『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑳

2015年10月31日 | 学ぶ

米づくりのもうひとつの意味
 前回、こう前置きしました。「来週は、『子育て』の参考にしてもらえるよう、「米づくり」の体験がもっている「もうひとつのたいせつな意味」について考えてみます」。また、「もう少し長い目で見つめ、根気よく子育てに向かうこと(つまり、お母さんやお父さんが我慢すること)で、こどもたちは、勉強にしろ何にしろ、我慢を重ね辛抱しながら、おもしろいことを見つけ、それに向かって邁進し、『勉強!』の確かな実りをつかんでくれるのではないでしょうか?」。そう問いかけました。

 ぼくたちは無意識でも、子どもたちはお父さんやお母さんそして成長過程で関わる人たちの姿を見て、自らの人格を形作っていきます。子どもの人格や性格は「独りでにできあがる」わけではありません。肯定的にしろ否定的にしろ、逐一周囲の姿を見て、自らに取り入れ、成長していきます
 特に現在は物質的には恵まれていることが多く、「辛抱したり」「我慢したり」という機会が極端に少なくなりました。小さいころから、欲しいものは十分すぎるほど与えられる毎日です。
 お父さんやお母さんの多くも、それに近い環境で育っています。そのため子どもたちが我慢や辛抱を覚える機会や状況は多くありません。

 我慢や辛抱を覚えるには、「お父さんやお母さんが辛抱する姿」を見たり、「我慢する姿」を見せないとわかりません。つまり、「辛抱すること」・「我慢すること」を教えなければ覚えません。覚える必要も機会も失われているからです
 「勉強しなければならなくなって、急に我慢しなさい」をはじめても無理な相談です。我慢が当たり前になっていないから、「ものを与えなければ、何か代償がなければ我慢できない」状況になってしまっているわけです。
 ところが、お父さんもお母さんも大人になっているのでわかるでしょうが、社会に出れば、相変わらず我慢や辛抱は「生活につきもの」です。逃げるわけにはいきません。
 だからと言って「我慢や辛抱をさせればかわいそう」という子育てでは、力やパワーをためる子を育てることは難しくなります。ハングリー精神が全くないのは困りものです。
 「目標に向かって、弓をたわめて引き絞るようなパワーのある子」は育ちません。子育てには、そういう先を見通す眼や展望が必要になってくるわけです。


 時代を反映する「軽佻・簡便」の環境ではうまくいく通りがありません。ぼくたちは、その現実をしっかり自覚しなければならないと感じています。好悪を問わず、自ら子どもたちに範を示す必要があることを忘れることはできません。それが「おども」でも「ことな」でもない「大人」としての務めです。
 
「明日が変わる」明日があるさ
 さて、『米作りの体験』がもつ「もうひとつの意味」。それは我慢の指導に大きくかかわる、「明日の実り」の実感です
 田植え。汗・ぬかるみ・泥・・・。毎年、蒸し暑さの中、ギラギラ照り始めた太陽のもとで、子どもたちは稲を植えていきます。
 稲を植えるにもルールがあります。2・3本の苗に小分けをして、隣の苗との間隔を考え、浮いてしまうことも無いように、一つ一つていねいに植えなければなりません。

 ところが、「なぜ…」という「その我慢の作業のたいせつさの理由」が、その時点で、子どもたちに認識できているわけではありません。それぞれの手際の理由は説明しますが、その作業の「結果が出ていない(!)」ので、「言うとおりにする」だけです。
 「そんなもんか?!」と「がまん」です。いわば疑心暗鬼のまま、「決して楽ではない作業」を繰り返していきます。
 最初は面白くても、腰をかがめて植える作業は20分、30分と続いていくと、次第に「テキトー」になる子がでてきます。もちろん、そんなときは「雷」が落ちます。丁寧な田植えにはたいせつな意味があるからです
 理由です。まず、農家の人にとって「米作り」は「生命線」です。「いのちの糧」の長い歴史があります。そんな作業を遊び半分にするのは失礼です。また、子どもたちにも「米作り」という仕事(農作業)のたいせつさや大変さがわかりません。無意識のうちの「足の運び」や「手の運び」のひとつひとつが、イネの生育や実りにも大きく影響します。

 「作業の難儀さ」に触れることで、「食べ物は『買うもの』ではなくて、人の生業として多くの人たちの苦労や協力があって初めて手に入るもの」という本来の「しくみ」がわかります。食べ物にしろ、人の行動にしろ、そのひとつひとつを「仇やおろそかに考えてはいけない」ということを学んでいきます
 まだまだあります。田んぼの横を流れている、きれいな小川の水が、かつては「血で血を洗う争いのもと」になってしまったこと。近くの山からの湧水が腐葉土の栄養分を携え、毎年のコメ作りを養っていること。豊かな山の木が、そうした連作を可能にし、そのまま海に至る流れが、海の生物の栄養源にもなっていること・・・等々等々。

 「田植え」一つとっても、かけがえのないことの「豊かさ」がわかるのではないでしょうか。「総合学習や社会体験は、こういう奥行きもふくめて先生方や指導者が協議・検討したうえで実践すべきもの」だと考えます。課外学習には、こういう意味をもたせることができるのです。そのたいせつさに先生方は気づいているでしょうか?
 残念ながら、現在の総合授業や課外学習を見ると、ほとんど「マニュアル通り」、「遠足」や『リクリエーション』としか認識していないような取組が多すぎます。寺院や神社見学・浄水場見学・テーマパークめぐり・・・。事前調査や何の工夫もなく、まさにルーティン。

