『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

学体力とは何か? ⑨ 偏差値や進学先では計れない将来性

2014年10月25日 | 学ぶ

 『大学への数学』(四分冊 藤田宏他著)・『難問題の系統とその解き方 物理Ⅰ・Ⅱ』(服部嗣雄著 ニュートンプレス)を、指示通りそれぞれ3~4周して、国立大学に合格できたOBの話をしました。小学6年生時の模擬テスト偏差値が下記です。

 科目別成績偏差値と順位がそれぞれ赤下線部、4科目合計と2科目合計の偏差値と順位が青下線部です。4科目合計で400点中190点、受験者の平均が197点ですから平均以下、偏差値は48.9です。
 後にも紹介しますが、団で受験している模擬テストI社は小規模塾・個人での参加が多い業者で、全国展開の大手塾やテスト業者の偏差値より、かなり高い判定がでます(つまり全体として参加者の偏差値レベルは低い)。

 もちろん、レベルの把握さえできていれば、何ら支障はありませんが、そのレベルの想定が容易なように、全国展開の模擬テスト(この場合は日能研2012年版)との比較も紹介しておきます。団受験社I社の51が日能研では40ですから、偏差値49は39台に比定されます。彼は小学生時の偏差値39で国立大に進学できたということです。
 以前もお伝えしましたが、彼に限らず、小学生のとき入団しOB教室を経た団の卒業生のうち、約半数が京大をはじめとする難関国公立大学へ進学してくれます(左記実績参照)。ごらんのように、小学生時の偏差値や進学先で子どもたちの能力や学力判断はできません。小学生時の偏差値や進学先は、その時点での「学力判定」の「参考」にはなっても、「それだけ」です。「学体力」が身についたわけではありません。決して「将来性」や「可能性」を保証するものではありません。以降の能力とその伸長を規定するものではありません
 逆に、可能性や「成長力」にあふれた時期に、偏差値に縛られ、偏差値の上昇に目の色を変え、「フォアグラ学習指導」をつづければ、「百害あって一利なし」だと考えています。そんなことより、まず「学体力の養成と定着」、そして「それを補う日々の指導や取り組み」にしっかり目を配るべきです。「フォアグラ指導に耐えうる力」ではなく、自ら「学んでいける力」を身につけるべきです

 ちなみに、団から難関国公立大学へ進学した諸君全員(報告分)の小学校卒業時の偏差値も、同じく日能研の偏差値に換算して紹介しておきます。進学大学と小学生時の偏差値をよく比較してください。「成長力の大きさ」がよく分かると思います
 「偏差値の上下に右往左往する」以上に、そうした時期にたいせつな、学習指導や子育てのヒントになるかも知れない方法の一端からお話しします。以前紹介したK君をはじめ表中の全員が、こうした指導で育ったからです。

養うべきは「学体力」
 ぼくは「教育畑」ではなく、「未開の山野(!)」で、さまざまな職業や社会経験を経てきました。教育大在学中をふくめ東京に住んでいた約8年間、看板屋見習い・新聞拡張員・百科事典のセールスマン・広告代理店・自販機本のライター・漫才台本作家見習い・サパークラブのバーテンダー・・・と、幸か不幸か、体験エピソードには事欠きません。授業の際や子どもたちに注意する際に、時にはおもしろおかしく、それらのエピソードに触れることがあります。

 エピソードを通じて彼らにわかってほしいこと。それは、「勉強なんか(!)『しんどい』ことでも、『むずかしい』ことでもない」ということです。授業をしっかり聴き、定評あるテキストのくり返し学習さえすれば、好成績をあげることはむずかしくありません。学習範囲はきまっているし、「正解」も用意されています
 ところが社会にでれば、日々「正解のない難問」を突きつけられ、自らの心の内、また外からの要請(強制?)という、「内外とものプレッシャー」のなかで「解答」を求めつづけなければなりません。それが現実です。生きていくことの真実です。そこで必要なものは、「学力ではなく、学体力」です
 大学を出れば、会社員になるにしろ、公務員になるにしろ、商売を始めるにしろ、どんな職業に就こうとも、あるいは職に就かなくとも、直面する問題の「正解のない解答」を求めつづけなければなりません。「社会に出れば、『「楽しいこと』もたくさん待っているけれど、楽しいことばかりではなく、「『苦しいこと』だってたくさんあるんだ」という現実を、ぼくはきちんと伝えたいと思っています
 経験が無く、解決の手がかりもなければ、自ら手がかりを探して解決の糸口を見つけなければならないし、納得できる良い結果を出すためには、さらに努力をつづけなければなりません。

