『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

考える種・その4 子どもたちには何を伝えるか2

2013年11月30日 | 学ぶ

 学習と記憶の続きです。少し堅い話になりますが、たいせつな話ですので辿ってみてください。その「経過」が、ぼくが子どもたちに定着させようとしている「学体力」の「実感」です。

 考えを進めていく力―学体力―は、当然のことながら「考えること」によってどんどん育っていきます。考えなければ育ちません。ぜひ子どもたちの「成長のしくみ」を感じてください。子どもたちに「学習する意味やたいせつさ」を伝えるヒントがつかめるのではないかと思います。
 さて、先々週のここまでの「記憶と脳のしくみ」の考え方を整理すると、「ぼくたちはそれぞれ遺伝によって受けついだ神経細胞システムを使い、日ごろの学習や体験によって育成・強化してゆく、その成長は以後の入手できる情報量によって大きく変わっていくだろう」というものでした。

使いまわす脳
 続きです。
 記憶の種類の紹介は本題から外れますので、ここでは学習に関わる「意味記憶」について、前々回紹介した本を参考に考えを進めてみます。なお、この稿については下記のイラストをふくめ、「記憶力を強くする」(池谷裕二著・講談社)に多くを負っています。考える材料をたくさんいただきました。もちろん文責は僕にあります。                         さて、学習に関わる記憶は神経細胞のシステム、神経回路に保存されていると考えられています。また「それぞれ一個ずつの単位」として保存されているわけではなく、たとえば「マナティ」を例とすれば、名前・哺乳動物・生物・熱帯や特徴的な顔等と、さまざまな階層に分かれて保存され、それらの情報が総合されてひとつの概念(この場合であれば「マナティそのもの」)が成立するようなシステムになっていると仮説が立てられています。

 さらに、これらの各層の情報を保存している神経細胞は、上図のように同時に他の記憶のネットワークの一部をも形成し、それぞれに併用されている。すなわち回路はひとつひとつ独立しているのではなく、効率的に複数の記憶に利用されているとの考えです。
 ひとつの神経回路に記憶ひとつしか貯蔵できなかったとすれば回路の数しか情報が蓄えられません。しかし、併用システムにすれば記憶容量が飛躍的に増えることになります。一つの神経回路に一つの記憶という対応では、記憶のすべてをまかなうことは到底できません。スッキリと腑に落ちる話です。

 何かを思い出そうとするときは、「あのー」といいながら、「~によく似ていた」等と、その特徴を思い浮かべながら思い出そうとすることがよくあります。それはこうしたシステムの関連をたどりながら記憶を探していると考えられています

記憶が記憶を楽にする
 ところで、このように使い回しのスペースを利用して記憶が蓄えられているとすれば、学習を進めていく(進められていく)について、さらにたいせつなことがわかってきます。「覚えていることが少ない方が、新しいことが覚えにくいだろう」という類推です。

 覚えていることが少なく「使われている神経回路のつながりが少ない(ネットワークが小さい)まま」であれば、次のことを記憶するための「使いまわし」のスペースが限られます。「新しい記憶を構成する要素」も少ないわけですから、回路で「要素」が充実している人より覚えにくいのは当然です。
 これによって「学習し始め(習い始め)の覚えにくさ」の理由が明らかになります。逆に「類似の」あるいは「似たグループの」ネットワークが増えるほど、それらを共通して使えますので格段に覚えやすくなるだろうということもわかります。

 したがって、「よりたやすく覚えるため」また「記憶の容量を増やすため」には、「積極的に覚える量を増やすこと」、つまり「使いまわす神経細胞のつながりを増やしていくこと」が有利になることがわかります。また覚えたことが増えることによって次第に使い回しのスペースは広がり、やがて覚えられることが加速度的に増えていくということも予想できます。

脳は自ら育てる脳を育てる
 このイメージは、覚えていることが少ないと「なかなか覚えられない」、また「考える材料が用意できないので考えることができない」。ところが「学習が進み記憶(量)も『ある一定量(個人やジャンルによってちがうでしょう)』を超えれば、さらに加速度的に進む可能性が高い」ということでもあります。学習経験と子どもたちに対する指導経験の実感にもよく符合するのではないでしょうか。

