『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて ⑧ 

2017年12月30日 | 学ぶ

「入試問題実践テストの意味」
 団では受験する子のために、また受験しなくても、中学進学時に同レベル以上の学力を身につけて送り出したいので、冬期講習も行います。冬期講習は団員諸君の志望校、また同等以上の入試問題を利用し、各科目・各単元の全体的なバランスや問題レベル・問題内容を考え、同条件で入試実践テストを行っています。
 実践テストをする大きな意味のひとつは、受験のときに、ふだんの実力を十分発揮できるようにできるだけ平常心に近い精神状態で受験させたいという思いからです。まだ塾を始める前、長男の受験指導をしていて、「手が動かなかった」と青い顔をして出てきた姿を忘れることができません。受験場での緊張感「退治」には、「できる限りの努力をしたという確認(不合格であれば、その努力が足りなかったという真理に向かい、次に備える)」と「試験という特異な状況に対する慣れ」。指導すべき最善の対処法です。
 14回の入試実践テスト。入試問題選択基準は、志望校と、やや難度の高い学校のテスト。「どの時期にどこの問題をテストするか」毎年スケジュールを組み立てます

 
 まず難度の高い学校の問題からはじめ、その時期に団のOBが受験したのと同一問題を使い、個人の最終の学力把握に役立てます。その結果が受験までの学習指導の大きなポイントになります。講習中盤から各年度の団員の実力・志望校に応じた過去問を、難易度・問題傾向・バランスを見ながらテストし、実戦の勘を養います。
 なお、団では授業中あるいはテスト中、時計などを見ないよう指導しています。教室にも時計はありません。チラチラ時計を気にしながら集中できるとは思えません。授業には目いっぱいの集中力が必要です
 そうした日々と、毎月の学力コンクールや今回のような冬期講習の入試実践テストを通じて、子どもたちは、テスト時間をきちんと「感じられる」ようになってきます。「時間内」に力を十分発揮することができるようになるわけです
 入試直前、最後の実践テストは、「少しやさしめの学校の入試問題」です。このレベルは一回だけです。やさしい問題をたくさんやっても、精神状態(心の構え)にはよくありません。少し緊張感がほぐれ、心の余裕ができれば、それで十分です。必要なのは適度の緊張感です。
 もちろん、これら実践テストをして終わりではなく、明らかになった、理解の行き届いていない個所や不得意部分に対して、別のプリントを用意し、スクランブル授業も行います。こうして不足部分を補っていくわけです。
 さて、大手の受験塾の一年間の授業料は120~150万円(!)と高額(うらやましい)のようですが、受験指導は家庭だけでも十分(以上)可能です。「要」はその方法と学体力の養成です。


 期間は二年間もあれば十分、もし難易度の高くない学校なら一年でも十分です。もちろん、いつもお話ししている、「人の話をきちんと聞ける」、「やるべきことをやれる」、「少し我慢ができる」等の「基本的な躾や習慣が整っていれば」ですが。「がまんが出来ない」・「好きなことしかしない」というレベルではだめです。
 受験塾のバカ高い授業料不要、お父さん・お母さんでもできる「受験のための家庭学習」のノウハウを、この「夢の教科書」のシリーズが終わった後紹介します

入試直前学習の参考に― 総評例
2017年度入試実践テスト第5回「T中学校平成14年英数コース」総評
 人数が少ないので、実力を明確に判断したいとき、OB諸君との実力比較をよく試みます。今回もその一環です。平成14年度のT中学の英数コースの問題を使用しました。

 このテストは京大大学院へ進んで現在ベトナムで言語の発生の研究をしているY君(西大和学園から京都大学)らをテストした時のものです。なおY君は、別紙成績表のように、合計で311点取っています。この時同じくテストを受けたK・T君は清風標準に合格しています(それぞれ237点・220点)。得点比較の参考にしてください。
 なお、同学年のTA君は近大附属、5年生特進のYO君は奈良学園から阪大歯学部、KIさんは四天王寺、G君は清風理数合格です。子どもたちの学力面の確実な潜在能力把握は、以前から何度も紹介していますが、6年生の夏休み頃になると、はっきりわかります。
 それは学習事項の難易度が上がり、長文が増え、学習ボリュームが大きくなると、それらをきちんと整理する処理能力、つまり能力のキャパシティが明らかになってくるからです。
 
簡単な計算や文章の問題では分からなかった、ある意味、シビアな現実が明らかになります。成績が頭打ち、あるいは逆に下がってしまう場合もあります。


 5年生のKA君は「K」に通っていて、「国語が苦手」という感覚で入団しました。ところが、話をしたり、国語の授業の手ごたえから見ると、決して国語の能力が低いことはありません。「まったく問題ありません」と、入学後すぐお母さんに伝えましたが、この結果を見て予想通りであることがわかっていただけると思います。残念なことに、塾が「しょぼかった」というわけです。
 全受験者の平均点(91点)をご覧いただくとわかるように、5年生では、そのKA君くらいが「ふつうの得点」だと考えてください。昨日も伝えましたが、6年の諸君は、現在の国語の力から見て、中学進学後の読書量と学習姿勢・学習量によって、今後(中学進学以降)の成績が大きく左右されると思います。おもしろい本をどんどん読んでください。Hな本でもいいよ(時々は)。

2017年度入試実践テスト第6回「N学園中学校平成29年C日程」総評
 今年のN学園のC日程のテストです。
 近年はあまりなかったのですが、上位二人は受験前のボリュームに、少しアップアップしている様子です(YA君は真剣さが足りません。点数にあらわれているように、勉強や受験を甘く見過ぎです。「気分屋でペースを維持できない」、「好きなことしかしない」など、心構えや態度など、進学や受験以前に学習する生徒としてたいせつなことを学ぶことが必要です)。

 「アップアップ」とは、頭のなかの情報が整理しきれず(これは個人差があり不可抗力です)、なかなかクリアな頭で論理的に解答に向かえない状況になっているような場合を云います。昨日も書きましたが、わかりやすくいえば、たとえば、「散らかし放題」にしてしまった部屋があるとします。やることや片付けるものが多すぎて、集中することができない。手を付けられない。何から手を付けていいか纏まらないうちに、時間が過ぎてしまう。そんな状態です。
 F君は「このテストはテスト済み」のようで、参考成績です。しかし、それにしてはテスト後の見直しが、全く機能していません。特に、算数は一度やった受験校の問題は全問正解しないとだめです。漢字も、この時期は一度出れば、その漢字は必ず覚えていくという厳密さが大切です。
 これからはバタバタしても、しょうがないですから、まずテストに出た問題は一つずつ、すべて答えられるようにすることが最重要事です。また漢字の宿題は受験まできちんと続けないと、勘が鈍ります
 昨日のT中学の結果報告で、4年生のTさんとYOさんのこと(国語)に触れましたが、今日同一条件で同一テストをしました。その結果報告を団員諸君に渡していますので、参考にご覧ください。 

 

