『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑪

2015年08月29日 | 学ぶ

末期の目
 何を教えればいいか? 「今のたいせつさ」。です。

 

時間のたいせつさです。よく言われますが、その「奥行き」は深く、『茫漠』としてつかみどころがなく、子どもたちは(ぼくたちも)、あまり実感(切実感)がわきません。なぜでしょうか?
 『いのちに限りがあること』を考えない(考えたくない)からです。
 高見順の、こんな詩があります。

 
 電車の窓の外は
 光にみち
 喜びにみち
 いきいきと いきづいている
 この世と もうお別れかと思うと
 見なれた景色が
 急に新鮮に見えてきた
 この世が
 人間も自然も
 幸福に みちみちている
 だのに私は死なねばならぬ
 だのに この世は実にしあわせそうだ
 それが私の心を悲しませないで
 かえって私の悲しみを慰めてくれる

 ・・・(後略。昭和39年6月17日・文責南淵)
 
 何とも心にひびきます。高見順がガン宣告を受け再入院する前日に作ったと言われています。つまり死期を悟った、「末期の目」です。

 その眼で、きらめく楽しい「世界(この世)」に思いを馳せ、雑念の失せたなかで、「真実」を書き留めたものでしょう。「すべてのたいせつなもの」は、「この世ともうお別れ」というときに、はっきり見えてくる・・・。
 健康であろうと、病気であろうと、ぼくたちは生まれれば、死ぬことを宿命づけられている存在です。みんな時間に「限り」があります。宇宙や太陽にも「死」は訪れます。そういう現実に「目が届く」ようにならないと、ほんとうに「たいせつなもの」は見えてこない。たいせつなことはわかりません。
 「寿命のことは考えない」し、「時間はいつまでもあるように思ってしまう」し、『別に今日でなくとも』という甘い考えに終始することになります

 

生死の疎遠さ
 時間の限りを意識しなければ、「いつでもあるもの」、「いつでもできること」ばかりです。「たいせつなもの」はわからず、「たいせつなこと」もなくなります。自他のいのちに「限り」があることが、「人」や生命のたいせつさ・愛情の尊さ・もののありがたさ・かけがえのなさを教えてくれます。慈しみや愛しさが生まれます。

 想像もできない膨大な時間の流れの中、今この瞬間を、「火花のような生の輝き」しかもてないもの同士が、希有な偶然で近くで共に生きている・・・だから、いとおしくなります
 今の若い人や子どもたちは『いのちの限り』をきちんと伝えられていない(環境が整っていない)ので、「感じてしまうのは『うっとうしさ(!)』」になるのではないでしょうか? 生命や生死との疎遠さ。ぼくは、子どものときに寿命やいのちの限りに目を向けたり、伝えない(られない)ことが、近年の暴力事件や生命のたいせつさを尊重できない事件や行動の遠因になっていると考えています。

 外遊びや自然と戯れる体験が少なく、生き物の生死に触れる経験が少なくなるほど、生命のたいせつさや「いのちの限り」に考えが及ぶことは少なくなります。意識が離れていきます
次は、おなじみの宮沢賢治です。「永訣の朝」。妹の死です。 野辺送り。 新仮名遣いに変えてあります。

 

きょうのうちに
とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふって おもては へんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)・(注 あめゆきをとってきてください・南淵)
うすあかく いっそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
・・・(中略)・(先の詩もそうですが、字数の都合上、やむを得ず略を入れます)
ああ とし子
死ぬといういまごろになって
わたしを いっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがとう わたくしのけなげないもうとよ
わたしも まっすぐすすんでいくから
    (後略)

子どもに伝えるべきたいせつなこと
 かつて、自らの家ではもちろん、近隣でも「身近な人の生死を見る機会」は少なくありませんでした。現在の子どもたちは、奥まった一部屋で日に日に身体が弱り、人が死に至る現実・過程をみることもほとんどありません。

 こわくても、そういう機会に、子どもたちは生死や生命の限りを『実感』できました。つまり、寿命があること・生命のたいせつさに「対面」できたのです。それは、多くの子の、以降の感性や思考・思索が大きく変わるきっかけとなったはずです
 ほんとうにたいせつなものを教えなければなりません。「生死と寿命」の伝達からです。
 物語でも良い、もちろん先ほどのように、詩でも探ることはできます。しかし、画面や文字を通した表現は、どうしても「客観的」「抽象的」「他人事」に「受け取りがち」です。感受性や想像力の補いで、その「距離」を埋めることがむずかしい子もでてきます。そこでも「自然体験の意味」は大きいとぼくは考えています。

