『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

「学体力」が過保護を超克する⑫

2013年08月31日 | 学ぶ

子どもたちをどう育てるか?

 子どもたちにしっかり伝えたいルール。
 たとえば、ルール一には

  大人の質問に答えるときには、「はい、そうです」とか「いいえ、ちがいます」というように、いつもきちんとした言葉づかいで答えよう。ただうなずくだけではだめだし、乱暴な答え方もいけない。(同書二二ページ)

 ルール十二には
  リーディングの時間にわたしが読んでいるときには、その部分をちゃんと目で追っていること。指名されて続きを読めといわれたら、どこから読めばいいかがすぐにわかるようでなければならない。(同七六ページ)

 社会生活上のルールや授業中のルールなど、今はほとんどないがしろにされていますが、かつては当然だったルールが列記されています。後者など、現在では「なぜ、そうしなければいけないのか」、その理由がすぐにはわからない人も多いのではないでしょうか。

 ここからは、「先生の言うことを聞く」というような一面的で「権威主義的(!)」な理解ではなく、そうして「授業に集中しないと(集中力をつけないと)学習内容の理解が十分には進まない、というたいせつな意味をくみ取る」必要があります。学習内容に対する先生方の指導力の裏付けが必要であることはもちろんですが。

 こういうルールもあります。
 ルール三十七
 校外学習や旅行から戻ったときには、わたしとはもちろん(原文ママ)、付き添ってくれた人全員にお礼をいおう。きみたちを連れてゆくために時間を割いてくれた人に感謝し、よい経験ができたよろこびを態度で表すのだ。(同一五五ページ・以下略)

 こうしたルール集の翻訳を「外国から手に入れなければならない」という現状。現在の日本の子どもたちのようす。
 一方では、陰にすっかり隠れて話題にさえならなくなった現実。明治維新前後の外国人の日記や旅行記の記述、人間性のすばらしさで感嘆と賛辞の的だった日本人がいたこと。本をひもとき、両者を重ね合わせてみると、今昔の差に「呆然」ではないでしょうか

 「古くても良いものはよい」と「頑固に言い張る人たち」がいなくなりつつある今、「異常」という感覚が少しでも巷に漂っているうちに、子どもを指導すべき基準を、改めてきちんと見直す必要がある。それもできるだけ急ぐべきだ。そう思えてなりません。
 指導を始める前(二十年以上前になりますが)までは、ぼくも「きちんとした生活習慣」や「基本的なしつけ」が学力や成績と大きく関わるなどとは考えもしませんでした。 子どもたちと家庭環境、そしてその後の成長の姿を比較対照できる立場にならないと、ほとんどわからないからです

 団で指導経験を重ねるにつれ、成績や学力・育っていく人間性と家庭環境には、無視できない大きな相関関係があることが心底わかるようになりました。「人の話をきちんと聴ける」、「話に集中できる」など、基本的な「しつけ」の有無が、如何に学力や学力の伸長に大きな影響を及ぼすか。育った目の届かせ方や気配り・人生に対する真摯な態度・裏表のなさが、学力の伸長を大きく後押しする揺るぎない「学体力」を育てていきます
 ないがしろにされている「ルール」。子どもたちの健やかな成長のために「本当に大切なこと」を受験勉強一辺倒ではなく、もう一度考えてみませんか。やがて、「育った子どものすばらしさ」によって、そのたいせつさがよく理解できるはずです。


「学体力」が過保護を超克する⑪

2013年08月24日 | 学ぶ

子どもたちをどう育てるか?
 

 多くの人が感じている受験勉強を中心とした決して楽しくはない学習のイメージ。「我苦修」です。さらに、苦労の割には手応えのない実らない学生生活(学力のみには限りません)。学生時代、「素晴らしい未来に向って」と、歩をすすめられた自覚がある人はどれだけいるでしょうか。

  ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習にはじしんがあります。ぼくは3歳の時から練習を始めています。3才~7才までは、半年位やっていましたが、3年生の時から今までは、365日中、360日は、はげしい練習をやっています。だから一週間中、友達と遊べる時間は、5時間~6時間の間です。そんなに、練習をやっているんだから、必ずプロ野球の選手になれると思います
                       (「溺愛」我が子イチロー 鈴木宜之著 小学館・原文まま)

 イチロー選手の小学生時代の作文の一節です。未来に向かって「夢の原石」を磨き続けているときのイチロー選手です。小学生時代に、子どもたちが夢を描けないはずはありません。何のための大学までの十六年間か? 何を「学び」、何を「習う」のか?  何を夢見るのか? 夢を叶えるために必要なことは何か?

