『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑪

2016年07月30日 | 学ぶ

「理由なき反抗」は、「理由ある反抗」そして「理由に気づかない反抗」
 「理由なき反抗」。「エデンの東」もいい映画でしたが、ジェームス・ディーンはやはり存在感のある俳優でした。
 いかにも「意味ありげ」な題名ですが、「子育ての失敗(むずかしさ)」が大きな原因で、「反抗」には、実はちゃんとした「理由」があります男の子(ジェームス・ディーン)の親はほしいものはなんでも買い与えるが、肝心の「男としての姿」を息子に提示することができないで、母親の言うがまま一方、女の子(ナタリー・ウッド)の父親は、「まだ子どもっぽいところを残して甘える娘」に、十分な愛情を与えられない

 どちらもポイントは「父親」です。父親失格。そしてバランスの整わない両親の愛情です。進むべき方向を模索している若者たちが、揺れ動く心情や、やむに已まれぬ激情をコントロールできず、なかなか方向を見いだせない。自らの「思い」とは別に、次々問題が起こってしまう。
 無意識であろうとも、「父親不在(?)」のケースは、ぼくも、塾を開いて他の人の子育ての現場に立ち会い、そして自らを振り返り、はじめてきちんと確認できたことです。なかなか目に見えません。

 日本では特に昔から「子育ては母親」という意識が強いようで、未だに、自分の都合のよい時だけ子どもの気をひいたり甘やかしたりする場合(お父さん)もよく見かけます。日ごろからお父さんが、「子どものようすによく注意し、行動や変化のようすを見きわめる」というような習慣があまりない。「子育てに立ち入らない(立ち入れない)」。そうではないでしょうか。

 昔の人に比べれば、こどもといっしょにいるときを一応たいせつに(!)しているようだが、実際は「同じ子どもとして(!?)」遊んでいるだけの場合が多い…そんな傾向はありませんか? 一緒に楽しく遊んでいるのですが、もう一つの視点、そこにあるべき「男として」あるいは『社会人として』の、子どもに対する視点が欠落している場合が多い・・・父親が子育てにかかわれる「かけがえがなくたいせつなポイント」のひとつです
 「性差別」という意味では決してなく、冷静に振り返ると、男(性)の愛情と女(性)の愛情が同じではありえない、と思うのです。「体内の赤ちゃんと約一年血液や酸素の流れをともにし、生まれてからも自らのからだから流れ出る『栄養分』を注ぎ続けるお母さん」と、「それを守る責任を客観的視点から自覚するお父さん」の愛情が同一のはずはありえません。それらの異なった部分をもつ両性(両者)の愛情をバランスよく受け継ぐことで、多くの子はきちんと育ってきた(育つ)のではないでしょうか。そして、それが子どもたちの成長と幸せのバロメーターになるのではないか。

 ところが、現在のお父さんは、「われ関せず」と放任したり、逆にお母さんと同じような「愛情?」で接することしかできない。そんな事例を開塾以来、よく目にしてきました。後者の場合、いわば、「お母さんが二人(!)いる」わけです。お母さんが二人なら、両性の存在する意味がありません。
 我慢が足りなかったり、責任感がなかったり、限度を知らなかったり、ルールを守れなかったり、積極性がなかったり…。「子どもを守り育てる」という部分では同じでも、両性の精神性や子どもに対する行動パターンは微妙に違います。そのバランスが整えられないままで子どもが大きくなってしまう。結果、個人として自立し、社会の一員として生きていくためにたいせつな側面が欠落してしまう。そう考えることができます。
 これらの欠落と、両親の愛情のかけ方のアンバランスは、ぼくが今まで見てきた限りでは、かなりの確率で関連しています。それらの問題点のとっかかりを、この映画で見ることができました。自分の人生も子どもの人生も、そして「絵空事ではない」、かけがえのない親と子の日々、人生の一回性を考えれば、もっともっとたいせつにしなければいけませんね。
 

ヒッチコックの「救命艇」も、人間という存在を考えさせられる佳作です。
 もうひとつ、「きみに読む物語」。少し古い映画で、男性には「ちょっと甘ったるい」ですが、いい映画です。ニコラス・スパークス原作の英語もやさしいし、翻訳も出ています。ぼくも読みましたが、「軽く」読めるので、英語の読解力向上に読んでみられてはいかがでしょう。
 
立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導Ⅹ(最終回)
 立体授業『でっかい鯰釣り』のスライドとテキスト紹介の最終回です。このシリーズは、課外学習の「でっかい鯰釣り(鯉釣り)」を通じて、「環境に対する好奇心や興味を喚起する」=「環覚育成」のための補助学習の紹介でした。
 ナマズ釣りにも「環境」が背景にあり、そこにも食物連鎖が存在しています。「ナマズ釣り」という機会を利用して、「現実に起きている食物連鎖」を実見でき、注意を留められれば、その内容については忘れようがありません。
 そしてその場合の子どもたちの意識は「学習」ではありません。単に遊戯のみに止まらず、「ナマズ釣り」(や多くの立体授業)は子どもたちに「学習のおもしろさ」を誘導する「環覚」を育てるために、機能してくれます

 課外学習を通じて環境のおもしろさを子どもたちに伝えようとする場合、対象に対する視点や『切り口』が大きなポイントになります。面白くなるかどうかの分岐点です。参考にする図書で重宝するのは、「なりたちとしくみ」について詳しく展開している本です。それが、子どもが興味をもちそうなテーマであればいうことはありません
 写真で紹介している本(「地球・生命―138億年の進化」谷合稔著 SB Creative)は宇宙の誕生から地球の誕生、そして生命の誕生、果ては人類の誕生から「弥生人」まで、子どもたちが興味をもちそうな内容について、やさしくわかりやすく書かれています。

 先週紹介した『137億年の物語』もそうですが、宇宙や地球の歴史から解き明かした概説書を読むことで、子どもたちの好奇心はさまざまに広がります。さらに「なりたちとしくみ」の解説が多い本は「学ぶおもしろさ」を目覚めさせる『なるほど!』にあふれています。テキストの説明や指導展開の企画に大いに役立ちます。堅ぐるしい指導書とは全く異なる世界が、そこにはあります。

川の流れと生育環境50p 魚のすみか51p
 先週まで、今まで団で捕獲した魚から、なじみのある魚を泥鰌まで紹介しました。年間の立体授業(課外学習)を通じて団員諸君が「川遊び」や「釣り」で出会う川は四河川、プレイスポットは6・7か所です。しかし、連れていくだけでは彼ら(子どもたち)の頭の中で川を源流から海までの一貫したイメージでとらえることはできません。立ちあがってきません。

 どの魚がどのあたりにいるか? 川の流域の変化はどうなのか? 比較できる資料や指摘を受ける機会が乏しければ、訪ねただけで終わりです。せっかくの「対象」が「通りすがりの一風景」です。「学ぶおもしろさ」を手に入れることは、稀有な偶然を待たなければなりません。教室で「流れる水」のはたらきや扇状地や三角州のイラストをテキストで見ていても、それは「学習知識」で終わります。受験問題の『解答』としてしか機能しません。

 ところが、団員諸君が訪れる赤目渓谷ではV字谷や流れの速い渓流で大きな岩がゴロゴロしています。小さな石の陰にヨシノボリが隠れ、大きな岩の間にはサンショウウオが潜んでいます。それを実際に見たり追いかけたりするのです。カジカガエルの鳴き声、ヒグラシの澄んだ『音色』がBGMです。勉強とは関係なく、「子どもが生きている一瞬」です。
 紀ノ川〈吉野川〉では流れは大きくなり、川岸の景観―切り立った流れの外側と砂や小石の積もった内側―「水の流れのはたらき」が指導の下で実見できます。釣りの浮子の流れや川遊びでの流れの強さ・速さ。