 解決策を手にするためには、「学力・知力」という精神面だけではなく、それらを補完する「肉体的な強さ」もともなわなければなりません。まず養うべきは、「ひ弱な学力」ではなく、「学体力」です
 知り合うことができた子どもたちには、そうした力を手に、充実して納得できる人生を送ってもらいたいと思っています。それには、大きな夢をもつ一方で、しっかり現実を見つめる力も必要になります。

 「(中学受験)勉強」の先に、何も見えなければ、あるいはよくわからなければ、「勉強」ほど「しんどく感じるもの」はありません。さらに、受験勉強一色で受験勉強以外の体験も少なければ、受験は無事乗りきっても、その解放感と脱力感の嵐、さらに先の目標も見えなくなります。そうした精神状態が、以前取りあげた難関中高一貫校卒業生の、「半数にも及ぶ浪人生の出現」の大きな原因だと、ぼくは考えます。

 中学受験に限りません。高校受験・大学受験であろうと、自らの内なる『学体力』の定着が伴わなければ、結果は同じです。
 学体力の定着には、こうした精神的なバックボーンだけではなく、「環覚の育成」による、『学習内容』や『学習対象』の『机上に終始しない興味や好奇心の掘り起こし』が必要であることはもちろんです。団では、それを「立体授業」の展開で補っています。

「独学」の「スタートライン」
 左の写真を見てください。

 

 それぞれ『大学への数学』と『難問題の系統とその解き方 物理Ⅰ・Ⅱ』の紹介ですが、こうした細かい活字が何百ページも続いている問題を「やり切る」には「生半可のやる気」では到底太刀打ちできません。相応の「学体力」が要求されます。
 甘やかされて、手取り足取り「教えてもらう」学習生活・受験勉強生活に慣れ、いつも誰かの助けを待っているような学習態度から脱却できていなければ、「数ページ(!)」読み切ることさえできないでしょう。見るだけでイヤになるはずです。現在の子どもたちの学習問題の根源はそこにあります。「学体力」の欠如です。ひとりでやり切れなくなっているところです

 団を卒業したOB諸君の感想や結果を見れば、今なお、それぞれの科目について、「歴史があり実績・定評のあるテキストをやり切る」ことができれば、合格はそれほどむずかしくないことがわかります。やる気さえあれば、ひとりでもできます。

 有名なところでは、「だから、あなたも生きぬいて」の大平光代さんや「独学」の東大教授、柳川範之教授(「東大教授が教える独学勉強法」草思社)など、「独学」の著名人も少なくありません。たいせつなことは、それまでの「学体力」の育成です。それが、子どもたちの「将来」も形作ります
 大学卒業生の学力の低下や社会人としての能力の不足が話題にされることがあります。これは自らの目標(たとえば大学受験)に対して(さえ)「あなた任せ」で、「自らの責任において行動を起こせない、大人としてのスタートラインといってもいい時期なのに、それさえできなくなってしまっていること」に既に現れています。「一人前になるきっかけ」が失われています

 大学受験を「予備校頼り」ではなく、自ら情報収集(今はその環境には事欠きません)し、参考書を自選し、学習計画を策定し、受験戦線を乗りきる。やろうと思えば誰でもできます。
 まして、純粋の「独学」ではなく、ほとんどみんな学校に通っているわけです。全くひとりではないわけですから、客観的に、冷静に見れば、その甘え振りがよく分かるのではないでしょうか。
 その経験は、社会に出てから仕事をする上でも大いに役立つ経験になるはずです。「社会人としての能力不足」とは言わせない力がつくはずです。実体験からの回想です。
 団員諸君には、そうした姿をイメージしながら、日ごろの授業や指導を重ねています。
 一例を挙げれば、3~4年生から、新しい単元や問題に対しても、「まず自分で読んでみる」ということからスタートします。まず、「問題に入ること」ができなければなりません

 「問題の内容」でさえ頭に入っていなければ、到底解くことなんかできっこありません。何でも「教えてもらう」という学習をつづけていれば、「自ら問題に当たるといういちばんたいせつな姿勢」は育ちません。ひとりでは何もできない、独り立ちできない子が育って当然です。問題もひとりではきちんと読めなくなり、ケアレスミスも増えてきます。ケアレスミスは、単に「性格」ではなく、「しつけ」や「日ごろからの指導・育て方」が大きな原因です
 『学習する姿勢』・『問題に向かい自ら解決を試みる姿勢』が養われてこそ、「学習」が「本来の意味」をもつようになります。そういう姿勢がともなえば、中・高に進学しても、スムーズに乗り切れるだろうし、「大学進学のためだけ」に終わらず、将来にわたって、その経験は生きてくると信じています。一生必要になる「独学」のスタートラインに立てます。


