『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには25

2017年04月29日 | 学ぶ

DVD花丸二つ
 しばらく映画DVDの紹介から遠ざかっていました。その間映画を見なかったわけではありません。いつものことですが、すべて一人の仕事なので雑事や考えることも多く手が回りかねました。
 シナリオを考えるようになった最近まで熱心に映画を見る習慣はなく、現在もシナリオに対する評価基準やネットの評価世界の渉猟から、見たい映画のセレクトをはじめます。多くは新しい映画ではありません。ぼくの基準は、花マル二つが高評価(何度も見たい、あるいは、さらに見る必要を感じた作品)です。この期間に見た『花マル二つ』をつけた作品を紹介します。

 日本映画はほとんど見ないのですが、今回は小津作品をシリーズで見ました。「ほとんど何もない日常」を映画に仕立てあげ、「古い時代の日本」を生き生きと見せる手腕はさすがだと思います。
 世評の高い『東京物語』も捨てがたいのですが、「タイトルはもう一つ(!)」でも『風の中の牝鳥』、『お茶漬けの味』を。そして「父と子」がテーマの作品については、私事情から往々にして評価が甘くなりがちなのですが、『父ありき』を推しておきます。

 次も古い作品ですが、マンキーウィッツの作品はオリジナリティにあふれ、おもしろいものが多くあります。「シナリオ学習」にも「展開の意外性」や「伏線の置き方」がとても参考になります

 なかでも、脂が乗り切っていたときの『三人の妻への手紙』は、一度も画面に登場しない主要人物というアイデアが特筆ものです。また『イブの総て』は「周囲の人間を踏み台に」のし上がっていく「女性の怖さ」をうまく描いています。ラストで、売れる前のマリリンモンローも端役で登場しています。この時期は「まだ存在感があまりない」ので、見逃さないように。

 マンキーウィッツは、おそらく女性で相当苦労したか、心を許していなかった(心を許せなくなっていた)のか。その辛辣な見方(!?)が作品から垣間見えます。いずれにしろ、映画史に残る才能です。こういう人の晩年は不幸だったかもしれません。感性が豊かでシャープな考察・「覚めた視線」は芸術には欠かせませんが、実人生では往々にして理解が得られず、不幸を呼びます。いずれも花丸二つです。
 偶然にもナチス関連の映画三作が、花マル二つになりました。

 一つ目はオランダ映画の『ブラックブック』。家族を殺されてしまった美しいユダヤ娘ラヘルの半生です。結末の処理は蛇足気味ですが、よい作品です。
 後二作は「少年」で描く「ナチス」。少年たちが純粋さゆえに生命を落とす『橋』(ドイツ映画)。もう一作は『縞模様のパジャマの少年』。どちらも少年の純粋さ・無邪気さで描写するナチスや戦争の非道さが心を打ちます。見事です。

 なお、「縞模様のパジャマの少年」の原作は岩波書店から邦訳(千葉茂樹訳)が出ています。ぼくは現在、英語の勉強も兼ねて原作“The Boy in the Striped Pyjamas”(JOHN BOYNE VINTAGE CLASSICS)を読んでいます。やさしい英語で英語学習にも最適です。力のある中・高生なら十分太刀打ちできるのではないでしょうか。「英語のテストはできるけど英語の原書は読めない」という、ぼくのような大学生にならないように。。

 最後は、デンゼル・ワシントン三作品。『ザ・ハリケーン』・『マイ・ボディガード』・『グレート・ディベータ―』。
 ザ・ハリーケーンは冤罪で投獄された黒人ボクサーの物語。アメリカの人種差別の暗部を覗くことができます。

 マイ・ボディガードは米軍のテロ部隊で身体も心も傷ついた男が守るものは何か? この作品にも“MAN on FIRE”(A.J.Quinnell)という原作があるので、次に読んでみるつもりです。
 「映画と原作と英語の三位一体」からいろいろなことを学ぶことができます。原作から脚本への話のすすめ方、映像表現や字幕(吹き替え)翻訳の可否、英語についてもシナリオについても、お薦めの方法です


 なお、子どものころ、外国文学の名作(!)で、どうしても終りまで読み切れずやめてしまったものが結構ありました。「自分の好みや力不足での挫折」とばかり思っていたのですが、今読み返すと「翻訳のひどさが原因」であろうと判断されるものが結構あります。意味が通らず、読む気にならなくてやめてしまったのでしょう。
 歴史ある古典文学の出版社にも、古くからの「無責任な仲間内評価で高評価の翻訳もの(!)」が見られます。「言葉遣い」や「言い回し」が適切でなかったり、「本人も筋を追いきれない(!)ような」支離滅裂な訳も、なかには混じっています。ぼくが理解できなかったように、中・高生レベルでは、よほど力のある子でなければ、定評ある出版社の出版物の訳に、あえて異を唱えられる子は少ないと思います。せっかくの原作の価値を見誤ることになってしまわないか、経験上、とても気になります
 近年新訳が出てきて改善されているものが増えてきましたが、教科の先生方(特に中・高の)、何か例を引いて、それらの誤訳・異訳(意訳ではなく!)を教えてあげてください。国語や英語にもっと高度な(!)興味をもつ子が増えてくると思いますよ。特に読書が好きな子・学力レベルが高い子・その対象が有名な「世界の名作」ほど、その指導は効果的です。「彼らがさらに伸びる」と思います

 三作目はグレート・ディベータ―。ぼくの嫌いな(!ハハ)ディベートで、黒人の子どもたちの教育を立ち上げる物語です。当然黒人差別も描写されています。
 「相手を言い負かす」、「論理や言語で圧倒する」ディベートも国際化社会では、ますます重要になるでしょう。しかし、日本では、「言葉には表せない、表したくない気持ち」や「思いやり」を昔からたいせつにしてきました。先述の「小津作品」は、すべてそうした「日本」と「日本人」の物語です。
 「人と人との信頼関係」や「人情」という「世界に誇れる日本の特質」を忘れてディベートの方向性をだけ志向するのは、「人間社会の発達」としては逆の方向で、日本社会の根幹を揺るがしてしまう「大きな傷」になってしまうのではないですか

 逆に、そうした日本的な「気遣い」や「心情」を、寿司や日本料理のように、世界規準へと文化発信することが、国連常任理事国を目指す日本の教育のたいせつな役目ではないでしょうか。「人生の折り返し点」をはるかに過ぎた今、その思いが一層強くなります。
 デンゼル・ワシントンの三作品、いずれも花マル二つつけました。
 
月を読んで「月」を見ず
 先週「デッカイ筍掘り」の紹介をしました。そのとき、「唱歌三曲」を子どもたちに紹介したことを伝えました。
 「飛鳥の里」で「春」、というロケーションから、「早春賦」・「朧月夜」・「故郷」の三曲です。いずれも、ぼくにはとても懐かしい曲で、そのメロディとともに、子どもたちの心に残る想い出になってほしいという気持ちからなのですが、「狙い」はもう一つあります。「『故郷』を心に落としてほしい」「自然のありように、もっと敏感になってほしい」という願いです。