 課外学習での体験と、これらの実際の川を見たイメージと指導が補完的にはたらき、川や流れによる地形の変化という「抽象学習」も、すっくと立ち上がります。それぞれの川で釣りあげる、またタモで掬う魚が生態系の一員を構成し、拾い上げる珍しい小石が川のはたらきを定着させます。立体授業です。
 
釣りは食物連鎖52p 
 魚釣りの餌になるのは、ミミズであり、川虫であり、クモであり・・・さらに、ナマズの場合であればザリガニやカエルが餌です(ポカン釣り)。釣りをしている近くではアオサギやカワウ・カワセミが舞台の「わき役」として色を添えます。川のそばですから、蛇も必ずと言っていいほど顔を出します。姿かたちから、ちょっとした悪役です。

 また、「川遊び」に限らず、タケノコ堀り・田植えやクワガタ探し・稲刈り・ミカンの収穫で分け入る・・・山の中。森の中。竹藪。田んぼ。渓谷。岩塊。河川敷…。年間を通じた立体授業(課外学習)のロケーションで、食物連鎖に出てくる動物、「本人(!)」はいなくとも、ほとんどの近縁種に出会うことが出来ます。それらの知識や実体験がその都度加味され、子どもたちの中では自然の中で成立している食物連鎖(網)のイメージが明確にとらえられていきます。

 「見たこともない(?!)動物たち」の知識が断片的に、そして細切れで存在するのではなく、「生きている動物たち」が登場する生態系や食物連鎖です。渓流で捕えたカワムシやヨシノボリや沢蟹やヘビトンボの幼虫・ヤゴなどをペットボトルや水槽に「同居」させておくと、眼前で本物の「食物連鎖」が始まるのです

釣りの仕掛けづくり・鯉53p・ナマズ54p
 今の子どもたちは自分たちだけで釣りをすることもほとんどなく、「釣りの仕掛け」を作れる子はいません。糸やハリを結ぶ、浮きゴムを通す、錘をくっつける、というような「手先の細かい作業」は苦手で、作り方を教えても最初はなかなかできません。ほとんど人任せです。

 しかし、釣りは「仕掛け」を作れないと釣れません。これらの作業は「楽しく遊ぶには、それなりの努力や辛抱や工夫が必要である」という「たいせつな原則」をおぼえるには最適の機会です。
 3年生で入団しても、何とかひとりでできるようになるのは5~6年生です。数年かけてできるようになったとき、彼らは「単に釣りの仕掛けができるようになった」というだけではなく、同時に、万事にかかわる大きな自信も身につけたことを忘れることはできません。以降のあらゆる努力や頑張りの支えにもなるからです。もちろん、難問を考えるときの陰の力の支えになっていることも、眼には見えませんが、はっきり感じることが出来ます。ぼくは、一人の団員の成長を7~9年も見続ける機会があるからです。

 また、釣りの仕掛けも釣り方も立体授業のスライドで学習対象や学習内容と一緒に学ぶわけですから、スライド学習は、子どもたちの頭の中で、「おもしろくない学習」として位置づけられることはほとんどありません。「興味ある学習」なのです。
 吸い込み釣り。ポカン釣り。子どもたちには珍しい釣り方の紹介で、子どもたちには「遊びの一環」です。鯉釣り・ナマズ釣り。しかし、そこで学べるもの、それは紛れもなく「裏学習」なのです
 さて、次週はこのシリーズの最後として、OB諸君の成績と進学について、もう一度詳しく紹介します。子どもたちが、どういうふうに育ったか、です。


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑩

2016年07月23日 | 学ぶ

 今週はところどころに先日の立体授業クワガタ探しの写真(7月17~18日)を掲載しています。

ホタ~るのひか~り、まどのそお~と~
 以前から気になることがあって、今回知り合いの先生に尋ねてみました。卒業式の「蛍の光」です。そうだろうと思っていたのですが、予想通り、市内の公立学校ではほとんど歌われていないとのこと。30代の先生もあまり経験がないとおっしゃっていました。そこで、です。「蛍の光」に嫌悪感をもっている方も、ぜひ読んでいただければ。
 「ふだんのミリタリールック」と同じく、こういう話を持ち出すと、「右」とか「左」とかいう「色眼鏡」の一面的な見方が返ってくることがありますが、ぼくは「右利き」で、ボールを蹴るのは「左足」です。つまり、どちらにも偏っていません。また、ミリタリールックで戦っている難敵は全人類を壊滅させる「国際年齢軍」です。ぜひ、それを念頭に読んでください。

 よくご存じの方がいることは十分承知ですが、まず「蛍の光」の1番と2番の歌詞を書き留めます。
 1番
 蛍の光 窓の雪(ほたるのひかり まどのゆき) 
 書読む月日 重ねつつ(ふみよむつきひ かさねつつ)
 いつしか年も すぎの戸を(いつしかとしも すぎのとを)
 あけてぞ今朝は 別れゆく(あけてぞけさは わかれゆく)
 2番
 とまるも行くも 限りとて(とまるもゆくも かぎりとて)
 互みに思う 千万の(かたみにおもう ちよろずの)
 心のはしを ひとことに(こころのはしを ひとことに)
 幸くとばかり 歌うなり(さきくとばかり うとうなり)

 30代の先生が「小さいころにうたった記憶があるだけ」というのですから、若い人々でこれらの歌詞の意味について知っている(聞いたことがある)人はほとんどいないのではないでしょうか。ぼくの素人解釈で恐縮ですが、これらの歌詞の意味について少し考えてみましょう。
 まず一番、一行目です。蛍の光、窓の雪
 これらはもちろん『蛍雪の功』でおなじみの中国晋時代の故事にならっています。灯りをともす油も手に入らないほど貧しい中、夜になるとホタルを集めその光で勉学に努めた車胤と、窓の近くの「雪でのあかり(白での反射光)」を頼りに、やはり苦学した孫康。なぞらえているのは「日本の豊かではなかった日々」です。
 二行目、書読む月日重ねつつ。つまり、「決して恵まれない人が多かった中、それでもみんな一生懸命勉強したよね」、というわけです。
 三行目。いつしか年もすぎの戸を夢中になって過ごしている間に、いつの間にか年が過ぎ(重ね、このスギは、もちろん杉の戸(ドア)との掛詞でしょう。
 最後の、あけてぞ今朝は別れゆく。これも杉の戸を「開ける」という意味と、年がすぎ、そして卒業の朝が「明ける(迎える)」のpunでしょう。いよいよ「旅立ち」の時が来た、というわけです

 二番です。
 とまるも行くも限りとて。これは「学校にとどまる」人と「卒業する人」という解釈もあるようですが、学校を卒業して様々な進路に別れる、地元にいる人や遠くに行く人と、広く解釈したほうが良いのではないでしょうか。「今日を限りで離ればなれになる」、ということでしょう。
 互みに思う 千万のいよいよ別れると思うと、思い出がありすぎて万感胸に迫る。お互いに心に浮かぶことが有り余る
 心のはしをひとことに胸がいっぱいになって何も言えない。「思いのたけ」を一言でしか言えない
 幸くとばかり歌うなり。「ただ幸せになってください」と歌うだけになってしまう
 微妙に異なる解釈はあるかもしれませんが、大意はまちがっていないと思います。今改めて読んでみて、こんなに友を想い、気遣い合う素晴らしい卒業式の歌が世界にあるだろうか、という思い「ばかり!」です。

