今回紹介するテキストの写真例は、団でも日ごろよく使用しており市販テキストの代表例としての表示で他意はありません。ご理解をお願いします。
理性の時代
かつて脳内の快感神経の存在から、「学ぶことのおもしろさ」が存在する根拠を考えました。油脂や糖分に対する味覚、「おいしさの感覚」から、生きていくことが出来る方・種の保存の方向に対して「快感神経がもたらす快感」の「対学習」発達可能性でした。
さて、飢餓状態の長かった僕たちの感覚では、機会損失を防ぐためにエネルギー補給が効率的にできる油脂や糖分に対して、『おいしい』という快感が進化したと考えられています。つまり、油脂や糖分が豊富に含まれた食物があるとき、おいしさを感じるとたくさん食べられるというものです。
ところが、現在(日本)では食物が豊富で、多くの場合「おいしいもの」がたくさん手に入ります。つまり「ほとんど身体を使って探す必要がない」のです。確保する段階で体力やエネルギーはそれほど消費しません。したがって身体が要求する以上の糖分や油脂を「無意識のうちに『味覚』が要求してしまうことになる」というわけです。
「本来生き延びるための感覚だったもの」によって、逆に「過剰を招き、感覚のままに流されれば、それだけで糖尿病や脂肪肝等の病をもたらす結果になりつつある」のです。ぼくたちが現在抱えているのは、そうした課題です。
向かう時代は、「(快)楽を追い求める」ことに、より理性的にならなければならない時代。現状にきちんと目を向けよく考えることが必要になる。意識的にセルフコントロールすることが必要になった時代です。
「おいしいものは、確かにおいしいけれど、それはもともと生きていくための感覚が仕込まれてきた(!?笑い)からだ」という理性的な自意識が一方になければ、ドンドン無制限に、野放図になってしまう時代の到来です。「おいしいなあ。おいしいもの食べたいなあ」だけでは済まない、難しい時代です。「デブってしまう我が身」を見ながら、そう反省しました。今後は、こうした発想を多方面に広げることが必要になってきているのではないでしょうか。
土筆ハイクの報告
19日は2017年度の課外学習第1回。土筆ハイクでした。
小学校で学習対象になる植物や動物の生態や植生を年間の課外学習を通じて総合的・立体的に紹介したいので、土筆ハイクのスライド学習では、まず土筆(トクサ科)が「生きている化石」であることを紹介します。
生物の陸上への進出、その過程でのシダ植物の位置と特性。石炭紀の話、さらに植物の冬越しから春の芽生え、土筆が春夏秋冬の「口開け」であることも忘れられません。季節に季節の生き物を知る・出会うことで環覚が養われていきます。また、その季節の気温や空気感が対象のバックグラウンドや奥行きになり、存在感や興味を確かなものにしていきます。
飛鳥の駅で降りると、遠くに薄墨色の山並みが広がります。「やさしい緑」の近景から、紺が濃くなり、「薄墨色が空に溶け込む」遠景まで、日本画の濃淡が広がります。「薄墨色」を「文字で覚える」のと、「春の雲と山際の風景で覚える」のでは、子どもたちの印象やその後の感覚・感性の成長展開は大きく異なります。
駅前に目を戻すと菜の花がきれいに咲き、桜のつぼみが膨らみかけています。「菜の花」は理科のテキストの「花のつくり」のイラストでよく見ますが、黄色だと知っている子は居ても、花を手に取り、花弁やガクやおしべ・めしべのしくみにていねいに目を留めた子はほとんどいないでしょう。
ありふれた道端のタンポポに近寄り、頭状花序の実際を目にした小さな驚き。「よく似たハルノノゲシとオニノノゲシの区別」。「舌状花と筒状花への展開」。それらの観察・学習経験の有無によって多様性の認識や学ぶおもしろさへの道程が大きく異なります。
「タンポポの花のしくみ」のイラストが脳裏にあっても、それは「テストの解答」でしかありません。可憐ではありません。かわいさや健気さ・美しさ・おもしろさ・ぼくたちと同じく生きていることとは何の関係もありません。「生きていることとは何の関係もない学習対象」。果たして子供たちは学ぶ必要を感じるでしょうか?