 さまざまなことを学んだことによって神経細胞同士のつながりが増え、連合できる機能が充実する。ひとつの概念はいくつかの情報の集合になるわけですから、新しい情報が記憶された情報の一部とリンクできる確率は、情報が増えるにつれ次第に高くなります。
 つまり「使える回路」がさらに増え、加速度がついていくということでしょう。記憶されている「材料(資料)」が多く連絡網が密なほど、「ああそういうことだったのか」という類推して分かることも増えていくはずです。こうして理解が進むとともに、次に新たに覚えることのエネルギーは当然少なくなります。
 また「信号量が多いほど記憶は強化される」との定説があります。さまざまな連絡網が張り巡らされれば、回路を伝わる信号量はそれだけ増えることになります。当然、記憶の強化は一段と進みます。忘れなくなるわけです。これは「記憶すること」が「記憶すること」を容易にしていくということ。そして「脳を育てることによって、脳が自らを育てていくということ」になるのではないでしょうか。

「がまん」と「辛抱」を伝える

 これまでの推論から、「一定レベルまで学習をつづけないと学習は容易にはならない」、「覚えることもなかなか覚えられない」とも想像できます。「覚えにくい、知らないことだらけでわからない」ということになるわけです
 そこでは当然「学体力」が必要になります。「学体力」は「学びつづける(学びつづけられる)力」です。おもしろくなければ当然「がまん強さ」や「辛抱」も必要になります。小さいころからのしつけや指導がたいせつになります。
 ルーチンワークをこなしたり、一定期間の修業や練習をこなすこと、そこを乗り越えないと何ごとも身につかないのは学習(勉強)だけに限りません。習得するジャンルを問わない「正則!」ではないでしょうか。

 おもしろく「学びすすめられる」という子たちもなかにはいるでしょうが、多くの子たちは一定期間「がまん」したり、「辛抱すること」がどうしても必要になります。ぜひそれを伝えなければなりません。同時に「つづけていれば、やがておもしろくなるんだよ」との伝達も忘れることはできません
 「勉強はおもしろくない」という「大人の感想」は、誰にもそのことを教えてもらえなかった、だからおもしろくなるまでつづけられなかったという人たち(ほとんどの人たちがそうかもしれません)の感想ではないか。あえて、そう言わせてください。


考える種 その3・学習しなければならないのはなぜか?

2013年11月23日 | 学ぶ

消耗を誘うフォアグラ授業と教育ママ

 「子どもたちが学習(勉強)しなければならないのはなぜか」。その理由がきちんと子どもたちに伝わらないと、意欲をもって学習をつづけることはむずかしいとお話ししました。
 現在のように、「意味もわからないまま」フォアグラ授業を受け続けていれば、学習は遅かれ早かれ袋小路です。意味や理由がわからないまま強制されても、いつまでも続けられるものではありません。
 数年前のことです。「中学受験用」私立小学校に通学していた女の子が伝を頼って入団してくれました。一人っ子で、まだ二年生でした。勘も鋭く、頭の切れも十分で、生まれつきの頭の良さを感じることができ、先々楽しみでした。

 しかし、小学校受験を経験していますから、その時点で少なくとも4~5年間の「受験生生活!」をつづけています。勉強をめんどくさがるようすが明らかでした
 2年生でしたから反抗らしい反抗もせず推移していましたが、お母さんは典型的な教育ママです。小学校と家庭で勉強漬けの毎日のはずです。今風に甘やかし、勉強にはうるさく厳しい。「勉強させるために甘やかしている」というようすも随所に見られました。ある日、お母さんから「宿題を出して欲しい」という依頼が来ました。
 腕白ゼミ(2~3年生)の間、団は宿題を課しません。それよりその時間を使って、もっとたいせつなことを身につけて欲しいからです。宿題は4年生からで十分です

 二十年近く、この方法でつづけています。この指導方法で、中学受験はもちろん、以前紹介したように大学進学にも少しも悪影響はありません。かえってそうしたゆとりのある勉強の方が、後々受験や学習意欲の醸成に好結果をもたらすという実感があります
 ところが「どうしても出して欲しい」という依頼です。学習のようすをくわしく聞いてみると、やはり「中学受験用」小学校ですから、それなりの宿題量はあるし、お母さん自身も、しっかり日々の演習用問題集を用意してノルマを課しているようです。

