『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ② 「子人(ことな)」の子育て(続)

2015年06月27日 | 学ぶ

 今週の写真は蛍狩りでのスナップ。そして、久しぶり(お正月以来)に「学探三兄弟」太郎・次郎・吾作、エイミーの登場です。また、「田植え」のとき団員(Kさん)が飛鳥川で作った「亀の池」も、本人の強い要望(笑)でアップしておきます。

 やんちゃで勉強もできないけど、ほんとはやさしい長男・太郎、一見おとなしそうだけど勉強がよくできて喧嘩もべらぼうに強い二男・次郎。いつも大きな声で文句が多い三男・吾作。そして「豪放磊落」な「と~ちゃん」が、いつの間にか(?)妹だと連れてきた生意気な末っ子エイミーです。 
 「と~ちゃん」がゴリラなのに、子どもは太郎だけがゴリラで、次郎とエイミーがチンパンジー、吾作はニホンザルという不思議な家族。三兄弟の「かーちゃん」と、エイミーのママ、「と~ちゃん」の「初恋の彼女」は、次週もう一度紹介します。

デモとバイトの狭間から
 もう、手をかざしても目を凝らしても見えなくなった昔・・・。目標も夢も見失っていた貧乏学生のぼくは、バイト以外、教育大のキャンパスで読書と昼寝が日課でした。
 わきあがる元気や力を持て余して、今とはちがう一日が過ぎていきました。熱病のように、マルクスやエンゲルス・サルトル・吉本隆明・・・を「理解」しようと、有り余る力の大半をつぎ込んでいたような気がします。それでも、よくわからなかった・・・。若い時間の使い方、学生時代の本・出会いや出会う人はかけがえがありません

 当時の時間と情熱の半分でも、無性に読みたくなっている道元に、今費やすことができれば・・・と後悔が時々胸をかすめます。こうした後悔や反省も、子どもたちへのアドバイスや指導の底流になっているかもしれません
 避けることができない経年。年をとるということ。
 「老婆心」と言われようと、よけいなことと思われようと、伝えておきたいことがたくさんあります。子どもや若者たちにはもちろん、年若いお父さんやお母さん、そして先生方にも。 

 あの頃の誰彼と同じく、「世界をよくする」、「日本をよくしたい」という思いはあっても、戦う相手や倒す相手が、結局ぼくにはまったく見えてきませんでした。しかし、そんなものは、誰にも見えていなかったのではないかと、今思います。
 実は自らの「怒り」と戦っていたのではないか。敵は自分たちの中にあったのではないか。
 それは「戦うもの」ではなくて、「掘り出すもの」「見出すもの」ではなかったのか。ぼくたちは一部の『賢人(?!)』を除いて、「見えざる敵」に独り相撲をしていたのではないか。

 少し何かが見えてきた今、過去から、見落としていたもの・見過ごしていたものの一部でも掘り出すことができれば。
 さて、その頃読んだ「共産党宣言」に、こんなフレーズがありました。「・・・妖怪が一つ、ヨーロッパに現れている―共産主義という妖怪が・・・」。共産主義という妖怪がヨーロッパに現れたのは19世紀でしたが、21世紀の日本には、どんな妖怪が現れはじめたのか。「妖怪が二つ、子育ての現場に現れている―『子人(ことな)』と『大供(おども)』という妖怪が…」。

 共産主義という妖怪はいつの間にか消えていきましたが、この妖怪たちは、今後も日本ではどんどん拡散、拡大再生産されていく可能性が大です

道路とガードレールの話―子育てのルールとは
 「大人」がいて「子供」がいて指導や教育が成立します。そして、ぼくは、よく、こういう例えを使って、しつけや指導・教育の意味や役割を、お母さん方に話します。道路とガードレール…。

