『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く23

2018年07月28日 | 学ぶ

息子がJRに就職できました!
 自転車で所用の途中、向こうの方からニコニコ笑って挨拶をしてくれる女性がいます。年の頃から生徒の保護者の誰かだと思ったのですが、サングラスで表情がわからず、どなただったかなと考えていると、元気よく「Kです」。ああ、そうだったのか!「覚えていらっしゃいますか?」。
 もちろん覚えています。お父さんも、よく立体授業にも同行されていました。10年くらい前になりますが、みんなで行った「餅鉄探し」の吉野川で、同行されていたお父さんがでっかいウグイを釣りあげられたことも、よく覚えています。
 「・・・お見かけしたら、ぜひお礼を申しあげなければ、と思っていました。その節は・・・。息子は22歳になり、おかげさまでJRに就職できました。ありがとうございました」。

 こうして古くからの団員のお母さんにお会いすると、たいてい心から笑ってお話しできます。いっしょうけんめい大切に子どもを育てられている保護者との、開設以来の関係です。人と人との思いやり、人間関係は、やはりこうでなくてはいけませんね。
 大阪市の「教職員」でありながら、子どもの「ちゃちな窃盗」をごまかすための、何とも手の込んだ盗聴の捏造テープと陰謀をめぐらし、社会でもっともたいせつな人間関係を根底から「破壊する」悪人も、今は身近で出てきました。何ともはや・・・。
 人を人とも思わない卑劣な犯行は、やはり教育委員会に問題提起するのが最善の方法かも知れません。今後の大阪の教育界や、彼らに接するこどもたちの成長を考えれば。いずれにしろ「野放しの犯罪教師」は、今回の二人で終わって欲しいものです。

「環覚」を育てるために
 さて、子どもの『環覚』を育てるための提言です。
 こどもたちの指導について、たとえば、ぼくが四六時中こどもたちの傍にいて、彼らの見るもの聞くものすべてについて、その対象に対する好奇心や関心を掘り起こす指導ができればいちばんよいのですが、現実問題として、今の受験体制と教育環境の抜本的改革がなされなければ、それは不可能です。
 また、一方で受験という目的をもつ子どもたちがいる以上、本意ではなくとも、それにも沿うように指導をしなければならないという縛りがあります。二律背反に近い状況ですが、彼らが勉強を進める意味やたいせつさは、どんな状況にあっても、まず伝えなければと、いつも考えています。

 そうでないと、彼らの人生において、もっともたいせつな行動の一つであるはずの、『学習』や『学習すること』が、人生ではあまり意味をもたないという、まちがった認識を身につけてしまいます。今もそんな子がたくさんいるでしょう
 コメ作りやクワガタ探し・渓流教室等で田舎の自然に触れた時、遊びの対象としてテーマに夢中になるのはもちろんですが、それぞれの活動のなかで、日ごろの生活と切り離すことができない、生活の一部になっているsomething(もちろん、対象はあらゆるジャンル、あらゆるものです)に気づくこと、そうした日々の生活や行動の背景には、春があり、夏があり、秋があり、冬があること。そしてそこでは、たとえば生物の生死があり弱肉強食があり、かれらとぼくたちの関係があり、さらにぼくたちのさまざまな生業があること。それらをはじめとする、環境の成り立ちとしくみは、ぜひ目を留め、考えるようになってほしい、そう思っています

 生活や人生は、テレビのバラエティやニュースに目を奪われるなかにはありません。そうしている間にも、ぼくたちが生きている状態は続き、雲の流れに目を留め、風の音を聞き、雨や雪や飛ぶ鳥にも想いが広がる一人の人間がいるはずです。
 植え込みには、けなげに咲く露草の数輪、あじさいの葉に伏すアマガエル、水たまりに飛翔するアオスジアゲハ、そんなシーンに目を留められるようになることが、こどもたちの「環覚」の定着のスタートです。そうした習慣のなかで見つかる小さな不思議や謎が、「学ぶおもしろさ」への大きなきっかけになります。
 こどもたちの生活と人生のなかで、団の一連の課外学習のそれぞれが、その一部として組みあがり、こどもたちの『環覚』が整っていきます。これは当然のことで、僕たちの日常生活そのもの、生きている環境そのものが、すべてつながりの中に存在するからです

 できるだけこうした「つながり感」「総合的視点(つまり環境・対象の成り立ちとしくみへの視点)」を育てていきたいと意図しながら立体授業の内容・指導方法の検討を続けています。毎年、課外学習などの指導により、子どもたちがそれらの体験を一つ一つ積みあげていくことで、学習の裏づけが取れ、学習対象・学習内容に「カン」が働くようになり、科目間の関連にも目覚めます
 これらの細かい指導(方法)の重要性に周辺の理解がともなわないことに切歯扼腕する日々も多いのですが、「団の子どもたちの成長」に目を留め、指導方法を披露していけばきっと同調し参考にしてくれる方もたくさんあらわれるだろうという期待とともに、ぼくの指導が続いてきました。
 「受験合格のための勉強は、本来『生きるための学習』のごく一部」であり、単に手段であり、それ以上では決してないこと」に気づいて指導の検討と改善を重ねていく人が、一人でも増えることを願ってやみません。

 後日展開しますが、学習は『生きることと決して切り離せない行動』であり、そのなかに学ぶおもしろさも存在します。つまり学習は、『受験学習』とイコールではないのです。時代とともに、文字「学習(?)」の浸透によって、文字情報やそれらの知識に対して比重の偏重がおこり、テストによる評価基準が固定化するようになった。それに応じて、対象の情報過剰から、既視感・既知感がぼくたちのなかに蔓延するようになった。そうした環境が、子どもたち(ぼくたち)の本来の学習や学習に対するモチベーション駆動、能力の発揮に対して大きな障害になってしまっている・・・

 そこで忘れられている、たいせつな「戒め」は、古くはソクラテスの『無知の知』が有名ですが、論語の為政篇にも「子曰、由誨汝知之乎、知之為す知之、不知為不知、之知為」とあります。これは、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、孔子が弟子にソクラテスと同じような意を伝えようとしたものです。「知らないということを悟りなさい」。いずれも、自らを振り返り、その無知あるいは認識不足から、その「学習」をはじめること、あるいは進めることを諭しました。すべてそこから始まります。
 先に紹介した、窃盗した我が子に、その成長を見込んだしっかりした教育を施さないで、学校の指導も片手間に「窃盗の隠蔽」と「責任逃れ」のために、陰謀と盗聴テープの編集・捏造に半年間も明け暮れる教師。中学校の国語の教員であれば、まず、自らこういうことから勉強して、考察を深め、指導能力を高め、未来ある子どもに向かうべきではありませんか? 
 孔子の教えは、わが国よりあなたの母国のほうにしっかり根付いていると去年まで考えていたのですが、あなた方だけに関しては誤解だったようです。しっかり勉強しなさいよ、T先生、孔子の教えも。大阪市の教育委員会の先生方。指導者に人倫を指導する時間を増やさなければならない事態が、現場で頻繁に起こっていることがわかっていますか? そんなことは我関せずでしょうか?  