 そのようすや課外学習での親子関係を見ていて、「こんなようすでは遠からず破綻するな」と感じました。「宿題は4年生まで出さない」こと、「それは学習周辺の、また学習内容を身近に感じることができる『環覚』を気持ちに余裕をもって養ってほしいからだ」と理由も話しました。
 それより、必要以上に甘やかさないこと。勉強の前に、「してはいけないこと、逆に有無をいわさずしなければならないこと」があることをきちんと教えるように、と何度もアドバイスしました。お母さん・お父さんには結局理解してもらえず、数ヶ月で退団。
 その後です。紹介者の伝で聞くと、現在6年生の彼女は、やはり「困った状態」のようです。「勉強しない」「してもわからない」。
 しかし、通っているときの手応えでは、中学受験ではトップ校合格はまずまちがいないという予想ができた子です。わからなかったり、できないはずはありません「わからなくなってしまっている、できなくなってしまっている」ということです。消耗。学習意欲の喪失です。

学習意欲の喪失を生んだ四つの原因
 こういう結果を生んでしまったおおきな原因は四つです。

 まず、勉強する意味もわからないままフォアグラ授業をつづけたこと。それによって学ぶおもしろさには手が届かなかったこと。手が届く余裕がなかったこと
 次に、小学校の学習内容は実は身近なもの・手のとどくところにあるもので、本当はおもしろいものであることがわからなかった。ふだんから気がつき、よく見ればおもしろいことがたくさん発見できることを知らなかった。つまり「環覚」を養えず、日々の学習内容がすべて「机上の空論!」に終始してしまったこと。それでは学習はおもしろくありません。

 また、「勉強させるための甘やかし」が逆効果で、ふだんは遊んでいても、「時には、四の五の言わず頑張らなければならないことやタイミングがある」ということを教えられなかったこと
 最後に、勉強しなさいとは言い続けても、なぜ勉強しなければならないかを自ら考え、自らの経験やことばで、かみ砕いて伝えられなかったこと。以上です。
 こうしたたいせつな点がないがしろにされ、毎日毎日めいっぱいの宿題やフォアグラ授業が続けば、その過程で、先ほどの女の子のように消耗してしまう子がたくさん出るでしょうし、勉強がおもしろくなる子もほとんどいないでしょう。
 仮に受験だけを乗り越えられたとしても、次にモチベーションを上げるまでが大変です。「私立中高六カ年難関校では、その間にどんどん学習が進んで、なかなか成績が上がらないまま落ちこぼれていく」ということでしょう
 教育に携わっているぼくたちやお父さん・お母さんは、子どもたちの学習がおもしろくならない、これらの大きな原因をいつまでも放置せず、正面から取りあげ改善・改良していかなければなりません。
 前シリーズでも紹介しましたが、小学校の時には問題にならないくらい学力差があった団のOB諸君が奈良県と大阪府のトップ校の大学進学率に引けをとらない成績をあげる理由は、「それらの問題点がクリアされている子が多く、中・の6年間に爆発力を発揮できるからだ」と僕は信じています。

 先週は記憶のしくみや脳のはたらきから、子どもたちに「なぜ学習しなければならないか」を伝える一つのアイデアを提案しました。来週は脳のしくみを、ぼくなりに、もうすこし考えてみます。子どもたちにもわかるように(笑い)。
 なお、フグのリーフレットは今度の立体授業で取りあげるトラフグ調理の案内です。「生きているものを食する」という立体授業の指導の一環です。おもしろい報告ができると思います。お楽しみに。

 


考える種・その2 子どもたちには何を伝えるか 

2013年11月16日 | 学ぶ

僥倖
 個人塾ですから、すべて自力で解決していかなければなりません。毎日さまざまな問題や疑問点が生まれます。解決策や打開方法をさぐりながらの毎日です。しかし、その積み重ねが指導法を、より効果的にしてくれるという、うれしい実感があります。

「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」。指導法に限らず、自身の学習についても、「今の努力が良い結果をもたらすはずだ」というストレスのかかる発想から、いつのまにか「こうすることが日々少しずつでも高めてくれる生き方だ」というふうに変わりました。これも「亀の甲より・・・」でしょうか。
 ずいぶん前から、四六時中子どもたちのことも頭から離れないようになりました。酒を飲んでるときも、電車を待ってるときも・・・夢のなかでも、よく叱っている(!)ようです。紆余曲折を経てやっと「天職」にめぐり会えた・・・そんな気がしています。
 この幸運を誰に感謝すればよいのか? 「神様は存在する。それは人間の良心ではないのか」、そう考えているぼくがお礼を言う相手は、やはり「自然」と「両親」でしょうか?!

