『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑮

2015年09月26日 | 学ぶ

『不幸な』学習―目の輝きや好奇心を失っていたH君
 前回、「子育て」の外的・内的環境の変化によって、『健全な』子どもらしい子育てが、よりむずかしくなった。そして、ぼくが『健全な子どもらしい子どもを育てたい』と指導している、課外学習や立体授業での指導例を紹介します、と結びました。

「健全な子どもらしい子」、まずそのようすを考えてみましょう。
前回、大手受験塾から転塾し順調に学力を伸ばしはじめたH君を紹介しました。実は、そのH君とは、彼が3年生の頃から顔なじみでした。やんちゃではないけれど、当時はそれなりに活発に、課外学習での「見るもの」・「話すこと」に目を光らせて、子どもらしい好奇心を見せていました。
 ところが、件の大手受験塾に通うようになってから、スケジュール等の関係で参加が遠のき、改めて参加してくれた今年の初め。会っていなかった期間は約二年間です。ぼくは彼の変化にびっくりしました

 「積極的に『もの』に向かわない」、「動作や行動」に子どもらしい機敏さや好奇心あふれる様子が見られず、覇気もない・・・子どもの「健やかな成長」に反する、すこぶる「不健全な方向」です。「感想」を付き添いのお父さんにぶつけても、団の指導や指導方法を、未だ他塾と差別化できなかったお父さんは、その変化の重大性も意味もそれほどわからないようでした(現在はちがいます)。

 この点が、「子育てでいちばん気をつけなければならないところ」です。「毎日見ている」ので、お父さんやお母さんは、子どもたちの「変化」に「うとく」なります。テレビで、よく「絵や写真が気づかないうちに変わる。どこが変わったか」というクイズがあります。あれと同じです。感覚の「盲点」です。少しずつ微妙に変化していけば、それが大きな変化になっても、なかなかわかりません

 お父さんの「告白」が始まりました。「大手受験塾の宿題の多さや指導が嫌になって、(おとなしい子なのに)通塾をはげしく拒否するようになった」というわけです。ぼくにすれば、それは当然でした。
 「受験に合格するためだけ」の学習対象、学習内容、学習指導。問題演習のくりかえし。「学習する意味」が手に入らず、「学習内容の奥行きや広がり」もわからない。「わかることのたいせつさ」や、勉強や研究の「さらなるステージ(先端科学ではありません)」への誘いもない。「次」が見えない「勉強」です
 今や「巷(?!)」では、それが当然のようになってしまっていて、あまり意識されておらず、受験合格にかまけて、問題を正面から取りあげることもほとんどありません。が、そんな授業が延々と続けば、「好奇心が強く、感受性の鋭い」大抵の子どもは、途中で嫌になります(これについては「ファインマンとエジソンの~」ブログ各編をごらんください)。それでも、「受験だけのため」に「苦行」は続きます。嫌になって当たり前です。

 「こうした変化に早く気づき、手を打つ」ようにしないと、勉強(学習・学ぶこと)が、結局受験のための手段でしかなくなります。「勉強はおもしろくない、意味もない。受験や成績のために仕方なくやっている、習慣だ」という悲惨な結果に終わります。多くの子どもたちは、こうして『学習そのもの』も終えてしまうことになります。
 このあたりの「感想(!)」は、お父さん・お母さん・先生方(?)の多くも、我が身を振り返れば、よく納得できる(?!)話かもしれません。長い時間をかけて『苦しんできた』結果が、ほとんど意味をもたない。何とも、情けない話、無駄な時間の使い方です。
 なお、団のOB教室生の進学中学と大学進学先を紹介しておきます。

「『進学中学』によらず、りっぱに成長を果たしていること」が現認できると思います。「学ぶことのおもしろさや、そのかけがえのなさ」をわかってくれたからです。子どもたちにとって、まずたいせつなことは、受験や受験先ではなく、「学体力」の養成と「環覚」の育成。そして「大きな夢」の芽生えです
 ちなみに、現在H君は紹介のように学習のたいせつさやおもしろさに目覚め、順調に成長しています。毎日迎えに来られるお父さんにも、「明らかに生き生きとしている」ことがわかるようです。道すがら、二人でさまざまな話をしながら帰っていると伺いました。よかった、もう安心です。
 