そして、「菜の花は春にきちんと野外で見る」から意味があります。人工照明でない光の強さ・陽の照る長さを感じるようになってはじめて、「植物が光を読んでいること」がわかります。その「新鮮な驚き」によって、興味をもちにくい社会科の促成栽培や抑制栽培・電照菊への理解が行き届きます。
さらに、まだ咲いていない桜の花の芽と葉の芽を実際に見ます。子どもたちは花の咲いていない木に、ふだん目を向けることなどほとんどないかもしれません。しかし、それぞれの季節にそれぞれの姿で生きていることに気づいてこそ、学習と日々の生活が豊かに推移します。
「冬芽」も生きている姿の一面です。生命をつなぐための仕業です。その認識を経て春の芽吹きを感じることで、「植物の冬越し」の学習が意味をもち、親近感が立ちあがります。土筆ハイクの存在理由です。こうして何気ない道端のタンポポやスミレが子どもたちの心と「学ぶおもしろさ」を養います。
じゃあ樹木は何? 双子葉植物の草はどうして太くならないの?
「発芽のようすと発芽の条件」・「根・茎・葉のつくり」の学習単元では双子葉植物と単子葉植物の区別が顔を出します。団のお母さんやお父さんはお医者さんや学校の先生も多く、小さいころ結構勉強して、「勉強のことをおぼえている方」ばかりです。
かつて学習した双子葉植物と単子葉植物のありふれた単元。単子葉植物はイネやトウモロコシ、双子葉植物はアサガオやヒマワリが定番です。単子葉植物は「ひげ根」で子葉が一枚、平行脈。双子葉植物には主根と側根があり、形成層に沿って維管束が位置し、形成層では盛んに細胞分裂が行われる・・・というような学習内容を、かんたんなイラストとともに頭に入れていきました。テストに出題されるからです。当時も今も同じです。
その分類で出てくるのは「『草』ばかり」です。教えられるまま、それらの暗記を繰り返し、「じゃあ木はどうなのか?」「タケはどうなのか?」「大根やニンジンの根のあの太さは、ずいぶんイラストとちがうじゃないか?」というような、子どもが抱いて当然の質問は浮上することなく、封印されたままで解凍されません。疑問や不思議を抱かないまま、「好奇心がはじける」はずの子ども時代が無意味に過ぎていきます。ほとんどみんながそうです。
「学習対象は本来身のまわりに存在するものばかりで、周囲は無限で永遠のワンダーランドであり、かけがえのないテーマパークである」。それに気づいて「大成」したのがニュートンであり、ファインマンであり、ファーブルであり、エジソンであり、マクスウェル。そして数々の偉人たちです。抽象媒体から「大成」が始まったのではありません。それとは真逆の方向性こそ「偉人への道」でした。
「単子葉植物や双子葉植物を植物全体に導く指導」を先述のお母さんやお父さんに披露すると、いつも返ってくるのは、「そうして習ったことがない、思い浮かばなかった」という驚きです。学習事項がテスト対策に集約されて、イメージや発想の飛躍が小さいころに閉ざされてしまっている何よりの証左です。「当たり前の子ども時代」の喪失です。
単子葉植物・双子葉植物はともかく「草!」の区別であり、樹木の区別は「蚊帳の外」。これで「環境を総合的に立体的にとらえる」あるいは「逆に抽象できる発想がはたらき、イメージが形成される」でしょうか? 学ぶおもしろさが広がるでしょうか? これらの学習指導では、いつまでたっても学習(勉強)はテストのための道具の地位から脱出できません。
双子葉植物・単子葉植物という区別の発想が樹木にも広がると、双子葉植物の形成層の存在に疑念が生じます。「なぜ『草』は太くならないの? 」。草本と木本の区別がそうして意味をもち、腑に落ち、植物の見通しがよくなります。次の学習ステージとさらなる飛躍・科学者の道へのいざないです。
このように考えを進めると、「現在の学習スタイルが『多くの天才』を闇に葬ってしまっているかもしれない」という可能性が見えてきませんか? 現状を何とかしなければならない。そう思えてなりません。
さて、飛鳥の駅前で、米作りでお世話になっている前川さんのご厚意で自転車を安くレンタルし、飛鳥「土筆ハイク」の周遊も無事終わりました。今回はアスカルビーのいちご園で「いちご狩り」も楽しみました。
前から気になっている平田の集落横の小川でザリガニとフナ釣りもチャレンジしたのですが、寒かったようで残念ながら釣果はゼロでした。しかし飛鳥川のいつもの遊びポイントで、川底の泥を掘り返し、希少品種の「アジメドジョウ」三匹とドンコ・川エビを捕獲しました。川魚たちの冬越しも少し身近になりました。ザリガニとフナ釣りは、次回「デッカイ筍掘り」の時にリベンジです。