「記憶」の学習
 さて、日ごろから、「子どもたちの学習に対するモチベーションを高める方法」や「できるだけ余計な負担がないように学力を伸ばす方法やヒント」を探そうとしています。なかでもたいせつなポイントは記憶です。学習と「記憶すること」を切り離すことはできません
 指導するうえにおいても「記憶」するしくみや記憶力についての理解を避けて通ることはできません。そのため、一時、方面の本を一生懸命読みました。読んだ本はたくさんありますが、以下主なものを紹介します。

 「東大講義人間の現在①脳を鍛える」 立花隆著・新潮社/「記憶力を強くする」池谷裕二著・講談社ほか同著者の一連の書物/「脳は出会いで育つ」小泉英明著・青灯社/「勉強力をつける」梶田正巳著・ちくま新書/「心を生みだす遺伝子」ゲアリー・マーカス著・岩波書店/「コンピューターが子どもの心を変える」ジェーン・ハーリー著 西村辨作・山田詩津夫訳・大修館書店ほか(写真)。いずれも興味引かれる内容でした。たいへん参考になり、得ることも多くあり、記憶や脳についての以下の記述もその多くをこれら書物に負っています。

先を見つめ、学習する理由を伝えているか?
 「記憶のこと」を調べたいと思ったもうひとつのおおきな理由は、ぼく自身がその方法やたいせつな意味を理解していなければ、「覚えなければならないこと」を子どもたちに納得させることはできないからです。子どもたちは勉強していても、「なぜ覚えなければいけないか」を理解してやっているわけではありません

 覚えることのたいせつさや意味がわからないまま指導をされたり、宿題を出されたりしていることになります。それでは誰しも納得できないし、モチベーションも上がりません
 「受験のために」という目標を掲げて叱咤激励することが大方でしょうが、それだけでは受験が終われば目標は消失します。「しゃにむに」受験合格という目標を達成できたのはよいが、それ以外に学習する目的や理由がわからない子(知らない子)は、目標を達成してしまうと、次に学習するモチベーションを上げるまでが大変です

 自身のそうした苦い経験からも、「学習することが人生にもたらす意味」や「学習内容や学習することによって身についたスキルが生きていくうえで欠かせないたいせつなものであること」を、できるだけかみ砕いて子どもたちに伝えたいといつも考えています。
 子どもたちの学習は決して中学受験のためだけではありません。そのノウハウや培った基礎学力は後々の人生の土台になるものです。それを伝えようと努力します。
 「学体力は偏差値を超克する」でも比較したように、団の子どもたちが中学入学しOB教室を経て6年後、大学受験時になると中学受験時にトップ校に進学した諸君に引けをとらない学力を身につける、おおきな理由の一つは、中学受験が「最終目的」「最大目標」のような指導をつづけていないからだと思っています。

 団から受験する子も、もちろん中学受験は一つの目標です。しかし、それとともに「その先を、もっと未来を見つめることができる余裕をもたせること」を心がけねばなりません。未来の夢や望み・抱負が、日々学習する意味を補強してくれます。意味やたいせつさのわからない「勉強」では先が見えません。大人であるぼくたちも、意味のわからないことをいつまでもつづけることはできません

 日々学習指導するときに、子どもたちに脳や記憶のしくみをわかりやすく紹介できれば、彼らが学習していくときの心のよりどころとなり、学習することの意味やたいせつさを知らしめることができるはずです。
 記憶についてはよくご存じかもしれませんが、子どもたちの指導に役立つヒントがひとつでも見つかれば、との老爺心(!)とぼく自身の理解を確認するために、学習したことをもう一度辿ってみます。専門の研究者ではありません。内容に誤謬や誤解があれば、是非ご教示をお願いします。