 授業中ぼくは、日の出や日の入りや南中、三日月や満月など太陽や月や星にかかわることばがでてくると、今いる場所を基準として、東西南北の方位をよく子どもたちに考えさせます。「環覚」育成の一手段です。
 小学校時代の子どもたちは、まだ経験も少なく、知らないことが周囲にたくさんあります。いや、子どもたちに限らないかもしれません。
 例えば、理科で出てくる太陽の日周運動を考えてみましょう。「太陽は東から出て西に沈む」ということを「言葉」では知ってはいても、「南の空を通って」ということや、実際に東西南北をイメージしたりすることはほとんどないのではないでしょうか。「自分の立ち位置」・家や学校で、その方角をはっきり確認し、その周回のようすを実際にたどることができる子は何人いるでしょう

 「太陽は東の空から昇り、南の空を通って西に沈む」ということは、どこの教科書や参考書でも出ています。「常識」です。観察のようすもイラストで展開されています。しかしそれは現状では、テストの解答であり、記憶の材料なのです。そのままでは「おもしろい学習対象」ではありません。
 わかりやすく言えば「東から出て西に沈むということを『ことばの上で知っているだけ』(実は知らない!)」なのです。それらの記述内容をおぼえているだけで何かおもしろいことが始まるでしょうか? 次のイメージが広がるでしょうか? 「学習と日常が手を結ぶ」でしょうか

 子どもたちは学習対象をこのように、「自分自身の生活の中で振り返って」確認していくという体験等はほとんどないまま、「記述内容をイラストでテストのために暗記するという「学習(受験勉強)」を続けているのが現状です。
 月です。たとえば日頃から生活の中で朝、西の空に浮かぶ「下弦の月」をしっかり見たことがある子は、ほとんどいないのではないでしょうか。『月』というぼんやりした認識はあっても、日常生活の中で「『月の形』・『月の姿』をしっかり識別する」という観察や体験はできているでしょうか。ただ、月の出・月の入りの時間と変化を、月の形のイラストとともに暗記するだけ・・・。

 太陽や月で例を挙げましたが、今尚、子どもたちの学習は「延々と『こんなこと』が続いている」わけです。こうした「現実体験の欠落したまま」、「記憶対象でしかない勉強」を多くの子どもたちは続けています。多くが「月を(さえ)よく見ないで月の学習」をしている子どもたちなのです。これでは「世界」がおもしろくなりようがありません。   
 現物・学習対象をきちんと見たり、実際に触れたりして興味がわきイメージが広がり、次の学習やステージに進むというのが「学習」の正しいステップではないでしょうか? 「『自然のありよう』を身近なものにする」ことで、もっと「まわりのものに気づく」、「目を留める」という「環覚」が機能するようになってほしいのです。

「朧月夜」と読解力
 「早春賦」や「朧月夜」の歌詞の意味を子どもたちとたどってみて、ぼくは先年亡くなった灘の「伝説の国語教師」橋本(武)先生の「銀の匙」指導法による効果のすばらしさが見えてきました。橋本先生については、ぼくはゼロからの自分の指導法を試行錯誤して形づくっていくことに忙殺され、一昨年あたりまで、その存在すら知りませんでした。

 偶々アマゾンで「〈銀の匙〉国語授業」(橋本武著 岩波ジュニア新書)のレビューを読み、遅まきながら興味をもちました。原因の一つは東京高等師範学校卒という経歴でした。アレ、東京教育大の先輩じゃないか・・・。

 持ちあがり指導の「灘」で、教科書を使わず、中勘助の「銀の匙」一冊で中学三年間独自の国語授業を展開した、という有名な指導です。
 教師になりたての頃、自分の中学時に国語でどんな授業を受けたんだろうと考えると、ほとんど印象がないという反省。そのショックから、その後夢中になり、あこがれていた中勘助の「銀の匙」を選んだ・・・。さらに橋本先生は、こう書きます。
 
 『銀の匙』は名作だとしても、教科書としてはどうなのか。どういう利点があるのか…中略…文豪夏目漱石が推薦するほどの美しい日本語なのですから、国語の教材にして文句の出ようがないはずです。
 そのうえで、新聞の連載だから一回の長さがだいたい決まっています。長からず短からず、教材として扱いやすい。また、物語の内容が中勘助の自伝的な物語ですから、ひ弱な幼い子どもがたくましい立派な青年に育っていく過程が描かれていて、中学生が自分と物語の主人公とを重ねながら読むことができる。それが教科書としての利点です。(上記書p54~55)

 
 「自由な採択が許される私立という条件」はあったとしても、その選択によって「結果というそれ以上の困難」を背負わなければならない「覚悟」。検定教科書を使わないことに対する周囲の反発や、本人が一番感じているだろう不安を克服する「勇気」。さらに成長期で可能性にあふれた生徒に対する『指導責任の自覚』を、まず、改めて学びたいと思いました。そこにこそ、もっともたいせつになる、子どもに対する教師としての自負と存在意義があると思うからです。それらが揺らいでしまうと、子どもたちは「云うこと」を聞きません。指導は成立しません


 団を始め、手探りでぼくが課外学習や立体授業を取り入れる指導を始めたときも、橋本先生には及ぶべくもありませんが、あったのは自信と覚悟、そして自らを振り返り照らしあわせた経験と、子どもたちに「学習に対する誤解」を解いてほしいという思いでした。初心忘るべからず。「蜻蛉が大好きな君たち! 国語を『昆虫採集』してみないか。算数も『手づかみ』できるんだよ」という団開設時のコピーが浮かんだのも、その時です。自戒です。
 来週から、しばらく橋本先生の指導法、灘の東大合格者を輩出した理由の一端を少し考えてみます。「朧月夜と読解力」です。


勉強のできる子を育てるには24

2017年04月22日 | 学ぶ

「できる子」を育てるお母さんは
 さて、表題。よく受験情報や週刊誌で特集されている、「進学先のみが評価対象」の「受験に強い(!)お母さんたち」の話ではありません。先日もお伝えしましたが、最近はうれしいことに、団に「よくできる子」が入ってくれるようになりました。「常識にかなう子」たちです。
 ちゃんと話を聞け、好奇心が強く、生意気でも素直で、その振る舞いに思わず笑みがこぼれるような「子どもらしい」子たちです。こういう子たちは従来のOB諸君の成長を見ていても、団の指導で飛躍的に伸びます。そこで「賢い子」を育てているお母さんたちのヒミツです。
 紹介しました「筍掘り」。今年はお父さんの参加はなく、サポーターで団員のお母さんが3名、体験参加の小学校の先生(3名)、うち2名は子ども連れで参加されました。
 立体授業の「スライド学習」は会場の都合で筍掘り終了後になってしまったので、まず「筍の生えるようす」、例えば「『出始め』は竹藪の周囲に生えてくることが多い」などのアドバイスを竹藪の入り口で伝えました。中に入ると、お母さんたちは竹林の急な坂をものともせず、どんどん登り、それぞれ藪に散って行きました。
 ところが、内心危惧していたのですが、今年はまだ寒い日が続いて、時期が少し早かったのと、不作の年に重なったのと、さらに相変わらずのイノシシの被害でお目当ての筍はなかなか見当たりません。

