『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて⑬

2018年02月03日 | 学ぶ

 先週「笑い転げた」と連絡をくれた同級生の要望に応えて、今週も卒業文集から「笑撃の名句選」のスライド残りも掲載しておきます。
云わずばおけまい
 「云わずにおくまい」でも「云わずにおけまい」でもありません。今日の話は、「云わずばおけまい」です。
 「本来なら」もっと真剣に取りあげられ、子育てや学習指導法検討の対象となり、参考図書になるべき(と考えます)本がここにあります。

 「本来なら」とカッコつきにしたのは、おそらく「より、売らんがため」、「目立たんがために」つけようとしたネーミングが仇になってしまった(だろう)からです。ひとつまちがえば「グズグズの環境をつくってしまう」、「正視することに対する躊躇」や「ユルヌルの環境を求めがちになってしまった現今の社会の精神性のゆえだろう」という意味です。
 「ほめると子どもはダメになる」(榎本博明著 新潮選書)。
 いずれにしろ、「正論でも、断言すると拒否感や敵をつくってしまう」、また「出る杭は打たれる」という反感を招く国民性のせいでしょう。このネーミングを「『ほめて育てる』子育ての嘘」や「ほめて育てた過誤」「褒められなければ死ねない」(笑い)くらいにしておけばよかったのかもしれません。

 ずいぶん昔になりますが、「うちのママは世界一」だの、「パパは何でも知っている」という「甘いタイトル」のアメリカ製ホームドラマが圧倒的な人気で迎えられたことがありました。毎週楽しみにしている家庭がたくさんあったはずです。当時、いかにも、それらが家庭や父親・母親の理想のようにとらえられ、あるべき家庭の姿と誤解されたゆえでしょう。
 戦後の混乱と自己否定の方向性は、日本の「味噌」も「糞」も、分別なく「ゴミ箱送り」に加速しました。何も知らないぼくたちの目の前でテレビから流れるそれらのシーンの数々は、自らや近所の家庭では「ありえない姿」でした。はたして、それがよかったのか? それでよかったのか?

 
 頑張れない、傷つきやすい、意志が弱い。生きる力に欠けた若者たちは、欧米流「ほめて育てる」思想の産物である。1990年代に流入した新しい教育論は、日本社会特有の「甘さ」と結びつき様々な歪みを引き起こした。「ほめても自己肯定感は育たない」「欧米の親はやさしい、は大誤解」「母性の暴走が弊害のもと」・・・臨床心理学データで欧米の真似ごとを一刀両断!
 (「ほめると子どもはダメになる」(榎本博明著 新潮選書より)
 
 前記書カバーのキャッチコピーです。新潮のセールスマンではありませんが、紹介しておきます。
 「ほめて育てる」指導を、「自らの実践経験や指導体験と照らし合わせず、右から左に、あるいは教条的に信奉する」指導は、百害あって一利なしです。学習指導法や子育ての今後の検討材料に加えてみてはいかがでしょう。

 現在の「子育て」の、そして子どもたちの「甘さ」や「ずるさ」を目にすると、そんな「剥製」の番組を見ていた、「頑固おやじ」や「よく観察していたのに知らんふりをして、さりげなく気を遣う」母ちゃんが多かった、当時の日本の貧しい家庭が、たとえそこに、北野武さんが「たけしくんハイ!」で、面白おかしく強調しているような親父やお袋がいたとしても、いかにも子どもが「夢」や「良心」や「思いやり」にあふれていた気がするのです
 小さな汚い家ばかり並んでいたそのころ、家が大きくても金持ちでも、「そのことだけ」を自慢にする子なんか、ほとんど見られませんでした、ぼくの周りでは・・・。周りのみんながうらやんだり、勝手に憧れたりすることはありましたが・・・。
 つまり、金持ちであろうと、貧乏人であろうとみんな、「そんなことを自慢にすること」が、「はしたないこと(!)」であり、「みっともないこと(!)」だと考えていた、知っていた、また教えられていた子が多かったのでしょう。「そんなことより、もっともっとたいせつなことがたくさんあること」が「わかっていた」わけです