 また社会にとって見れば、優秀な学力や能力は、豊かな人間性や高い人格をともなってこそ大きな意味をもつのではないでしょうか。人格がともなっていない「優れた」能力ほど、やっかいで迷惑千万なものはありません
 やがて社会に出て行く子どもたちのために、ぼくたちは何を教え、どう指導すべきか?
 叱るべきを叱らず、守るべきを守らせず。社会で生きていくうえで当然身につけるべきルールがないがしろになっている環境が、あたりまえのように定着していきます。
 約束を守れない子の姿に「注意してるんですけどねえ」というお父さんやお母さんのセリフがかぶさります。
 注意してなおらなければどうするのか? 先の返答には「その後」がありません。
 「打つ手がないから、結局放っておく」ということです。放っておいて良いのか?
 そんなことは決してありません。自分の子ですから、迷惑をかけないように、約束を守れるように指導するのが親の義務です。

 「自主性を育てる」や「自由を尊重する」という「美辞麗句」の下に、都合のいい「ほったらかし」をして、今まで例のないような未成年の多くの事件があります。
 どうしてこういう事態になってしまったのか? 若い両親は、既に大きく変わってきている環境の中で生まれ育ってきたのでわからないかもしれませんが、今昔の比較ができる人には、その原因がはっきり見えるはずです

 定評のある受験塾や進学塾に子どもを入れることには最大限の努力をはらうが、それよりもさらにたいせつな人間性や人格形成という視点からのルール指導や基本的なしつけは意識されているでしょうか。あくまでも受験学習優先ではないでしょうか? それが現在の日本です。
 手元に一冊の本があります。「あたりまえだけど、とても大切なこと」(子どものためのルールブック ロン・クラーク著 亀井よし子訳 草思社)。先に、子ども時代の湯川博士のエピソードで、小さいころ、しつけや社会常識の雑誌を見ていた話をしました。この本はそんな役目を果たしてくれます。アメリカの小学校の先生の指導方法の実践報告です。
 少し長くなりますが、訳者の後書きを引用して内容を紹介します。
 
  一九九五年、ヨーロッパ放浪の旅からもどったロン・クラークは、ひょんなことから故郷の小学校の代用教員になった。授業開始初日、彼を待ち受けていたのは、勉強にほとんど関心をもてず、基本的な生活ルールさえ身についていない五年生の集団だった。教室内は混乱のきわみ、しかも、全体をおおっているのは無気力感だった。それを目の当たりにしたロンは、まず子どもたちに社会生活における基本ルールを教えこむことから手をつけた。
  彼の指導を受けて一年、子どもたちの生活態度は大きく改善し、それまで最低レベルだった学業成績も、州のトップクラスに躍りでるまでになった。おもに五年生を担当したロンは、その後も同じノースカロライナやニューヨークのハレムで、いわゆる教育困難学級を受けもって同じような成果を上げた。(同書二五一ページ)

 これは場末の小学校の実践エピソードではないのか? そういう感想を抱く人がいるかもしれませんが、決してそうではありません。
 ルール集を見ていくと、現在では日本中の多くの家庭でも、あまり意識して注意したり、しつけられることもなく、子どもたちがきちんと守れなくなってしまっている、たいせつなルールばかりです。


コラム・立体授業の報告④

2013年08月17日 | 学ぶ

学習はどこで、どうして始まるか
 多くの人たちは、いや一部の学習指導者でさえ、自身のそれまでの学習経験から、学習は教室でおこなわれるもの、机上で学ぶものという固定観念から逃れることができないようです。しかしながら、教科書を開いてみるとわかるように、小学生の学習内容はほとんどすべて、日常生活や日々の行動と密着している事象、つまり自然環境・社会生活が対象です

 現在の学習のシステムを、ごくごく単純に例示すれば、「本来なら外に出てよく観察して写生をすべきところを、モノクロの簡単なスケッチを見せて色つきで再現せよ」といわれているようなものです
 注意して「何度も」見た経験でもあれば、再現することも何とかできるでしょうが、ほとんど初めての事物や体験であれば、そんな要請は雲をつかむような話になります