 おとうさん・おかあさん。子どもたちに伝えるべきこと。まず最低限、「生命のたいせつさや寿命の存在に目を留められるきっかけ」をつくること。寿命の存在やいのちの限りに気づかないと、ほんとうにたいせつなものは見えてきません。 
 そういう視点が欠けてしまうと、「いつまでもある時間」、「別に今日でなくても」という、「甘い考え」が「のさばる」ことになります。「今日でなくてもいいこと」もありますが、期限がある「子どもの成長」に限らず、「『今日でなくてはいけない』という意識があってこそ人生も充実する」とぼくは考えています。

 いのちの「限り」をつたえ、「生命のたいせつさ」を伝え、自らを振り返り「なぜ勉強しなければならないか」を真剣に考え、その結果を子どもに心から伝えていく。むずかしい言葉なんか必要ありません

 自ら真剣に考えたお父さん・お母さんの言葉は、たとえ「朴訥」としたものであろうとも、深さと説得力がまったくちがいます。子どもたちは真剣に聞きます。まず、それだけで、子どもの一日は大きく変化していくと思います。

 もし、それでも聞かないようなら、「しつけ」がなっていないわけだし、自らの反省とともに、今後のために「力技でもよい」と思います。「人生」と「一生懸命思ってくれる人の気持ち」をなめてはいけません。
 次回は、参考にしていただけるように、「おども」と「ことな」の例を挙げて、指導の方向性を探ります。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑩

2015年08月22日 | 学ぶ

男の『性』の喪失
 お父さんとお母さんの、つまり男女の「特性」と「愛情(それぞれの)」がバランスよく加味されて、子育てがうまく進んでいく。そして若いお父さんたちの子育てに、今欠けつつあるのは、「男『性』の不足ではないか」と、先週考えました。この疑念は、団を始めて「年下の」お父さんたちと出会ったときから消えません。最近ますます深くなっていきます。

 今のお父さんは「男」や『男らしさ』は関係ないのではないか。「あまり考えたことがない(!)」人が多いのではないか。知らないのではないか? それらを考えてみる一例です。
 何年か前のことです。「渓流教室」に久しぶりに数少ないお父さんの参加がありました。「今年は、子どもたちと一緒に魚や虫を捕ったり、おもしろい展開になるのではないか」と期待していました。ところが、その期待は見事に裏切られました。川でも遊ばない(遊べない)し、虫取りにもいかないし、協力もしない、そんなひとが現れました

 先に紹介したように、「赤目渓流教室」は二泊三日の日程で、宿泊両日とも夕食は、持ちこんだ肉や宿舎で用意してもらった野菜のバーベキューです。ちなみに、みんなで捕まえた「獲物(!)」の沢蟹の素揚げやヨシノボリの佃煮もテーブルに並びます(これらはぼくが調理します)。準備することがたくさんあるので、みんなで力を合わせないとスムーズに進みません。

 初日、子どもたちとともに「渓流遊び」から帰ってくると、宿舎近くの空き地に、まずテントを組み立てます。それから、バーベキューコンロやテーブル・椅子などをセットし、参加者全員の食事の準備です。さらに「バーベキューの火起こし」まで、結構手間と時間がかかります。子どもが楽しみにしているイベントですから、素早く準備し、次の作業にかからなければ、後のカブトムシとりや花火などの予定がこなせません。

 一連の行事の場に居合わせれば、「様子を見て、要請されるまでもなく、自ら作業の輪に加わり、セッティングに協力する」というのが、「大人として」、あるいは特に「男としての」、当然の気遣いであり「常識」だと思うのですが、みなさんはいかがですか?

 7~8年前までは、今年参加し一生懸命協力していただいたお母さん・お父さんと同じく(ほんとうにありがとうございました)、当たり前のこととしてお手伝いをしてくれました。声をかけるまでもなく、バーベキューの用意がすべて整うまで、参加者全員で作業し協力しあう体制が整っていました。つまり、そのころはまだ「一般常識(!)が通用する人」が多かったのです。  

ヤンキー自慢
 ところがです。参加されたお父さんは、まだ準備が整わず準備作業が続いているのに、用意ができていたテントの椅子に腰かけ、子どもたちに、得々(!)と中途半端な『ヤンキー話』です。よりによって、「学校で先生に注意されたときに、『イキがる』術」を話しています

 小学生の「おとうさん」です。40代の働き盛りです。思慮も分別もあるはずです。しかし、周囲に目がとどかず、子どもたちに迎合しているその姿は、コンビニの前でたむろしている『あんちゃん』です。保護者です。それでは出来の悪い中学生です。