 閑話休題。そういう認識の元で、ファインマンのお父さんの質問例にあるように、周辺の対象に対する観察を進めるとともに、こどもたちの学習や学習内容に対する関心・おもしろさの発掘に向かい、質問や謎への問いかけ方の研究・技術を研究しなければならない。それが心ある先生の、今起きている学習問題を解決しようとする最善の姿勢です。その姿勢によって「環覚」が掘り起こされ、こどもたちの学習に対する脳の機能が大きく変化します。立体授業がもっている意味は、まず、こどもたちの周辺の事物に対する興味や好奇心を掘り起こすことにあります。
 「そのものの存在」、特にふだん見馴れている『身近な存在』が、ぼくたちの生活にもっている意味や歴史的なつながり、関係のあり方を伝え、あるいは、対象に対する謎をあぶり出し、こどもたちの考察のきっかけが生まれます。子どもたちは意外性とハプニングが大好きです。「天才を超えた天才」ファインマンと、一般の科学者も含めた一般の人との視点や考察の大きな相違は、次の、花の美しさに対するファインマンと画家との比較でも明らかです。
 

 ぼくには画家の友人がいるんだが、時々納得しがたい見方をするんだ。たとえば、花を一輪手に持って、「見ろよ、なんてきれいなんだ」、ぼくもそう思うから、同意しようとする。すると、奴は、ぼくは絵描きだからこの花がどんなに美しいかわかるが、君は科学者だから、この花をばらばらにして、てんでつまらんものにしちまうんだろうな」。
 聞いてる僕は、こいつ頭がおかしいんじゃないだろうか、と思うわけだ。まず、みんなにわかる美しさなんてものは、ぼくだってわかるはずだ。彼のように芸術的に洗練されてはいないかもわからんが、花の美しさくらい鑑賞できるさ。それより、同時にぼくは彼の見る以上の花の美しさを見ているのさ。
 ( “THE PLEASURE OF FINDING THINGS OUT” RICHRD P. FEYNMAN BASIC BOOKS p2 拙訳)
 
 ファインマンはこの後、ぼくにはみんなが見るふつうの大きさでわかる美だけではなく、もっと微細な花の細胞やその内側の複雑な動きだってわかるし、そこにも美がある・・・というふうに反論します。ぼくは画家には見えない美しさがわかるのさというわけです。
 

 こうした視点やイメージのひろがり、これらの発想・考察の視点の深さのちがい、「見かけ」のみに終わらず深く探る想像力は、幼少時からのさまざまな謎や問いかけに対する、数知れない考察のくりかえしによって身についたものなのでしょう
 子どもの環覚の育成、あるいはそれによる学ぶおもしろさの獲得を願うのであれば、まずふだん頭の中にある受験参考書や受験知識のことから離れて、指導内容・指導方法を考えましょう。その指導によって『受験』のことは心配しなくとも、子どもたちはやがて自分で、自らの学ぶべきこと・知りたいこと・考えたいことを見つけて、その後ひとつの「必要悪」として、あるいは自分の『やりたいこと』をやる『場』を確保したいために、周囲が驚くほどのモチベーションを身につけ、受験合格に向かうことでしょう
 「受験の先に目標がある」というスタイルではなくて、「『彼らが決めた、あるいは憧れた目標』をかなえるには、受験もクリアしなければ」というのが、子どもが大きく育っていくための視点であり、正しい成長過程だと考えます。
 その学習内容や指導方法を企画したり考えたりする際に参考になる資料の一つが、偉人たちの回想からの提言や、子ども時代のエピソードです。偉人たちの伝記や回想はたくさんあると思いますが、そういう視点をまじえてよく読めば、子どもを指導するためのすばらしい手がかりが、たくさん見つかるでしょう。
 

 それでは、10年以上前、ぼくが『環覚』と『学体力』というアイデアに目覚めたときのノート、英文の先週の続きです。

To teacers all over the wolld3

 I’m sure, you understand, that the strong motivation to study about our surroundings creates a need for scientists and specialists. We can understand easily,that not only by abstract learning with text books but by exploring interesting things around us. This way, children become scientists and specialists.
 I would imagine that Thomas Edison or Albert Einstein or Masukawa Tosihide was probably not very interested in traditional textbook teaching of that day. The traditional teaching system was not reasonable for the many profound advances and inventions throughout history.
That’s such a pity and we must not overlook that.
All of those parents are earnest about the progress that their children make in schools so they continue to focus on entrance examinations to stay in business.
 

We,as teachers,usually spend much labor and many hours, not worrying about the joy of studying and strong motivation but to teach the process and technical methods for passing entrance examinations. I doubt this problem will be overcome any time so on.
 There may be some teachers who say “We teach the most advanced science and space engineering in our school”, but such teachers must carefully read Dr. Masukawa’s words.
 Some science schools show attractive experiments, but they are not useful for children, it is done only to gain attention. They must lead them to find out the phenomena of nature for themselves. It’s not magic but science.(“Masukawa Hakase No Roman Ahureru Tokubetsu Zyugyo; Dr. Masukawa’s special class of so many dreams” written by Masukawa Tosihide The Asahi Gakusei Shinbun  translated by Minamibuti)
 
 He says that it is useless for children to be taken to attractive learning events such as magic shows, doesn’t he?  If we hope sincerely that the children’s learning environments get improve and their view of studying is continuously enhanced, his advice will guide us as we think about these problems.
These problems are found among children who cannot find anything of interest in their surroundings, further more, their only concept of study is to pass the entrance examinations, and this leaves them with the question: Why must we study?
 