 みなさん、「受験問題の解法や指導に「生命(?)」と「豊かな未来(!?)」を賭けるのではなく、子どもたちの、「学ぶおもしろさの掘り起こしや学習する意味」の考察・指導に、「おとなとして、先生としての生命」を賭けましょう。「健全な子どもらしい子」を育てるために。より多くの子どもたちの大成のために。

学習指導の紹介
 さて、学習指導については、今まで、あまり紹介できませんでした。指導の一例(算数)を紹介します。考えにくい問題を、子どもたちに指導するときの資料です。

 「業界」では、難問を「代数や面積図を使って解く指導法」が主流のようです。ぼくはまったくやりません。たとえば、つるかめ算や過不足算では、黒板で「ツル」と「カメ」や『棒人間』が活躍します。速さの問題、通過算では、近鉄特急の模型やフォルクスワーゲンのミニチュアが登場します。
 以下の引用は、物理はもちろん、数学でも驚愕の力を身につけていたファインマンの著書の一節です。「勉強」に対する彼の考え方の一端がわかります。参考のために。
 
 できの悪い三つ年上のいとこが、代数ができないので、家庭教師に来てもらって説明を受けています。それを傍で聞いていたファインマンが言います。
 「それなら、答えは4だろ?」。いとこは、「ああ、そうだよ。だけど、お前は算数でやったんだろ? 代数でやらなくちゃだめなんだよ」。
 ファインマンは「そんなんじゃできるわけがない」と、かみついています。要は「Xがなんであるか」を突き止めることだ。「代数」は、自分が何をしているか意味が分からずとも、一連の操作を繰り返して答えを求めることができる方法だ。仕立てあげられたきまりだ・・・。意味が分からないまま勉強している、それがぼくのいとこが代数(数学)をマスターできない理由だ。
(“What Do You Care What Other People Think?” Richard P. Feynman W.W.NORTON 本文抄訳と文責は南淵)
 強調になりますが、つまり、「『その数の操作をする意味』が分からず(理解が行き届かず)、公式や操作の方法を覚えてできるようになっても、『頭がよくならない』」と「読みかえる」ことはできませんか? よく行われている、公式や決まりきった解法の暗記は、「頭のよさ」とは別物で、「受験のための便法」だという、ごく当たり前の判断です

 ぼくは、団を始めて数年後読んだ、このファインマンの言葉に、大いに力をもらいました。それまでも、子どもたちには「操作や方法、解答までの意味を、できるだけかみ砕いて考える方法」を取っていたからです。面積図・代数に頼るのではなくて、「丁寧に考えを進めることや操作の意味を把握する(させる)」こと。何よりも「意味が分かること!」を最優先です。 
 以下は面積図や代数ではありませんが、考え方を進めるときの指導資料です。(平成15年度五ッ木・進々堂テスト問題を使用)続編をアップしてあります。


お父さんとお母さんのための母親教室⑮続

2015年09月26日 | 学ぶ

2015年度算数難問題2 解説と解答

平成15年度五ッ木・駸々堂6年第5回7(2)より
 東西にまっすぐのびている道路と南北にまっすぐのびている道路が交差点Pで交わっています。A君は西から東へ自転車で、B君は南から北へ歩いて、それぞれ一定の速さで進んだところ、B君が交差点Pに来たときに、A君は、交差点Pの西200mの地点にいました。
 また、その5分後に、2人は交差点Pからの距離が等しい地点にいたといい、そのまた5分後にも、2人は交差点Pからの距離が等しい地点にいたといいます。
① A君とB君が5分間進んだとき、進んだ距離の和は何mになりますか。
② A君の速さは毎分何mですか。

解説
 前回、難問の解き方について説明したが、今回は問題文を読み解いて、図に表して解く問題である。この問題は図のように、P交差点からの、AとBが進んだ距離がきちんと描けるか、というところにある。

 西から東へ進むA君が、B君がPに来てから5分後にどこにいるか? ふつうは、自転車に乗ってスピードが速いので、「A君はPより東に進んでいると考えがちになる」。そう考えると、お手上げである。5分後には、まだP交差点には到達していないところが『ミソ』。左記の図。
 図のように、スタートA/Sから青の距離をA君が進み、そこからP交差点までが、BがPから5分進んだ茶と黄色の距離と等しい。
 だから(1)の答え、AとBが進んだ和はA/SからP交差点までの距離と同じ。200m。

