『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星、宇宙の誕生と死

2017年05月27日 | 学ぶ

自由と自分勝手は違う
 橋本先生は著書で、子どもたちを指導するにあたって、たいせつなポイントを挙げています。「『教える』と『学ぶ』をつなげるポイント」として、10個挙げられている中のひとつです。

 ⑨ 自由と自分勝手は違うことをしっかり教えよう
 (「伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力」日本実業出版社 p128 下線は南淵)
 
 団の立体授業や課外学習では、単に「おもしろい」だけではなく、「我慢しなければならないこと」や「知っておいてほしいこと」も指導に組み込みます。年間を通じた過程で探索や行動も共にし、指導を重ねます。学力や人間性のバランスのよい成長を成就できてはじめて、飛躍的な学力伸長の大きな糧にもなるからです。

 バランスの悪さ。「好き嫌い」もそうですが、「自分の好きなことだけをチョイスする」考え方があります。
 好きなことだけをやらせてあげたい」という「親心?!」かもしれませんが、ぼくの経験したかぎりでは、そういう考え方の下で育てられた、ほとんどすべての子が、「自分勝手で、人の気持ちがわからない子」に育ちつつあった、あるいは育ってしまっていた、と云ってもよいと思います。
 好き嫌いが多いと云われている(?)、イチローや中田英寿のような天才は別ですが、彼らとて、「他人にはうかがい知れないような極限の練習と努力を重ねるというトレーニング」がそれらの「身勝手なチョイスの不均衡を補った」からこそ、あの成長があったのだとぼくは思っています。つまり「しなければならない我慢」も、その過程で身についたというわけです

 今の子どもたちの中で、火の出るような努力や集中力で練習を重ねている「天才」は何人いるでしょうか。「我慢」や「辛抱」を覚えるような経験を積むことができていますか? それらを抜きに、好きなことだけをするように育てられていれば、結果は「火を見るより」明らかではないでしょうか。近年の「子育て事情」を見ていると、先の、橋本先生が挙げた「自由と自分勝手は違う」ということに目が届かない「指導」が蔓延しています。
 
気づかないと、治せない
 団の指導でも、以前は「課外学習には、事情が許す限り、お父さんやお母さんが参加し、一緒に観察したり、学んだり」ということが恒例でした。それらの活動すべてが、団の指導であり、教育であるという「共通認識」がふつうに共有されていたのです。

 ところが、かつても紹介したように、ある時期から、「参加しても準備の作業や行動をともにしないで、子どもたちと作業中でも、付き添いの保護者がビールを飲んで無駄話をしたり、宿舎で昼寝をしている」という例がみられるようになりました
 つまり、「今子どもが何をしているか、しなければいけないか」ということが見えなく(わからなく)なり始めたのです。「全体が見えない」、「視点も狭い」、という状況です。
 当然のことですが、それでは子どもをしつけたり、指導することはできません。子どものよりよい成長は図れません。欠点や性格のバランスの悪さも、指導が、ふだんからそのようであれば、直りようがありません。

 かつて、こんなことがありました。ある日、一人のお母さんが訪ねて来て、「課外学習だけ(!)」参加させてくれないか」といいます。「やがて、自分も同じようなことをしてみたい…」。
 ぼくは一瞬唖然として、「課外学習や立体授業の指導は、それだけ切り離しては成立しない」、「『よいとこどり』では指導の結果が出ない」と断りました。自分の欲求や希望を優先するだけです。もし、そうした感覚のまま指導が始まれば、教わる子どもたちのバランスの良い成長は望めません。
 おとなには、全体のようすや相手の立場、周囲のようすをよく見、思いやりながら、自分の希望を満たしていく、役割や責任を果たしていく、という気遣いが欠かせません。それが「おとな」です。
 そして、そうした「指導する側のバランス感覚」が子どもの行動や成長の過程での「判断基準」として機能するわけです。その基準がきちんとしてなければ、子どもの指導は成立しません。治すものも治せないし、直るものも直りません
 年間を通じた課外学習では、その時々に応じた指導テキストを作成し(毎回改訂します)、できるだけ子どもたちの「環覚」養成に役立つようなトピックや内容・活動を加えていきます。その課外学習や立体授業を都度検討しなおし、子どもたちの心に残るような「つくり」にしたいからです。
 また、年間の課外学習や立体授業全体を通じて、後で紹介するように、ぼくたちの環境や学習対象・学習内容を総合的に、立体的に指導していきます。空気・石・生物・水・・・それが「心に残る」ことによって、子どもたちの日ごろ、周りを見る目や、気づくことが大きく変わっていくことがわかっているからです。その繰り返しによって子どもたちは、「学力」や「知識」・「考える力」を蓄えていきます。

 こういうこともありました。毎年、同じ課外学習だけ参加しない子がいました。つまり、参加する課外学習や立体授業の勝手なチョイスです。どうも子どもの「気持ち(!)」を忖度(!)して、参加不参加を決めていたようで、「好きなことだけやらそう、やらしてあげたい」という思いだったようです。
 この「判断基準」には大きな錯誤があります
 一つ目は、先に述べた「総合的な指導・学習内容から漏れ落ちる部分が出ること」。そして、もっと大きな誤解は、社会に出れば、ふつうなら誰でも経験することですが、「好きなことだけやって生きている(いける)わけではないことが自覚できていないこと」です。そんなふうに育ってしまえば、自分も社会もうまく機能しません。

