前回、「『読むこと』はできても『読解力』には結びつかない」子どもたちに言及しました。そして、読解力の「イメージする力」を補強する「体験」のたいせつさについて考えました。その続きです。
「月を見ないで月の学習」をしている子どもたち
小学校時代の子どもたちは経験も少なく、まだまだ「知らないこと」がたくさんあります。さらに、自然的・社会的両方の環境の変化により、自然体験や外遊びの体験も極端に減りました。
自然の風物に落ち着いて目をとめる機会もほとんどありません。
理科で出てくる月の満ち欠けや太陽の日周運動、です。
太陽の日周では「太陽は東の空から昇り、南の空を通って西に沈む」ということが、どこの教科書や参考書でも出ています。観察のようすもイラストで展開されています。しかし、東西南北の言葉を知っていても、指導を始める前に、自分の立ち位置で東西南北を指摘できた子は、今までひとりもいません。
つまり、テキストや問題集で受験用の学習対象としてではなく、自分の立ち位置で方角をはっきり確認し、太陽の周回のようすをイメージする子はいなかった、そんな経験はそれまでなかった、ということになります。
同じく、月の形のイラストとともに、ただ月の出・月の入りの時間を暗記するだけ・・・日々の生活で「月の形をしっかり識別する」という観察体験はあるでしょうか? 朝、校庭で西の空に浮かぶ「下弦の月」をしっかり見たことがある子はどれだけいるでしょうか? 『月』というぼんやりした認識はあっても、形の変化を見たことはほとんどない。
「学習対象を自分自身の生活の中で振り返り確認できる」という体験等はほとんどないまま、子どもたちは「記述内容をイラストで暗記するという学習(受験勉強)」を続けています。「抽象」のみの先行です。
まだ見たことも聞いたこともないことを学習していくのに、読解力やイメージの補強となってくれる「体験」さえ少ない中で、興味が沸き立ち、理解が進み、「読むことは面白い」という感覚は生まれるでしょうか?
多くの場合、子どもたちは「現実体験が欠落したまま、記憶対象でしかない勉強」を延々と続けているわけです。ほとんど自分の生活とは直接『リンク(!?)しない』学習が、「受験問題用」の対策としてのみ記憶されていくことになります。
その「月」はやがて、たとえば古典、徒然草や枕草子・俳句など日本文学への興味・鑑賞の奥行・読解力とも大いに関係するようになります。そして『月を現実に知らない』子どもたちは月の状態もイメージできず、再び「暗記の対象」としての古典の勉強が続くことになります。
ふだんはあまり意識されることはありませんが、「体験」は、このように読解力や興味や関心の持続と切っても切れない関係があります。そして「体験知」は「月だから理科」とは限りません。学習そのもの、学習に対する親近感、「学ぶおもしろさの実感」にも大いに関係してきます。太陽や月の学習を補強するのは、イラストではなく、山間に差す朝日や赤々と海に沈んでいく夕日なのです。学習の奥行を保証するのはそれを見る子どもたちの体験なのです。
こうした反省を踏まえれば、子どもたちの学習では、「読解」を補強し、学ぶおもしろさに導く大きな可能性を秘めた、小さいころからの体験のたいせつさが、もっともっと重要視されてよいと考えています。(写真は「有明の月」。週刊「日本の古典を見る」⑧枕草子二より)
「子どもたちの手からこぼれ落ちる」不思議や興味
「現実に見たこともないもの」や「知らないこと」・「直接関わりがないこと」。それらを対象に暗記中心の学習を重ねて、子どもたちは強い「関心」をもつことができるでしょうか。先々の興味がわくでしょうか? 学習が面白くなるでしょうか?
「暗記対象でしかない勉強」をいつまでも覚えていることができるでしょうか。そんな勉強から将来役に立つことが生まれるでしょうか?
不思議や興味を引き起こす「現実」や「日常」が「学習に先行している」のではなく、「暗記対象」としての「記述内容」だけが「先行」しているのです。しかも、受験が済めば、ほとんど「用なし」に終わる対象として。
「実体験」が「学習内容の抽象」と相まってこそ、不思議や興味や追究心がわき起こるのではないか? 今のままでは「不思議」や「興味」が、子どもたちの手からどんどんこぼれ落ちます。
記述内容と同じことが現実に展開する=つまり、「自らが習っていることは意味のないことでは決してない」という自覚が生まれる。
また、記述内容と微妙にちがうことが見つかる、あるいは学習内容とはちがった結果を発見する=次なる好奇心や興味が生まれる。
このような体験と抽象学習の『交流(!)』によって、学習のたいせつさの自覚や不思議や興味が引き出され、「学体力」育っていくきっかけが生まれるのではないでしょうか?
ほとんど知らないこと、見たこともないものを「抽象的」に説明されて、「勉強とテストで終わること」に興味が持続する子はどれだけいるでしょう? そして、その面白くもない内容の暗記を点数で評価され、序列をつけられ、そのうえ下手をすると、「将来の方向(!)」まで決められてしまうわけです。それが子どもたちの「現実」です。
立体授業と環覚の育成
「学習は受験勉強!」ではなくて、「生きていくうえで欠かせないことを学んでいる」という確認と「学んでいかなくてはならないんだよ」と伝えられること。子どもたちが学習対象の中から、たとえひとつでも、興味をひかれて追究をはじめるきっかけになるものが生まれてほしい。そう願っての指導が続いています。
関心や興味を引き起こす体験が生まれ(つまり「環覚」が育ちはじめ)、積極的な体験を誘発し、それらの体験が、やがて「読解力」や「考えること」の「礎」となること、「学体力」が育っていくきっかけになること。
年間を通した一連の「立体授業」は、それぞれの季節を代表する活動中心に組み立てています。自然の営みの中で、外遊びとともに風物に触れ、日頃学校で学んでいる学習対象や学習内容の奥行きや広がりを知ってもらうこと、感じてもらうことを毎回のテーマにしながら。来週からは、その展開とテキストづくりのようすを少しずつ紹介します。