6年生・4年生国語学力比較参考資料
 このテストは、4年生「充実特進」の女の子が二人いるのですが、国語がよくできるので、「ぼくの指導の手ごたえ」から、彼女たちは80点くらいとるだろうと予測して子どもたちに伝えていたテスト結果です。
 26日実施。参考テストです。漢字が、まだ蓄積していないため、合計点数は80に届かなかったですが、読解力は6年生をそれぞれ約20点凌駕しています。こういうふうに国語の点数がとれる場合は、算数の方も、指導とトレーニングによって高い得点がとれるという「めど」が立ちます。ところが逆の場合は、そういうふうにはいきません。つまり、「算数はできるが国語が・・・」という場合は、その克服ははるかに難しくなります  


漢字をできるだけ早く学習しなければならない、たいせつな意味

 漢字学習の大切さについては、何度もお伝えしています。子どもたちやお母さん方にも、口酸っぱくアドバイスしてますが、「漢字学習とどうかかわってくるか」、くわしくお話しします。「なぜ漢字の習得は早い方がいいか」、その意味です
 以前日本初のノーベル賞学者湯川秀樹博士の幼年時代、おじいさんとの「素読」で漢文学習したことを伝えました。湯川博士はそのころを辛かったけれど、漢字に対しては(つまり、読むことは)まったく苦労しなかったと振り返っていました。
 「意味の関連がとらえられない丸暗記」でも、幼い子は、幼いがゆえにそれほど苦労もなく、おもしろがって覚えてしまうのは(たとえば駅名の暗記など)、広く知られていることです。そういう意味から云えば、かつての素読の訓練は理にかなっていたのでしょう。


 たとえば、中学入試で使われる問題文のなかの、小学校高学年(以上)で出てくる漢字をすべて、「黒塗り」してみてください。いかに文章の意味が取れないかが、よくわかると思いますまた、英語の不得意な人・ボキャブラリー不足の人が英文を見せられ、「読んでください」と云われたとしましょう。頑張って読もうとしても、手も足も出ないはずです。そのうちに、「こんなことやってられない」となるか、あきらめてしまうでしょう。「漢字不足で読めない子の精神状態」は、そのように想像すれば手に取るようにわかるのではないでしょうか
 中学入試くらいの難度の問題文になれば、国語に限らず、どの科目を学習しても、そうした「漢字のハードル」が待ち構えているはずです。「読解力は、文章を繰り返し読んでこそ身につくもの」なのに、そのはるか以前の段階で、「飛び越えられないハードル」があり、「競技にさえ参加できない」わけです


 「文字のストレス」がなくなってはじめて、読み続け読み重ねることができます。読解力が身につきます。「漢字が読めないと、読解トレーニングそのものができない」、いわば「練習」でさえ嫌になってしまうわけです。こういう意味から、最低、小学校学習漢字については、できるだけ早い段階で身につけておくことがベストです
 受験レベルの難易度が上がると、条件や解答までの道筋がとらえにくい、さらに「意地の悪い?」文章を読まなければならなくなります。読むことに慣れてなくて苦手な子は、読んで考えるまでいくことが、まずできません。つまり、漢字がわからないことで、手も足も出なくなります。「『練習』できない、練習以前のハードルや障害を先に取り外しておかないと」『打つ手』がありません。
 漢字の習得如何は、このように「漢字の問題(書き取り)」だけでは決して終わりません。読解力の深化にまで大きく影響するわけです。


夢の教科書を求めて ⑦

2017年12月23日 | 学ぶ

 冬期講習「入試実践テスト」第3回の結果と総評(サンプル)を最後に掲載しています。
 子どもの成長は「勉強だけが特別」「勉強だけは日ごろのふるまいや行動とは別」、ではありません。「ひとりの人間としての成長」が、すべての大きな飛躍のバックボーンになります。OB諸君の生き方を見て、年々その確信が深くなります。

 受験は、所詮(!)受験です。その裏には、受験とは比べものにならないくらい大切なことがあるという「視野と視点」を忘れない子育て、そしてそれらのしつけや指導が受験にも大きく影響します。「受験(勉強)には何がたいせつか」については、今までも折に触れ伝えていますが、巻末、「子育て」の今後の参考にしてください。

「サンタクロース顛末」
 妹の保育所のサンタクロース。行ってきました。
 園に入るときも出るときも、「子どもたちに気づかれちゃあいけない」というので、「市川雷蔵!」。えっ? 何のこと? 
 保育園への出入りが、「忍びの者」です。(きっと、知らんな)。
 衣装に「手をかけた」甲斐(!?)あって、大きい組の子どもたちも、すっかり『サンタ』を信じてくれました。みんなが歓迎してくれて、「飲めや(?)歌え」の大騒ぎ。握手攻め、ハイタッチ攻めで、「サンタさんの手、あったか~ィ」、「オレ、握手してもらってない~」・・・歓待です。

 高校時代(1年)に、クラス対抗400メートルリレーの第二走者で、2位を「30m」離したときの、女子の「感動と感激の渦!」を思い出しました(ホントです、証拠写真を同級生の福角君が持っているはずです、ハハ)。
 記念撮影の時、みんなが大騒ぎで集まってきてヒゲを引っ張ったりするので、外れないように「イテテ」とごまかしたり、「件の自作ブーツ」をじっと見た男の子に、「あれえ、雪のなかやろ、濡れてないやん!」といちゃもんをつけられたり(良い天気だったので、飛んでいるうちに乾いたとフォローできました)・・・と、てんやわんやでした。

 そのなかでもいちばんおもしろかったこと・・・「年長さん」の、「ボーダーのトレーナー」を着たかわいい女の子が、微妙な表情で耳元に口を寄せて、「サンタさん、どうして、うちのママの隣で寝てるの?」 と囁いたのです。「エッ?!」。
 びっくりして、「最近数十年(!)は、そんな、女性の家にお邪魔して、添い寝することなんかしてないぞ。遠い昔だぞ・・・」と思ったのですが、ドギマギして、「なんか、・・・まちがってるね、お家へ行ったことないよ」と、「大真面目に(!)」応えてしまいました。
 あとで考えてみると、きっと、「サンタさんに扮したお父さん」(であってほしい)が、プレゼントを渡した後、酔いつぶれて「サンタの衣装のまま」お母さんの隣で寝てしまった。それを「寝ぼけ眼」で見てしまったのでしょう。

 ぼくには、まだ「ああ、この前は居眠りしちゃってね・・・」と云えるほど「人間ができてなかった(!?)」。
さっき、サンタ担当(!)の先生が来られて、子どもたちが書いてくれたお礼の手紙を届けてくれました。みんなありがとう。
全員載せられなかったけど、ごめんね。たいせつにするよ、宝物です。
 次は、サンタが、保育所の子どもたちを見て感じたことです。