 バーベキューですから、みんなの食事が終わるまで、炭火のコンロで惣菜を焼き続けなければなりません。その間も忖度なく(!)、ビールのピッチを上げながら(団のビール)、さらに「観光気分」です。それだけではありません。みんなでカブトムシの捕獲に行くときも、そのままグダグダ飲み続けで、虫をとって帰ったころには、部屋に入って寝ていました(!)。10年近く、そんな姿や行動パターンを見て育てば、子どもの指導や教育も極めて難しくなります
 どうでしょうか? こういうお父さんばかりだとすると、子どもに「現出」している問題は当然の帰結だと思いませんか? たとえ、良心ある先生方が居たとしても、子どもの指導や教育はうまくいきません。宇宙人の子を地球人が育てるようなものです。応援しようにもできません。受験はうまくいっても、人格をともなうことは叶いません。

 その数時間前です。渓流遊びで道具をしまう段になって、最上級生の男の子二人が、自分らも喜んで遊んでいた大きなボートを「女の子」が運んでいるのに、声をかけて「引き取り」もせず、一つも荷物をもたないで、さっさと上がっていきます。情けない限りです。

 ふだん「チョロチョロ女の子のそばに行って、うれしそうにベタベタばかりしている」のに、です。みなさん、どう思いますか? 男の子ですか? 男らしいですか? 格好良くありません。そして、そういう行動パターンは、「いじめられっ子」の典型です。

男の背中とシルバーバック
 お父さん・お母さん。厳しい言い方ですが、「子育て」で悩んでいるなら、問題から逃げず、こういう行動の「有無」、その「是非」や「善悪」を正面からきちんと考え、判断と結論を下してください。子どもは、身近で、日々の何気ない親の姿まで見て育っていきます。「男の背中」も見ています。それが彼らの判断や行動を形作っていきます

 指導している立場から見れば、影響は決して小さくありません。ですから、さらに日々の判断と結論に基づいて、お父さん・お母さん二人で協力して「結果を詰める」努力をしてください。それが立派な(立派に)子を育てるお父さん・お母さんとしての姿であり、唯一の方法です。何よりの「しつけ」であり、「子育て」です。その努力が子どもの素晴らしい成長となって返ってきます。

 子どものことをしっかり考えていない、「中身のない(!)注意」では育ちません。子どもたちは、お父さん・お母さんの「成長する姿(!)」を日々見ながら育っていきます。注意を払い、きちんと「詰めない(られない)」姿を見ているから、「注意を聞かない」のです
 
  
先述のお父さんの行動に対する判断の一例です。
 まず、第一に自らが加わっている環境にきちんと意識が向かず、自分のことしか見えない。周囲は関係ない。つまり、その行動心理や行動パターンをふだんの生活に戻して考えれば、家庭や奥さん・子どものことなどに「目が届いていない」。たとえば、子どもの成長のようすや「今、子どもがどういう状況にあるのかなどもよく見えていない」。つまり、しつけや指導や修正ができません。 

 さらに、「その場に応じた、自らの役割や責任」も意識することができない。そんな習慣がない。「考える脳は一つ」ですから、当然日々もそうでしょう。そうした日常が見え隠れします。 
 「自分の子を見ることができない」場合はもちろん、「ていねいに客観的に見る」ことができなければ、「叱るべきこと」や「叱るべきタイミング」はわかりません。それでは、きちんと叱ることもできません。 つまり、日々『流れていく』だけです。「言うことを聞かない」に終わらず、「教育」や「しつけ」は機能せず、「子育て」が成立しません。親のそんな姿を見ていれば、紹介しているような「ことな」や「おども」が、どんどん増えていきます。

 また、たいへんだとは思いますが、「仕事をしているから・・・」という「甘え」は、子どもができれば許されません。自覚がもてない「責任や義務」の回避は「モンスター社会」を誘うばかりです。「モンスターが増えモンスターがふつうになる社会」です。そんな混乱した社会で、みなさんのたいせつな子どもたちが生活しなければならなくなります。

 「収入の確保」に限らず「一人前にして社会で活躍できるように育てる責任がある」のが「親」です。前々回も書きましたが、例えば、世間的に見て、あるいは社会的に見て『これはいけない』ということをしている子どもに、「叱るべきことがわからない」「叱ったらかわいそう」「今、叱らなくてもわかるようになる」というあたりも、「現在のお父さん」の現実ではないでしょうか

