『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには③

2016年11月26日 | 学ぶ

ぼくが「飛鳥 学」です
 スッポンの「学」君の報告です。稲刈りの時に団の仲間になり、もう一月余り、今までシジミしか食べなかったのですが、昨日、急に何を思ったのか、カワニナを「狂ったように」食べ始めました(10匹以上!)。目の前でものを食べるのを見ることができたのは初めてで、子どもたちも興味津々でした。

 その食べ方ですが、写真のように、カワニナを吸い込むように口に入れ、口の中で転がしながら奥歯でバリバリ音を立てて噛み砕きます。細かくなった貝殻はうまく口の端からこぼし、身だけを飲み込みます。何とも豪快です。わかりやすく言うと、犬が骨や硬いものを齧るとき、口の中で位置を変えながら何度も噛み砕こうとしますね、あれと同じです。

 愉快な姿をいろいろ見せてくれて、今も、またタニシに顔に乗られて、怖い顔をしながら両手(前足)で叩き落とそうとしています。「バカにするのもいい加減にしろ!?」というわけですね、ハハ。

「学校選び」より「受験生本人」
 (この項に登場する合格写真は、本文とは関係ありません)
 中学受験生は残すところ約50日、本番間近です。
 この時期になると、受験先がまだ決まっていないお父さん・お母さんは大わらわだと思います。どこへ行けば? 大学進学には? 等、次から次へと気になる問題が浮上し、情報に目移りし、なかなか決められない・・・。そんなお父さん・お母さんに一言。

 掲示の団OBの進学中学とその後の合格大学をご覧ください(なお、少人数ですから受験生が毎年いるとは限りません)。OB教室を卒業した諸君が、進学中学にかかわらず、それぞれ素晴らしい大学に合格していることがわかると思います。どうしてこういう結果が生まれるのか? それは「『ほとんどのお父さん・お母さんが忘れていること(?)』を忘れないようにしていること」につきます。「『学習を進める、学力を上げる』のは、進学塾や進学中学ではなく、当の本人である」というごく当たり前の事実の確認です。「そのためにはどうすべきか?」「当の本人の指導やしつけや教育はどうあるべきか?」をいつも考えています。

 世間では相変わらず、まず子どもに向かって自らの眼で「きちんと」見て考えたり、判断することが少なく、「誇大な広告(一面的進学実績のみ)」や「個人的で根拠のない情報」・「見栄」で受験塾(学習塾)を選び、そのコースに任せたまま進学中学まで選ぶ、という百年(!)一律の受験スタイルが続いています。
 推薦された、あるいは定評ある(?!)進学中学が、その後の学習や成長にかけがえがなく、確実にプラスになるという保証はどこにあるでしょうか? そんなものより、何はさておき、当人の人格や学ぶ姿勢が大前提ではないでしょうか? いちばん信頼でき、もっともかけがえのないものは本人の努力と努力による成長です。それ以外に何があるでしょう。たとえばテストでも、点数は二の次です。答案内容です。それをきちんと注視していくことです
 今まで「頼りになるのは自分」というぼくのアドバイスを無視して進学した中学に合わず、あるいはなじめず、思わしい結果が出なかった子もたくさんいます。学校側に説明会だけでは分からない歪や問題点が潜んでいたり、あるいは先生の指導力が足りなかったり、同級生の質が問題だったり、というのが原因です。

 「有名私立一貫校にもかかわらず、大学受験のための学習指導力不足という進学先」はもってのほかですが、何より大切なことは、進学する当の本人に、「学体力」がきちんと備わっているか、中学生としての「人格」が備わっているか、社会常識に目覚めているか、ということです(「学体力」とは、機会あるごとに展開していますが、ぼくの造語です。不明の方は一度過去のブログを参照してください)。学体力が伴わないままでは、どこの中学に行こうが、大した結果は生まれません。どうして気がつかない(?)人が多いのでしょう。なぜ、いちばん大切なことを忘れているのでしょう。
 日ごろから、「どういうことに注意するか」、「何を叱るのか」などの「子育ての基本」をないがしろにして、おべっかを使い、おだてながら難関塾に通わせても、やがてどこかで挫折するし、目標の(見え)ない進学では意味がありません。そのまま社会に出ても、往々にして「人的成長!」が未発達ゆえ、あちこち迷惑をかけ続けるだけで、十分活躍できる人材に育つことは期待薄ではないでしょうか? もうそろそろ真剣に学習や子育ての意味・本質を一から冷静に問い直す時期が来ていると思うのですが?
 

団OBの進学中学、進学先をよくご覧ください。成人する時期になっての爆発力と成長ぶりが伺えると思います。子どもの成長を含めた「進学事情」をもう一度振り返り、進学先ではなく(!)、あくまでも「子どもたちの心身ともの健やかな成長が基本」である、その視点があれば、素晴らしい子に育つ「王道」が見通せます
 さて、その指導の初歩です。「学習ができない子」、また「人間的成長のともなわない子」、「進学先の不如意や進学後の成績がもう一つの子」すべてに共通している欠点は、「時間に対するルーズさ」です。

 課外学習の時間や授業時間に平気で遅れたり、無断で休んだり、というパターンです。「特別の事情がない限り、授業の始まる10分前には登団していること」という団の約束ごとがありますが彼らはそれを守れません。
 「10分前に」という約束には三つのたいせつな意味があります。
 まず一つ目。注意をしていてもぼくたちには忘れ物や見落としがつきものです。あるいは自らの意志ではどうにもならないハプニングもあります。
 忘れ物をした場合に、その時間で準備したり、近くであれば取りに帰れます。「きちんと準備と心の用意が整って授業や活動に入ることができる」わけです。「ハレの日」や入試当日、忘れ物をすれば平常心で事に当たれません。全力でのパフォーマンスができません。心の余裕がありません。それでは最良の結果は得られません。