環境に目を開く機会ー「環覚」
 「環覚」というぼくの造語で、団の指導方針を紹介していますが、それは学習内容・学習対象に対する『気づき』や「親近感」をたとえたものです。
 「意識の高い保護者のかかわりや先生の指導」を除けば、抽象された「いわばエッセンス」を、文字面で、「テスト問題とその解答として学習すること」が、現状一般的に「流布」「流通(!)」している、子どもたちの学習です。
 その学習対象には、本来もっとおもしろいところや興味をひかれるところがあり、それらを通じて「学習内容の側面だけではない」膨らみを感じてこそ、対象に親しみも湧き、心にも残ります。また、もっと知りたくもなります
 ほとんどの場合、「学習対象」の学習を始めるまで、子どもたちは注意をしてみたり、観察したりという経験のないまま、いきなり対象の学習内容的側面を抽象学習する、「対象が周囲や日常生活での『出会い』で、『いかに学習対象であるか!』を知らないままはじめるのが、現実の学習模様です

 そのまま「現物認識」もなく、学習対象と「出会い(?)」、「参考書や教科書という『抽象媒体』を通じて、そのエッセンスのみを『取得(!)』し、点数を競う」という流れから、子どもたちの心のなかに、果たして「学ぶおもしろさ」が沸きたつものか、始まるものか? 本来、好奇心や興味は、ものを見て、ものを感じ、「知りたくなる」から始まるわけです。いわば「『ルール』の暗記を競って優劣をつけることがほとんどの学習」なんか、知りたくもないはずです。
 KAEDE(次女の長女)の体験、「道端の石」や電車の座席の「埃ポンポン」(以前のブログを参照してください)から、「何」「なぜ」がスタートし、それらの理解が少しずつ行き届き、さらなる「知りたい」が始まるのが、子どもです。周囲はそれらを導き、子どもたちの『不思議や問い』をきちんと正面から「拾いあげ」、「適当な方向に誘導する」ことが、先々の学習のおもしろさへ子どもたちを導くには、何よりたいせつです

 今回の「サンタクロース」の依頼で、まず心に浮かんだのは、実はそのことです。
 就学前の子どもたち。柔軟でピュアな感性をもっている子どもたちに、ぼくの「たった一回の短いアプローチ」ですが、せっかくなので、「彼らの『環覚』を育成することに少しでも寄与することはできないか」という思いでした。

 今回は残念ながら、短い時間の「ふつうのサンタさん」に止まりましたが、小さい子どもたちに接してみて、そういう機会が増えるほど、「自ら学びだす」「自ら調べ始める」子どもたちが増えるはずだと確信しました。ところが一方で、残念なことに、現場の先生方の目の回るような忙しさも見ました。「こりゃあ、ルーチンワークをこなすだけでも、たいへんだわ」も、実感です。
 こうした小さな子どもたちへの指導方法や可能性の開発への視点や方法が目覚めても、結局すべて数字(マス)でしかとらえられない「政治」の網の目から、子どもたちの「可能性」はどんどん漏れ落ちてしまうのでしょう。寂しさを感じるばかりです。

 さて先生方! 忙しいでしょうが、子どもたちが園庭で遊んだり、散歩したりするとき、また遠足のときに、小さな草花でも虫でもゴミ(!)でも、「できるだけ周囲のおもしろいことに目を向けられる」、「自ら見つけ始める、そして見つめはじめる」機会をつくってあげてください
 政治に頼っていては「日が暮れます」、「個」でできる範囲で、子どもたちの可能性を広げる取り組みをしなければ、埒があきません、いつまでたっても
 ニュートンやファーブルやファインマンやマクスウェル、古くはガリレオやギリシャの哲学者まで、偉大な科学はすべて、「ものを見て考える」ところからはじまりました。ファインマンやマクスウェル・ファーブルは幼児からです。ちなみに、彼らはすべて、お父さんが関わりました。

 子どもたちの科学は文献からはじまるのではありません。気づくこと、見つめること、見続けることから『小さな科学者』が誕生します。先生方の日々の小さな努力で、きっと「頭の良い、すごい子」がたくさん増える、「すばらしい結果」になりますよ、数年後には。 経験からの確信です。
 「砂場で、砂と石の区別を考え(させ)る、倍率の高い拡大鏡で砂粒や小石を見る、砂と土とのちがいを考え(させ)る」、「朝顔やカボチャの花をゆっくり虫眼鏡で観察する」、「ミツバチやアリの働きぶりやその仕事ぶりを一緒に観察する」・・・「子どもの目線」で「ふしぎ」を探す・・・。科学者やシャープで総合的・クリエイティブな人材を生むのは、そうした経験・体験の積み重ねからです。むずかしいと考えるのは、『大人の勝手な思い込み』です。

 よくある「ちょっと」だけではなく、「もう少し長い間」、そして回数を重ねて観察(見ること)を続けてみてください。子どもは自ら、その変化や推移に興味を持ちます。そこがスタートです。頭のよい、すばらしい子が、たくさん育ちますよ。いつでも、お手伝いします。

入試実践テスト第3回総評
 (誤解を生まないように、元原稿に一部語句を補充しました。)
 A君とB君は夏休み頃まで漢字の得点がほとんど同じだった(悪かった)のに、現在は大きな差がついています。ほんの数か月の努力の(回数や真剣さの)差が、こうした違いを生みます。子どもたちの成長はそれほどスピーディで、「待ったなし」なのです

 A君の「奉公を奉行」と書いたり、「脳を能」と書いたりする間違いは、漢字に対して「無頓着」、「いかに漢字に神経を走らせていないか、注意が届いていないか」の反映です。「適当に済ませる」ことが「くせ」になったり、「漢字に無神経な状況が続いていく」と、こうした症状があらわれます
 また読解漢字の絶対量が少ないことで、文章は「伏字」や「黒塗りの文章」を読んでいるようで、読解が行き届かず訳が分からないので、集中できなくなります。勉強(読むこと)が嫌になります
 計算や漢字の軽視は、「学習」の最初の段階で、ごく基本的な段階で、このように、大きな障害になるわけです。そのうち要領を覚えて、深い勉強ができなくなる・・・。

 団でも、当然それらの注意や指導はしますが、そういう症状の改善には「本人の素直さ」や、「保護者の応援の徹底ぶり」との「協力体制」が、その結果を大きく左右します。「漢字と計算」という基本的な技能が習熟すれば、それ以降の学力の伸長は、ほとんどの子にとって、それほど困難ではありません。もちろん指導者の力もありますが…。多くの場合、やがて「感動のフィナーレ」が待っています。
 塾や家庭で、「『まちがい』や『注意されたこと』に対しての自覚(メタ認知能力)」と「頭の固さ」は、成績向上には大敵です。「頑固」はまだいいですが、「頭が固い」のは、ほぼイコール「頭が悪い」ということだよ~。それでもいいか~みんな。

 さて、もうひとつ、大いに関連することですが、成績向上や学力伸長の最も大切な要素は「躾」です。そして、その「徹底」です。「躾」は「大きな声を出すこと」ではありません。「いうことを素直に聞くまで指導すること、根気よく言い聞かせること」です
 誤解を恐れずに云えば、「生来の能力(頭の良さ)は二次的要素」です。受験学習(勉強)なんて、そんなもの(!)です。子どもの能力の開発は、それほど可塑性に富んでいます(9割は)。

