『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

うそじゃありません⑧

2016年09月24日 | 学ぶ

「ブラス!」万歳
 今まで見たイギリス映画は心を動かされることがあまりなかったのですが、今週、「ブラス!」を見て、びっくり。傑作です。イギリスを誤解(!)していました。閉鎖に揺れる炭鉱町のようすと感動を呼ぶ人間模様をきれいに描き切っています。

 サッチャー首相の時代、首相は歴史に名を残しましたが、その裏でよくある「名もなき人々」の苦しみ。この作品は監督自身の脚本で、自らの意向を十分反映できたのでしょう。シナリオを勉強するにも良い作品だと思います。大きな賞には恵まれていませんが、サッチャー首相に対する政治的状況を配慮したのでしょう。もしそうであれば、とても残念です。
 このブラスを始め、今週は偶々130分を超える作品を4本見ることになりました。まず、マックイーン主演の『ネバダ・スミス』とクリント・イーストウッドの『アウトロー』。あとの一本は、「陽のあたる教室」。先の2本は西部劇、「陽のあたる~」の方は高校の音楽の先生の半生です。

 この題名も、どうして「陽のあたる教室」なのか、意味不明です。原題は「Mr.Holland's Opus」つまり「ホランド先生の音楽作品」。作曲が得意な先生ですから、こちらの方が、まだ意味がよくわかります。「(ホランド)先生のシンフォニー」とか「幸せのメロディ」とかいう題では、どうだったのでしょう。いずれにしろ、先生方(お父さん・お母さんも、そして大きな可能性ある子どもたち)、「ブラス!」と「陽のあたる教室」は、いい映画だと思いますよ。元気が出るでしょう。
 さて、先の西部劇2作ですが、130分を超える映画になると、監督を含むクリエイターの力量がはっきり現れます。ストーリーの練りこみ不足で、どうしても傍用のストーリーや登場人物が必要になり、逆に、手に持ちきれない材料を抱えてしまい「収拾」がつかなくなってしまう。

 娯楽性に長けたクリント・イーストウッド監督はさすがに、何とかうまくまとめていますが、「ネバダ・スミス」は、まるで「安ホテルのバイキング」です。一見うまそうな料理が並んでいるのですが、「目先だけ」で、全部味見しても、味わい深いものはなく、腹いっぱいで「しんどくなった」だけ。「こんな映画に出てたのか?マックイーン」という感じです。
 ぼくたちの生理的な問題もあるのか、よほど自信がない限り、映画はやはり120分以内に収めておくのが無難なのでしょう。それ以上になると、相当なストーリーテリングの能力が必要になります。もって瞑すべし。
 もう一本は「ワーロック」。典型的な西部劇のパターンですが、最後まで見ることが出来ました。ヘンリー・フォンダとアンソニー・クインが、何か同性愛者のような描かれ方をしているのが余計ですが、監督の趣味?かもしれません(笑い)。

 映画だけに限らず、いつも子どもたちには「『本物』を見分ける目をもってほしい」と願いながら指導しますこれは、ぼくの指導することが、いつも真である、正しいというわけではありません。「自立して」判断できる能力と、自信と勇気を持ってほしいという意味です。判断する意志や判断能力もなく流されないでほしい、そう思っています
 かつて、「大スポ」(こうした新聞を持ち出すことで、引いてしまう人がいるのではありませんか? それがすでに、情報を個別に判断する機会を失している、とぼくは思います)で、北野武さんが、「日本の映画賞は大手映画会社の持ち回りになっている」という意味のことを発言されていましたが、今のように(DVDですが、)映画をたくさん見るようになると、アカデミー賞(今は日本の映画はほとんど見ないので、アメリカ)などのタイトル受賞と映画の評価は、まったく別にしなければならない、ということが、今更のようによくわかります。

 シェイクスピアのことばです。
 There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.
 そもそも良いとか悪いとかいうことはなくて、考え方次第なんだ。(拙訳)
 
 劇作の天才は、「個の視点」の必要性と「個別の考察」のたいせつさを強調しています。それがないから、「いじめ」も始まるわけです。もう一人、物理の天才アインシュタインのことばです。

 
 Any fool can make things bigger,more complex and more violent.
   It takes a touch of genius and a lot of courage to move in the opposite direction. 
 
 ものごとをより大げさに、よりむずかしく、さらに意味不明にすることは どんなバカにだってできるものだ。しかし、それらを逆方向に導こうと思えば、ちょっとした才能と大きな勇気が必要になる。
(拙訳・新聞の紙面と写真の本は本文の内容とは関係ありません)

 子どもたちには「大きな勇気」をもってもらいたいと思います。それが少しずつ世の中を良くしていくことにもつながるはずだから。

大きなイチョウの葉
 団では、月に二・三回、土曜日に全員が集合する「立体授業」という授業があります。子どもたち全員と様々な作業もしていきます。
 当初始めたころは、「勉強」と関係ない、という理由で参加しない子もいましたが、OB諸君の成長のようす(成績や人間性)を見ることで、次第に保護者の理解が得られるようになりました。
 拾ってきたどんぐりや苗木を育てたり、カブトムシやクワガタの飼育、飛行機づくりや釘立ての釘を細工したり、弓矢づくりをしたり、庭木の手入れをしたり…ジャンルの制限はありません。それらの作業を通して、子どもたちの日常生活や家庭でのしつけ具合もはっきりわかります。よくない行動は修正しなければなりません。それらを作業の中で指導していきます。