 かつての付き添いのお母さんたちなら、適当に周囲を見回して見つからないと、「数人で集まりおしゃべり」というパターンも多かったのですが、今回のお母さんたちはちがいます。アドバイスに従い全員一生懸命周辺を何度も探り、落ちている葉のふくらみをチェックし、少ない中でも、それぞれ次々「筍」を見つけました。負けん気も強く我慢強さもあり、見つからないと納得できなかったのでしょう。

 筍は発見してからが大変で、自然に生えている竹やぶで丁寧に掘ろうとするとかなり時間がかかります。はじめに、「途中で折れないように」とアドバイスしていたのですが、今年のお母さんたちはそういうアドバイスもきちんと受け入れ、見つけた筍を丁寧に根気よく掘り進めていきます。これらの姿勢に、「子どもを賢く育てる秘密」があることが、もう「お気づき」だと思います。  
 子どもが取り組む活動に自らも興味をもち一生懸命一緒に行動する。「子どもの遊び?」だと、冷めた目で見ていない。つまり、「お母さんが一生懸命やったり、おもしろがるようす」を子どもたちは、いつも見ているのです。それが「伝染!」します。現在の団員諸君は、こうしたお母さんの姿を見ながら育ったのだと思います。逆に、「だらけて」やったり、「適当にごまかしている」と、それらをおぼえて育つというわけです。「知らない間に、親は日々たいせつな指導をしてしまっている(!)」のです


 先週の「本が好きになる(よく読むようになる)」というアドバイスもそうでしたが、子どもたちを見ている限り、やはり子育てで「いちばん大きくものをいうのは家庭環境」です。諸事情でなかなか思い通りにいかなくても、「できるだけ子どもたちの興味や好奇心の喚起やきっかけをふいにしない、邪魔しない環境を日ごろから考えること」がたいせつです。
 経験から振り返ってみると、今までの「よくできる子のお母さんたち」も全員、好奇心旺盛な人たちでした。そして、逆も真でした。つまり、「あまり学力が伸びない子どもたち」のお母さんは、「ほとんどあなた任せで自らは関わらない人」が多かったような気がします。たとえば、「タケノコがなかなか見つからなければ、すぐあきらめてしまう、というパターン」だったような気がします。ちなみに、今年は毎年の筍掘りより、解散が二時間遅くなりました。

 好奇心が強く興味をもつものが多ければ、それだけ体験や考えることが多く、視野が広くなります。近寄るだけでも、情報量や感動がちがってきます。当然それらの経験や学習事項は次の知識習得や学習に対して大きなアドバンテージになっていきます。またお母さんやお父さんのおもしろがるものや一生懸命取り組むようすを見て育つ子どもたちが、それらに対する関心や行動に影響を受けないはずはありません
 「毎日、テレビのバラエティ番組やスポーツ中継にかかりっきり」では、やはり知的興味が限られるのも想像の範囲内だと思います。そうした生活が続く日々では、「子どもたちの学習事項が、すべてぼくたちの環境の様々な抽象である」という意識も生まれにくく、「勉強は勉強」「机に座ってやるもの」という「狭い視点」から逃れることができません。

 つまり、現実や現象を解釈したり、知識や学習のバックグラウンドや力に気づく、という「勉強(学習)がおもしろくなるきっかけが生まれにくくなります。勉強はいつまでたっても相変わらず勉強のままです。次のステップに至りません。現在の団員諸君に「よくできる子」や、「将来性豊かな子」が多いのは「さもありなん」。今年のお母さん方の行動を見ていて、ますますその感を深くしました。

飼育ケースの学習
 虫を飼っている子どもたちは今も、思いのほかたくさんいます。多くは買ってもらった虫や譲ってもらった虫のようです。ペットショップで買ってきたカブトムシやクワガタが、プラスティックケースの、きれいにカットされたカブトやクワガタとは関係がない間伐材のえさ台で「昆虫ゼリー」を食べています。えさが無くなれば買い置きのゼリーのシールをはがして入れ替えます。
 一見、昔と変わらず昆虫に夢中の子ども時代を過ごしているように見えます。ところが、まず昔は昆虫ゼリーなんかありません。桃やスイカや砂糖水などを用意し、「適した餌」を自ら探らなければなりませんでした。すでに、そこから「生き物の生死の実験」が始まりました。

 今、昆虫ゼリーの虫たちは「死んでしまえば、また買えばいい虫」です。「お金で買えるもの」です。しかし、「生命」はお金で買えません。その差は子どもたちの成長に想像以上の影響を与えているはずです
 ペットショップやデパートで買ってきた虫を昆虫ケースに入れて市販の菌糸マットで大きく育てても自然の中で生きているわけではありません。すがすがしい朝の光や夏草の葉先で輝いている水滴、まだ白い月が残っている青い空。かつて捕まえた虫や魚たちは買ってきたものではなく、映画の一シーンのような背景の中で息を整え、気配を消して、やっと手にした獲物です。

 ケースに樹脂製のデコレーションを施し、見かけだけ自然に似せても、それは決して自然ではありません。気温や空気の流れ・音・・・全身の感覚器官が「情報収集」をしているわけではなく、自然がさまざまなふくらみをもって正しいイメージで描かれているわけではありません
 飼育ケースにいるカブトムシはあくまでも飼育ケースにいるカブトムシです。コガネムシやサトキマダラヒカゲやスズメバチとクヌギの樹液に群がり、共存している姿ではありません。林の中を飛び回り、悔しい思いをした自らの経験がともなっているわけではありません。
 「体験」が「『校庭の田んぼの田植え』にとどまる感覚」ではなく、「こうした体験総量」のもとで育ててこそ、「よくできる子」「クリエイティブな子」が育つと、ぼくは考えています。ビジュアル優先の世の中ですが、「画面のカブトムシ」は現在の技術では手のひらでは動きません。小さいころ、灯りを求めて部屋にまで飛んできたカブトムシは、その「におい」や「時刻」や「雌雄」と決して切り離すことはできません。
 手元で生命ある存在として「生きている確認」がとれるから親近感が生まれます。動きのひとつひとつに手を触れることができるので「生命ある存在として感情移入」できます。「生命が感じられないつくりものの世界ばかりで、『実際の世界』を『実際に』見ていない」子どもたち。「生命の見えにくさ」が蔓延し、「生態の成り立ちとしくみ」を総合判断ができず、ペラペラの受験知識を溜め込んでいく、それが多くの子どもたちの現状です。「飼育ケースの学習」です。