 脳は、「遺伝」で受け継ぎ、「情報」で養う
  かつては「暗記」や「記憶」が創造性や学習の発展性とは結びつかないものとして、まったく軽視されていたことがありました。しかし、これは「むやみな学習事項の棒暗記」の否定的一面にすぎません。

 脳のはたらきとしくみが少しずつ明らかになり、ぼくたちの脳は遺伝によって受け継いだ神経細胞のネットワークを基盤に、生まれてからの個々の体験や学習を通じて、それぞれ感覚からのあらゆる情報を入力し、その情報をもとに環境とやりとりをしながら次第に発達・成長していくことが明らかになっています。銘記すべきは「頭の善し悪しが、受けついだ頭のネットワークの善し悪しのまま育っていくとは限らない」ということです

 つまり、遺伝でよい頭を受けついだから頭が良くなり、あまり良くない頭を受けついだから良くならないというわけではありません。入力される情報が大きく影響します(もちろん、それらを成長させるには考えつづける力、「学体力」がともなわなければなりませんが)。

 現在では、それら記憶情報は大脳皮質で神経細胞のネットワークに蓄えられているという考え方が有力で、その保存(覚えること)は従来の神経回路同士のつながり方が変化したり、新しい神経回路が形成される(回路のパターンを作る)ことによっておこなわれるといわれています。
 イメージとしては頭の中に網目状に神経細胞のネットワークができあがっていくこと、これが私たちが記憶(長期記憶)として情報を蓄えているシステムのようです。
 情報の入手状況如何で神経細胞同士のつなぎ替えが強化されたり、変化したり、閉ざされたり、また新しい回路が形成されたりで、脳のはたらきはダイナミックに変わっていく。つまり可塑性が大きい。本来の頭の良さの差はあるが、経験や学習を通じた情報の入力とそれらの記憶がなければ、その本来の頭の良さも活きない、「脳は始まらない」ということです

 逆に言えば、もともと遺伝的には飛び抜けた頭(脳)ではなくても、情報入力の質と量等によって、それぞれの脳は大きく変わる可能性がある、成長する可能性があるということになります
 情報の質の問題をひとまずおくと、脳を育てるおおきなポイントは情報の入力如何ということです。言いかえれば、ぼくたちは「生かすも殺すも使い方次第」という脳をもって生まれてくることがわかります。この脳の発達の素晴らしい真実・厳しい現実は、ぜひ子どもたちに伝えないわけにはいきません。
 先に、団のやんちゃOB諸君と奈良県・大阪府の私学6カ年トップ校の生徒たちの難関大学合格率の比較をしましたが、脳の発達のしくみをこのように少し考えると、日能研の中学受験レベルでは平均以下でも、6年経つと彼らに「勝らずとも劣らず」の好成績をあげたことが不思議ではないことがわかります。
 学力が飛躍的に向上すること、団のやんちゃ坊主たちのように京大や阪大をはじめとする難関国公立大学に進学することは決して不可能ではありません。それに必須の条件が「学ぶおもしろさを発見できるきっかけ」になる「環覚」の育成と、自ら学び進める力「学体力」であるというのが、団の主張であり指導方針です。

 


考える種 1他者依存型子育て

2013年11月09日 | 学ぶ

 見晴らしのきかない山道・・・見通しの悪い樹間・・・時々背伸びをしても、自分の居場所さえつかめないときが続きました。たくさん回り道もしました。時には麓に戻り、暗くなってから別のルートを探したこともありました。

 過ごしている「やっかいな時間」に腹を立てている間に、いつの間にか少し遠くを見渡せる尾根を登っていました・・・尾根から見える景色をat randomに紹介します。

他者依存型子育ての登場
 課外学習や立体授業は野外活動です。子どもたちが元気よく野外で遊んだり、戸外指導するわけです。気配り・目配りがきちんとできていなければなりません。 開設以来、保護者のみなさんにサポーターとして手伝っていただき、二十年近く事故は一件もありませんでした。