 自明のことですが、「責任」や「義務」と名のつく、『社会が成立するための必要条件』は大抵、みんなの『好きなこと』とは言えません。やりたいことではありません。しかし、それらをお互いに、「気持ちよく」、「つつがなく」こなすことで社会は潤滑に機能します。
 欲望や欲求ばかりではなく、それらの「『好きではないこと』をしなければならないこと」をおぼえて、「いっぱしの大人」になります。それを、「いつ、だれが教えるか。教えなければならないのか?」。その辺が、ドンドン「あやふや」になっていきます。

 また、「好きではないこと」は、往々にして「自分は苦手なこと」です。苦手だからこそ、好きではないのです。大人は、もうそれでよいかもしれません。しかし、子どもたちは、あえて「それに手をつけ、努力し、慣れること」でバランス良く発達し、大きな力が身につきます
 また、「好きでもないこと」も「やっているうちに夢中になり、おもしろくてしかたがなくなってしまう」、というのもよくあることです。年をとるにつれて、ぼくはその感が深くなります。
 ところが、いつのころからか、この大原則が忘れさられ、「いびつな成長の子ども」がどんどん増えるようになりました。そういう子どもたちがそのまま親になれば、さらにいびつな社会がはじまります。

 学習と教育。どちらも、決して人格陶冶と切り離して考えることはできません。現在それらの指導は往々にして忘れられていますが、決して忘れてならないことは、「『子どもたちにかかわるすべて』が子どもたちの教育にかかわってくる」という大原則です。「『よいとこ取り』ばかり」はダメです。
 橋本先生の前記著書の同じページに「⑩人に対する思いやりの気持ち、それがわかれば大人の証」とあります。「子育て」の過程では、視点をもっと広く、大きくもち、躾や指導の結果や可能性についても、さらに深く考察する必要があるとぼくは考えています。
 「自分は好きなことだけしていたら良い」、「出てきたゴミや後片付けは誰かにやらせばよい」。これではバランスの良い成長は望めません。
 そして「自分の好きなことだけ」は、つまり「人のことは眼中にない」わけですから、そこから「人のことを考えたり、人に対する思いやりの気持ち」は生まれようがありません。「自分勝手な行動」が直るわけはありません。このようにたいせつなことも、指導者や保護者が『気づかないと治せません』。気づかない、わからないでは指導はできないのです。

「石ころ」テキスト改訂アイデア
 今年の第4回課外学習は「餅鉄探し」です。この課外学習については、おもしろいエピソードがあります。「でっかい鯰釣り」で従来から訪れていた川の環境が悪化し、新しい川に繰り出したところ、「大量の餅鉄を発見した」のです。つまり「瓢箪から駒」ならぬ「ナマズから餅鉄」というわけです。

 「餅鉄は発見した」のですが、餅鉄を中心にした「指導テキスト」の切り口やアイデアを考案しなければなりません。できれば、子どもたちの学習内容とリンク、それも広く、大きい方がベターです。
 教科書の学習内容や学習対象を日常生活の中でとらえなおす、展開しなおすことによって、「勉強は勉強でなくなります」。学習すべき大切なこととしての意識が芽生えます。「受験の価値観」ではなく、「生活の価値観」が生まれます。それがもっとも目指さなければならない指導です。
 発見したのが「河原」ですから、まず「川の流れの作用」が浮かびます。また、それにつれて「川の流れの変化」や「生態系」が浮上します。

 そして、河原の石ころは、多くの種類を考察の対象にするためには『岩石のでき方、つまり火成岩・堆積岩・変成岩の成り立ちと区別』が欠かせません。その過程で、ぼく自身が『岩石サイクル』を学びました。
 これらが最初の「餅鉄探し」のテキストのアイデアでした。これらを組み合わせてスライドもつくったわけです。しかし、子どもたちの体験からできるだけ幅広い興味や好奇心を引き出し、知的成長につなげるには、毎回テキストの更新、進化と深化は欠かせません。

 次のアイデアを思いついたのは、その「岩石サイクル」からでした。あれ? 森羅万象が輪廻転生のサイクルに収束するのではないか?
  岩石に終わらず、鉱物を思い、生物のしくみから細胞を考えていったとき、「石ころとぼくたちは親せきかもしれない!」というテーマが浮かびました。その旧テキスト構成内容をランダムに紹介します。

 当時皆既日食が話題だったので、その写真撮影ページ。光から空の青と夕焼けの赤のしくみ。銀河系(天の川)を内から見る星空。地球の自転と公転。太陽・地球・月の大きさと関係。宇宙から見た地球。太陽のエネルギー発生のしくみ。太陽系の一生(末路・赤色巨星)。星の輪廻転生。私たち(人間)は星の子のイメージ。人間のからだと地殻を構成する元素。地球でもっともありふれた岩石(玄武岩・花崗岩・橄欖岩)。石ころをつくるおもな鉱物7種。鉱物とは何か。石ころ(火成岩・堆積岩・変成岩)が生まれるしくみ。岩石サイクル。火成岩の種類とでき方。火成岩の分類と組織。プレートの分布。日本に火山や地震が多い理由。さまざまな堆積岩。流れる水のはたらき。課外学習に行く地域の石ころ。さまざまな変成岩。
 これらの図版を構成し、スライドをつくり、紹介と指導を進めていきました。しかし、これでもまだまだ不足です。進化途上です。

宝石の発見
 その後の展開で、さらにうれしい発見がありました。次の年、宝石。ガーネットです。
 河原の珍しい石採集の書籍をあちこち渉猟していると、団で訪れている河原でガーネットが見つかるかもしれないという、耳を疑うような「うれしい」情報。

