『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く③

2018年03月10日 | 学ぶ

「シナリオ学習の報告―殺人犯はタブレット」は後半に掲載しています。「おもしろいですよ」。「じぶんからゆうてもうた、ごめん!」。

読解力を鍛える英英辞典の活用

 「わからない言葉の意味を調べるもの」。そうした感覚で辞典を利用するのが一般的ですが、ここでも「発想の転換」をすれば、生徒たちの語彙力の増強やセンス・読解力の向上に大きな成果が出る学習法があります。 
 英語の再学習を始めてから、主に英英辞典を利用していますが、OB生が英語にある程度慣れて、単語力もついてくると、どんどん英英辞典を利用するよう勧めます。
 英英辞典を引くことによって、「英語の言い回し」が少しずつ知らぬ間に脳内にインプットされていくという利点はもちろんなのですが、それに勝るとも劣らぬ利用法です。

 まず、英英辞典を開いてください。よほど英語に堪能な人でない限り、まだ知らない単語がたくさんあります。それらの英語の意味を読んで、逆にそれに当てはまる「日本語」をイメージしていく(させていく)読み方です。いわば「人間英和辞典」です
 たとえば、Oxford ADVANCED LEARNER‘S DICTIONARY でemotionless をひくと、not showing any emotionとあります。つまり、「感情を表さない」ということですから、訳語としては無感動・無表情・鉄面皮・ポーカーフェイスなど、微妙に意味が異なる日本語が浮かびます。その遊び(訓練)を進めるのです。英和辞典では出てこない、きらりと光る言葉が見つかる(考えつく)ことが、少なからずあります。
 これをロングマンやOxfordの学習者用の辞典で日々繰り返すと、子どもたちの使う言葉や解釈の言葉が、どんどん変わっていき、訳もシャープになります。中学初年度ではまだむずかしいのですが、団ではいつもお話ししている中一のH君は、例のLogan’s Choiceの講読でLONGMAN BASIC ENGLISH DICTIONARY をつかい、かなり成果を見せてくれるようになりました。英語に興味をいだくきっかけの一つになるかもしれません。「逆転の発想」です。
 

 もう一つ、「逆転の発想」を紹介します。団の子どもたちの指導方法です。
 「なぜ、人を殺してはいけないのですか」(ヒュー・ブラウン著 幻冬舎)に、こういう一節を見かけました。
 
 日本の学校では、すべて受験に向けて、ただ情報を詰め込むというか、丸暗記させることに力を注ぎます。そして試験のときに、それをもう一回吐き戻させるわけです。
 その教え方は、ちょっと間違っているのではないか、と思えてなりません。イギリスの学校では、子どもはまず自分で考えてみて、わからないところを先生に質問して教えてもらうのが、ふつうのやり方です。わからないまま丸暗記はありません。
(前記書p179~180・下線は南淵)
 
 団の指導方法と全く同じです。イギリスの方法をまねたわけではなく、ぼくが脳のはたらきについて調べ、「最も頭を働かせ鍛えられる方法のはずだ」と、開塾以来採用しています。自ら読み、自ら考えはじめる方法です。参考のために。

シナリオ学習の報告2―殺人犯はタブレット
テーマ1 悪人の中の善人を「殺す」しくみ
 どんな小説や映画の名作・大作・問題作であろうと、要約すれば、その内容は長くとも数行の文章で表せます。たとえば、ぼくがこれから親友Aからの手紙をヒントに、進めようとしている物語も、実に簡単な一文でおさまります。
 「子どもの窃盗事件の隠蔽工作が招いた、証拠なき殺人
 ぼくは先週、悪人の中に、善人がいれば、それがひとりであれば、時として「死に追い込まれる」、あるいは「殺される」、と述べました。この『殺される』は、口封じの為に「殺される」と云うより、「社会や世間に対する悲憤慷慨のために、簡単に言えば『生きているのが嫌になる』『絶望する』と云うことが起こりうる」と伝えたかったのです。殺したのはだれか?
 前回の「学生運動(?!この2つのマークがもっている意味は、経験者ならわかりますね。)」に対する質問もそうですが、「『社会人として社会で生きている』ぼくたちは、もっと『社会やその中で生きている(その中でしか生きられない)』という事実」にきちんと目を向け、「他人ごとでなく」「人まねではなく」、正しい判断や正直な意見の主張をすることをはじめなければいけないのではないか、怖がらずに「正しいことを見きわめ、正しいことが正しいといえるだけの『聡明さ』と『大きさ』」をもたなければならないのではないか