 「街中のちょっとだけ大きい家より『大草原の小さな家』の方がどんなに良いか」、「『大きな心』や『大きな夢』の方がどんなに素晴らしいか」を、周囲の誰かに、あるいは、他の何かによってきっちり伝えられていたのだと思います
 ところが、大きくちがってきました、今は。
 「努力してまちがいを正したり、技術を高めたり、という日々のたいせつさや尊さ」を伝えても「私、そんなん、全然気にならんわ」と「高を括る(!)」ような子が、何か話題になれば、大きな家(?!)や家にあるもの、買ってもらったものを、ことあるごとに持ち出し、強調し、自慢する、という塩梅です。いずれも「飾り物」です。美しい心や正しい心以上にたいせつなものではありません。何がたいせつなのか? ほんとうに大切なものを、育てている人がわかっていない(考えていない)のでしょう。

 「怖い人」の前や「得をする人」の前ではおべっかを使ったり、よい子ぶったりして、それ以外、つまり「得にならない人」や「おとなしい友だち」の前では態度が豹変する、そういう「飾る」子、「たいせつなことを忘れた子」でよいのか? そういう「心を忘れた子育て」でよいのか? みなさんは、いかがですか?
 子どもたちのようすは、日ごろ言動をよく注意するとわかるはずです。それが見えないのか?「それでよい」と感じているのだろうか?
 「はしたないよ!」とすぐたしなめ、そんなことより、「大きな夢を描くことの方がいかに大切か」、「その夢をかなえるためには努力する(を続ける)ことがどれだけ大事か」などを、どうしてきちんと伝え続けないのか?
 時の言動に注意していると、子どもには、こんこんと説くべきことがたくさんあります。その務めを果たすことが、きちんとした親の責任であり、役割です。そして、それらを教えられている子どもたちが、ぼくが見ているかぎり、ちゃんと育っていきます(いきました)

 そういう指導ができないのは、「子どもを一人前に育てるには何がたいせつか」、「どうすればよいのか」を日々きちんと考えていない証ではないでしょうか。あるいは、そういう判断力を持ってない大人だと思われても仕方がありません。死ぬ前に、家は小さくとも、金はあってもなくても「うちのおやじは世界一」、「うちのお母んは世界一」と云われるような、「おとな」になりたいものです。

 さて、今年、あこがれの中学校に合格したN君とF君に、最後になる昨年の「稲刈り」の途次、
「N、人が、なんで生きてるのか、考えたことがあるか?」と問いかけました。甘やかされて育ってきた(ことがわかっていた)ので、試験を受ける前に、中学へ進む前に、ぜひ伝えておかなくては、と思ったのです
 しばらく考えていたN君は「・・・いや、わかりません・・・」。
 考えたこともなかったのでしょう。「Nなあ、人はな、一緒に生きてる周りの人を喜ばせるために生きてんねんで・・・。自分一人のためには絶対生きられへん・・・長い人生からの教訓や」。「君のお母さんも、おとうさんも、みんなそうなんやで・・・そういうこと考えられる人にならんとナ・・・なってや」。自らも反芻しながら、話しました。
 団から駅までの間のできごとです。ぼくと子どもたちの間では、短い時間ですが、時にこうした会話が続きます。こういう伝達も、お父さんやお母さんの理解と共感がなければ、うまくいきません。その時、同行されて話を聞いていた親御さんは、はたしてわかってくれたでしょうか。

「ねえ、ねえ、あのエアガンどこにあったの?」
 団では、子どもたちに元気よく「腕白遊び」をさせたいため、さまざまな遊びや取り組みを行います。渓流教室で毎年行う「射的大会」。釣り道具やアーミーナイフなどの景品を用意し、手作りの弓矢・吹き矢・パチンコなどを使って行う射的大会も、その「腕白遊び(!)」のひとつです。

 数年前、鶴橋駅近くの路上で、団で育った「レジェンド腕白」のひとりM君に遭遇(!)しました。4年生の時、魚釣りで川に行って釣りあげた魚をパチンコで撃って、「力も能力も勝っているものが逃げられない相手に危害を加えるなんて絶対やっちゃいけない。ルール違反だ(誤解を生まないように。逃げられる相手でもよくないことです)」と、こっぴどく叱られた「やんちゃ坊主」です。
 頭をきれいにセットし、きちんとスーツを着こなしています。就職して初任給をもらった旨、嬉しそうに教えてくれました。腕白当時の面影はまったくありません。はア、こうなるんや・・・。
 ひとしきり「思い出話」をした後、ふと思いついて、「M(彼の名)、お前、やんちゃしてたから、もう使てないエアガンもってるやろ?」とたずねると、「あります。あります」。
 「後輩に、渓流教室で使わせたいから貸してくれへんか」と云うと、「いいです、いいです。わかりました」。