 たとえば、近くに異国情緒豊かな(?)街並みがあり、全国から児童や学生たちが訪れてきます。その様子を散見するに、「一角で立ち食いしたり、買い物をしたりするだけ」。「通行の邪魔」になっていることにも気づかないで、ゾロゾロ「商店街の往復」をくりかえすだけ・・・
 「一体全体何の意味があるのだろう」と、見ていると哀しくなる取組です。商店街の人たちとの企画検討やアドバイス・指導など、テーマの掘り起こしや展開は何なりと可能なはずです

 ぼくの指導と「他の多くの『総合授業?』」とのちがい。それは、「子どもの眼に返り、子どもの心に返り、たいせつな人生・生きること・成長の一環として考える、という立場と態度」だと思います。社会体験や総合授業を実践するのであれば、どうか、その取り組みを子どもたちにとっての「千載一遇のチャンス」に変えてください。
 かつて、「明日があるさ」という歌がはやりました。ぼくの半生の中でも2回・・・。明るく心に訴えかけるメロディと歌詞です。ぼくは鼻歌を歌いながらも、いつも何か「心に引っかかる」感じがありました。それはどこなのだろう・・・。
 確かに明日はあるし、その楽観的な気持ちは「心地よい」。その「心の構え」はたいせつだが、『それだけ感』が否めない。「若いぼくらにゃ夢がある・・・」と慰めているが、努力するわけではない・・・。それでは未来は変わりようがありません。「明日があるさ」の明日は「何もない、たいしたものが生まれない明日」です。

今若者たち(ぼくたちにも)にたいせつな「メロディ」はもっと前向き、「明日を変えることができる『明日があるさ』」ではないのか。明日が変わってこそ、ほんとうの「明日があるさ」ではないのか
 立体授業『米づくり』のスライド学習や指導、我慢しながら一生懸命遂行する作業が、『混然一体!』となって、子どもたちの体力や学力や精神力を形作っていきます。「田んぼまでの田舎道の道程が、子どもたちの環覚養成にどれだけ役に立つか」は前回もお話ししました。つまり、『立体授業』は、言わば『生きることや日常生活の実体験』でもあるのです。

 蛍狩りや渓流教室の夏を経て、秋には「稲刈り」が待っています。初夏に叱られながら一生懸命植えた稲が金色の稲穂もたわわに、子どもたちの手によって刈り取られていきます。そのころ、子どもたちは「三粒の種もみが約1000粒になる」ということも学んでいます。明日は大きく変わるのです。
 目の前には、信じられないくらい大きく実った稲穂。「しんどかった」努力の成果です。こうした半年によって、すぐには結果が出なくても、しっかり努力することで大きな成果を手に入れられる、ということが「実体験」できるのです
 「すぐには結果が出ない努力」、しかし「努力をしなければ手に入れられない実り」…何かに似ていませんか? そうです、勉強と同じです。こうした経験を一年・二年・三年と年を重ねるごとに、「確かな力を蓄えながら、当たり前のことをきちんとできる子」が次第に多くなっていきます

 さて、来週は、先日(24日)の課外学習「石ころとぼくたちは親せきかもしれない」の実践について紹介します。「もち鉄」や「ガーネット」を探す取り組み。子どもたちにとって「千載一遇の学習のチャンス!」になってくれればよい、と始めたものです。
 サポーターで参加されたお母さんが、当日の一連の活動を見て、「こんなふうに習ったことがない…」と感想を述べてくれました。最近では一番うれしい一言でした。学習のすべての問題がそこにあるのですから。ぼくの「どや顔」が見えませんか?(笑い)


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑲

2015年10月24日 | 学ぶ

 今週の写真は、お世話になっているクリニックの「花壇の人形の再生」と「稲刈り」のようす。そして立体授業『米づくり』テキストの一部です。
「勉強」のすすめ
 タイトルの『勉強』は、もちろん「学習」と言っても同じ意です。

 しかしイメージが問題です。嫌われています。「強いる・勉める」、聞くだけでも辟易します。
 どんな人にも、必ず一つや二つゲームであれ、麻雀であれ『おもしろくてしかたがない』、そういう対象があったはずです。もし、勉強も『おもしろくてしかたがなくなる』、そうなれば、みんな「寝る間も惜しんで」、ということになるでしょう。
 先週、こんなアイデアを提示しました。
 「学ぶこと」は、そんなに忌避されるものなのか? 展開が逆ではないのか? 
 「学ぶこと」は、「ぼくたちが生きていく上での生存の可能性を広げること」であり、「生命の存続」という生物の根本命題からも、本来なら快感に終始するはずだ。嫌悪の対象であるべきはずはない。明らかに学習における現状の指導体制や指導方法が間違っているからだ。
 (なお、念のためですが、ブログのアイデア・文章の無断使用・転用はお断りします。使用の際は出典を明らかにし、その旨連絡をお願いします)・・・。

 小さいころ、難しい問題やできなかった問題、またどうしてもわからなかった疑問を解決できたとき、とてつもなくうれしかった・・・。しかも、できなくて長い間苦労してきた問題ほど、喜びは大きかった・・・。この感覚はほとんどの人が持っているでしょうが、それは当たり前です。それによって、自らが生きていく可能性が、より大きくなった、つまり生きていくためのプラスの方向です。生の存続の方向に沿っているものは快感です
 ところが、どうして嫌われる存在になってしまうのか? その大きな原因はふたつあります。