 社会で日々起きている事件も、新聞や雑誌の記事や主張を鵜呑みにするだけでは、ほんとうに正しいことは、ほとんどわかりません。テレビはその典型ですが、雑誌や新聞の主張にも、商業社会であるが故の、少なからず大衆に迎合する、つまり受け入れられやすい方向への阿り、傾斜が見られます。それらをそのまま信じる人、事情を知っているのに当然と聞き流す人、事情を知って悲憤慷慨する人、何も感じない人、さまざまです。しかし、「ほんとうはどうか」を知ろうとする姿勢は当然必要だし、その姿勢がないと、社会問題など、一向に解決しません。

 たとえば、教育界でも、テレビやマスコミで報道される『体罰』はほとんど全否定する論調が一般的ですが、その陰では、「きちんと子どもたちを育てたい・教育したいと思えば思うほど、そうせざるを得ないような現状」があり、現場では、「懊悩や煩悶があふれているのではないか」。「体罰(この一律の呼び方には、虫唾が走りますが)の必要性は、限りなく「正論」に近いのではないか。 
 「何でもかんでも、ひっくるめて『体罰』とくくってしまっている」が、アメリカでよく行われる「お尻ぺんぺん」なんか日本でやってみろ、「痴漢」や「愛撫」にまちがわれるやろ! Hなおじさんや! 暴力肯定するわけではないが、「それぞれの国の実情に応じた指導方法への議論を、もっともっと深めることが必要やろ」、そう思います。「何でもかんでも、馬鹿の一つ覚えで『体罰(?!)』や『パワハラ』と「ひとくくりにしない」心の広さや考え方でこそ、子どもたちとの心が通じ合える人間関係を築ける」と、日々小さな子どもたちと接しているぼくは思います。
 「子どもたちをひとりの人間として育てたい」、「バランス感覚や責任感のあるおとなに育って欲しい」という願いや思いが強ければ強いほど、指導は、やむを得ず「厳しい対応」にならざるを得ません。ニコニコでは済ませられないことが、日々いやというほど出てきます。特に、現状の子育て環境を見れば。「教条的な、中身のない、無責任な」指導法で、「群を抜ける若者」が育てられるか! オリンピック選手や有名スポーツ選手を見ろ!と思います。

 無責任に「オタマジャクシは、放っといてもカエルになるわ~」というような意識の低い、「ノー天気な先生の集まり」なら別ですが、良心的な先生、先生としての意識・理想や責任感が強ければ強いほど、そうなるでしょう。いや、そうならざるを得ないでしょう。
 そんな実情を一絡げで、「悪人の中の善人」まで悪人に仕立てあげ、抹殺し、「自分たちと同じ悪人ばかりの世の中」にしてしまってもいいのか? それが理想なのか? ただの無責任だろう?
 しかし、そういう主張や正論を表面化しようとすると、立場はもちろん、存在さえ危うくなるという状況が、世間ではあるのだろう。じゃあ、どうすればよいのか? 