 二つ目。社会生活をしている以上、「決まった時間に遅れるということは、他のみんなに迷惑をかける」ということです。授業であれば先生やクラスメイトをイライラさせたり、たいせつな授業時間がそれによって削られたり…という迷惑です。その時点で、社会人としても失格です。信頼はおけません。
 三つめは、時間を守れないで、果たして充実した時間や人生を送ることができるのか、という懸念です。目標は決めても結果が出るとは思えません。また、時間を守ることできちんと仕事や学習ができるばかりではなく、ふだん時間を守っているからこそ、休日の自由な時間は「よりリラックス」できます。メリハリがあるわけです。
 いつも時間が守れなければ、それは中身もなく、気分転換もできず、ただ「ボーっと」しているだけの時間です。いつも疲れて、一生「ボーっと」しているだけです。これを「時間性痴呆症!」と呼びます。「『けじめ』あっての物種」です。
 最近時間を(さえ)守らないヒト(守れないヒト)が増えてきましたが、単に「時間を意識できない」というルーズさが、子どもの指導や学習にこれだけ大きな影響を与えます。日ごろの小さな習慣から、幼い子どもの教育やしつけが始まっているわけです。積み重なれば、子どもの学習や受験はもちろん、性格形成にも大きな影響が出ます、知らないうちに。

 さて、次は「困ったちゃん」の「おとぎ話」(創作)です。いくら叱っても、言うことを聞かない、直らない、という話を時々聞きますが、それはどうしてか? わがままで自己中心、問題多発の子どもの「しつけ」や『指導』がうまくできない人は、ぜひM先生のアドバイスを参考にしてください。

「モンスター・ペアレンツ生産工場」の閉鎖を
 「『躾や指導がうまくいかない原因』は大きく分けて四つあります」と、M先生は言います。以下、先生からうかがったアドバイスをそのまま伝えます。

 まず、周囲が「子どもをちゃんと見ることができていないこと」。二つ目は、「叱る基準がわからない(なっていない)こと」。三つめは、「叱るタイミングがわからないこと」。最後は「叱り方がわからないこと」。
指導」や「躾」が機能しないのは、多くの場合、この四つの条件が混在し、重複していることがほとんどです。代表的な例、課外学習の展開に即して説明します。なお、「躾」は、ご覧のように、「身を美しく!」と書きます。その意味をよく味わってください

 子どもたちの楽しい課外学習のエピローグで、事件は起きました。
 M先生は子どもたちの安全と安心、指導の充実のために、必ず現地にお世話になる知人や友人を用意しています。というより実際は、長年の活動で、M先生の指導方法を十分理解して、応援してくれるようになった人たちです。強い味方であり、強固な信頼関係が成立しています。
 課外学習が一段落して、雨模様になり、お世話になっているKさんに挨拶して、Kさんの大きな田舎家の軒下で、M先生とみんなが雨宿りをしていました。Kさんはいつも子どもたちのことを考え、時期にあわせてブルーベリーやキウイなど、自家栽培のお土産を用意してくれます。
 

今回は自宅の畑で栽培している富有柿を持ち帰りしてください、ということです。「ひとり一個ずつ。自由にとって持ち帰ってください」。カキの摘み取りなど、ふだんはほとんどできないので、子どもたちもみんな大喜びです。
 カキの生っている小高くなった畑では、他の野菜を栽培していることもあります。M先生が気をつけて登るよう注意しようとすると、その注意も聞かないで、われ先に走る子がいます。いつもの「困ったちゃん」です。元に戻して、改めて「カキ一個の約束と畑の注意」を確認します。
 「困ったちゃん」は、今日は「付き添い」が来ているのですが、朝から相変わらず、指示を守れず、自己中心、周りが見えず、注意を聞こうとしません。その日も「道行き指導」にもほとんど注意を払わず、自分のことしか考えない有様でした。
 山道をKさんちの軒下まで戻る途中も、傍にあった古い竹竿を振り回すので、先生が捨てるよう注意をしました。すると、道横の植え込みにポンと放っておく始末。もはや限界寸前です。

 そして、「カキ」です。子どもたちみんなでカキをもいでいると、上級生が「A(困ったちゃん)が2個取っています」。またもや、ルール無視、気遣いゼロのふるまいです。
 M先生は叱って一個取りあげ、サポーターの保護者が待っている軒下に戻って、「困ったちゃん」の「付き添い」にわかるように、「カキ一個の約束だったのですが、二個取ったので・・・」と朝からの行状もふくめて、説明と注意を始めようとすると、
 「私に言わないで、母親に言ってくださいよッ。何も今、みんなの前で言わなくても!私が言っても聞かないから、母親に言ってくださいよ…本当に二個取ったんですかっ!」。
 すごい剣幕です。それに「自分は、『困ったちゃん』の身うちじゃないみたい」な言い方です。
 「困ったちゃん」はどこの家の子ですか? M先生は他の保護者のことを考え、楽しい一日を不意にしたくなかったので、その時はそのままにしました。

 この「困ったちゃん」のサポーターの行動に、「子どもが言うことを聞くようにならない」すべての条件が含まれていることがわかりますか?
 まず大きな問題は、「子どもをきちんと見ることができていない」ということです
 その日の「困ったちゃん」の行状は一緒にいて注意深く観察をしていれば、すべて姿が見え声も聞こえる場所でのことですからわからないはずはありません。「そのようすをまったく見ていない」、あるいは「見ようとしていない」、「子どもが注意されている意味が分からない」。そのいずれかです。見ていなければ指導やしつけはできません
 また、「みんな一個ずつ持ち帰ってよい」というKさんの好意を違えて二個取れば、それは「泥棒」です。そこに善悪と倫理観の判断基準の大きな分岐点があります。どちらを選ぶかで、天と地の差です。それがわからないのは、「叱る基準がまったくわからない」ということです。そこの基準があやふやであれば、子どもに善悪の分別を要求したり、子どもの正しい判断力を培うことはできません。
 また、日ごろから当人の行動にしっかり目を走らせていれば、自分が仮にその場を見ていなくても、「やったかどうか」の判断はそれなりにできるはずです。そしてもっとも忘れてならないことは、「指導する側に対する信頼のなさ(かわいさのあまり?)」です。それがなければ指導や教育は成立しません。直せるものも治りません。