 まず一つめは、どんなことであろうと、おもしろくなるまでに、『それなりの厳しい努力や我慢の時期』が必要になるからです。小さな努力を日々積み重ねていって、あるいは理解を少しずつ進めていって、「手の内に入れる」。まず、そういう期間が必要です。そういうことができたかどうか。
 「『嫌いだからしない』という時期」を乗り越えたり、克服できるだけの経験や努力を重ねられたか、どうか。『頭を使うこと』は、最初とても大変ですから、「その大変さを乗り越えられた人」は決して多くありません。
 途中で挫折していれば、たとえば、その「乗り越えられた経験」や、その「苦しみの先に待っているすばらしいもの」を子どもたちに伝えることができません。またまた挫折するしかありません。先が見えないからです。先や目標が見えない努力をつづけることはできません。

 一部の天才や稀有な偶然に恵まれれば別ですが、多くの人の場合、最初からおもしろくてしかたがないはずがありません。性格的に『我慢ができない』『飽きっぽい』(これは、ほとんど、ちいさいころからの育て方やしつけの結果だとぼくはおもっています)となると、どんなことであろうと、決しておもしろくなるまで至りません。最初の壁で、すでにアウトです。


 つまり、術や学・スポーツ等どれをとっても、「一定期間我慢すること」ができなければ、ものになるもの、おもしろくて仕方なくなるものは手にできません。ところが多くの人は我慢強くありません。上手(?)になれず、『できない』・『評価もされない』間は、どんなことであろうと、おもしろさが継続することはありません。次のおもしろいステージには進めないからです。

 二つめは、指導や導入する際、よい指導者(先生には限りません。勉強の例では、エジソンのお母さんやファインマンのお父さん等、両親や肉親も)にめぐまれるか否か、です成長のようすをよく見守り、タイミングを計り、的確な指導とアドバイスをつづける・・・そんな先生に恵まれれば、多くの子が「もっと勉強好き」で成長するでしょう
 しかし、勉強に限らず、子どもたちへの、こういう「きめの細かい」指導をつづけてくれる人には、なかなか巡り逢えません。ぼくが、「お父さん・お母さんに頑張って欲しい」と思うのも、そういう理由からです。

 自分の子どもですから、自分が誠心誠意、日々子どもに向かえば、きっと「もっとすばらしい結果」が返ってくると思います。ところが、若いときは、なかなか、そういう長いスパンで「子育て」を考えたり、きめ細かい観察や指導をつづけることはできません
 もう少し長い目で見つめ、根気よく子育てに向かうこと(つまり、お母さんやお父さんが我慢すること)で、こどもたちは、勉強にしろ、何にしろ、我慢を重ね、辛抱しながら、おもしろいことを見つけ、それに向かって邁進し、「勉強!」の確かな実りをつかんでくれるのではないでしょうか?
 
「米づくり」が先か、「単子葉植物」が先か?
 そのきっかけづくりを考えてみます。17日(土)は『稲刈り』でした。
 たとえば、植物の学習では、子どもたちは単子葉植物と双子葉植物の分類や特徴を学習します。葉のようすや根の区別を、コンパクトにまとめたテキストを利用し、その特徴を覚えていきます。つまり、多くの場合、簡単に線描されたイラストや小さな写真を頼りに、文字で表現された特徴を頭に入れなければなりません。

 教室で少し知っている先生がいて、たとえば、「エノコログサ」と「猫じゃらし」が同じものだぐらいは習っても(知識だけ)、実際には『手にとって、よく見た子』はほとんどいない。「道ばたに生えているのを見たことがあるような気がする(ような)」子が少しいる、それだけです。それ以上の広がりはありません。
 
対象そのものはもちろん、存在する環境や、それを中心とするなりたちやしくみも、すべて「不明」のままです。『おもしろさ』や『知りたさ』が駆動しません。「子どもたちのたいせつな学習のはじめ」に、多くの学習対象の指導はそうした調子で行われています。その『不毛さ』に、子どもを指導する人たちはどれだけ気づいているか?

 「そうした学習体験や学習指導が当たり前」のように育った先生やお父さん・お母さんも、それが「おもしろくないこと」だとはわかっていても、それ以外の学習体験や指導経験がない人がほとんどなので、その状況を『打開すること』や『工夫する術』がわからない、その「きっかけ」がつかめない。そうではないでしょうか
 「よく見たことのないもの」「ほとんど知らないもの」の「簡単な特徴」や「名称」・「数式」・・・を延々と列記され、問題演習をくり返すだけで、『勉強』がおもしろくなるでしょうか? そんな経験だけを続けておもしろくなること、一生つづけてゆくことが考えられますか? 多くの子どもたちは、多くの場合、そうした学習だけをつづけているわけです。「途中で嫌になるのは当たり前」、そう思いませんか? その障壁を破りましょう。 
 団の課外学習・立体授業は、ただ田植えをしたり、稲刈りをすることだけが目的ではありません。イネのことを考えてみてください。

 イネは単子葉植物です。田植えで苗を手に取れば、単子葉植物の特徴であるひげ根や平行脈の葉っぱ、その特徴が一目瞭然です。団の立体授業で使う『米づくり』のオリジナルテキストでは「イネの一生」はもちろん、田んぼのようすやそれぞれの季節の動物や植物の特徴、米づくりに関することわざや米づくりで使う道具の数々、その歴史に触れています(備中鍬や千歯扱き・唐箕などは歴史で出てきますね)。
 つまり、こうした経験を通じて、子どもたちの頭の中では「米づくり」の「学習をともなう立体像」が立ち上がってくるのです。ぼくたちの生活、衣・食・住にまつわる『学習対象』が「かけがえのないたいせつなものである」という認識が根付いていきます。子どもたちは「勉強でない学習」に目を開かれていきます。「環覚」養成です。 


 ずいぶん前になりますが、ある有名私立難関中高一貫校の先生方に、『米づくり』のこうした指導の有用性や意味を、「心を込めて」説明しました。曰く、「うちは校庭に田んぼをつくって、農家の人に教えてもらうから、それでいい」。

