習のたいせつな要素なのです。

三匹の子豚の受験指導
 今日は大阪市の中学入試です。今までの指導経験からつくりあげたキャラクターです。「三つ子の子豚」の受験体験の童話をお話しします。みなさんの学習指導や学習応援の参考にしてください。
 三つ子の子豚ちゃん、甘やかされてばかりいる、ブー・フー・ウーが受験をすることになりました.
 長男の「ブー」は頭は良いのですが、遊びほうけてばかり、時間があればゲーム、時間がなくてもゲーム。
 「調子が良い」のが取り柄で、ブーの通っている学校は、「休まないでクラブ活動に参加すればA評価(!)」という特殊な学校ですから、彼はそれ以外のことに目が向きません。「私立中学は受験勉強をしなければ合格できない」ということが、そもそもわからない。
 さらに元々能力が高いので、小学校の中学年までは勉強がよくできました。皆勤、クラブ活動をやればA評価の学校ですから、みんな勉強しません。ブーの小学校に限らず、小学校の低学年までは、本来の能力が高ければ成績はよく、その時点で本人は「勉強を甘く見ます」。「勉強なんか、たいしたことない」というわけです。

 「ブー」は今後どう指導すべきでしょう?
 まず、育て方の反省です。もっともっと小さいころに、「ゲーム以外にやれること・やるべきことがあること」をきちんと教えなければなりません。「(人の)寿命には限りがあること」を教え、「時間がかけがえのないものであること」がわかれば、次は、「世の中には、四の五の言わずやらなければならないことがあること」や、「自らもやるべきことをやる責任があること」を教える
 また、「やってはいけないこと」、「時には自らの欲求を押さえ、我慢しなければならないことがあること」をちゃんと教える。さらに、世の中にはゲーム以外にも、たくさんおもしろいものがあることを、小さいころから伝えるようにする。必要なことは「根本的な指導の改善」です。さらに、こうした指導も4年生までに行わないと難しくなります。

 「フー」は次男。
 やはり甘やかされているので、受験勉強も形だけ。「宿題もちゃらんぽらん」で、すぐ解答を見ます。「頭に汗をかこう」としません。つまり「考えること」をしないし、知りません。わからなければ、答えを写しても平気です。
 小さいころからなんでもやってもらっていたので、「『自分が』しなければならないこと」「『自分で』しなければならないこと」がわかりません。幼い頃から、自分でしなくてもいつのまにか準備や用意が整っていたので、「自分がしなければいけない」という意識がないのです。
 「負けたら恥ずかしい」し、「腹が立つ」のですが、それだけです。「勝とうという意識」、「そのためにはどうすべきか」という、たいせつなことを知らないまま育ってきました。
 そんな具合ですから、成績は上がりません。自分で何でもやる(やってみる)経験が乏しいので「メタ認知」が育たず、「自分や自分のやり方が悪い」という反省がなく、受験間際になって、とっかえひっかえ新しい参考書や問題集に手を出し始める。そういう調子ですから、つまらない漢字のまちがいや読み違い・読み落としが多く、覚えちがいの悪癖が抜けません。

 「フー」へのアドバイス。
 受験勉強は、各科目定評ある参考書を、繰り返し三周以上やれば十分です。その参考書がきちんとマスターできた段階で過去問に取り組むこと。
 つまり、参考書やテキストを疑う前に、その参考書やテキストの学習に「理解不足」や「勉強の穴」がないかを調べる、あったら、まずそれをなくすこと。それがいちばんです。
 受験では100点取る必要はありません。7割以上得点できれば、一部の難関校を除き、合格圏です。それまでの参考書をきちんと終わらせないで、受験前にあちこちやるのは「百害あって一利なし」。
 「NGOとPKO(!)をまちがえたり、愛媛県を愛姫県と書いたり、石田三成を石田光成と書いたりしないことに、最大の努力を払うべき」です。
 三男「ウー」はいちばん真面目で、学力も順調に伸びてきています。
 アドバイスするなら、「何も心配ないこと」を伝え、「進学したのちの諸注意や心構え」を伝えること。気を抜かず取り組み、さまざまな可能性が待っていることに気づかせること。合格すれば英語や数学の「先取り学習」を行っていくこと。
 お父さん・お母さんに参考になる本。最近読んで手近にあった本ですが、「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏 文春新書)なんかを読めば、さらに子どもたちにできる話があるかもしれません。