 想像してください。「誇らしくなる」。自分の子が活躍する姿を見れば、うれしくありませんか?
みんなから尊敬される。「感激!」ではありませんか? 「そんな夢が実現する」ように育てる「かかわり方」は「今」しかできません。子どもの「現在」しかありません
 「へたれ」に育って、世間や社会に「つまはじき」されるようでは、「かわいそう」だし、「情けなく」ありませんか? 「だから、(たとえ、辛くても?!)今叱らなければならない」のです。
 今、「看察(造語)」しなければならない」のです。大人になるためのルールや夢を、真剣に伝えなければならないのです。「家で」大きく育てようとすれば、植木でさえ、日々の水やりや草取り・気遣いは欠かせません。まして子どもは人間です。日々の気遣いや心配りのたいせつさは比較になりません。

 たまの休日、釣りやゴルフ・野球…も楽しみでしょう。が、「子どもができて」の男としての第一義は、ただ「金を稼ぐ」に終わらず、自らの子を立派に一人前に育てあげる「子育て」だと思います。他に誰が育てられますか? 親になった責任です。
 そして「現今」の教育環境・生活環境では「かかわり」は必須です。係累や近隣、さらに社会の『常識(!)』に支えられ助けてもらった、「かつての環境」は期待できません。時宜に適した自らの確認と判断が欠かせません
 ぜひ努力してみてください。子どもが大きく変わっていくのがよくわかると思います。子どもは『変わります』。

 「意識的」ではなくとも、結果として「生ませたら終わり」ではマウンテン・ゴリラにも及びません。シルバーバックはしっかり男らしく子育てをします。どうか、「自らの一生」と「自らが育てる子どもの一生」をたいせつにしてください。子育ての「巻き戻し」は利きません。苦い経験を振り返りながら、心から願ってやみません。
 来週は、まず子どもたちに「何を教えれば(伝えれば)いいのか」。そして、その他の「おども」の行動例を挙げ、判断の参考に供したいと思います。

 


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑨

2015年08月15日 | 学ぶ

子育てに対する共通理解と信頼関係の重要性
 「子どもを育てる」あるいは「指導する」際、鍵になるのは「子育て」に関わる人たちの、「子育て」に対する「目標や理想・方法・哲学(考え方)」の相互理解と信頼です。これらの条件がその齟齬を補いあってはじめて「前向き」に事が進みます。


 それぞれ指導目標・方法がバラバラあるいは『考えていない』、協力体制ゼロでは、学力に限らず可能性の開花も期待薄です。手近なところで言えば、お母さんが「勉強がたいせつだ」と思っていても、お父さんが「勉強なんか・・・」と考えたり、「我関せず」・「『わかった、わかった』と口ばかり」ではスムーズな、バランスの良い成長は期待できません。

 「勉強なんか・・・」という考えは大まちがいだし、「われ関せず」では「二度とない子どもの人生」なのにあまりに無責任ではないでしょうか。子どもたちの指導をはじめる前の、自らの認識不足を痛切に感じるゆえ、小さい子どもがいるお父さんは日々を省み、手遅れになる前に、ぜひ子育てに関して夫婦で認識の共有を実践していただきたいと願ってやみません。受験ママ・パパではなく、真の教育ママ・パパを目指してください

 方針がチグハグでは、『勉強』に対する認識一つとっても、「学ぶこと」まで『勉強』と単純に『一緒くた(!)』にしてしまいがちです。『勉強』だけではなく、「生きる上でも欠かすことができない、積極的に学ぶ態度」も手にすることができないようになれば悲劇です。「その日ぐらし」に流されて、「学ぶこと」そのものにも意味が見いだせない。本も読まない。「向上心」や「進歩」の意識とも縁遠く、投げやりな生き方に終始することになりかねません。

 逆の場合です。たとえば、学校の先生やお医者さんの家庭(家系)に「『勉強(学習)』が良くできる子」が多いことは、教育関係者なら誰もが感じていることだと思います。「遺伝」や『経済的な側面』のアドバンテージもあるでしょうが、彼らの学習が進む一番の理由は、先生や医師としての経験上、「勉強」のたいせつさに対しての、「切実さ」と「必要性」の認識の共有があり、無意識の中でも家庭で「それなりの意思統一」ができているからだと思います。

 つまり、「勉強」をさせる(させなければならない)という認識が共通しているので、「家庭での指導方針」がブレません。学習を進めるうえでの『要らぬ障害』が取り払われていることが多いというわけです。夫婦や周囲の意見のちがいで、「右手」と「左手」を違う方向にそれぞれ引っ張られ、あちこちで「行く先」への雑音が聞こえる場合とは、大きく異なります。
 ちなみに、団で紹介している国公立難関大進学OB生16名のお父さんの職業はバラバラで、医学部進学者の保護者にも病院関係者はいません。大工さんや鳶職の職人、中小企業のサラリーマンが多く、医師はゼロ、各種学校の先生が一人だけです。