 その返事から、子どもたちの学習の問題点の解決や、それを打開する「きっかけづくり」などは、「とてもできない」と感じたものです。米づくりで田舎に向かう道沿いや環境、その近くで眼にする道具や季節ごとの植物・動物・・・。それらがすべて子どもたちの『学習環境作り』として大きな意味をもつことが、まったくわかっていません
 また、ぼくの友人が、かつて「よい塾を探している」というお母さんに団を薦めてくれたようですが、曰く『うちの子は田植えはいいから勉強を教えて欲しい』。何をか言わんや、です。ぼくの塾が良い塾かどうかはともかく、こうした先生やお母さんは、もういちど子どもの身になって、子どもの心を思い出して考え直してみてください。子どもたちのおもしろい学習への道程はそこから始まるのですから
 来週は、『子育て』の参考にしてもらえるよう、米づくりの体験がもつ「もうひとつのたいせつな意味」について考えてみます。


お父さんとお母さんのための「母親教室」⑱

2015年10月17日 | 学ぶ

「学習」に対する意識改革の提言
 前回、大阪市の小学生の学力不足の問題について触れました。そして子どもたちの『考える力の弱体化!』の問題提起をしました。
 小学校段階での学習指導が、あり得べき指導方法・指導内容で、適宜ふさわしく行われているだろうか、という疑問が生まれたからです。宿題の計算ドリルで、「計算のやり方がわからない子」に対して、「『わりざん』や『かけざん』という表記を見て計算しなさい」・・・こんな破廉恥な指導が登場しています

 また、この「母親教室」のシリーズでは、「子育て」に対する保護者の責任転嫁や他者依存の態度・姿勢の「増殖」(「ことな」や「おども」化)についても紹介しました。「子どもを一人前にそだてる」ために、「親や家庭が自らのプライドと責任においておこなうべき『しつけ』」を、「『「学校!に依存しようと意識すること』を変だと自覚できない状況の蔓延です
 柔軟性と可能性にあふれた子どもたちが、今はこんなハンディキャップの多い教育環境の混沌のなかで育ちつつあるのが現実です。そして、もっともたいせつだと思われる問題が依然として未解決のままです。

 昨日、附属校ゆえ大学までの進路が確定しているある中高一貫校の「入対」の先生が在校生の学力や学習不足を嘆いていました。勉強しなくても、それなりについていけば、大学に入れる、勉強は、やっても試験前だけ・・・。
 相変わらずです。目標が受験で入試や受験に特化した学習内容や指導体制・学習方法・学習姿勢のままである限り、事態は『悪化』こそすれ、『改善する』ことは考えられません。小さいころから、日常生活との関係や関連もよく見えない中で、その多くを「見たこともない」・「聞いたこともない」学習内容を、教室内で、ほぼ一方的に指導されます
 学習事項をコンパクトにまとめた「理屈帳(!)」の暗記や、「ふだん使わない公式」を丸暗記し、「ほとんど使わない計算式の問題」に仕立てあげた演習をくり返していきます。外遊びのない日常生活・自然環境とも「さらに」縁遠くなっていく日々を背景に、日常生活や生きていくこととの関係性やヒントも得られないまま、抽象的な指導が小学生のころから続いていきます。千篇一律。

 しからば本はどうか? 
 OB諸君に中学進学後、ようすを訊いていますが、課題図書ではなく、先生個人から「おもしろい本を薦められた」という子は、20年で一人しかいません。「本のない家庭」に生まれ、「本を読まない両親」のもとで、「本の指導を知らないまま」育つ。多くの教育機関や学校で行われている学習指導がそうであれば、「学習の次なるステージ」が始まるでしょうか?

 ぼくが東京教育大学を目指すきっかけになったK先生は、ほとんど毎日自分が読んだ本や資料で参考にした本のおもしろさを話してくれました。ぼくは何ごとかをなし得たわけではありませんが、それによって「読書をすることによる心の豊かさを体感でき、ものの見方の広がりを手にすることができた」と感じています。「もっともたいせつなことのひとつを教えてもらった」と感謝しています
 目的や目標の見えないなかで我慢が成らず、その遂行の理由や疑念を周囲にぶつけると、「学校に行くため」、「試験に受かるため」という観念的な返答しか得られない。先が見えない。進学先は見えても、さらにその先が見えない
 何とか自分を鼓舞・納得させようとするが、抽象的学習のくりかえしと、心からの目標が得られない日々は、成績の上下でコンプレックスとストレスが募るばかり。学びのモチベーションの向上は考えられません。

 そんなくりかえしでは、「勉強なんか合格後は用済みだ」と思っても当たり前です。お父さん・お母さんも、そして先生の多くも、今子どもたちが面している以外の目的や目標を見たことも考えたこともないので、ふと矛盾は感じても「感じるだけで終わり」。これが相変わらずの多くの生徒・学生の学習観の現状です。 
 長い年月の間に凝り固まってしまった体制や環境を、個人で急に変えることはむずかしい。指導によって子どもの学力の伸長や可能性の広がるようすを具現化すること。あるいは自ら明確に目標を定め、それに向かって邁進する(できる)子どもたちを育てること。「未だ道遠し、そして、なお険し」ですが、それが小さな個人塾でできる最善の方法でした。