 三つめの「叱るタイミングがわからない」。この事例には、それも含まれています。
 ドッグトレーナーが犬をしつけるとき、「その場できちんと叱る」のが鉄則です。もちろん、犬と子どもがまったく同じというわけでは決してありません。
 しかし、まだ「年端もいかず判断力が備わっていない子ども」が悪いことをしたときには、「その場で叱らないと、叱られている意味がよく分からないし効果もありません」。「その場で叱る」から、「やってよいことと悪いことの判断ができ、それ以降やらなくなったり(することを控えたり)、判断力がつく」のです。それは「判断の基準が理解、認識できるから」です。
 「人前で叱ること」を控える方法は、「小さいころ叱られて既に判断力がついている大人向けの約束事」です。人前で叱る(叱られる)のが嫌なら、叱らなくてもよいように、ふだんから家庭でしっかり躾しておくべきです。そうでなければ、その子の教育は永遠に成立しません。
 最近は、「叱られないまま」育って「善悪」の基準や「是非」の判断力がなく、反省もできない人が増えているようですが、それがモンスター・ペアレンツの温床になっていると考えられませんか? 子どもはひとりで育つわけではありません。 
 最後のポイント。叱り方がわからない(わかっていない)。
 「困ったちゃん」の場合、悪癖が直らないもう一つの大きな原因は、「叱り方の問題」です。M先生がふだんのようすを見ていますが、「叱られていない」のです。
 「叱った後(それも、物わかりのよい良くできた大人に言い聞かせるような様子で)、すぐベタベタ抱き合っている」という具合です。それは「叱る」とは言いません

 M先生は、教室の上級生に、よくお母さんの「しかり方」を尋ねますが、「言うことや注意を素直に聞く」子のお母さんは、「叱れば、二日も三日も口をきかないし、おやつなんかも、その間食べさせないことがある」ようです。そうして初めて、子どもは反省します。だから「言うことを聞くようになる」のです。
 「お母さんは、それからどうするの?」とM先生が尋ねると、「そのうち忘れてしまう」と子どもは言います。しかし、先生はそうじゃないと考えています。「彼は注意を守れるように育ってきている」からです。
 M先生は、「お母さんは、『彼が、お母さんの言うことを理解して、本当に反省しているか』を見きわめているはずだ」と言うのです。だから「未だわかっていない」と思うと許さない。彼のお母さんは、「『わかった?』、『わかった』」ということばだけで済ませていません
 こういうふうに家庭と先生が指導法を理解し合い、指導方針が整ってはじめて、「注意を守れる・言うことを素直に聞く」子が育ちます。
 M先生の塾生の一人、京大へ進んだAR君のお母さんが、「小さいころ、可哀そうなくらい叱った、それでよかったのでしょうか? 」とM先生に問いかけたことがありました。
 「最高です」。先生の答えです。先生は続いて、あるエピソードをAR君のお母さんに伝えました。
 AR君の進学校にM先生が挨拶に行かれた時、その学校の先生の中に、M先生のことを知らない人がいたようで、旧知の先生に尋ねました。尋ねられた先生の紹介セリフは、「あの、AR君を育てたM先生だよ」。彼は500人以上いる学校で、先生方の間で「あのAR君」で通用するのです
 指導者と保護者相互の理解と協力と信頼がなければ、悪い癖や習慣は絶対直せません。治りません。学力(学体力)は実につきません。M先生の結論です。


勉強のできる子を育てるには②

2016年11月19日 | 学ぶ

「叱って、褒めて」育てる
 (今週は約10年前の写真を掲示してあります。OB諸君も懐かしい想い出を振り返ってください。)
 「知っているようで知らないことがたくさんある」。
 前回子どもたちの「環覚」の育成について、お父さん・お母さんも「知らないこと」がたくさんあるから、それらを「子どもと一緒におもしろがってほしい」。それが子どもたちの環覚を育てるきっかけになる、そうアドバイスをしました
 「知っているようで知らないこと」に起因する問題点は他にもあります。「知っているようで知らない」のは、視点を変えて見れば、「もの」を見たり聞いたりしても、「それらを、一度自らの頭の中に落とし込んで振り返ってみない、考えない」。その結果です

 よく目にするエクササイズや健康・食事のアイデアに限らず、「子育て」や「受験」・「教育」に対するアドバイスも、マスコミでは多くの場合、「短い指示」や「箇条書き(まとめ)」の形で伝えられます(あるいは、聞いて、そう覚えてしまっています)。
 「知っているつもりで知らない」理由は、そうして聞いた「結論」や「まとめ」をもう一度「自分なりの理解と結論に至るまで考えていない」からです。自分なりの「解答」を出していない。「ほめて育てる」も、その一例です。
 日ごろの「どうでもいいような噂話」や事件であればいいですが、子どもの一生に大きくかかわる教育やしつけ・指導を、同じようにかんたんに、いずれにしろ「右から左」で済ませることはできません。ところが現実は、よく考えもしないで、結論やまとめだけをそのまま無批判に受け入れたり、逆に聞き流してしまったり。そんな事例が多いのではないでしょうか。
 先述の「子どもは褒めて育てるのが良い」も、類の本や学説が出れば、「子どもの性格を見きわめること」・「自らの小さいころからの経験をよく振り返ること」もなく「叱ること」を傍らに置き、「ほめること」を金科玉条に、指導したり育児したりする、という具合です。「子どもも親もひとりひとりちがうのに」です。一面的で、実際の状況に照らし合わせて考えるということがありません

 「ほんとうに勉強ができる子を育てたい」、あるいは「後悔しないように子育てをしたい」のであれば、ことはそんなに単純ではありません。「あなた任せ」ではなく、もう少し努力が必要です。
 冷静に考えればわかることですが、子どもはすべて「0から学習しなければならない」わけですから、「一回でできる」あるいは「一回でわかる」というようなことは、ほとんど考えられません
 言っていることを理解させたり、むずかしいことを考えさせたり、できるようにしたい、あるいは知らぬ間に身についてしまった習慣などを修正しようとすれば、数回、数十回、時には何年間もかかる(指導しなければならない)ことがふつうでしょう
 その過程において、「『褒める』だけで指導が成功する、望みがかなうこと」など到底考えられません。「様子を見てほめることはたいせつですが、まず叱らなければならない機会の方が断然多くなる」のではないでしょうか。
 

もう少し「ほめる意味」をよく考え、「何度やってもできなくて、叱られながら頑張って、できた時にべらぼうにほめてあげる」ほうが、子どもたちの成長にとってどれだけよいか。団で大きく育った子たちを見て、ぼくは毎年その感を深くしています。
 むやみに「ほめて育てる」だけの「片翼指導」を続けていると、子どもたちは、当然次のように育ちます・・・たいてい「甘えた!」で、最後まで我慢してがんばることができない、そのくせ年齢とともに「口だけ生意気」になり、「人の言うことを素直に聞けない」・・・等々
 そのまま中学生や高校生になって、周囲は少し「異変!」を感じてアタフタするが、時すでに遅し、片翼で低空飛行、墜落目前。そういう事例が多いのではないでしょうか。
 