 

They have to do focus on abstract study for examinations by textbook, as cram schools take great pride in the number of students that qualify for elite schools and universities.
 The residue left by this system answers why there are so few children with that twinkle in their eyes for more interesting and advanced study that fulfils their many dreams. Few schools have the aim of bringing up such lovely children. We have to look over our methods and the contents of children’s learning and studying once again, and we must achieve our goals of education in the best way.


発想の転換が可能性を開く22

2018年07月21日 | 学ぶ

通常の学習指導とファインマンのお父さんの大きなちがい
 ぼくは、いままで立体授業の指導について、多くは触れてきませんでした。「環覚を育てること」については、その大きな意味とたいせつさが、子どもたちの大きな成長を考え、ブログをきちんと読んでいただいているみなさんにはよくわかっていただけたと思いますが、その指導法については、一部資料の紹介等はしましたが、あえてくわしくは触れませんでした。

 それはカッコだけ猿真似をしようとする情けない教師、人としての成長や社会常識の形成等については一切考えの及ばない愚かな玉川夫妻のような教育者としての資質のない教員に、表面的な剽窃だけされては、子どもの成長や社会にとって百害あって一利もなしと考えたからです。つまらない盗用によって、成長の方向をまちがえたり、思わぬ誤解を生んでしまうのは望むところではありません。
 優れた頭脳や能力は素晴らしい人間性がきちんとともなってこそ、大きな意味をもちます。その方向で指導をしてこそ教師です。心ある先生たちは、そんな思いいっぱいで日々子どもたちを育てようとしているはずです。そんな先生たちの力にこそなりたい、そう思って指導を続けています。教師の役目は犯罪を教えることではなく、それらを撲滅することであり、犯罪者を育てるのは、そうしたまがい物の教員を野にはなってしまった社会です。

 教師として最も大切であるはずの、その指導前提にまで考えが至らない愚かさ、見つからなければ何でもやり放題という、まがい物サッカーで身につけた「情けないアンフェアプレー精神」で、人間としての中身を全く考えない指導では、ぼくの願いや指導は到底わかりません。
 さて、今回は、少数かもしれませんが、生計の資としてではなく、そうした教育に対してあふれる情熱を持って日々過ごしていらっしゃる先生方に、指導の一端をお話しします。
 ふつう自然体験や学校での観察や実験では、既にわかっている、あるいは、結果がすぐわかるものでの、結果の確認や照合に終わる場合がほとんどではないでしょうか? その過程での大きな変化やハプニングが仮にあっても、「びっくりさせるだけ」で、自らの考察するにいたるまで彼らを指導することは、あまり行われません
 つまり、いずれにしろ、教科書の学習内容の定着や記憶材料の域を出ません。自らが主体となって、「新しいことを始める」、「未知の結果に挑む」わけではありません。これが、こうした指導の限界・「おもしろさが頭打ちする原因」です。学習のおもしろさはハプニングに始まり、その解明にこそ存在します

 ここで、ファインマンのお父さんの指導例を、もう一度振り返りましょう。
 ファインマンのお父さんは彼を森に連れ出し、別に美しくも特異でもない、「ふつうの鳥」のしぐさに彼の注意をひきます。「おい、あの鳥は何をしているんだ?」とたずねます。特別な鳥ではなく、森へ行けば、どこの森にでもいるような、ごく普通の鳥です。
 「ふつうの親なら、何か珍しいものを探して、見つければ大騒ぎ」というのがパターンでしょうが、それによって子どもたちが覚えるものは、せいぜい「その珍しい鳥と、その鳥がいた」ということだけです。そのままでは、友だち同士の「会話の種」にはなっても、「考察」の材料ではありません。「会話の種」で、子どもの頭はよくなりません。対象についての考察や、関与の試行錯誤を繰り返して、脳は発達します。対象を観察して、考察をする。くりかえす。自分の頭を使う。積極的に考える機会を増やすことがたいせつです。

 お父さんの質問に対して、鳥のそんな様子について、それまで考えもしなかったファインマンは、自分なりに、「羽をつついていた」から、飛んでいるうちに羽が乱れたので、くちばしで整えているんだ、と答えます。すると、お父さんは、「それじゃあ、飛んでいて、地上に降りた時に、もっともつつく動作が多くなるはずだな」と問いかけます。彼が出した結論に対して、自らの正誤の確認を求めるのです
 もう一度よく観察したファインマンは、地上に降りてすぐでも、しばらく地上を歩いていても、羽をつつく回数に大きな違いがないので、答えに窮します。ファインマンのお父さんは、そこから、「科学的な見方」の指導を始めるのです。
 あの鳥は、かゆくてしかたがないんだ、というわけです。羽にはそのたんぱく質を餌にする小さなシラミがいるんだが、そのシラミにたかる虫もいれば、その虫にたかるバクテリアもいる。何か食うものがあれば、そこには必ず生物がいる。鳥はそのシラミのせいでかゆくなる。だから羽をつつくんだ、というわけです。

 ファインマンも自ら言っていますが、お父さんのこの説の正誤は明らかではありません。しかし、自然界の初めて出会った、思いもしなかった対象から、「意外な食物連鎖」について学んだわけです。小学校や中学受験で、三角形のイラストから学ぶ食物連鎖との、子どもたちの「環覚」に訴えるであろう計り知れないイメージのちがいが想像できるでしょう
 三角形のイラストによって、食物連鎖を提示されても、おもしろさが生まれますか? 食物連鎖という、大きな枠組みに考えが及び、そのイメージが拡大しますか? その面白さのない知識を、ただ頭に入れていくのが、現在のほとんどの学習指導です。食物連鎖は、教室の机の上や、テキストの写真やイラストの中にあるのではありません。自然界、この地球上のあらゆるところで起こっている現象です。これを考えた時に、ファーブルがファーブルになったわけがわかるんではないでしょうか?それらが、ニュートンの云う、「真理の大海」のすべすべした石やきれいな貝殻に変わるのです。 
 ぼくの場合は、食物連鎖の指導については、各課外学習の立体授業の際の、スライド映写とテキストでさまざまに存在する食物連鎖に触れ、そのしくみを子どもたちに伝えます。子どもたちは、渓流教室や蛍狩り、でっかい鯰釣りなどで、それらの現象をリアルに体験してゆくわけです。現地ではテキストやスライドで表現しきれない、食物連鎖のさまざまなハプニングと出会いが生まれます。それが、子どもたちの学体力を刺激します。
 ファインマンのお父さんのような問いかけに向かって、どんどん研究と検討を重ねることが、ぼくの次の課題です。
 
To teachers all over the world 2

 This week, I will show you some notes  of my thinking on “the sense about things of surroundings and the strong motivation for studying”, that inspired me about ten years ago.
 This is the case about Richard Feynman. In nature and his daily life, his father wanted his boy to think about life forms of animals,plants and other things in nature by their observations.And so he experienced the joy of thinking about life’s wonders and questions pertaining to them,and was given a sense about things in his surroundings.I named this sense KANKAKU,it’s “環 覚”written in Chinese characters.“the環(KAN)” means “Our surroundings or environments”, and “the覚(KAKU)” means “awareness about something”.