英英辞典の効用
 OB教室のH君については度々紹介しています。一貫校進学(現在中一)後、週一回グレードリーダー“Logan’s Choice”(Cambridge University Press)を読んでいますが、一年経過しました。何も知らないところから、辞書だけを頼りに読むことを進めてきました。
 かなり読めるようになってきました。英和辞典の訳語にとらわれず、情景のイメージを大切にしながら、「訳語」を考え、「訳文を考える」、「意味を大切にする」という方法です。
 今京大大学院でベトナムへ留学しているY君との「老人と海」のときもそうだったのですが、もう少しすれば、二人で英英辞典から「自らの言葉で訳語を考える」という指導をしていきたいと思っています。
 それによって語彙力は増し、言い回しも覚えるし、日英両語の「語感」も身につくだろう、と思います。大学進学時には原書を読めるようになるでしょう。
 ああ、若いってことはなんていいことだ。うらやましい。


夢の教科書を求めて ⑨ 

2018年01月06日 | 学ぶ

良心は何処に
 遅ればせながら。明けましておめでとうございます。他塾では「正月返上のねじり鉢巻き」がふつうでしょう。団では毎年暮れの30日から年明けの3日まで休みです。

 「国語を『昆虫採集』してみないか」、「算数も『手づかみ』できるんだよ」のコピーとともに、このペースは20年以上続いています。学校が休みの間、冬期講習や夏期講習はありますが、ガンガンの「缶詰学習」はしません
 演習問題や宿題の量とおなじく、そんなもの、「指導の言い訳」や「料金のかさ上げ」の為ではないのか? ふだんから、きちんとしっかり勉強させておいて、入試前でも、正月は家で、少しゆっくりリラックスしましょうよ。「良心的」に子どものことを考えている先生方、そうではありませんか?

 「良心」で思い出しました。かつての「耳ダンボ」のエピソードも、その典型ですが、「最近の子育て」で目に余るのは、「悪いことをした子どもに責任を取らせない」、というしつけや仕業です。これは、しつけ以前の問題です
 隠す・ごまかす・とぼける・白を切る・・・など、やってしまったこと・失敗したことに対して、その結果を認め、反省させたうえで、きちんと謝らせ、悪いことは悪いことだ、ということを教えない。そういうことを「ないがしろ」にして、「社会できちんと一人前に仕事ができる大人」に育つのだろうか?
 「失敗や過ちは誰にでもあることだが、それでも『自分がやってしまったこと』だから、責任はとらなければならない」という「社会での基本中の基本ルール」を教えないで、どうして一人前の社会人として育つのか

 そういうことをすると、周りにも迷惑をかけるし、家族にも迷惑をかけるし、もちろん相手にも迷惑をかけ、嫌な思いをさせるという「言い聞かせ」「責任の取り方(面と向かって自分のしたことを悟らせる。責任はほかの誰も取れません。教えないと責任をとるということを覚えません)」「二度としないという約束」。それらを果たして初めて、社会は受け入れてくれます
 本人は責任をとらずにノホホンとして、その陰で困ったり悲しんでいる人がいることに、想いが至らない。他者に対する「思いやり」や「慮り」意識が、ドンドン希薄になっていってるような気がします。
 「自分さえよければいい、その場を隠し通せばいい、相手は関係ない」というような子育てや仕業は、やがて忘れたころに、とんでもない「しっぺ返し」が当人と周囲に降りかかるというのが、長い経験から手に入れた真理です。「天網恢恢疎にして漏らさず」。でも、残念ながら、そこまで想いが至らないから、起きることなんだろうな、合掌。

「正月休み」と「小石の学習」
 さて、正月、久しぶりに家族で顔を合わせ、橿原神宮に恒例の初詣に行きました。
 KAEDEの動向が楽しみだったのですが、やはり、参道の小石に興味をもってくれました。きれいな石英をまず集め、長石やチャートと・・・、「石の説明」のひととき。拡大鏡をもって行かなかったことを後悔しきり、です。
 子どもたちの、「石への興味を引き起こす(何につけてもそうだと思うのですが)」には、まず触れさせて、「それぞれのちがい」に目を向けさせること。そのとき、たとえば拡大鏡で、「ふだん見馴れていない姿」を見せること。それによって、もっと興味が深くなる・・・そういうことだと考えています。