 これらのお父さんたちすべてが、「勉強すること」に協力的だったわけではありませんが、「団の指導」にはすこぶる理解がありました。それが、指導の何よりの応援になりました。よけいな雑音がなく、子どもたちへの指導や子どもたちとの「やりとり」がスムーズに進んでいくからです。ブレが生まれません。
 このように遺伝や経済的な条件は、「自立学習(一人で勉強できる)」への指導を模索・追求している感覚から言えば、いずれも躾や工夫・育て方によって克服可能な問題です。学力もふくめ一人の子を健やかに育てるために、もっともたいせつなことは子育ての目標や指導方針に対する認識の共有と相互理解、そして信頼関係です

「煩い母さん」と「もっと煩い母さん」でいいのか
 ところが、昨今の世の中を見渡してみると、お父さん・お母さんの相互理解という最初期の段階から、「きちんとした話し合い」がなされていない(考えていない)ケースが少なからずあるような気がします。たいていはお母さんに任せっきりで、お父さんは「高みの見物」とさえもいかず、「高見のよそ見(!)」という塩梅です。
 ぼくは男尊女卑でもフェミニストでもありません。しかし、子育てに関しては、今までの団員諸君の成長ぶりとお父さん・お母さんの相関関係を見ていて「譲ることができない考え」があります。  

 「脳のしくみ」や「はたらき」でも男女差が少しあるようですが、それは当然のことです。自らの身体の一部として約9ヶ月、いわば『生死を共にし』、子どもの成長を「感じ続ける」女性の子どもに対する愛情の「ほとばしり方」・気の使い方と、常に『一歩はなれて』、いわば客観的に見続ける男性の子どもに対する愛情の「もち方」・考え方が同じはずがありません。動物・人間のからだや社会のしくみ・進化の歴史・精子と卵子のはたらきや受精のしくみを振り返ってみても、そこに画然たるちがいがあることは明らかです。

 これは、優劣を比定しているのでもなく、「どちらがよい・悪い」と言いたいのでもありません。本来、子どもは、その「男女両性の愛情や気の使い方・考え方をバランスよく受けて、「片寄り」を補い合うことで順調に育つのではないか」と言いたいのです。対家族・対社会に対する考え方や態度も、両親(両性)のそうした教育や指導を受けて初めてバランスがとれるのではないでしょうか。
 日本の場合は昔から、「お父さんが子育てにかかわらない」気味(!)がありましたが、それでも、いざと言うときは「にらみを利かす」ことができていたようです。多くのお母さんの協力や考え方もちがいました。しかし、昨今は、自らも面倒を見てもらうような、「おども」の『男』の性が増えて、叱り方や気の使い方にも「メリハリ」がなくなってしまったようです

 そのせいか、子どもの態度や姿勢に芯が通らず、すぐすねる、ダラダラ・オドオド・ウロウロしたり、けじめのない子(特に男の子)が増えてきました。粋がったり、格好はつけたがるが、それ以上ではない。(これらの例については、後日お伝えします)

 これらを指導したり叱ることができるのは、本来、「男親」の役目ではないでしょうか。つまり、「男性(!)としての親」が姿を消している(見当たらない)家庭が多いような気がします
 お母さんが「すべてきちんとできる」お母さんならよいのですが、なかなかそううまくはいきません。「おども」の父さんで、母さんも「ことな」であれば事態は深刻です。「おども」では子どもに「芯」も通せないし、「ことな」では「守ることもできない」となるからです。

 家庭内環境が整わないので、子どもは「糸の切れた風船」みたいにあちこちフワフワ。勉強なんか『上の空』。ゲーム三昧というわけです。「うるさい母さん」と、「もっとうるさい母さん」の二人では埒があきません。「男」部分の「欠損(!)」が子育て問題の原因のひとつではないでしょうか。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑧

2015年08月08日 | 学ぶ

すばらしい、今年の団員諸君
 先週は年間を通した立体授業のメーン・イベント、二泊三日の「赤目四十八滝渓流教室」。今年の参加メンバーは昔の団員諸君を思い出させてくれます。久しぶりです。裏表があったり、変にすねたりではなく、やんちゃ坊主ですが、素直で行動的、注意されていた約束事をきちんと守れる、先々楽しみな子たちばかりだと改めて感じました。