 成人式や卒業式で若者が壇上にあがったり騒ぎ始めたころと、「蛍の光」が歌われなくなってきた時期。ぼくの中では微妙に重なります。「蛍の光のお蔵入り」は、掲載写真の3番・4番の歌詞に対する「嫌悪」と「歴史的なしがらみ」をまとっての「結果」だと思います。
 しかし、「お蔵入り」は正しいことでしょうか。子どもたちに正しく伝えなければならないことをさておいて、「蛍の光のお蔵入り」では問題の解決には至りません。「目の前にナイフを置かない発想」と同じ『味噌糞思考』です。
 たいせつなことは、こんなに良い歌があるのですから、まず、「蛍の光」一番・二番をみんなで歌うことだと思います。日本人のやさしさを伝えること。心の広さを教えること。
 この歌詞のすばらしさが君たちはわかるか? 卒業して離れ離れになる友の幸せまで祈るようなやさしさと心の広さがあるのが日本人なんだよ。いじめなんか問題外じゃないか。

  念のために、三番・四番の歌詞の意味の概略について書き留めておきます。
 三番。九州の果てから東北の奥地まで、海山を隔ていかに遠く離れていても、真心を隔てることはなく、ただ一生懸命、国のために尽くしましょう。
 四番は、千島列島から沖縄までおよぶ日本の支配地、守護の及ばないところがないように、不備がないように、男の人たち(わがせ)勇敢に頑張ってください。そして、ご無事で。

 こういう歌詞ですから、もちろん多くの問題をはらんでいます。しかし、一番・二番の歌詞をかみ砕いて、よく吟味したうえで、心を込めて歌い、そういう日本人だから、戦争は起こしちゃいけないよな。ひとりひとりの生命と幸せを軽んじてしまうかもしれないことは許してはいけないね。3番・4番の歌詞の問題点について、みんなで考えてみようや。そう、教えるべきではないでしょうか。小さいころに。
 「『蛍の光』が歌われなくなってきたことと、『学校の荒廃(もちろん、それ以外の問題の山積は百も承知ですが)』がまったく関係のないことである」とは、ぼくには思えません。

立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導Ⅸ
田んぼ・川・海―46p~48pウナギ・ドジョウ・ナマズ
 さて、立体授業『でっかい鯰釣り』のスライドとテキストの紹介です。先週は鮎と鮭でした。今週は鰻とドジョウと、釣りのターゲットであるナマズです。

 以前紹介したメダカや鯉やフナもそうなのですが、これらには思わぬ共通点があります。今では「川や池の生き物」という認識ですが、半世紀前には近くを小川が流れる全国の田んぼで容易に見つけられた魚たちでした。
 鰻などは、東南アジアの深海で産卵するまでの間は、山間の田んぼの水路や近くの小川などで約十年もの時を過ごした(過ごす)ようです。小さいころ田舎で、大人たちが近くの曽我川で蓄電池や近くの電線からとった(!)電気で、ウナギ漁をしていたことを覚えています。僕自身も時々ウナギの穴釣りをしていました。

 また、ぼくは見たことはないですが、ハサミに「毛」が生えているモクズガニも海まで行き来した〈している〉ようです。今のように田んぼがジャンボタニシ(スクミリンゴガイ)やカエル独占じゃなく、多様な生態系が維持されていたということです。
 そしてそれらの生き物の多くが農家の人の食膳にも並びました。おそらく稲作が始まった弥生時代の人たちも田んぼでの稲作りで思わぬ獲物を手にすることも多かったにちがいありません。

 これらのエピソードから、その後の立体授業『蛍狩り』でのホタルの観察などの体験と知識を経て、口先と観念的なとらえ方ではない自然保護の課題が、子どもたちの心に根付いていく下地ができます
 立体授業では、課外学習との連動で日ごろの「環覚」を養うこと、また「抽象的な受験知識のみのストックに終わらず環境総体に対する好奇心を培い、その「なりたちとしくみ」のおもしろさに目覚めてほしいと願っています。おもしろさ・謎・不思議。やがて、子どもたちにとっての環境が問題発見の「聖なる泉」として機能することを信じながら。

 この「ナマズ釣り」の立体授業やスライドも、こうして次のコメ作りの田んぼの学習や蛍狩り・渓流教室等ともリンクします。それは当然のことで、僕たちの日常生活、生きている環境そのものが、すべて関連の中で存在しているからです。できるだけこうした「つながり観」を育てていきたいと、毎年少しずつスライド学習の更新、検討を続けています。 

 子どもたちはOB教室での応援参加も含め、一つ一つそれらの体験と知識を積みあげていくことで、学習の裏付けが取れ、学習内容にもイメージと「カン」が働くようになり、科目間の関連にも目覚めていきます。団で6年、7年と過ごすうちに『環覚』と『学体力』が身についていく秘密です。これらの細かい指導に、必ずしも保護者の理解がともなわないことに切歯扼腕する日々も多いのですが。子どもたちの成長と、きっとよくわかってくれる指導者の方もたくさんいるだろうとの期待が日ごろの支えになっています。(なお、表記のOB諸君の進学実績や偏差値の考え方等については、三年前に紹介しましたが、現在は知らない方も多いでしょうから、来週もしくは来来週に再度詳しく紹介します)

 「受験合格のための勉強」は「生きるための学習」のほんの一部であり、それ以上では決してありえないこと」にきちんと気付いて判断と決断を重ねられる方が一人でも増えることを、子どもたちのために願ってやみません。

シナリオ学習で思うこと
 ぼくの場合、年をとっても「おもしろいこと」や「やりたいこと」が次々出てきて、今は映画(DVD)を見てシナリオを学んでいますが、このように自身が学習を続けることで、実は子どもたちの学習指導に大いに役立つことがあります。小さいころ「学習した際のできごと」のあれこれ、おとなになれば、詳しいことはたいてい忘れてしまっているのがふつうです。ところが、自分が新しいことや初めての学習に取り組んでいると、学習する子どもたちの気持ちの変化や心の揺れもよくわかります。「いつまでたってもできないもどかしさ」や「わからないことに対する腹立たしさ」。「こういうことなんだな」と理解が届きます。それらを指導や学習内容にフィードバックできるのです。

 年をとると学習内容を指導する技術には長けてきますが、その「プロ意識化!?」によって、「その学習が、子どもたちの考えることや生きていくことにどう生かされるべきか、役に立たせるか」というような「生きる力」の指導がないがしろになってしまうようなことはありませんか?
 「何人が合格して、偏差値がいくら上がったか」が「飯の種」や「ステイタス」で、それ以外はほとんど念頭になくなる。受験の知識とテクニックを植え付け、合格させれば「金メダル」。「そんなことでいいのか」という反省も行われないまま、子どもたちの学習環境が連綿と継続していく…。これらのシナリオが夢であることを祈りたいですね。

 学習といえば、6~7年前、OB教室のY君の京大受験の英語指導をきっかけに、再度英文読解に取り組んだことが、今とても役立っています。シナリオの指導書は映画の本場であるアメリカのほうが良いものがたくさん出ているからです。英語を勉強しなおしたときは、映画のことなんかまったく頭になかったのに・・・。これも『学習すること』のなせる業です。人生の不思議な縁を感じています。

 写真はその指導書の一部ですが、どちらも、ごらんのように翻訳書も出ていて、「映画や創作に興味がある人で、英語の学習もしたい」という人にはうってつけです。読み比べながら学習できます。特にLINDA SEGERの英語はわかりやすく、少しレベルの低い学生諸君も、とっつきやすいでしょう。

 今週の佳作映画は三本です。「草原の輝き」は、「やんちゃな娘役がぴったり」のナタリー・ウッドが懐かしく、また「暗黒街の顔役」は1932年の作、「疑惑の影」は1942年と、いずれも今から70~80年前の作品とはとても思えない出来です。
 