 めてここで課外学習を企画する際のアドバイスをしておきましょう。「思い込み」ではなく、「子どもたちの感覚に戻らなければならない」という原則です
 「宝石? そんなはずないやろ。そんなん、小さい、つまらんもんやろ!」というような、「世知に長けた大人の発想」では、おもしろい企画は決して生まれません。

 定番の「放流した虹鱒やヤマメをつかんだり、釣ったりする釣り堀感覚の企画」や「お化け大会」の繰り返しでは、子どもたちの学習は深くなりません。まず、「まだ欲が張っていない」子どもたちは、小さい・大きいは関係なく「キラキラしたもの」が好きだし、「探すこと」が大好きだし、「集めること」にも夢中になります。つまり、こうした子どもの目線や感覚を手に入れることが、企画成功の大前提です。
 さて、続きは来週。


朧月夜と読解力③

2017年05月20日 | 学ぶ

「むずかしいこと」を読む
 従来からの学習指導法は、先生が一通り指導し、その解説を基に例題を解き、練習を繰り返すという方法です。相変わらず当然のように、振り返ることもなく踏襲されていて、団の指導のように、「ともかく学習するところ(テキストや本)を、まず自ら読んでみる」という指導法はなかなか理解されませんでした
 「『むずかしい』『教えてくれない』というこどもの『嘆き!』」を鵜呑みにして、意図や狙いをまったく考えようともしないまま、クレーム・退団という事例がよくありました。その過程でこそ、子どもたちはかけがえのない「学体力」を身につけ、将来にわたる学習法を学んでいることにまで、考えが及ばない、気づかないのです。

 学習・勉強や研究・人生!など、どれも最終的には「ひとりで自主的に解決しなければならないもの」だ。そうでなければ、成人への第一試練である大学受験や大学受験以降が対応できず、いっぱしの大人にはなれない、という確信がありました。この確信は何よりも、「社会の荒波」に「翻弄!され」、生き延びる道や生き方を探さねばならなかった人生「海路」の「星の光」と操縦技術が教えてくれたものです。
 とある会社で、営業マンや新入社員を見る(管理する)立場になったとき、その「教えてもらうことが当たり前」「「教えてもらってもなかなかできない」「言われたことしかできない」などの事例をたくさん見ました。頭が悪いわけではない。使ってこなかっただけだ。「何よりも自主的・自発的な行動がとれないよう育ってしまったからだ」という理由が、すぐ見て取れました
 「任せられた」、あるいは「ぶち当たった」仕事や問題に対して、「その解決や手がかりの糸口さえつかめない、掴もうとしない、できない」人が大半でした。「待ち」と「諦観」の蔓延です。

 そのとき気づいたのが、ほとんどが学校時代を通じて「『勉強』を教えてもらう」というスタイルに「(安倍首相曰く、品が悪いのだそうですが)ずぶずぶ(!)に」はまり、抜けきれなくなってしまっている、それ以外の方法があることなんか考えもしない(できない)で育ってしまうのだ、ということでした。
 この感覚は、学生から一般社会に出た経験がなくては、なかなかつかめない場合が多いと思います。「自分でできなくなってしまっている大人」をたくさん見て、その比較から原因を究める機会が少ないからです。

 団を始めた時、その先々を考えて、子どもたちには、まず「むずかしいことに自らあたるという経験を数多く積ませなければならない」と決心しました。それによって自ら道を切り開ける子がたくさん育つはずだと考えたのです。子どもたちに、そういう意識で指導する塾や学校の先生は少ないかもしれません。しかし、子どもたちが「できない」と思うような「むずかしいこと」に直面し、それを解決できた時の喜びと自信は、何よりも人生の大きな『糧』になっていくはずです

ファインマンの応援歌
 以前も、何度か「考えられない子がいる」ことを伝えましたが、小さな子どもたちは、まだ「考える」ということを知りません。たとえば、小学校低学年の場合、何か問いかけをすると、「目立ちたがり」・自己顕示欲の旺盛な子は、よく考えないで、面白半分に思いつく言葉を次から次へと繰り出します。積極的でよいという見方もあるかもしれませんが、ぼくは、そのまま行けば、「考えることを知らない」まま育ってしまう危惧が大いにある、と感じています。

 ぼくのように、一人で「持ちあがる」指導をしていると、その成長の過程から比較判断がよくできます。「一旦頭の中に『問いかけ』を落とし込んで、順を追ってたどってみる」という、「考える基本」が習慣化しないというわけです。
 それでは「落ち着いて根気よく考えられない」、つまり「筋道立てて論理的に考えられる子には育ちにくい」でしょう。そして、そういう「くせ」に注意を払われないままであれば、そのまま大人になり、考えること・勉強は苦手な子に育ってしまわざるを得ません。指導しているぼくたちは、そういうことにも目を配らなくてはなりません。まず自ら「対象」を読んで、頭の中に、しっかり落とし込んで考える、という習慣を定着させる指導のたいせつさです
 社会での観察と経験から、いわば「カン」で始めた方法ですが、年々子どもたちの成長の結果は出るものの、時間もなく方法の根拠の得られないまま十年くらいすぎたとき、ファインマンがヒントをくれました。