 数日後、彼はきれいな箱入りの新品のエアガンをもってきてくれました。一週間コンビニでバイトしなければ買えないほど高価なものでした。「新しいやん、こんなんええんか?」とぼく
 「センセにお世話になったし、給料もらったし、良い記念です。後輩たちに勉強も遊びも頑張ってほしいし、プレゼントします。使ってください」。それから数年、毎年、そのエアガンの由来を子どもたちに伝え、楽しく、おもしろく射的大会を続けていました。
 ある年のこと。いつものように、優しい先輩OBの話を伝え、渓流教室の楽しいイメージを膨らませるために、教室の後ろに置いていたエアガンが、消えました
 ぼくはひとりで指導しているので、教室を空けるときがあります。その間子どもたちはひとりのときもあれば、数人でいるときもあります。それでもいつ消えたかは、想定がつくものです。


 あえて黙っていました。それから数日、教室に来たある団員が教室入るなり、教室に飾ってある古いスペイン銃のレプリカに触りながら、唐突に、「ぼく、この銃ほしくないねん・・・」。ぼく「・・・ん?!」。それでも子どもたちを疑いたくはありません。
 もし出来心で持って帰ってしまったとしても、そんな過ちを責めることはできません。低学年ではありがちなことです。しかし、親がそれを見のがしては話になりません。子どもにたいしても、迷惑をかけた相手に対しても、親は大きな責任があります。その後始末(責任の処理)の如何で、自分の子どもの人間性や社会的感覚・成長の方向が大きく変わってきます。「その子の人格を左右する」分岐点と云っても過言ではありません
 つまり両親は、子どもとともに自らの倫理感の確認をし、社会性を身につけ、子どもをより良き方向に導く絶好の機会です。

 かつてぼくの村には、乾物や日用品はもちろん、釣竿や空気銃の鉛の弾まで売っている「駄菓子屋?」がありました。子どもたちは乏しい小遣いを工面し、そこへメンコやビー玉を買いに行き、野辺や神社の境内・路地で腕白遊びをしていました。
 ある時、お金がなかった一人の子が5円のガムを数枚ポケットに入れてしまったのです。そのことを知ったお母さんがその子を連れて駄菓子屋まで行き、地面につくほど頭を下げて、横に並ぶ息子の頭を押さえながら、涙を流して何度も何度もお辞儀をしているのを見たことがあります。 
 小さな村、数十軒ですから、そんな話はたちまち知れ渡ります。しかし、そういう事件も含めて「人間社会らしい村」が成立していました。温かい血も流れていました。思いやりもありました。小さいころ、子どもたちはそうしたことに出会い、その様子を見て、心ならずもやってしまったことの責任と罪も覚えていきました


 「盗み」は家庭内の叱責で済む問題ではありません。被害を被る人がいるわけです。迷惑をかけてしまった相手がいます。
 それを忘れたり、その責任をどうするかを小さい間に教えておかなければ、正常な社会は成立しません。現状の多くの新聞ダネを見ればよくわかるのではないでしょうか。さらに責任を放棄し、放置すれば、そうした「倫理観」の欠如や乱れの底流が、やがて大きく社会構造を変えてしまうことになるでしょう。
 子どもたちを指導されている先生方にお尋ねしたいのですが、以前お伝えした、「ワオ!ワオ!ワオ!耳ダンボ~」もそうですが、こうした事例が多いのは、ぼくの近辺だけでしょうか? また、そういう時に、どう対処されているのでしょうか? そして、こうした事例が増加していくことについて、どう考えられているのでしょうか? 
 数十年の間に、これだけ社会構造や倫理が変わってしまっているのか、こうした底流が、どこでも一般的だとすれば、ものすごく先々が思いやられますね。