「子育て」は、「誰か」や「どこか」や「ベストセラーの本」のやり方を踏襲するのではなく、「自分と自分の子のやり方」が、それぞれの親子(家庭)の原則になります。また、さまざまな子どもの成長を何十年見つづけていると、「親が『楽』をすればするほど、一方で子どもの成長は損なわれていく」ような傾向が大いにあります。「楽」はできません。
 子どもと子どものようすに日々しっかり向き合い、たとえば、「水が足りないな」とか「日当たりが悪いな」とか「土が固まってきたな」とか、以前も言いましたが、お百姓さん(あえていいます)が、農作物を大事に育てるような「目配り」「気配り」で育てるのが「最善最高の育児・子育て」だと思います。その「親の目配り・気配りを、ちゃんと自分のからだに取り入れる」ことで、子どもは立派に育ってくれます。原点に返りましょう。

「『自ら理由を考えて』取り入れること」のたいせつさ
 もう少し考えてみます。「受け売りのほめて育てる」を金科玉条にすることに苦言を呈しましたが、それらのアドバイス(この場合は子育ての)について、「それぞれ自分なりの理由付けや根拠を考えてみること」で、その大切さや必要性が納得できます。アドバイスが機能します。

 たとえば、「朝ご飯を食べることのたいせつさ」が話題になったことがあります。
 「朝ごはん」をちゃんと食べよう(食べさせよう)と思えば、当然早く寝ることを心がけ、夜遅くに飲み食いすることもなくなります。子どもは早く寝なければいけないし、ご飯の用意をする親も夜更かしはできません。生活のリズムが整うわけです。
 早寝して、朝、目がきちんと覚めれば、つまらないもめごとや言い争いも減り、あいさつや会話もさわやかで、どちらも「余計なストレスのない状態」で学校と会社に向かえます。「心の構え」ができます

 ぼくたちの身体は常時、交感神経と副交感神経によって、活動と休息のリズムが整えられています。活動(戦う)リズムとパフォーマンスは交感神経に支配され、休養したりそれらを回復したりするリズムは副交感神経の支配領域です。
 自律神経失調症(状)は「そのリズムが乱れること」によっておきますが、活動状態と休息状態のからだのしくみは逆ですから、リズムが乱れていては、それぞれのはたらきが機能せず、十分にパフォーマンスできません。朝ご飯を食べない状態ではエネルギーの供給も不足し、頭も働きません。その積み重ねが子どものからだと頭(脳)の成長を大きく左右していくことになります。
 また「朝ご飯」を食べる習慣は「当人の時間に対する意識や自覚」を目覚めさせます。つまり「時間を守ることの習慣づけ」です。「時間を守る」、こんなたいせつなことはありません。時間さえ守れないのに、学習習慣が確立するわけはありません

 このように「『学習ができるようになるには朝ごはん』という短いアドバイス」の「理由としくみを自ら考えて納得すること」で、そのたいせつさが自覚でき、習慣化しなければならない意味も腑に落ちます。また、その理由を子どもにも伝達できるので、次第に子どもたちも納得するようになるでしょう。「押しつけ」にはなりません。
 以前紹介した、「湯川秀樹博士のお母さんが、どんなことでも、いつも湯川少年の目を見てきちんと説明してくれた」というのは、そういう応答の状況だったのではないかと推察します。
 ところが現状は、先ほどの「ほめて育てる」金科玉条のパターンもそうですが、テレビやマスコミで「よい方法」と喧伝される「結論やまとめ」を、無批判無反省に形だけ取り入れる(振り返って考え、その理由やしくみを納得しないまま)のが一般的だと思います。「その理由を自ら納得しない、理解していない、考えていないのですから、効果はなく、説得力もありません。機能しません。

 子どもたちの指導方法やアドバイスは、自らしっかり理由を考え、納得して、取り入れることが何よりたいせつだと思います。そして「素晴らしい子を育てる」には、湯川博士のお母さんの実践のように、それぐらいの努力と責任が必要になるということです。「よく考えないまま!」では、アドバイスもしっかりした意味をもちません。
 こうして振り返れば明らかになるように、子どもの「より良い成長」に必要なことは、決して塾にやることや有名校に進学させる「押しつけ」ではなくて、「自ら進んで有名難関校に進学するよう育てること」です。「夢中でやってたら、子どもがいつの間にか最高学府に」、そういう「日々の一生懸命さ」や、いわば「子育ての落穂ひろい!」がたいせつになってくるのではないでしょうか。

スッポンが教える授業
 学ちゃんも教室の中央にある水槽にだいぶ慣れてきて、授業をしている最中も、祠から顔を出し、長い首を伸ばして鼻先を水面に出し、息継ぎをするようになりました。飛鳥で採ってきたタニシやカワニナより、近所のスーパーのシジミがお気に入りで、きれいに貝殻を開いて食べています。「餌になるのでは」と思って一緒に入れた沢蟹や小金にも興味なし。逆に、沢蟹に顔を挟まれたり、タニシに顔にのっかられたりして迷惑そうにする(写真)のが、なんともほほえましい限りです。
 

その学ちゃんですが、一挙手一投足が子どもたちの関心と興味の的で、それらが「環覚」育成のよい材料にもなります
 寒くなってきたので、先日温水ヒーターを入れると、次の日水面近くに浮きあがってくる金魚が見られるようになりました。数が少ないので子どもたちにはわからないほど微妙な変化なのですが、よい機会だと思って、その原因を質問します。「パクパク口を水面に出すやつが出てきたのはなぜか? 」というわけです。
 さまざまな意見が出ましたが、正解が出ないのでヒントを出します。「キミたちも夏に経験した(見た)ことがあるし、理科の授業で先生も言ったことがあるよ。・・・ヒーターを入れるまでは22、3度だったが、25度にあがった・・・」。