 「自然の中の生命をとらえる感覚」が育つことで生き物としての自分に気づきます。生き物としての自覚とやさしさが身につきます。自らが「自然内存在」であるという意識がいのちの大切さを教えます。限りある命がわからなければ生命の(限りの)たいせつさがわからず、学ぶことの意味やたいせつさもわかりません。自然内存在の自覚が生まれなければ、真の環境保護もわかりません

自然は「わんぱく大学」
 日ごろ人工的な環境に慣れ、子どもたちは自然に対する意識や感覚が麻痺しています。 エアコンの効いた室内に閉じこもり外で遊ばない、外で遊んでもゲーム機片手で自然と触れあうわけではない。
 いつも目の敵にされスリッパでつぶされているゴキブリしか見ていない子が、いきなり教科書のバッタや蝶のイラストを見て興味が湧いてくるのだろうか。楽しく昆虫の学習に入れるのか。どこまでおもしろさを感じることができるだろう。次の学びにつながるのだろうか。
 絵を見て昆虫のからだのしくみの違いに思い至り、口の形と食べ物のちがい、その相関関係を正しく思い描くことができるだろうか。カマキリやトノサマバッタの脚の硬さにふれた経験がなく、外骨格と脊椎の役割の比較を興味深くイメージすることができるのか。「節足動物」という名前に実感がわくのか。

 夕日に赤く染まっていく山際、夏の夜空にきれいに上ってくる星。魚がよく釣れるとき、カブトムシやクワガタが捕れる時間は自然の印象深いシーンなしにはあり得ません。虫捕りや魚釣りは、それぞれ自然の動き・流れ・表現をともない、全身の感覚器官の活動とともに、脳を健やかに活性化しながら、その印象を子どもたちに刻んでいきます。直接見ること、触れることにより生き生きとした感覚が生まれ、思考力が目覚めます
 カシミヤのコートにくるまったような冬芽や短い陽を精一杯浴びているロゼットは、ミノムシが頼りなげに揺れ、枯れ葉舞う野外で見かける経験があってこそ、その企みが実感をともなって記憶に残ります。

 川遊びや虫捕りをすればオニヤンマの産卵のようす・蝶の交尾・バッタやトンボを補食するカマキリを目にすることは珍しくありません。自然の中で昆虫や草花・魚と触れあう経験で、子どもたちはさまざまな「実験」や小さな「発見」もくりかえすことになります。
 室内で、抽象されて現実感のともなわない知識だけを単独に学ぶのではありません。生命の有り様に触れます。生物のつながり・食物連鎖のしくみ(生態系の成り立ちとしくみ)がわかります。生命を考えはじめるきっかけになります。

 その中で身につけた知識や知見が教科書の内容や学習内容と結びつくことが多いほど、興味が深まり、勉強も身近なものになります。理科だけではありません。学ぶ内容を知っているという実感が、「学ぶことそのもの」と子どもたちとの距離を縮めてくれます。
 「科学」がおもしろいと感じるには、「科学」のもとになっている事象を知らなくてはなりません。この「科学」を「勉強」や「学習」に変えても結論は同じだと思います。ファインマンが科学者になったのは、「科学のもとになっている事象」に気づき(finding things out)、この上ないおもしろさを見出したからです

 お父さんに手ほどきされた「事象」を考えるおもしろさが出発点です。おもしろさがわからなければ自主的な学びは進みません。発展的な学習への意欲も高まりません。
 生きていく力をつけることができるよう好奇心にあふれて生まれてくる子どもたち。外で元気に遊べる子・外遊びを知っている子どもたちこそ、勉強のおもしろさや深さがわかり、楽しくなります。体験の豊かさ・自然に対する親近感や「気づきの目」が学びに対する何よりの応援団になってくれます。
 さらに「考えるもとになる情報」の取捨選択はそれまでの日々の経験によってつくりあげられた「アンテナ」によります。「自然を感じるアンテナ」が子どもたちに立ちさえすれば、「性能」に応じてさまざまな情報を取得することができます。自らがふだん生活している環境からの情報の獲得量が大きく変わります。それにともなって、子どもたちは成長します

 草木の生長や花と虫、太陽や天気、その日々の変化・・・・・・気づく目によって、学習に対する興味や学力の育成はもちろん、生きている存在である自らと生き物の姿を現実的に、そして自然をともなうことで客観的にとらえることができます。生命を考えることができます。

 性格や人格、人という部分を形づくるたいせつな要素も、幼いときからの、こうした自然の生死を直視する経験の全体が大きく影響するのではないでしょうか。お母さん・お父さん、子どもたちと一緒に自然の「腕白大学」に入学しましょう。団のお母さんたちのように。自らも、そして子どもも賢く育つ秘密です。 


勉強のできる子を育てるには23

2017年04月15日 | 学ぶ

 「『手間がかかる・時間がかかる』という状況を克服すること・スピード優先、それが文明の進歩・科学の発達である」とぼくたちは考えてきました。しかし、その効率化で「手に入れた『余裕』をどう使い、どう処理しているか」と振り返れば、暗澹とした気持ちになります。
 かつて時間など意識せず、「出きるだけ上手に」・「思い通りに」と自ら手造りで作り続けたおもちゃは、その「出来栄え」で「努力することのたいせつさと意味」を教えてくれました。失敗の連続で「あきらめ」ではなく、「我慢すること」がわかりました


 たとえばキャンプ地に行くのに、車に大量の荷物や食料を積み込み、出来合いのおもちゃをもって、高速道路にのり、あっという間に到着の目的地で、そそくさとビールや焼き肉でバーベキューの支度をし、いつもより広い空間で、開放感や高揚感は多少はあるものの、帰りは渋滞でイライラしながら帰ってくる…。スピードに足を引っ張られています。
 自然体験で子どもたちの「環覚」、気づく心・見つける心を養うためには「ゆっくりズム」が欠かせません。車中で「窓外」にハイスピードで流れるガードレールや防音壁の連続の中での行き帰り。それだけではせっかくの機会が「環覚」の育成とは無縁になります。ふだんから、「宝物」は周りにあるのです。

 「何か」を求めて「効率化」を優先したはずなのに、実際に何が得られたのか? ほんとうに手に入ったものはあるのか? 特に子どもたちにとって「見掛け倒しの似非体験の繰り返し」になってはいないか? そんな疑念が浮かんできます。

環覚の育成に寄せて
 明日はみんなで、「デッカイ筍掘り」の課外学習に出かけます。「米作り」でお世話になっている前川さんの紹介で個人所有の竹藪を紹介してもらい、毎年この時期に実施しています。筍栽培用ではなく、イノシシも荒らしている自然のまま放置されている竹やぶです