学体力とは何か? ⑧ 偏差値39から神戸大学へ

2014年10月18日 | 学ぶ

居酒屋で、馘首の話
 数日前、A君と食事に行きました。約束をしていたロングマン(LDCE)を渡すこともできました。
 二人で鍋をつつき、笑いながら、「家庭教師、馘首になったんやて?」と尋ねると、「そうなんですよ、一生懸命にやるよう注意しただけなんですけど」と照れながら教えてくれました。

 「今の子は一生懸命することを知らんねん。昔と比べての裕福さや少子化で、生まれたときから、全部準備して与えてもらってる子が多いから、やってもらえることが当たり前で、自分で一生懸命やる必要ないねん、せやからや思う。お父さん・お母さんもそれをわかって躾けせなあかんねけど、自分らも子ども時代、恵まれていた人が多かったはずやから分からんねんナ」

 「そう思います、もう少し理解してもらったら良かったんですけど、結局わかってもらえませんでした」

 「ほんま、しょうがないなあ。先生もそんなこと、ようあるねんけど、そこで折れたらあかんで。つづけや。子ども、ちゃんと育てなあかんし、育ってほしいと思たら、同じようにつづけてや。育っていく子が大事やから・・・」

 「わかります。大学のクラブの後輩たちも、なんでもっとやる気を見せたり、きちっとでけへんね、といつも思います」

 「そうやろ、そうやと思うわ。そんな子になって欲しくないと思うから一生懸命やってんねん。小さいころに「好き放題」やってる子はわからんからな、それが。『好き嫌い関係なく、やらなあかんことがある』ゆうことを教えてもらってないから・・・

 「注意をすると、グルになって反抗的な態度見せたり、ふてくされたり・・・ほんま困りますわ・・・」

 「イメージできる、ようわかるわ。そんな態度が結局いじめの一因にもなんねけどな。たいへんやとおもうけど、がんばりや。やってることはまちがいないからな。言うこときかんでも、『こうやるねん』と背中で見せたり・・・」。
 そういいながら、「またひとり育ってくれたぁ」と胸いっぱいでした。その夜、ジョッキと杯(!)のピッチが上がったのは、もちろんです。

夢のはじまり

 「公平(仮名)、受験の時も、大変やったやろ(笑い)」(Aクンを以後「公平(仮名)」にします)

 「そうです、母とほとんど『殴り合い』に近いけんかになりました、ハハハ。『行く』といって、言うこと聞かへんかったから・・・」

 ぼくはそこまで知らなかったので、「飛びきり美人(!)のお母さんの強さ」にもびっくりしながら
 「たいへんやったもんな、お父さんも『浪人して京大行く、いうてますね、無理やのに。何とか説得してやめさせてください』っていうて来やはったもんな・・・」

 ぼくはそのとき、お父さんに、こういうことを言いました。

 「公平君をずっと(7年間)見てきましたけど、男らしくて、裏表もありません。やる言うたら、やる子や思います。ぼくも、そう教えてきました。負けん気も強くて、彼がそういうには、それだけの覚悟があるんや思います。できるだけ努力をして、高いところを目指して欲しい。そうせんとわからんことがたくさんある、そうも教えてきました。ぼくが親やったら、彼を信じたいと思います。ですから、申し訳ないんですが、やめるよう説得することはできません。お父さん、もし失敗しても、それだけの覚悟やったら、それによって手に入るものは、公平君の人生に、ほんまにかけがえのないものや、思います。申し訳ないんですが、言うことをきいてあげてくれませんか?」。
 それが彼の夢の始まりでした。

「一生懸命やることを教える」
 ぼくはこどもたちに、いつも「一生懸命やることのたいせつさ」を説き続けています。「好き・嫌い」、「できる・できない」ということを判断するレベルが、現在はあまりにも「恣意的(!)に行われすぎている」と思うからです
 見ただけで「イヤだ」という人(子)がたくさんいます。あるいは、やりもしないで、できないとあきらめたり、投げ出したりする子も増えています。過保護で甘やかされている子がどんどん増えているからだと観じています。それらは当然「勉強」にも関わってきます。

 「好き・嫌い」は自らやってみなくては分からないし、適当にやっていれば、「本来であれば、できるもの」も、いつまでたってもできるようになりません。
 「できる・できない」は一生懸命やってはじめて正しく判定できます。「得意・不得意」も、一定期間それに馴染んで「一生懸命取り組んでの結果」を見定めなければわかりません
 仕事にしろ何にしろ、「やることが見つからない」、「何をやっていいか分からない」という話をよく聞きます。そういう人たちは、「目の前に相対していることに、無心で、脇目もふらず、一生懸命になったことがあるかどうか」、一度振り返ってみてください