 生まれたばかりの子どもたちは、どこを歩けばいいのか、どこを、どう走ればいいのか、どこを通れば目的地へ行けるのか、まだまったくわかりません。前回も述べたように、そんなとき、借り物の「自由や自主的」「ほめて育てる」という考え方や方法を金科玉条、無批判に使えば、野原を我が物顔に駆け回り、人家や敷地に平気で侵入する野獣を育てているようなものです。そんな気配はないですか?
 世の中には人が通る道がちゃんとあり、そこを通らなければ、他人の田んぼや畑を荒らしてしまう。庭を横切ってしまう。「どこでも自由に走ってよい自由」はありません。ガードレールを「意識」できなければ社会は成立しません。ガードレールの存在を教えなければなりません。「自由人」だからと、「縦横無尽に」余所の田んぼや畑、隣の庭を走ってよいわけではありません

 道路やガードレールの存在を教えたのちも、道路には対面交通、交差点も信号もあり、時には電車と交差する踏切もある。その道路を通るのは、もちろん自分だけではなく、老若男女、体の不自由な人や信号もわからない小さな子が通ることだってある。それらがよく見えて、それに応じた行動をとれることが大人になる、成長する、ということです。

 さらにガードレールを意識しながら、道を自由に走れ回れるようになっても、スピードの出しすぎやジグザグ運転をするのが子どもたちです。これらも笑って見過ごすことはできません。一人で走っているのではなく、その道路では他のみんなも走らなければならないからです。  
 他の人をひいてしまうかもしれないし、ガードレールに激突し自らが命を落とすかもしれません。つまり、まだ安心はできないわけです。教育と指導は、まだかかわってきます。

 自由や自主性はもちろん最大限に尊重しなければならないし、その大切さを口を酸っぱくして強調することも欠かせません。大いに褒めることも、子どもたちの可能性の発現に大きな影響があるはずです。しかし、団のOB諸君の成長を見る限りでは、叱らなければならない時に厳しくしかって、その推移をよく見て、「出来栄えと努力」をほめ続けることが、成長の礎でした。 
 これらの指導はいつまでかかるか? 経験上、家庭の理解と協力があれば6年生までに一定の成長は成就します。先週紹介したA君がその典型です。
 逆に、理解がない場合、いつまでたっても治りません。そして、そこには必ず二つの妖怪が跋扈しています

「子人(ことな)」と「大供(おども)」と子育て
 21世紀の日本に忍び込んできた「子人(ことな)」と「大供(おども)」という、二つの妖怪。
 「子人(ことな)」。大人になり切れない大人。それなりに「高い学歴」もあり世間の覚えもよい職業に就き、、「受験勉強」や『学習』のたいせつさは痛いほどわかっているが、大人になり切れていないので、本当に子どもに伝えなければならないことや「ガードレールの指導」がわからない大人。守られてばかりいる環境で育ってきたので子どもを守ることを知らず、危機管理やTPOでの正確な判断が整っていない大人

 もう一つの妖怪は「大供(おども)」です。
 「子ども」を育てているという自覚や責任が整っていない、大きい人(大人ではないからです)。自分のことや趣味に精いっぱいで、子どもを客観的に見ることもできず、思いつきや感情に任せて、一貫性なく怒鳴り散らす人。したがって、子どもはいつまでたっても、言うことを聞きません。聞いてくれません。そして、自分も根は『子ども』なので、結局子供に阿ってしまう。これでは満足な教育や指導ができません。
 「子どもをつくった、しかし親が親として成長しないまま子どもを育てて・・・」となれば、社会の根幹が揺らぎます。二つの妖怪は恐ろしい妖怪です。
 「最大多数の最大幸福」を願って社会の変革を続けていくのが多くの人の願いのはずです。
 それに向かっての努力の必要性も言うまでもないことですが、中心になるべき肝心の次代を担う人を育てる大人が子どものままであったり、個人としての「拵え」に、あちこちほころびがあるようでは、それらも成就しません。小さい子どもたちがいるお父さん・お母さん、どうか一度振り返って、考えてみてください。
 「子人(ことな)」と「大供(おども)」の子育てとは、どういうものか? 例を挙げて考えてみましょう。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ① 「子人(ことな)」の子育て