 “NO ORDINARY GENIUS”(CHRISTPHER SYKES  NORTON)を読んでいて、ファインマンがむずかしい本を読むときに取った方法です。
 
 むずかしい本に出合った時、ぼくがよく使う手があった。たとえば、百科事典の中の静電気の解説のような、難しいとわかった記事の場合だ。
 どうしたかといえば、最初の二・三段落を読んでわからなくなっても、全部を読んでしまうんだ。ぼうっとしながらも全部読んでしまって次に読み通そうとすると、もう少し先まで読める、それを最後までやり通す(なかには、後で説明する例外もあったが)。それからわかったことをノートに書き留めると、完璧だよ。(前記書 p33・拙訳 下線は南淵)
 

 ファインマンは、天文学の本を妹に送った時、「難しすぎる、どうすればいいの」と聞いた妹にも、同様の方法を薦めています。
 
 ともかく、最初から始めるんだよ。わからなくなるところまで、わかる限り読み続けるんだ。わからなくなったら、また最初から初めて、全部がわかるようになるまで続けるのさ。(前記書
p35・拙訳)

 まず読むこと。そして、何度も繰り返していると、次第にわかってくる(きた)というようすがアリアリとわかります。そこで身につくのが「学体力」です。まず、手を初めること。読んで考える。そしてわからなくても「投げ出さずに」「あきらめずに」努力すること。自分で始めることを教える。団の指導する「学体力」の育成そのままです。
 「簡単に手に入るものは、それだけのものだ」ということを、小さいころにしっかり伝えておかないと、教えるときがありません。読んで考える習慣づけのたいせつさ。逆に、「至れり尽くせり」は「がまんもできない『バカな子』をつくってしまう」可能性が大いにあるという、現実に無防備な指導が蔓延しています。
 
ファーブルの場合
  ファーブルは自ら実践した勉強方法を、勉強に悩んでいた弟にアドバイスしています。

 「なにかこまることがあっても、けっして他人の力を借りてはいけない。はたのものから助力を受けたのでは、けっして難問は解けないばかりではなく、困難はまた、ちがったかたちでおまえを苦しめるだけだ。大切なことはじっと耐えしのぶこと。そして自分で考えること。さらに、みずからすすんで学びとろうとすること・・・・・・。これほど役に立つことはない。これが理解への遠くて近い道なのだ」
(「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房p42 下線は南淵)

 「これほど役に立つことはない方法」の開陳です。そしてこれこそ最も子どもたちに習得してほしい態度と能力です。ファーブルの弟への手紙の続きです。

 「・・・私はこれだけは忠告しておく。それは特に科学に関しては観察が第一、絶対にほかのものにたよってはならないことだ。一冊の科学書は、これから解かねばならない“なぞ”なのだ。その解明のキーを他人にもらったら、たちまちに解けるだろうが、なんのプラスにもならない。もしも第二のなぞが出てきたらどうする? いぜんとして最初のなぞにぶつかったときと同様、手も足も出ないだろう。それは第一のなぞが、他人の助言でかんたんに解けてしまったからだ。自分の力で解こうとしなかったから進歩がないのだ」 (「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房p42~43)

 ファーブルはこうして「自ら読んで考えることのたいせつさ」を伝えながら、最後に

 「二、三日だけでいいから、こうした勉強のやり方で努力してみるといい。精力がことごとく一点に集中し、いっさいの障害物がダイナマイトをしかけたように、根本から爆破され、とりのぞかれてしまうのだ。まあ二、三日いまいったような忍耐と不断の努力をつづけて、ためしてみることだ。そうすれば、なに一つとして手に負えないなんてものはなくなる。(1850年6月10日、アジャクシオにて弟へ)                                (「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房p44)

 「なに一つとして手に負えないものがなくなる」というひとことに、生きていくうえでの「学体力」の養成のたいせつさがよくわかります。偉人二人じゃないか、一般の人は関係ない、と考えるかもしれません。しかし、偉人は二人とも最初から偉人だったわけではありません。ぼくたちは、これから「偉人になるかもしれない(偉人になるだろう)」子どもたちを育てて指導していることを忘れることはできません。団のOB諸君に難関大学の自学受験合格者が多いのは、こうした指導の成果だと思います。最後に「銀の匙」の橋本先生の方法です。

橋本先生の方法
 橋本先生は中学生に「銀の匙」授業だけを行っていたわけではありません。一カ月一冊の課題図書を読むことを課していました。

 中学一年生のころは、それこそ夏目漱石の『坊っちゃん』や芥川龍之介の『羅生門』など読みやすいもの。そして、中2、中3と学年が上がっていくにつれてレベルも上げ、『古事記』や上田秋成の『雨月物語』などの古典も出しました。
 生徒にとって、1カ月で『古事記』や『雨月物語』といった古典を読破するというのは確かに大変なことです。
 しかし、私は常にこう考えてきました。
 とにかく読めるだけ読めばよい。わからなくても読みとおしてさえ置けば、次に細かく見ていくときに必ず役に立つ。ぜんぶがわからないということはないだろう。わかるところもあるのだから、まずはそこだけ理解すればいいのだと。(「伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力」 橋本武著 日本実業出版社より 下線は南淵)
 

 おわかりのように、これをさらに進めたのが、ファインマンの方法です。
 さて、橋本先生は一方で、授業の中で『徒然草』を徹底的に読み込むという指導もされたようですが、わからない(わかりにくい)古典を自ら(ひとりで)読むことで、「考える力」「考えること」が大いに身についたことはまちがいないでしょう。
 以前、「本読みができるからといって、『本が読める』ということにはならない」と考えました。このように「読むこと」、「読解力」をつけるには、「一人で考えながら読む」という習慣が欠かせないことがわかると思います。それが「論理的に考える力をつけること」にもなるわけです。
 ぼくは今、“The Boy in the Striped Pyjamas”(JOHN BOYNE VINTAGE CLASSICS)を読み返していますが、前回より驚くほど理解が深まることがわかります。こうした自らの経験も子どもたちを指導する肝になっています。