 7月の「クワガタ探し」で叱られた約束事。宿舎や車内では大きな声で騒がないこと。早く寝ること。時間を守ること。食事の好き嫌いをしないこと等々。みんなきちんと守ることができました。
 「大きな声でどこでも辺り構わず傍若無人に騒がないこと」は当たり前のエチケットですが(今は守れない子も多くいます)、「早く寝ること」や「時間を守ること」は、往々にして忘れられがちです。夏の暑い盛りに一日中遊んだのですから、早く寝て体調を整えないと翌日も目一杯楽しく遊べません。全力でパフォーマンスできなければおもしろさも半減です。

 また、団体行動ですから、不摂生でひとりでもからだの具合が悪くなると、中止にしなければならないことも出てきます。病気になったら、「自らがつらい」だけではなく、他の人にも大きな迷惑をかけてしまうことを頭に入れさせなければなりません。「ひとりではない」のです。子どもたちはその確認ができるようになりました。 

 「時間を守ること」は、社会生活をし、社会で生きるためにまずたいせつなルールだと考えています。世界に自分ひとりしかいない場合を仮定すればすぐわかります。ひとりであれば「時間」を意識する必要はありません。いつでも自由に使えるし、期限を考慮に入れる必要もありません。「時間」は他の人の存在があって初めてたいせつになってくるものです。つまり、社会生活をするには一番最初に守らなければならないルールのひとつです。そして、きちんとした時間意識は後々自らの個人生活でも大きなアドバンテージになります

 もちろん、新たな注意や課題も伝えました。
 バーベキューのコンロを洗っているとき、汚れている箇所も十分意識せず、スポンジを持った手をただ左右に動かしているような子がいます。「きれいに洗う」という目的も考えず、何をしているか意識できていません。自らの行動に何の評価もしていない、情けない行動です。

 「目標や目的を意識できない行動」ほど「疲れるだけで無意味なもの」はありません。シーシュポスの岩です。今何をしているのか、どうしなければいけないのか、目的は何なのか。それらを考えて初めて目標が達成され、達成感もわきます。目標や目的がない行動は、成し遂げたときの喜びもありません。次にはつながりません
 これらはあまり社会経験のない、「やさしい(!)」教育ママに育てられた子によく見られます。自ら、作業やお手伝いを一生懸命した経験がなく、それに対して注意されたことや叱られたことも少ないので、自らの行動に対する評価や反省ができない、つまり「メタ認知」の発達が遅れているわけです

 こうした欠点は、日頃の行動・学習やテストの面でも大きく影響します。「自らや自らの行動を客観視できない」わけですから、あまり周りが見えない、忘れ物が多い、今必要とされている行動を自らで判断することができない、ケアレスミスが多い等々・・・。自分から積極的に動けず、ただ戸惑い、うろうろしていることが多い、人の後を付いて回ることしかできないので、よく「いじめ」のターゲットになる場合もあります。

 過保護に育てられると、どうしても活動範囲が狭くなり、「自主的に」、また「一人で」という行動が少なくなります。「ひとりでの行動」をうまく取り入れていけば、頼るものが居ませんから、注意力が鋭くなり、行動範囲の広さや体験の豊富さにより、関連や関係性のとらえ方にも長けますが、過保護であれば、そうはいきません。
 子育てをしている場合も幅広い考え方が苦手で、大きく関係性をとらえる考え方もむずかしい、そのたいせつさも思い浮かばない。それでは子どもへの注意やしかり方もうまくいきません。「おども」や「ことな」が育ってしまう原因のひとつです。

 「売らんがための無責任な子育て教科書」頼り、教条主義では子育てはむずかしくなります。子どもはひとりとして同じ子はいません。子どもの行動や仕草を、毎日よく見て、「的確な判断」を下し、「的確に指導すること」が何よりもたいせつです。そしてそれができるのは『親』だけです。何も考えない、「受け売り」ではうまくいきません。「子育て」は「ブローカー」ではありません。「職人」です

 さて、団員諸君だけではなく、今年参加いただいたお父さん・お母さんもすこぶる協力的で、目的に応じて、先を読んだ動きをしていただき、ほんとうに助かりました。おつかれさまでした。おかげさまで、子どもたち全員、忘れられない思い出をたくさん手に入れてくれたと信じています。お父さん・お母さんのそうした日常が、子どもたちを健やかに、ほんとうに賢く成長させます

 また、テストや授業で忙しい中、今年京大と北大に進んだM君とK君が駆けつけて、子どもたちのやさしい兄ちゃんになってくれました。ありがとう。君たちの姿を見て、次代の子どもたちもやさしく育ちます。先生が目標だという君たち。今回の君たちの姿が、先生です