 ちなみに、スペイン銃のことに触れた子が、それ以後、団に友だち(!)と来たことがありました。
 「ねえ、ねえ、あのエアガン、どこにあったの? ねえ、どこにあったの?」と友だち。「ムニャ、ムニャ」と彼。「!!」とぼく。
 後輩に初任給で「飛び切り」のやさしさを見せてくれたOBのM君の思いも、温かい団の心のつながりも吹っ飛んでしまいました
 ぼくはその事件以降も、その子も含めた授業の度に、「人のものを黙って取ることはよくないこと」「ヒトのものを盗って自分は良くても、それをなくして困ったり、悲しんだりする人がいることがわからなければいけないこと」「過ちは誰にでもあることだから、間違ったと思ったら正直に謝ること」「人間は心底悪い人はいないと思うから、悪いことを認めない、また謝っておかないと、そのことで心の底に澱がたまり、性格や人相まで変わってしまうこと」「嘘や罪を隠すために使わなければいけないのは交感神経で、嘘をつき続けることで交感神経の緊張が続き、身体も不調になってしまうこと」等々、みんなを前に特定せず諭し続けました。機会がある度に、保護者に匂わせ続けましたが、動揺が見えても、「なしのつぶて」でした。そういう感覚で、子どもはちゃんと育ちますか? 責任は持てますか? 
 「ワオ!ワオ!ワオ!耳ダンボ」に続く、「なしのつぶて」の哀感です。
貴乃花元理事とサッカー
 「数十年前までの姿がすべてよい」という気は毛頭ありませんが、年末から続いている大相撲界の「トラブル(?)」での貴乃花元理事の主張を忖度すると、日本古来の精神性と歴史を内包している相撲道の伝統をいかに存続させていくか、という熱い思いが見えてきます。
 彼の方法は賛否両論でしょうが、日本古来の神事であるべき相撲が、ただの「プロ格闘技集団」に堕する姿を見ておけないのでしょう。「強ければ何でもよい」、「勝てばよい」。
 そのためには「かちあげ」とはとても云えない「ブレンバスター」や「ひじうち」、パンチまがいの「張り手」でひるませ(張り手は一瞬「意識が飛ぶ」、と聞いたことがあります)、美しくない「振る舞い」や勝ち方をする横綱。
 腹が立てば、負けが決まった相手を土俵外まで吹っ飛ばしたサッカーが好きだった元横綱。見方によれば、「相撲道」とその精神性が堕落していく過程だといえます。

 「伝統」は姿かたちだけではありません。精神性も含めて残していく努力をしないと、伝統は「まったく別もの」に変身してしまいます。「伝統」が伝統ではなくなります。
 日本が独自に持っていた(だから、世界中に「それぞれの国が存在する意味と価値」が生まれます)美しさも規律も精神性も見られなくなった相撲道など、世界から賞賛され、たいせつにされる道理はありません。存続させる意味はありません。
 そういう伝統や精神性にどんどんひびが入って、壊れていく過程を、ぼくたちの時代は見ているような気がします。「よいものを残しておこう」とするのは当たり前です。「貴乃花、頑張れ」です。

 ところで、ぼくはサッカーの試合も見て、もちろん日本代表を応援しますが、いつも、いつまでたってもすっきりと腑に落ちない、なにか「カスのようなもの」が心に残ります。
 何だろうか、と考えたのですが、あの接触プレーでのファウルをもらう、「倒れる姿」だとわかりました。それほど強く押されたわけでもない(と思えるときが多い)し、脚が少し接触しただけでも倒れる姿が、ぼくの中のスポーツマインドにフィットしないのです。
 メキシコオリンピックで3位になったサッカー(1968年)が、今の隆盛を思うと信じられないくらい長い間ポピュラーになれなかった(Jリーグ発足が1993年)のは、何か、そうしたプレーやルールが日本人の心に残る精神性と相いれない部分もあったのではないかと感じています。さすれば、日本人の心性も最近は変わってきたのかもしれません。


 いずれにしろ、サッカーの人気度や台頭が、今回の日本古来の相撲道の問題と相対して見えるのは僕だけでしょうか。それらの時代の変遷がよいか悪いか、是非は歴史にゆだねるとしても、それぞれの国の残しておくべき文化や伝統は、例えばクジラやイルカの問題も含めてしっかり考え、子どもたちに伝えていかなくてはならない課題だと思っています。
 補足。サッカーの台頭により、当時卒業式や諸々の機会にあれほど受け入れられがたかった国歌の斉唱への抵抗が一般的に激減したように見えるのは、どの国も国歌を厳粛に歌う、サッカーのオープニングセレモニーの力でしょう。 国歌は国歌。


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