 何ごとであろうと一生懸命取り組まなければ、「うまくできない・よく分からない」のは当たり前です。それではおもしろくなりません。「次もやろう」という気は起こりません。つまり、「やることが見つからない」、「何をやっていいか分からない」というわけです。
 「好きなこと」ばかりをしてきた、「やりたいこと」だけしかしてこなかった。今はそういう子がほとんどです。そういう子には、好きであろうと嫌いであろうと、「見かけだけの判断」や、「中途半端な取り組み」で終わらせるのではなく、相対していることに、まず一生懸命取り組んでみることを教えてあげなければなりません

 いったん「浸って」みないと、「できる・できない」「得意・不得意」「好き・嫌い」「おもしろい・おもしろくない」を正しく判断できません。一生懸命やることで、自分に合わないもの、嫌いなもの、苦手なものがよくわかります。そうしてはじめて、ほんとうにやりたいこと・好きなものが見つかります。「人生をかけたいもの」・「一生つづけたいこと」が手に入ります
 また、世の中には「やりたくなくてもやらなければならないこと」がたくさんあります。それらに取り組み、一生懸命やればやるほど、世の中の役にも立つはずです。

 また「寿命」がその典型ですが、「有無をいわさず受け入れなければならないこと」も少なくありません。それらを中途半端にしかできなければ、自らが関わった、そのたいせつな「人生の時間」は無駄になったことになります
 いずれにしろ「目の前のことに一生懸命取り組むこと」で、子どもたちは可能性を広げ、一つずつ成長を重ねていくことができます。一生懸命取り組むことができなければ、それだけ可能性を削がれてしまうことになるし、適当にお茶を濁していれば、「できる・できない」や「ほんとうに好きなこと」・「自分に向いていること」・「やりたいこと」は永遠に見えてきません。公平(仮名)君に教えたのはこのことですし、団が今子どもたちに教えつづけているのもこのことです。

「先生、能力とは努力をつづけられることですね」
 酒が進み出したころ、勉強の話題になりました。気になっていることがありました。

 「ずーっと聞きたいことがあってんけど。Yちゃん(妹)に、浪人したときの神戸大の試験は、帰ってすぐ『今回は絶対合格した』、いうたんやろ? それを聞いたとき思てんけど、おそらく数学と理科で相当高得点できた実感があったはずや。ちゃうか? 」

 「何で、わかりますの? そのとおりですよ」

 やはり、そうでした。
 「怒らんといてや(笑い)。公平は国語の得点はそんなに飛び抜けへんはずやから、数学なんか、おそらく完答に近い得点やったんちゃうかなと思たんや。それと塾にあった『大学への数学』(研文書院)が相当使い込んであったからな(笑い)」

 「先生のアドバイス通り、『大学への数学(四分冊 藤田宏他著)』は三回ずつやりましたし、物理の『難問題の系統とその解き方 物理Ⅰ・Ⅱ(服部嗣雄著 ニュートンプレス)』は四周しました。やったあと、「高校の数学は、こんなにやさしいかったんか」って思うようになりました(笑い)。それと予備校の英語の授業取りましたけど、別に行く必要なかったな、と今思います」

「そうやろ。やろ思たら、自分でなんぼでもできるんや。それをわかってほしかったんやで。学力は『生来の能力と努力とのかけ算』なんや

「そうですね、先生が言ってたこと、ようわかりました。『能力は努力をつづけられること』ですね」

 学体力の定着です。この手応えがある限り、公平君の人生は、もう、何の心配もありません。「とびきり(!)」きれいなお母さんに、今度ぜひ伝えようと思っています(笑い)。
 来週は小学校の時の成績等、少し紹介します。そして、それによって、最終的に偏差値が学力にもっている意味(!?)を考えていただければ、と思っています。
 学体力によって「確実に」偏差値の差は克服できます(ブログ『学体力は偏差値を超克する』他をぜひごらんください)。難関校進学がその後の人生を左右するのではなく、子どもたちの『学体力』が、彼らのその後の人生を形づくります


学体力とは何か? ⑦ 知命

2014年10月11日 | 学ぶ

 先週は、「学体力」が養われていく過程について、ひとりの少年の「算数の作文」から、その心の中をのぞいてみました。また、小学生から入団し団のOB教室を経た諸君の成長の様子については、以前「K君アフリカへ行く」で京都大学大学院卒業後、医師の道を志し三十倍という学士入学を乗り越え神戸大学医学部に進学した一期生のK君を紹介しました。

 自ら望んだわけではないのですが、さまざまな経験や転変を漂い、「不惑」を過ぎて「而立」したぼくは、孔子の人生の計算では十年遅れていたのですが、「知命」だけは年齢通り間に合ったようで、今はそのことをとてもしあわせに感じています。
 その喜びを運んでくれるのが、毎年成長した姿を見せてくれるOB諸君です。京大へ進んだK君だけではなく、団にはまだまだ素晴らしい諸君がいます。
 今回から、神戸大学工学部へ進んだ、ひとりの「やんちゃ坊主」A君(仮名)の学体力を紹介します。