 朝、出かけると、すでにあちこちボコボコに掘り返され、無残に食い散らかされた筍が散らばっていることも珍しくありません。小さいころ、ぼくは、ほとんど毎日こうした竹藪に出入りし、手作りおもちゃの材料を探し回りました。
 タケノコが満足にとれなくても、筍を探しまわることが「遊び」であり、「探検」であり、「自然の学習」なのです。「けもの道」がわかるし、周囲の小さな川辺にはセリやミツバが生えているし、日当たりのよい道脇にはノビルやイタドリも出始めています。陽のあたりにくい山裾では陰樹のアオキがよく見られ、シダも頻繁です。こうした環境の体験と印象が植物の進化や成長の学習のバックグラウンドとして機能します

 河岸段丘を挟んだ対面の小高い丘には「クワガタ探し」の課外学習で宿泊する祝戸荘を見通せます。周囲には棚田が広がり、レンゲや菜の花も散見します。「受験参考書や塾のテキストのペラペラページを人工照明の中で暗記する学習」とは「正反対の分厚い学習」が広がります。こうした学習指導法を実践するのはおそらく僕だけなので、ブログで紹介しても、同級生の先生仲間にさえ、あまり(真意を)理解してもらえません。
 「仮説実験授業なんかやろ? むかし俺もよくやった」「ハイキング、おもしろそうやなあ」「喜ぶやろ?」・・・ちゃう、ちゃう! ちゃうねん。

 「『校庭での田んぼ』で米作り」の「勘違い」もそうですが、「小さいころから自然の中で遊びほうけた経験がなければ、感覚がつかめません。だから、「たいせつさもわからない」のでしょう。「自らの体験の範疇からは推し量れないから」です。昔何かで読んだ、「象のからだのあちこちを探ってはみたが、結局全体像がつかめなかった」という話を思い出します。

学習のBGづくり
 さて、「筍掘り」は竹の子だけでは終わりません。いつも、なにがしかの「サブテーマ」を用意します。もちろん、そのテーマはシチュエーションやタイミングと切り離せません。
 今回は先週紹介しました手作りの紙飛行機を「飛鳥の空」に飛ばし、飛行距離の競争をしようと思います。高台から危険なく遠くまで飛ばせます。自ら手造りすることで飛び方や工夫の手ごたえがつかめるだろうし、風や上昇気流に目を向けることが出来ます。「空気」に対する意識です。開けて見通しの良い田園風景や棚田はうってつけです。「遊びと学習(気づき)のリンク」は、こうして「手作りで飛行機を作るから」可能になります

 そして、竹細工の材料確保。竹の枝を切り取り持ち帰り、後日の「竹の昆虫づくり」の準備です。太い茎を割って胴体を細工し、節のある枝で脚をつくります。カブト・クワガタ・バッタ・カマキリ、さらに昆虫ではありませんが、カニやエビなど、思い思いに工夫してチャレンジします。

 飛行競争には商品を用意しています。小さいころぼくたちが夢中になったゴム動力の「手作り飛行機キット」と「紙飛行機で知る飛行の原理」(小林昭夫著講談社ブルーバックス)です。「ゴム動力は工作では一段上のステージ」だし、その先には「飛行機が飛ぶ理由」「うまく飛ばせる原因」が待ち構えています。それが能動的な学習です。子どもたちが『経験したとき、興味をもったとき、好奇心をもたせたとき』に次のステップを開示することがたいせつです。
 「子どもたちの学習を遊びとリンクさせること」、「日常生活の後ろに隠れている意外性の発見―例えば生物や物理や化学の真理」、それらが「ふだんから(日常生活の中で)顔を出してくれること」で、子どもたちの心に「学習の『テーマパーク!』」が育っていきます

 飛行機で風や上昇気流の知識に触れれば、次は天気や気象の世界が待っているかもしれません。その成り立ちとしくみに目が向けば、雲や雨の学習が容易になるでしょう。なお、余談ですが、ブルーバックスの「図解 気象学入門」(古川武彦・大木勇人著)は素晴らしい本です。気象についての様々な疑問が氷解します。子どもたちの「環覚」育成のテーマを見つけるのにも最適です。
 

さて、「デッカイ筍掘り」では、もちろんスライド学習をしますが、今回は現地の飛鳥で前川さんのお店の2階の部屋を借りて学習することにしました。そのテキストから学習テーマを紹介しておきます。
 まず季節柄のどかな田舎の雰囲気と音楽に浸ってほしいので、早春賦・おぼろ月夜・ふるさとの唱歌三曲を映像とBGMで紹介します。続いて竹林のようす、タケノコの生え方を地下茎とともに、タケノコの採り方、いろいろな竹の種類、特に孟宗竹・真竹・女竹の紹介。

 エジソンがフィラメントに日本の竹を使ったエピソード、女竹で団員が作る工作、釣竿・弓矢・吹き矢・紙でっぽうの紹介、クマザサ・歌舞伎と隈取、日本人の生活と切り離せなかった竹・竹細工・慣習、それを証明する竹にまつわる漢字の多さ。
 イネと竹の近しさ、生物の系統と分類の仕方、生きものの親戚調べ、イネと竹の仲間たち、単子葉類と双子葉類、草本だけではない単子葉植物、木本と草本の違い、竹は木なのか草なのか、単子葉植物と双子葉植物の特徴、植物の大きくなり方・肥大成長、タケノコ料理数々。
 これらをすべて子どもたちは学ぶわけです。イネ(単子葉植物)とインゲンマメ(双子葉植物)だけではありません。おそらく受験生の半分以上は、双子葉植物と単子葉植物の区別は「草の区別だろう!」という認識でしょう。そういう中途半端で片手落ちな暗記学習・受験知識がまかり通っているのが現在の(受験)学習の現状です

 学習は、ひげ根と主根・側根、平行脈と網状脈で終わりではありません。ぼくが子どもたちに手に入れてほしいのは、「子どもたちとぼくたちの歴史に息づいてきた竹の全体像」に対する「気づき」なのです。それでタケは「身近に」なります。もちろん、単子葉植物と双子葉植物やそれぞれの特徴も確実に身に付きます。「『ひげ根や主根・側根』の頁は紙飛行機にして飛ばしましょう!」(ハハハ)。

読書授業
 以前から「読書をしないので」という相談を受けて、「何とか本を読むようになってほしい」という願いを聞いていました。立体授業や課外学習・学習指導などを含めて、すべて一人での取り組みなので、気持ちはあってもなかなか思うに任せず、指導を始められなかったのですが、今月から月1~2回を目途に、みんなで本を読み始めることにしました。

 お父さん・お母さんへのアドバイスは、まず「難しいのは承知の上で、冗談ではなく」『できれば家に本があって、お母さん・お父さんが、いつもおもしろそうに読んでいる』という環境を用意することがベストです。自分たちがまったく本を読まずに「読みなさい」と云っても、「『仕事ができない上司』や『いつもサボっている二代目社長』が『しっかり仕事をしろ!』と云ってるのと同じ」で、他で本との幸運な出会いがなければ、あまり多くは望めません。

