『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

学体力とは何か?⑫ 体験と環覚と読解力

2014年11月15日 | 学ぶ

 前回、「『読むこと』はできても『読解力』には結びつかない」子どもたちに言及しました。そして、読解力の「イメージする力」を補強する「体験」のたいせつさについて考えました。その続きです。
「月を見ないで月の学習」をしている子どもたち
 小学校時代の子どもたちは経験も少なく、まだまだ「知らないこと」がたくさんあります。さらに、自然的・社会的両方の環境の変化により、自然体験や外遊びの体験も極端に減りました。
自然の風物に落ち着いて目をとめる機会もほとんどありません。

 理科で出てくる月の満ち欠けや太陽の日周運動、です。
 太陽の日周では「太陽は東の空から昇り、南の空を通って西に沈む」ということが、どこの教科書や参考書でも出ています。観察のようすもイラストで展開されています。しかし、東西南北の言葉を知っていても、指導を始める前に、自分の立ち位置で東西南北を指摘できた子は、今までひとりもいません

 つまり、テキストや問題集で受験用の学習対象としてではなく、自分の立ち位置で方角をはっきり確認し、太陽の周回のようすをイメージする子はいなかった、そんな経験はそれまでなかった、ということになります
 同じく、月の形のイラストとともに、ただ月の出・月の入りの時間を暗記するだけ・・・日々の生活で「月の形をしっかり識別する」という観察体験はあるでしょうか? 朝、校庭で西の空に浮かぶ「下弦の月」をしっかり見たことがある子はどれだけいるでしょうか? 『月』というぼんやりした認識はあっても、形の変化を見たことはほとんどない

 「学習対象を自分自身の生活の中で振り返り確認できる」という体験等はほとんどないまま、子どもたちは「記述内容をイラストで暗記するという学習(受験勉強)」を続けています。「抽象」のみの先行です
 まだ見たことも聞いたこともないことを学習していくのに、読解力やイメージの補強となってくれる「体験」さえ少ない中で、興味が沸き立ち、理解が進み、「読むことは面白い」という感覚は生まれるでしょうか?

 多くの場合、子どもたちは「現実体験が欠落したまま、記憶対象でしかない勉強」を延々と続けているわけです。ほとんど自分の生活とは直接『リンク(!?)しない』学習が、「受験問題用」の対策としてのみ記憶されていくことになります
 その「月」はやがて、たとえば古典、徒然草や枕草子・俳句など日本文学への興味・鑑賞の奥行・読解力とも大いに関係するようになります。そして『月を現実に知らない』子どもたちは月の状態もイメージできず、再び「暗記の対象」としての古典の勉強が続くことになります

 ふだんはあまり意識されることはありませんが、「体験」は、このように読解力や興味や関心の持続と切っても切れない関係があります。そして「体験知」は「月だから理科」とは限りません。学習そのもの、学習に対する親近感、「学ぶおもしろさの実感」にも大いに関係してきます。太陽や月の学習を補強するのは、イラストではなく、山間に差す朝日や赤々と海に沈んでいく夕日なのです。学習の奥行を保証するのはそれを見る子どもたちの体験なのです
 

こうした反省を踏まえれば、子どもたちの学習では、「読解」を補強し、学ぶおもしろさに導く大きな可能性を秘めた、小さいころからの体験のたいせつさが、もっともっと重要視されてよいと考えています。(写真は「有明の月」。週刊「日本の古典を見る」⑧枕草子二より)

「子どもたちの手からこぼれ落ちる」不思議や興味

 「現実に見たこともないもの」や「知らないこと」・「直接関わりがないこと」。それらを対象に暗記中心の学習を重ねて、子どもたちは強い「関心」をもつことができるでしょうか。先々の興味がわくでしょうか? 学習が面白くなるでしょうか?
 「暗記対象でしかない勉強」をいつまでも覚えていることができるでしょうか。そんな勉強から将来役に立つことが生まれるでしょうか?