A君が家庭教師を馘首(クビ)になった理由
  三人兄妹の末っ子の進学相談にこられたお父さんが
 「・・・先生、この前Aが、家庭教師、クビになりましてね、ハハハ。もう先生の通りですわ」。
 何が「先生の通り!」かよくわかりませんが、家庭教師のバイトがクビになったとは、ただごとではありません。理由を聞くと、
 「いや、教えてた子がやる気を見せず、チンタラやっているので、ガツンと言ったらしいですわ。そしたら、断られたようです」。
 ぼくは、彼のその様子を想像してほほえましく、笑いながら、
 「それで、いいじゃないですか! 当たり前ですよ。今はそんな子ばかりです。ほんとうは親が教えるべきですが、教える人がほとんどいなくなってるんです。A君はまちがっていません。ぼくもそう教えました。やるときは何でも一生懸命にやる子に育てないと、お先真っ暗ですから」・・・考えてみると、やはり「先生の通り」でした。

 子どもたちの多くは(保護者はもちろん)、今なお「勉強=受験」という呪縛から逃れられず、さらに「勉強する理由・しなければならないという確とした裏付け(!)」の自覚もないまま、「おもしろさやたいせつさ・勉強する意味」とは、「かけ離れたところ(!)」で学ばざるをえなくなっています
 日常生活・学習活動・野外活動など、「勉強を深める」絶好の機会にも、学習内容の「抽出対象」である事象に目を向け、おもしろさや不思議さを見出したり、授業との関連を思い起こして興味を増幅させたり、という経験はほとんどできていません(つまり「環覚」が整えられていません)。
 エジソンの退学事件(ブログ「ファインマンの父とエジソンの母」シリーズ他参照)にあったように、多くの子の中では相変わらず、「勉強」は「余計なもの」であり、「したくないもの」です。その壁を何とか打ち破らなければなりません。
 「勉強する意味」が納得できず、「受験のため・進学のためだけ」で「机上の勉強」から始める今の状況では、よほど条件が整わないと、「勉強」なんか(!)」と決しておもしろくなりません

 「おもしろく」なる条件とは、その「たいせつさ」や「する意味」がわかること、「習っていることが少しずつわかるようになること」、また学習が決して『とってつけたもの』ではなく、どんな意味においても「自らの環境」と「自ら」の両方と切り離せないものである(「生きていくうえで欠かせないもの」)である、という自覚が生まれることであると思っています。
 そこから、さらに自らの環境や社会に対する解釈や理解が可能になると、その奥行きを探りたくなる、言い換えれば好奇心が増幅し追求や研究が進む、つまり、おもしろくてしかたがなくなる、という進み方をするのではないか、と考えています。(注・その根拠は、「学ぶこと」が実は、われわれ人間にとっては「快感」で無ければならないという仮説なのですが、それについては後日また触れるときがあると思います。)
 そうなるまでには、ほとんど初めてのことばかりですから、「一定の我慢と慣れる時間」は欠かせません。「我慢や辛抱」することを教えられていない子は、学習を「きちんと進めよう」とすると、そこで早々にギブアップします

 そこで指導者はどうするか? A君がぶちあたった問題です。
 責任感が無く、子どものことや将来を真剣に考えない指導者は、「金のためだと割り切り、お茶を濁しておく」。金儲けだけが目的の大学生のアルバイトや一部の塾ではよく見られる光景です。
 また、「無視して事務的にマイペースで授業を進めていく」。これもよくある事例かも知れません。
 あるいは、子どもに阿って「受ける話をしまくる!」。これは「おもねっている」限り、いつまで経っても「同じことのくり返し」です。子どもたちの話をあちこちで聞くと、一部の教育機関では、既にそうなってしまっているようです。

 これらの指導方法をいくらつづけても、子どもが勉強好きになったり、おもしろくなったりする可能性は少ないでしょう。「子どもたちの学力を養成することのたいせつさ」や「子どもたちが『学ぶおもしろさ』を手にできるか否かの大きな違い」に真剣に目を向け立ち向かおうとすれば、この最初の壁をどう乗り越える(させる)か、その乗り越えさせ方がキーポイントになります。いちばん大切な指導かもしれません。

 おもしろくなるにはどうするべきか。おもしろくなるまでに何をするべきか。勉強であれ、何であれ、目の前のことをまず一生懸命やることが大切です。一生懸命できないと、「好き・嫌い」「できる・できない」はわかりません。おもしろさまでは、到底たどり着くことはできません

 この壁を登攀克服しないと、子どもたちは、「学ぶおもしろさ」・「わかる楽しさ」などまったく知らずに、一生を過ごすことになってしまいます。そうなれば、「知的豊かさ」を手に入れることはできないし、「人生の楽しみ」も半減するでしょう。生活や生き方がかなり「貧しくなる(もちろん、経済的にではありません)」ことは否めません。