 先例がないゆえ、経験も情報の共有もない中での展開でした。ひとりでの指導も自らつづけながら、結果を確認し、ぼく自身の方法と目標が明確になってくるまで、20年の試行錯誤が続きました。
 しかし、この方法であれば、子どもの内なるモチベーションの駆動、学ぶことに対する意識の変革が、ちょっとした工夫で、どんな家庭でも先生・教育機関を問わず、単独でも可能です。その思いが揺らぎがちな体力や緩みがちな精神力を支えてくれました。
 「進学しなければならないから」、「合格しなければならないから」という、「学ぶことそのもののおもしろさの追求がない苦行の世界」では、進学や合格という一応の目的や目標を達成すれば、誰だって「学ぶ世界」は二度と足を踏み入れたくない世界になる・・・。

 この『子どもたちにとってほんとうの教科書とは何か』というブログで、「子どもたちの学習に対するモチベーション転換の糸口」を探ってみたい。相変わらず、肝心の実行者(!)である子ども抜きで、「保護者と学校の間で暗黙の裡に取り交わされている約束事項(?!)を「骨抜き?!」にできる材料を提供できないものか。微力ながら可能性を提案したい。
  
「心の声」
 逆なんだよ。自らの環境の中で、おもしろいものや不思議なこと・美しいものに出会い、スイッチが入って「勉強」がやむにやまれぬ力で動き始めるんだよ。「解明!」せざるを得なくなるんだよ、子どもは。 
 ニュートンやファーブルやアインシュタインはもちろん、数学者であろうと科学者であろうと、そのモチベーションの源は、自らの環境で見つけ出したワンダーランドだ。エジソン・ファインマンはもちろん、日本の名だたる偉人たちも、視点を変えればみんなそうじゃないか! 

 何とか、小さいころにそのおもしろさに目覚めるよう、気づくよう、伝える努力をしなくてはだめだ・・・それが『環覚』の養成であり、学ぶことをつづけようとする強大な力、『学体力』の源泉になる。
 「受験のため」・「進学のため」という視点だけ。そういう感覚からは、時に声高に提唱される「生涯学習の啓発」・「労働力の再雇用・有効利用」なども望むべくも無い。夢のまた夢ではないか。
 学ぶことは、そんなに忌避されるものなのか? 展開が逆ではないのか? 
 

「学ぶこと」は、「ぼくたちが生きていく上での生存の可能性を広げること」であり、「生命の存続」という生物の根本命題からも、本来なら快感に終始するはずだ。嫌悪の対象であるべきはずはない。明らかに学習における現状の指導体制や指導方法が間違っているからだ
 (なお、念のためですが、ブログのアイデア・文章の無断使用・転用はお断りします。使用の際は出典を明らかにし、その旨連絡をお願いします)
 そういう観点から、従来から進学や受験合格という、相変わらずの流れに任せて踏襲されている、受験前『間に合わせの駆け込み学習』にほぼ終始している「公私共々の受験学習体制」を批判的に振り返ろう。そして「子どもたちがおもしろく学べる、ほんとうの教科書とはどんなものか」を考えよう。

ノーベル街道は全国に
 過日のノーベル賞のニュースで、「ノーベル街道」という話題も出ましたが、背景の詳細な検討もなく、話題作りのままでした。ミカンやイチゴの産地ではあるまいし、街道沿いに、ノーベル賞学者が雨後の竹の子のように生まれるわけはありません。もっと、その本質に目が届かなくてはいけません。

 そのほんとうの理由や原因は、自然豊かな環境の中で、さまざまな生態系や自然事象の変化や推移に目を留めることで、科学的関心や興味が、深く広く増幅していったから、と判断するべきですノーベル街道は、中部日本の自然豊かな地域で、「お仕着せではなく」、自主的な自然体験・観察経験豊富に育った田舎の「科学少年(!)」が、幸運にも輩出した地域であると考えるべきでしょう。そういう意味では、「ノーベル街道」だけではなく、日本全国の田舎が「ノーベル街道候補地(!)」です
 「ファインマンの父~」のブログでも触れましたが、ファインマンが「部屋に入ってくる電磁波のはたらきや熱いコーヒーの分子の動きを、まるで目の前で見ているように話をした」。この力は、小さいころからの自然体験や自然観察の積み重ねによる感覚やイマジネーションのはたらきがもたらしたものにちがいありません。単にテキストや机上の学習のみでは、想像力や観察力の乏しい「偽物学者」や「はったり学者」が生まれこそすれ、ファインマン2世が生まれることは決してないでしょう。

 そういう観点からふりかえれば、子どもたちの学習や学力に対する現在の価値観や教育体制―つまり「学習が必要なのは受験や進学をするため」とほぼ限定されている視点や体制―の克服・改革がいかに待ち望まれるべきか。さらに、それらの取り組み様によっては、本来子どもたちがもっている大きな潜在能力を十全に開花させることができるという解釈が生まれてきます。つまり、ノーベル街道は全国に隠れて在る!


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑰

2015年10月10日 | 学ぶ

深刻な小学生の学力不足
 大阪市の小学生の学力不足。今に始まったことじゃありませんが、その現状を『現場報告』します。お父さん・お母さん方は、その現状を念頭に、子どもたちの学力の今後について考えてみてください。つまり気遣いと手助けです。事態は深刻です。
 「塾に行け」と薦めているわけではありません。まず、団でも重視していますが、子どものためを考えるなら、少なくとも宿題の(?)漢字ドリルや計算ドリルの演習と九九の暗唱だけは、完遂できるように応援してあげてください。大げさではなく、こんな状況が続いて、この子たちが大きくなったら、どんな人生やどんな社会が待っているのだろうか、という危惧からです。ほんとうです。