渓流教室「ヨシノボリ名人」誕生!
 さて、今年初めて参加したF君の、びっくり「名人芸」を紹介します。タモで魚を捕った経験がある人ならわかると思いますが、魚は、ボサに追い込んだり、じっとしているところにそっと近づいたりして、水中のタモに魚が逃げ込むよう操作して捕獲するのがふつうです。

 ところが、F君は「長い柄の網を大きく振りかぶり、水中を動いている魚を一瞬にしてすくいあげる術」をものにしたのです。トンボや虫取りの要領です、しかも相手は「水中で泳いでいる魚」です。
 魚とりは、子どものときからずいぶん経験を積み、ぼくも「名人の域」に達しているつもりでしたが、びっくりです。な、な、なんと、水中を動いている魚を、「網の一振り」ですくいあげるのです。それも一度に二匹、三匹と。「カツオの一本釣り」よりはるかにむずかしい技です。全部で70匹ぐらいすくいました。ぼくの子ども時代なら、彼は「英雄」です! 

今週の写真の多くは、今年の渓流教室のスナップです。来週は「船頭多くして、『子』船沈没する―共通理解と信頼関係の重要性」。子育ての周辺環境を考えます。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑦

2015年08月01日 | 学ぶ

子は親の鏡
 「子どもが言うことを聞かない」「悪い癖が直らない」。お母さんやお父さんの「子育ての嘆き節」が続いています。当たり前です。先にも書きましたように、環境や周囲によって「子育て」は大きく影響されます。  
 周りがそうであれば、知らないうちに流されてしまうし、正しいことがわからなくなります。「注意しなければならないこと」が見えなくなります。「何を、またどこを」注意するのか、ポイントがわからなくなってしまいます叱り方に、信念に基づく一貫性がなく、しかるべきタイミングやしかるべきポイントで叱らず、直すべく叱り方もしなければ、悪癖は「改善」しません

 昨今では、子どもへの叱り方がわからず、叱ることそのものが難しくなっているような気がします。叱れないから、「渓流滑り台」のお母さんの例のように、「おっちゃんに叱られる・・・」というような、「子どもに対する自分の安全を確保した、情けない」逃げ口上が生まれるのでしょう。

 「おまわりさんのところへ連れて行く」、「先生に言う」等、その類のしかり方はすべて「その人たちがいなければ、別にやっても良い」という「文法!(文脈)」であることがわかるでしょうか。誤解を恐れずに言えば、『警察がなければ、何をしても良い』という意の「裏返し」です。子どもに教えるべきことではありません。
 「誰が居ようと居まいと、見てようが見てなかろうが、悪いことは悪いこと」です。それが、市民・一個人としての倫理であり、姿です。小さいときに、まず、信念に基づき、伝えるべきことが伝えられていない、教えるべきことが教えられていない、それが現状の「混乱」を招く元になっているのではないでしょうか。
 その都度、「『ことの善し悪し』をきちんと自分の中で、消化・判断できていない(していない)」結果だと思います。「行動の善悪をきちんと振り返る習慣」そして「フォローする習慣」がないと叱れないし、叱り方に一貫性も生まれません。それでは悪癖を直せません

 また、まちがった行動をしたときに子どもを叱らなければならないのは、まず「社会に出て、きちんと一人前に振る舞える、扱われるため、そして他の人にできるだけ迷惑をかけないようにするためです。つまり、それはひとえに「大きくなる子どものため」です。
 きちんと叱っておかなければ、「子どもがかわいそう」なのです。「叱ると、子どもがかわいそう!」では決してありません。「愛情のかけかた」をまちがわないようにしなければなりません。
 お父さん・お母さんと呼ばれるようになれば、人間一人を一人前にする責任を負ったのですから、自らも、しっかり生きている一人の人間・社会人としての覚悟や責任がともなってくるはずです。そこから生まれる哲学こそ、子どもをしかる際の根拠になるものだと思います。

 「親」は子人(ことな)でも大供(おども)でもありません。「子どもが生まれたら親」ではありません。子どもとともに、「親として育っていくもの」だと思います。「まだ親でなければ、親になる」努力が必要になってきます。自らがそうでないと、勉強しない子どもに勉強しろと、努力を要求することはできなくなります(言っても聞きません)。

 そういう状況が普遍化していませんか? 「自らの親としての問題」を一つ一つ解決する努力が、子どもが難問を解く力を引き出し、子どもが一人前になるための『応援歌』になってくれます。
 「自分が立派でないから子どももたいしたことはない・・・」という感覚ではなくて、『自分ができていなくて、立派でなければ、子どもはできるだけ立派に育てよう』に、考え方をシフトしましょうよ。それが子どものことをほんとうに考え、子どもの人生をたいせつにする親」ではないでしょうか。