 おもしろくなければ、誰も本なんか(!)喜んでは読まないので、「本はおもしろいものである」と気づくきっかけが必要です。家庭に本がなければ、おもしろいかどうかもわかりようがありません。つまり、「家には本がない・周りも読まない」では「おもしろさのわかりようがない」「好きになりようがない」わけです。子どもがおもしろがるような本・子どもの興味を引きそうな本を検索して、それとなく子どもの目につく机の上に置いたり、書店や図書館に連れて行って、根気よく気に入るものを選ばせるのもよい方法です。本も自然も近くになければ、良さやおもしろさはわかりません。

 さて、団では、古い本で今絶版になっているようなのですが、まず「植物は不思議がいっぱい」(春田俊郎著 PHP文庫)を少しずつ読みはじめることにしました。子ども向けに書かれた本ではないので、一人で読むには少しむずかしいのですが、一緒に読むとついていけます。そして、本は子ども向けより、大人の方がおもしろいものが多いはずです。きっかけさえつかめば、ぼくはおもしろさを頼りに、ドンドン読んでいける(読んでいく)と思っています。ノーベル賞学者(益川さん)が認める「天才中の天才」ファインマンがそうだったように。
 とりあえず、まず「植物は不思議でいっぱい」がスタートです。きっかけづくりです。


勉強のできる子を育てるには22

2017年04月08日 | 学ぶ

春に思う
 土筆ハイクを終え、団の軒下にそれぞれ巣箱を取り付けました。
 11月から2月までは受験指導への対応もあり室内での指導が多くなるので、子どもたちもストレスが溜まっていたのでしょう。約半年間の「冬眠?」を経て、楽しみにしていた土筆ハイク・デッカイ筍掘り・でっかい鯰釣り…と一連の課外学習のスタートです。毎年、この時期になると、子どもたちの目がキラキラ輝きはじめます。

 里山・小川・森・渓谷・・・。エアコン・照明・ゲーム・テレビという、人工的な環境とはまったく異なる開放感・空気感・光と生命に満ちあふれた世界がそこにはあります。輝く緑のバリエーション・ノソノソと動き始める小さな虫たち・咲き始めたタンポポやスミレを探す蝶、木漏れ日に鳥の鳴き声、あらゆるものが生きて、そして動いている中で子どもたちの感覚器官も鋭く立ちあがります。
 生きることを学び、食べ物を手に入れる喜びを味わってきた歴史、祖先の遠い記憶が自然との交流で蘇ってくるのかもしれません。生きていくための手段・手がかりを求めるべく感覚器官がはりきって活動を始めるのでしょう。 

 子どもたちとの自然体験は、視覚・聴覚・触覚・嗅覚、あらゆる感覚へのコンタクトをともないながら進んでいきます。先日の土筆ハイクの土筆やいちご狩り、次回の筍掘りや秋のお米やミカンの収穫まで、味覚を含んで五感全部が刺激されます。「感覚器官のすべてで受け取る環境」は深く心に残ります。刻々と入る全身の感覚器官からの情報を受けとることで、それ以降の日々の生活での感覚器官のはたらき方も大きく変わってくるだろう。それも期待しています
 学習は机上の勉強ではなく、身近なものと深いつながりがあると確認できるには、こうした日々の行動による裏付けがなくてはなりません。そしてそれが「抽象学習」の「手ごたえの無さ」を補完します。おもしろさへの「てがかり」になっていきます

 お父さんからさまざまな問いかけやレクチャーを受け、自然の成り立ちやしくみのおもしろさに気づいたことでファインマンは天才としての一歩がはじまりました。エジソンを天才に導いたのも、残念ながら学校ではなく、周囲の自然の不思議さとそれを解明していくおもしろさでした。子ども時代は自然を見るだけでも心が高鳴り、興味をひかれます。

 二人だけではありません。類似の自然体験によって数々の天才が生まれました・・・ニュートン・ファーブル・マクスウェル・・・自然の不思議さに気づくこと、そのなりたちとしくみを究めるおもしろさが彼らの偉業の大きなきっかけになりました
 ニュートンは、再婚した母と離れたさびしさを自然の動植物や月や太陽の光の移動の観察で補いました。その不思議さと驚きや疑問から学問を進めるたいせつさに目覚めたようです。

 ファーブルの伝記からも、彼が最初から虫だけに興味をもっていたのではなく、近くの小川で、貧しい家計の足しになるとの思いから、金のように光る雲母やダイヤモンドのようにかがやく石英をいっぱい集めたほほえましい経験があったこと。魚や小鳥・キノコ・・・とあらゆる自然のものを相手に遊び、観察を進め、育っていったことがわかります。幼いマクスウェルは自然物を持ち帰り、お父さんがくわしく解説してくれることを何より楽しみにしていたようです。

 かつて、「田植えより勉強を・・・」というお母さんや、「校庭に田んぼがあるから…」という先生の認識不足を話題にしましたが、ぼくがいちばん気になるのは、こうした誤解に基づく自然体験の「中身」です。子どもたちの自然体験は、おとなの「紅葉ツアー」や「視察旅行」・「温泉めぐり」などという、感覚とは全く異なる視点がなければなりません。それは先述の科学者たちの自然体験を考察すればわかります。
 自然に浸り、ものに感じ、ものに触れ、そしてその謎や不思議に目覚める・気づくというステージが必要なのです。指導するお父さんやお母さん・先生方が自然に興味をもち、おもしろがる、という前提があって初めて、子どもたちの興味や好奇心が立ちあがります。そしてそれは何も理科や生物に対する関心だけではなく、もっと広く感性の陶冶であり、勉強(学習)に対する興味の喚起になるという視点がたいせつです

「夢の教科書づくり」は道すがら
 出会いで決まる「今日のテーマ」。理科や生物だけに限りません。

 田舎を歩いていると、さまざまなテーマが見つかります。流れの一例です。
 木・年輪・細胞・組織・形成層・死んでいるけど生きている・洞・校倉造・木肌・葉・呼吸・太陽と生長・光合成・養分・タンパク質・デンプン・脂肪・陽樹・陰樹・樹液と昆虫・樹液の意味・成分・広葉樹・針葉樹・温度・落葉樹・常緑樹・空気浄化・オゾン層・防火・地震・千年もつ木造建築・材木の切り方、作り方の相違による耐用年数のちがい・のみ・のこぎり・宮大工・法隆寺・柿・さるかに合戦・木登り・折れやすい柿の木・イラガ・昆虫・被子植物・裸子植物・種子・世代交代の方法・ユズリハ・竹と木・地崩れ・山崩れ・噴火・溶岩・遷移・植物の上陸と進化・コケ・シダ植物・・・。