 ブログの自己紹介のように、準備期間を含めると団をはじめて既に20年が経過しました。最初に子どもたちの「異変」を感じたのは、2005年度小学校卒業の子どもたちが3~4年生で入団してきた時です。それまでの数年間の子たちに比べ、その学力の著しい低下にびっくりしました
 「なんて頭の悪い子たちが入ってきたんだろう」という感じでした。ところが、指導を始めると、「頭が悪い」なんてとんでもない。「理解が速くてよくできる」子がほとんどでした。
 ちなみに彼らの進学中学は最終の成績順で奈良学園・四天王寺学園・清風理数・大阪女学院・清風中学・近大附属特進と決して例年に比べて劣っていたわけではありません。その後、さらにOB教室を経た4人の中からは大阪大学(奈良学園)・神戸大学(近大附属)と進学しています。


 もう原因はお判りですね。「ゆとり教育」実施の弊害ですそれ以前とは、それほどの格差があったのです

 今から約12~13年前の話です。塾に行って学習補助を受けていた子はともかく、今は、もう成人している子たちですが、学習支援を適切に受けることができなかった子たちは、仕事や社会生活にうまく適応できているかどうか心配しています。

大阪市『学力低下』の現状
 ところが、7~8年前から現在までの状況は、そのときの比ではありません

 団に入ってくるとき(3年生)、掛け算はもちろん、二ケタの足し算さえできない子がたくさんいます。4年生になっても大きな数の足し算や、掛け算・割り算が、いつまでもマスターできない子がたくさんいます。
 また計算はできる子でも、掛け算や割り算の「意味」は、ほとんど理解できていません。多くの子の「考える力の弱体化!」が顕著です。つまり、「考えるという習慣」が成立する状況にないという懸念があります。この件については、以前も紹介したことがあります。起きていることの重大さを認知してもらえるように、もう一度紹介します。
 約3年前のことです。5年生になっても、文章題になると、何も考えないで自由に計算を「駆使!」する子が出てきました。対象になる題意の数字を、「何の根拠もなく、好きに計算してしまう」のです。わがままな子でしたが、それにしても「わがまますぎ!?」ます。

 ぼくが、「どういうときに、どういう計算をするのか、先生に教えてもらえなかった?」と聞くと、彼曰く、「教えてくれた・・・」。
 「それじゃあ、問題文をしっかり読めば、わかるだろう?」とぼく。黙ってしまいます。「どういうふうに教えてもらったの?」と再度聞きました。
 彼は、宿題の算数ドリルの計算のやり方がわからないので、「どうしたらよいのか」を先生に聞くと、最初は教えてくれたんだけど、そのうち「計算ドリルの上のタイトル(見出し)を見て、掛け算なら掛け算・割り算と書いてあれば割り算をしなさい」と教えてもらった。そう言いました!指導がまったく成立していません。
 彼は、お母さんがまだ日本語が完全ではなかったので、読み取る力が少し不足していました。『ピン!』と来たぼくは、『まさか?』と思いながらも、「それじゃあ、校長先生に『そう習ったんですけど、それでよいかどうか』聞いてみなさい」とアドバイスしました。
 校長先生が担任に問いただすと、「確かに、そう言った」としっかり認めたようです。これでは、「学習指導以前の問題」です。
 ちなみに、当該の先生は新任ではありません、中年以上の『経験豊富な』先生です・・・。みなさん、学校教育の現場で、こんなことがあって良いのでしょうか?

 もちろん、よい先生がたくさんいらっしゃるのはよくわかっています。特に、ぼくが実際に指導している中では、桃陽小学校(天王寺区)の先生方は、来ている子たちを見ている限り、きちんと学習指導されているのがよくわかります
 しかし、一部の学校では、基本となるべき「計算のしくみとなりたち」の指導や「考える《考えを進める》」指導に、大きな問題があるように感じます。
 「『タイトル』を見て計算しなさい」という極端な例は論外ですが、「なぜ、その計算をするのか?」・「なぜ、しなければならないのか?」という考え方が押さえられているでしょうか。
 また、今「何を求めるための計算をしているのか(何の何を求めているのか)」という、考える筋道の振り返りはありますか? 「ただ無目的に、何も考えず、計算をしている(させている)」という案配になってはいないでしょうか?

 今のままでは、「考える力」が大きく不足してしまいます。「考えられない!」子がたくさん出てくるようになりました。
 「算数の力は、そうした論理的学習の延長線上で身についていく」と、ぼくは思っています。それによって、「わかること」が面白くなっていくはずです。
 小さいころに、おもしろい学習に目覚めないと、「学ぶことそのもの」の意味を確認できないで育ってしまうことになります。小学校の先生方、お願いです。どうか、未来を担う子どもたちのために、力を貸してあげてください。

 さて、以下は、以前も別例を紹介しましたが、団で難問を指導するときの資料一例です。何かの参考にしていただければ光栄です(次ページにアップしています)。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑰続

2015年10月10日 | 学ぶ

算数難問指導参考例
平成15年度五ッ木・駸々堂6年第5回6 
(2)
 おはじきが何個かあります。はじめに、1個、3個、5個、・・・のように奇数個ずつ取っていったら、最後に4個残りました。次に、2個、4個、6個、・・・のように偶数個ずつ取っていったら、最後に12個残りました。おはじきは、全部で何個ありますか