 
教師であるぼくたちは、「バランス感覚や責任感のあるおとなに育って欲しい」という願いや思いをつらぬき、次世代の良心や責任感、能力・実行力に夢をかけることしかできません。そしてそれが「古来!」ぼくたち教師に課せられた大きな使命だろうと思います。「悪人の中の、善人をひとりずつ殺していってはいけない」、人がそんなふうに殺されてしまうことを許すわけにはいきません。
 さらに、その「『悪人に知らない間に荷担してしまう』ような世の中」になってはいけない、世間というものは、策略に、実にだまされやすい、「目くらまし」され、「善人に見える悪人のほうに、知らない間に荷担してしまっている」ことが、如何に多いか。これがテーマの一つです。
 ぼくは預かった子どもたちは、「正しいことや真実をきちんと見分ける子になってもらいたい」と、単刀直入(!)に、子どもたちにわかりやすく、日々指導を重ねています。彼らはきちんと聞いてくれ、みんな健やかに成長してくれました。

 ところが、「指導風景」を、悪意の捏造意図のもとに長期間携帯の端末を利用してタブレット経由で、多量に録音してデータを集め、故意に音声編集すれば、「無実の人」を「極悪人」に仕立て上げることも、すこぶる容易です。
 ふつうの人には、意図的であることなどまったくわかりません。正真正銘の本人の声ですから。   
 これは、馬鹿らしいほど、単純な理屈です。たとえば、「殺したのか!(あいつが!)なんて奴だ!」という大声を録音し、カッコ内の言葉を消去すれば、話し相手を強く責めているふうにしか聞こえません。「言いがかりをつけている言辞、とんでもないやつの音声データ」の完成です。
 聞いた人は、ものの見事に誤解するでしょう。あったはずの、その前後の文脈など出てきませんから、どんなに意味のあることを云っていても関係ないし、聞いた人は、まさかそんな(文脈)ものがあるとも思わないからです。音声データは「犯人の悪意のまま、その思いのまま」周囲に誤解され、当の本人は、そんなことをまったく知りませんから、弁解の余地さえありません。犯人の思うが儘です。
 データを4カ月、半年と長期間集め、こうした編集を重ねれば、何も知らない間に、善人も極悪人に「大へんし~ん!」です。「ほんとかよぉ、ひでえやつだな、あいつ」、というわけです。そんな卑劣な作意が、この世にあっていいのでしょうか! 恐ろしい話です。なお、この陰謀の詳細は、後日、「殺人犯はタブレット」本文内の「怖いとゆうてる」の章で紹介します。自らの友人が陥れられたタブレット犯罪を、あろうことか、今度は、自分たちの「犯行(!)」に悪用した事件の顛末です
 
 

テーマ2 子どもたちに何を教えるのか
 テーマ1の解説で、「子どもの窃盗事件の隠蔽工作が招いた、証拠なき殺人」と物語のストーリーを紹介しました。「小さな子ども窃盗事件の隠蔽工作」。
 これは現在の子どもの指導やしつけの上での、代表例です。「『犯人』に、またその犯行に、犯行が起きた原因に、きちんと目を留めず、「『建前』や『見栄』だけを考えた隠ぺい工作」で、自らが逃れることだけを考える保護者。そういう態度が「子育て」や「躾」に、どういう悪影響や取り返しのつかない災厄をもたらすか。「しつけ」や子育てが、どういう結果に終わるかなどにはとても考えが及ばず、その場をごまかすことしか考えない。それによって、子どもが犯した「小さな窃盗」をはるかに超える「大罪」を自らが犯していることに気づかない。
 それも三つの罪です。
 まず一つ目、子どもが「小さな罪」を犯したときに、今後それ以上の犯罪を犯さないような指導ができる機会を失っていること。二つ目、「子どもが犯した罪、またその理由や原因を考える機会を失ってしまっている」こと、それによって「自らの人間性の向上への機会も逸してしまっている」こと。三つ目、「被害を受けた相手に対するお詫びや礼儀を、全くわきまえていない」こと
 そういう感覚や視点をなくしてしまった「子育て」や「教育」の存在が、現状の混乱の「一助!」になってしまっていることが見えていない。この例は、「無責任にその本質を見逃されがちな」万引きや窃盗に対する考え方」への提案です。
 倫理観を身につけ(させ)、社会で生きていくルールを徹底すべき「子ども時代」。そこで何を教え、その思わぬ「犯行」や事件を、どう処理すべきかは、大きな問題です。今の社会問題に根付く「子育てにおける指導判断や倫理基準の誤謬あるいは責任逃れ」、その「覚醒」を図れる課題のひとつだと思います。これらの事件の当事者が、もし教職者であれば、なおさらです。