 「机に一定時間きちんと座っていられること」、「約束を守れること」、つまり「しなければいけないことを約束通りきちんと実行できること」、逆に「やってはいけないことをしないこと」、「がまんができること」等、いわば「『当たり前のことを当たり前』として育てられていること」が前提です。そこがスタートです。
 前回も書きましたが、「良い学校に行きたい、頭がよくなりたい、だけど勉強はめんどくさい、ゲームをしたい」という発想が、「とんでもない自分勝手で、わがままであること」、「そんなことを云っていれば、世の中を渡って行けないということ」を周囲が(!)わかっていること、が「躾」の「前段階」です。

 勉強は、学習机ではなくてもきちんと座って、一定時間考えたり、字を書いたりできることが習慣化していないと話になりません。また「勉強すること」と「『社会人』として成長できること」は、いわば「成長の裏表」で、切り離せないものです
 つまり、「どちらにとっても大切なことは、きちんとしたおとなに育てる」という意識です。勉強ができても「しつけ」がなっていなくては、世間では「お荷物」なだけです。勉強ができなくても「しつけ」ができていれば、少なくとも「邪魔にはなりません」。子育てに「躾」は、本人のためにも、必要不可欠です。
 「どうもそのあたりの感覚がずれているな」と思うことが多くなってきたのは約15年前で、「ゆとり世代のころ」とダブっています。
 「きちんとしているからゆとりを求める(たい)」のであって、「適当にやっていて、ゆとりを求める」のは「ただの怠け者のわがままであること」を、ちゃんと教えなければ、どんな子が増えていくのでしょうか。


夢の教科書を求めて ⑥

2017年12月16日 | 学ぶ

 久しぶりに、末尾に学コン・冬期講習のテスト結果報告と総評サンプルを掲載してあります。2カ月前に入った新入団員のO君(5年生)が、清風理Ⅰの合格点を取れるようになりました。団の指導では、別に珍しいことではありません。

 子どもたちの「何を」「どう」指導すればよいか、「学体力」に発展するか、継続して読んでいただくと、よくわかるようになると思います。お父さん・お母さん・先生方! 頑張って利口で優しい子をたくさん育てましょう


クリスマス・プレゼント

 クリスマスの時期になると、「受験を間近に控えた子どもたちの成長ぶり」がうれしく、彼らとの「想い出」がさまざまに蘇ります。「世の中には自分ひとりではない」という「自他」客観性の認識からはじまり、「ヒトに対する思いやり」、「嘘や狡をしないことのたいせつさ、その意味など」、学習や課外学習を通じての指導の想い出です。現在はその総仕上げの時期です。
 ぼくの願いがきちんと身についた子どもたちが、OB教室でのさらなる成長を重ね、能力・人格ともに整った後輩思いの優しい青年に育ってくれます。指導者冥利に尽きるときです。真面目に、指導を受けて約束を守り、努力を続けて来た子は、今年も順調に成長しています。毎年、こんなうれしいクリスマス・プレゼントはありません

 また、もうひとつの『プレゼント(?)』に思いを馳せることもあります。新春の新入生です。新学期の2月には、どんな子が入ってくれるのだろう?
 告知だけで募集案内を出さないので毎年数名ですが、お父さんやお母さんの願いと理解・協力姿勢が整えば、また「すばらしい子」を育てられるな・・・後何人育てられるか・・・。

 『ひと月遅れの、僕へのクリスマス・プレゼント』を楽しみに待つことにします。クリスマス・プレゼントといえば・・・。

「サンタ先生(!?)」の哲学

 数年前の正月、久しぶりに行った橿原神宮の初詣の際、保母の妹が「サンタクロースになってほしい」といいました。彼女の保育園には毎年「サンタクロース」が来るようです。新しいチャレンジをおもしろがるぼくは、二つ返事で引き受けました。
 その後音沙汰がないので、すっかり忘れていましたが、団の近くの保育園に転任してきていた妹から、再度依頼の要請です。そうなると、さまざまなアイデアが浮かび、おもしろがり続けるのが因果な性。
 ・・・この時期はサンタクロースが世界中を回っていて、忙しいはずだ。だから、大親友のサンタクロースに依頼された「サンタ先生」ではどうだろう? 世界中に「サンタ先生」がいるといい。その方がおもしろい、子どもたちには現実味があるのではないか?

 サンタ先生なら、子どもたちに「お約束」をしっかり守らせる「応援」、たとえば「A(保育園の名)の君たちが、いつもよい子にしているから、特別にサンタに頼まれて来たんだ」という、園の日ごろの指導の応援もできる。
 サンタクロースはプレゼンターばかりではない。良い子にはプレゼントをあげるが、悪い子には「石炭(!)」や「じゃがいも(!)」をくれたり、「おしおき」をしたり、なかには「プレゼントの袋に入れてさらっていくサンタ」もいるようだ。それでこそ、サンタだ・・・等々考えているうちに、Amazonから小包です。

 気を遣ってくれた(?)妹から。サンタの衣装です。
 開けてみると、「(?!)。(おい、おい)」。「(これじゃあ、『チャッチ(ちっちゃいのまちがいじゃありません!)』くて、オレの着るモンじゃないよ。キャバクラのおねえちゃんに借りてきたみたいじゃないか、サンタクロースが)」。
 「かわいい女の子が着るなら許せる」が、「小太りのおっちゃんが、こんなの着てサンタだ」と云ってきたら、昔のオレみたいな「悪ガキ」だったら、「だまれ、このヤロー!」と石を投げるナ。
 というわけで、時間の節約でいつも世話になっている、「Amazon」で検索すると、「何とか見た目も耐えられる(だろう)もの」が見つかりました(made in Cだからわからんが)。
 こうなると『脇目もふらず』で準備や用意を始めるのが性分。カツラ・ひげ・眉毛・めがね・手袋・ベルトと、順次(!)そろえていきました。

 問題は衣装についてきたブーツです。「黒いビニールの風呂敷」を「靴の形」に切り、それに「100均のフェイク・ファー」をくっつけたようなもの(?!)・・・。これもダメ、というか、これが一番ダメ。これじゃあ、サンタクロースが雪の中をそりに乗ってくる間に、ひざから下が凍傷になり、脚がなくなっちゃうよ。まったく!
 というわけで、また、アマゾンの「ブーツ」のカタログから適当なもの、25㎝を探し出し、ユザワヤで白のフェイク・ファーと接着剤を買うことにしました。

 ブーツのできばえですが、いかがでしょうか?
 さて、次です。きっと子どもたちから質問されるような事態になるのだろう・・・。すると、サンタのお家だ。「どこから来たの?」って聞かれるな。
 ・・・「フィンランドのラップランドと園のある大阪」が一度に見られる地図」がいいな・・・地球儀も用意しよう。これは、机の上に置ける小さなものにしよう。その方が逆に、子どもたちの頭の中では大きなイメージが広がるだろう・・・。「そりに乗ったサンタがいつも空から見ている視点」も、少し子どもたちの身近になるだろう。小学校総復習社会科地図帳と2017最新基本地図世界日本(いずれも帝国書院)で「望みの頁」が見つかりました。

