末期の目
何を教えればいいか? 「今のたいせつさ」。です。
時間のたいせつさです。よく言われますが、その「奥行き」は深く、『茫漠』としてつかみどころがなく、子どもたちは(ぼくたちも)、あまり実感(切実感)がわきません。なぜでしょうか?
『いのちに限りがあること』を考えない(考えたくない)からです。
高見順の、こんな詩があります。
電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきと いきづいている
この世と もうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福に みちみちている
だのに私は死なねばならぬ
だのに この世は実にしあわせそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
・・・(後略。昭和39年6月17日・文責南淵)
何とも心にひびきます。高見順がガン宣告を受け再入院する前日に作ったと言われています。つまり死期を悟った、「末期の目」です。
その眼で、きらめく楽しい「世界(この世)」に思いを馳せ、雑念の失せたなかで、「真実」を書き留めたものでしょう。「すべてのたいせつなもの」は、「この世ともうお別れ」というときに、はっきり見えてくる・・・。
健康であろうと、病気であろうと、ぼくたちは生まれれば、死ぬことを宿命づけられている存在です。みんな時間に「限り」があります。宇宙や太陽にも「死」は訪れます。そういう現実に「目が届く」ようにならないと、ほんとうに「たいせつなもの」は見えてこない。たいせつなことはわかりません。
「寿命のことは考えない」し、「時間はいつまでもあるように思ってしまう」し、『別に今日でなくとも』という甘い考えに終始することになります。
生死の疎遠さ
時間の限りを意識しなければ、「いつでもあるもの」、「いつでもできること」ばかりです。「たいせつなもの」はわからず、「たいせつなこと」もなくなります。自他のいのちに「限り」があることが、「人」や生命のたいせつさ・愛情の尊さ・もののありがたさ・かけがえのなさを教えてくれます。慈しみや愛しさが生まれます。
想像もできない膨大な時間の流れの中、今この瞬間を、「火花のような生の輝き」しかもてないもの同士が、希有な偶然で近くで共に生きている・・・だから、いとおしくなります。
今の若い人や子どもたちは『いのちの限り』をきちんと伝えられていない(環境が整っていない)ので、「感じてしまうのは『うっとうしさ(!)』」になるのではないでしょうか? 生命や生死との疎遠さ。ぼくは、子どものときに寿命やいのちの限りに目を向けたり、伝えない(られない)ことが、近年の暴力事件や生命のたいせつさを尊重できない事件や行動の遠因になっていると考えています。
外遊びや自然と戯れる体験が少なく、生き物の生死に触れる経験が少なくなるほど、生命のたいせつさや「いのちの限り」に考えが及ぶことは少なくなります。意識が離れていきます。
次は、おなじみの宮沢賢治です。「永訣の朝」。妹の死です。 野辺送り。 新仮名遣いに変えてあります。
きょうのうちに
とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふって おもては へんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)・(注 あめゆきをとってきてください・南淵)
うすあかく いっそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
・・・(中略)・(先の詩もそうですが、字数の都合上、やむを得ず略を入れます)
ああ とし子
死ぬといういまごろになって
わたしを いっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがとう わたくしのけなげないもうとよ
わたしも まっすぐすすんでいくから
(後略)
子どもに伝えるべきたいせつなこと
かつて、自らの家ではもちろん、近隣でも「身近な人の生死を見る機会」は少なくありませんでした。現在の子どもたちは、奥まった一部屋で日に日に身体が弱り、人が死に至る現実・過程をみることもほとんどありません。
こわくても、そういう機会に、子どもたちは生死や生命の限りを『実感』できました。つまり、寿命があること・生命のたいせつさに「対面」できたのです。それは、多くの子の、以降の感性や思考・思索が大きく変わるきっかけとなったはずです。
ほんとうにたいせつなものを教えなければなりません。「生死と寿命」の伝達からです。
物語でも良い、もちろん先ほどのように、詩でも探ることはできます。しかし、画面や文字を通した表現は、どうしても「客観的」「抽象的」「他人事」に「受け取りがち」です。感受性や想像力の補いで、その「距離」を埋めることがむずかしい子もでてきます。そこでも「自然体験の意味」は大きいとぼくは考えています。
おとうさん・おかあさん。子どもたちに伝えるべきこと。まず最低限、「生命のたいせつさや寿命の存在に目を留められるきっかけ」をつくること。寿命の存在やいのちの限りに気づかないと、ほんとうにたいせつなものは見えてきません。
そういう視点が欠けてしまうと、「いつまでもある時間」、「別に今日でなくても」という、「甘い考え」が「のさばる」ことになります。「今日でなくてもいいこと」もありますが、期限がある「子どもの成長」に限らず、「『今日でなくてはいけない』という意識があってこそ人生も充実する」とぼくは考えています。
いのちの「限り」をつたえ、「生命のたいせつさ」を伝え、自らを振り返り「なぜ勉強しなければならないか」を真剣に考え、その結果を子どもに心から伝えていく。むずかしい言葉なんか必要ありません。
自ら真剣に考えたお父さん・お母さんの言葉は、たとえ「朴訥」としたものであろうとも、深さと説得力がまったくちがいます。子どもたちは真剣に聞きます。まず、それだけで、子どもの一日は大きく変化していくと思います。
もし、それでも聞かないようなら、「しつけ」がなっていないわけだし、自らの反省とともに、今後のために「力技でもよい」と思います。「人生」と「一生懸命思ってくれる人の気持ち」をなめてはいけません。
次回は、参考にしていただけるように、「おども」と「ことな」の例を挙げて、指導の方向性を探ります。