 また10分後にAはPからBが10分間に進む距離と同じところに来る、とある。ところが、その距離、水色の横からの「黄+茶+桃」は、Aが5分間で進む距離。ところが黄色の距離はBの5分の距離と同じ。10分後のAのPから距離とBの距離は同じだから、AとBの速さの比は3:1。よって、A/SからPまでは3+1=4(=200m)。
200÷4=50(これがBの5分間に進む距離)。
Aの速さ(分速)は、50(Bの5分の距離)×3÷5=30m。答え30m。

 なお、この問題を解説した「もう一つの理由」は、自転車の分速なのに30m(!)という、「とんでもない答え」が出てくるからである。本来「あってはいけない」、こういうことも、たまにはある。
 「計算や考え方」の過程に自信があれば、迷わない。
 以上、「考えにくい問題」や「難問」に対しては、こういう方法や様々な説明で、子どもたちが心底理解できるように指導をすすめます。いや、一緒に考えていきます。本編もアップしています


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑭続

2015年09月19日 | 学ぶ

 さて、先月大手受験塾から転塾してきたH君のようすをご紹介しましたが、その後も順調に学力伸長が続いています。以下は保護者に配布する指導報告です。参考にしてください。

 
                                           2015年9月15日
               指導報告―大手受験塾から転塾者の成績推移
  
  保護者のみなさまへ
 
 学ぶには、一番良い季節の到来です。日ごろは団の指導にご理解とご協力をいただきありがとうございます。また、夏期講習受講諸君のお弁当等の手配、お疲れさまでした。受講団員諸君は、一生懸命頑張ってくれ、かなり力をつけてくれたものと、確信しています。受講前、団の講習は、それほどつらくはないとお知らせしたのですが、子どもたちのようすはどうだったでしょうか? 夏期講習受講が無駄にならないように、日々の課題等をきちんと進めてください。
 さて、夏期講習前5年生のH君の学力伸長のようすをお知らせしましたが、夏期講習後の外部模試成績が返ってきました。上記のようにさらにアップしています(奈良学園特進志望者10人中1番)。団に来てまだ7か月です。大手受験塾(MB)の「受験の、受験による、受験のための勉強」に疲れ果て、勉強が嫌になっていたのですが、団で意識変革ができたようです。
 この報告をお届けする意味は、H君が特別に優秀だというわけではなく、ただ、他の子より真面目に日々の課題を遂行している結果だということを理解していただきたいからです。MBの宿題量の多さや授業の進め方に嫌気がさしていて、圧倒的に少ない団の宿題量に目覚め、それなりにきちんと進めているからだと思います。そして正当な指導法によって学体力が培われ、潜在能力が開花しつつあるということです。

 大手受験塾に見られるような圧倒的な宿題量は、よほどの指導力不足でない限り必要ありません(「受験業界・学校関係者」の意識変革が何よりも望まれます)。何よりもたいせつにしなければならないのは、小学生という早い段階に、『受験の、受験による、受験のための学習』ではなく、「学習の正道」を身につけることです
 宿題量が団の量で充分なのは、OB諸君の進学先やその後の成長ぶりを見ていただければ、よく理解していただけるでしょう。小学生時代に必要な環覚(ものに感じる心)を養い、人格や人間性の陶冶を目指せば、受験も取りこぼしはありません。しかし、量は少なくとも、宿題をいい加減に済ませる(つまり考える習慣がつかない)と、その後の順調な成長は難しくなります。団の指導に対する、さらなるご理解とご協力をよろしくお願いします。
注・先に、もう1ページアップしています
 


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑭

2015年09月19日 | 学ぶ

楽しいおばあちゃん発見
 業務用スーパーの店先。どこかのおばあちゃんの声。近所の人に出会ったようです。
 
おばあちゃん「久しぶりやねえ!」
近所の人   「ほんとですねえ」
おばあちゃん「あんまり出えへんから。会う人、ぜーんぶ久しぶりや!」
 (吹き出しました。つづいて・・・)
 

おばあちゃん「何、買いに来ゃはったん?」
近所の人   「ちょっと夕食の買い物に。おばあちゃんは?」
おばあちゃん「うちはトマト。ほか買うたら、キリがないさかい・・・」
近所の人   「トマトは身体にいいですもんねえ」
おばあちゃん「そうそう。切って砂糖ふったら、こ~んな美味しいもん、あらへん!」
 (!?ズッコケました、自転車に乗ろうとすると・・・)
 