 次の子どもたちの質問は何だろう? きっとトナカイだ。トナカイについては、ぼくもよく知らないので、少し勉強しなければ。
 ・・・鹿の中では唯一メスにも角が生えている・・・フムフム。確か、鯨の遠い親せきでもあったな・・・。何?、サンタのそりのトナカイは8頭いて全部名前がついていて、先頭に赤鼻のトナカイ、「ルドルフ」・・・。等々と調べ、園の先生と「打ち合わせに出向きました」。
 
 先生「サンタクロースの『そりの跡』を園庭に描きます・・・」
 ぼく「・・・きっとサンタクロースは忙しいので、サンタの大親友のサンタ先生ってのはどうでしょう? それだったら、いろいろ話してあげられるし・・・」
 先生「いや、ふつうのサンタさんで・・・時間があまりないもんで・・・」
 (どうやら、ふつうのサンタさん〈笑い〉がお望みのようです)
 ぼく「それじゃあ子どもたちの質問なんかは?」
 先生「いつもは園の先生が代わりに答えたり、耳打ちしたり…」
 (・・・楽でよさそうだが、ぼくには、かえってやりにくいかもしれないな
 先生「それじゃあ週明けに、質問事項を用意しておきます」。
 ・・・というわけで、もらった質問。そして、用意した「ぼくの答え」です。
 
 1 サンタさんの好きな果物は何ですか?(3歳
 ぼくの答え これは「みかん」だな。蜜柑は子どもたちに身近で、もっともいい。
 2 サンタさんのそりは、どんなの(色や形)ですか?(4歳)
 ぼくの答え これはいいかげんにできないな。適当にやったら夢が壊れるし、真面目過ぎても、小さいからよくわからないだろう・・・よし、 そりをちゃんと見せると、悪い人が真似をして悪いことに使われちゃいけないから、神様に見せないと約束したことにしよう。それだけではおもしろくないから、イラストのそりを見せてトナカイを9頭つけ、名前を書いたものを用意しよう。

 3 サンタさんのお家はどんなお家ですか?(4歳)
 ぼくの答え フム、家全体は見せられないな。どこかにプレゼントがいっぱいの部屋で手紙を読んでる写真があったな。それを拝借しよう。
 4 サンタさんはどうやっておもちゃを用意して、何個くらい持ってるの?(5歳)
 ぼくの答え う~ん、数字で来るか・・・。 良い子の分だけ用意する、悪い子が増えると少なくなるから、数はわからないんだ・・・そうしよう。数の多い場合は、サンタクロースにはお友達が世界中にいるから、みんながお手伝いをしてくれる。それがいい。サンタの先生、サンタのお医者さん、サンタのおもちゃ屋さんも、そう答えよう。
 5 おもちゃを配ってもらう子は、どうやって決めているの?(5歳
 ぼくの答え これは世界中のサンタのお友達に、良い子のことはいつも聞いていることにしよう。
 こう考えたけれど、しゃべらせてもらえるのかな? 時間がないようだから・・・。

総評サンプル
 今月度はぼくがつくったオリジナル問題で、全般の力を見るためのテストです。現状の実力を過去の諸君の成績と比較、参考にしてください。過去にたくさんのOBが11・12月度に受験しています。97・98・01年については氏名の横に進学中学を併記してあります。03年の受験者について、A君は西大和学園、B・C・D君は清風標準、E君は清風理Ⅱ、F君は奈良学園、Gさんは四天王寺、H君は近大附属等です。

 主だった大学進学者、K君は京大医学部から京大大学院、Lさんは佐賀大医学部、Mさんは阪大文学部、A君は京大文学部から京大大学院、F君は阪大歯学部等です。いずれもOB教室出身者です。ぼくのオリジナル問題は、漢字や設問も含め、「その文章が本当に読めているか」「不注意な見落としはないか」などが、確実にわかるような、つまり「頭が使えているか」はっきりわかる設問にしています。だから、本来の能力がよくわかります。保護者の皆さんも一度丁寧に読んでみてください。よくわかると思います。
 それぞれについて、少し注意を書いておきます。全般的に、やはり、漢字を甘く見過ぎています。だから見切れないところが出てきたり、意味が分からないわけです。「減少」と「現象」など、文脈から明らかに判断できるものがわからないのは漢字の学習不足で、それが読解の難点になります

 今年の諸君の足を引っ張っている一番の原因です。4~5年生の頃の漢字宿題の手抜きが最大の原因です。漢字の不徹底は最後にこういう結果を招きます。今、その結果を確認できたのですから、次に備えなければなりません。大学受験時までに克服しないと、読解の意味が取れないという、大きなハンディキャップを背負うことになります。
 5年のO君は漢字の徹底と字を丁寧に書くことを、もっと心がけること。それからY君らは、またサッカー(?)のようですが、目的をもって何かを達成しようとすれば、我慢とストイックさが必要です。それが身につかなければ、どんな目標であろうと達成はできないし、目的にたどり着くことはできません。入試前にM1を見てテレビの前を離れない、ゲームをコントロールできない、サッカーをやりたい・・・。それで中学に合格したい、勉強ができるようになりたい。ムリです。そんなうまい話はどこにもありません。そんな姿勢や考えを改めない限り、すべて「大したこと」にはなりません。


夢の教科書を求めて ⑤

2017年12月09日 | 学ぶ

 今週は懐かしいOB諸君のスナップにしました。一枚はKAEDE。

「ゲーム・ボーイ」
 商品名ではありません。「ゲームをするボーイ(ガール!?)」のことです。
 ゲームばかりする子(!)、やめられない子(!)がたくさんいます。指導していると、そんな子たちはほとんど、『潜在能力の高い(つまり頭が良い)子たちである』ことがわかります。
 「わき目もふらず夢中になる(集中力)、能力を競う(競争意識)、攻略を工夫する(創造性)」というような習慣や資質、指先も器用なはずですから、「脳のはたらき」もよいはずです。すべて、能力が高いことの裏付けです


 それがなぜ「正当な方(?)」には生かされず、いわば「脇道」ばかりに向かうのか? それらを学習面や知的探索面に傾注すれば、「相当なことが可能になる」のに、そうはならない。たいてい前者が犠牲になって、ゲームへの時間と努力が増えていくばかりです。
 「どうしてこの子は、ゲームしかしない(できない)のだろう?」。それが多くの保護者の疑問であり、感想なのでしょう。「しっかり観察して」指導していると、その辺の事情や原因はすぐ明らかになります。
 たとえば、小さいころから、「今やるべきこと」、「否でも応でもやらなければならないこと」、逆に「やってはいけないこと」の「けじめ」をきちんとつけてきたでしょうか。いうことを聞くまで指導したでしょうか? ゲーム遊びをセルフコントロールできない子は、何をするときも、そうした「けじめが見られないこと」がふつうです。
 また、我が子を連れだして、ゲーム以外にさまざまな外遊びや知的探索(遊園地巡りではなく)を重ねて、「子どもがおもしろがるものを探す」という試みや機会はあったでしょうか? そうした取り組みをしていた家庭では、「ゲームをする子」はいても、コントロールができる範囲内でおさまっています。 