 「米作り」や「稲刈り」もそうですが、一連の作業や工作も一人でできない子が、「一人の社会人として一人前に育つ」などということは考えられません。それ以前に、中学・高校で「自主的に勉強をすすめられること」など到底想像できません。また自分のことを(さえ)一人でできない子が、やさしく人のことを考えたり、みんなに迷惑をかけないで日常生活を送れるはずがありません。立体授業の一連の授業や作業を通して、このあたりの問題も克服を図ります。

 20年以上の指導の中ではっきりしたこと、それらの行動や作業に対する子どもたちの「習性」が整うにつれ、成績や学習も軌道に乗ってくること。それらの継続で、やがて大きなすばらしい実りを手にするようになります。そのためには、指導に対するおとうさん・おかあさんの理解は欠かせませんが。もちろん、これらの指導は補助的な役割です。
 立体授業の第一の目的は、「環覚」の養成です。年間のそれぞれの課外学習に対するスライド映写などの「補助的授業」を通じて課外学習のテーマを敷衍したり、掘り下げたりしながら、学習対象に対する興味や好奇心の掘り起こしを図ります。
 今回はそれらのふだんの指導の一例を紹介します。

 写真①の樹を見てください。所用で出かけた本町周辺で撮影したものです。
 ぼくは写真をやっていた関係で、周囲の「微妙な変化」によく目が向きます。この場合、「イチョウの葉」の異常な大きさに目が留まりました。周辺のイチョウの2倍ほどもあります。

 下の方に目を向けると、大きな木が切り倒されて生えてきた「ひこばえ」です(写真③)。今まで数十メートルあっただろう大木の根から約3メートルの細い幹が出ています。葉の異常な成長は、その成長のしくみのアンバランスがもたらした結果でしょう。子どもたちにはよい学習材料です。
 まず子どもたちには拾ってきた葉っぱを見せます。次に大きさを比較した写真②を見せました。そして、葉が大きくなった理由を考えさせました。子どもたちからいろいろな解答(考察)が出てきます。当然、それらは「当たらずとも遠からず」までもいきません。しかし、それが「かけがえのない学習」だとぼくは考えています。 

 答えに至らずとも、周囲にある様々な対象物に興味をもつこと、目を留めること、不思議に気づくことがたいせつだからです。いつも通る道端の街路樹が生命あるものだと気づくこと。それらを材料に、「考えること」「わかるおもしろさ」が始まります
 先生の話やテキストの中ではなく、実際に陽光の中で、日々「光合成」や根からの給水による成長と再生を繰り返している、「生きていく努力をしている」ことが、「現実の存在」によって、確認する機会とタイミングが生まれること。すべて、そこからです。
 「学習対象の実物」に目がとまり、「『ただの葉っぱ』や『しょうもない木』ではなくなること」が「とっかかり」です。子どもたちがさまざまに考えを広める過程で、環境に対する認知度や理解が進んでいきます。成り立ちとしくみに対する興味が膨らんでいきます。それが小さな科学者が誕生するしくみです

 イチョウの葉をぼくが持って帰ろうとした理由は、このように、「ただ葉が大きかったから」だけではありません。年間を通した立体授業で「イチョウ」は何度も登場します。「イチョウという存在」を、子どもたちが頭の中で『立体的』に組み上げる応援をしたかったからです。
 春先の土筆ハイクでは、トクサ類とともに、「生きている化石」というイチョウの一面が現れます。化石採集では、古生代からの歴史で再度顔を出します。現存種が一種類だということも学習します。またミカン狩りの立体授業では種子植物と裸子植物という区分で登場します。黄葉や紅葉の対象でもあります。


 たとえば、これらを裸子植物と被子植物や雄花と雌花という「学習用」の「ことば」で伝えるだけで何かおもしろいことが始まるか、興味や好奇心がわきおこるか、何か考えはじめるかを考えてください。みなさん、考えはじめましたか?

 ぼくたち(子どもたち)が日ごろ出会うのは「木の代表」や「木の特徴」ではありません。そんなものには終生出会えません。出会えるのは、すべて「個別の実物」であり、葉や実一つ一つの「つくり」です。それらを抽象したものが学習対象や学習内容です。
 「おとな」は「わかったつもり」(実はわかっていないことが多いのではないでしょうか)で問題を作り、採点をし、それで用足れり、です。子どもは「実際に見たこともないもの(抽象)」を、「字面でしか見ない」で問題に解答し、「実際には何も見ていない、わからないままで学習を終える」のです。
 

  ぼくも含めて、ほとんどの人がそういう「学習経験」しかありません。だからその「異常さ」がわからないのです
 冷静に考えてみてください。その学習から「科学」が生まれますか? 「研究」が始まりますか? そうした「学究」生活に至るきっかけがどこかにありますか? 日本の大学のレベルがどんどん落ちてきている理由は、こうした面だけを見ても明らかです。学習指導に対して大きな発想の転換が求められている時だと思います。


うそじゃありません⑦ 

2016年09月17日 | 学ぶ

環境に開く目―KAEDEの自写
 前回、道端の石ころや葉っぱに興味をもち始めたKEDE(2歳)の話をしました。
 「環境に開く目」つまり「環覚養成」の「とっかかり」ですから、そのタイミングをたいせつにしなければなりません。そうした機会を外して「テキストによる受験勉強」の時期まで「流してしまう」ことで、「本来おもしろい学習になるべき学習対象」が、多くの場合「好奇心」や「興味」とは無縁の存在に成り果ててしまう可能性が高いからです。経験と成長によって感性が全く変わってきます。
 これから学習を始める子どもたちは特に、「学習対象」である周囲の事物が「見たつもり」「知っているつもり」になった『感覚』を脱ぎ捨て、おもしろいことや不思議なことがいっぱい詰まった「玉手箱」であることに気づかなければなりません。その経験の有無が、環境や周囲の学習対象をよく知らずあまり興味を(まで)もてないことに起因する「机上でのテキスト学習」の「疎外感」を克服できるかどうかの分岐点にもなると考えています。