 不思議や興味を引き起こす「現実」や「日常」が「学習に先行している」のではなく、「暗記対象」としての「記述内容」だけが「先行」しているのです。しかも、受験が済めば、ほとんど「用なし」に終わる対象として
 「実体験」が「学習内容の抽象」と相まってこそ、不思議や興味や追究心がわき起こるのではないか? 今のままでは「不思議」や「興味」が、子どもたちの手からどんどんこぼれ落ちます。

 記述内容と同じことが現実に展開する=つまり、「自らが習っていることは意味のないことでは決してない」という自覚が生まれる
 また、記述内容と微妙にちがうことが見つかる、あるいは学習内容とはちがった結果を発見する=次なる好奇心や興味が生まれる。
 このような体験と抽象学習の『交流(!)』によって、学習のたいせつさの自覚や不思議や興味が引き出され、「学体力」育っていくきっかけが生まれるのではないでしょうか?

 ほとんど知らないこと、見たこともないものを「抽象的」に説明されて、「勉強とテストで終わること」に興味が持続する子はどれだけいるでしょう? そして、その面白くもない内容の暗記を点数で評価され、序列をつけられ、そのうえ下手をすると、「将来の方向(!)」まで決められてしまうわけです。それが子どもたちの「現実」です。

立体授業と環覚の育成
 「学習は受験勉強!」ではなくて、「生きていくうえで欠かせないことを学んでいる」という確認と「学んでいかなくてはならないんだよ」と伝えられること。子どもたちが学習対象の中から、たとえひとつでも、興味をひかれて追究をはじめるきっかけになるものが生まれてほしい。そう願っての指導が続いています。

 関心や興味を引き起こす体験が生まれ(つまり「環覚」が育ちはじめ)、積極的な体験を誘発し、それらの体験が、やがて「読解力」や「考えること」の「礎」となること、「学体力」が育っていくきっかけになること。
 年間を通した一連の「立体授業」は、それぞれの季節を代表する活動中心に組み立てています。自然の営みの中で、外遊びとともに風物に触れ、日頃学校で学んでいる学習対象や学習内容の奥行きや広がりを知ってもらうこと、感じてもらうことを毎回のテーマにしながら。来週からは、その展開とテキストづくりのようすを少しずつ紹介します。  

 


学体力とは何か? ⑪ 学体力と読解力

2014年11月08日 | 学ぶ

 「学び続けられる力」、「自ら学んでいける力」として、「学体力」という言葉を造語しました。ぼくが伝えたい力を、いわゆる「学力」とはちがう力として位置づけたかったからです。
 小学校から大学卒業までの「勉強の期間」を合わせると、ぼくたちは都合十六年間も「学ぶこと」に使います。人生80年とすれば、その五分の一という長い時間であり、また、その期間はその後の人生の展開にとって、いちばん大切な時期と言っても過言ではありません。
 ところが、多くの場合そして多くの人にとって、そのたいせつな時期に学んだ学習内容が有効利用(活用?)されていることは少ないようです。「学び続けられる力」つまり「学体力」として養成されたわけではありません
 逆に、勉強なんか「できれば忘れたい」までは少ないにしても、すぐ「忘れてしまった」。あるいは「嫌な思い出が残っている人」もたくさんいることでしょう。

 「学んでいく過程」で、せっかく様々な「考える対象」に出会い、「考えを深めるきっかけ」をもつことができたのに、これほど残念なことはありません
 専攻や専門科目を問わず「学んだ力」を有効活用し、「生きた経験」として、一生共にしてほしい。そういう力に育ってほしい。自らの経験を反省とともに振り返りながら、子どもたちとの取り組みに向かっています。
 「勉強とは面白いもの」だ。でも時々「しんどい」し、「嫌なときもあるもの」だが、「生きていく上で欠かすことができないものだ」という、ごく当たり前の真実を、心をこめて伝えたいと思っています。

字は読めても『わからない』
 字は読めても内容はわからない?
 そんなことはあり得ない。そう思っている人はいませんか?