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑨

2016年07月16日 | 学ぶ

今週は「できる先生」の欄に、佳作の映画を写真紹介しています。それにしても受賞やレビューは、まったく参考になりません。アカデミー賞も同じです。

シーパップから思うこと
 以前睡眠時無呼吸症候群のことをお話ししました。小さいころ、夜中によく目が覚めたことがありました。自らの経験から振り返ると、おそらく子どもたちの潜在的な患者数は、かなりの数になるのではないでしょうか。経験が少なく日々のからだの調子も比較できないし、身体をきちんと気にする習慣もないので、こちらからようすを見てよく注意してあげることが必要です。
 こんな具合です。ぼくの場合はよく「水中にいる夢」を見ました。「苦しいので、何とか水面に浮かび上がろうと努力するのですが、どうにもならなくて、もがいていると、ギリギリの苦しさと動悸の激しさで目が覚める」というものです。

 子どもですし、そのころにはまだ「睡眠時無呼吸症候群」の知識が一般的だったわけもなく、また「嫌な夢」を見てしまった、という思いだけでした。田舎から離れた市内の小学校に越境していたころ、たまたま乗り合わせた友人のお母さんがぼくの顔を見て、「南淵君、顔色が悪いね、疲れてるの。目の周りにクマができてるよ」。「隈」がよくできる子どもでした。
 若いときから、居眠りや就寝時、「大きな鼾をかき、途中で長い間とまって、また大きな鼾が出る」という周囲の観察があった時も、いびきのことを調べたわけではありません。そのころはまだ、「いびき」が病気に関係があるのではないか、という意識をもっていた人はほとんどいなかったのではないでしょうか?
  血圧が高くても、年をとってコレステロールがたまり、血管が細くなったのだろう、というごく常識的な認識しかありません。今のように病気に対する一般的な知識が広まっていたわけではなかったので、「止まるいびき」が睡眠時無呼吸症候群の代表的な症状だということもまったく知りませんでした。

 ごく若い時から朝、目の周りにクマが出る、ということもしょっちゅうでした。その後成人してからも、朝起きづらい時には、「昨日酒飲んだしなあ」とか「年をとってきたので疲れやすくなったのだろう」という認識どまりです
 それらの症状の原因に、はっきり判断がついたのは、何十年もたってからです。仕事上の縁があって、病気のことや身体のこと・健康について調べる必要ができ、霧が晴れるように、からだの調子や症状の多くの疑問が明らかになってきました。それぞれの症状と学習したことがリンクして「判断が切れる(総合して判断できる)」ようになってきたのです。
 睡眠時無呼吸症候群は寝てしまうと呼吸ができなくなってしまうことが、断続的に続く(最長で約74秒というような検査結果が出たこともありました)のですから、わかりやすく言えば、毎晩首を絞められながら寝ているのと同じです

 酸素が入ってきません。危機を感じた脳はできるだけ血液を送る作用(心拍数や血圧を上げるはたらき)を高めようとします。それでも改善しないので、限度がくると緊急反応で目覚めるのでしょう。ぼくの場合睡眠ステージのⅣ(熟睡状態)がまったくない状態でした。(データ写真参照)
 毎晩そんな状態では心臓にも負担がかかるので不整脈等の異常も出やすくなります。また、細胞内の内呼吸にも支障が出て、新陳代謝が滞るので疲労物質の除去がうまくいかず疲労が回復しません。さらに、代謝が滞るのですから痩せにくくなります。疲れが取れず目の周りにもクマ、というわけです
 いびきをしている人は口呼吸ですから、のどが乾燥しイガイガして痛くなったり、よく咳が出る、またウィルスが入りやすいので風邪もひきやすくなります。こういう症状からこの病気の可能性を見きわめることも出来ます。
 シーパップという睡眠時無呼吸症候群用補助装置をつけてからのすっきりすること。目覚めのよい朝。

 何の躊躇もなく自然に身体が起きあがり、やるべき仕事に向かえます。血圧も「上下とも20以上」下がりました。この信じられないほどの変化と嬉しさは、経験者でないとわからないと思います。「よく眠ることができると、こんなに疲れが取れて身体と頭がすっきりするのか」とびっくりしました
 そういう経験から振り返ると、子どもたちのことが少し心配になります。性格形成の時期でもあるわけですから、朝の辛さや疲労回復の遅れが続くような子ども時代を送ると、行動パターンや、自主性・楽観的・悲観的などという性向の形成にも大きな影響があるのではないか。そういう判断もできます

 ぼくはガリガリにやせていた方で、子どものときに太っていないからといって、「睡眠時~ではない」という判断はできません。もしいびきが大きく、途中で止まるようなことがあれば、いろいろな点で余計な負荷がかからないように、ぜひ「ちゃんとした病院」で検査を受けさせて(受けて)ください

でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅷ
41p~45p 鮎ー団の釣果の魚から、サケの仲間
 さて、前回の指導紹介は「でっかい鯰釣り」の団の釣果の紹介でした。そして金魚や錦鯉の話に触れました。諸事情により残念ながら、団は海での立体授業ができません。日ごろよく目にする川の魚を主に取りあげます。生態や人との関係も含めて、「立体的に」経験を積みあげたいからです。また「日ごろよく見る」という身近さから切り込むことで、環境に対する好奇心やなぞ・不思議も芽生える可能性が高くなります。「環覚」です
まず、かつて赤目でも結構とれたアユからです。アユは子どもたちの知識の『核』になりうる、さまざまな特徴をもった魚です。

キュウリウオ科で、仲間に氷上での穴釣りで有名なワカサギ、お父さんの晩酌の肴にもでてくるシシャモがいます。ちなみに安いシシャモは、同じキュウリウオ科の樺太シシャモで、よく比較して見れば決して似てはいません。
 川で生まれたアユは一年で命を終える間に、海に下り、また川に上り産卵するという長い旅をします。稚アユを放流して友釣り客を集める川がたくさんありますが、天然アユと養殖アユ、そして琵琶湖産の小鮎がいます。
 ちなみに琵琶湖産の小鮎は琵琶湖にそのままいればあまり大きくならないようです(琵琶湖から河川に遡上する鮎は大きくなる)。親魚になっても12~13cmと小さいままで卵をはらんでしまうといいます。これは、琵琶湖が止水域で、アユの好物の珪藻類・ラン藻類・プランクトンが少ないこと、アユの個体数が多すぎるたことによる栄養不足が、主な原因として考えられています。
 最初は食用としてのみ捕獲されていた琵琶湖のアユを、明治40年代に他の河川に放流したところ、見事なアユに成長することを発見したのが、当時東京(帝国)大学教授であった石川千代松博士でした。「湖産アユ」の放流が盛んになったのはそれ以来です。《湖産アユ(琵琶湖産)と海産鮎(天然遡上)の混雑には生態学上も様々な問題もはらんでいます。病気の感染や湖育ちで海にうまく適応できない体質等です。》

 これらのエピソードにも、スライドのように、「魚のすみわけ」のおもしろいテーマが含まれています。ふだんすみ分けられている川にアユが遡上してくることで、それらのバランスが微妙に変化するようすです。
 さらに、琵琶湖のブラックバス等の外来魚の被害に触れることが出来ます。学習対象の関連を大きくとらえることで発想が広がると、次第に知識が知識を呼ぶようになります。
 また、アユは「友釣り」で有名ですが、これは一定区域の縄張りを主張し、エサを独占しようとする習性を利用しているということを伝えます。自分の縄張りに他のアユが侵入しようとすると、体当たりして追い払う。それによっておとりアユに仕掛けられた針に引っかかってしまう、という釣りです。