 まず、なにを教えるか?
 先人の教訓もさまざまあるでしょうが、僕が考える、子どもにも、親である自分にも、被害者をはじめとする周囲にも、カタストロフィーではなく、みんなにカタルシスをもたらす方法です
 親が(特に父親が!)犯行を犯した子どもにきちんと向かい、その非を諭し、「お父さんも品物をもって、一緒に相手にお詫びをするから、お前もきちんと、二度としない旨を伝え、心を込めて謝りなさい」。こういう行動をとって初めて、親子間でも親の権威や正しい愛情が担保され、子どもの犯行が、その子を一回り大きい子に育てる糧になります
 「子どもにかかわる人」・先生が、「こういう指導をできない、範を示せない」から、問題が多発すること、問題児が増える傾向への歯止めが利かないのです。これは「古い考え」でも、「道徳」でもなんでもありません。
 窃盗は泥棒です。こういう対応をするのが人間らしい社会の約束事です。「人間が生きていく上で守らなければならないルール」です
 こういう約束事を守れないで、いくら心身を鍛えるべくスポーツや運動をやらせても体は大きくなりますが、「スポーツの何たるか」など、決して分かりません。スポーツから本来学べる「スポーツマンシップ」や「ルール順守」、「相手に対するリスペクト精神」など、たいせつなことは一つも学べないでしょう。
 それじゃあ、スポーツマンの「着ぐるみ」です。心や中身のないスポーツです。ルールのないところにスポーツはありません。あるのは「犯罪」と「戦争」だけです。スポーツをやらせる意味は生きてきません。
 こういう処置が「心の弱さ」のためにできない(そんなことは本来あってはならないことですが、そういう心が次の犯罪を生むからです)場合、指導レベルはまったくちがいますが、次善の策は、その窃盗した品物に、本人と保護者両方の「お詫びの手紙」を添え、そおっと届けておくことです。おそらく、相手が日本人であれば(他国の習慣や倫理観はわかりませんので)ほとんど理解してもらえ、許してくれるはずです。犯罪には必ず相手がいるのですから、何よりもその相手に真摯に謝り、許しを乞う姿勢がたいせつです
 その次の策は、ただ品物だけを丁寧に包んで届けておく。「『倫理観に照らし合わせて、正しくふつうの人として理解される』のは、ここまで」だと思います。ぼくはそういう基準をもとに、子どもたちを指導しています
 ところが最近は、「まさか」と思うような、「一般常識をはるかに超える」事例が、同種の事件でも、後を絶ちません。「自分たちの立場・見え」を保持するために、「頬かむりする」ならまだましですが、その「罪」を「目くらまし」させ焦点をぼやけさせ、あらたに自らを正当化させるために、あくどい策略を重ねる。その愚かな行動によって、どれだけの人が迷惑をこうむるか、相手をどれだけ傷つけるかなど、全く考えない。さらにその作為に半年もの期間をかけ、信用させるべくデータを積み重ね、テレビ・ラジオ番組張りに編集製作する。そのうえ、それを周辺に拡散する