 「家での本読み」はきちんとできているのに、「国語の成績が悪い」という子に心当たりはありませんか?
 意外かもしれませんが、日々子どもたちと過ごしていると、「字は読めるのに書かれていることがちゃんとわからない(!)子」がたくさんいます。別に頭が悪いわけではありません。「読めること」が「読解力」と結びついていない子です。
 「読書百遍、意自ずから通ず」。かつての子どもたちのように「素読を重ねる」というような経験を今はできません(しません)。つまり、「『意が自ずから通じる』まではいかない」ということを、指導者は『肝に銘じなければならない』。小さな子どもたちの学習指導では、このことを忘れることはできません。彼らは「書かれていること」に対して「きちんと『たどった』ことがない」ので『考える』きっかけを失ってしまっている子です。
 前回、算数の学習の話でも触れましたが、「考えるフィルター」を経由しないで答えを出す(出してしまう!)子が増えています。何かを一生懸命考えるという経験が足りないのでしょう。

 その大きな原因は容易に想像がつきます。今は生活が便利になり、生活のリズムが極端にスピードアップし、子どもたちのタイムスケジュールがタイトになり、『手伝い』や『留守番』もないので、「考える(知恵を出す)必要」がなくなり「ひとりで考える機会がない」子が多くなっています。つまり昔のように「知恵を絞り出す」必要も時間もなく、『考えなくても生活には困らない』環境が「整って(?)」います

 考える機会を増やしたり、学習の最も基本になる「読解力」を身につけるためにも、お母さんがたは小さい頃から、何かを読む機会があれば、「今読んだこと」に対する「確認」や「書かれていた内容に対する簡単な要約」をさせてみる習慣を、様々な場面で意識的におこなった方が良いのではないでしょうか。やがて大きく実ってくると思います。

読解力に欠かせない体験の数々
 もうひとつ、「深い理解」には欠かせない大切な要素があります。「体験」です。
 たとえば、テレビで「海辺の情景」を見ていることを考えてみましょう。
 画面いっぱいに「海辺の景色」が広がり、「青い空や透き通った海・・・」というナレーションが流れたとき、ぼくたちはその情景を思い描く必要がありません。青い空や透き通った海は現前しています。ここでも「考える(イメージする)」という体験は欠落します。

 「ビジュアルな体験」が増えれば増えるほど、皮肉なことに、逆に「文字を読んで、文字からイメージする」という機会(!)は減少します。トレーニングの不足です。
 今度は、「本を読んでいるとき」です。「仮に青い空や白い雲」と字面で現れれば、ぼくたちは、その情景を頭に思い描きながら読み進めていきます。そのイメージの源泉は体験の積み重ねです。つまり、それまでの体験の数々が、「理解のレベル」や「読むことの深さ」を応援します

 「読んで理解する」というこの過程は、国語に限らず、動物や植物や地形等を対象とする理科・社会など、ほかの様々な学習でも同じです。いくらイラストや写真が豊富になっても、テキストには、現場の空気感や五感に訴える環境は存在しないし、色や存在感も同じではありません。
 このように、抽象的な文字面を読んで理解を深めるには、体験の豊富さが大きくものをいうはずです。それらによる「明確なイメージ」が読解力を後押しし、その「理解の深さ」が「学習を面白くする推進力」になるはずです。指導を重ねていくにつれて、ぼくは毎年その感が深くなります。
 「体験」の奥行きが「学問」の奥行き、「勉強や学ぶこと」の奥行きを深くしていきます。それらに規定される読解力が、子どもたちに「学ぶ面白さ」を「提供してくれる」といっても過言ではないと思います。学んでいくと、面白さがいっぱい詰まった「とっておきの場所」に招待してくれるという訳です。それによって「学体力」が整います。
 団で実施する立体授業では、できる限り、そうした「体験の幅と奥行きを詰め込むこと」ができれば、と考えています。それによって「考えること」が始まり、一生ともにできる「勉強」、つまり「学体力」が手に入れば、と願いながら・・・。


学体力とは何か? ⑩ 「ひとりで学べる」、ということ

2014年11月01日 | 学ぶ

 前回、OB教室を経た諸君が大学進学時になると、6カ年一貫難関校に進んだ諸君にも決して「引け」をとらず、難関国立大学に合格していく例を紹介しました。偏差値からすれば、ほとんど平均以下の子どもたちの学力が、大学進学時には大きく伸びている実例です。
 そして「独学」、「ひとりで学べること」のたいせつさにふれました。小学生の早い段階で、新しく習う単元や難しい問題ができるようになるには、まず「自ら問題に入る」という姿勢を養うことが大切であることを強調しました。