おばあちゃん「こないだ(この間)なあ、ここで、フクオカさんにおおて(会って)なあ・・・」
近所の人   「フ、ク、オ、カさん・・・?  あっ、長崎さんですか?」
おばあちゃん「・・・そうそう、その長崎さん。ハハ、チョット近すぎたッ」
 
人名を九州で「ひとくくり」にしていました。
おばあちゃん、元気に三連発。半日、愉快にすごせました。
 

「子育て環境」の変容
 このシリーズでは、「ことな」と「おども」という比喩を使い、「子育て世代」の危機管理能力・依頼心や責任感の問題について考えてきました。そして前回は、「遺伝のタイプ」はともかく、行動の基準や倫理観、規範は「周囲」の大きな影響を受けて育つということ。つまり、「お父さんやお母さんは意識しなくとも、子どもたちはそれらの行動を眼にして影響を受けながら育つ」という、「日常への気遣いの必要性」の喚起でした。

 以前、「子育ての環境」が、現在は、がらりと変わってきたこと、そして変わりつつあることに触れました。もう少し掘り起こして、それらを考えてみます。「大人の日常生活への意識の覚醒」と双璧ともいえる「子育て」にたいせつな「条件」の変容です。

 「周囲の眼」です。かつては(今から数十年前ですが)、下町や田舎の村々、そして学校でも、まだ「周囲の眼」が生きていました。「子ども」に対する「暗黙の基準」や「行動規範」の共通認識が、いまだ健在でした。
 子どもの時に身につけるべきルールやアクションが、順調に社会生活が営めるように、「一定の歯止め」がかかる状況にあったのです。そして、それらを基にした、多人数の家族や周囲の眼も「子育て」に大きなアドバンテージをもたらしました。

 「人間の心の成立」をたどる、「ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか」(NHKスペシャル取材班・角川文庫)に、こういう一節があります。
 
 「チンパンジーやゴリラの場合、群れを支配するオスが、力で規律を守らせます。このオスが見えなくなれば、群れのメンバーはやりたい放題です。私が現場で観察してきた経験から言うと、彼らのなかに、罪の意識や後悔を見たことがありません。群れのメンバーがルールを守るのは、ボスが怖いからだけなんです。しかしヒトは違います・・・」(同書232頁)
 
 つまり、人間とゴリラやチンパンジー、類人猿を区別する最大の違いのひとつは、「規律を守るという自制心」があるかどうか、ということになります。セルフコントロールと倫理観です
 このように「警察がいなければ、人が見ていなければ、何をしても良い、恥ずかしくない」という「心」は、本来、人間がサルと別れるときに『捨てよう』としたものです。ところが、どこかの大国のようすや行動に限らず、昨今の日本でのさまざまな事件や出来事を見ていると、何か「先祖返り?」をしているような例が多くなっている・・・。そう見えませんか? 
 引用の続きです。
 
 「集団を構成するひとりひとりが、罰せられるのを避け、身勝手な行動を自省します。仲間の評判が気になるからです。ここからモラルや恥といった感情が生まれてきたのです。ヒトは恥をかくと顔が赤くなります。これは人類共通の現象として知られていますが、ほかの動物にはありません」(同書232頁)
 
 ここからは、「身勝手な行動」がコントロールできるように「させた」大きな力が「仲間や近隣の評判、つまり、他人の眼」だということが読みとれます。それによって、「自省」が生まれ、人間にモラルや恥という感情が育ってきた、というわけです。
 つまり、「身勝手な行動をすると恥ずかしい」という感情です。これを前提としていることが人間の証だ(だった)ということです。ここから振り返って、先週・先々週例示したお父さん方の行動を振り返ってください。「現状のレベル」と、今後「どのように軌道修正しなければならないか」が判断できるのではないでしょうか。

 また、一連の引用から、「人間らしい成長」には、「規律を守る」という自制心が必要(培われるべき)だし、そのために、仲間や近隣の眼、つまり周辺環境が大きな役割を果たしてきたことがわかります。そして、これは、「出アフリカ」から、人間が種の「生存」と「存続」を果たすために、培ってきた習性であり、身につけてきた(ざるをえなかった)習慣だったと考えられます。