 アユは、8~9月ごろになると、群れをつくりながら川を下りはじめ、9~11月ごろに中下流域で砂礫底の、水通しのいいところを選んで産卵します。産卵数は数万といわれ、川底の石などに付着し、10~20日前後で孵化します。産卵すると親は死に、孵化した稚魚は5~6mmの大きさに成長すると、海へ下って越冬する。翌春3~5月ごろ、川の水温が10~12度くらいになると、稚アユたちがまた元気いっぱいに遡上を始めます。
 海での約半年間は主に動物性のプランクトンを食べているので、遡上初期は水生昆虫など動物性の餌を食べますが、次第に川底が石に変わってくると、これらの石につく藻類を食べるようになり、「縄張り」をつくります。これが鮎の一生です。《これらのエピソードは『釣り入門』(西東社)が参考になりました》

 これらの知識を身につけて、「友釣り」のお供をする機会があったり、家庭やレストランでアユの塩焼きが出てくると、子どもたちの『学習の視界』が開けます。「学習」と「生活」が近しくなります。総合することで子どもたちの『環覚育成』に欠かせない経験になります。『立体授業』です。  
 「縄張り」や「すみわけ」は高校生の時に習う生物の学習ですが、そのころになってこうした知識を手に入れても、自然体験に疎くあまり外遊びをしなかった子どもたちは、学習する意味を「受験用」にしか見いだせません。既に感性や好奇心の「行く先」も変わってしまっています。「年齢や知識欲とそぐわない」学習です。学習の多くが、こうしたアンバランスな状況で続いています。そして「昔からそうだから」と何の疑いもなくそのまま踏襲され、継承されていくのでしょう。

 遊びや体験との連動で、知識がもっとスムーズに入り、生活(日常)と学習がいかに融合できるか。その方法を探ることで子どもたちの学習はおもしろく、もっと意味のあるものになる。そして13歳のハローワークでもふれましたが、仕事や未来に少しずつ「現実感」のある光が見える成長を手にできると、ぼくは考えています
 鮎の次の鮭のスライドも、それぞれの特色から、子どもたちに伝えることは山ほどあります。説明は長くなるので省略しますが、考える要領や視点は同じです。ただ、地理との関連をとれるように、「サケの回遊」の地図は入れておいた方がよいでしょう・

できる先生とできない先生
 先週、(医師と)教師がおおきなやりがいのある職業ではないか、と伝えました。長い「人生散歩」のあと、指導経験が20年を超え、自らへの戒めもこめ、ぼくなりの先生の評価表を手にするようになりました。通知表に習って三段階評価です。
C評価
「できない先生」。力不足で責任感や指導能力もやる気もなく、言っていることもよくわからない先生。
B評価
「ふつうの先生」。教科書や指導書を見て書いてあることを書いているとおりに伝えられる先生。
A評価
「よくできる先生」。子どもたちの反応やようす・感覚からフィードバックした指導のノウハウを身につけ、理解させて次の(学習)ステージに結びつけることができる先生

 B評価を「ふつう」にしましたが、「指導書に書いてあることを伝えられる先生」というのは、果たして良い先生でしょうか? 「指導書に書いていないこと」ほど、子どもたちにとって、おもしろく興味のあることが多いのではないかとぼくは思っています。
 先ほどの「すみわけ」や「縄張り」のエピソードもそうですが、小学生に言ってもわからない話でしょうか? 決してわからない話ではありません。半分居眠りをして聞いている高校生より、小学生に一生懸命話してあげた方が、眼をキラキラ輝かせおもしろがってくれるはずです。 そして、その結果勉強をおもしろがってくれ、子どもたちの「その後」に結びつくこと。先生の役目として、それがもっともたいせつなことではないですか?

 そういう経験を積めば積むほど、子どもたちは自ら学習に向かうはずです。「知りたい心」が芽生えてきます。ぼくの経験では、子どもはその次を知りたくなれば、そういう進め方をすれば、自ら集中力を発揮し、理解しようと努める存在です(その陰にはきちんとした躾や家庭環境の知育・知的環境がそれなりに必要であることは言うまでもありません)。

 年齢や学年に制限を設けて、「えらい人たち」が学習内容や学習方法を策定(決定)していくのでしょうが、それらのさまざまな制約のおかげで、おもしろいものや好奇心や興味をひくものもわからないもの・必要ないものになってはいないか。そして結局、記憶材料としてのエッセンスの知識やまとめの羅列に終始する指導要領になってはいないか? 
 何でも「わからないもの」と決めてかかるのは、子どもたちに対して「失礼で理不尽な仕打ち」ではないですか? まず、そうした年齢制限や学年別というバリアをある程度取り払ってしまい、指導内容を組み立ててしまえば、きっとおもしろい授業ができると思います。そうした指導によって学習内容にある必須事項も自然と身についていくでしょう。個別に工夫することはできます。

 先生方の忙しさ・たいへんさはいろいろ聞き及び、わかっているつもりですが、何よりも子どもたちが学習のおもしろさをわかってくれることが先決です。「よくできる先生」とは、「子どもたちの反応や感覚からフィードバックした指導のノウハウを身につけ、理解させて次の(学習)ステージに結びつけることができる先生」だと思うのです。

 なんですか? 親がたいへん(!)な時はどうするか!? どうもできませんよ、もはや。放っておきましょう(笑)。ほうっときなさい。
 先生にもそんな人がいると、どうするかって? 「シカト!」(笑い)。
 冗談はともかく、まず、子どものことだけ考えましょう。そうでないと、素晴らしい子どもがいない世の中になります。相手はひとりひとり、未来を担っていくたいせつな子どもたちなのですから。夏です。機会はいくらでもあります。
 


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑧

2016年07月09日 | 学ぶ

13歳のハローワーク
 かつて、村上龍さんの「すばらしい本」が出版されました。
 「限りなく透明に近いブルー」ではありません。「13歳のハローワーク」。子どもたちの興味の対象の広範にわたり、その先にある職業も紹介されていました。

 出版されたとき、野球選手や歌手やタレントしか知らない、興味がない(興味をもてない)子どもたちに「大きな夢」を提供するだろう。「いろいろな仕事がある」ということに気づくか、気づかないかは学習習慣や学習態度にも大きく影響します。「やってみたい仕事」が目に留まれば良い目標になり、やる気の掘り起こしにもつながります。少なくとも、「芸術的才能や運動能力の有無にかかわらず、むやみにスポーツや『もろもろ』をすすめたり、スパルタ指導を行う」というような『ナンセンス』とは異なる世界が広がるはずです。

「誰でもなれるわけではない」スポーツ選手や歌手・タレントという「絵に描いた餅」、「張りぼてのヒーロー」ではありません。また「知らない間に、『テレビに出る人が偉い』と多くの人が思ってしまっている世の中」で、「夢をもてない・先が見えない人生」を嘆くばかりではなく、人生を(少しは)実のあるものにできるハンドブック足りうるかもしれない。そう見えました。  
 ところが「時代の先取り」すぎたのか、「13歳(!)には表現方法がまだむずかししすぎた」のか、考えていたほど話題にはなりませんでした。今見ても新鮮で素晴らしい本です。本を読めるようになった子どもたち(ぼくは小学校高学年の子に読ませたいです)に、ぜひ(手を添えて)読ませてください。子どもたちの知らない、多くの職業に目を向けることが出来ます。夢への手がかり、目標が定まる一助になるかもしれません。

 ちなみに、ぼくは数多くの仕事の経験から、「人生を豊かにできる(経済的にという限られた意味ではありません)大きな可能性のある職業は医師と教師ではないか」と子どもたちにアドバイスします。付加価値ともいえない「付加価値」をつけて「ぼったくる」物の売り買いの多くではなく、どちらも一生懸命やっていれば『心からの感謝』という何物にも代えがたい「財産」を手に入れることができるからです。
 「かけがえのない健康や生命への手当の代償」であり、「かけがえのない人としての成長指導に対する対価」であるからです。どちらも嘘偽りのないピュアな「喜び」を手にできます。
 OBのK君は(ブログ『アフリカへ行く』参照)、そういう話を聞きながら育ってくれました。しかし現在、医師や教師という、かけがえのない職業の基盤に、そういう思いは息づいているでしょうか。自戒を込めて振り返っています