 みなさん。こう思いませんか?
 本来なら、それらの能力・実行力・「企画力!」・時間や観察力という、膨大なエネルギーを、その「些細な罪を犯した子ども」の「日ごろの指導やしつけ」に傾注すれば、そんな事態はおそらく起こらないだろう、そもそもの原因が消滅するはずだと。そうは考えませんか? こういう倫理観、規範意識の欠如が、子どもに浸潤します。子どもに移ります再生産です。子育てで怖いのはここです。親のその自覚の有無です
 こういう事態に遭遇するたびに、ぼくは昔被害にあった詐欺師や、今の「オレオレ詐欺」のことを思い出します。
 「どうして、そうした『恵まれた(!?)頭脳や労力』を、『自らの責任ある仕事』あるいは『社会』のために使わないのだろう」と嘆かわしくなるのです。そういう力を日ごろから正当に使っていれば、詐欺で儲けるより、はるかに素晴らしい収入を手にできるだろう。自らの子どもに傾注すれば、子どもはつまらない窃盗などせず、何の問題もなく、すくすく育つだろう!というわけです。
 こういう「問題個所」に介入でき、子どものころに是正できる可能性をもっているのは教育だけではありませんか? どうしてそういう視点をもてないのだろう
 こんな方向性が乱れた、「ほころびが見え始めた」社会で、「正しいことを正しい」と云える子どもに育つのか? 正しいことや正義を覚えられるのか。
 また、些細な窃盗であろうと、良心があるでしょうから、その澱を吐き出しておかないと、当の本人(子ども)は一生心の中に「闇」を抱え、生きていくことになります。それが人格や人生に及ぼす暗い影に考えが及ばないのか? そうした「『時代傾向』『時代背景の是非を問いたい」と考えています。
 

 この物語の事件はフィクションで、実在の人物事件とは何ら関係がありませんが、ぼく自身のささやかな体験でも、同種の問題事例は近年何度か耳にしました。
 物語の展開は初めての試みで、時間の足りなさ故に十分推敲できず、また稚拙さ故に、わかりにくいところもあるかもしれません。しかし、その中から「愚かな人間の倫理観の欠損とエゴが、『罪もない人(たち)』にどういう被害や災厄をもたらしたか」を感じとっていただければ、ぼくの後押しになり、また手紙をくれた友のためにも、これ以上喜ばしいことはありません
 卑劣な仕業がもたらした悲劇(悲喜劇)が次第に明らかになるとともに、教育界の問題点、学習や先生という存在・本質に対する問題意識が、新たに芽生えてくるであろうことを、心の底から期待しています。
 「見えなかった闇」に明かりを点すと現れる実態。それらを明らかにすることで、みなさんの「正義」はどう変化するのか? 軽佻浮薄な社会、「たいせつな次世代を育てるべき保護者と先生はどうあるべきか」。厳しく追及されるべきは何か?  
 これらの問いかけを、拙作の中からつかみ取っていただき、自らの周囲に存在する同種の事例やアイデアを、ぜひ、作品や論文のテーマとして取りあげていただけることを期待します。「教育環境」を少しでも良くする方向に導くには、現在最も待ち望まれる方法ではないでしょうか?

 また、この稚拙なぼくの物語のラストが悲劇になるか、ハッピーエンドで終わるか。それは、登場人物が今後どう動いてくれるかにかかっています。すべての登場人物の、「良心」と「正義感」・「倫理意識」を信じたいと思っています。登場人物がヒトとしての姿を正しく理解し、心底謝ることでしか、ハッピーエンドはありえません
 この世は、「人間社会」だからです。彼らが彼らの環境、「人間の社会」の中で「意識改革」しない限り、ぼくたちが信奉している「教育そのものが崩壊する社会」が現れることになります。信頼や人間関係が根底から崩れさるからです。信頼や「心と心が通じ合う人間関係」がなければ、教育は成立しません
 先生という職業、子どもを守るべき親という存在から良心や正義感・倫理意識が消え去れば、「人間を育てること」はできません。未来が脅かされます。
 こう書き続けていると、やはり、映画のためのシナリオに書きあげるのが、一番インパクトがあるかな、という気がしてきました。また勉強することにしましょう


最新の画像もっと見る