 ところが、社会環境が大きく変化しました。車中で化粧をしたり、ルーズなファッションで下着を見せたりという、周囲の眼を意識しない、あるいは「意識しすぎる!」という感覚が、今は『異常』ではなくなってきました。それに付随して(逆かも?)、「精神作用」も『異常』が異常とは見えなくなってきてしまっているのが、昨今です。

 こうした外的・内的環境の大きな変化が『健全な』子どもらしい子育てをより難しくしているのでしょう。次回は、ぼくが『健全な子どもらしい子どもを育てたい』と考えて指導している、課外学習や立体授業での指導例を紹介します。(もう1ページアップしています)


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑬

2015年09月12日 | 学ぶ

仙人のミリタリーファッション
兄ちゃん 「せんせエー(少し、岡山訛り。人柄の良さがこもっています)、オッはよーゴザイマッス」
ぼく 「ウっす(おっす)。きょうはAV持ってきた?」
兄ちゃん 「ハハァ、じゃないですヨお。センニン(戦人)さんから、なあん(何)~か来てますよー」
ぼく 「仙人と知り合うほどトシ食ってないっ(笑)」
兄ちゃん「はっはァー」

 迷彩のTシャツを一枚買ってました。
 なお、ぼくのミリタリー・ファッションは、「老けゆく年と戦う」覚悟を決めたからです。また活動的で課外学習でも重宝するからです。
 USアーミーやネイビーを良く着るのは、「他の国だとマニアックすぎて誤解されそうだし、まさか自衛隊の格好をするわけにはいかない」からです。戦争が好きなわけではありません、決して。

親父の責任と威厳―「生きる基準」を探す子どもに親は何ができるか?
 さて、小学生、成長期にある子どもたちは、まだルールもエチケットもわからないなかで、「一般常識」や「環境」を受け入れていきます。「良いこと、良くないこと」の判断を始めます。「一生を生ききる」基準や判断力を身につけていきますこうした責任をぼくたちは「あまりにも安易に考えすぎ」ではないでしょうか? 

 「おれもそうだった・・・」「私も言うことを聞かなかったから・・・」等々。そんなに都合良くは進みません。大事なタイミングです。「何も考えない、いい加減なしつけや指導」では「未来の英傑」に失礼ではないですか? 「観念的で、心のこもらない『小言』はききたくもない」。それが「将来の大人物」の心の声かもしれません。襟を正して向かいましょう
 そこで「おとなのぼくたちに必要になる力」は、「子どもたちが身につけるべき宿題の難問を解くときに必要になる力」と同じ力、「頑張る力」です。その力を見せられてこそ大人の証です。その姿を見て、子どもは成長します

 懇談の際、「よく考えていないこと」がわかる「受け売りの言葉」で注意する保護者の姿も何度も見てきました。「ふだんから目を走らせていない」ので「注意すべき点」がわからない。しょうがないので『形だけの父親』を演じる。「よく考えていないこと」がよくわかる『受け売りの言葉』で注意する。
 つまり、「自らの日頃の姿勢の反省がないまま『人から聞いた言葉』を口先だけで注意をしている・・・」。「受け売り」はブローカーの仕事で、しっかり「手をかけなければならない」子育て職人の仕事ではありません。
 「叱る内容やタイミングに思いが届いていない」ので、傍で聴いていても、ほとんど「心」に響きません。同席の子どもは当然のことですが、「いつものこと(!)」と耳に入らず(入れず)、『横を向いて、心を閉ざしている』ばかりです。頭が良く感受性が鋭い子ほどそういう結果に終わります。大人は意識していませんが、子どもたちはもうよくわかるようになっています
 お母さんもお父さんの日ごろの姿と行動を見ているので、「お父さんのことば」に同調しない(できない)で「白けている・・・」。それが「見え見え」です。「・・・言う前に、自分がやってほしいわ…」と言うわけです。