 正解は「水温が上がって残存酸素が少なくなってきたから」。水温が上がると、水に溶ける気体の量が少なくなる、という事実が、単に受験問題の字面でなく、「現実の印象」として残ります。何気ない日々の中でも「覚えるだけではない指導」「受験問題解法に終わらない授業」がこうして成立します。
 団の日常です・・・夏期講習の合間(夕方)には近所の神社へ行って蝉の幼虫を捕まえ、教室のカーテンにとまらせ脱皮を観察します。前栽の植木の手入れでは梯子にのぼって、上から葉や枝ができるだけ日を受けるように生えている様子を観察します。植木にホースで水をやるときには虹をつくって見せます・・・。日常の中で、こうして学習や学習内容に関係のあることに目を向けることによって、学習する意味や学習していることのおもしろさが次第につかめるようになるというわけです。
 「キミたちが学習(勉強)していることは、決して受験のためだけじゃないんだよ」と教える、そして「自ら納得できること」が、学習のモチベーションを保つ「下支え」になります

アラモ、他
 今週のDVD推薦は、まずジョン・ウエインの「アラモ」です。西部劇だけに限りませんが、先住民の問題など様々な政治的要素や思想などが絡んで、「作品をきちんと評価されない(できない)」ことも多いようです。そういう要素を過大に評価に反映させれば、「評価できない」ものがほとんどになります。「七人の侍」や「羅生門」などもそうですが、ほとんどの映画作品に人殺しの場面や残虐なシーン、理不尽なストーリーが存在するわけですから。

 デマゴーグやキャンペーン映画は別ですが、すべての芸術作品を、もっと透徹した目で、良いものはよい、おもしろいものはおもしろいと純粋に楽しめばよいのではないか。そう考えます。すべてに「しがらみ」はあります。
 本質から離れた些細な一面を取りあげ云々することより、もっと目を光らすべきは現実です。無責任なその場限りの意見やおべっかを吐き散らかすタレントやマスコミ報道・バラエティ番組の方がよほど悪影響があるのではないか。
 視聴率をとること、好感度が上がること。それらを第一目的にしている放送に、「美しいもの」、「ほんとうのこと」、「何が正しいか」などを正確に伝えるよう望むことはできません。自身の確かな「眼」と冷静な判断力が必要です。そして、そういう眼が、あらゆる作品の鑑賞や評価を可能にするのだと思います。

 「アラモ」は西部劇では、「シェーン」や「荒野の七人」などと肩を並べる評価を受けてもよい作品だと感じました。ジョン・ウエインの作品は駅馬車や捜索者など他に多数の世評の高いものがありますが、ぼくは「アラモ」を評価します。
 後三作品です。「セブン」はマニアックですが、モーガン・フリーマンが古参刑事の良い味を出しています。相手役の刑事はブラッド・ピット。

 「ラストベガス」と「ミスティック・リバー」は、ストーリーやテーマがまったく異なりますが、どちらも幼なじみが数十年の後、巡りあう?物語です。「ラストベガス」はフリーマン初め、ロバート・デ・ニーロなどアカデミー賞受賞の名優4人が出演します。「洒落たカフェで、昔元気と羽振りがよかったおっちゃんの自慢話を聞いてるような」、と言えばよいでしょうか。


 また「ミスティック・リバー」の方はクリント・イーストウッドの制作(本人は出ません)で、「悪ガキたちの末路」です。


勉強のできる子を育てるには① 「漂う埃」が学習の初め

2016年11月12日 | 学ぶ

 勉強(学習)ができるようになってほしい。お父さん・お母さんの念願です。実はかんたんなことです。そういうと驚かれる方がいるかもしれません。少し考えてみましょう。

 現状、子どもたちの学習(勉強)は、文字と文字で書かれたもの、テキストを中心に行われています。そしてそれがふつうだと思われています。果たしてそうでしょうか? はじめは文字なんかありませんでした。子どもたち(人)は、最初文字から学んだのではなく、「ものを見て学んだ」のです。
 小さいころは「あれなに?」「なんでなん?」とか知りたいことがたくさんありました。だのに、いつの間にかそういう疑問や不思議が少なくなり、興味をもたなくなってしまう。テーマパークやゲームに時間と好奇心と関心をとられ、いろんなものに興味をもっていたことさえ忘れてしまう。それが現代の多くの子の成長の過程です。その錯誤を再確認する機会がありました。

 KAEDEと電車に乗っていた時のことです。窓からの射光線で、カエデ(2歳)が微小な埃があたりに無数に漂っているのに気づきました。そして不思議そうに「これ何?」。
 ぼくは、埃だということを説明してから、座席をポンとたたきました。KAEDEは一面に舞った埃を見て、自分もトントンと席をたたいて、その様子を一生懸命見ていました(なお、特急の指定スペースだったので、他の人は近くにいません)。帰りの電車の中で席に座ると、一生懸命何かを探し、伝えようとします。「埃のこと」だと気づいた僕は、夜の暗い照明の中では見えにくいことを一生懸命説明しました。それが勉強と何の関係があるん? そう思う人がいるかもしれません。大いにあります。

 こういう観察力は、小さな子たちの多くが持っています。そして知りたくてたまらなくなる機会が生まれます。ぼくたち大人は、「舞う埃」を見たら、「汚い」とか、「吸ってはいけない」とか思うだけですが(気づかないだけで、ふだんもあたりにはたくさん埃が舞っているのに)、子どもたちは見るもの、聞くもの、触れるものすべてが「知らないことだらけ」です。それはつまり、知りたいことだらけです。興味があることなのです。「埃」でさえそうなのです。
 ところが大人はそれらを忘れて、別の価値観(たとえば触れば汚い。害になる。吸えば健康に良くない等)をもちだし、「知っているつもりのまま、闇に葬り」それに気づいた子どもの不思議や疑問を「封印」してしまっている。そうではないでしょうか? 
 子どもが気づいた「知りたいこと」に、いつの間にか自分の価値観を押し付け、子どもの疑問を「なきもの」にしてしまう。 そうしてせっかく生まれた子どもの「学びのモチベーション」をつぶしているのです。それが重なると、子どもの学びのモチベーション、好奇心は大きなダメージを受けます。 同様のタイミングについては「ほろ苦い思い出」があります。