 なお、「地球・生命の大進化」(田近英一監修・新星出版社)はコンパクトにビジュアルに地球と生命の進化の概略がわかりやすく紹介されています。立体授業『化石採集』のテキストと指導に重宝したので紹介しておきます。


朧月夜と読解力②―「銀の匙」指導のすばらしさ

2017年05月13日 | 学ぶ

「読むこと」のレベルを考える
 前回「『本読み』と『読解力』のかかわり」に触れました。そして「読むことができる(?!)」だけに終わらず、「読むことがおもしろくなる」読解力や、逆に「ひとりでは読み切れないようなむずかしいものにチャレンジする」読解力、つまり学体力の養成も兼ねた宿題や学習法の検討・開発にも「銀の匙」による橋本先生の指導法はとても参考になるのではないか、と提案しました。その考察の前に。

 ぼくが“The Boy in the Striped Pyjamas”(JOHN BOYNE VINTAGE CLASSICS)を読んでいることをお話ししました。まず、DVDで「縞模様のパジャマの少年」(マイク・ハーマン監督)を見て気に入ったので、いつも通り、原作や翻訳やシナリオがあれば、それも読み・・・という「三位一体(?)学習」の一環です。
 “The Boy in the Striped Pyjamas”は、むずかしい単語もほとんどなくやさしい英語で、容易に筋をたどることができました。原作を読みとおした後で翻訳(「縞模様のパジャマの少年」 千葉茂樹訳 岩波書店)を読みましたが、幸いなことに読みちがえているところはほとんどありません(ちなみに、この本の翻訳はすばらしいです)。

 しかし冷静に振り返れば、ぼくの場合、「筋を追えているだけ」で、物語の微妙なニュアンスをとらえたり、天気のようす・ポーランドの街並みや建物・植物のイメージをはっきり捉える余裕があったわけではありません。またアウシュビッツの歴史を熟知していて、敏感に想像力がはたらくわけでもありません。
 それで果たして感動できているか? よく鑑賞できているか? その態勢が整っているか、といえば、とても「心もとない」読み方です。先に「原作」に行き当たって物語を読む機会を得たとすれば、果たして映画を鑑賞後読んだ今ほど「読みとれたか」「心を動かされただろうか」。

 そういう視点から、「教科書の学習対象や学習内容・『本』との出会い」と子どもたちの日本語力の「応対」とを考えてみると、ぼくが英文からイメージを十分働かせられなかったように、経験不足の子どもたちも、とてもじゃないが『おもしろさ』なんか感じとるまでに至らないだろう(もちろんレベルによりますが、そのレベルを問題にしています)。ふだんの学習指導では読みの深さ・理解のレベルの深さはそこまでは考えられていない・・・。しかし、子どもたちが「学ぶおもしろさ」を手にしていくためには、その読解の差や理解のちがいがたいせつな鍵になる。指導する側はもっと強く意識してもよいはずです。高校生の時に「罪と罰」を読んで、「手に汗をかいて、放心状態になった」自分を懐かしく想いながら、そう考えました。

 「学習」が、ただ「概略やストーリーを追う」レベルでとどまり、『覚えるため』で終わり、おもしろさや感動にまで届かない状況。受験はうまくクリアしても、おおむね学習は理解や感激・わかる喜びとは程遠い。「その程度(!)の感覚」のストックが続いてしまっているのではないか。だから学習が「日常生活の『生きる』というレベルとは「異次元(!)」の「勉強」という存在から抜けきれないのでしょう。橋本先生の指導法は、その限界を打破する、大きな可能性を秘めています。実践すれば、ですが。

「銀の匙」指導―自信とオールマイティの読解力
 さて、「銀の匙」による橋本先生の指導が、どうしてすばらしいのか。東大へ多数進学する灘の「下地」を作ったのか? それらを考えてみます。

 左は「銀の匙」授業一回分の目安、橋本先生曰く、長からず短からず、新聞連載小説だった際の一章分です。そしてその下の手書き文字の記入は、橋本先生が子ども(中学一年生から)たちに、語義調べや短文づくりを徹底された一章分、つまり授業一回分の意味調べ・学習語句です。
 約900字の本文に対して「語句調べ」が約50個。絶句する(!)量でしょう。
 いくら古い時代の見慣れない言葉が混じった小説とはいえ、文字通り一字一句「細大漏らさず」のたどり方です。大学の外国語講読でも類似の方法を採りますが、ふだん使っている「国語(日本語)」にたいしての指導方法ですから、その語句理解の行き届き方は、「灘」という、子どもたちの学力レベルも考えれば、ほぼ完ぺきだったといってよいでしょう

 (その語句に桃色の傍線を引いておきました。なお、『橙色の傍線は、ぼくが指導するとすれば追加したい語句』です。ちなみに前篇の執筆が明治43年・新聞連載が1913年から。なお橋本先生の指導は1950年入学者から。)
 そして、もうひとつ子どもたちが手に入れた『かけがえのないもの』、それは、「そのまま読めば『わからないもの』が結構出てくる『古い時代の文章』が理解できた」、あるいは「その理解や解釈の是非について、橋本先生をはじめ生徒全員で考えつくした」という『学習過程』です。

