「理由なき反抗」は、「理由ある反抗」そして「理由に気づかない反抗」
「理由なき反抗」。「エデンの東」もいい映画でしたが、ジェームス・ディーンはやはり存在感のある俳優でした。
いかにも「意味ありげ」な題名ですが、「子育ての失敗(むずかしさ)」が大きな原因で、「反抗」には、実はちゃんとした「理由」があります。男の子(ジェームス・ディーン)の親はほしいものはなんでも買い与えるが、肝心の「男としての姿」を息子に提示することができないで、母親の言うがまま。一方、女の子(ナタリー・ウッド)の父親は、「まだ子どもっぽいところを残して甘える娘」に、十分な愛情を与えられない。
どちらもポイントは「父親」です。父親失格。そしてバランスの整わない両親の愛情です。進むべき方向を模索している若者たちが、揺れ動く心情や、やむに已まれぬ激情をコントロールできず、なかなか方向を見いだせない。自らの「思い」とは別に、次々問題が起こってしまう。
無意識であろうとも、「父親不在(?)」のケースは、ぼくも、塾を開いて他の人の子育ての現場に立ち会い、そして自らを振り返り、はじめてきちんと確認できたことです。なかなか目に見えません。
日本では特に昔から「子育ては母親」という意識が強いようで、未だに、自分の都合のよい時だけ子どもの気をひいたり甘やかしたりする場合(お父さん)もよく見かけます。日ごろからお父さんが、「子どものようすによく注意し、行動や変化のようすを見きわめる」というような習慣があまりない。「子育てに立ち入らない(立ち入れない)」。そうではないでしょうか。
昔の人に比べれば、こどもといっしょにいるときを一応たいせつに(!)しているようだが、実際は「同じ子どもとして(!?)」遊んでいるだけの場合が多い…そんな傾向はありませんか? 一緒に楽しく遊んでいるのですが、もう一つの視点、そこにあるべき「男として」あるいは『社会人として』の、子どもに対する視点が欠落している場合が多い・・・父親が子育てにかかわれる「かけがえがなくたいせつなポイント」のひとつです。
「性差別」という意味では決してなく、冷静に振り返ると、男(性)の愛情と女(性)の愛情が同じではありえない、と思うのです。「体内の赤ちゃんと約一年血液や酸素の流れをともにし、生まれてからも自らのからだから流れ出る『栄養分』を注ぎ続けるお母さん」と、「それを守る責任を客観的視点から自覚するお父さん」の愛情が同一のはずはありえません。それらの異なった部分をもつ両性(両者)の愛情をバランスよく受け継ぐことで、多くの子はきちんと育ってきた(育つ)のではないでしょうか。そして、それが子どもたちの成長と幸せのバロメーターになるのではないか。
ところが、現在のお父さんは、「われ関せず」と放任したり、逆にお母さんと同じような「愛情?」で接することしかできない。そんな事例を開塾以来、よく目にしてきました。後者の場合、いわば、「お母さんが二人(!)いる」わけです。お母さんが二人なら、両性の存在する意味がありません。
我慢が足りなかったり、責任感がなかったり、限度を知らなかったり、ルールを守れなかったり、積極性がなかったり…。「子どもを守り育てる」という部分では同じでも、両性の精神性や子どもに対する行動パターンは微妙に違います。そのバランスが整えられないままで子どもが大きくなってしまう。結果、個人として自立し、社会の一員として生きていくためにたいせつな側面が欠落してしまう。そう考えることができます。
これらの欠落と、両親の愛情のかけ方のアンバランスは、ぼくが今まで見てきた限りでは、かなりの確率で関連しています。それらの問題点のとっかかりを、この映画で見ることができました。自分の人生も子どもの人生も、そして「絵空事ではない」、かけがえのない親と子の日々、人生の一回性を考えれば、もっともっとたいせつにしなければいけませんね。
ヒッチコックの「救命艇」も、人間という存在を考えさせられる佳作です。
もうひとつ、「きみに読む物語」。少し古い映画で、男性には「ちょっと甘ったるい」ですが、いい映画です。ニコラス・スパークス原作の英語もやさしいし、翻訳も出ています。ぼくも読みましたが、「軽く」読めるので、英語の読解力向上に読んでみられてはいかがでしょう。
立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導Ⅹ(最終回)
立体授業『でっかい鯰釣り』のスライドとテキスト紹介の最終回です。このシリーズは、課外学習の「でっかい鯰釣り(鯉釣り)」を通じて、「環境に対する好奇心や興味を喚起する」=「環覚育成」のための補助学習の紹介でした。
ナマズ釣りにも「環境」が背景にあり、そこにも食物連鎖が存在しています。「ナマズ釣り」という機会を利用して、「現実に起きている食物連鎖」を実見でき、注意を留められれば、その内容については忘れようがありません。
そしてその場合の子どもたちの意識は「学習」ではありません。単に遊戯のみに止まらず、「ナマズ釣り」(や多くの立体授業)は子どもたちに「学習のおもしろさ」を誘導する「環覚」を育てるために、機能してくれます。
課外学習を通じて環境のおもしろさを子どもたちに伝えようとする場合、対象に対する視点や『切り口』が大きなポイントになります。面白くなるかどうかの分岐点です。参考にする図書で重宝するのは、「なりたちとしくみ」について詳しく展開している本です。それが、子どもが興味をもちそうなテーマであればいうことはありません。