 つまり、その頃お母さん・お父さんたちは「場所や状況に対する危険度の予測と備えが十分できていた」ということです。
 ところが近年は様相が大きく変わってきました。十数年子どもたちが喜んで遊んでいたコンクリート製の「流れる滑り台」が、数年前突然閉鎖されたことを以前お話しました。

 渓流遊びの危険度や注意事項に対する保護者の認識不足で起きた事故がその原因です。監視をせずに、経験不足の子どもたちを岩場の多い渓流で遊ばせていたようです。
 夏休みです。気持ちが高揚している子どもたちが走り回るところは学校の運動場ではありません。
 惹句が器用に、そしてカラフルに踊る情報の氾濫のなか、若いお父さん・お母さんの受験や学習指導に対する興味や知識は膨らむばかりです。
 しかし一方で、それらと比べものにならないくらいたいせつなことに目が届いているか? 子どもの身辺・置かれた状況に対しては注意が届かず、危険度の察知ができない人がどんどん増えているような気がします。
 生活環境・学習環境・社会生活の変化によって、本来なら親が守るべき子どもの生命が、いつの間にか「誰かが守ってくれるだろう」と、「他者依存型!」になりつつあるのではないでしょうか? 
 たとえば、話に聞くモンスターペアレンツもその一例です。クレーム内容を冷静に振り返れば、「親としての責任能力の欠如」・「あなた任せの子育て感覚」からくるものが大半です。親としての自覚が「家出」してしまっています。

 そうした感覚が行き着く先は、「子どもの将来と生命を守るべく、状況を的確に判断できる」親力(おやりょく)の喪失です。守るべきがわからず、危険を知らないほど危ないことはありません
 幸いにも大きな事故にならなかった事例を紹介しておきます。どう状況判断をしたらよいか。みなさんの「考える種」にしてください。健やかに子どもを育てるために、心の中で育ててみてください。

きちんと日ごろから子どもを見ることができているか?
 渓流教室では朝、家族で散歩する時間があります。思い思いに草むらで虫を探したり、生きものを観察しながら谷沿いを行き来する姿も見られます。

 渓谷ですから切り立った崖が随所にあります。土産物店がとぎれるあたり、四十八滝へ続く道の入り口もそんなところです。下まで草が生い茂った急な崖で「マムシに注意」の立て札。渓谷周辺は特にマムシが多く、団員たちも毎年遭遇します。

 坂の上にある宿舎近くの草むらで、子どもたちの虫捕りの様子を見守っていました。下の谷の方から一人のお母さんが息せき切って階段を上ってきます。「男の子が落ちた」というのです。「自らの鼓動」が聞こえたのは久しぶりです。
 あわてて谷の入り口まで降りていくと、男の子は同行していた団員のお父さんに引き上げてもらっていました。幸いなことにマムシにかまれることもなく、かすり傷一つなく元気でした。下の谷までは十メートル以上。草や木にひっかかって運良く途中で止まったようですが、命に関わる大けがであってもおかしくない状況です。
 彼は二年生。お母さんとの三人で参加していました。団の課外学習への参加はそのときが始めてではありません。何度も参加していましたが、わがまま極まりなく、いつも小さなトラブルの原因になってしまいます。

 珍しい動植物が見つかり、子どもたちに観察させようとすると横取りしてしまう、何ごとによらず順番を無視して割り込んでくるなど、傍若無人・自分勝手な行動で、側にいるときは目をはなすことができません。ハプニングのようすを聞いてみると、原因はやはりその性向でした。
 顛末です。参加していた三人のお母さんがそれぞれ子どもを連れて朝の散歩をしていました。

 先述の崖の前、草の葉についていたカエルの卵を一人の子が見つけ取ろうとしたところ、いつものように強引に横から手を伸ばし、バランスを崩して落ちました。お母さんは真横で屈んでいたようです(蛙の写真はイメージです)。つまり、子どもはお母さんの目の前で落ちたことになります
 こういう事故の防止はむずかしくありません。「今いる場所でどういうことが起きる可能性があるか」は、よく注意してさえいれば想像の範囲内だからです。
 自分の子どもの性行を日ごろからよく観察し、状況を把握をしていれば、「ベルトをもっておく」なり、「手を引いておく」なり、「襟首をつかんでおく」なり、防ぐ手だてはいくらでもあります。親は守るべき当事者なのです。
 受験や進学に関してさまざまに思いをめぐらしていても、子どもの生命を守るという、いちばんたいせつな行動に手落ちがあれば、他のことは意味をもちません。
 ほんとうに守るべきものは何か。目を向けるべきは何処か。「危険度を予測できない」という、この状況が意味することは何か。もうひとつ紹介します。