 例に挙げたように、ゲーム狂の「一番の原因」は「しつけや家庭のルールのあいまいさ」、つぎに「小さいころからゲームを与えるだけで、それ以外の知的興味をもてること―他のおもしろいことや子どもが興味をもちそうなこと―に触れさせなかった、触れる機会・覚える機会がなかった、ゲーム以外のおもしろさや大切さをきちんと提案・指導できなかった、ということ」につきます。
 時代を顧みれば、お父さんやお母さん自身が、外遊びや探索も含めた、そういう遊びや学習をほとんど知らない(知らなかった・できなかった)ことが、その傾向に拍車をかけているのでしょう。
 また、お父さんが、「『仕事や遊び(!)』に夢中で、ほとんど家にいない」など、子どもたちの遊びのバリエーションが少ないと、彼らには「手近なもの」、ゲームしかありません。小さいころから、ゲーム以外の、『自分がおもしろかった』遊びを、一緒に夢中になってやっているような家庭では、ゲームの悩みなんか、ほとんど聞いたことがありません。

 「ゲームに夢中になり、ゲームしかしない」のは、「そうさせている環境があるから」です。「ゲーム以外に、おもしろく興味をもてるものを伝えられていないから」です。勉強が必要な頃になって、「ゲームばかりで勉強をしない」と愚痴っても、「させたのは誰や」という話です。
 それらの生活習慣をきちんと習慣づけられるのは、理想的には「3年生が終わるまで」。最悪でも「4年生半ば」までにはじめなければ、なかなか身につきません。5年・6年になってしまうと、身につけるのは相当以上難しくなります。成長のしくみで、その時期くらいに、何か大きな変化があるのでしょう。
 さて、そのゲームに夢中だったM君の話です。

受験しか知らなかった
 中二で登校拒否し、ゲームセンターに明け暮れ、縁あってぼくのもとで2年間勉強し、京都大学理学部に合格したM君。彼の事情については、何度かお話ししました。そして、その縁というのも、とても不思議で、亡くなった僕の大親友が、「奥さんの『夢枕』に立ち」というものでした(2015年4月ブログ「夢へのワープ」シリーズ他をご覧ください)。
 繊細で、ぼくが出会ったなかでも数人しかいないほど繊細で、数えるほどしかいない高い能力の持ち主です。旅立った親友への思いもあり、「きちんと独り立ちできるまで、できるだけのことをしなければ」と、いつも気になっています。
 鋭い頭脳とナィーブさゆえに、大学入学後、団の先輩たちの明確な目標や目的に向かう姿を耳にし、焦りを感じ、悩んでいるようすを見て、「何とか力になりたい」と考え続けてきました。
 「受験」ばかり、「良い大学へ」ばかりで、目標を達成してしまうと、「無人の荒野」に放り出されたような、自らの若いころの心細さと焦りが彷彿としてきました。「受験」しか見えなくなっていた。それ以外の目標や目的に目が届かなかった、何をしてよいかわからない。焦燥感ばかりの日々を送っていた・・・

 幸せなことに、ぼくは今「一生をかけるべき展開」を見つけることができました。数十年かかって得たものは、「もっとも単純な結論」でした。しかし、それは、考えようによっては、「とても奥深いもの」でした。
 「向かっている現実に、真摯に向き合い、力をふるうこと。精いっぱい努力すること」。
 「奥深い」というのは、「真摯に向き合い、力をふるうこと。精いっぱい努力すること」、その「簡単に見えるすべて」が奥深いのです。日々「生きること」に向かうこと。ヒトはそれしかできません。

 「今、何をしてよいかわからない、見つからない」M君には、まず、彼が「全力で向かえそうな目前の目標を提示しよう」。それがいちばんよい。向かっていく彼の思考や行動に、ぼくなりの意見やアドバイスをぶつけながら、彼の「自立」を応援して行こう。
 現状の受験オンリーの学習指導や目標設定は結局、こうした「優秀な世迷い人(!)」をつくり続けることになります。そして、それらの現状に疑問を呈さない、不思議にも思わない周囲や環境が、本来なら大きく開花すべき才能を「闇から闇に」葬りさることになってしまう。
 先のように「非難の対象になるゲームに、わき目もふらず集中できる才能」こそ、「かけがえのないもの」で、その才能を一方向ではなく、広範囲に展開できる学習対象や学習内容・学習指導をぼくたちは問われています
 子どもたちの周囲には、彼らが生きていくについて、「心からおもしろがれるようなもの」が無尽蔵にあるはずなのに、「小さな画面と指先」だけで、その「貴重な才能」と「かけがえのない時間」を浪費し、「無限の未来」を消滅させてしまっている…。
 そんなたいせつな一面をまともに考察せず、「ゲームソフトや新機種販売の『金集め』に群がるだけ」、「柳の下の泥鰌を狙うばかり」の世の中、どこか狂っていませんか? 

 さて、「向かってほしい対象」とは、「20年以上前から、子どもたちのテキストをつくりたいと集めていた資料」による「テキスト作成」です。集めてある材料は理科と算数です。小学生相手の、それらの指導について考えることは、自らの経験からも、「ものごとを基本から理解するための」格好の思考トレーニングになります。
 M君は大学受験当時、OB教室で一緒に学習していたK君とともに、「先生になりたい」という夢を話していたようなので、指導内容や指導方法を考えるのにも、とても良い経験になるでしょう。
 あらゆることをすべて一人で進めているぼくは、最近、処理能力が落ち、気になりながら手を付けられないままでした。彼の能力なら、きっと良いものができるはず。これでせっかくの資料が『ゴミ箱送り』にならなくて済みます。
 今、ぼくが取り組んでいる「二上山と三つの石」のスライドを見せ、その構想を伝え、テキストの方向性の提案をしました。すごく乗り気になってくれました。二年間、教室や野外でのぼくの指導ぶりを、間近ですべて見ていたので、発想法や指導法等理解してくれていると思います。適任です。

父性の復権
 みなさんに訊きたいのですが、ぼくが彼に感じた「指導の方向」は、家庭では「お父さんの仕事」だと思いませんか?
 時折、子どもの指導に対して「父性」の必要性を伝えていますが、「世の中に出て何をするのか、できるのか、したいのか」。「実際のお父さん」という存在に限らず、「子どもの将来について、夢を語り、可能性に言及し、同時に厳しさも伝える、という役割を果たせる存在」。「将来に目を向ける子ども」を育てるには、やはり「父性の発想」が欠かせないと思います
 ところが、現状は「お父さんも、お母さん」、つまり「お母さん二人」で子育てしていたり、あるいは、「お母さんに任せっきりで、お父さんがいない」というような塩梅ではないですか?