 高校時代、ぼくが東京教育大を志望した理由は、以前述べたように、田舎の進学校に来られた国語の先生の影響でした。教科書に出てくる小説家や学者のことを「さん」付けで指導する授業方法や、読書量に裏打ちされた教養などが当時のぼくを圧倒し、大いに刺激されたからです。  
 まだ僕の読書量が整わず読書経験が少なかったある時、A Farewell to Armsというタイトルに興味をもち、「『武器よさらば』のヘミングウェイってどうなんですか?」って聞くと、言下に「つまらんよ、ヘミングウェイなんて」。
 「何も知らなかった無知なウサギ」は、カフカの読書家でニューレフトの論客のその一言で、ヘミングウェイに対する「読書欲!」を喪失しました。そのことを振り返って、ぼくはむやみに知的対象に対する自分の評価や価値観を「押しつけてはいけない」と自省しました。

 子どもたちの「学ぶ意欲」や「知りたい意欲」モチベーションも、よく似た状況じゃないでしょうか。自ら知りたいという欲求を持ち出したとき、いつも一緒にいる信頼している親や指導者がその対象を「無視」したり、「否定」することによって「学習や追求するモチベーション」を喪失してしまうことが多いはずです
 そして、自ら欲求したわけでもない、意味が分からず、当座は必要性も感じられない「学習(勉強)」に「埋没」させられてしまう。つまり、「好きでもない勉強に外からの価値観を押しつけられて『追随』しなければいけない状況に陥ってしまう」というわけです。

 こうして振り返ってみると、次につながる、発展的な学習に進む意欲や学習姿勢を「整える」には、「埃の疑問」のタイミングを逃さず、活かしてあげること。それによって「自ら知りたい欲求」や「学びのモチベーション」が駆動する大きなきっかけになると考えられます。それらが駆動し始めるまで根気よく丁寧に対応すれば素晴らしい結果が得られるでしょう。

子どものような親が優秀な子を育てる
 立体授業は、いつもいうように、行動すべてが、子どもたちへの授業になります。

 今回の「ミカン狩り」はちょうど秋です。それぞれの季節の生物や風物を背景に、春から始まった今年の立体授業がこの授業ともう一回の化石採集で終了です。今回は季節柄、紅葉や黄葉について考えてみました。常緑樹と落葉樹の対比で、進化の上でどういう意味をもっていたか? また、なぜそうなったか等です。
 子どもたち(ぼくたち)の身の回りには、どういうものがあり、日々の生活や人生とどうかかわっているか。その成り立ちとしくみはどうなのか? 先述のように、そういう物や事に対する関心(環覚)を呼び覚ましてこそ、子どもたちの「学ぶモチベーション」が駆動するきっかけになると考えています。

 もちろん一度や二度の指導や授業参加で成立するわけではありません。教育や指導は、よくみんなが騙されますが、「手軽に」や「おもしろいほどよくわかる」という惹句とは無縁です。何度かの春秋を過ごして、ようやく「芽生え」が見られます。
 やがて、そういう印象が心に残り定着し、以降の授業や体験のタイミングで顔を出し深さと広さを増してくることになります。脳内をイメージすれば、印象や知識の枝葉が網の目のようにつらなり、それらがあるものごとを考えるときのバックグラウンドになるはずです。工夫や創造もそうして生まれてくるのでしょう。 また、そうしてできあがったスキーマが次の対象をとらえる機能をし、新たな疑問や発見・発想が生まれることになる、「学習」や「考えること」はその連鎖です。

 成長時、片一方では、抽象的な受験の「超難問」繰り返し演習に埋没し、学習するおもしろさや役割、学ぶことの手ごたえの手に入らない子(ほとんどの子がそうでしょう)が生まれ、一方ではファインマンや先週の村上さんのように、小さいころから「環覚」を養い、不思議やなぞの考察と解答をモチベーションに、そしてそのモチベーションのおかげで、学習(勉強)はそれほど苦も無く(意味が見つかる故)すごい成長をした人がいるわけです。これらをすべて「天才のせいに単純化する」のは大きなまちがいだとぼくは考えます。

 子どもに芽生えた「知りたい心」をつぶさない、その「芽」を丁寧に育てることで、可能性あふれる若者がどんどん育ってくるはずだ、ぼくはそう信じています。大人は往々にして全部「知ってるつもり」でいたり、「そんなに面白いことはない『ただの草』や『気色の悪い虫』という固定観念」に支配されています。そして、たまに面白いことを知っても、「そう、おもしろいね」という気の抜けたサイダー感覚ですが、子どもはそうではありません。知らないことだらけですから、おもしろさを知ったら、すごいパワーが生まれるはずです。その「環覚」を養うしくみが、今の多くの子どもたちの学習環境・教育環境では機能していないだけです

 ちなみに子どものようなお母さん・お父さんの子に「好奇心あふれる子が多い」ことに気づいた先生はいないでしょうか? お父さん・お母さんが『おもしろいこと』に気づけば気づくほど、子どもの好奇心が育つことは十分想像の範囲内です。
 「むし?しょうもない!」、「ただのチンケナ草やんけ!」。そういう環境から、興味や好奇心あふれる子が育つはずはありません。学習ができる積極的な子が生まれることも可能性が低いでしょう。「遊び心」をとりもどす。まず、お父さんやお母さんが、子どものような感性で「周囲のものや変化におもしろがれること」、「一緒に夢中になれること」、それが優秀な子に育てる階段の「最初の一段」だと思います
 

A Farewell to  Love

 さきほど、「武器よさらば」の想い出について触れましたが、そういうわけで、ぼくがヘミングウェイを読み出したのは、もう「いい歳」になってからでした。その後、塾を始めるようになって、京大へ進んだ西大和学園のY君の「英文解釈力」増強のために、「The Old Man and the Sea」を一緒に読んだというわけです。
 「老人と海」の原作を読んで、ヘミングウェイの英文の明晰さにびっくりしました。時々聞こえない舌足らずの朗読を聞いているような「もどかしさ」が霧消しました。最近、やはり、翻訳より原作を読んだ方が数段すばらしいものが多いという思いがますます強くなっています。英語を読むように方向づけてくれたY君に感謝です。