 前回も書いたように、「葉っぱ」は「季節感」や季節による変化も「つきもの」ですから、庭や公園や道端の葉っぱを探し、その存在に気づくことで、周囲に対する感覚が広がります。やがて「工作」による創造性や環境に対する気づき=「環覚」の育成にもつながるでしょう。
 今日(9・14)偶々読んだ本の中に、こうした子どもたちや生徒への、科学や科学学習に対する視点の大切さに対する論評に出会いました。「科学の大発見はなぜ生まれたか 8歳の子供との対話で綴る科学の営み」(ヨセフ・アガシ著 立花希一訳 講談社ブルーバックス)です。
 
 本書は長年の研究の成果でもあります。私は、アカデミックな学問の壁を打破する必要性をいつも痛感してきました。この目的にとって必要なことのひとつは、学問研究のもっともよい成果を公に示すことです。この点で、私はガリレオとアインシュタインにならっています。彼らは、科学は贅沢品などではなく、ポップ・サイエンス(一般向けの科学)こそが科学の頂点だとみなしました。
 いかなる科学的成功も、それが教育を受けた一般の人々に届かないかぎり、全面的なものとはなりません。残念なことに、ほとんどの専門家は、ポップ・サイエンスの方が、それが模倣する完全な構造をもつ科学以上に大きな利点をもっていることに気がつきません。(上記書 序文 p5 下線は南淵)
 
 この引用に、もう一つ忘れず付け加えておかなければならないポイントは、この本の「『8歳の子供』との対話で綴る科学の営み」(『かっこ』は南淵)という副題です。現状でも、難関私立や指定校で、さまざまな先端科学の紹介が行われていますが、それが行われる年頃には、もはや、そうした専門科学におもしろさをそれほど感じず、夢中になれないように感覚が「拡散!」している「中人!?」が多いということです。そうした指導が思い通りに成果を発揮するには、そのころまでに、環境や学習対象の実物に対して、「科学的な視点につながるなじみ」ができていなければなりません
 実際はそうならず、「受験に邁進」している間に感性や感受性が変わってしまっていることが多いのではないか、それによって、ファインマンのお父さんやエジソンのお母さんとは「似て非なる」指導になってしまっている可能性がある、というのが、「科学」の指導者の先生方や子どもの学習指導に携わる多くの先生方に、忘れてほしくはない視点です。長くなりますが、引用をもう少し続けます。
 
 その利点とは、文字通りにもまた比喩的にも、スケッチが細密画に対してもつ利点です。つまり広い視野のもつ明快さです。自分にもうまく説明できないような科学の細部を暗記するように学生に押しつける科学教師のやり方は混乱を招くだけです。科学に関する骨太のアウトラインを学ぶことは、多くの点で学生の役に立つことでしょう。そうしたアウトラインこそが科学の細部に意味をもたらすのです。(上記書 p5~p6 下線は南淵)
 
 ちなみに、こういうふうに書くと、また「子どもを科学者に育てたいわけではない」等の意見がありそうです。しかし、作者(アガシ)も、彼の息子を指導するために交わしたこの問答法(この本の原案)について、自らの学生時代も振り返り、「教師がどんな教義を押しつけようとも、寛容で有能な教師がいさえすれば、学生は、その援助のもとに自由に勉強することができます」と記しています。
 つまり、たとえば「科学問答」は「思考や考察を深める材料」であって、必ずしも将来の進路を規定するものではないことを「言外で」述べているのでしょう。ちなみに、例のお父さんに育てられ天才的な物理学者に育ったファインマンは多芸多才であらゆることに好奇心や興味をもっていたし、彼に育てられた息子のカールは、コンピューター学者になりました。

 小さいころ興味をもつような学習対象のジャンルは、その多くがいずれも自然科学にかかわるもので、だからと言ってそのまま科学者に育つとは限りません。将来の学習姿勢や思考法・研究態度など知的探求の骨格に成果するものである、とぼくは考えます。ちなみに、子どもが興味をもったものや自然対象に対する「問答法」はファインマンのお父さんの指導法でもありましたね。

 さて。今日は、小さい子たちが身近な「葉っぱ」に興味をもち始めるように、ぼくが選んだかんたんな「葉っぱ工作」の本から紹介します。「葉っぱの工作図鑑」(岩藤しおい著 いかだ社)。
 写真のように、小さい子が喜びそうなかわいい表紙の本で、身近な葉っぱで、かわいい昆虫(写真)や動物など、さまざまな葉っぱ工作ができます。一緒にやれば、小さい子でも夢中になるのではないでしょうか。こういうものから始めて、自然環境に興味をもつようになったら、後々の学習指導にも豊かな可能性が生まれそうです。

 さて、ぼくはいつもカメラを持ち歩いていますが、好奇心旺盛なKAEDEはよく貸して欲しがり、いろいろなものに次から次へとレンズを向けます。小さい子の「肉眼で見たものがカメラにどういうふうに映るか」がわかることで、一つの新しい視点が開けます。小さい子たちの成長は、こうした日々の何気ない遊びや行動が形作っていくものだと思います。KAEDEの撮った写真を少し紹介しておきます(カメラはCANON IXY630)。