 In another example, Dr. Masukawa, Nobel Prize winning man in Japan, was interested in science taught to him by his father. This included the mechanisms and make-up of things. As examples the movement of the moon or the mechanisms of automatic doors and so on and so forth.
 In almost all of great men’s and Novelists’ childhood in their biographies or in the words of their memoirs of the childhood of Novelists and other great people. We can often find such similar examples by looking a little more carefully at the biographies.
 But we are apt to overlook entirely the important meanings of their words, because their biographies are usually written about their honorable achievements attained in adulthood and with little or nothing about their childhood.

 Feynman’s father, with his observations on biology of plants and animals and natural phenomena together questioned his son about the mechanisms and make-up. After listening to boy’s answers, he then informed him about his misconceptions with the intention for his son to rethink his answers deeply.  Those questions and answers led him to more deeply understand his surroundings.
 So Feynman had developed the habit of finding out about wonders and the depth of natural phenomena.
 In addition, his father prepared his child by using the Encyclopedia Britannica that had written articles by many famous leading scientists. They usually reviewed and thought about their wonders and questions together. That’s the most necessary habit to develop in order to do science and to be a good specialist.
 

And in his childhood, as he studied his surroundings and making constant efforts with patience, Feynman was assured that he got valuable things and rewards, from time to time.
He got GAKUTAIRYOKU, it’s “学体力” in Chinese characters. “学” means “Learning and studying”,“体力” usually means “Power to do something”, but in this case, I mean “Strong motivations to study“.
 Richard recollected like this.

 That’s the way I was educated by my father, with those kind of examples and discussions: no pressure-just lovely interesting discussions. It has motivated me for the rest of my life, and makes me interested in all the sciences. (It just happens I do physics better.)
 I’ve been caught, so to speak-like someone who was given something wonderful when he was a child, and he’s always looking for it again. I’m always looking, like a child, for the wonders I know I’m going to find ?maybe not every time, but every once in a while. (“What Do You Care What Other People Think? ” R. P. Feynman W.W.NORTON p16)

Giving priority to the joy of learning for a little child but lesser priority to study
 Look back Feynman’s saying that;It has motivated me for the rest of my life, and makes me interested in all the sciences. (It just happens I do physics better.)
 
 Reading his words “makes me interested in all the sciences”, you can understand his father’s education to be proper for small children and most important for them.
 Not learning only terms and knowledge of things by textbooks only, but by thinking more about mechanisms of things in the real world. It is the way that Feynman could attain the very interest of the sciences. And it is “the joy of studying” that gave him the power to maintain the interest of science.
 来週、この続きを掲載します。


発想の転換が可能性を開く21

2018年07月14日 | 学ぶ

 ふつう、子どもたちが本格的に教科書を使って学習を始めるのは小学校からです。そして学習するに当たって使用するのは、もちろん教科書です。
 科目によって差はありますが、「始めて教科書を使って学習する子どもたちにとっての教科書とは何か(どうあるべきか)?」、そして「教科書がもたざるを得ない一般的限界」。それらの根本的な問題についてほとんど振り返りもせず、疑いもされず、それ以外の指導方法など考慮に置かず、教育と学習指導は流されていきます。
 人間の歴史を概括すれば、地球と人間を教材に、先人たちの功績や失敗を糧に、発見・発明・創造を重ね続けてきた歴史だといえます。そしてぼくたちが学び、今も子どもたちが学んでいる教科書の学習内容はすべて、長い月日をかけて先達が獲得してきた英知の結晶やその成果の紹介・集約です。
 ごく簡単に言えば、教科書はそれらの概要・要点、いや、さらに「かいつまんで」説明するものです。そして指導の量的・時間的制約から、現状のままを考えれば、どうしてもマニュアル記述的な束縛から逃れることはできません。いわば、子どもたちにとっては実感のない「カス」みたいなものです
 今の教科書のように、写真が多用され、理解に供するように多少の工夫はできたとしても、目的・利用の方法など、どうしても形式的・抽象的になりがちです。形式的・抽象的なものは、子どもたちにとって決しておもしろいものではありません。
 そして教科書の内容は、敢えて言いますが「所詮!」、テストでその記憶や理解を点数で「判定」されるものです。それを、何の疑いもなく、あるいは諦念の上で、継続されるばかりです
 本来なら、こどもたちの一生を左右する「学びへの強大なモチベーションに変化するべき環境の宝物」がそのまま消滅したり、不完全燃焼するばかりです。
 教科書の前に、子どもたちがきちんと見つけ、知っておくべき「存在」がある。彼らの周りにある環境です。ゲームのことについては、子どもたちは教えられなくても学んでいくのですから、本来環境を学ぶべく生まれついてるはずの(これについては、後日展開します)子どもたちが、それらに夢中になれないはずはありません
 ずーっと、このブログで、こうした考察を展開してきましたが、どうも受験作戦以上の発想に結びつくような反応が見られないので、英文で紹介しようと、今指導を受けながら英語の学習を進めています。次は、その一回目の全文です。ぜひ、英語圏の方々にも読んでいただきたいと思います。

To teachers all over the world

What is the best textbook for small children?
 A challenge for Learning of F.W.S(FIELD WORK STUDY)
Living is learning, the importance of training“環覚(the sense about surroundings)”and “学体力(the strong motivation to study) ” “Modernized Terakoya School”,The negative influences of cram school learning for children.