難問を解くための注意と方法
 「目新しい問題」は、いくらでも出てくる。したがって、「見たことのない問題だ!?」と、手をこまねいていたら、頭のよい子にはならない(なれない)。
 見たことのない問題でも、何か「考える糸口」を見つけられるはずだ。その糸口を見つけ、「もつれた糸」を解きほぐすように答えを求めていくことができる子が「頭のよい子(良くなる子)」だ。「見たことのない問題」を「教えてもらってないから、わからない」とボーッとしてる子は、永遠に頭がよくならない(笑い)よ。
 また、「問題文が長い問題ほど、きちんと読めばやさしい」ことが多い。説明が細かく、ていねいだからである。問題文をしっかりたどって考えることが要求されているのだ。
 これは出題者(この場合は中学校側)の選抜試験作成の大きなポイントである。なぜか?
 「文字が多い問題をいやがる子」は、『考えられない子(考えたくない子)が多い―「めんどくさがり」は、考えを深く突き詰められない(深く考えられない)―ので、たいてい頭がよくない』。「そんな子を選抜したくない」というわけ。「問題文が長い問題ほど、ていねいにきちんと読む」ようにしよう
 さて「難問を考えていく手立て」は大きく分けると、次のように二つある。
 一つめ。問題文の内容を「見て、わかりやすく考えられる」ように、図に表す。
 線分図や状況図など、問題に応じて、図に描けるようにきちんと練習しよう(毎回図を書く)。
 二つめ。この問題のように、「規則的な操作をつづける問題」は、その操作によって、『どういう規則性が生まれるか』調べてみる
 たとえば、この問題のように、1個、2個、3個とあれば、少なくとももう少し、同じこと(4個、5個と)をつづけてみて、その結果をよく考えよう。そうすると、解決の糸口が見つかることが多い。


解説
 まず、奇数個・偶数個、おはじきをそれぞれ「同じ回数」取り出すと、取り出した個数はどうなるか? それをくらべてみる。
 4回とりだすと、
奇数個1+3+5+7=16個、  偶数個 2+4+6+8=20個
 今度は5回取り出すと
奇数個1+3+5+7+9=25個、  偶数個 2+4+6+8+10=30個  
 奇数個と偶数個をそれぞれ「同じ回数」とりだすと、上のように、「取り出す個数」は、必ず「偶数個の取り出し」の方が多くなる(つまり、奇数の取り出しの方が、残りが多い)。そして、「偶数と奇数の取り出した個数の差」は「取り出した回数と同じ(5回取り出せば5個)」である。これは、偶数は、それぞれ奇数より1ずつ多いから当たり前だね。
(後で問題を出すので、「偶数個の取り出しの回数が、奇数個の取り出し回数より「一回少ないとき」のちがいは「奇数個の取り出しの回数と同じ個数である」ことも調べておいてください
 ところが、問題文の場合、「偶数個の取り出し」の方が「残りの個数は多い」。つまり、「奇数個の取り出し回数の方が多かった」ことがわかる。そして「残りの個数の差」は8個(12-4=8)である。そこで今度は「取り出す回数と残りの個数の差」を調べてみる。
 「偶数2回取り出し」のとき和は6個、「奇数の取り出し3回」では和は9個。偶数の取り出しの方が3個少ない(つまり、残りの個数は3個多くなる)。偶数3回12個のとき、奇数4回16個では4個少ない(したがって残りの個数は4個多い)。偶数4回で和は20個で、奇数5回の取り出しは25個。偶数の方が取り出す個数は5個少なく、残りの個数は5個多くなる。問題文では「偶数の取り出し」の方の残りが8個少ないから、「奇数の取り出し」は8回、偶数は7回だったことがわかる。
 よって1+3+5+7+9+11+13+15+あまりの4個
    =64+4
    =68                                   答えは68個である
 検算をしながら考えてみよう。また、ほかに方法がないか、休み時間に考えるのもいいね。
 ちなみに奇数を1から順番に何回か取り出すと、その合計数(和)は、その回数の自乗(二乗)数になる。たとえば4回だと4×4の16、5回だと5×5の25というふうに。
 *最後に問題。「文中の下線部のようになる理由」を考え、わかりやすく説明できるかな


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑯

2015年10月03日 | 学ぶ

『パンが応報』
 手作りのおいしいパン屋さんがありました。
 出来立ての「アンフライ」や「漉し餡パン」の美味しさが格別で、何十年も前に、よく通っていた人がいました。朝9時過ぎになると、ホカホカのパンが小さなお店に並びました。

 作り手のおじいちゃんと売り手のおばあちゃん、二人の共同作業。かつては大いに流行っていました。彼は、このおいしさなら、いつか大きなお店になるだろう、と楽しみにしていたといいます。
 しばらく仕事で離れていて、久しぶりに訪れた朝。「漉し餡パン」のプレートには、「ぼくは出来立てじゃないよ」という顔をしたものが、三つ並んでいました。
 「残り物かもしれない」と心配になった彼は、年をとって表情がきつくなっていたおばあちゃんに、「これは、今朝焼いたものですか」とたずねます。一瞬躊躇があって、「・・・ええ、そうですよ」という応え。「もしや」という危惧はあったものの、おばあちゃんの返事を信じて、レジに運びました。

 帰って口にすると、やはり予想通り。昨日の残りです。
 
「心根の荒み」を考えると、パンの味気無さが倍加しました。
 商売だからしょうがないか。でも店が大きくならなかったのは、その辺だな。パンの美味しさに自信をもって、「一番おいしいものを売ろう」という鉄則とプライドを忘れたからだ。彼の感想です。
 二週間後です。気になって、朝もう一度足を運びました。9時過ぎ。
 自転車を止めると、ショーウインドーの向こうで、やはり「漉し餡パン」が三つ残っているプレートがありました。ガラス越しに「出来立て」をいっぱい載せたプレートに取り換えたおばあちゃんが見えました。
 客は他に誰もいません。彼はドアをあけて、ホカホカのプレートから「出来立てのアンパン」を二つ載せてレジに運びます。
 おばあちゃんは見るからに表情を硬くし、「ありがとう」もそこそこに、そそくさと小銭を投げ入れたレジの引き出しを、ガチャンと音を立てて閉めました

 因果応報、いや「パンが応報」です。こうして、おばあちゃんは、たいせつな客をまたひとり無くしました。おばあちゃんにそれがわかったでしょうか?