アカデミー賞受賞作など

 今週のDVDは、たまたまアカデミー賞関係などの四作品になりました。それなりに面白かったのですが、「勉強して、こう作りたいという視点」から見たぼくの評価です。

 「シンドラーのリスト」は世評が高く期待していたのですが、素材のボリュームに手こずり、話の進み方が客観的に過ぎ、最後の盛り上がりに欠けてしまったきらいがあります。「重い」話がそれほど重く感じられなかったので、最後の感動ももう一つだったのでしょう。スピルバーグです。

 この感想は、JANE AUSTENのSense and Sensibilityが原作の「いつか晴れた日に」(なんのこっちゃ、このタイトルは!)も同じです。多少の「事件(!)」はあるものの、淡々と進んでいくので、「盛り上がり」にかけます。
 「春の日、うららかな日差しの中で乙女チックな小説を夢見がちに読んでいる少女」というようなイメージのテーマであれば、たぐいまれな傑作と言えるかもしれません。これはアカデミー賞脚本賞の受賞作で、シナリオの勉強をするには、わかりやすく手ごろな作かもしれません。

 「ハスラー2」は二番煎じを狙ったタイトルだと思いますが、ポール・ニューマンの「やさぐれ」ぶりとクルーズの「イケイケ」の演技もおもしろい前半は多少評価ができるものの、結果的には残念な作だと思います。若いハスラーの「成長?」か、年とった名人ハスラーの「復活」を描くのか、きちんとテーマが絞り切れていません。中盤まではよいのですが、最後が帳尻合わせで、尻切れトンボ感が否めません。もちろん、「復活」がテーマだったのでしょうが。
 

「恋愛適齢期」。心臓発作で入院したニコルソンの病院での「尻見せダンス」には腹を抱えました。相変わらずの存在感のある演技でした。しかしこちらの「ややこしい」恋愛コメディも、ストーリーのつながりが帳尻合わせで、盛り上がりに欠け少し残念です。
 映画の製作は、スターの出演「量」や配役の問題、また監督やスクリプターの意見など、さまざまな複雑な要素が絡み合っての完成のようで、「思い通りにいかないことがふつう」なのでしょう。ひとりでつくるわけにはいかないという創作条件がもたらす悲劇かもしれません。


作家の決断

 ところで「創作」の興味から、今週読んだ本のひとつに「作家の決断 人生を見きわめた19人の証言」(阿刀田高編 文春文庫)があります。さまざまな小説家が、作家や編集者を目指す学生のインタビューに、気取らずに本音で答えています。いい本です。
 おもしろいと思ったものを少し紹介します。

 「人間の証明」でおなじみの森村誠一氏はミステリーを書く上で心がけているところを聞かれ、「ミステリーを書く上で、特に苦労するのは必然性」だと言います。他の小説だったら、例えば、「主人公が喫茶店に入る」ことに必然性がなくても、一向にかまわない、しかしミステリーは、ある時点で喫茶店に入った、レストランに入った、あるいはホテルに泊まる…そういったすべての『何気ない(南淵・注)』行動にも必然性がなくてはいけない。80枚だったら80枚で終わる必然性、500枚だったら500枚で終わる必然性がなくてはいけない、と述べます。(上記書p15 下線・文責は南淵)
 これは、映画シナリオを書く上でも、とても参考になる、納得できる意見だと思いました。各シーンの整合性や必要性が考え抜かれて組み立てられていないと、映画も散漫で平板、感動の薄いものになるからです。以前から何となく感じていたのですが、ミステリーの構成は、映画づくりやシナリオ執筆に大いに参考になるという確信がもてました。

 次は津本陽氏が、若い世代の物書きに対するアドバイスを聞かれて、こう答えます。
 「やっぱり書く事ですね。いろいろ表現しているうちに、自分の内側の一番辛い事とか、コンプレックスみたいな事とかそういう物があればね、それをテーマに書き始めるという事が、大勢の人にうったえると思うんだ。(中略)・・・自分の内部にある一番重苦しい事、それは何かというのを象っていく・・・文章で。そういう練習をしたらいいんじゃないかなと思います」(p46 文責・南淵)
 参考になる個所やおもしろいところが他にもたくさんあるのですが、子どもを教えているぼくは、何を読むときも、どれを見るときも、そのことが頭から離れません。そういう意味で、「子どもたちに話せること」を後三つ紹介します。
 

夏樹静子さんが作家を目指す若者に「贈る言葉」を聞かれて。
 「私は才能というものは必ず世の中に現れると思います。いろいろな種類の才能がある。大器晩成の才能も早熟な才能もある。本当の才能というものは決して埋もれることのない、必ず光を放つものだと思います。本当に好きで自分で自分を信じられたら必ず芽は出る」。(p222 下線・文責は南淵)
 次は浅田次郎氏。
 「努力は不思議なもんでね。そのとき無駄になったように思えても実は無駄になっていない。無駄になったんだったら、大した努力ではなかったというだけ。真面目に書いていたもの、真面目に努力したというものは、そのとき報われなくても十年後か二十年後かわからないけれど、必ず物を言う日が来る」。(p238 下線・文責は南淵)
 
 最後は北方謙三氏です。
 「これが戦争だったら徴兵されてさ、「やだやだ」って思ってもいかなきゃいけない。ところが我々がデモに行ってゲバルトやろうってときは自分で手を挙げて行くわけよ。『俺が行く』って。そのときの思いってのは今考えると熱かった。すごく熱くてバカみたいに純粋だったね。その思いみたいなものを今取り返そうたって、もう無いんですよ。自分の中にはね。(p274 文責・南淵)
 