Learning from Richard Feynman’s father and Thomas Edison’s mother vol.3

 What is it that children want to know?
 That will answer many of their questions.
 I guess that many people are annoyed or troubled with questions from little children and their many wonders while bringing them up. But did you carefully reflect on their questions or wonders?  What are the things that these kids wanted to know?  You’ll be able to find them in these books.
Two books entitled KINDER FRAGEN, NOBELPREISTRAGER ANTWORTEN by Bettina Stiekel, and THE ANSWERS FOR KINDER WONDERS (KODOMO NO NAZE NI KOTAERU HON)by Nakamura Keiko.
 

Let’s examine some children’s questions.
 These questions may be effected by the idea of publishers who are anxious about book sales. But from my life long experience of teaching, all these questions are likely to be in these form.
 “Why is the sky blue?” “Why is custard pudding soft, but is stone hard? ” “Why don’t I eat fried potatoes every day?”  “Why does war break out? ” “How can we hear each other on the telephone?”  “What is air?” “What is wind?” “What makes rain or snow fall?” “What makes leaves turn green into red or yellow in autumn?” “Why do apples or persimmons have seeds?” “Why am I sleepy at night?” and so on. These are the kinds of questions children want to truly know.
 But, as I said before, most of us misunderstand learning as working in a room only, or listening and taking notes of a lecture, and we tend never to reflect on children’s questions or they only use their imaginations carefully. They usually overlook what children want to really know, as a textbook a course of study and summarize or give an interpretation. They teach on letter or by textbook only. Is this their ordinary style?
 However, children want to know these types of things before studying for entrance examinations.

 Remember Edison and his teacher Mr.Engle. Mr.Engle was angry at little Edison’s foolish questions, so as a result Edison left school. He remembered learning for two hours about things that he had never seen before.
 Is making light of what children want to really know how to teach pupils currently. They don’t teach what children want to know but simply prepare to pass entrance examinations.
 It is interesting to understand what you think about, but usually you must study things that you have little or no interest in by using textbooks. It’s not for you to explore what you want to know. You must study something that is not of interest.
 There seems to be little hope for young children to receive motivation and the way to convey the true joy of learning anywhere, neither at home or school or the rest of society. 
 

 Now, look back at those two books of children’s questions. Most of all those questions, you see, are the subject matters of learning, aren’t they?  In other words, they should feel interested and want to know more, but in reality they feel uninspired dull, and bored. What changes their feeling and motivation for learning?  That’s such a pity.
 To such children, you must tell them to first, “Watch more carefully and better, feel more.”That way , they will find something interesting that they want to know more about. This  motivates children to learn more and study with enthusiasm. They must be aching to know and learn more and more. It’s “ 学体力(GAKUTAIRYOKU)”( I mean, the strong motivation to study).

 

環覚the sense about somethings of circumstances ”brings “学体力 the strong motivation to study ”
 Many people usually think that book learning is the only way to understand. We must change this historical system to teach natural ways to learn, and think about the meaning of the educational environments where Edison and Feynman were brought up in. That is the subject of this blog.
 First of all, it is important that we always give children a sense about circumstances. We must tell them to watch and feel things around them, and make them understand what they study at school is their real circumstances.
 They are learning about things such as the earth, air, plants, animals, stars, and human beings. Those are things are that all around us. They can’t be found in books. We often forget that, don’t we?  We, just like children want to know about somethings of the neighborhood, don’t you? 
 

These are the things, that we usually learn at school in textbooks, these things must be felt and known naturally in the mountains or in other environments full of nature. But in the cities full of commercialism we are apt to lose such sensitivity. Therefore if you intend to train children about the sense of circumstances, you must actively create interest in something without force to inspire them its curiosity.
 When introducing the circumstances of a subject or topic to children will increase their interest to watch more carefully and think more deeply. This will bring them closer to their studies both intellectually and emotionally.
 Most people have little or no concern about the process of learning for children. Children should gradually get bits of information with some real life interaction in order for them to comprehend more fully. Edison in his childhood disliked studying things unknown for two hours, but this method will make their dislike of learning vanish quickly.

 When children are small, they know very little of their environment; As they grow they accumulate more knowledge which drives their imagination and interest in the world around them. This teaching way is more effective than learning first by textbook for small children who have different sensitivities than adults.
 This is the best method for early child learning rather than preparing them fully for examinations.

To increase their knowledge and experience, small children will get a clearer image of the learning matter, and as a result investigate them more often, and care about the things that they are studying, each day. As the wonders and questions that they encounter increases their interests about their surroundings becomes more active.
 These many experiences are the building blocks of knowledge as things in their environment become bigger. That’s the only way to get KANKAKU for children, and GAKUTAIRYOKU.
 With the solid building of knowledge, your understanding will enable them to capture the relation or reference of one thing to another. That will be more conducive influence much better for children to study the other subjects and matters of learning.

 With the growth of KANKAKU ( the sense about surroundings), children will be able to get a clear image of learning correctly and understand more easily and accurately. This deep understanding gives the joy of learning for children. And that’s the very road to absorb GAKUTAIRYOKU?学体力” for children.
 When they find wonders and questions about the environment, you are willing to give them explanations and answers immediately. You should have a Britannica and other resources at your disposal. Those are the methods used by Edison’s mother and Feynman’s father.
I‘ll give are particular account of the matter next Saturday.


発想の転換が可能性を開く⑳

2018年07月07日 | 学ぶ

「抽象学習」の愚かしさ
 こどもたちの現在の学習のようすを、ぼくは、よく『抽象学習』と呼びます。「学習なんて、全部『抽象』学習ではないか」という人がいると困る(おそらく、たくさんいるでしょうが)ので、わかりやすいように、その意味について少し考えます。次は「脳は出会いで育つ「脳科学と教育」入門」(小泉 英明著 青灯社)の一節です。

 私たちは外界の世界を見ているとき、意識下の世界まで入れると、かなりたくさんの信号を処理している。情報全部がそこにあるわけではないが、最初に入ってくる生の情報はそのまま入るから意識下をふくめて多くの神経が活動したことに変わりはない。そのあたりが、抽象化された情報、スクリーン上や文字・話を聞いた場合と実体験との大きな差が出るところではないかと思う。実体験とそれ以外では、脳のはたらき自身が本質的にちがうということになる。そういう意味から最初に実体験するということが極めて大切で、実体験をしておけば、かなりな情報量を取り込んでいるので、抽象化されたものが再提示されたときには内部世界で肉付けして本物が再構築されやすい。しかし、実体験がなかったら再構築できない。  (前記書p150~151 要約 下線・文責/南淵)