2015年06月20日 | 学ぶ

人格や人間性のともなわない学力に意味はあるのか?
 この間紹介しましたが、左は創設以来今年度(2015年)まで団のOB教室を経て、きちんと卒業してくれたOB諸君の進学先です。発揮した学力に限らず、彼らが人間的にもすばらしく成長してくれているようすも、何度か紹介しました。

 「ほんとうの医者になりたい」とアフリカまで行ったK君、救急救命医として北の大地で活躍しているS・K君。
 女の子もいます。高校の時、「いじめ」にあって助けてもらったカウンセラーの先生を見て精神科の医師を志したKさん。「日本一の看護師になりたい」とN県立医大に進学したYさん。その意気やよし、です。
 

そして、最近の諸君。「母をたずねて・・・」で紹介した大阪一心やさしい(と、ぼくは信じています)T・K君。進学中学を訪問したとき、「あのA君を育てた南淵先生・・・(これによって、彼が中学校の時でさえ、学校でいかに評価されていたか、よくわかります)」と紹介された、今年京大へ進んだA君・・・。みんなやさしく、賢く育ってくれました。
 ぼくは、いつも「人格や人間性のともなわない優秀な学力なんて、まったく意味がない。人に迷惑をかけるだけだ」と話します。「人格」や「人間性」のともなわない高い学力など、「他人の迷惑」になりこそすれ、社会的にはほとんど意味をもちません。子どもたちには、まず、それを伝えようと心がけています

 口幅ったくも、こう言っているからと言って、ぼくは堅物でも「星一徹」でもありません。いわゆる「先生」とは、「まったくちがうタイプ」なだけではないでしょうか。
 たとえば。いつもAmazonやインターネットショップの商品を配達してくれるクロネコヤマトの兄ちゃんとの朝の会話です。
 教室の入り口で、真剣な顔で
 「今日は、AV届いた?」
 兄ちゃん 「ははあ、先生、へへッ、今日はまだですわ、ハハッ!」
 ぼく 「そうか、残念。早いとこ頼むで」
 兄ちゃん 「わかりましたァ、ハハ」。大笑いしながら電動自転車をこいでいきました。
 

 こんな感じです。小太りの「子ども好きな、ただのおじ兄ちゃん」です。
 しかし、誰が何と言おうと、「子育て」は、まず「人育て」です。そこは譲れません。「学校探し」や「学校選び」ではありません。目標や理想のない子育てで、豊かな人間性や、優れた人格が期待できるでしょうか? 校訓や指導要領は、その思いや願いを実践してこそ意味があります。ちなみに、団の三訓は「嘘をつくな。狡をするな。楽をするな」です(その意味は以前のブログで展開しています)。

 日ごろのあれこれや雑事で往々にして忘れられがちですが、人を指導する立場にあったり、教える職業にある場合、その目標と理想なくして教育は成立するものですか? みなさん。「実は、大切なこのことを忘れがち」ではないでしょうか? 「方針」や「理想」のない「子育て」は、ただの『子守』に過ぎません。
 子どもが生まれたとき、ぼくたちは「元気で丈夫に大きくなってくれればよい…」と思います。しかし、ほんとうに、「いつまでもそれだけ」でよいでしょうか? 

 「元気で丈夫で、何も考えない、頭の悪い人」が多いほど、「傍迷惑」で「始末に困る」ことはありません。失敗続きでも、いつも「笑い話」ですむのは、「寅さんの映画」ぐらいです。子どもたちには、できれば、人の心がわかる、やさしく頭の良い青年に育ってほしい、というのがみんなの願いなのではないでしょうか? また、「一度も、成人まで責任をもって子育てをした経験がない人」が、よく「踊らされる」、観念的でマスコミ受けや好感度狙いの「美辞麗句」にも反省と注意が必要です。「自由と自主性の尊重」や、一部の人には金科玉条の「ほめて育てる…」という「美辞麗句」について考えてみましょう。  