 ぼくもハスラー2の「ポール・ニューマン」や老人と海のサンチャゴの心がよくわかる年齢になりました。


うそじゃありません⑥

2016年09月10日 | 学ぶ

「序破急」の授業
 今週見たDVDもなかなか良いものばかりでした。

 「マイ・インターン」はロバート・デ・ニーロが、非の打ち所のない、「かっこいい年寄り」を演じています。「ロンゲスト・ライド」はクリント・イーストウッドの『息子』がブル・ライダー役で主演。演技もうまいのですが、こちらは「わき役」の大金持ち夫婦の愛情を掘り下げたストーリー主体で製作したほうが、名作になったのではないでしょうか。

 「フライト・ゲーム」はリーアム・ニーソンの相変わらずの活劇。「あなたが眠っている間に」と「あなたは私の婿になる」のサンドラ・ブロックは映画そのものより、いつも感じるのは「彼女の味」です。「いい味」が出ています。「トップガン」はぼくの東京での懐かしい想い出に対する評価。「ビッグアイズ」は実際にあった話だそうですが印象に残りました。

 ぼくが今のように映画DVDを見るようになった理由は、かつて興味をもっていたシナリオの学習を始めてみたいということからでしたが、シナリオの構成・ストーリーの作り方を読んでいると、シナリオそのものより、話のすすめ方やそのノウハウを、学習指導や立体授業のスライド作成に応用できるのではないかと考えるようになりました。つまり、「環覚」を育成するための指導法スキルアップのアイデアです
 学習指導するぼくたちは自らの「被」学習指導経験をもとに、その方法を組み立てます。それらは、かいつまんで言えば、教室に腰かけ、やおら先生がテキストや指導書を開き、板書…という「ストーリー」です。ほとんどの場合何の変哲もなく、それが何年間も続いていくわけです。もちろん、さまざまに工夫されている先生もたくさんいらっしゃるでしょうが、授業や学習指導もまず、生徒に対する問いかけやテーマの提供による関心の喚起が大きなポイントになります。そのストーリー作りの応用に、シナリオ作りのノウハウが流用できます。

 映画のシナリオは、洋画の場合、一般的に120p(つまり、映画は多くの場合120分前後ですから、1p=1分という換算・日本の場合は二百字詰め原稿用紙で240枚)が基本で、さらに、それを大きく三分割して、話を組み立てるということが推奨されます。
 世阿弥で言えば「序破急」ともいえる運びで、発端が1~30p、中盤は30~90p、結末に90~120pの割り当てです。発端はまず、主要登場人物や状況紹介、ドラマの前提等を「興味をもたせるよう」提示し、ドラマに引き込む役割です。特にここでは、10分(つまり、10p)前後で、何か「事件」が起き、前述の要素共々、「観客」の注意を向け、映画に引き込むことが最大の課題です

 ぼくもそうですが、映画を見る人は、たいてい10分内外で「その映画に対する気持ち」が大きく変化するのではないでしょうか。映画館に入ってしまえば、さすがに「すぐ出てくる人」は少ないでしょうが、テレビ放映やDVD(ブルーレイ)だとチャンネルを変えたり、切ってしまうことも多いと思います。切らないまでも、映画に対する注意力が散漫になり、内容もよく吟味できないということになります。
 この「映画の観客」を、「映画」を「授業」に変え、「観客」を生徒に変えるとどうでしょう? 指導法やレベルによって、毎日毎日「内容が空疎でつまらない映画」を見せ続けられる状況にならないとも限りません。シナリオの勉強をしながらそんなことを考えました。

 自らの反省として、立体授業のスライドやテキストに対する、腑に落ちなかった「引っ掛かり」や違和感の原因がつかめたのです。まだ「授業の枠を抜け切れていない」というところです。立体授業の組み立てそのものは間違っていないが、当初は「何の構えもなく」見に来る子どもたちが、興味津々になれるような導入を、もう少し検討しなければなりません。
 
 脚本を執筆する上で、最初の10ページの展開くらいたいせつにしなければならないことはない。脚本を読む人は、10ページも読めば、その作品が期待できるか、基準に達しているものかどうか、わかるものだ。それが脚本の「下読み」の仕事だからだ。 (“Screenplay” Syd Field A DELL TRADE PAPERBACK p70 拙訳)
 
 この引用は、「脚本を書く人」に対するアドバイスですが、それをもとに作る映画を「授業」に置き換えてみれば同じことです。子どもは入場料も払ってもいないし、「気まぐれな客」ですから、映画館の客よりもっとシビアです。そのシビアな客を引き留めなければなりません。
 ストーリーは同じであっても、話の組み立てや導入に工夫がなければ、より大きな効果は期待できません。子どもたちが筋を追いたくて仕方がなくなるようなストーリーの幕開けと展開にはどうすればいいか。ぼくにとっての今後のさらなる課題です
 50分授業であれば、もちろん話の組み立てやボリュームにもよりますが、原稿用紙で20~30枚。それによって、充実した「まとまり」が作れるのではないでしょうか。出演する名優はもちろん、シナリオライターその人です。

環境に開く目―楓と石ころ
 2歳のKAEDEが石に興味をもち、木の葉に目を留めるようになったことをお伝えしました。
 小さい子は、何もかも「見たことのないもの」ばかりなので、その感覚は鋭く、好奇心を養うには最適です。それによって、「ものを見る目」が変わります。