 DVD、今週はゲイリー・クーパー主演の「武器よさらば」と、リメイク版ロックハドソン主演のものを紹介しておきます。
 原作の脚本化では解釈のちがいにより微妙に異なる作品が生まれることは当然なのですが、あえて両者の出来あがりをたとえれば、ゲイリー・クーパーの方は「よくできた写真集」で、「ムービー」としてはロック・ハドソンの方だなと感じています。
 どちらも古い映画で、現代映画のような「スペクタクル」は期待できませんが、記憶からさえ消えてしまった(!笑い)「打算のない一途な女性の愛」を思い起こさせてくれます。

 「普通の人々」は、リアリスティックで暗い映画ですが、愛の在り方を再考させられます。そして、この二作(三作)には、約50年という制作時期のちがいによる、両社会の人間性や男女の愛の在り方の変化が見事に現れています。
 ほんとうの愛が成立しなくなって久しく、底の浅いもの、欲得がらみのものであきらめざるを得なくなっている(あるいは、当人がそれにさえ気づかない)哀しい、情けない時代を反映しているようです。時代は「A Farewell to Love」かもしれません。
 「普通の人々」はロバート・レッドフォード作品ですが、彼は個人生活では寂しいのではないか(余計なお世話ですが)と思いを巡らせています。この映画、途中しんどくなるし、元気も出ませんが、やはり名作なのでしょう。ぼくはもう一度、A Farewell to Arms を読むことにします。乾いた空気感がよく感じられる出だしです。
 


うそじゃありません⑭ 宇宙はなぜこんなにうまくできているのか

2016年11月05日 | 学ぶ

 今週は、立体授業「ミカン狩り」のスライドを一部紹介しています。
 一週間くらい前から、写真掲示の本を読んでいます。村山斉さんの本は、科学や物理に疎い人にも、なんとか最先端を伝えたい、わかってほしいというやさしさにあふれています。  

 「他の本ではなかなか理解がむずかしいこと」や「子どもたちが知りたいこと」、「知っておかなければならない問題」のピックアップがすばらしく、「学体力」が身についた子どもたちを次のステージに向けるには最適だと思います。
 なかでも、「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」(集英社インターナショナル)と「宇宙は何でできているのか」(幻冬舎新書)の二冊はぜひ読ませて(読んで)ほしい本です。難解な問題も身近な例に引き寄せてわかりやすく説明を重ねられています。ファインマンの幼時、お父さんが膝にのせて行った説明や指導もこれに近い方法ではなかったか。彷彿させます。
 わかりやすい学習指導を考える先生方には大きな力になってくれるでしょう。理科の先生方はもうよくご存知かもしれませんが、小さな子どもたちを教えている先生は是非一度手に取ってみてください。

「育った環覚」と「育っていない環覚」
 さて、その中の一冊に、いつも話している「環覚」と環覚養成の大きなヒントになる一節がありました。
 まず、「身の回りには不思議なことがたくさんある。その多くは意味が分からなくても困ることがない、だから見過ごしてしまうことが多い」とあります。(「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」村山斉著 集英社インターナショナル 以下はp10~11の記述による・文責南淵)
そして、

 でも、いったん頭の中に「なぜ?」という疑問符が浮かぶと、がぜん好奇心が湧いてきます。そうなったら、目の前にある『不思議』を解き明かさずにはいられません。少なくとも、私はそうです。
 たとえば私は小学生時代、炭酸入りのジュースを飲むときに、ストローが浮かんでくるのを不思議に思いました。最初は沈んでいるのに、だんだん浮かんできて、いちいち押し込まないと飲めないので、とても鬱陶しいのです。
 これは納得がいきません。水に沈むものはずっと沈んでいるはずですし、水に浮くものなら最初から浮いているはずです。
 そこでストローをジーッと観察したところ、理由はすぐにわかりました。・・・ 
(前記書 p10・下線は南淵)

 つづいてもう一つ、村上さんの小学生時代の「発見」を紹介しておきます。
 「小さいころスーパーのレジ袋をぶら下げて歩いていると、やたら大きく振れだしたり、振れないことがあるのはどうしてか」という疑問でした。そして考察・解明です。
 
 いろいろ試してみた私は、歩くスピードを遅くしたり、袋の取っ手を指に巻いて短くしたりすると、大きな揺れがピタリとおさまることに気づきました。
これが振り子の「共振現象」と呼ばれるものです。音の「共鳴」も同じ原理で、振動しているものに外から同じ振動が加わると、振動の幅が大きくなる。だから、歩くテンポと振動のテンポが同じになると、レジ袋の振れ幅が大きくなるのでした。
 (前記書 p11)

 村山さんは、小学生時代、こうした『不思議』に対して既に目ざとかった(目ざとく成長していた)のです。「なぜ」を問いかける『環覚』が育っていたのです。
 それは、村上さんが能力はもちろん、お父さんやお母さんあるいは教育環境(人に限らず、読書習慣等もすべて含めて)に恵まれ、それらの不思議に「注意を向ける」「観察」習慣や知識のたくわえが整っていたからです。小さいころからの指導や環境の中で、周囲の不思議やなぜに対して、「見る」「考える」という環覚が定着していたのです。
 ぼくが問題として取りあげているのはこの点です。現状(過去も)、子どもたちのほとんどは「身の回りを見て、頭の中に「なぜ?」という疑問符が浮かぶような状況にはない、そういう存在には育っていない(育てていない)という問題です

 村上さんがおっしゃるように、そうすれば「俄然!子どもたちの好奇心が湧いてくる」のに(はずなのに)、学習指導の過程で、相変わらずそれらの方法論の研究も方法の企画もされず放置されたまま、多くは「一面的に特化した」学習受験指導が反省なくつづいたままです
 自然環境はもちろん、身の回りには、「おもしろいこと」が転がっている。受験学習内容だけではなく、周囲にはもっとおもしろい学習対象が、「ハロウィンの仮装行列!」や縁日の出店のように、周りを取り囲んでいる・・・そんな現実を知らせてあげれば(気づくようにしてあげれば)、優秀な研究者やノーベル賞学者が今後輩出するだろうとは思いませんか? 
 「先端科学技術!」に目を取られるばかりではなく、まず「それらの科学技術を可能にした前提」に気づくこと。「科学技術遠足」を旗印に、受験偏差値をあげて「入学者数」を誇るだけの悪弊を乗り越えるよう力を合わせましょう。もっと「子供たちの科学に対するモチベーションの根源」に目を向け、「指導方法論の研究や指導方法の企画に力を注ぎましょう