 「なぜ言うことを聞かないのか?」。
 渓流教室の帰途、送迎バスに乗ると、件のお父さんの子が乗ってません。ホテルの玄関で親子三人で見送りをしています。「知らないうちに(指示を仰がず)自分が乗ってきた車に、子どもも同乗させて帰ることに決めている」のです。
 団体行動です。みんな電車移動です。子どもは別にしなければなりません。課外学習中の「行方不明」の件といい、そういう習慣で育てば、子どもが「自分勝手なこと」をして、「言うことをきかない」のも当たり前です。そう思いませんか? 
 問題の原因を追究せず、子どもの状況に「目が開かない(気づかない)」ことほど哀しいことはありません。これでは、子どもの「悪癖を直す」環境がいつまでたっても整いません。
 まずスタートは、お母さんが、お父さんの日ごろの行動や振る舞いに不満をもっているならば、「落ち着いて」その解消を図るべきです。夫婦ですから。「二人の間の子ども」です。どういう子に育って欲しいのか。認識を共有しましょう

 そして、お父さんです。たとえば、「ゲームをやめさせたいのに、やめない」ならば、「子どももよく知っている自分の好きなものや習慣」を持ち出して、「お父さんも~をやめる(がまんする)から、お前もがまんしろッ!! わかったかッ!」で良いのではないでしょうか? それで、たいていの子はピリッとするはずです。それが「男親」です。 子どもを思う「親父」の責任であり、威厳です。

指導としつけの基準はどこに
 ところが、昨今の指導やしつけの現場を見ていると、「『遊び仲間』や『友だち』のレベルから、いつまでも抜けきれない(抜けきれないことを喜んでいる)親子という場合が多い」ようです。「遊び仲間」は『親』ではなく、『師』でもありません。大事なタイミングでも抜けきれなければ、先の例のように、けじめがつきません。「楽しく遊べる遊び仲間」という一面以外に、「客観的で冷静な親としての視点と厳しさ」がなければ指導はできません

 残念なことに、こうした環境は、家庭に限らず塾や学校にまで浸透しているようです。今年渓流教室に応援参加してくれた、学習塾でバイトしているOB生は、バイト先が「まるで託児所ですよ」と嘆いてました。うれしいことに、『先生の塾が、如何にすごいか、わかりましたっ』。すごいのではありません、当たり前のことを指導しているだけです。
 親も子も先生も、それぞれの「たいせつな人生で、『生きる』という真剣勝負」をしています。ところが、往々にして忘れがちなことがあります。先のように、子どもをしつけたり指導するための、「行動の善悪」や「ことの是非」の判断の「基準」や「根拠」については、日ごろの雑事に追われて、前後や行く末をあまり考えない、「流されるままの子育て」が続いてしまっているのが「現実」ではないでしょうか

 「託児所で育つのは保育園児まで」です。「託児所」じゃない塾や学校もたくさんあるでしょうが、小学校も中学校でも相も変わらず「託児所」に通っていれば、育つのは再び「ことな」や「おども」。
 ルールやしつけについて、昔ほど「うるさく」注意されなくなり、若いお父さんやお母さん自身も、「しつけ」そのものがわからないで悩むこともあるかもしれません。それぞれの家庭で微妙に「差」があったり、「基準が曖昧」になったり、しつけは関係なかったりしている場合はどうすればいいか? 
 指導の基準・原則を置くべきポイントは、「他人に迷惑をかけない」と「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけない」の二点だと思います。

 ぼくたちは、社会で生きているが故に、既に他人の世話になり、知らず知らずの間に人に迷惑をかけてしまっている存在です。たとえば、生きていれば必ずごみを出します。その時点で、すでに他人の世話になり、迷惑をかけて(しまって)います。
 既に鬼籍に入ってしまっている多くの人がもっていた『日本人の良さ』、そういう感覚が今は風化しつつあるように思いますが、玉石混交・混載の船に乗り、いつも「迷惑をかけあう日常」を送っているぼくたちは、過去に限らず今後も、それがもっともたいせつな基準になるべきだと思いませんか? 
 「できる限り他人に迷惑をかけないように努力する」。お互いのそうした行為によって、相手の気持ちのやさしさ・美しさに気づき、「いさかい」が緩和され、人間関係がスムーズになっていくのではないでしょうか