子どもが置かれている状況が判断できているか?
 年間活動の第一回は土筆ハイクです。土筆ハイクは、春の色が顔を見せ始めた飛鳥路を文字通りぶらぶら、ツクシや蕗の薹を摘みながら進みます。ハプニングはその土筆ハイクで起きました。

 飛鳥駅から道すがら、動植物・地勢を説明しながら、上平田の集落、アスカルビーの温室の間を通り、朝風峠を越え、二上山や大和三山・金剛・葛城の峰々を振り返りながら稲渕の棚田方面に向かいます。 朝風峠の手前まで登ると、急坂になっている道端で毎年ツクシの群生が見られます。
 時には小さい子を連れたお父さん・お母さんの参加もありますが、往復八キロの山道ですからバギー車持参がほとんどです。お兄ちゃん・小さい弟とお父さん・お母さんの四人の参加でした。
 バギーで眠ってしまった弟に安心したのか、お兄ちゃんと「ツクシ」に夢中になったお母さんの後ろで突然バギーがバックし始めました。ストッパーがかかっていなかったのです

 十度近い急坂です。五十メートルほど先を進んでいたぼくは、悲鳴に振り返るのがやっとでした。すぐ側にいたお父さんが追いかけても間に合わず、深さ1メートルはあろうかと思われるコンクリート製の側溝に落ちてしまいました・・・元気な泣き声、よかった。
 すごい勢いでしたが、からだが固定されていたことが幸いしました。しかし、子どもの事故は結果オーライでは済みません。

 守るべきは何でしょう? 受験や学習指導? 日ごろから、まず真っ先に目を配るべきは何なのか? 目を向けるべきは何処なのか? 
 「親力」はバランスよく身についているでしょうか? 二つの例から学べるものは何か?
 たいせつな子どもたちの「学習指導」の真の成果とすばらしい成長は、その先に輝いています。


K君、アフリカへ行く

2013年11月02日 | 学ぶ

応援歌
 先週までは「学体力」が身についたK君の成長のようすを紹介しました(「学体力」は偏差値を超克する①~⑧をごらんください)。京大大学院を卒業し、さらに就職後も自らの人生や生きることの意味を問いなおし、再度受験して医師になることに決めた二年後(今年)、国立大学医学部の学士入学を悉くクリアしたエピソードです。
 また団の指導の結果をくわしく紹介するために、「大阪と奈良の六カ年中高一貫トップ校」と「団のOB教室」生の難関大学合格率を比較しました

 立体授業でやんちゃを重ね、中学受験時の偏差値を日能研の偏差値に比定すれば50にも満たない「やんちゃ坊主たち」がOB教室を経て6年後、難関大学進学に際し、トップ校卒業生たちと十分以上に戦える学力を身につけた結果も紹介しました。
 子どもたちの学習環境。「偏差値を上げるだけの受験勉強」の無意味さ。「受験に特化したガリ勉小学生」と「勉強なんかとまったく興味をもたず、カードやゲームにたいせつな一日を預ける小学生」。

 一見ほぼ二極化ですが、底に流れているのは、どちらも「勉強なんかおもしろくない」という「学習生活」排水や「細切れ知識」の澱、そんな気がします。「そんな水を何が何でも浄化して、おいしく飲める水にしたい」と格闘しています。
 すぐに泡と消える「学力増強」や「受験合格」・「最新の能力開発・学力伸長アドバルーン方法論のオンパレード」。うたい文句だけが踊っている、また踊らされている現状では、子どもたちの教育環境が悪化するばかりです。
 惹句の手軽さや短時間・軽佻浮薄の方法は、決して本来の学習や学習指導とは相容れません。それをわかっている人もたくさんいるのに、相変わらず「どす黒く」流れつづけている澱・・・。