 まず「自由」です。「自主性」や「自由」の裏には必ず「責任」がともなうこと、「自由の尊重」は同時に「他人の自由も尊重すること」という原則をきちんと伝える努力や行動を欠いては、「子どもを放し飼い」にしているのと同じこと。「ただ『わがままや自分勝手の素』を注入しているだけだ」ということに気づくことが必要でしょう。
 また「ほめて育てる・・・」ですが、時に「厳しくしかる」、「方向をコントロールする」という、きちんとしたフォローがなければ、「うぬぼれが強いだけで、口だけ一人前、中身半人前」、大阪のおっちゃんが言う「生意気なクソガキ」の大量生産が関の山です。そんな傾向はないですか? ほめるだけで育つような子はいません。

 これらの「美辞麗句(!)」を無反省に取り入れるのではなく、それぞれの子どもの性格や成長に応じて、適切にコントロールしていかなければならないのが、「実際の子育て」です
 そこではお父さん・おかあさんの『成長』も厳しく問われることになります。それが子どもをもつ(もった)大人としての最低限の責任だということを忘れることはできません。

子育てと勉強
 そして、もうひとつ避けては通れない「大きな問題?!」がここに立ちはだかります。「勉強」を「勉強というくくり(つまり受験や成績向上の手段)」だけで考えてしまうという「悪しき慣習(?)」です。
 ほとんどの人はあまり考えないようですが、「子育て(人育て)」と「勉強」は切り離して進められるものではありません。少なくともぼくは、団で素晴らしく成長してくれる多くの子どもたちを見ていて、そう結論づけることができます。

 簡単な例を挙げれば、「人の話をきちんと聞ける」、「約束を守る」「少し我慢してしなければならないことを片付けられる」・・・。これらができないと勉強もスムーズに進みません。これらは、いつ、だれが、どこで教えるのか? 
 これらを教えなければならない場面を想像してみてください。借り物の「美辞麗句」で実現しますか? ほめるだけで軌道修正できましたか? 言うことを聞く子ですか? 素直に言うことを聞かせられましたか?
 一個の人格が形作られようとしているとき、「観念的な子育て」で遊んでいるばかりでは意味がありません。すぐ、「言うことを聞かない」かつ「言うことがわからない」やっかいな若者へ「変身」します。 

 毎年育っていく子どもたちを見ていると、日々「待ったなし」です。光陰矢の如し。「子育て流星の如し」です。それを忘れないようにしましょう。
 そして、その際には「子育て」に対する意識・方針や落ち着いての観察・行動の基準や判断するための『哲学』など、あらゆることが関わります。
 「哲学」と、むずかしい言葉を使いましたが、いいかえれば、それは「生きていることを真剣に考える」と言っても同じことです。「その場限り」では済みません。そして同時に、子どもの「将来を見通した思い」がそこには欠かせません。   

 以前にも書きましたが、ぼくたちは何をするときも、自分がもっている1つの脳、その「頭のはたらき」で判断や行動をします。「それらの繰り返しと総合」が「成長すること」です
 成長過程にある子どもたちの「学体力」を養い、「環覚」を育て、人間性の陶冶を願うこと。それらにも、さまざまな環境や場面での子どもたちの行動の観察や反省・指導が必要になってきます。欠かせません。「すべて、『勉強』とも『人生』ともかかわってくる」からです。
 さて、「学体力」と「環覚」は僕の造語でした。次回は、みなさんの参考になることを願って、「子人―ことな」と「大供―おども」(いずれも造語)の「子育て」について、現実にあった場面を紹介しながら考えてみます。
 (写真の田植え・川遊びは今年のようす、成績表は各課程6月度学力コンクールです。)


夢へのワープ   『ゲームセンター』から京都大学へ⑩

2015年06月13日 | 学ぶ

「カニの爪」の正体 
 先週、化石採集で発掘した「カニの爪(?!)」をもって大阪市自然史博物館を訪れました。
 学芸員の方が虫眼鏡で丁寧に観察している様子を、みんなワクワクそわそわしながら見ています。