写真で紹介している本(「地球・生命―138億年の進化」谷合稔著 SB Creative)は宇宙の誕生から地球の誕生、そして生命の誕生、果ては人類の誕生から「弥生人」まで、子どもたちが興味をもちそうな内容について、やさしくわかりやすく書かれています。
先週紹介した『137億年の物語』もそうですが、宇宙や地球の歴史から解き明かした概説書を読むことで、子どもたちの好奇心はさまざまに広がります。さらに「なりたちとしくみ」の解説が多い本は「学ぶおもしろさ」を目覚めさせる『なるほど!』にあふれています。テキストの説明や指導展開の企画に大いに役立ちます。堅ぐるしい指導書とは全く異なる世界が、そこにはあります。
川の流れと生育環境50p 魚のすみか51p
先週まで、今まで団で捕獲した魚から、なじみのある魚を泥鰌まで紹介しました。年間の立体授業(課外学習)を通じて団員諸君が「川遊び」や「釣り」で出会う川は四河川、プレイスポットは6・7か所です。しかし、連れていくだけでは彼ら(子どもたち)の頭の中で川を源流から海までの一貫したイメージでとらえることはできません。立ちあがってきません。
どの魚がどのあたりにいるか? 川の流域の変化はどうなのか? 比較できる資料や指摘を受ける機会が乏しければ、訪ねただけで終わりです。せっかくの「対象」が「通りすがりの一風景」です。「学ぶおもしろさ」を手に入れることは、稀有な偶然を待たなければなりません。教室で「流れる水」のはたらきや扇状地や三角州のイラストをテキストで見ていても、それは「学習知識」で終わります。受験問題の『解答』としてしか機能しません。
ところが、団員諸君が訪れる赤目渓谷ではV字谷や流れの速い渓流で大きな岩がゴロゴロしています。小さな石の陰にヨシノボリが隠れ、大きな岩の間にはサンショウウオが潜んでいます。それを実際に見たり追いかけたりするのです。カジカガエルの鳴き声、ヒグラシの澄んだ『音色』がBGMです。勉強とは関係なく、「子どもが生きている一瞬」です。
紀ノ川〈吉野川〉では流れは大きくなり、川岸の景観―切り立った流れの外側と砂や小石の積もった内側―「水の流れのはたらき」が指導の下で実見できます。釣りの浮子の流れや川遊びでの流れの強さ・速さ。
課外学習での体験と、これらの実際の川を見たイメージと指導が補完的にはたらき、川や流れによる地形の変化という「抽象学習」も、すっくと立ち上がります。それぞれの川で釣りあげる、またタモで掬う魚が生態系の一員を構成し、拾い上げる珍しい小石が川のはたらきを定着させます。立体授業です。
釣りは食物連鎖52p
魚釣りの餌になるのは、ミミズであり、川虫であり、クモであり・・・さらに、ナマズの場合であればザリガニやカエルが餌です(ポカン釣り)。釣りをしている近くではアオサギやカワウ・カワセミが舞台の「わき役」として色を添えます。川のそばですから、蛇も必ずと言っていいほど顔を出します。姿かたちから、ちょっとした悪役です。
また、「川遊び」に限らず、タケノコ堀り・田植えやクワガタ探し・稲刈り・ミカンの収穫で分け入る・・・山の中。森の中。竹藪。田んぼ。渓谷。岩塊。河川敷…。年間を通じた立体授業(課外学習)のロケーションで、食物連鎖に出てくる動物、「本人(!)」はいなくとも、ほとんどの近縁種に出会うことが出来ます。それらの知識や実体験がその都度加味され、子どもたちの中では自然の中で成立している食物連鎖(網)のイメージが明確にとらえられていきます。
「見たこともない(?!)動物たち」の知識が断片的に、そして細切れで存在するのではなく、「生きている動物たち」が登場する生態系や食物連鎖です。渓流で捕えたカワムシやヨシノボリや沢蟹やヘビトンボの幼虫・ヤゴなどをペットボトルや水槽に「同居」させておくと、眼前で本物の「食物連鎖」が始まるのです。
釣りの仕掛けづくり・鯉53p・ナマズ54p
今の子どもたちは自分たちだけで釣りをすることもほとんどなく、「釣りの仕掛け」を作れる子はいません。糸やハリを結ぶ、浮きゴムを通す、錘をくっつける、というような「手先の細かい作業」は苦手で、作り方を教えても最初はなかなかできません。ほとんど人任せです。
しかし、釣りは「仕掛け」を作れないと釣れません。これらの作業は「楽しく遊ぶには、それなりの努力や辛抱や工夫が必要である」という「たいせつな原則」をおぼえるには最適の機会です。
3年生で入団しても、何とかひとりでできるようになるのは5~6年生です。数年かけてできるようになったとき、彼らは「単に釣りの仕掛けができるようになった」というだけではなく、同時に、万事にかかわる大きな自信も身につけたことを忘れることはできません。以降のあらゆる努力や頑張りの支えにもなるからです。もちろん、難問を考えるときの陰の力の支えになっていることも、眼には見えませんが、はっきり感じることが出来ます。ぼくは、一人の団員の成長を7~9年も見続ける機会があるからです。
また、釣りの仕掛けも釣り方も立体授業のスライドで学習対象や学習内容と一緒に学ぶわけですから、スライド学習は、子どもたちの頭の中で、「おもしろくない学習」として位置づけられることはほとんどありません。「興味ある学習」なのです。
吸い込み釣り。ポカン釣り。子どもたちには珍しい釣り方の紹介で、子どもたちには「遊びの一環」です。鯉釣り・ナマズ釣り。しかし、そこで学べるもの、それは紛れもなく「裏学習」なのです。
さて、次週はこのシリーズの最後として、OB諸君の成績と進学について、もう一度詳しく紹介します。子どもたちが、どういうふうに育ったか、です。