 昔のお父さんも家にいない場合が多かったかもしれませんが、家庭の中では「父親」という「重し」が、まだ生きていたように思います。いなくても、「『幻影』が目を光らせていた」のです。お母さんの心や日々の環境の中に、「心の支え」あるいは『ガードレール』として一目置かれる存在があった、つまり、子ども心にも、「お父さんという姿がイメージされる状況」にあったのです。今はどうでしょうか?
 お父さんが優しく柔くなりすぎ、「一目置かれる存在」として機能しているようには、まったく見えません。「お父さんがしっかり働いている姿」を見る(ことができる)わけでもなく、「いつも家にいなくて、帰ってきたら、ただ優しいだけ」。「気を使う必要」もない。けじめや基準として作用しません。
 周囲を見ていると、お父さんが「『嫌われなければならない存在、嫌われてもしょうがない存在』に甘んじている環境」の方が、きちんと子どもが育っているような気がします。優しいばかりのお父さんの場合、子どもたちの多くが「わがままで、芯がありません」。
 「ルールや『憲法』のない中」で自由にふるまい、ことあるごとに「おまえはどうしたい?」と「意見を聞いてもらえる(!)」小さな子どもたち。

 常識や社会性や人格も身についていない(修業中です)子どもたちを、「良識が備わった」大人と同じ扱いにすれば、それは「好きにやりなさい」という「放し飼い(!)」と何ら変わりません。
 そうした「基準のない基準で既に大きくなってしまった子どもたち」に、急に「勉強しろ」、「きちんと~しなさい」と云っても聞くはずがない。「聴かなくてもよい」、「気にしなくてもよい」と育ててしまったのですから。
 「そういうことにならないように、しつけや教育・指導がある」ということがすっかり忘れられているのが現況です。子どものために、今こそ必要なものが、林道義さんの著書のタイトルにもなっている、「父性の復権」ではないでしょうか。子育ての悩みを「激減させる」秘訣は4年生までの教育や指導です。

 
「生死」をきちんと教える
 さて、最後に。若い先生方に。
 テレビをつければ、「何でも茶化し倒す」だけ、「中身のない」コントや「底の浅い」ギャグ・その場限りの一発芸、すべてが「グルメ(?)」や「金もうけ」に結びついた制作志向。「『ストックされている知識量』を頭の良さと勘違いし、させ続ける」クイズ番組の氾濫。半裸の芸人の姿はどんどん流れてくるのに、偉人の姿はほとんど流れない「痴呆川」。偏っていて選択の余地がありません。
 小さいころから、そんな環境の中で育っていく子どもたちに、真剣に伝えなければいけないことは何なのか?
 「まず伝えなければいけないこと」は、「かけがえのない時間と生命(生死)」です。それ(そのイメージ)が心に無いと、「ほんとうにたいせつなもの・かけがえのないもの―愛や学ぶこと、人に対する思いなど」が見えてきません

 「時間の限り」がわかってはじめて、「真にたいせつなものである」という判断が生まれます。「いつもあるもの」、「いつまでもあるもの」という感覚から抜け出さないかぎり、「たいせつなもの」は、結局見えません。リミットがわかってこそ、一発芸ではない「真のユーモア」もわかると、ぼくは思っています。
 指導する方も若い時には、実感や手がかりがつかみにくいゆえに、「生死」や「生命」はなかなか伝えきれません。しかし、まず「『かけがえのない人生を送っている、たいせつな時を過ごしているという自覚が明確な日常』を自ら目指すこと」で、子どもたちに「真心」が伝わります
 一生懸命伝えるべきこと・伝えたいこと、それらを何とか工夫して伝えようとすることは、「先生」のもっともたいせつな、「課業よりも大切な」役割です。そう思っています。それによって、子どもたちは少しずつ変わってきます。「先生が成立」します。


夢の教科書を求めて ④

2017年12月02日 | 学ぶ

 毎年、団員諸君とお父さん・お母さんの想い出にしてほしいと、課外学習や立体授業の写真を使ってカレンダーをつくり、プレゼントしています。それらを紹介してあります。
「見えないものを考える」
 3歳になった楓(次女の長女)を、団の「蛍狩り」に同行させたとき、宿舎の駐車場だった広場の小石に興味をもった団員が質問するようすを見て、小さな石を次から次へ拾って「質問」を重ね始めたことを、以前話しました。

 彼女にとっては「道端に落ちている石」を拾って、「そのことについて何かを聞く」なんてことは、文字通り「生まれて初めて」のことで、「衝撃」だったのでしょう。「それらが自らと『関わり』をもっていること」に気づいたわけです。
 また電車に乗っていたとき、ポンとたたいた座席の「ほこり」が斜光線で輝いたとき、不思議そうに『これなに?』と気づき、「その存在をできるだけわかるように伝えることを心がけた」こともお話ししました。かけがえのない子どもたちの成長を考えると、身につけたその感覚が一生を支配するようになるため、子どもの「応対」に対する心配りは欠かせません

 子どもたちは、「見るもの・聞くもの」すべてが初体験ですから、本来何にでも興味があるはずです。それは「これから生を全うすべき(どんな意味でも必死で生きていかなければならない)、この世界のことを、彼らが知りたくないはずはない」というぼくの仮説(信念)です。
 脳の発達の歴史は観察と工夫の歴史です。非力な我が身の代わりに、ヒトは「自然界にあるもの」を使って、それを自らの武器や道具、つまり、たとえば動物の爪や牙の代用にする、あるいはそれらにさらなる工夫や考察を加え、「非力な能力を拡大する歴史だった」という一面があります。それは、見るもの聞くもの、「何か役に立つものはないか」「使えるものはないか」と云う観察と探索の日々でもあったでしょう。そして、その積み重ねが科学の発達をもたらしたのでしょう。

 子どもたちの好奇心や興味の発達も、そういう進化の歴史が大きく関係しているのではないでしょうか。「埃がキラキラ飛ぶ」と云う、「ふだん目にしないもの」を目にしたときは、「おっ、これはなんだ?」という新鮮な驚きです。感覚の立ちあがりです。「これは役に立つかもしれない、あるいは気をつけなければいけないかもしれない」。

 人間の子どもたちには、それらを探求しなければという『血』が流れているはずだ、と思うのです。脳の発達の歴史からは。そこで何気なく流してしまったり、無視をすると、子どもたちはそんなものは必要ないんだ、という認識に至るのではないでしょうか。
 「生きていくために周囲のことをできるだけ知る必要があると生まれついてきた」のに、対応によっては、「そんなことは関係ない」というものがどんどん増えてきてしまって、やがて「周囲に注意をする気持ちや習慣さえ失せてしまう・・・」。大きくなって興味や好奇心の足りない場合は、そうした経験を知らぬ間に積み重ね(られ)てきたのではないか、とぼくは想像しています
 KAEDEについては、かけがえのない人生の「機会損失」をつくりたくない。だから一緒にいるときは、「できる限り答えてあげよう、次につながる機会にしよう」と考えています。

 そのことに限らず、本来『生きていくことに関係ないものはない』、『知る機会・興味をもてる機会があったら、あらゆるものに関わろう』というのがぼくのスタンスで、子どものときの『川遊び』や『「山遊び」の極めから、プレイボーイの創刊号の購入(駅の売店のおばさんが、「お宅の中学校(公立)にはこんな子がいる」と、わざわざ学校に電話してきました。ハハハ)、写真やシナリオやミニ四駆、日本の近代文学、スタンダール、ドストエフスキー、大学生時代のマルクス・エンゲルス・吉本隆明やサルトル・・・何から何まで気になるものには分け隔てなく、あらゆる種類の本や「もの」に興味をもちつづけています。