 なお、これらの項目のすべてを一度の課外学習で話すわけではありません。また、テーマはここに紹介したものに限らず、目的地・出遇うものやコースが変われば大きく変わります。流れの前後やテーマ同士のつながりがまったく変わってしまうこともあります。自然は季節の中で常に変化しているし、自らと子どもたちの経験やタイミングで話したい内容が変わることも大いにあるからです。年間の課外学習総体で話すボリュームはもっと大きくなります。
 これらの学習はよく知っている道筋・見慣れた景色の中で指導を展開することで、より効果を生みます。年間を通して変化していく自然のようすもわかり、環境と生命の営みを総合的・立体的に捉えられるようになります

 こうしてくり返す子どもたちとの共通体験と観察は、ふだんの教室での指導にも力強いパートナー・バックグラウンドになってくれます。学習対象や学習内容のイメージがはっきりすることで理解が深くなり、印象は強くなります。実体験という裏付けとそれによるイメージのふくらみは、子どもたちの学習に近しさと自信をもたらし、学習姿勢や学習態度もより積極的に変えてもくれます。つまり前段の「田植えより勉強」というお母さんや、「校庭に田んぼをつくったから、それでよい」という先生は大きなまちがいをおかしていることが、これでわかると思います。そんな時々隙間から覗くような自然体験ではない自然体験が子どもを育てます。
 

例えば、秋のミカン狩り。ミカン栽培は、「植物の育ち方」についての格好の体験学習です。ミカンづくりの作業に触れ、体験内容に応じて学習知識や周辺知識をタイミングよくフォローすれば、植物の学習すべてに波及させることができます。

 ミカンはポピュラーな果物ですが、みんなが知っているのは八百屋や果物屋でワゴンに並んでいる姿です。実際は「ポピュラー」ではありません。おそらく学校で植物の学習が終わっても、「ミカンはあいかわらずミカンのまま」でしかありません。このようにポピュラーなものほど、ポピュラーではないのです。「お店で見るミカン」が学習内容とともに興味深く立ち上がってくることはないでしょう。子どもたちの現行の学習の問題点がそこにあります。「日常生活また何気ない環境の中で、『学習内容』が思い起こされる」印象的な勉強になっていないのです
 教科書や参考書の学習がきっかけとなって、通りかかったお店のミカンやいつも通っている道端の樹木が存在を主張しはじめると、学びは次の段階に進みます。よく見たり、観察するきっかけができます。それによって学ぶ面白さが生まれることも大いに期待できます。しかし、「生きている日々と関連のとれない学びは、結局暗記に終わる」しかありません

 ファインマンやエジソンなどをはじめとする多くの科学者たちは、子ども時代の環境の中でおもしろさや不思議を見いだしていました。もちろん、現在より自然が豊富で、好奇心が行き場を誤ることも少なかったでしょう。
 であるならば、問題は受け手と環境です。つまり「気づく」あるいは「見つける」ためには自然環境に触れあう機会が多くあり、「受け手が周囲にはおもしろいことがたくさんあることがわかる」ようになっていなければなりません。それによって学習に対する興味をとりもどせるはずです。そのためには、日ごろから子どもたちのアンテナが、ゲームやテレビの方向ばかりではなく、周囲の自然環境にも向くような指導を実行しなければなりません

 たいせつなことは何気ない日々の生活の中で、学習内容が思い起こされるような機会がたくさんつくれること、目標はそういう指導です。それによって学ぶことが身近になり、不思議なことに気づき、おもしろいことを見つける眼が育ちます。「環覚」の育成です。
 「勉強という心の中にあるバリア」がいつのまにかなくなってしまっていること。受験や成績・評価の対象としてだけの勉強ではなく、学ぶことそのものが興味深く、意識しないうちに学んだり調べたりできるようになってくれること、究極の目標はそこにあります

心の中にテーマパークを
 キャンプや遠足・社会見学など、総合学習は、ふつう目的地での指導や展開しか考えられていません。目的地での行動だけが目的であれば、週末に遊園地やテーマパークに行く発想とあまり変わりません。それは、いわば「ハレの日」、特別な場所で、ふだんとは異なるシチュエーション、特別なことを学ぶという感覚での学習です。

 エジソンやファインマンやファーブルはテーマパークや遊園地にいって天才を発揮したのではありません。ふだんの遊びや何気ない生活の中で興味を引く対象を見つけていきました。ファインマンがおもちゃの荷車に乗せたボールの動きを見て不思議に思ったり、エジソンがさまざまな自然現象に興味を広げていったのは、ごく平凡な日常生活でのできごとです。日々の生活の中で不思議なものに気づき、おもしろさを見つけ、それに夢中になり、考え、調べ始めました。

 「遊びに行く」遊園地は何度も通えばたいてい飽きるし、興味をかきたてるイベントは「あなた任せ」です。しかし、毎日「自分だけの新しいイベント」に巡り会うことができれば、こんな楽しいことはありません。科学者たちはディズニーランドやUSJを、自らの心の中につくりあげたのです。「おもしろさを求めにいったのではなく、おもしろさを発見できるようになった」のです。学ぶことがおもしろくなるためには、心の中にそれぞれのテーマパークや遊園地ができなければなりません

 これらの例から振り返れば、おもしろくて仕方がない「勉強」が始まることは決して「偶然!」ではありません。ふだんの生活シーン・街中でも自然の面白さや興味深い出来事はかくれています。それに目が留まり、わかるようになれば、あたりは夢の教科書に変わります
 自然と一体感がもてる高揚感のある野外で、子どもたちの感覚も鋭く立ちあがり、強く印象に残ります。気持ちにゆとりがある郊外では、道を歩いているときでもおもしろいものに目が留まり、不思議なことに気づくきっかけづくりをすることができます。おもしろさを見つける環覚を育てるには、このように、一緒に目的地へ向かう「道程」こそ重要な役割を果たすのです


勉強のできる子を育てるには21

2017年04月01日 | 学ぶ

自ら学ぶことでわかること
 以前、西大和学園から京大に進んだOBのY君の大学受験に際して、ぼく自身が英語を読むための再学習を始めて原書が何とか読めるようになった話をしました。ぼくの場合、こうした「同時進行」の自らの試みや経験が子どもたちを指導するのにも、とても役に立っています。「新しく学習する方法」や「わかる」ということの意味の再検討です。

 年齢を重ねるとともに、自ら何か新しく学習をはじめるという経験は少なくなります。受験以来ご無沙汰という人もいるのではないでしょうか。小さい頃の勉強のようすや「わかった」、あるいは「わからなかった」経緯や体験をしっかり覚えている人は少ないと思います。特に「わからなかった経験」は思い出したくもないもので、いやな思いが残っているだけでしょう。
 なかには頭が良くて「すべて分かった」人もいるかもしれませんが、簡単にわかったがゆえに、「わからないことがわからない」というジレンマがあります。その経緯やしくみを追求すればよいのですが、自分はわかるのに、忙しい時間を割いてわざわざわからないところをわかりやすく考える必要性はないし、既に他の人がわからないところがそもそもわからなくなっていることも多いでしょう。