 
でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅶ
 さて、立体授業『でっかい鯰釣り』のスライド紹介と指導の続き。7回目です。
 小学校や塾での学習のすすめ方・学習指導は何の反省もなく、教科書を中心に、それまで獲得された「科学的知見」の、いわば「要点のまとめ」を学習対象として紹介し、その「結論(!?)」を「覚える」ために「問題演習」を行うことが中心です。本来なら野に出て、あるいは日ごろの遊びの中で気づくべき「疑問」や『不思議』を、「結論の方からかいつまんで紹介していく(!)」という繰り返しです。
 

 子どもたちを相手にしていると、だれでもがわかっていくように、「何も知らない!」子どもたちが「興味を感じたり」、「好奇心を呼び覚まさせるものの多く」が、何気ない日々の生活の中で起きる(出会う)数々の現象や対象です。真逆の体制です
 教室に「座らされ」、「知らないもの」を「本」から学ぶことに興味を持続できるのは、生来の性格やそれまでの環境や育ち方に恵まれた数少ない子たちで、その他多くは、「強制されるか」「なだめすかされるか」で、半ば仕方なく座っている子たちではないか、とぼくは想像しています。

 「知らないこと」や「よく見たこともないもの」の特徴を教科書を読みながら説明されただけで、ほんとうに興味をもてる子がどれだけいるか。「知らないもの」や「見たこともないもの」を「抽象的に」指導されつづけても、子どもたちは「なぜ学習するのか」、いつまでたっても意味が分かりません。「よく知らないもの」がほとんどですから、個人としては「知りたいこと」がありません。「どう役に立つか」、「自分の生きていることとどう関係しているか」、「成り立ちとしくみのおもしろさがどうなのか」。
小さい子どもたちの学習指導の本格的改善のスタートは、「それらの問いに指導者自らが答えを出す」ところからはじまります。いずれも、知らない・関係ない・わからない中で、ゲームをしたがる子に、「ゲームばかりするな」という方が無理でしょう。「する意味が分からん」、からです。『ゲーム』の方が、「即興で、手軽で、おもしろい」からです。その条件をクリアする方策や指導が必要です。

 まず、学習や学習対象や学習内容が「生活・日常とどうかかわっているか」、「どうおもしろく、かけがえのないものであるか」、「切っても切り離せないものであるか」等という「考察」をすすめたうえでの指導です。立体授業は、その問題を解きほぐす糸口になります
 なお、掲載の問題集の写真は現在流通している理科のテキストの代表として紹介したもので、他意はありません。

35p~38P団の釣果の紹介
 立体授業での行動は『でっかい鯰釣り』に限らず、必ず川遊びや釣りをともないます。「身近に池や川があり、そこにはさまざまな生物がすんでいて・・・」という体験が、まず「環覚」の芽生えを後押しします。

 年間に訪れる数本の川にも多様な生物はいます。網で魚やエビを採ったり、石をめくって採った川虫を釣りの餌にしたり、カニを捕まえたり、ヨシノボリや河鹿の卵を発見したり・・・。ハプニングの一つ一つが、子どもたちの『環覚を養う』礎になります。そして、それが「知ること」のバックボーンになっていきます。『手の届く学習』として育っていくわけです。 
 写真で紹介しているのは、いずれも今まで課外学習で子どもたちが捕まえた魚たちです。先週のメダカの生育環境紹介のスライドの後、「実際に訪れる川でどんな魚がとれるか」の紹介は、多くの子どもたちの興味を引きます。

 行動、「川に網を入れる行為」を誘います。その過程で魚を捕る網と虫を捕まえる網のしくみ―道具―のちがいが腑に落ちます。釣り竿のしなり具合や必要な長さ・振り方や遠心力のしくみを「体感」できます。
 ヒトは「道具を使い分けること」によって文化を発達させてきました。その便利さと不自由さがわかり、安全や危険度もわきまえてきました。

 ナイフ等の取扱いに見られるように、眼の前にになければ安心、使わなければ安全という発想では、便利さはもちろん、使い勝手や力加減さえ分かりません。そんな状態や感覚で、「何が判断できる」のでしょう
 手元になかったり、目の前に置かなかったりしても危険なものは相変わらず危険です。悪用しようと思えば、どこからでも、どんなものでも入手可能です。探し出せるし、凶器に利用できます。

 「目の前にあっても使ってはいけない」という倫理観と、「使わない」というセルフコントロールを育てることが、まず先決です。道具は手に取ってみる、使ってみる。それが子どものときには欠かせない経験であり、かけがえのない体験です。
 網や竿という道具を自由に使って獲物を手に入れる時、子どもたちは同時に「大きな快感」も手にします。そして、それが、人が行ってきた自然(環境)との「心の交流」です。ほんとうにたいせつにしなければならないという『自然保護』の感覚も、その時に頭の片隅に「芽生えます」。

39p~40P鯉の仲間

 「でっかい鯰釣り」での釣り対象魚はナマズと鯉です。まず「コイの仲間」の紹介からです。
 目的地の川は街中を流れ、有機物でいっぱいです。かつてはフナやブルーギル、そして「タウナギ」なども生息していたのですが、現在子どもたちと行く周辺には姿が見られません。プランクトンなどの餌には困らないはずですが、ナマズと鯉以外はほとんどいません。

 幅5~6メートル、深いところで1メートル余りと小さな川なので、他の魚をはじめとして、生まれてくる小さな生きものは、すぐ「餌」になってしまうのでしょう。ナマズやコイが大きくなりすぎ、おそらく小さいうちに全部食べられてしまったのでしょう。生態系の頂点の二種類だけなのです。それでも二種類が生きているのは川に流れる「人間のおこぼれ」で食いつないでいるからです。釣りをしながらのこういう観察が、子どもたちに生態系の複雑さや「環境」を教えてくれます。

 「ぼく(たち)が小さいころ、もっときれいだった川で毎日泳ぎながら考え身につけた知識が学習のバックボーンになってくれた」という考えにたどり着いてから、ありとあらゆるものが、ぼくの頭の中で子どもたちの学習対象・学習内容として立ちあがってきます。
 野遊び・腕白遊びを経験したことがない、あるいは体験の少ない人たちには想像もつかないことかもしれません。しかし、そういう視点からの発想が、子どもの指導に大いに役に立つということが、ぼくの中で日に日に明らかになってきます。そして、それらを考えることがおもしろくなってきているのです。

 金魚と錦鯉は「文化」への始点です。フナやコイから「改良?」がすすめられていったこと。縁日で見かける金魚や錦鯉と子どもたちの関係が、これによって「より身近に」なっていきます。
 魚は、スーパーに並んでいる切り身というだけではありません。ぼくたちと決して切り離せないさまざまな関係があります。

 魚に終わらず、歴史上では、人とのかかわりの中で犬や猫・食肉動物たちの種類が増やされて(増えて)いきました。そしてその動物たちの祖先も進化の過程のどこかでぼくたちと「血」がつながっています。学習対象や学習内容は、関係と広がりの中でとらえなければなりません。
 小学生に対する学習の進め方や知的レベルの発達については、まず家庭をはじめとする、知育環境が大きく影響します。それはファインマンをはじめとする偉人たちの子ども時代の紹介で、よくわかったことです。