 そして、その際、モデルになるべき「スケッチの説明」が稚拙であれば、情況はなおさら悲惨で、誤写や誤解・誤謬のオンパレードになるでしょう。おもしろさを感じるどころではありません。自らの体験としてイメージしてみれば、みなさんも苦痛そのものであることがよくわかるでしょう。
 ところが現在まで、実際の学習指導の多くは、自然体験や環境における学習対象の実見や体験がほとんどないまま、概要やまとめという表面的な知識の暗記を頼りに、室内での指導で一面的な知識の獲得を目指します。特に中学受験の学習は、日常の経験から「突出した」問題を演習をするという方法で、学習指導が進められることになります

 その学習内容を必要とする必然性や背景、学習者の興味・好奇心の流れはひとまずおいて、「受験合格」という目的のためだけに「叱咤激励する」、ほとんど「お仕着せ」の学習が進められるわけです。
 それを支えるのは、自らが他者より優れているというプライドであり、偏った競争意識であり、合格という「つかの間の報償」であり、「過保護」であったりするわけです。
 こうした状態は子どもたちにとって正常な状態であるのか。そして、何よりもたいせつな学習のその後、発展的ステージを準備するものであるのかを、もう一度考え直さなければならないのではないでしょうか。おもしろさが教科書に先立つ学び。こどもたちのために、ぼくたちはまずそれを目指さなければならないはずです。

学習材料は無尽蔵ー立体授業が目指すもの
 団の立体授業では、学習内容に対する身近さを覚醒させ、好奇心や興味を引き出すべく指導を重ねていますが、それはともすると「暗記」に終わりがちな受験学習を、少しでも「好奇心が導く」学習に転化させ、成長の過程で、次のステージを準備するものに育ててほしいという願いからです。

 教室をはなれる野外学習や体験は、学習内容に限らず、学習方法や子どもたちの成長にとっても、無尽蔵の材料を準備してくれます。机上やテキストの学習に終わらないのです。

 たとえば、立体授業では田舎道や山道をたどり、川辺に遊ぶ体験を重ねます。さまざまな生物が活き、そして生きています。
 おなじみのカマキリやトンボ、キリギリス・カブトムシ・クワガタはもちろん、思いのほか種類が多いカミキリムシや子どもたちの興味が尽きない尺取り虫。少し観察を続けることで、それぞれが存在を主張しはじめ、「生きてあるもの」のおもしろさが次第にわかるようになります

 「ゴキブリしか知らず、虫といえば悲鳴を上げて逃げ惑うように育てられてしまった」子と、「虫の世界にも眼を見開けた、傾きのない好奇心に目覚めた」子とでは、学習内容に対する親近感や発展的学習に目覚めてゆく学習姿勢に、やがて大きな差が生まれるようになります。

 最近、団では課外学習で拾ったどんぐりや果物の種の発芽を目指したり、立体授業で野外へ出れば道ばたや山裾で見つけた樹木の苗をもって帰ります。
 野外で足下に注意をすると、春に生まれた驚くほど多くの木々の赤ちゃんが見られます。大きく育った樹も味わい深いのですが、赤ちゃん苗木のかわいさもなかなかのものです。

 なじみのあるスギやクヌギはもちろん、サンショウ・ヒノキ・ブナ・ケヤキ・エノキ・イロハモミジ・カヤ・ツブラジイ・ウリハダカエデそしてネムノキと、あっというまに十二種類も採集できました。
 「環覚」は「環覚」を育てます。目敏さが生まれます。見つけるのが早くなるのです。自然の木々はこうして身近になっていきます。環境に目覚めます。そうした変化が学習に力を授けないはずはありません。
 また、飼育や生育を続けることで環境や生物の微妙な変化に目を向けるようになります。おもしろさや不思議さ・疑問は、生育に限らず、「ものを見続けること」で生まれます
 後日触れることになりますが、ニュートンの万有引力の発見や光の研究・ガリレオの数々の発見やファーブルの成果は言うに及ばず、エジソンやファインマンの研究や科学への目覚めも、すべて自然観察による環境の不思議さやおもしろさの「認識」から始まったはずです

 つまり、何にでも興味をもてる好奇心の豊富な小学生のころ、身の回りを「ただの草」や名前さえ知らない「気味の悪い虫」という感覚ですごせば、「学ぶおもしろさがわかるきっかけの大部分を失ってしまっている」とさえ云えるのではないか、そう思います。
 赤ちゃんの木々が生えている土壌はそれぞれ異なり、陽の射すようすもそれぞれです。気温を含む環境を丸ごと感じることができます。「見分ける」・「ちがいがわかる」・「変化に気づく」。科学の基本です
 山道で踏みしめる黒い土に生えていたスギやヒノキと川辺の砂混じりの土壌に生えていたネムノキやウリハダカエデの生育環境の相違。その隣では枯れ木にキクラゲが生えていました。
 持ち帰ったネムノキは、みんなが加工した磁器のお椀の植木鉢で、夕方になるとちゃんと小さな葉を閉じてくれます。それらの印象はすべて、「環覚」を育てる大きな一歩になってくれるのです。「環覚」を育成することで学習に親近感が増し、おもしろくなるきっかけが生まれやすくなります