 「よくわからないもの」を調べつくし、考えつくして「了解できた」という子がほとんどだったのではないでしょうか。そこで彼らが手に入れたものは「語句の学習」に止まらず、クラスでこぞって推考・推察を重ね、それぞれが「自分なりの結論」を出していく「思考トレーニング」だったのです。さらに「全員参加型の指導展開のはず」ですから、気を抜かず、集中した(できた)。それによって、いわばオールマイティの読解力・論理力を身につけ、以後の学習の支えになった、ということです。
 

今の受験参考書を見れば、物語文と説明文や論説文に二分され、「それなりの読解法・解説」が「それらしく」施されています。しかし、下記の著書の引用を見ればわかるように、橋本先生は、取り立てて論説文や評論文を個別に読解演習したわけではないでしょう。
 つまり、こうした「小説」の語義や語句を調べ文脈をたどり、心情や行動・人間関係・社会・時代背景に想いをはせ、徹底理解をすすめ、推理・推察・検討を重ねていく学習(指導)は、論理的な文章の読解にも利するよい方法であった。子どもたちの論理的な思考力を養成するのにも十分な効果があったのではないか、自らの指導経験・学習経験からも、ぼくはそう推察します。
 そして何よりも、「読める」「わかる」という『深い理解』を手にできた子どもたちの喜びは、次の学習・難題にチャレンジする大きな自信と力になってくれたでしょう。「学体力」です。

 橋本先生は、こう云います。
 
 持ち上がり制だから、一週間の時間配当を自分の自由裁量で決められます。古文、漢文、文法などの時間とにらみあわせて、だいたい週三時間の割で、現代国語の授業として『銀の匙』だけをやる、というふうにしました。(「〈銀の匙〉の国語授業」橋本武著 岩波書店)
 
 このように橋本先生は、中学三年間「銀の匙」授業で、「説明文や論説文の学習指導をしたわけではありません」。それで東大生が輩出したのです。三年の間に、小説の読解によって「(論理力も含んだ)読解力そのもの」を養成できたのでしょう(他の優秀な先生方の指導の力も、もちろん否定しませんが)。しかし橋本先生のこうした緻密で完璧な読解方法が他科目の学習方法や子どもたちの「学体力」の育成に大きく寄与したことはまちがいありません(橋本先生の指導については引用書籍ほか、ぜひ手にとってみられることをお勧めします)。
 「乱暴」を承知で言えば、少なくとも読解力養成の、特に初期段階においては、「読解指導のジャンル別は体裁上の区別」ともいえるでしょう。

 ぼくは自分で読んだものの中から、試験という、とりわけ子どもたちが熱心に読む機会だからこそ、子どもたちに読んでほしい一節を題材に15年間国語のテスト問題を自作しました。おそらく他ではないだろう問題及び問題文を少し写真で紹介しておきます。
 橋本先生の方法を虚心に振り返れば、指導は見かけではない。指導書ではない。子どもたちの指導方法はいくらでもある、指導者の熱意次第ということでしょう。

 その「自らの最善の方法を考えること」が、先生の役目であり、存在意義であり、責任であり、それゆえに「やりがい」を手にできるのだと考えています。子どもたちの読解力や学力と「学ぶおもしろさ」という、彼らの人生に大きな実りをもたらす結果という…。
 この項最後に、橋本先生の前記著書からの「エール」を、もう一節書き留めておきます。

 ・・・(銀の匙を)教科書としてどう扱うかを考えるのは大変です。検定教科書ならば、指導要録があって、「このテキストはこういうふうに教えなさい」「時間配分を何時間にしなさい」「こういうところに重点を置いて教えなさい」ということが細かく指示してあります。『銀の匙』を使う時にそんなものがあるわけはなく、自分で指導要録をつくっていかなければなりません。これにはかなりの時間を必要とします。
 最初の『銀の匙』授業も生徒は1950年(昭和25年)入学組です。いよいよこの学年からやろうというとき、その一年前から『銀の匙』研究ノートを作り、どのように指導していったらいいのかを書き留めていきました・・・。(前記「〈銀の匙〉の国語授業」p55より)

 約20年前、ぼくが教育や指導に興味も関係も知識もなく、「雷に打たれたように」、ひとりの「お父さん」から団を始めた時を思い出します。「やりがい」は、こうして生まれます。


 

デーブとビッグ、そしてライムライト
 「デブ」と「ビッグ」ではありません。「デーブ」です。古い映画ですが、今週の花マル2個DVDです。
「デーブ」は、たまたま大統領の影武者に抜擢された無名の市民の活躍を描いた物語です。ファーストレディには、あの「エイリアン」のシガーニー・ウィーバー。ちょっと「ビッグ」で、厳つすぎますが、次第にかわいい女性に変身していくようすが心温まります。

 「ビッグ」は若かりし頃のトム・ハンクス主演。さすがに名優です。いたずらな「ガキ」が遊園地の「不思議な券売所」のカードを買って…という物語です。どちらも大きな賞を獲得した映画ではないようですが、最後まで見ることができた良い作品でした。

 最後はチャップリンの名作「ライムライト」です。チヤプリンは、おそらく「人生の幕引きをこういうふうに」とイメージしたのでしょう。今こういう「プリマドンナ!」がいるかといえば、おそらく見つからないというのが唯一の「不満」ですが、だからこそ「よい映画」なのでしょう。