 わたしたちは「もの」を見るとき、あるいは「なにか」に出遭うとき、視覚や聴覚など、わたしたちの「五感すべて」でその情報の全容(「意識の有無」は別として、ほぼ本来の姿)を受けとり、情報はすべて脳内にインプットされる。ところが、文字化あるいは映像化された情報、端的に言えば、たとえば画面や教科書からの情報は、対象本来のすべての感覚器官による情報が、そこに反映されているわけではない。
 分かりやすいところで云えば、実在のものを、文字化もしくは映像化された何かで見たとき、「それを見ている雨に濡れている自分がいる」とか、「見ているものの後ろに雲がのんびりと浮かんでいた」とか、「聞こえた虫の声」とかは再現されていない。経由する媒体によって表現できる以上の、「実在」が発した本来の五感で受けとれるすべての情報が表現されているわけではない、ということです。

 要素の多寡により、情報によってそれほど影響を受けない対象も中にはあるかも知れませんが、そんな対象に関わる情報でも、「実際に体験する」のと「媒体を通じて」とでは、その積み重ねによって、「次の情報をとらえるときのスキーマの量や質に考えられないほど大きな差ができる」ということは想定できるでしょう(想定してください)。その差は拡大しこそすれ、縮まることはありません。
 そういう実体験を経て積みあげられたスキーマをもつ子どもと、たとえば、ただ文字化された教科書だけを通した感覚による、対象の再構成(つまり初見の脳内イメージ)を比べてみたとき、当初の理解力にも、その後の発達にも、どれだけ大きな差が生まれるかは、容易に想像できるのではないでしょうか。小さな子どもたち、つまり学習初心者や、未学習児童の、対象に対する親近感や認知度が、こうした経験の積み重ねを繰り返す成長の相違によって、計り知れない差になってくるだろうことは明らかです。

 ところが、現在、小さな子たちが学校で指導される学習内容や学習対象は、都市化など学習環境の激変によって、「あまり見たことのないもの・知っていると思っているもの」がますます増大しています。ところが、学習スタイルは百年一律で現在も変わらず、どこでも日々「ほとんど教科書だけによる学習」の連続です子どもたちが、「そのものをよく知っているか、よく観察したことがあるか」という、学習するためのたいせつな前提は、指導者の意識の外です

 今の学習システムや学習指導方法は、数百年以上にわたって、子どもたちにその「理解困難」という「しわ寄せ」を押しつけつづけているのではないでしょうか。多くの人々はその指導の、子どもたちにとっての「えげつなさ」に気づかず、また反省もなく、問題を軽視しすぎです。エジソンが、エングル先生の指導に反抗的になって、『知らないものを何時間も勉強させられた』と文句を言ったのは、そういう意味だったと理解できます(してください)。
 そんな彼のことを「バカな質問をする」子だ、多動症だとか、低脳児という判断を下す人がいたら、その人たちは小さな子どもたちの教育や指導にかかわらないほうがよいと思います。さらに、それらの学習姿勢に対して何ら対策を立てようとしないのなら、その人は先生とは言えません。

  「イメージができない」。わかりやすく言えば、子どもたちは、依然として「見たこともないものをわかりなさい、おぼえなさい」と言われ続けているわけです。そのうえ、そんなものを『勉強する意味さえわからないまま』なのです。自己主張が強いエジソンのような子どもだから反抗しましたが、素直な子たちの多くは、今も、これからもやる気をなくすか、ふてくされるか、あるいは勉強そのものが嫌になってしまう子が増えていくことでしょう
 この現実を、指導する側はきちんと心に落として日々指導しないと大きな成果を手にすることができず、学習環境の抜本的改革は永遠にできません。この本質的な問題に対する、反省や改善策を何ら成されないまま続いているのが、現状の多くの学習指導です。

 こうした学習指導の原因となる問題点は、小さいころから自然にどっぷり浸かり、野外での遊びや体験をくさるほど重ねている(いた)人でないと、よくわからないでしょう。「自分自身も学習事項や学習対象をよく知らないまま、馴染みがないところから出発した(せざるを得なかった)」からです。そうした指導しか知らないわけですから、それこそ「ほとんどイメージの及ばないところ」なのです。『イメージの及ばない人』が「イメージの及ばない子どもたちにイメージの及ぶ指導をすること」はできません。

 現在のように、よく見たこともなく、触れたこともなく、「知らない」のに、「名前は知っている・なんか見たことある」と、その対象がこどもたちの「知っている!」の範疇に入っている限り、また本来貴重である「自然体験」が、誤解された取り組みと指導のまま、ただの遠足やキャンプで終わっている限り、この大問題は解決できません。解決の糸口さえ見つかりません
 みんな同じ大きさのプラスチックケースに入れられ、工場から運ばれてきたゴム粘土と、鳥がさえずり、虫が飛び、魚がはねる川岸や山際で掘り出した、到底自然のものとは思えない驚くほどきれいな青色や白色の粘土でつくった、それぞれの粘土細工によるこどもたちの経験値の差が、小泉氏の言う「イメージの再構築の差になるのだ」と考えてみれば、その本質をさらによく理解できるでしょう。

 「抽象的学習指導」の愚かしさは、ほんとうに子どもたちのことを考えようとする機関・組織や個人がその気になれば、いくらでも改善でき、すぐ解決する問題であると、ぼくは考えます。「こどもたちの学習の元になる」スキーマは、ぼくが伝えようとしている「環覚」養成の指導、日ごろ実践している立体授業によって広く、大きく発達し、すばらしく成長を遂げる子どもたちが生まれます。ぼくが25年以上の子どもたちへの指導でしっかり確認済みです。

偉人や天才が生まれる秘密
 さらに、子どもたちが現在学習する内容の多くは、歴史上の発明や発見や研究・調査の、単に結果や結論であり、まとめです。しかし、その成果を獲得したのは、その時々に生きていた感情や悩みをもっているぼくたちと同じ人間であり、その彼らが生活していた日常の中からです