 責任感が強く男気のあるA君は、そのことを重々承知のうえで厳しくあたったのでしょう。「一度しかない人生をたいせつに生きること」を教えようとすれば(それこそ先生のいちばんたいせつな役目の一つだとぼくは考えています)当然のことではないでしょうか。その子は両親の理解があれば、A君と同じように、男らしく、生きていくうえでも欠かせないことをたくさん身につけられただろう。そう考えています。

両親の理解と子どもの育て方ー三者面談をする理由
 入団の面談の際、団では必ずお母さんかお父さんと入団する子の三人で話をします。お父さんやお母さんと子どもとのやりとりの様子を見ていれば、よくわかることがあるからです。それが指導の大きな糧になります。

 親子の会話や返事のしかた、どちらかがぼくの質問に答えているときの、それぞれの様子・・・など、それまでの育てられ方や育て方がよく見えて、入団してからの指導におおいに役立ちます。子どもに対して「リーダーシップ」がとれているか、言うべきことをきちんと言えるか、その「迫力(!?)」はどれくらいか等々です。それらによって「指導しなければいけないところはどこか、注意しなければいけない時はいつか」という方針が見えてきます。
 十数年前くらいから、「どちらが親か子かわからないような親子」が特に増えてきています。「うちは友だちのような親子」とうれしそうに言うお父さんやお母さんをよく見かけます。

 「若く見られる嬉しさ」はほほえましい限りですが、「子育て」は、常識外れの素直さを持ち合わせて生まれたのならともかく、そんな「柔(ヤワ)」ではできません。親がいくら若く見えても、子のほうが年上ではありません。教えなければならないのは誰か?
 もし「友だちのよう」であれば、「親はいない」ことになります。何も知らないでこの世に生まれてくる子が、「やってはいけないこと」や逆に「どうしてもやらなければならないこと」を「友だち」に教えてもらうわけにはいきません。きちんと子育てするためには、親として、一人の社会人としての客観性と正確な判断基準を忘れることはできません
 見ている感じでは、最近ではそのあたりのけじめも「友だち」になってしまっているようです。「友だちが教えているような塩梅」であれば、そのレベルは、身内でのつきあいではともかく、社会的には「相当ひどいか、手遅れ」であることがほとんどです。

 子どもが生まれれば、対社会的にとるべき態度や基準を自らがこころえ、自ら実践し、教えていく(いける)のが親で、また、それができるのは親しかいません。先生や他人は一日中見ているわけではありません。小さいころ、一番長い間見ている(ふつう、同居しています)のは親で、善悪どちらにしろ「その変化を感じることができる」のも親のはずです。大きくなってから「言うことを聞かない」「約束を守らない」などと、後悔し嘆いても「後の祭り」で、たいてい「大きな改善」は不可能です。
 子どもにルールを教えるべき時期は、「そのルールをまだ守らなくても許される幼いころ」しかありません。その頃軽く考えて「甘やかし放題」して、「大きくなればわかるだろう」と「物わかりの良い親」を気取っていれば事態は一向に改善しません。OB教室を含めてひとりひとりの成長を十年近く見続けてきた確信です。他人の目・注意の視線が残っていた一昔前とちがって、子どもをとりまく環境が大きく変わった現在は、「いつまで経ってもわからないままの子」がほとんどです。


 学習相談にこられるお父さん・お母さんと子どもを見て判断したいのも、そのこと―子どもとの関係・その有り様です。先述のように、それらの条件が、以降の順調な学力の伸びにおおきな影響があることが経験によってよくわかってきたからです。

 そして身につけた学力は、それにふさわしい人格をともなってこそ価値があります。「世の中に出しても恥ずかしくない子を育てなければ」という「廉恥」も忘れてはならないと思います。お父さん・お母さんには、しっかりそのことを伝えたいと思っています。
 人格や社会性がともなわない学力は、多くの場合「害」にはなっても、役には立ちません。団で育ってくれる子には、可能な間に注意すべきはきちんと注意し、高い学力とともに、社会・世間にとっても、「かけがえのない存在」として成人してほしいと心から願っています。

けんか三昧?
 「馘首になった家庭教師」、A君の成長のようすをくわしく紹介します。
 十年前です。飛びきり美人(ほんとです!)のひとりのお母さんが、6年生になる男の子の進学相談にこられました。
 小学校一年生から空手をやっていて、腕白でけんかばかりしている。地元の中学校が荒れていて、このまま進むとたいへんなことになりそうだから、私立進学を考えている、というわけです。
少し話して、次回、子どもといっしょに来てほしい旨を伝えて、その日はお引き取りを願いました。