 芸術にしろスポーツにしろ、もちろん学習にしろ、周囲のものに目が届き注意を向けられることが出来なければ、「向上」は期待できません。色や形や変化や動きに目を留め、見守ることのない「学習」は考えられるでしょうか
  そういう環境ともっとも関係なさそうに見えるスポーツでさえも、サッカーや野球の視野の広さ、ボールの変化・スピード感・動体視力などがどうして養われていくかを考えてみれば、はっきりわかるはずです。野球やサッカーだから「グラウンドでの練習」ばかりと考えている「思考パターン」に、その向上を妨げている大きな原因があるかもしれないことに、指導者はもっと注意をはらわなければならないと思います

 さて、小さな子が石や葉っぱに興味をもち始めたら、どうすべきか?
 もっと触れたり、感じたりする機会をできるだけ早いうちに作るのはもちろんですが、その一歩先も考えなければなりません。石ころにはその生成や変化の歴史があり、葉っぱにはその役割や意味があるからです
 それらの指導は当然一人の手に余り、いわゆる「本」に向かう道筋をつけなければなりません。ところが、小さい子にはまだ難しかったり、中途半端な説明だったり、ただ「種類と名前の羅列」に終わったり・・・というものばかりです。今更ながら、「対象」に対する興味の喚起や好奇心の醸成に対する資料の不足に困惑します。ただ種類と名前が興味の中心で終われば、それによって生まれるのは、あまり役に立たない「クイズマニアの知ったかぶり」だけです。

 「石ころのでき方」については火山があり、海があり、川があり・・・という観点から、小さな子どもたちには「石ころ太郎の大冒険」とでも題して、楽しい童話やアニメ映画が作れそうだし、「葉っぱ」では、「楓ちゃんの親孝行」とでも題して、光合成から紅葉の話から楽しいストーリーができそうです。
 今後はそういうとらえ方、つまり身近な対象の「成り立ちとしくみ」を、小さな子どもたちも興味をもてるような方向で、指導する方法を考えていくべきでしょう。それが、ファインマンのお父さんやエジソンのお母さんが切り開いた道を「舗装」して「みんなが通れる道」にする最善の方法だと思っているのですが、いかがでしょうか?

 さて、KAEDEに買ってあげようと思った本を三冊紹介します。
 KAEDEは、まだ『きれいな石ころ』に気づいていません。石ころにもっと興味をもつために、まず石ころには、きれいな石ころや変わった石ころがあることに気づかせようと思います。「石ころなんか」と、頭に浮かぶ「丸っこいグレーがかったもの」ばかりではなく、よく見ると様々な形の、さまざまな色つやのものが見つかること。まずそれをわかることが入り口です

 その二冊、「ひとりで探せる川原や海辺のきれいな石の図鑑」(柴山元彦著 創元社)と日本の石ころ標本箱(渡辺一夫著 誠文堂新光社)。いずれも、ここではこんな石が見つかる、という本で、「石ころのでき方」にはほとんど触れていませんが、環境に興味をもつ「環覚」が育てば、次のステップは、ぼくが伝えていこう(指導していこう)と考えました。

 もう一つの「葉っぱ」の方は、「木の葉の美術館」(絵・文 群馬直美 世界文化社)にしました。「葉っぱ」が「石ころ」と違うところは季節感があるところです。新緑や秋の紅葉の感覚は、「環覚養成」に欠かせません。また石ころもそうですが、葉っぱは画用紙に張り付ける造形工作のバリエーションも豊富です。小さい子でも手軽にできます。どういう反応をしてくれるのか楽しみです。

 これらの石ころや葉の遊びは、ちょっと気の利いた保育園や幼稚園でも行われることでしょうが、問題は、それ以降の「科学」への導入です。ぼくは次に来たるべき、それらの「成り立ちとしくみ」の「開示」が子供たちの成長過程で大いに欠落しているところだと思います
 ある程度興味をもたせたが、それ以降のおもしろさは続かない。楽しい思い出はあるが、発展しないで、いつの間にか「ただの葉」や「ちんけな石ころ」で終わってしまっているのです。そのギャップを解消してくれるのが、先述の「石ころ太郎の大冒険」であり「楓ちゃんの親孝行」ではないでしょうか。

 こういうふうにアイデアがわいてくるとき、ぼくが「歯がゆくなる」のは、今ある時間と残された時間です。現実化するには、あまりにも少ないのです。
 まず学習指導の準備や授業をすべて一人でこなし、残りの時間にさまざまな用事も待っていますから、無駄にしているわけではありません。テレビもほとんど見ない(見るのが勿体ない)毎日、その中で、時々紹介するように内外のシナリオ教則本を読みながら、DVDを見る時間もつくらねばならず、ルーチンワークの処理能力も体力も落ち、節制してもなかなか思うに任せません。
 若い時に調子に乗って、「何時間も酒場で過ごしたこと」、今更ながら後悔しきりです。老婆心ですが、みなさんも優先順位をしっかり考え、時間は大切にしましょう。
 来週は団員諸君と「餅鉄探し」です。もち鉄はもちろん、ガーネットや『火打石』も見つかるし、たいていの石が見つかる広い河川敷なので、子どもたちの興味がさらに広がってくれるものと期待しています。


うそじゃありません⑤ 

2016年09月03日 | 学ぶ

 今週は映画DVDの写真が多いですが、本文とはあまり関係ありません。

環境に開く目―「なぜ・なに攻撃」の意味
 夏期講習の終わりころ、毎年、頑張った「ご褒美」にみんなでプールへ繰り出します。
 本来は講習を受講した5~6年生諸君に対する行事だったのですが、保護者の付き添いがある場合、弟妹や小さい子の参加も拒みません。今年はぼくの次女と、時折スナップに顔を出しているKAEDEも参加しました。彼女(KAEDE)は現在2歳で、さまざまなことに興味をもつようになっています。