 これら、身のまわりの小石や砂・土に気づき、その区別ができ、見つけた「謎」に思いを凝らし、「不思議」に思いを巡らすこと。「『環覚』が立ち上がるしくみ」です。はじめは石からはじまりますが、石では終わりません。その発想や考察のしくみは、あらゆることに共通するはずです。
 5~6年前、下市(奈良県)の「やすらぎ村」に課外学習の『下見』に行ったとき、宿舎裏手の丹生川の上流の川原が、「ほとんど丸くて平たい石だった」のに驚きました。川原一面に写真のような石が散らばっていました。

 「こんなところまで、どこかから『平たい石だけ』わざわざ運んでくる」というようなことはないはずだ。しかし、「そんなところで角が取れて平べったい石ができた原因」がわかりませんでした。
 不明のまま数年経ち、あるとき課外学習の資料をつくっていた際、その思いが、心の隅にずっと残っていたのでしょう、イラストに目が留まりました。海浜礫。海岸まで運ばれてきた石が、長い間波に揺り戻されていると、そのような石ができあがることがわかったのです。腑に落ちたうれしさ・気持ちよさ

 古い昔(まだ調べていません)あのあたりは海岸だった、そして石の大きさからすると、それほど「長くない川」が流れ込んでいた(はず)、というわけです。
 ぼくたちは、「謎」や『疑問』が解決すると「気持ちよく」なります。「快感!」を覚えます。
 「周囲に潜む謎や疑問が解けること」は、ぼくたちが「自らの生きていく環境に対してアプローチできること、不安が解消すること、対処法や利用法が獲得できること」という、「生きる(生きていく)方向にプラスにはたらく行動が可能になるから」でしょう。「快感」はそのためです(南淵説)。
 つまり、「『学び』は、本来それらを可能にするため生まれた行動」のはずで、受験は、その益をほとんどなしません。いくらやっても、「かりそめの快感」しかありません。
 「生きていくための意味!」とは、現実的に結びつきにくい。ですから学習の本来の意味と役割をもっと考え、子どもたちの学習指導を改革していかないと、「学習はどんどん地に落ちる」のではないでしょうか。

 橿原神宮の小石がKAEDEの心の中で、やがて、二上山のふもとの竹田川の金剛砂を仲間に引き入れ、吉野川の餅鉄や室生川のさまざまな火成岩を誘い、クワガタ探しでの腐葉土や飛鳥川の粘土を取り込むことで、平面的ではなく、自らと同じ地平に立つ立体的な「知の体系」として立ち上がってくれること。心から願っています
 さまざまな学校行事を散見して思うのは、そうして「『環境に目を見開く学習』がまだまだ足りない」と云うことです。よく見かけますが、例えば「お仕着せ」や「右に習え」の、味見や立ち食い目当ての課外活動に寄るべき、大きな意味や理由が果たしてどれだけあるものか? それより先生・生徒共々道いっぱいに広がり、通行の邪魔になっているという、心遣いを学ぶことの方がたいせつではないのか。
 『税金の無駄遣い』はよく聞きますが、一方で、さらにたいせつな『未来を担う子どものかけがえのない時間の無駄遣い』が相当見逃されているのではないでしょうか。

「どんぐり」が先か、「計算」が先か
 さて、KAEDEはトイレを待つ間に姿が見えなくなったと思ったら、いつの間にか参道のすぐ脇でどんぐりの「群れ」を見つけ、さまざまなどんぐりを拾っていました。いいタイミングと、割って中のようすを見せたり、殻斗を集めたり・・・ぼくも心休まるひとときでした。
 「身のまわりにあるもの(こと)に目を留められること」で不思議や謎が開けます。「不思議や謎が開けること」で、学習のモチベーションが機能します。それによって積極的な学習がはじまります
 エジソンが、訳のわからない計算問題や書き取り(おそらく)しか教えないエンゲル先生の授業に退屈し、授業中さまざまな不思議や謎を問いかけたのは、こうした理由だとわかっていただけたでしょうか。
 「知りたいこと」がたくさんあったのです。それらを無視されて、「そのときほとんど興味の持てなかったこと」ばかり、次々強制されたのです。

 計算問題や書き取りがたいせつなのは当然ですが、子どもがおもしろく感じるもの(決してゲームばかりではありません)を「少しも教えない」で、読み書きそろばん一辺倒では、やんちゃ坊主は誰でも嫌になり、当然反抗的にもなるでしょう。今の受験指導はどうでしょうか?
 エジソンは、幸運なことにお母さんが賢明だったので、本にも目を開かれ、少年時代に街の図書館の本を制覇するというチャレンジもしたようです。ここに、考えなければならない「どんぐりが先か、計算が先か」という問題があります。こういう学習の進み方の経緯を、ぼくたちはもっともっと深く考察すべきではないでしょうか。エジソンのことを「学習困難児や多動症」などという論評を否定できる根拠をもたないと学習問題の解決は成就できません。