 「何を、どう与えるか」から始まり、一緒に「どこで何をするか」まで、「すべての日常生活」、「かける言葉の一つ一つ」も大きく影響してきます。すべて、子どもたちの「何をどう見るか」にかかわり、その一つ一つが以降連続して積み重なり、子どもたちの情報と情報収集の大きさ・広さ・深さに集約するからです。それらについての考察で、子どもたち(の脳)は成長していきます

 かつて、「東大受験生が小学生用の百科事典を読み直していた」という、どこかの予備校の先生の報告記事がありました。
 ピュアな感覚で、世界の成り立ちを、ものごとのしくみを見直すことの大きな意味。受験問題としてではなく、トータルで「世界」をとらえ直すことで、教養部分の再構築がはかれ、総合的な観点・多角的な視点が生まれます

 実は、難関国立大へ進む子には、こうした成長が切り離せない、ということが団のOB諸君の成長ぶりを見ていると、よくわかるのです。課外学習を中心とする立体授業は、それらを理想とするしくみの構築です。
 以下スライド紹介は次週。
 掲載の本はWHAT ON EARTH HAPPENED? (Christopher Lloyd,BLOOMSBURY)と、その訳本「137億年の物語」(野中香方子訳・文芸春秋)です。子どもたちに話すべき視点が見えるかもしれません。


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑦

2016年07月02日 | 学ぶ

掲載引用への思い
少しお詫びしなければなりません。スライド紹介の写真を用意したのですが、「小学館のNEO魚」の図鑑分引用が一部アップできません。おそらく、著作権等の問題がらみだと思います。
 関係者の皆さん、ぼくは個人塾で数名の指導をしているだけです。その指導のなかから、子どもたちが大きく成長できる指導法が成立しつつあります。ブログのアップは、子どもたちに、受験に特化した「勉強」ではなく、『学習する面白さ」がわかる学習をかさね、学習の大切さがわかる生活を送ってほしい、という思いからです。それによって将来大きく飛躍する学力や能力を養ってほしい、という願いしかありません。
 
その成長過程で、学習する面白さを身につけなければいけない子どもたちのために、どの本のどの写真がよいか、わかりやすいか、おもしろいかを紹介させてもらっているつもりです。本のアピールにはなっても、害にはならないのではないでしょうか。
 子どもや学習を「生業」とする出版社や関係者の方々は、経営や営業面も大切でしょうが、対象とする相手が、「大きな可能性をもって、今生きて育ちつつある、かけがえのない日々を送る子どもたちである」という認識がもっと必要ではないでしょうか。そういう意識があって初めて、素晴らしい本や素晴らしい指導が成立するはずです。また、それが世の中に対する「無言」のアピール、大きな宣伝効果を生むのではありませんか?
 子どものことや指導のことをほんとうに考えている出版社であるという心の大きさを期待しています。もう少し寛容な対応はできないでしょうか? こういう指導が好奇心あふれる子どもたちや保護者を育て、本の売り上げに寄与する、という大きな考え方はできないでしょうか。ご検討のうえ、できれば再考をお願いします。子どもたち相手の出版社や学校、「導く側」の心の狭さは、可能性ある子どもの成長の害になりこそすれ、決して力にはなりません。

隔靴掻痒 
子どもたちにとっての「自然体験学習」のたいせつさを伝えるとき、いつも感じているのは『ある種のむなしさ』です。「話すことによって、(自然)体験が学習や子どもたちの成長に果たす役割の大きさと深さがどこまで理解されるだろうか」という疑念がぬけません
 ごく少数の「自然体験の豊富だった人(自然の中で遊んで、十分その恩恵を受けた人)は、当事者ですから「体験」は半ば当たり前のことで、「大事だとは感じているものの、どこまで大切か、なぜたいせつか?」というところまでは、あまり考えないでしょう。『体験のない人』との考え方や頭のはたらきのちがいを比較してみるタイミングや環境もありません。多くの場合、深く考えるまでには至らず、思考は「たいせつだ」どまりで停止です。

 一方、前回も例示した「学校での体験」くらいしか経験のない大多数の人は、さらに想定外です。「あれをしちゃいけない、これをしちゃいけない」と、目的地へ直行のイベントを年数回体験したとしても、せいぜい「『緑』や『きれいな空気』・『広々とした雰囲気』・『澄み切った空』の想い出」どまりです。楽しかったね遠足。おいしかったねお弁当・・・。それ以上の記憶はほとんどありません興味の向きようがないからです
 プライベートでも、道端の雑草や昆虫に執着したことがない〈あっても、執着の度合いが問題です〉から、それらの体験が「子どもたちの『学習をときほぐす!』緒になること」など想像外でしょう。その間にも、途方もない数の子どもたちが、日々「成長?!」を重ねていきます。それが、むなしさの根源です。

 子どもたちの体験はすべて、頭の奥の「『興味のランプ』に火が着く体験」として考えられ、季節感・空気感・景観に潜む子どもたちの新しい「感覚ソース」も子どもたちを待っています。また思いもかけぬ「できごと」が、それをお膳立てします。環境が「大変身のチャンス」を用意してくれるのです。
 田舎道で轢死のマムシ、スズメの親子、山道での鹿の出現、玉虫の飛翔・・・自然=ハプニングなのです。それらが子どもたちの好奇心と環覚を養っていきます。

 道ばたの雑草から多彩な単子葉植物や双子葉植物の「実見」がはじまり、見晴らした山にかかる霞や靄は、気象に目覚めるきっかけです。やかんの湯気のでき方をヒントに、水蒸気から水滴・雨や雪まで、知識が整っていきます。

 往来でT字路や四つ角に出会えば「遠近法」の実体験、山の中や野原で出会う大きい樹木を見れば「コンパスがなくても方角が特定できる」、林の中で朽ちた切り株を見れば「生態系に目覚める」、遠くの山並みを眺めれば、その「距離感や季節の色に気づく…」。

 お寺を訪ねたり、遺跡を訪ねたりすることも大切ですが、「日常生活や日々の行動の中で学習対象や学習内容に目覚めてこそ、おもしろい学習、意味のある学習が始まる」ことに、ぼくたちは気づかなければなりません。ファインマンのお父さんやエジソンのお母さん・マクスウェルのお父さんがやったのは、そのことなのです。
 遺跡や寺社を「遠足」で訪ね、通り一遍の説明をする学習だけであれば、いつまでたっても、学習を「子どもたちの手元に」届けることはできません。いつも感じている「むなしさ」です。

でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅵ
 前回まで、魚を中心に脊椎動物の進化(上陸まで)をたどりました。課外学習を中心に据える立体授業のテキストは、もちろんその課外学習のテーマを中心に周辺や関連をたどっていきます。『でっかい鯰釣り』ですから、取りあげるのは魚です。
 ぼくが、地理が好きになれなくて困ったという話をしましたが、そういう意味では、特殊な環境(たとえば日本全国を旅するような家庭)を除き、地理が一番「抽象的」で、「記憶中心の学習」になりがちです。課外学習を展開する赤目や飛鳥への移動の位置関係を地図で確認することは、ほぼ毎回行いますが、『でっかい鯰釣り』では、「食としての魚」や少し漁業の関連を取り上げることにしました。見たこともない港や切り身でしか出会ったことのない魚・漁港の位置や漁獲高を「教室」で覚えさせられ、確認テストを受け、宿題でフォローする。それが勉強であると、何の疑いも持たれない。それが現状です。そして、それが元凶です。
27p昔から魚好きだった日本人(「詳説 日本史図録」山川出版社、小学館の図鑑NEO魚p172より)
 日本では古代から魚が食卓にあがり、重宝されていたことをつたえます。サケやクジラは全身を無駄なく調理、また道具として活用してきたこと。
 欧米のように、鯨油をとるだけで捕鯨をするのではなく、クジラのひげなどは子供のおもちゃの「ばね」に代用するなど、古来から日本の生活や文化と密接に関係していたことは、子どもたちにもぜひ伝えておかなければなりません。
 それらの歴史や文化を押さえず、欧米で行われている「狩猟のためだけの動物飼育の現状〈つまり、銃で撃つために育てる〉」の知識もなければ、捕鯨の残酷さ(??)のアピールにタジタジとなるばかりになります。
 今植物の「知的能力(!)」も研究の対象になってきつつありますが、生命の尊厳や動物愛護については、「生命」をもう一度問い直し、植物も仲間に入れ、もっと深いところからの哲学の組み立てが必要ではないでしょうか(食物連鎖と生命のつながりを考え直してみてください)。そして、「その哲学の中心」になれる可能性をもつ歴史と文化のある国のひとつが日本であることはまちがいありません。「日本のそれら」を子どもたちに伝えています。
28p日本の郷土料理小学館の図鑑NEO魚p176・社会科地図帳 改訂版 帝国書院より)
 「魚料理がいかに日本人に身近であったか」を、全国の郷土料理から紹介します。それぞれの地方特産の魚を利用し、豊かな食を営んできたこと。また、発酵食品・酢・醤油・味噌などを上手に使い、なべ料理を発展させ、豊富な野菜と魚で、おいしくバランスの取れた健康食にもなっていたこと。
ここから、なぜ日本がこれだけ魚料理が発達し、魚が好まれるようになったかを問いかけます。