 いつも「環覚の養成」を強調していますが、「人生を始めたばかり」のこどもたちは、まず、自らの周囲の事物やできごとを、よく知らなければなりません。それらを知ることが、今後生きていく上で何より大切なことだからです。
 食べられるもの・使えるもの・使い方・・・等、何も知らない彼らにとっては、それらを「わがものにする」ことが、生命を維持していくうえで大きな力になります。幼児の「なぜ・なに攻撃」ともいうべき質問の多発や好奇心は、それらを全うするために長い進化の過程でインプットされた本能の発露なのでしょう。

 鋭い牙や強大な力や比類のない脚力をもっているわけではないぼくたちは、生きていくことそのものを「知力」で賄わなければなりません。自らの周囲にはどういうものがあり、それはどういう存在か、自らとはどういう関係か、またその関係をどう築くべきか等の「認知」や『理解』をできる限り早く進めることが、生きる上でのアドバンテージになっていきます。それが、幼時の「なぜ・なに攻撃」の大きな理由だと思います
 ところが、たいていの場合、大人はそれらの質問に「正対」しません。面倒くさがったり、適当にはぐらかしたり、バカにしたり、ということを繰り返し、いつのまにか子どもの「なぜ・なに攻撃」は胡散霧消していきます。多くの子がそういう眼に会っているはずです。それは悪行である、とぼくは感じています。

 子どもたちは、本能から、自らが今後「生きていく術」を知りたくてしょうがないのに、満足に応対してもらえない。満たされないことになるからです。そんな時、子どもたちの『潜在意識』の中では、「なんだよ! 一生懸命生きようとしているのに! おもしろくないなあ。そんなふうに適当に答えるってことは、生きていくことは思ったより大したことじゃないんじゃないか、なあんだ。やってられない」。そんな思いは生まれないでしょうか? 
 そうした行動がそもそもの『学習の初め』になってしまっているということに、ぼくたちはもっと目を向けなくてはならないのではないか、そう思います。「自らの環境を知ること」、「知るすべを学ぶこと」が『学習』なのに、もうすでに「挫折」が始まっているわけです。

 こういうエピソードがあります。ノーベル物理学賞を受賞し、戦後の日本の科学発達の幕開けを飾った湯川秀樹博士のお母さんの話です。
 湯川博士が小さいころ、興味をもっていた本の内容などについてお母さんに質問をすると、お母さんは自分が何をしているときでもすぐに仕事の手を止め、博士をまっすぐに見つめながら直ちに正確な説明をしてくれたと言います。
 はぐらかしたり茶化したり面倒くさがったりごまかしたりしていません。湯川博士は、そういう時のお母さんの眼は子ども心にもなんと美しく見えたことか、と述懐しています。真摯な対応がそういう感激を生むのです。

 博士は続いて、もし、ああしたお母さんの苦心がなければ、私たち兄弟(湯川三兄弟・湯川秀樹・貝塚茂樹・小川環樹)のような、学問をやる一族は生まれ出なかっただろうと、思い出を語ります。(「旅人」湯川秀樹著 角川ソフィア文庫より)
 不思議や疑問を抱くことが子どもの常で、そられを解決できた時の感激や嬉しさはファインマンも述べています。
 
 親父はぼくに「ものごと」に気づくってことを教えてくれたんだ。ある日、ぼくたちが特急ワゴンと呼んでいたおもちゃで遊んでいた時のことさ。周りを手すりで囲ってあって、子どもたちが引いて遊べるようなちっちゃいワゴンだよ。その中にボールを入れて引いているとき、ボールの動き方を見て気づいたことがあったので、親父のところへ行ったんだ。
 「ねえ、パパ。気づいたことがあるんだ。ワゴンを引くだろ、そうするとボールはワゴンの後ろの方に転がるんだよ。ところが引き続けて急に止まるだろ、するとボールは前の方に転がってくるのさ。どうしてなの?」("No Ordinary Genius"(CHRISTPHER SYKES  W.W.NORTON & Co. Inc. p24~25・下記の一連の紹介も含む)

 
 ファインマンが『気づいたこと』、それが『環覚』に他ならないことがよくわかるでしょう
 この後、お父さんは「それは『慣性』と呼ばれている」と「術語」とその「原理」は教えますが、同時に「どうしてそうなのか」は「誰にもわからない」。それで正しいのかどうかも誰にもわからない、という「宇宙の真理」を伝えます
 つまり、それは「慣性で云々」という、「知識としての説明」に止まらない指導です。「子どもがわかったつもりにならない指導」です
 ファインマンは「親父は、『ものの名前を知っていること』と『ものを知っていること』のちがいが判っていたんだよ。これこそ深い理解というものだ」と述懐します。湯川博士のお母さんとは、また違う対応ですが、子どもの疑問や質問に対して「真摯に向き合う」・「正対すること」がいかに大切かをぼくたちに教えてくれるエピソードです。
 もし、質問の答えがわからなければ、本を手にするなり、一緒に調べるなり、なんとでもできるはずです。そういうとき、真摯に応対することで、子どもたちにとっての学習の意味が大きく変わってくるだろうと、ぼくは考えています。
 
「わっしょいプール」でのできごと―KAEDEと葉っぱと石
ぼくも子どもたちの質問には、力不足ですが、できる限り真摯に答えるように、毎日自らを叱咤しています。
 赤目渓流教室に、先述のKAEDEが参加しました。立体授業の「餅鉄探し」や川遊びで、磁鉄鉱やガーネット探しに興味をもち始めた一人の団員が道端の石を拾って、「これは何の石」と、その種類を聞いてきました。