 返ってきた答えは「・・・おそらく巻貝だと思います」でした。「巻貝の口の部分が少し崩れて現状の姿をしているのではないか」というものです。みんな少し気落ちしたのですが、あとの「意味不明!」だったものが、「おそらくウニかヒトデの一部」だという判断で、もう一つは「樹皮の一部のようだ」そうです。

 それぞれ「カニの爪」「花弁」「植物の種」というみんなの予想は、ことごとく「敗北(?!)」です。しかし彼らがそこで手に入れたものは、化石に対する興味であり、地球の歴史に対する視点であり、環境に対する好奇心です。つまり学習内容への親近感です。すべて子どもたちの「環覚」を培う条件たちですこれらが子どもたちの学習のバックグラウンドをしっかり補完し、次の「学習すること」や「研究すること」にまで思いが至るわけです。

 子どもたちの成長や学体力を養成するのは受験問題の繰り返し演習では決してありません。その誤解を解かないと、目をキラキラ輝かせる好奇心にあふれた青年には育ちません。お父さん・お母さん、そして先生方、もう一度、巻貝の「カニの爪」の大切さに思いを留めてください。

M君への理科・社会指導(続)
 社会の学習指導について、僕は「この参考書を使って」等ということは書いていません。お話ししている子どもたちとの「やり取り」が「理科や社会の学習法」(!)です。つまり、大学受験の時期になってしまえば、特別に披露するほどの方法はありません。学体力が整うことで、自ら工夫し、乗り越えられるようになる科目です

 かつて地名や述語・年代の暗記に明け暮れ、恐ろしいほど退屈だった「社会」。高校一年生の時担任だったK先生が、「君は他の科目がこんなによくできるのに、なんで僕の地理だけが欠点(不合格点)なんだ」と嘆かれたことを今でもよく思い出します。
 今のようにテレビなどの情報取得手段もなく、山や川で遊んだことしかない。旅行なんかとんでもないという経済状況。そんな少年が、「とってつけたような(!)地理の勉強」に「大いに興味をもつ」なんてことはほとんど考えられません。

 約半世紀たった今も、その「指導法の解決」に目を向けず、これらの学習法や勉強が、ほとんど変わりなく続いているのが現状ではないですか。子どもたちが自らの周囲のものに目を向け、その対象の奥行、歴史や広がり、関係性に興味をもってこそ、これらの科目の学習に対するモチベーションが高まります

 ふだんゲームやスマホにばかり向かっていては周囲のおもしろいものの存在に気づくことはできません。誤解を恐れずに言えば、「学習対象の多くが周囲の抽象」であるのに、それらを観察したり見たこともない中での学習が、「いかに理不尽で、味気ないもの」になってしまうかということは、経験からもきっとみなさんの想像の範囲内におさまるでしょうゲームやスマホに向かうようになる前に、小さいころからまず教えるべきこと・伝えるべきことがあります。「環覚」の育成です

 「自らの周囲のものの存在に気づき、おもしろいものやことを見出せるか」。そうでないと、「勉強」はいつまでたっても「勉強という縛り」を超えることはできず、手段や方便にとどまり、大学に入れば「用無し」になる運命のままです
 そういう思いの中から、かつて僕が子どもたちのために書いた地理のテキストの「まえがき」を紹介して、「夢へのワープ ゲームセンターから京大へ」を終わります。ちなみに、同じ苦い思いを子どもたちに味あわせたくないと、同時期にぼくが書いた社会のそれぞれのテキストも紹介しておきます。

 なお、宇宙や地球の歴史については、いつも松井孝典さんの著書を参考にしています。「宇宙生命、そして人間圏」(ワック出版)、「宇宙で地球はたった一つの存在か」(ウェッジ選書)、「松井教授の東大駒場講義録」(集英社新書)、「われわれはどこへ行くのか?」(ちくまプリマー新書)他多数。次も松井さんの著書からです。

宇宙の中の地球
宇宙の階層構造
 ハゲエモンの「日本の歴史」の冒頭でもふれたが、ここでは「宇宙の中の地球」について、松井孝典氏の著書「宇宙から見る生命と文明」(日本放送出版協会)を援用しながら、少しだけ詳しく見てみよう。