 小学生からOB教室まで、一人で、それぞれの子どもの成長を3~12年間見続けていると、良くも悪くも、親子の関係や家庭の姿がよく見えてきます(1~2年ごとに担任が変わる多くの先生方とちがうところです)。子どもは「親の鏡」です。そのしつけ・教育・指導ぶりがしっかり、シビアに「反映」します。
 「過保護」からは当然のように、わがままで自分勝手、周りが見えず、一人では何もできない子が育ちます。「無責任」、「いい加減で口先だけ」であれば、「口先三寸」の子が育ちます。逆に、「一生懸命頑張って裏表のない」お父さん・お母さんの子は、「正直で頑張り屋さん」で大きくなります。
例外は、ほとんどありません。

 当然です。四六時中、小学生であれば十年近く、それぞれの親の姿を見ているわけですから。そこが「子育て」の怖いところです。自らも振り返って身を正したり、修正をはかっていかないとうまくいきません。
 自分ではなかなかわからないし、「自分と同じもの」『自分が気にしていること』は見たくないという心理から、真実の姿は中々見えにくい(見たくない)ものですが、それをはっきり見るようにしないと、満足に子どもを叱れないし、子どもの悪癖もなおりません

 

『俺もそうだったから…』のバカらしさ
 数年前、まったく約束を守らない、嘘ばかりついてしまう子がいました。「なかなか直らない」と愚痴るお母さんに、(子育てにほとんどノータッチだった)「お父さんに一度きちんと注意してもらった方がいいですね」とアドバイスして数日後、「どうでしたか」と尋ねると、「俺もそうだったから…」とのバカげた返事が、その答えでした。どんな「病気」も直そうと努力しなければ直りません。一生懸命指導しましたが、当然彼の悪癖は直らないままでした。 
 「俺もそうだったから」の俺が「どんな俺なのか」の反省があれば、解決策は見つかったはずです。自分の目でしっかり見て、子どもの将来を真剣に考えるタイミングを逃がしてしまったことになります。もっと真剣にとらえてほしかったが、と残念でなりません。
 「人間性」にかかわる指導は、大きくなるにつれて、例えてみれば「幾何級数」的に、どんどん難しくなります。子どもにとっても、親にとっても二度とない人生です。タイミングのたいせつさは忘れないようにしなければなりません

指導例
 さて、最後に団の指導で子どもはどう変わるか? 「ホッカホカ」の実況例・途中経過を、保護者宛のリーフレットで紹介します。
 
 
                                                    指導に対するご案内とお願い
  
  保護者のみなさまへ
 
 団の指導について、よくご理解いただいていない向きも見受けられますので、念のためご案内いたします。
 下記成績は「巷では(笑い)」定評ある某大手受験塾(MB)に一年以上通学し、その宿題量の多さや指導に嫌気がさし、伝手で団に三月入団、学習を始めた5年生の模擬テスト成績表です。指導に対する家庭の理解があり、課外学習にもお父さんが毎回熱心に参加され(子どもたちにも人気者です)、和気あいあいと過ごしています。

 入団当初(3月)の手ごたえでは、I社の模擬テストならば、彼はおそらく偏差値48前後だったと思います。五か月の指導で別紙のジャンプアップです。赤いマスの数字に注意して成績表(I社テスト成績報告)をご覧ください。その上昇ぶりがよくわかると思います。
 団では、こうして、保護者のみなさんの理解と協力の助けを得ながら、大学入学ころになると人格・能力・学力ともに備わった若者に育ってくれます。京大・阪大・神戸大等の難関大にも楽々進学します。

 大手受験塾の膨大な宿題量とフォアグラ受験指導(つめこみ)で、子どもの可能性や心身ともにバランスのとれた健やかな成長の芽を摘み取らないでください。「長時間の過酷な我慢大会」でつぶしてしまい、息も絶え絶えの「受験生」になりはててしまうことのないようにしてください。それらとは大きく異なる、成長をするための王道があります。

 ちなみに、上記私立一貫校との合格比率ですが、団では一切入団テストでの選抜はありません。無試験で入ってきた近隣のやんちゃな小学生が成し遂げた実績です。子どもたちの素晴らしい成長は、膨大な宿題でもなく、フォアグラ授業でもなく、本来の子どもらしい外遊びとお父さん・お母さんの愛情があれば必ず成就します。
 団に対する、いっそうの理解とさらなる協力をお願いします。やがて、子どもたちは大きな夢と自信と誇りに満ちあふれ、大きく社会に羽ばたいてくれるでしょう。応援よろしくお願いします。
 
                                                                                                                                        学習探偵団