 「何でもかんでも教えてもらう」、「教えてもらわなければわからない」という姿勢しか身につかなければ、「学力の大きな飛躍」は到底考えられません。
 たとえば算数の文章問題なら、解決するために「まず必要なこと」は、解答するための条件の整理です。手がかりは何と何なのか? これらが頭に残っていなければ、「どうするか」は思いつきません。何をどうしたらいいか、まで至りません
 その段階で、たとえ説明を受けてもわかりません。きちんと理解することや解決することはできません。「ひとりで読んで問題に入っていることができなければならない」わけです。塾に通っていても「いっこうに成績が上がらない」という場合など、学力不足、成績低迷の多くは、こんな小さなことが原因です。そして、それらの学習姿勢は小さいころに養っておかないと身につきません。そのためには、「まず読んでみる」「ひとりで考える」。そこがスタートラインです。

「当たり前のこと」をきちんとするたいせつさ
 団の日々の課題は受験学年になっても、集中すれば1~2時間で終わる少量です。大手受験塾のように「4~5時間かかる」、「12時を越えて寝る時間がない」と、子どもたちにぼやかれるようなボリュームから見れば、比較にならない量です。
 それは、課題を課す意味を、「自分で問題を読む」「ひとりで考えられる」という「学習習慣の定着」においているからです。内容も、どうしても覚えなければならない漢字などの基礎事項と計算の繰り返し演習だけです。ごく「当たり前」のものしか出していません
 「当たり前のことをきちんとできること」がいちばん大切だとぼくは考えています。「むずかしいこと」をいくらやっても、「いい加減」にしかできなければ意味がありません。
 そして「当たり前のこと」「さえ」できなければ、先々の学力の伸長などまったく期待できません。非凡にまで至りません。まずそこから始めることがたいせつです。
 難関国立大学に進学できた諸君は全員、こうして育ちました。

「環覚」と考えること
 次は「環覚」です。学習・学ぶこと・考えることに興味をもてなければなりません。子どもたちの「環覚」を整えること・育てること。つまり、「自らの周囲に興味をもつことができる、目を向けられること」が大切です
 なぜそうなのか、どうしてそうなるのか? 自らの環境を取り巻く学習対象・学習内容にまず気づき(今は、そんなことさえ「見えない」子がほとんどです)、推移を見極め、変化に着目し、というところから「学ぶおもしろさ」・「考える楽しさ」は始まります。「環覚」が整ってこないと「考えるきっかけ」も見つかりません
 小学年低学年では、未だ「考えることができない子(!)」がほとんどです。いろいろ質問をしたり、話しかけても「思いつき!」で反応する。「考える」というフィルターを経由しない。そんな状態です。
 「思いつき」や「ひらめき」も大切ですが、それによって「考えること」が始まらないと、ひらめきも役に立ちません。おもしろさは始まりません
 「学ぶ楽しさ・おもしろさ」は、「考えること」で「ひらめき」の奥行きを探っていけるところからはじまります。その習慣を育てることをしなければなりません。「考えること」と「環覚」は、こうして補い合って機能していきます。

算数の難問ー解法を読み切る 
 最後に算数指導法の紹介です。
 先に「ひとりで考える」がスタートラインだとお話ししました。6年生になると、難しい問題がたくさんでてきます。
 団では、子どもたちが授業の際、またテストの際、どうしても理解が行き届かなかったと考えられる問題については、個別に問題と解法をプリント(写真)して、理解できるまで何度も丁寧に読むように指導します。(ちなみに、この難問集は写真のような問題集にしています)
 丁寧に条件をたどりながら読み切る・・・その基礎「学体力」が、やがて大学進学時になれば、先週紹介した「大学への数学」や「難問題の系統とその解き方 物理Ⅰ・Ⅱ」を何周もできる「学体力」として結実します