 まず、左の写真(イラスト)」を見てほしい。これは私たちの地球がどのように宇宙に存在しているかという階層構造を表したものだ。
 一口に宇宙といっても、例えば『スペースシャトルで宇宙へ行く』などという場合は、「宇宙」というより、「地球の大気圏の上層に広がるプラズマ圏」の中で、いわば、その外側からが本当の宇宙といえるものだそうだ。地球は、水星や金星・火星など他の惑星とともに太陽の周りを公転しているが、これが左のイラストの左から二つ目、太陽系である。
 太陽系の外側では、太陽のような質量の天体(恒星)が1000億個くらいもあり、太陽とは質量の異なる天体まで含めると、2000億個くらいの天体が一つの集団を作っている。これがいわゆる銀河系で、約10万光年(光のスピードで10万年かかる距離)くらいの広がりがある。

 銀河系はいくつかの腕が中心から伸びて渦を巻いたような形で回転しており、私たちの太陽系はこの銀河系の端のほうに位置し、他の天体と同じく数億年で一周するくらいの運動をしている。その銀河系の外側には物質的にはほとんど何もない空間が広がっており、その所々にほかの銀河、つまり何千億という星が集まっている別の銀河もある。
 さらにもっと大きい目で見ると、それらの銀河が集まって存在しているように見え、銀河団とか銀河群とかの集団名がつけられている。銀河が一つの星のように見えるくらいのスケールで見ると、銀河は泡の表面に分布しているように見え、これは宇宙の大規模構造と呼ばれている。

 このような銀河を単位とするスケールの宇宙は何千億もの銀河から構成されていると考えられているが、その宇宙の果てがどこにあるのか、本当のところは何もわからない。宇宙が誕生した瞬間に宇宙がどこまで広がったかということが本当は分からないので、見える範囲のもっとも外側が宇宙の果てだという言い方しかできないのである。

10万光年という距離
 ここで、もうひとつ大切なことを学ぼう。私たちの日ごろの生活では意識されることはないが、光が伝わるのにも時間がかかるという大切な事実である。光の速度は毎秒約30万㎞という速さであるが、宇宙という大きな対象を考えると、先ほどの銀河を例にとっても、約10万光年という大きさである。

 10万光年とは「光のスピードで10万年かかる距離」だと述べたが、それはとりもなおさず、その星の光が我々のところに届くまで10万年かかるわけだから、今我々が見ている光は、その星を10万年前に飛び出した光!である。我々は現在、その星の『10万年前の姿』を見ていることになる。
 もう少しわかりやすく言うと、地球そのものは光を放っていないが、10万光年向うに宇宙人がいて、地球の姿がありありと見える素晴らしい視力を備えていると仮定するならば、彼が見ているのは地球の10万年前の姿、いわゆる地球上のネアンデルタール人などが見えているわけである。わかるだろうか? 何とも面白い話だが、現実なのだ。

 さて、こうした「宇宙の中の地球で生まれて」僕たちがここにいるわけだ。こういう壮大なことがわかったのは、いうまでもなく君たちの先輩の「人類」が「研究」や「努力」・「勉強」をしたおかげだ
 それらに比べたら、君たちが今困っている(!?)「勉強」なんて「たかが知れている」と思わないか? そんな「高が知れている」勉強をしないと、こういう大きな「知の体系」のおもしろさに触れることもできないし、それに協力することもできないってことがわかるだろうか?
 「勉強」を否定的にとらえてはいけない。君たちも勉強して「人類の一員」としての存在感を示そうよ。それでは、「宇宙の中の地球の一部(!)」に少しふれてみよう。さあ、「地理」の勉強だ(以上)。

 テキストは、次に「地球の形と大きさ」に続きます。
 「地理の勉強は地理の勉強には終わらない。理科の勉強は理科の勉強には終わらない。子どもたちの教養や人格を高めるために、いずれも欠かせないものだ。関係ないものはない」。
 ぼくは自分の「地理」の「痛い想い出」を振り返りながら、そう試行錯誤しています。