 小さな個人塾なので幅広く情報発信する余裕がありません。指導や指導方法を問いかけ、その是非をみなさんに検討課題としていただくには「証拠」が無くてはなりません。何よりも雄弁なめぐりあわせです。「子どもをすこやかに育てるためにたいせつなものは学体力と環覚」というキーワードを掲げ、「学体力の実現とは何か」を問いかけるブログ展開を始めたのと軌を一にして、その理想を体現してくれたのですから。彼の成長は何よりの応援歌になってくれます。

お土産はゾウがいい

 さて、写真は何かわかりますね? もちろんゾウです。今週は象のエピソード(?)です。
 K君の合格を機に、ブログの「学体力」の話題を変えようとした矢先でした。
 9月末に最終受験の神戸大学に合格したK君。試験前日、「二次のプレゼンテーション用スライドについて意見を聞かせてほしい」と訪ねてきてくれました。スライドを見ながら「合格したらお祝いをしよう」と約束しました。
 若い諸君の前へ進む姿勢は何よりも嬉しく、ぼくもいつも元気が出ます。約束を果たさなければなりません。電話でのやりとりです。
 「もしもし。この前約束したヤツ、そろそろ行こと思うねけど・・・」
 
 「ああ、センセ。いつですか?」
 「11月のはじめくらい。都合どうやろ?」
 「えっ、日にちによります。行けないかもしれません」
 びっくりして
 「なんでや!? もう試験全部すんだんちゃうんか?」
 9月末合格で10月の中頃のやりとりです。まだ学士試験が残っているものとばかり思いました。
 

「・・・11月初旬からアフリカに行くんです!」
 「ええっ!?」
 絶句です。でも次の瞬間、ピンと来ました。彼のことです。合格してすぐ、おそらく「国境なき医師団」等の夢が浮かんだのでしょう
 「どれくらい行くん?」
 「三ヶ月くらいを予定しています」
 大学の授業が始まる前に帰ってくるわけです。それ以上聞かず11月の始めに会う約束をして、最後に
 「アフリカ行くんなら、先生頼みがあるンやけど・・・お願いやから、おみやげにゾウ買うてきて!」
 

大きな声で笑いながら
 「ハハッ、ワシントン条約にひっかかるんやないですか?!」
 でも、彼のことですから、きっと夢を叶えてくれるでしょう(?)。楽しみにしています。

 実社会に出て自らの使命に気づき、即シフトチェンジできる知力や実行力。
 医学部に学士入学が決まると大学が始まるまでに、世界に出て活躍することを夢見て次のステップに進む。合格後1ヶ月足らずの間です。
 OB教室まで学んでくれた子の知力・行動力には、実はぼくがびっくりしているのです(K君は団開設一期生)。そして、知力・行動力だけではなく、彼らは飛びきりの優しさも身につけてくれています。それは後日紹介します。

「学体力」補遺
 さて、最後に学体力のたいせつな一面について、ブログを読んでいただいているみなさんに「実感」していただけるよう説明を補足します。
 前シリーズで、ぼくは団のOB諸君と奈良県と大阪府の私立中高一貫トップ校の大学合格率について説明しました。その際さまざまな数字を引用しながら進めました。
 ところで、みなさん、きちんとその数字を読み、頭の中に置きながら読んでいただけたでしょうか? 文字面をとばし読みして「理解したつもり」になってはいませんか? 「いや、そんなことまで必要ないから・・・」とおっしゃるかもしれません。あるいは「めんどくさいから・・・」。そうではないでしょうか?
 

 しかし子どもたちに「学体力」が身についたかどうかの判断ポイントはそこです。学習はおもしろくなるまでは「めんどくさいもの」です。そして、その「めんどくさい山」を越えたときからおもしろさが始まります
 また、「学習・勉強の本当のおもしろさ」は、たいてい「そんなとこまで」というところに隠れています。次のステージへのステップもそこから始まります。「ていねいに数字を追う」のは子どもたちにとっての「そんなとこ」のはじまりです。
 どうか「学体力は偏差値を超克する」③~⑧を、時間のあるとき数字を追いながら読んでみてください。「子どもたちが乗り越えなければならない経験」を追体験してみてください。ぼくが授業で子どもたちに身につけさせたいとする指導内容の一面をよく理解していただけると思います。