コラム・立体授業の報告③

2013年08月10日 | 学ぶ

「雀チュン吉」その後

 先々週、古材でつくった子どもたちの巣箱に雀が営巣しはじめたことをお知らせしました。しばらくは小枝を運び込む二羽の姿が見られましたが、やがて出入りがなくなり、少し心配していました。
 来年に期待しようと思い始めたころ、ほとんど聞き取れないくらいの、か細いなき声。子雀です!

 そばに行って覗けないのが何とも歯がゆく、せめて協力できることが何かないかと考えた末、表札をつくることにしました。家を構えて子どももつくったのだから、表札くらい無いと、おかしいでしょ?(笑い)

 子雀の鳴き声は日を追うにつれ大きくなり、親鳥がエサを運ぶ回数も増えましたが、相変わらず声は一羽分です。そのうち、もう一つ小さい鳴き声が聞こえてきたような気がしましたが、二・三日で聞こえなくなり、先の大きな声だけになりました。
 巣立ちの時期が来て、一羽の子雀は近くの駐輪場の屋根や隣の建物の窓枠で、二・三日親鳥にエサをねだっていましたが、その後、三人(三羽)とも姿を消しました。元気に育って、また戻って来てくれると嬉しいのですが。
 さて、孵化したのがほんとうに一羽だったのかという疑問です。

 研究をしたことがないのでわかりませんが、子どものころ近所の屋根に上り(!)巣を探った経験からすると、三羽くらいいるのがふつうでした。巣をかける時期が遅かった(6月末)ので、卵を一個しか産まなかったのか、それとももっと産んだのに、一羽しか孵れなかったのか。 気になるので来年のために(部屋)をきれいにしてあげようと巣箱を開けました。
 心配は杞憂でした。一個しか生まれず、それをたいせつに育てていたようです。
 巣のなかも写真のようにきちんと(?)片付いており、来年すぐ使えそうです。ひとまず、子どもたちとほっと一息です。

クマゼミの異変・大地震は来るのか?
 立体授業、今回の最後の報告はクマゼミの羽化です。すぐ近く(歩いて二・三分)に神社が二社あり、夏期講習がはじまると、休憩時間を利用してセミの幼虫採集に行きます。教室で羽化させ脱皮のようすを観察させるのです。
 子どもたちは毎回、その色の美しさや自然の摂理の不思議さ・一生懸命ぶりに気持ちを高ぶらせています。こうした感激が、子どもたちの学習に向かう態度を育て、学習姿勢の強固な礎になることをぼくは確信しています。

 さて観察を始めて、もう十年以上になりますが、一昨年頃から、幼虫やセミの「おかしな様子」が見られるようになりました。写真をご覧ください。これは昨年の七月末、やはり神社で採集したセミの幼虫です。
 左側は正常な大きさの幼虫ですが、右側の小さい方も同じときに捕まえました。ところが、こちらの方は出てきた穴のすぐ近くで既に死んでいました。こんな不思議な姿の幼虫は見たことがありません
 クマゼミとすれば、どう見ても正常に羽化の時期を迎えたのではないようです。何らかの異変で、羽化の準備が整う前に地上に出てきたのではないでしょうか。一回だけなら、まあこういうこともあるかと見逃すのですが、実は前年も同じことがあったのです。「今まで一度もなかったことが二年つづけて」となると、やはり何かの異常を疑わざるを得ません。

 昨年はさらに、観察に行ったもうひとつの神社で不気味な光景に出くわしました。クマゼミの奇形を見た同じ日、午後八時頃です。
 外灯の暗い明かりのなか、何百匹というセミが「鳴きながら」乱舞し、ものすごい勢いで地面にぶつかっています。居着いている野良猫たちがそれを追いかけ夢中で食べているのです。
 長い間セミは見てきましたが、こんな光景に遭遇したことはありません。まるで、ヒッチコックの「鳥」の「セミ」版です。