 ですから、その成長の過程、また偉業達成までの間には、いつも困惑や挫折や大きな感動や感激もともなっていたはずです。いずれにしろ、忘れようとしても忘れられない胸躍る体験の連続だったでしょう
 つまり、今文字や歴史を覚えなければならない子どもたちのように、意識して暗記しようとしなくても覚えられるものばかりだったことでしょう。ぼくたち指導者は、この仕組みを、現在の子どもたちの学習過程にできるだけたくさん導入を図るべきなのです
 ところが現状、子どもたちは、喜びも感激もほとんどなく、「テストの点数をアップするための理解と暗記の努力を続ける日々」ばかりです。手に入るのは「点数アップ」という一瞬の小さな心の動きだけです。それだけでは、学習過程において本来手に入れ、生きていく糧とすべき大きな成長や生きていく自信という、「感動」や「感激」を手に入れることはほとんど期待できません。
 
 人類が獲得してきた知識や技術が抽象化され、学習内容に昇華するまでの長い歴史は、一方で、困ったことを解決し、不思議なことに気づき、おもしろいことに出遭った感動の歴史です。いずれも自然・環境の変化と自分たち人間の絶えざるハプニングにおどろき、問題に困惑し、生きていくためにやむを得ず、あるいはそのおもしろさに嬉々として、その研究や追究によって問題や困難を克服し、歓喜した歴史のはずです。すべて、生きることとともにあったのです。「なぜ」や「何」という疑問や原因や理由を解明する必要が生まれ、研究を重ね、克服と解決を重ねてきたものです。それによって、生きていく自信が生まれ、前に進む意欲が生まれます。生きていく力が身につきます。
 そういう子どもたちにとっての学習本来のもつ意味や人間の教育・学習過程の現実が、現在はとてもわかりにくくなってしまっています。成績の向上目的だけでは、「生きていく力」の獲得という、しっかりした手応えは感じられません。職人の技量の向上による手応えなら、少し話は別ですが・・・。

 子どもたちは、ものを触り、ものをつくり、ものを壊し、成長する人種です。文字を読み、文字を書くだけの「サル」ではありません。現実的にその必要が感じられない、意味がわからない中で、「見たことがないもの(!)」の抽象学習だけを進めるようになってしまっているわけです。それが、学校教育の現状です。そんな中にいて「学ぶおもしろさ」を感じられる子がたくさん出てくる方が不思議です。ぼくたちは、この現実を何とかしなければなりません。
 たとえば、子どもたちが日ごろつくるものは「『できあいのセットされた』商品」ではなく、自ら自然のなかで見つけた木やタケを自ら切り出し、削ってつくったおもちゃであってほしい。その方が、こどもたちの成長にとってはるかに貴重で、かけがえのない体験になると思います。

 この方法は団の『立体授業』の大きなテーマのひとつでもあります。弓や吹き矢、釣り竿、竹とんぼなどを、団では子どもたちと一緒につくります。そして完成すれば、子どもたちがみんなとの競技に使う、自分の道具でもあるのです
 これらの作業は、こどもたちの『環覚』を身につけるのにも、とても役立ちます。良い材料を探すこと、自ら製作することによって周囲の自然や自らの環境に対する「注意深い目」が育つのです
 自らがつくった弓矢で的当てを競い、自らが切った竹竿で川魚を釣り、竹とんぼを空高く飛ばします。こうした行動を通じて、彼らの『環覚』は大きく育っていくのです。

 自然体験が乏しくイメージがともなわないので理解がむずかしい学習、さらに「感動する過程」がなくなってしまった「知識」という「抜け殻」を暗記させられるだけの学習であれば、子どもたちにとって、つまらないのは当然です。彼らが覚えるべきは、学習がほんとうは身近なことを学んでいくものだということ、それらは自らの日々の生活にも大きく関わっていることがわかること。それらを子どもたちに少しずつでも知らせなければなりません。それによって、学習することや学習過程が身近になります
 大きくは、地球から始まり、周辺環境と自らの学習内容が、いかに身近で切り離せないものであるかを「さまざまな体験」を通じて伝え、それに自ら気づけるように指導する積み重ねです。さらに身近になった環境との「交流」を通じて・おもしろいことや不思議なことを見つけられれば、子どもたちは、自らもっと先を知りたくなります。それが偉人たちの経験した成長過程です。

 そのためには、まずさまざまな活動を通じて、こどもたちが「自然環境のようす」に気づき、「彼らの」声を聞き、「会話」ができるようになること、そうです、『友だち』にならなければなりません。そうした経験によって、環境の切なる願いを聞くことができるようになった人がレイチェル・カーソンであり、ゴア副大統領なのです。こうした経験が、こどもたちの学習や成長の大きな礎になるだろうことは、もうおわかりでしょう。
 ここで、少し、逆の学習過程を経た子どもはどうなるかを考えてみましょう。ゲームや情報機器に翻弄され、文字媒体による学習しか知らない子です。
 自然や周囲に対する彼らの「環覚」は上手く育たず、おもしろさにあふれた自然も、気づく環境・機会がほとんどなければ、成長とともに、ただの草やしょうもない樹の集まりであり、気持ち悪い虫や変な鳥の集合でしかありません。現実感のない断片的知識のストックは、仮に入学試験には役だつことがあっても、多くの場合、結局すべて「絵に描いたもち」で、使うことも、役立つことも、それによって心が躍ることもありません。

 「入口の狭い環覚」しかなければ、入ってくる情報も少なく、次第に変化のないマンネリ化した日々を送るようになってしまうことになります。環覚が育たずネットワークの小さいスキーマしか成立しなければ、興味や好奇心をもつ範囲も限られてしまいます。大抵の大人はそうではないでしょうか? 
 「環覚」が大きく育つことによってこそ、周辺情報に対する気づきがはじまり、気づきが始まることによって、周囲のサムシングに対する不思議や問いが生まれます。ほんとうの学びが進むのはそこからです。それによって、こどもたちの学びの『正のサイクル』がはじまり、やがて、偉人や天才もその中から誕生します。

子どもたちが「夢の教科書」を手に入れる指導法―学びの正のサイクル
 さて、それでは偉人の親たちの指導法からわかる、子どもたちが「夢の教科書」と「学びの正のサイクルを手に入れる方法をまとめてみましょう。ぼくが団で追求し、これからもずっと追求したい指導法です。