腕白こそ、実は「天才」に!
 村上さんの幼少時代はわからないのですが、以前のブログ「ファインマンの父~」で考えたように、ファインマンが小さいころから周囲や自然環境の謎や不思議について、お父さんと一緒に観察・考察をすすめる機会があり、自らの謎(おもちゃのワゴンに乗せたボールの動き等)を見つけたことを振り返ってください。
 自ら注意を向けたり不思議を感じたりするには、多くの場合、その成長過程で何らかの「きっかけ」がなければならないはずです。興味や好奇心を目覚めさせる「きっかけ」です

 ファインマンや村上さんが、自然環境やこうした身近な「謎」の考察から始まり、宇宙や量子論の研究にまで至ったという「成長過程」にきちんと目を留めておかなければなりません。『成長過程』にこそ秘密があります。
 観察対象が何であれ、自然や周囲に対する不思議の気づきや考察から「科学的」成長が始まる、考えることが始まる、という「学習指導者の余裕」が「大学合格で終わらない成長」を後援します。不幸なことに、現在は、こうした「環覚」を身につける指導環境の重要性が看過されすぎです。意識的にこぞって導入しなければ事態はずっと闇の中です。
 当たり前のことかもしれませんが、ぼくたちはだれしも、自分が育ってきた環境しか知りません。余所の家庭で子どもがどう育ったかなどのくわしいことは知る由もないし、自分が他の家で育てばどうなっていたかなど、一生懸命考えることはありません。

 村上さんも、「ストローの件やスーパーのレジ袋の動きについて意識を向けること」が、それなりに指導や環境が整った家庭と「過程」がなくては、ふつうはありえないということが、おそらく想像しきれないのではないでしょうか。ふつうに気づき考え出せた自分しかいないからです。
 しかし、現場で子どもたちを指導しているぼくたちは全くちがう部分を見ています。
 極端に言えば、朝から晩まで宿題や塾に追われ、残る時間は「考える暇なく」ゲームに明け暮れる子どもたちが一隅を占めている。もう一方には、学習指導が正常に進行していない中、遅れ遅れで勉強がおもしろくなく、朝から晩まで、「手を変え品を変え」、やはりゲームやカードに明け暮れる子どもたちが固まっている・・・。そして、特に僕は、そのなかで可能性にあふれた子が「無関心という泥にまみれている」のをたくさん見てきました
 子どもたちを指導するうえで、大きな問題は、少子化で子どもが少なくなっている中、一方では前回・前々回にもふれたように3・4歳という小さいころから「みのりの少ない受験知識や問題解法だけ」の学習に明け暮れ、受験合格のみにターゲットを絞る勉強や学習指導が、どういう成長を生み出すのか。ゲームにうつつを抜かし周囲や自然の不思議に目も留めない(目も留まらない)子が、成長後、「急に」知的好奇心にあふれ様々な問題解決に勤しむ、ファインマンや村上さんらのような優れた科学者に生まれ変われるのか、ということです

 村上さんが気づいたような、ストローやスーパーのレジ袋の不思議に気づける子が育つ環境や指導は、一般的にはほとんど見られません。時々「とってつけたように」導入する科学館訪問や先端科学紹介を否定するわけでは決してありません。
 しかし、その前に「それらを導入することを見据えて、」もっと「環覚」を養成し、村上さんのように「日常的に科学できる」ようになって初めて、その種が実り、子どもたちの成長と大きな飛躍が始まると思うのです。日常の謎、日常の科学、そして気づく目が備われば、「大学のランク」の低下を嘆くようなことは、今後まったくなくなるのではないでしょうか。

前引用の二つのエピソードの後、村上さんは、こう述べています。

 どちらも( ストローのことと 南淵・注)ありふれた現象ですから、特に疑問を抱かずにやり過ごしている人のほうが多いかもしれません。しかし、人類は昔から、こうした日常的な「当たり前」に好奇心の光を当て、それがどのような原理で起きるのかを解明してきました。そんな行いが、さまざまな科学を発展させてきたのです。
 (前記書 p11~p12 下線は南淵)
 
 やはり「日常的な当たり前に好奇心の光を当て」ることを強調されています。ぼくたちが指導して身につけさせなければならないことは、「日常的な当たり前」に目を留めること、つまり「環覚」の養成です
 「家に閉じこもって受験勉強とゲームで遊んでいるばかり」ではなく、外に出て「やんちゃ遊び」をし、さまざまなものに目が留まり、考えられるようになること。それが科学を発展させ、天才を導く道のはずです。「『腕白』こそ天才に」、その思いがたいせつだと思います。
 
映画と童謡
 「コロラド」と「ロンゲスト・ヤード」と「キューリー夫人」(原題ママ)。今週は三本を推薦しておきます。
 クリント・イーストウッドのある作品(あえて名前は伏せます)を見て、その一本をどうしようかと迷ったのですが、「あるレベル」の映画をつくれてしまう、イーストウッドの映画作りに慣れた「受ける要素」満載の「アザトサ」が目につき、今回はパスをしました。

 戦争で精神的なバランスを崩した兵士というテーマはベトナム戦争映画でよく使われましたが、「コロラド」は南北戦争の激戦で精神のバランスを崩した大佐と、友人だったその部下の物語です。
 「ロンゲスト・ヤード」は、極悪刑務所の看守チームといつもいじめられている囚人のチームがフットボールで対決する、という奇想天外な物語です。「キュリー夫人」は女性科学者の半生を淡々と描いています。

 ここ一年ばかり、若いころの夢を追いかけ映画DVDを見続けていますが、中には相変わらず小難しくて、理屈っぽい映画もあります。映画であんまり考えたくないので、そういう映画はすぐパスすることにしています。映画を「芸ジュツぽく!」作るのではなく、「映画」をつくったら芸術作品だった、と作ってほしい。それが芸術性だとぼくは思います
 若いころはちがったかもしれませんが、映画は「童謡」か「懐メロ」みたいだな。そう思うことがよくあります。懐かしく、時に心をかき乱されるもの、ほのかな思い、後悔や喪失感・・・。いずれにしろ、おかねでは買えないもの…。それらを思い出させてくれます。
 人生は、そんな「お金では買えないもの」を、どれだけ手に入れられるか、の旅路ですね。ちょっとキザになりましたが、年をとった今、ますますそう思います。