 動物行動の異変はよく大地震と結びつけられますが、他にも全国でクジラやイルカ、深海魚などの異常行動が、ここ二・三年はよく報道されているような気もします。何か異変の前兆ではないかと危惧します。
 そして今年です。七月の末、いつものように観察に行くと、正常な抜け殻と比べると、例年とは比較にならない数で、脱皮途中で地面に落ちているセミが転がっています。一匹連れて帰ってきたセミの幼虫も、脱皮途中で命尽きました。やはりふつうではありません。注意が必要です。
 さて、野外での活動は、毎回こうしたイレギュラーなできごとやハプニングがともないます。それと関わるテーマや学習と関連づける話をすると、自らと学習と環境に対して、子どもたちのアンテナがしっかり立ち上がってくるのがわかります。「環覚」です
 プレートテクニクスと地震の話など、身近な環境の観察から地球までイメージが及びます。子どもたちは、こうして暗記に終わらない学習内容と、その後の広がりを手に入れていきます。


コラム・立体授業の報告②

2013年08月03日 | 学ぶ

アジメドジョウの捕獲
 昨年の秋、稲刈りに行く途中の飛鳥路です。車道の際を流れる用水路に、米づくりの水の分配の様子を説明しようと近づくと、子どもたちが嬌声を上げました。

  「うわぁ、何かいる!」

  「ほんまや、ほんまや。ドジョウや」

 飛鳥とはいえ、バスや車が頻繁に往来する路際です。まさかと思って覗くと、激減しているといわれるアジメドジョウです。ぼくも見るのは何十年ぶりかで、おどろきました。
 網をもっている子もいたので、つかまえて持って帰ろうというのを何とかなだめ、思いとどまらせました。激減しているという情報と、こんな小さい川で繁殖しているという健気さからです。

  「ここで繁殖しているということは、同じ川筋だから、みんながいつも側を通る飛鳥川にもいるはずだ。来年の川遊びで飛鳥川でつかまえたら持って帰ろう」
 
 帰って、図鑑を調べると、やはりアジメドジョウに、ほぼまちがいありません。漢字で書くと「味女泥鰌」、「河川の上・中流域の礫の間にすむ。産卵期は冬から春、味は絶品と評価が高く、焼き干しを椀種にするとうまい。しかし、生息地の森林破壊で、渓流が荒れ、漁獲量が減っている」。うまいから「味女」だったのです。
 また、「口は半月型で吸盤状になって、藻類をなめとる」ともあります。生息していた用水路にはきれいな水が流れ、矢印のように流れの大きさのわりに、藻がたくさん生えていました。

 実体験による、これらの生態や環境に対するイメージは学習にとっては大きなアドバンテージになります。自然保護のたいせつさをいくら力説しても、現実感のないままでは絵に描いた餅にしかすぎません。本でアジメドジョウを発見し、その概要を読んでも、学習の発展性がどこまで生まれるか。子どもたちの体験に比べれば、所詮暗記の域を出ません
 「アジメドジョウ」なんか受験に出てこない。そういう考え方の人もいるかもしれません。しかし体験を通じた生態系や生物の生き様、思いもかけぬできごとに出会った体験、これらは「好奇心の立ち上がるきっかけ」となり、教室では「思考レベルの奥行きや深さ」に大きく影響してきます。何よりもイメージの後押しがあります

 そして、今年の田植えです。同じ道をたどって飛鳥に入り、みんなで一生懸命苗を植えた帰り、飛鳥川に入りました。むやみやたらに振り回している網の使い方を指導し終えると、それぞれ思い思いの場所に散って行きました。

 しばらくすると、遠くの方で川岸の「ボサ」を探っていた子等の歓声です。まずドンコ、そしてアジメドジョウ。やはりいたのです。
 子どもたちはこうして環境と馴染みになり、親しさを増していきます。考えるべき対象が身近になっていきます。「環覚」の育成です。
 いきなり点数が上がるわけではありません。一時的に偏差値に跳ね返るわけでもありません。結果は数年後です。教室での指導と相まって、大学進学時くらいになると大きな実りを手にいれてくれます

 老婆心ですが、若いお父さんやお母さん方はデータや成績表だけではなく、「心で感じるもの」・「目に見えないもの」をもっと信頼するようにしたらいかがでしょう。 世の中には目に見えないものの方が、人間らしく、大切にすべきものであることが多い。そしてそれが確固とした人格や実力を形作る礎となる。そう思うのですが、いかがでしょうか? 
(なお、魚の専門家ではありませんので、もし種類の同定をまちがえていたら、ご教示ください)