 さて、後日お母さんといっしょに来たA君は多少生意気で、「向こうっ気」の強さはありましたが、もうじき6年生という時期ですから、予想の範囲内です。それより想像していた以上に、素直で根性がありそうです。また「イヤな後ろ暗さもない(つまり隠し事をしない)」ようすが気に入りました。きっとちゃんと育ってくれるはずだ。A君を見てそう確信しました。
 来週から、小学校時の偏差値40代から神戸大学に進むまでの学力を身につけたA君の学習と成長の様子を、詳しくお伝えします。それは学体力の定着そのものでした。


学体力とは何か? ⑥

2014年10月04日 | 学ぶ

 先週は、「学体力」が養われる過程について、少年の「算数の作文」から、その心の中をのぞいてみました。そして、幼いころからの「我慢」や「しつけ」がたいせつであることをお伝えしました。
 「甘やかし放題」、あるいは逆に「放りっぱなし」。それでは学力向上の望みは叶いません。大きくなってから、いきなり勉強を始める子が生まれるわけではありません

 仮にあったとしても、そんな希有な偶然を待っているわけにはいきません。また傍目にはそう見えたとしても、幼いころからそれまでに準備・条件が整ってきたからです。
 勉強(学習)を「ないがしろにする」、あるいは「重きを置かない」家庭や環境から、学習することのおもしろさを見つけられる子や優れた学力を身につけられる子は育ちません。育てるためにはそれなりのお膳立てや適切な指導は欠かさないことです。

 「学習することをたいせつにできる(!)子に育つ」のは、人の話をちゃんと聴けたり、きちんと言うことを守ったり、一定時間落ち着いて座っていることができたり、というような「当たり前のルールがわかる子」です。そうしたルールをきちんと伝えることが基本です。
 さて、福井博士の勉強法をもう少し見ていきましょう。「本の読み方」、「本を手にとりながらの勉強のしかた」です。

勉強法―「鉄板」を五周・十周することのたいせつさ

 コピーを取って保存しておくという方法に甘んじると、本のエッセンスは決して身につかない。古風なやり方ではあるが、本の内容を自分の血とし肉とするためには、自ら筆を取って写すか、要点をメモするのが、かえって近道なのである。経験による信念からそういうのであるが、これは若い読者にお勧めしておきたい事柄だと思っている。 
                    (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p115・文責・傍線は南淵)

 大学生になると、友だちのノートをコピーしたり、講義を録音することが当たり前のようになっていますが、そうした感覚で勉強することに対する警鐘です。「軽さ」追求に対するレッドカードです。
 「コピーを取って保存」だけしても勉強にはならない。本を調べ、読みとり、その内容を自らの血肉化するためには、まず書き写そう、というわけです。筆記すると、頭の中での「思考」の進み具合や記憶への定着レベルがまったくちがってきます

 また、「要点をメモする」ためには「落ち着いて何度も読みかえすこと」が必要です。そうでないと的確な要約はできません。「くり返し」のたいせつさです
 決して『手軽』ではありませんが、福井博士は、本の内容を血肉化するためには、そのほうがかえって近道だと言うのです。結果、ノーベル賞に結びついたわけですから、真似をしない手はありません。次も同じく福井博士が深い理解を進めるために、湯川秀樹博士の著書を勉強するのに採った方法です。

 これらの書には多くの数式が載っていたが、私はそのすべての式を、紙と鉛筆を用いて省略なしに導くことを実践した。それでもなお誘導できない式はいちいち原論文を読んで理解することにした。  (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p116~117・文責南淵)

 先の「『鉄板』の五周・十周」エピソードも、要は同じです(「偉人たちのブレイクスルー勉強術」斎藤孝著・文藝春秋p239~241参照)。「理解しながらのくり返し」による鍛え方です。

 斉藤兆史先生の、「英単語の意味を、まだそうする意味もわからず(!)『調べ倒していた』」方法も一流大学教授という結果をもたらしました。「丹念に地道に学習を繰り返す」という「学体力」をともなった方法が「能力・学力を高めるAであり、Zになる」という証明です。斉藤先生も著書で、何よりもそのことを伝えたかったのでしょう。
 ちなみに、開塾以来、団でも子どもたちへの指導はこうした方法を採用しています。公式化・定型化で暗記を優先する多くの学習塾の指導法とは一線を画しています。「手軽さ」の追求ではなく、おもしろさや深い理解に結びつく「成り立ちとしくみ」の開示・反復学習をいとわない「学体力」の養成をいつも念頭に置いています

 例えば公式の指導を例に、「根の公式」の指導であれば、よく行われているような「公式そのものの徹底暗記」を意識するのではなく、それまでの「公式の導き出し方を徹底理解させる」という指導方法です
 その理由です。仕事が大変だからと、仮に工場に「最新式の機械」を導入しても、使い方が十分わかっていなければ、まったく意味がありません。「他への見ばえが良い」だけで、かえって、「はたらく人(?!)」の仕事や作業の邪魔になります。