 身近で誰に教わることもなく、ひとりで学習(シナリオの手習い)を進めていると、はじめて学習する人の気持ちや状況に改めて目が向きます。そしてY君との英語学習の時もそうだったのですが、「わからないということがよくわかる」ようになりました。
 おとなになると、わからないことを考えるのが面倒になってあきらめたり、見て見ぬふりをして通り過ごしてしまうことがほとんどです。つまり、わからないこと・むずかしいことを、強いて考えないようになる。考える機会がない。考えないことが「当たり前」になる
 しかし、子どもたちはそういうわけにはいきません。「学習の真っただ中」です。すべてを学習し(どれが、何が役に立つかさえ分からない)、何とか理解し、生きていくためのスキルを身につけようとしている存在です。周囲や環境の成り立ちとしくみに出会い、それらを理解したり、研究したり、利用したり、発明したりすることが将来生きていくことです。「なんとなく(!?)でも、生きていくことができるようになった」ぼくたち(おとな)とはあるべき姿が大きく異なります。
 「できない」「わからない」では済まされない。もしかすると、そのひとつひとつが子どもたちの将来の可能性の消失につながっているかもしれません。「自ら学習すること」に限らず(!)、「成長し続けてきた間に消失し続けてきた」可能性が、現在子どもたちにはまだほとんど残っていることさえ忘れてしまっている(きちんと目を向けていないことが多い)。そして、それを追ったり、とりもどそうとする姿勢も思うようにならない環境に身を置かざるを得ない。ぼくは大阪の片隅の学習背景・子育て環境に目を向けながら、日々そう感じています。

 こうした自らの反省や振り返りをしっかり伝えることで、子どもたちが少しずつ日々のふるまいや習慣・時間のたいせつさに目を向けるようになっていきます。気の遠くなるような指導ですが、家庭の協力があれば、その子なりに着実に身につけていきます。

鉛筆が一本
シナリオの関係から「創作」にかかわる本を芋づる式に読んでいて、こんな一節に行き当たりました。(引用は「久美沙織の新人賞の獲り方おしえます」徳間書店 p14)

 ちなみに、それまでの一週間の「芋蔓」は、「3年でプロになれる脚本術」(尾崎将也著 河出書房新社)→「SAVE THE CATの法則」(ブレイク・スナイダー著 フィルムアート社)→「シナリオ作法四十八章」(舟橋和郎 映人社)→「ストラクチャーから書く小説再入門 K.M. ワイランド著 フィルムアート社」→「荒木飛呂彦の漫画術」(荒木飛呂彦著 集英社新書)→「小説と科学」(瀬名秀明著 岩波書店)→「久美沙織の新人賞の獲り方おしえます」(徳間書店)。
 「作文」の指導講義風景を再現しながら、
 
 まだ何にもかいていないひとは、とにかく最初に、なんでもいいですから、かきはじめちゃってくださいね。最初の一文字をかきださないと、絶対にかき終われませんよ。(「久美沙織の新人賞の獲り方おしえます」徳間書店 p14)
 
 ぼくが子どもたちに「書くこと」、「『鉛筆が一本』指導」をするときや、記述式の解答を求める問題に「何も浮かばなくても、まず『アイウエオ』でもいいから書け」と言っているスタイルを思い出しました。
 文字に表現するとき、あるいは「自由に書きなさい」と言われたとき、好きなことを書けたり、升目を埋められるのは、「既に書くことができる子」なのです。自由作文で「好きなことを書いていいよ」と云われても、最初は、「その好きなことが考えられないし、好きなことがわからない」。それが子どもです

 幼稚園の頃、田舎に住んでいたぼくは、「お絵かき」の時間に「好きなものを描きなさい」と言われると、いつも「クジラ」しか描かないので、「ちょっと問題がある」と担任の先生から母に連絡がきたようですが、幼稚園の園長をしていた母は、先生の云うことを全く相手にしなかったと云います。おそらく母が園から持ち帰った「絵本のクジラ」に強烈な印象を受け、ずっと頭から離れなかったのでしょう。この記憶に「自由に書きなさい」という、作文やお絵かき指導の無責任さがはっきり表れているような気がします。

 写真を齧った経験からすれば、「自由に書きなさい」という前に伝えなければならないことがあります。教えておかなければならないものがあります。「ここにこんなきれいなものがあるね」「あの雲の形おもしろいじゃない」「あの葉っぱとこっちの葉っぱ、色や形がちがうね」・・・。
 そうした指導を重ね、感じる、よく見る、よく聞く経験があって初めて、好きなものを書けるようになるわけです。自由に書くものを選べるようになって後、ひらめきやヒント・アイデアも生まれます
 周囲に対する「環覚」、それらを教えないで、ただ「自由に書きなさい」、「好きなものを描きなさい」だけでは、無責任も甚だしい。子どもの指導はそこからスタートすべきだと思います。それによって、自分のモチーフやテーマが生まれてくるのでしょう。「何を書いていいのか」、「自分の好きなものは何か」が未だわからない段階・状態で子どもたちに責任や判断を押しつけるのは「責任放棄!」以外の何物でもありません。

 ぼくの「『鉛筆が一本』指導」は、「まず鉛筆をよく見なさい」から始まります。色・長さ・形・削り方・芯の減り具合・傷や塗料のはがれ・噛み痕・印字・・・。鉛筆ひとつの中に、「思い」を掘り起こせる「きっかけ」がいくらでも見つかります
 テスト中、芯が折れてしまったことやおじいちゃんにもらったお祝いのものであったり、友だちと交換したものであったり、転がして遊んだり・・・と、鉛筆にかかわる想い出や感想をたどっていくと、次第に「話が掘り起こせる」ようになります。書くというのはそういうことです。それらを書いていくことで、「考えながら書く」「考えていることを書く」という『書くしくみ』が頭の中で養われていきます
 もちろん、この「考える対象」は鉛筆に限らず、手近な身の回りのものであれば何でもよいわけです。肝心なのは、その対象について、観察する・思いを巡らすという「書く前提が養われるものでなければならない」ということです。


 何も書けないところからスタートしても、こういうトレーニングと『アイウエオでもいいから書くこと(見る前に跳べ?!)』を続けていくと、書くことが苦ではなくなります。小さい子たちの表現力を養うには、こうした方法が大きな効果を発揮します。
 指導するほうも、書くことに悩み、描くことに苦労して、その悩みに真剣に向かうことで子どもたちに対する指導(法)も見えてきます。ぼくは英語やシナリオの学習(自学)をすることで、「受け売り」でない方法を手に入れました。「指導書や教科書通り」では「平均値の有効性」です。「自ら個に戻ること」で有効な(指導)方法が明らかになります。