 さて、神宮駅の切符売り場で、黄色の点字ブロックが目についたので、ふと思いつき、「これは何?」とKAEDEに問いかけました。知らなかったので、目の不自由な人のためのしくみを、棒を杖代わりにして考えさせました。
 駅の待ち時間には、名所案内のパンフレットに目を留め、紙飛行機を作り始めたので、一緒に作りました・・・それらの積み重ねが、少しずつ彼女の『環覚』を育ててくれるよう祈りながら・・・(カエデは「学(スッポン)に」と、紙飛行機のお土産をくれました)。

「どんぐり」から「奇数の情緒」
 もう十年以上前になりますが、吉田武さんの「奇数の情緒」を買いました。団で育った子どもが中学に進学したら、ぜひ読んでもらいたいと思ったのです。
 今まで京大に進学したY君やA君にも勧めたのですが、ちょっと手に負えなかったようで、手をつけたOBがいませんでした(毎年1~2人だし、勧められない子もいますので、ハハ)。

 今年N学園に入学したH君が国語の力があるので、「読んでみるか?」と勧めたら、「ハイッ」と早速持って帰りました。少しずつ読んでいるようです。「中学生であれを読み通したら相当だよ」と激励しています。
 先ほども書きましたが、エジソンだけではなく、多くの科学者が「少年時代」に、大人の本や専門書に読み耽るということが、なぜ行われるか?(ファインマン・アインシュタイン・マクスウェル・・・たいていの科学者はそうです)
 もちろん「身のまわりのものごと」に対する興味や好奇心が増し、知識欲が旺盛になるという前提がなくてはなりません。では、それはどうして起こるのか? 頭がいいからでしょうか? 決してそれだけではないと思います。
 頭がいい子はたくさんいますが、物語は読んでも、それらの本には見向きもしない子がたくさんいます。好奇心が機能しないからです。
 ただイメージするだけでも、明らかにそれらが、抽象的なまとめや概要の学習習慣からははじまらないだろう、ということがわかるのではないでしょうか。物語は読めても、科学書や専門書には「キャラクター!」は出てきません。みなさんはどうでしたか?
 教科書やテキストの、抽出した学習要項・まとめでは、覚えるだけで終わるのです。おもしろくない。『知りたい』に行きません(あっても稀でしょう)。

 好奇心は『学習対象や学習内容に書かれていないこと』からはじまります。以前も例を挙げましたが、「見知らぬ人の卒業アルバム」を見せられて興味がわくでしょうか? 見る気になるのは、恋をしていたり、「きれいな人」であったり、あるいは身内のおじいさん・おばあさんやお父さん・お母さんものでしょう。
 つまり、よく知っている人のものなので、興味を掻き立てられるわけです。そのもの、ものの全容、ものの本体を知っているから見たいし、『知りたい謎』が生まれるのです

 以前、石の組成で「ケイ素」のことに触れました。
 「なぜ地球にケイ素が多いのか」、というより「ケイ素ってどんなもので、何?」 という「疑問」が、学習年齢的にも、「教科書の『ケイ素』の文字」からはじまる子どもがどれだけいるでしょう。それらは、あくまで『述語止まり』で、記憶のストックに、そのまま収納されませんか? 使われないまま・・・。
 ところが、石英をはじめとする造岩鉱物の美しさ・実体に、「現実感」があれば、知りたくはならないでしょうか?  さらに、『知りたい』という精神状態になって調べはじめれば(そこまで上手く育てていると―つまり「学体力」が整ってくると)、「知りたい」を調べているうちに、その中から次の『新しい知りたい』が生まれる(というより、出てくる)のです。
 専門書にまで進むのは、科学者やスペシャリストとして知識や考察が深化していくのは、そうした「心のシステム」によって、だと考えます。「日ごろの自らの心の動き」を考えても、そう思えてなりません。そうした心が整ったとき、「奇数の情緒」から、さらに深化がはじまるのでしょう。
 「奇数の情緒」は決して受験勉強や入試問題からはじまるのではありません。それは「『どんぐり』からはじまる」のです
 さて「奇数の情緒」を読んでいるH君は学期末の成績で17番になってくれました。九州から帰ってきたお父さんに、「もう大丈夫ですよ」と報告しました。4日のことです。