①  「えっ? これはなに?」

バランスのよい「環覚」の育成。まず自然や環境に気づく目を育てること

 ファインマンがファインマンに、エジソンがエジソンになれたのは、まず彼らの周囲の自然や環境のおもしろいもの、不思議なことに気づく目―「環覚」を育ててもらったことでしょう。この「環覚」がなければ、勉強は、ただ教室内の特別なもの、試験にパスするためだけのもので、自分が生きていること、また生きていくこととは関係のないもので終わってしまいます。自分に関係がなければ積極的に学ぼうという気は起きません。
 「学習が『ただ受験や試験の点数にだけ関わりあるもの』という感覚に終わってしまわないように育てること」がたいせつです。自らの環境や生活の中で「おもしろさやおもしろいものを見つける目」ができ、その不思議や謎を知りたいという欲求が生まれる状況をつくることです。それがすべてのきっかけになります。
  

②  「ああ、そうやったんか!」

そして、なりたちやしくみ・因果関係を考えさせ、世界を解釈できることのたいせつさ、あるいは解明することのおもしろさに気づかせること

 環境や周囲のものなりたちやしくみのおもしろさ・不思議さに気づき、その合理性・有意性・意外性などがわかるようになったとき、学ぶおもしろさがはじまります。学ぶことでそれらが解明できる、勉強することには、実はそのおもしろさも含まれているということがわかることがたいせつです。
 ファインマンは気づいた謎や不思議を自らが解明する、あるいは発見するおもしろさを知ったことで、「学びの正のサイクル」―その後の人生を通じて科学のあらゆる分野に興味を持ち、研究を続けることになった―を手に入れました。学体力の定着です

③   「本はおもしろい!」

自らが見つけた不思議や謎を調べるべく、定評ある本に親しませること(一緒に読んであげること)
 
 調べれば、謎がすっきり解明できる、あるいは本を読めば、たくさんおもしろいことが見つかるというきっかけを用意すること。
 子どもに本を読んであげる場合も、「おもしろいものだという感じを抱かせる」くふうをすること。たとえば、ファインマンの場合は、小さいころ、お父さんに知らない・見たことがないものにも現実感をもてるように、それがイメージできるような読み方をしてもらっていました。それによって頭の中でイメージが明確になり、本の内容の再構成が容易になり、本がおもしろく、身近な存在になったということです
 この本のおもしろさに目を向ける、ということは、とても大切なことなので、過去のぼくのブログで、そのことについて詳しく展開しているところを、もう一度紹介します(「ファインマンの父とエジソンの母に学ぶ」7)。

 我が家にはブリタニカがあってね。まだぼくが小さいころ親父が膝にすわらせて、よく読み聞かせてくれたんだ。たとえば恐竜の項目なんかだと、プロントザウルスか、あるいはティラノザウルスだったかもわからんが、こんなふうにね。
 「これは全長25フィートで、頭の幅は6フィートある・・・」てな具合の記事だと、一端そこで読むのをやめ。こういうんだ。
 「これがどういう意味か、ちょっと考えてみようや。もし、こいつが我が家の前庭にいたら、背の高さは(窓まで)十分だが、首をつっこもうとしてもうまくいかない。頭の幅がちょっとばかり広すぎて、窓をこわさないと近寄れない
(The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p3  拙訳 下線は南淵)

 このファインマンの回想をていねいに読めば、子どもに関わるべく心を砕くお父さんに役立つ大きなヒントが見つかります。
 まず一つめ。「子どもを膝にすわらせて」ということですから、おそらく3~4才のころでしょう。その頃に「本格的な一流の事典」である『ブリタニカ』に既に触れ、馴染ませ、その存在の意義やたいせつさ・使い方を伝え、「知の探索」への導入を図っているということです。小さな子どもだからといって、「適当な返事」や「いい加減な答え」でごまかしていません。一流の百科事典で、その正確な知識を伝えるようにした。ふだんからこうした習慣(すぐ調べる。いっしょに調べられる習慣)がつづいていったことになります。
 二つめ。その本格的で難しい内容を、まだ経験の浅い子どもが十分想像力の枝葉をのばし理解できるように読み解いていった賢明さです。ファインマンにとっては、本格的で難解な知識も現実感をともない、イメージが豊かに飛翔し、おもしろくて仕方がなかったことでしょう。こう振り返っています。

 どんなものを読んだときも、できるだけ現実感をもてるように言いかえられたんだ。ぼくはこうして、どんなものを読んでも「実際はどういう意味か、本当はどういうことを言おうとしているか」を、言いかえたりしながらね、究めていくことを教えられたのさ。(笑い)小さいころブリタニカをよく読んだがそれは言いかえてもらってね。でも、おもしろくてワクワクしたよ。そんなにでっかい生きものがいたんだからね。
 (The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p3  拙訳)

 ファインマンが「周囲の物理的事象に対しても、イメージ豊かにとらえることができた」大きなきっかけをここに見ることができます。こうした経験を積み重ねれば、ブリタニカという「知を切り開くブルドーザー」を自由に動かせるようになるのも時間の問題です。それによって、以前にもふれましたが、子どもたちが小さいころの「なぜ・何攻撃」をたいせつにし、解決するべく準備も十分整っていたことです。
 子どもたちが疑問に思い、不思議に感じることを、好奇心の冷めないうちに、あるいはあきらめないうちに、忘れてしまわないうちに、さらにどんどん増幅させる環境がありました。それらを速やかに解決していけるということ。それによって『知ること・考えることのおもしろさのビッグバン』が始まったことでしょう。学ぶべきは「恐竜が庭にいる」です。


  
④  「きっといいことがある!」

がまんをすれば、最後にすばらしいことが待っている・すてきなものが手に入る・発見できるということを数多く経験させること

 我慢して努力すればおもしろいことやすばらしい結果が待っているという経験を重ねること。
 これは日頃の習慣やしつけにも関係してくることです。よく見られるゲームソフトやお小遣いを、ご褒美にあげるようなことでは、決してありません。
 子どもたち自らが、周囲の環境に対し興味をもち不思議やなぞに気づき、その解明に向かうようになること、それらを解決する経験は積み重ねれば積み重ねるほど、この世界で生きていくことができる糧、自信になります。それが、この場合の「素晴らしいもの」・「すてきなこと」です
 自ら、このしくみがわかったとき、子どもたちは、たとえば積極的にブリタニカや広辞苑を開き、自らで自らの謎を解明するという姿勢がはじまります。それが、子どもたちにとっての「夢の教科書」と「学びの正のサイクルの獲得」です。