 子どもを育てるには、「かわいがる」ばかりではない「子どもに対する日ごろからの、きちんとした思いや考え方」が必要になってきます。『叱る』・『指導する』には、判断の基準になる『根拠』に日ごろから思いを巡らせているかどうかがたいせつになります
 「よいこと」と「悪いこと」、是非について考え、「なぜ叱ったのか?」「何を注意したのか?」自らの行動や日常・子どもとのかかわりを冷静に振り返っておくこと。「その場限りの注意」ばかりでは、指導の一貫性は見えず、「形だけ」「口先」だけの指導に終始し、説得力もありません。「思いをきちんと伝える」ためにたいせつな子どもとの「信頼関係」も生まれないでしょう
 「受験の、受験による、受験のための子育て」ではなく、人間性や人格を涵養する視点を子育てにきちんと含めることで、受験もスムーズに進むと、団員諸君の成長を見て、ぼくは感じています。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑫ 

2015年09月05日 | 学ぶ

「俺の子は、なぜいうことを聞かない」のか?
 先に、最近の若いお父さんは「男らしさ」が欠けている人、全く意識していない人が多いのではないか、と書きました。「さらに意味不明なこと」を、身近でよく目にします。
 ・・・タバコを吸いながらジョギングを欠かさない・・・自分たちの部屋を片付けた「粗大ごみ」を平気でマンションの玄関に放置する・・・病気を理由に就職はせず、トレーニングジムには通っている・・・課外学習のサポーターで移動中、いつのまにかどこかへ姿を消す・・・等々。

 これらは笑い話ではなく、すべて「実話」です。主役は、いずれも「十代の若者」ではありません。「十代の子どもがいる」おっちゃんの仕業です。
 これらの行動を考えると、「自らの行動や日常生活に対する反省や規範意識があまりない」人が、増えてきているのではないか。そう思えてなりません。

 健康を求めるのであればタバコを止めることが先決です。粗大ごみの場合、人間性はもちろん、特に「デザイン関係者」なら、美的センスが問題になります。仕事をせずにジムには通っている・・・何をか言わんや。こどもも見ている(かもしれない)、こうした行動が物心ついた子どもにどんな影響を与えるか? そんな意識が全く見えてきません。
 こんな意味不明なことに、みなさん心当たりはないでしょうか?

 子どもは無垢で生まれてきます。何も知らないで生まれてくる子どもは、傍にあるもの、出会うものすべてを「生きる術」、「学習対象」として学んでいきます。毎日、これから「どう生きたら良いか」・「どう生きなければいけないか」、無意識のうちにも全身・全力で「吸収」しています。「人間性や人格の根幹」が形成されるときです

 そんなたいせつなとき、笑い話にもならない周囲の規範や行動を見て育って、素直に言うことをきき、約束を守れる子になりますか? 「なぜ俺の子は言うことをきかないのか」。その原因はどこにあるのでしょうか? まず、その反省をスタート地点にして子育てを考えてみましょう。
 
「口先三寸」では心に響きません
 たとえば、みなさんがサラリーマン(「宮仕え」)だったとします。「出来の悪い社長」や「自分勝手な上司」のアドバイスや「小言」を想像してください。
 「叱られるたびに理由が変わる」・「考え方が浅くポイントが絞りきれていない」・「建前だけ」・「口先だけ」・「何を言っているかわからない」等・・・が続けば、たまったもんじゃありません。それよりも「聴く耳」をもてません。経験がありませんか? 

 ぼくもサラリーマン経験があるのでよくわかります。朝礼当番や「偉い人」の挨拶の問題点は、その多くが「心が入っていない」ことです。「思いつき」を心に落とし込みもせず、よく『練り』もせず(振り返りもせず、よく考えないで)しゃべってしまう。
 また、ほとんど毎週(毎日?)のことですから、ネタ不足でアンチョコで調べたことをよく咀嚼もせずにしゃべってしまう。つまり、自らの反省でも、体験でも、考察でも、感動でもなくなります。それでは心をうちません。人に「影響」を与えることはできません


 その経験を「子どもを叱ったり注意する場面」に置き換えてください。上司や社長の小言は、収入や昇進に直結するので、まだ我慢できるかもしれません(ぼくはできません!笑)。が、子どもたちは我慢する必要はありません。話の内容をくみ取り、意味をとらえるように努力する(!)必要はありません。

 そんな子どもたち相手に、よく考えもせず、「口先三寸」の注意を繰り返して、子どもたちは言うことを聞けますか? 心に響きますか? 回数が増えるほど、聴く気が失せていくでしょう。つまり、しつけや指導は成立しません
 まず子どもの現状や状況を正視し、自らの経験を手繰り寄せてみましょう。言いたい(言ってあげたい)ことはないでしょうか? 口先三寸ではない指導が、そこから始まります