子どもたちは「聞いただけ!」ではわかりません。そしてきちんと覚えることができません。「その『成り立ち』や『しくみ』・『理由』や『原因』を理解すること」で、記憶が定着し、応用が利く知識が身につきます。つまり、聞いて、頭の中で咀嚼し、アウトプットできること、説明できること。それが大切です
29p日本の海流(子ども地図帳 日本 草思社より)
30p日本の地図と漁港(新訂新しい社会科地図 東京書籍より)

 地理です。日本が海に囲まれていること。寒流と暖流によって、良い漁場が形成されること。
 「魚」と全然関係のないシチュエーションで、口を酸っぱくして漁港や漁場や水揚げ高・養殖を教えても、多くの子には「意味が分かりません(学習する意味を持ちません)」。その部分が本来は、もっとクローズアップされてもよいのに、目先を変えて、何とか覚えさせるようにする、というのが学習指導の現状です。

 それをおぼえたからと言って、その知識は受験で役に立った(立たなかった人もいるでしょう)以外、なんかメリットはあったでしょうか? 「覚えさせられて」勉強が嫌になっただけではないでしょうか? それらの『学習体制』や『学習環境』を何とか改善する努力がなされているでしょうか?
 考えてみてください。現状の学習指導は、ほとんどすべて、そういう状況下にあるのではないでしょうか。「魚釣り」や「魚採り」という遊びを『重ねた』だけで、子どもたちの好奇心や学習に対する感覚は変化する、というのが、ぼくの実感です
31p魚の食べ物図鑑小学館の図鑑NEO魚p172~175より
 魚のからだのところで、魚の身の色に触れましたが、「切り身」のところで、もう一度確認します。
 なぜ、赤いのか? どうして白いのか? 子供は、一度話しているからと言って、頭に入っているとは限りません。
 干物やみそ漬けや練り物が作られるのはどうしてか? それらの理由も考えてみます。
 いくら・たらこや数の子、「魚の卵」は動物の子に比べて、どうして数があんなに多いのか? 
 また「数の子」が「おせち料理」に使われる理由は? これらの質問で、日本人のぼくたちにとって魚がいかに身近であるかを考えさせることになります。
 お母さんとスーパーに行った時、魚の売り場で少し立ち止まってくれることも、「環覚」育成の始まりです。何かに興味をもつと、たいていの子どもたちは、その「何か」だけに終わりません。それがふだんの情報取得量や考えるきっかけの『差』になってきます
32p魚の卵の大きさ比べ小学館の図鑑NEO魚p111より)
 数の子やイクラが出たところで、マグロの卵との大きさの比較に移ります。(ヒトの)卵子や2メートルを超えるマグロの卵より、数センチのメダカの卵の方が大きい・・・。「学習や学習対象に対する子どもたちの興味を引き出す」には、こうした意外性の紹介が有効的です。
 入試に出てくるような多くの問題も、そういう視点から指導を組み立てると、記憶の定着率が格段に良くなります。団の場合は、課外学習での接触もありますから、さらに効果があります。
 そこで捕れる魚はメダカには限りませんが、「魚」を介して、子どもたちのメダカの学習に対する「馴染み」が変わります。新しい学習の初学者への導入は『馴染み』が大きくものを言います。
33pメダカの特徴小学館の図鑑NEO魚p76~77より
34pメダカの走性(視覚で捕えるフォトサイエンス生物図録 数研出版より)

 メダカの住んでいるところやからだの特徴、ヒレや雄と雌の見分け方、卵のようすと孵化。カダヤシとのちがいや生育環境の変化・食物連鎖などを押さえていきます。
 赤目や飛鳥など課外学習に行くと、よく群れているのが『カワムツ』です。またその川面を、カワセミが青の幻影を残して飛び去ります。そういう環境には、まだメダカが泳いでいることがよくあります。それらを話し、カワムツが上流に向かって泳いでいるわけを考え、先のえらによる呼吸やえさの確保などの答えを引き出していきます。以下の紹介は次週です。
 
テラビシアにかける橋

 まず、最後まで見ることができた映画2本です。「プリティウーマン」と「博士と彼女のセオリー」。
 リチャード・ギアはマスクが甘すぎて、演技も教科書通り。どうしても『突き抜けられない』俳優ですね。
 女性には受けがよいと思いますが、「存在感」が足りません。若い頃に、「とんでもない悪役」でもやったら、もっと良い俳優になれたと思えるのですが、いかがでしょうか?
 

 「博士~」の方は、天才科学者ホーキング博士の物語です。前者に比べると、萎縮症のホーキング役の主演俳優の演技が特筆されます。
 さて、古いものですが、かつて話題になった、子どもたちが喜ぶ映画を続けて見ました。ジュラシックパークシリーズ・ E.T.・タイタニック・キングコング・テラビシアにかける橋。

 今更のようですが、「金をかけた映画は、やはり『見せる(?!)』」ということがよくわかりました。多少の破綻やストーリーの飛躍があっても、息もつかせぬCG攻勢に圧倒されます。そういう意味では、「子どもたちが夢中になるアイデア」を連発するスピルバーグの能力は並外れています。

 ところで、これらのなかでは、ぼくは男の子と女の子のイマジネーションと揺れ動く心理を丁寧に描いた「テラビシアにかける橋」を評価します。子どもだましの「ファンタジー」だと馬鹿にはできない出来栄えです。「男親」の姿もさりげなく、よく描かれています。よい作品です。ぜひお父さんにも見てもらいたい映画です。
 さて、こういうタイミングがあると、ぼくはネットでその原書を探し、読んでみることにしています。あとで訳書も読んで、その解釈のちがいを楽しみながら・・・。

 最後に。若い頃を思い出して、もう一度シナリオの「学習」をはじめたことは伝えましたが、古本屋で偶々上記の新書(「〝劇的″とは」木下順二著 岩波書店)を見かけました。パラパラめくると、仰々しく「シナリオ創作」や「脚本指導」を吹聴するだけで中身のない一部類書や翻訳書より、はるかに参考になります。興味のある方は一度開いてみてください。
 映画や本に限らず、学校や人・・・すべてそうですが、人気があったり、名が通っていたり、もてはやされているものが正しく、優れているとは限らない。それぞれ個人が自らの眼できちんと判断できる社会こそ理想ですね。子どもたちがそういう大人として成長してくれるよう、祈っています