 

 偏差値だけから言えば、小学生時代には歯牙にもかけられないような成績の団の子どもたちが、大学受験時には、それら中高一貫トップ校の諸君にも決して引けを取らないような難関大学に進学できる大きな理由(「学体力は偏差値を超克する」等をごらんください)―そのひとつは「わかるまで何度も反復学習できる学習姿勢・学習能力」つまり「学体力」が身についたこと、そしてその「学体力」によって手に入れた「理解の広さと奥行き」だと思います。それが団の実践の等身大です。
 今までの例から、難関大学合格も「思いの外」容易になるだろうとは想像できませんか?  意識を少し変えれば誰にでもできる方法です。
 指導する側の心構えを紹介します。

 まず「学ぶことのたいせつさ」をしっかり伝えつづけること。「学習対象の近しさとおもしろさ・不思議さ」に気づける「環覚」の育成を心がけること。そして、もっともたいせつな条件だともいえますが、こうした指導法に対するお父さん・お母さん(保護者)の理解と協力を得る努力をすること
 それらが整うと、やがて団のOB諸君のように、さわやかな笑顔と「素晴らしい成長」をプレゼントしてくれます。それだけではありません。自分たちが描ききれなかった「大きな夢」も届けてくれるはずです(「K君、アフリカへ行く!」等をごらんください)。

記憶と創造力
 さて、前後しましたが、「『鉄板』の五周・十周」に関して、「記憶と創造力」の補足です。

 「・・・さきほどから強調してきました人間の創造力というものは、ちょっと考えると記憶力と反対のもののようにみえますが、実はそうではなく、創造性の発現は、相当大量の、そして相当程度まで系統だった記憶を素地として、はじめて可能なのであります。そういう意味でも記憶力というものは馬鹿にできないのであります」
(「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p149・文責南淵)

 かつては「創造力を損なう」など誤解されたり、「否定的な側面」から論じられた記憶ですが、「創造力」や創造は、何もないところからはじまるわけではありません。現在では「原資(!)」「材料」としての記憶のたいせつさも、もちろん強調されています。「創造」は意識・無意識にかかわらず、とりいれられた情報のストック、記憶した「材料」が源泉です。
 しかし、「雑多な知識を無目的に積み重ねても、たいしたことにはならないだろう」ことは、素人のぼくたちでも想像の範囲内です。湯川秀樹博士の考えです。

 「人間は、やっぱり、平生から記憶をきちんと整理して、オルガナイズする、いろいろな知識を―自然とおぼえた知識でも、自分が努力して獲得した知識でも―自分なりにうまく組織化しておかなければなりません。整理のしかたには高度なものから非常に簡単なものまで、いろいろありましょうが、整理することと、理解することとは密接に関連しているように思われます。教育にはそういう、すぐに記憶を再生する能力が身につくようにする効果もある。そこで、そういう記憶と理解とかをもとにして、創造性を発現できるようにしたい」
(「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p149)

 引用の湯川博士の経験からの考察によって、先日来の「『鉄板』の五周・十周」が、脳のはたらきに対してもっている重要な意味を想定できます。「何度も繰り返して理解しながら記憶すること」、つまり「五周・十周と手間をかけ、理解をともなった記憶を整理しながら積みあげること」による「爆発力」です。記憶に終わらず、創造性をともなう発達です。

 かいつまんで言えば、関連もとらえて理解を深めながら、くり返し記憶を進めると、記憶内容が落ち着くべきところへきちんと落ち着く。つまり脳に「定着(!)」して、福井博士曰く「血肉化(?!)」して、「自在性」を増していく―自由に再生・応用できるようになってくる―ということでしょう。『学体力』をともなった学習の積み重ねこそがなせる技です。 
 一流スポーツ選手の瞬時の判断や体の動き、また芸術家のさまざまな技能・技術や身のこなしなども、そうした鍛錬の成果です。学力も脳のはたらきです。同じ神経細胞の活動である限り、知的鍛錬も同じような発達を促すであろうことは想像に難くありません。

 考えを進めていると、ぼくたちの脳のはたらきのすばらしさ・不可思議さ、そして解明の複雑さにも戸惑うばかりですが、とどまるわけにはいきません。そうこうしているあいだにも、今現に生きている子どもたちは日々成長を重ね、人生を展開していくからです。
 脳のはたらきや神経細胞のしくみは、おそらく何十年単位の実験や研究を繰り返しても、全容が解明されることはむずかしいでしょう。関連書籍をひもとき、現場での経験から脳のはたらきを「想定」し、試行錯誤と検討を重ねながら、子どもたちの指導をつづけることが最優先されるべきだと考えています。