我が身を振り返る意味
 「子育ての現場」を見ていると、第7回で述べたお父さんの例のように、「俺もそうだった」・「私も言うことを聞かなかったので」という「慰め」や「諦観」が多く、「悔悟」がありません。いや「悔悟からの振り返り」がありません。

 「素晴らしい自分」や「この上ない私」であれば、何も文句はありません。しかし、そんな人はいないでしょう。
 「想い出」から引き出すべきは、未だ可能性にあふれている子どもには、できるだけ良い方向に進んでほしいという、夢や希望ではないでしょうか? それが振り返りです。子育ては傷のなめあいではありません。

 たいせつなことは、「いうことを聞かなかった(!)」自分を振り返り、「あなたは私よりもっと立派な人になってちょうだい」という思い(思いやり)です。そこで、「私も言うことを聞かなかった」と「納得」しては指導やしつけは成立しません。子どもの成長は現在進行形です。そして見ている親は自分です。
 「未知の可能性」にあふれた子どもが「自らの一存でどのようにでも育つ」という場面で、自らの経験から割り出した「反省の言葉」が生まれてこないはずはないと思います。その反省があれば、「心から頑張るよう励ますこと」は容易だと思います。

 子どもはその言葉によって、自分のことを思ってくれていることを「肌」で感じとることができます。「前」を向きはじめます。もちろん、一度や二度では修正は無理だし、習慣も定着しません。「詰める」ことで「きちんと定着します」。

「詰める」たいせつさ
 「詰める」たいせつさを、宿題をきちんとさせる習慣の定着を例に、わかりやすく考えてみます。
 宿題のノートを確認もせず、子どもに「宿題やったぁ?」。これでは、よほど真面目な性格に生まれ、しかもきちんと躾をされた子でなければうまくいきません

 「宿題をやる意味」もよくわからない中、「口先だけの注意」です。子どもにすれば『やったよ!』と、お母さんと同じく「口先だけ」で言っておけば済むことです。まず、おかあさんがその関門を抜けなければ、しつけは始まりません。 
 習慣が定着するまで、きちんとノートを調べることが肝要です。良ければ賞め、悪ければ叱る。それでも悪ければ厳しくしかる。本人が、「宿題をしなければ落ち着かなくなる」まで、そのくりかえしです。宿題ぐらい座って落ち着いてできなければ、「学習や学力とは無縁の子になるから」です。子どものためです。

 先述のような「意味不明のお父さん」は『自分のこと』しか考えられないようです。「子育て」は子どものことを考える行為です。自分のことしか考えていなければ、「子育て」はできません。「いくら言っても子どもが言うことを聞いてくれない」と思っているお母さん・お父さんは、子どもの気持ちを、もう一度振り返ってみてください。
 「ノートをチェックして確認する習慣」があれば、手抜きをしたり、答えを写していることもすぐわかります。現状を把握でき、「子どもに注意をする条件やきっかけ」が手に入ります。「子どもとのやり取りに必要な根拠と注意の方針」が手に入ります。

 次は、その結果に基づき、焦らないで(!)「詰めること」。それで目的はかないます。「習慣がついていないこと」は何でもそうですが、宿題の習慣も一朝一夕では成立しません。やるようになる(できる)まで『習慣化』する(させる)努力が必要です。
 『たばこをやめなさい』『お酒をやめなさい』『パチンコをやめなさい』・・・といってすぐ言うことを聞く人が、どれだけいるか考えてみればわかるのではないでしょうか? 習慣が定着するまで、意識して『ブレずに詰め続けること』がたいせつです
 「仕事が忙しいので」、「家事に追われているので」という「言い訳」感覚では、子どもにも要求することはできません。親が『定着させるための習慣』をないがしろにすれば、どう考えてもしつけは不可能です。

 そして、定着したら、そのときは「目いっぱいほめて」あげてくださいそのころは成績も少し上がり、学力もそれなりについているはずです。「習慣定着の効果」を自覚させてください。それによって、子どもたちの生活習慣も変わります。学習ステージは「一段」上がります。学習がおもしろくてしかたがなくなる次のステージは、もうすぐそこまできています。多くの問題は、こういう方法で解決します。   
 あとは『やらないか』『やれないか』の問題だけだと思います