 偶々それを見ていたKAEDEが、近くにある小石をつまんでは、ぼくのところに次々ともってきて質問を重ねていきます。そして、それらの小石を黙々とコンクリートの縁台に並べていきました。彼女にとって、「道端の石が、『ただの石』ではなくなった!」瞬間です。
 ふだん見る道端の石が「ただの石」であれば、それはたいせつなものではありません。注意を向ける必要はありません。しかし、それではあらゆる科学や学習は生まれないし、環境が意味を持たなくなります。区別し、分別し、その存在に興味をいだいて初めて、「研究」や「探求」が始まります。学習のおもしろさもそうして生まれます。ぼくたちは、そのきっかけづくりをしていることを忘れることはできません。

 存在に気づかず、環境に興味をもたず、画面によるゲーム三昧の毎日を送っている子が、テキストや参考書で学習対象に出会って、机上でそれらの特徴を学んでも、興味の深まりようがありません。こうした学習(指導)上の矛盾にほとんどの人は気づきません。
 それはなぜか? そうして教えてもらう機会がなかったからです。また運良く、そうした機会に恵まれた人も、自分ではその面白さを追求するのに夢中になりますが、子どもたちにその大切さを教える機会はありません。さらに、一定以上の年齢になって教えても、彼らの興味の対象は『ほかのもの』に向かっていて、「琴線」には触れません。
 こうして「深い理解」や「次の学びのステージ」に向かう子が少なく、次第に多くの子の「可能性」が失われていくのが今の学習の現状です。本来なら、優れた科学者が、もっともっと生まれてきてよいはずだとぼくは考えています。

 さて、「わっしょいプール」にもKAEDEは参加しました。団のお兄ちゃんたちに遊んでもらい、大喜びでした。帰るとき、プール際の樹の下で、真剣な顔をして何やら茶色いものを拾って見せています。「これ!」というので見ると、桜の落葉(枯葉)でした。 「葉っぱやなあ」、そう答えて、ふと思い出したことがあります。
 「蛍狩り」で赤目に行って朝の散歩をしているとき、「赤ちゃんの楓」を彼女に教えてあげようと思って、大きなカエデの根元に芽生えた幼木を指しながら、「これ、赤ちゃんの楓やで!」というと、何度か小さな声で繰り返し呟きながら、次に、その隣に落ちていた「桜の枯葉」を拾って、ぼくに訊いたことがあったのです。彼女は、それを思い出したのです。


 ぼくは良い機会だと考え、プール際に生えているツゲの樹や白橿の葉や、単子葉植物の葉をとって、見せました。彼女はそれらを大切そうに手に取り、しばらく眺めていました。
 KAEDEのその後です。家に遊びに来た時、KAEDEは、例の「学探三兄弟」やティラノ隊長や智備寝子・タヌキンでよく遊びます。なかには小道具の紅葉したカエデや桜の木の葉の切り抜きがあります。それを見ていて、手に取り、「これあったなあ、葉っぱやなあ」。

 石や葉っぱが少しずつKAEDEに近づいてきました。カエデはその葉を裏返して智備寝子たちの食器代わり(!)に使っています(写真)。
 子どもたちは、こうした経験を繰り返して「対象」に対する経験を重ねていきます。違いや変化に気づき、その発見や発想が学習対象に対する近しさを呼び起こし、学習におもしろさを感じるきっかけになっていくのでしょう
 彼らのその「環覚」を大切にする機会があり、たいせつにする先生や保護者がいれば、湯川博士やファインマンのように、「一生をかけるおもしろいこと」が始まるはずです。思いもかけない、こうした小さいころから、学びや好奇心の行方が定まっていくことには、意識を向けておいた方がよいのではないでしょうか

佳作映画の紹介
 しばらくDVDの紹介が滞っていましたが、夏期講習等で忙しく、なかなか見ることが出来ませんでした。少し余裕が出来たので見始めると、うれしいことに、おもしろい作品にたくさん出会うことができました。

 「オデッセイ」・「コンドル」と「2ガンズ」は荒唐無稽ですが、肩の凝らない娯楽作品としては評価できます。「コンドル」はロバート・レッドフォードとフェイ・ダナウェイ。フェイ・ダナウェイは、もっときれいだと思っていたんだけど、田舎から東京へ行ったばかりだったので、よく見えたのかな? 「2ガンズ」はデンゼル・ワシントンとマーク・ワールバーグです。デンゼル・ワシントンは銃の構え方が下手なのが愛敬です。
 「めまい」はヒッチコック映画。ストーリーがちょっと凝りすぎですが許容範囲でしょう。「ハスラー」はビリヤードの勝負を生業とするポールニューマンです。「ア・フュ グッドメン」はトム・クルーズが「かっこよすぎ」で鼻につきますが、ぼくの僻み(!笑い)だと思います。「親愛なる君へ」はニコラス・スパークスのシリーズのひとつですが、このシリーズは、どうして、あまりきれいな女優が出てこないのだろう? きっとそれが親近感を呼ぶのだろうな?

 あとの二つは「なかなか」でした。ロビン・ウイリアムズの「ガープの世界」と、デイズニーの有名な競走馬の伝記「セクレタリアト」。この「セクレタリアト」と続けて世評の高い「シービスケット」も見ましたが、こちらはもう一つでした。
 しかし、映画は芸術だと誰が言ったんだ? 映画は映画でしょう?