 来週からは「母親教室」のテキストを紹介します。団を始めて10年くらいたった時、「お母さんやお父さんに、ぜひ話しておきたい」と書いたテキストです。


夢へのワープ⑨

2015年06月06日 | 学ぶ

M君への理科・社会指導(続) 
 ゲームセンターから京都大学へ。M君の二年間。理科・社会の学習指導のつづきです。

 先週「考えることをはじめよう」の中で、宇宙は137億年前に誕生し、地球が46億年前に誕生したこと、それだけを知っていてもおもしろくはない。(たとえば小学生ならば)、「少し偉そうにできる(誰かに少し自慢できる)だけだ・・・」とお話ししました。(それを、いかにも「頭が良い」ように脚色するテレビのクイズ番組の多発も、ある意味大きな問題ですが。)
 理科と社会の学習指導の目指すところは、何よりもそうした現状からの脱却でなければならないと思います。学ぶおもしろさの「発掘」です。子どもたちの学ぶおもしろさが、その後の進学や日常生活を大きく左右する「学体力」養成の大きな柱の1つになります。またM君の場合で言えば、「学ぶおもしろさ」が身につく指導法であれば、彼が登校拒否する歯止めにもなってくれたはずです。
 難関一貫校を二年で登校拒否し中学中退する前、M君も近県の中学受験エリート養成塾(!)に通っていました。やはり今も踏襲されている学習指導法、難関校受験塾にありがちの方法―難関中学の受験問題を研究(?!)し、傾向を見極め(?!)、少し中学内容を盛り込んだ(?!)テキストを使った指導―の積み重ねだったようです。

 子どもたちの「知りたい欲求」は蚊帳の外、「好奇心の掘り起こし」とは無縁のフォアグラ授業です。登校拒否の原因の一端は家庭の事情や進学した中学校にもあったにしろ、「学習すること」が子どもたちにとって意味を持ちえなかった指導、今でも多くの小学生を『勉強嫌い』にし、「受験だけの勉強を超える、たいせつな勉強には導かない(!)」勉強です
 そうした指導しか知らなかったM君にとっては、団の指導は想定外で、とても新鮮だったようです。課外にしろ、立体授業にしろ、ふだんの学習指導にしろ、目をキラキラさせて聞いていることがよくありました。今週の化石採集から始まる指導も、M君がいればそうだったかもしれません。

化石採集の立体授業
 今週は化石採集の課外学習でした。目的地は電車やバスを乗り継いで2時間弱、赤目や飛鳥とはまたちがった山間です。約1500万年前といわれている地層では、小さな巻貝や二枚貝、広葉樹の葉の化石が採集できます。
 目的地への道すがら、いつものように様々な動植物の生態に目を留め観察を続けながら、子どもたちの日ごろの学習内容の奥行を紹介し、裏付けを指導します。難関受験塾(!)の指導しか知らない(経験がない)お父さん・お母さんたちは、おそらくこうした姿を見ても、受験勉強の邪魔・時間の無駄・遠足(!)としか見られないかもしれません。
 しかし、団の子どもたちは、こうした体験の積み重ねを通じて、自らの学習内容や学習対象になじみをもち、勉強の奥行や広がりを探ることができるのですそれによって学習する意味を認識し、好奇心が頭をもたげます。小さい子の学習姿勢の根幹になる「環覚」と「学体力」の大切な基盤です。今回も写真のように、子どもたちは実感を伴いながらたくさんのことを学びました。

 団近くの家の溝のシダ植物。枯れ始めたコケ。これは地球環境の変遷や植物の上陸の歴史と進化(化石採集の奥行)のテキスト指導の裏付けになります。
 少し歩いた信号の中央分離帯のチガヤやコバンソウ・ノビルはその歴史の単子葉植物の広がりです。これは『でっかいタケノコ堀り』の『竹の子』の学習にもリンクします。