 長くなるのでこの辺にしますが、その後半年たって、楓は教室にくると必ず、「子どもたちと集めた石の標本」に質問を挟みます。また、自分から、「保育園での砂遊びの『さらすな(きれいな砂)』」について話してくれます。「見えないもの」が、一つずつ見えるようになってきているな。ぼくはそう思っています
 「ファインマン・・・」の時に伝えた、「熱いコーヒカップ」の中の水の分子のようすが手にとるようにわかったり、窓から入ってくる電磁波を目に見えるように話したり、というファインマンのこれらの「能力(才能)」が、森の中や日常生活の中で見たものの「お父さんとの対話(質疑応答)」から始まったことを、ぼくたちは決して忘れることはできません。

 ファインマンは膝に乗って、お父さんに「ブリタニカの読み聞かせ」をしてもらいましたが、その読み方も「ただ読む」のではなく、「できるだけ身近に、現実感」をもてるように、という(お父さんの)配慮がともなっていました。「『抽象』学習が天才中の天才を生んだ」のではないのです(詳しくは以前のブログ「ファインマンの父とエジソンの母…」等をご覧ください)。

「埃を考えられない」
 今、「二上山と三つの石」のスライドとテキストの改訂にかかっていることをお話ししました。
 「もっとかんたんにすむ」と思っていたのですが、進み方を考えているうちに「伝えたい話」が広がり、前・後編の二部に分けることになりました。また学習対象は単元ごとに「ぶちきって」学習するものではなく、できる限り「関係性」をたどっていきたい、という立体授業の『肝』を外すわけにもいきません

 前編は「二上山の三つの石」サヌカイト・ガーネット・サファイアを通じて、地理・歴史・地学・物理・化学のつながりは何とか保てそうで、前編の最終は、「すべての物質は原子からできている」と結ぶシナリオに落ち着きました。
 後編は、「原子の誕生」から「宇宙への言及」が必要になり、その後、ぼくが本来伝えたかった『石ころとぼくたちは親戚かもしれない』というコンセプトで結ぼうと思っています。

 そのときには、「生命」や「死」についての考え方・かかわりもでてきます。また、二上山ゆかりの大津皇子の歌や恋・政争に話が及べば、「『石から始まる一つの小さな世界』が一体化し、大きく完結できるのではないか」と、自ら結果を楽しみにしています。
 一年半くらい前からシナリオの勉強を再開してDVDを見ることを続けてきたのですが、800本以上見終わり、「『ああ、これはいい』というのが約20本、『もう一度見てもよいなあ』というのが約120本という結果」を手に入れた頃、新しいDVDを見ても、気に入ったものになかなか出会えなくなりました。


 そうこうしているうち、こうした立体授業のアイデアとストーリーがまとまりました。思えば、シナリオについて考えることも、昔夢中で撮った撮影経験と同じく、「子どもたちへの指導の肥やしにしなさい」という「天の思し召し」だったのかもしれません。
 さて、そのストーリー考察の中で、「思わぬ出会い」がありました。
 二上山のザクロ石(ガーネット)の堆積について、『風化』を取り扱いたいと思い、調べていると、「硬い『石英』の微粒子が室内でもふつうに飛んでいることがあり、それらが宝飾品を傷つけるので頑丈なケースに入れている」と云う記述に出会いました。
 楓のことも念頭に、「そうだ、部屋に飛んでいる埃やウィルスなど、『目に見えないもの』に対する子どもたちの感覚も必要だ」と気づき、「部屋でふだん飛んでいる埃」の写真を撮りたい、と思い立ったのです。しかし「強い光線が隙間から部屋に入る」、埃が見える条件が整うような場所やタイミングは中々ありません。どうしようか。
 考えた末、「プロジェクターを使うこと」を思いつきました。プロジェクターの光なら、何とか埃を撮れるはずだ。それが掲示の写真です。

 これで何がわかるか? 何ができるか?
 ぼくはまず、「宇宙空間で飛ぶ微粒子が星になる」と云うイメージが中々つかめなかったことを思い出しました。それと世間にふつうに流通している「『清潔』と云うイメージ」の誤謬を正したいと考えたのです。
 「微粒子が宇宙空間で次第に集まり星雲に」等というのは、それこそ「雲をつかむような話」で、こういうきっかけがないと、現実感がありません。イメージできません。抽象そのものです。
 「それを正すこと」ができると思いました。また、空中に浮かぶ「雲や雨の芯」も納得できるでしょう

 もう一つは「病原菌やウィルスの飛散」です。学校で手洗いの励行やマスクの着用を「うるさく(!)」指導しますが、ここに「健康や保健授業の大きな落とし穴」があることに気づかない場合が多いのではないでしょうか。
 ウィルスや大腸菌など、確かに「手洗いは、しないよりしたほうがよい」のですが、子どもたちに「もっときちんと教えなければならないこと」は、「病気を防ぐのにいちばんたいせつなものは『免疫力とその強化』」だということです
 「手を洗っていて、マスクをしていても、インフルエンザにかかる子とかからない子がいる」のはなぜか? 手を洗わず、マスクを忘れていてもかからない子がたくさんいるのはなぜか?
 あたかも「手洗いとマスクが防疫の最高・最善の手段」のようになって(云われて)いますが、もっとも大切なことは、「個々の『免疫力』の必要性と、それをどうして強化すべきか」です。その現実を必死になって(!)」教えるのが科学的な学習(指導)のはずです。
 「手洗いやマスク」はしつこく注意するけれど、「電車や乗り物の床に直に座ることには無頓着」というような「ばからしい清潔思考(!)」も「いい加減卒業すべき」だと思います。
 このスライドによって「目には見えないものが、ふだんもいっぱい飛んでいること」がわかります。「それらを防ぐことはできないのだから、入ってきたときのために、まず『免疫力』を鍛えておくこと」が優先です。それが『健康への発想』です。
 同じくインフルエンザ等の薬は『症状を抑えるもの』が多く、また「熱は何のために出るのか、咳やくしゃみはどうして出るのか」を、「マスクや手洗い」と同時に、いや「それらよりも先に教えるべき」でしょう。
 別に医師の力を借りなくても、今は、どんな本でも、その辺りの基本を知ること(理解すること)ができます。団でも、いつも教えていますが、この「埃」で「イメージ」の助けを借りることができます。
 関連したところで、先日のミカンの収穫の際、地面に落ちて青カビが生えているミカンから「ペニシリン」のにおいが漂ってきたことがありました。また話を広げることができます。こうしたすすめ方を続けていくことで、子どもたちの周囲が「夢の教科書」に育っていくのではないか。教科書は「あるもの」ではなくて、「育てていくもの、育てていけるもの」。という認識が、指導者にとってもっともたいせつなことだ。ぼくは、そう考えています。