 以前、北野武さんが大スポで、「大きな映画賞は映画会社の持ち回りだ、云々」のコメントをされていましたが、映画を数見れば見るほど、それが今更のようによくわかります。よい映画が、映画賞とはあまり関係がないことが…。観客動員数が多い映画も、=良い映画とは限りません
 一方で、テレビといえば、よい番組作りに「奔走」するのではなく、番宣や映画の告知を兼ねた人気俳優やタレントの出演依頼に奔走し、飲食店「裏宣伝」の食レポでの協賛費稼ぎに明け暮れているようです。また一部大手芸能会社のタレントを、芸があろうとなかろうと出演者に押し込むというしくみになっているようです。
 こうしてすべてが「金」と裏表の関係・環境の中で、子どもたちは(いや大人の人も)知らぬ間に「傑作と駄作」、「善人と悪人」、「虚と実」、「有と無」の区別もできなくなるように時代は進んでいきます。「経済」と「営業」という「悪魔」に心が浸潤され、年も経らないうちにぼくたちは「痴呆化」されていくという「悪夢」が浮かびます。

 みなさんはいかがでしょうか? 本物や真実を見分けられる眼をもった子どもたちを育てたいですね。それによって、人生の終盤、末期の眼にも「輝く光」が見えるのではないでしょうか。


朧月夜と読解力①

2017年05月06日 | 学ぶ

朧月夜から
「銀の匙」の橋本先生の指導法、灘の東大合格者を輩出した理由の一端を少し考えてみます、と先週お伝えしました。「朧月夜と読解力」。
 「デッカイ筍掘り」のスライド指導を「飛鳥の里」で展開しようとした時、選択した唱歌は、かつてぼくの中学校の同窓会で心に残る懐かしい歌のセレクションにも入れた三曲です。ちなみに同窓会のパーティが終わるまで、これらだけではなく百曲以上セレクトしBGMで流しておきました。

 「早春賦」「朧月夜」「故郷」は、スライド学習の選曲をする中で心の中に自然に流れてきた曲でした。現在は学校で歌われる機会も少ないでしょうし、子どもたちと訪れる「飛鳥の里」でこそ、心に響く歌だと思ったからです。人工的で猥雑な街では、「アッポーペン」は響いてもこれらは心に響きません。
 団では、飛鳥や赤目などをそれぞれ毎年数回は訪れます。意識的です。「今回はここ、来年はあそこ」という実施ではありません。「今ではもう故郷もない多くの子どもたち」「故郷に行けない子どもたち」の心の片隅に、「なじみの田舎」・「丸ごとの自然」を「育んで」もらいたいという意図です。「自然になじむこと」が目的です

 ただ見るだけでなく触れたり、採ったりというアクションを繰り返すことで行動パターンには広がりが生まれます。毎年訪れてもマンネリになりません。そこが大人と子どもの感覚の相違です。新しい感興が湧き、ハプニングも起きます。そういえば、「学」の出現・アジメドジョウの捕獲もありました(写真は明日の「でっかい鯰釣りスライドの一ページ」。

 勢や動植物・生態系に触れる機会を増やして、「身体」で「土地」や「場所」や「空気」を当然のように感じてもらいたい。それらを基にして心の中に立ち上がってくるものが、「読むことや考えることの応援」また「イメージの創出」への何よりのサポートになります
 たとえば、以前も触れましたが、「春過ぎて 夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天の香具山」という万葉歌は、大和飛鳥の季節や風景・空気感によって、鑑賞も深く、心にしみます。「身体ごとのサポートで、その詩情(こころ)を味わう」ことができます。歌が生まれる環境や条件が納得できます。

 「歌がわかるからといって受験はどうなのだ」という方々がいらっしゃるかもしれませんが、受験時期は高々数年間、その間も、受験のみに明け暮れず「『ものに気づく・ものに触れる試みを重ねること』で、全人生の(約)70年間を「心豊かに過ごせる」ということをぜひ伝えておきたいと思います。そして、その経験が受験の際にも、こうした問いかけで疑問を呈する人の予想を、おそらくはるかに超えて力を発揮するということも
 橋本先生の「銀の匙」授業の関連書籍を調べていて、その指導を受けた濱田純一前東京大学総長のインタビューに行き当たりました。
 東大総長として今の学生をご覧になっていて、情報を知識にしていくことが不得手になっていると感じますか? という問いに対して

 
 「ある意味では社会で合理性が求められることが多くて、なるべく無駄を省いて、なるべく近道で、という感覚が強いかもしれませんね。遠回りするかもしれないけど、長い人生の上で見ればどこかで、20年先、30年先に生きてくるかもしれないものも大事に、そういうふうに考える余裕というのが雰囲気的に小さくなっている気はします。ただ、今は就職ひとつとっても大変厳しい時代で、それに対して僕らの時代、高度経済成長を続けていた時代は、何をやっていてもなんとか食べられるだろうという粗さというか伸びやかさというか、それがあったから、個人の問題だけじゃなくて、社会構造そのものの違いもあると思うんですけどね。でも、だからこそ、焦らず、少しでも無駄をすることを楽しむようにと、学生に言いたいですね。研究の道に進んでも、会社員になっても、最後はそういう人間が強いんですから」
 (「エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 奇跡の教室」 伊藤氏貴著 小学館 p157~158 下線は原文波線)