また、もうすぐ始まる『米づくり』の稲、そして渓流教室で遊ぶ弓矢や釣竿の材料のササも、スライドやテキストをもとに、作業・工作で、その実物を「体感」していきます
 次の道脇の空き地にはマンション脇でススキやヨシが、他の場所に比べ恐ろしいほど勢いよく繁茂している一角があります。子どもたちにその理由を考えさせます。便槽や排水溝の仕業です。(これらも単子葉植物です。)

 この知識はやがて、「田植え」に向かう道沿いで、山から田んぼへ下る水が果たしている大切な役割、それが原因で時には戦が始まったことなどにつながります。子どもたちはそれらの学習内容を「ただの知識の羅列・暗記」に終わらず、成り立ちとしくみとともに立体的に組みあげていきます。
 
こういう指導の積み重ねの大切さは、世の難関塾の先生方には理解していただけないかもしれません。しかし団の子どもたちのすばらしい成長の理由の半分は、こうした指導にあります。理科と社会。知識の獲得だけではおもしろさは手に入りません

 ちなみに化石採集の事前の立体授業では、算数にも今回こういう展開がありました。
 先ほどの137億年や46億年という、気の遠くなるような時間の「重さ」を計算させます。「一年を1cmの長さにすると、137億年はどんな長さになるか、計算しなさい」というものです。

 137億年だから137に0が8つ。mに直すと0が6つ。㎞に直すと0が3つ。つまり13万7000kmになります。この位取りをそれぞれ考えさせます。
 これはどれぐらいの長さか? 地球にたとえます。赤道の周回が約4万77㎞ですから、約3.42周分。つまり137億年はおよそ地球3周半にもなる長さです。その気の遠くなるような長さも少しだけ実感できました。
 
1500万年前の蟹爪(?)発見から
 今回化石採集では、素晴らしい獲物が手に入りました(写真)。おそらくカニの爪ではないかと想像しているのですが、大阪市自然史博物館にお願いし、レクチュアを受けることになります。

 
   課外学習や立体授業で野外に出ると、毎回様々なハプニングに遭遇します。こうしたワクワク感は日頃の学習指導のためにも欠かせません。

 印象深い想い出からのイメージの応援は日頃の学習を身近にしてくれます。またハプニングに対する期待感は、子どもたちの好奇心に変わって、「環覚」の鋭さを育ててくれます。おもしろさや変化に目ざとい眼を育ててくれるのです
 化石採集では今まで同地で、次のような化石が採集できました。当時近辺は浅い海だったというのですが、広葉樹の葉が出て、アサリやシジミのような二枚貝の化石・丸く削られたチャートの小石、そして今回の「カニの爪」(?)・・・。

 教科書で通り一遍の知識を身につけ、記憶の棚にしまい込んでも、それらは二度と引き出されることなく、いつの間にか忘れ去られることがほとんどではないでしょうか。それが「受験勉強」の「なれの果て」です。
 かつてのブログ「ファインマンの父とエジソンの母」等でも展開しましたが、学習対象や学習内容がテキストとは別に、日ごろの自らの環境の中で自己を主張し始めることで、子どもたちの学習の「疎外感」は緩和され、学ぶおもしろさが見つかる可能性が高くなります

 ぼくたちが学校で学んでいること(学ばなければならないこと)は、それぞれどんな意味においても、僕たちの人生や生活に欠かせないことであるはずです。学生時代、長い年月をかけて学んだ内容が、単に受験の手段のまま終わることは、たいせつな一生で、時間の浪費にしかなりません。できうれば、それが人生を豊かにする存在に変わってほしい。そう願うのは僕だけではないと思います。

 今回の「カニの爪」が、子どもたちの心に1500万年前の海辺の光景を鮮やかに描き出す存在に変わることを願いながら、今日子どもたちと大阪市自然史博物館に向かいます。どんな答えが返ってくるでしょうか? とても楽しみです。
 そして、明日は久しぶりのカメラマンです。今シリーズ紹介のM君とA君の記念写真を撮りに京大に向かいます。彼らの夢と自信にあふれた写真が撮れればよいのですが。