「すばらしい子育て」は「自分育てから」
 ぼくたちは、「目先のやり取りや得失」にすぐ目を奪われ、なかなか先のことまで見通せません。しかし、年をとってくると、「得と損の二面性」や「良いことと悪いことの裏表の関係」が、よく見えるようになります。表には裏があります。

 「ほとんどすべてのこと(全部だと思うのですが断言はしません。あらゆることを体験はできませんから)」に、二面性や、「幸と不幸が交互にというような前後(後先の)関係」があります。
 たとえば、税金をごまかす人がいて、税収が足りなくなると、税金の徴収が厳しくなります。そこで無駄に税金を使うようなシチュエーションが重なると悲惨です。

 「うまくいった、もうかった」とほくそ笑んでいても、やがて自らのもとに「倍返し」で返ってきます。つまり、自分で自分たちの首を絞めている、わけです。感性や知性のちがいで本人が気づかない場合があるだけで…。
 ぼくは、右でも左でも、真ん中でも、国の味方(?)でもありませんが、「生活保護を受けながら、子どもを保育所に預けてパチンコ三昧という夫婦」や、「偽装離婚や同居結婚(?)で、高額所得者が税金をちょろまかしたり、児童手当をもらっているような事例」を耳にすると、「ちょっと待てよ」と思います。

 そういう保護者の姿を見て育った子どもたちが、「世の中を良くしたい」と思うでしょうか。「社会の役に立ちたい」と、正義感にあふれた、りっぱな青年に育つでしょうか。十数年後の子どもの素晴らしい成長のイメージが、そんな人たちの脳裏にあるとは思えませんが・・・。 
 「すばらしい子育てのスタート」は、まず「自分育てから」です。これは、年を重ねてきたゆえの反省と覚悟です。

何気ない日々がもたらすもの
 さて、「パンが応報」のような例は、時々子どもたちに話します。考える機会を用意します。
 お金は大事だけれど、お金のたいせつさの偏重で、日々の大切さや面白さ・豊かさ、そしてその奥にある「人生の意味」について考える機会を往々にして失いがちになります。お金を貯めた、そして、そのお金をもって、おいしいものを食べる、旅行に行く・・・。

 お金がなければおいしいものは食べられないし、旅行にも行けない? 果たしてそうでしょうか?
 「お金がなくても、おいしいものは食べられますよ?」 
 自分で育てて、心を込めて、おいしいものを作ればいいんです。料理の本や自分の舌を鍛えることができます。自分の好みに照らし合わせながら工夫をすれば、すばらしく、おいしいものが作れます。それを伝えるのが教育です

 お金をもって遠くに旅行に行く? お金がなくても、「いくらお金があっても行けないところ」に旅に行けますよ? 想像の国や創造の国・・・これは冗談ではありません。「何気ない日々」、「何もない日々」、「変化のない日々」。お金がなければ、ほんとうに何もないのか? 
 ぼくたちは、日常で、「素晴らしいパノラマ」が頭の中に広がり、「夢の国」・「不思議の国」にトリップできることを知らないだけではないのか? つまり、日々の『何気なさ』は「『何気あり』を知らないから、何もない」のではないか? それを伝えるのが教育です。 

 それらを生み出すものが教養であり、知性であり、理性であり、感性ではないのか? どこへ行こうと、どこにいようと「素晴らしいパノラマ」や「夢の国」「不思議の国」を見させてくれるのは、教養、知性、理性、感性、この四つのはたらきの故ではないでしょうか? それを伝えるのが教育だと考えています
 これらは、お金がなくても、十分整います。考え方と心の余裕があれば。
 
ところが、「素晴らしいパノラマ」「夢の国」「不思議の国」に行きたいがために、逆に、それらを見たり、感じたりする「スキル」をどんどん摩耗させているのが現実ではないのか? やっとお金がたまった時、見たかったものは姿を消してしまっていた…。そんな成長はしてほしくありません。。

不思議の国を旅しはじめた子どもたち
 前回(春)の化石採集。「まだ経験が少ない」子どもたちだったので、化石や地球史的背景など、なじみがありませんでした。つまり、なじみがなければ化石も「ただの石ころ」です。おもしろくなかったのです。一時間もすると飽きて、近くの池で石を投げ、カエルを追いかける子が出始めました。

 しかし、立体授業『化石採集』のスライド映写やアドバイス、自然史博物館での採集物同定作業、授業での関連事項の紹介など、様々な体験を半年重ねると、存在の「意味」が認識できるようになってきます。みずからが学んだり、取りくもうとしている「こと」や「もの」が、「かけがえのない意味」を持ってきます。「おもしろい学習」はこうして始まります。

 学習対象・学習内容が身近になるわけです。ひとつひとつは日常の何気ない小さな積み重ねですが、それがいつのまにか大きな効果を生みだします

 今回、子どもたちは、小さな丸い石や二枚貝・葉っぱの化石から、1500万年前の浅い海に流れ込む川のようすが、ぼんやりイメージできてきたようです。約3時間一生懸命化石を探していました。
 我慢やがんばりも身に付き、「獲物」がたくさんとれたのも当然です。そして茫漠とした「机上の地球の歴史」に終わらず、現実の歴史の一瞬も切り取ることができました。それが子どもたちの心の奥に残っています

 たとえお金がなくても(人生、何があるか、わかりません)、やがて「素晴らしいパノラマ」を見、「夢の国」・「不思議の国」を自由に旅できるように育ってほしい。教養・知性・理性・感性。四つの力を身につけてほしい
いつもそう願いながら、ぼくは子どもたちと付き合っています。