「学際的(!?)」指導と読解力
 筍掘りのスライド作成で「早春賦」や「朧月夜」・「ふるさと」の歌詞を子どもたちにわかるようにもう一度丁寧にと、「兔追いし かの山」や「小鮒釣りし かの川」の漢字や語義をたどりながら、解釈というものが如何に多様に生まれ得るか? そして、その「解釈のイメージのふくらみ」のひとつひとつが、それぞれ「それ以降の読解力や深い理解」に寄与するであろうか、ということに改めて気づきました。

 「唱歌」としてとらえ、音楽の時間に「歌う」だけではなく、心に残るメロディを味わうだけではなく、時間の余裕をとって「歌詞の深い理解」の指導まで意図したとき、子どもたちの心には「歌に対する愛や深い理解」が広がり、やがては音楽に興味をもったり、「音楽表現」に目覚める可能性も広がるのではないのか。さらに歌詞に表現されている光景や背景が脳裏にイメージできる体験や条件が整ってくれば、それは絵画などビジュアル表現の感覚にも良い影響を与えるでしょう。

 音楽だから『歌う・聴く』、美術だから『描く・見る』ではなく、さらに各教科の「『読む』『書く』『計算する』等」という枠を超えた、いわば「学際的(?!)」指導が成立するのではないか。それが子どもたちに目指すべき指導ではないのか。それらがすべてにかかわる、「読む」という力を成長・増強させる「学習の大前提」、「源」しての「読解力」の基盤・ポイントにもなっていくのだろう。それがあるべき『立体授業』なのだ。それによって総合的な理解、「わかる」・「感じる」という自覚や自信が生まれ、学ぶおもしろさや次なる「学習」、次なるステップへのモチベーションが機能する。特に可能性にあふれている少年期(特に小学生時期)の指導法はそうあるべきではないのか
 

読解力再考
 ぼくたちはふだん、何かを読むとき、読めない字がほとんどないと、「その文章が読める(読めた)」と思ってしまっている」ことがないでしょうか。「何をどうして・・・」というようなストーリーを、それほど無理なくたどっていくことができても、おもしろさまで導かれる理解とは大きな隔たりがある・・・。たいてい理解が浅いまま、また『義務的そして事務的』段階で「読むこと」を納得して終わってしまっている。「それ以上の読みがあること」まで知らない人が多いから、「つまり読解力のレベルを誤解してしまっている」から「『わかる』そして『深いおもしろさ』が始まるまでいたらない」のではないか。橋本先生の指導が「銀の匙」授業で到達したのは、それを解決した指導」なのだ

 現状の受験の読解力を問う問題やテスト・参考書を探ってみても、通り一遍の「難語」や「心情」、或は指示語の問題がほとんどで、それらの問題解決の適応や問題解法のバリエーション以上の提案や指導展開はほとんど見えてきません。
 つまり、それ以外の感じる・考えることは、おそらく「蚊帳の外」なのです。それ以外の「感じること・考えること」は多くの場合、「受験やテストには関係のない余計なことだから(になってしまっているから)」です。ところが、学校で習った読むことの認識や読解方法以上の確認に自力で至ることは、多くの人にとってむずかしいのではないのか。そのままでは「読書や本がたいせつなものとして心に残りません」。

 これは、以前考察したことですが、たとえば子どもたちの「本読み」の宿題についても、すらすらと間違いなく読めることは、読解力の「必要条件」であっても、必ずしも「十分条件」ではありません。聴けば、「たどたどしく」しか読めてないように見えても、素晴らしい読解力を発揮する子がいることを感じることもまれではありません。
 すらすら読めるようになるのはもちろん必要なこと、たいせつなことです。しかし、それを目標としているのであれば、いつまでたっても「道半ば」でしょう。おもしろさには至らない。

 見かけは同じような「本読み(!)」でも、かつての「素読(たとえば湯川秀樹など多数の偉人の幼年時代)」が学力育成に大きな効果を発揮したと考えられるのは、「読み方さえ知らないような言葉」が詰まった漢文を、「ほとんど読めないところ」から、師匠の後について、「『難語の語義も感覚の助け(読解力の基本)によって習得』しながら、理解を進めていった」ところに大きな意味があったのではないかと考えています。   
 つまり、「漢字が、文章が読めるようになる」というわかりやすい結果にも一定の意味があったと思いますが、同時に「まったくわからないもの」を「我慢して、泣きながら(?!湯川博士)指導されているうちに、なんとなくわかるようになった(読解力の芽生え)」、そして「さらに難しいものに進むことができた(学習の次のステップ)」、それによって、5・6歳という幼い時に「学習することの意味やわかるおもしろさを手に入れた」・「難しいことが分かる自信が身についた」という「学習の王道」が広がったことも大きかったのでしょう。つまり、何より大切な「学習姿勢の習得」、「学体力」の定着です
 すらすら読んでいる「本読み」は、まったく知らない字や言葉が続いているわけではなく、ただすらすらと読めるまで「数回」繰り返しているだけです。もちろん読解力があって気持ちを込めたりできる子もいるとは思いますが、「何十回・何百回」と毎日同じ「読めない(!)漢文」を読み続ける素読とは、練習量と学習対象に大きな差があります。

 「本読み」のみに終わらず、「読むことがおもしろくなる読解力」の養成や、逆に「ひとりでは読み切れないような難しいものにチャレンジする読解力の育成方法」つまり学体力の養成も兼ねた宿題や学習法の検討・開発にも「銀の匙」による橋本先生の指導法はとても参考になるのではないでしょうか。ヒントにあふれています。次週です。