『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星、宇宙の誕生と死⑥

2017年06月24日 | 学ぶ

「蛍狩り」も無事すみました。川遊びの時間はあまりなかったけど、初めての団員もいるので、赤目のロケーションを紹介し、「雰囲気になじんでもらうこと」ができたと思います。

 渓流教室の射的大会で駐車場を借りる百地三太夫の末裔の上田屋さんにお会いし、ぼくが四半世紀通っている川沿いの見晴亭の社長に挨拶し、もちろんお世話になっているグリーンビレッジの玉置さんご夫妻も覚えてくれたことでしょう。渓流教室の予行演習です。
 その地のようすを把握し、行動範囲を見て歩くと、次の機会に「見るもの」や「見ること」「考えること」が変わります。一段深くなります。そこから「珍しいもの」を発見したり、「不思議に思うこと」が現れます

 今の子は(大人も)、一度行ったところは、「知っている」と思って再訪するのを嫌がる子(人)もたくさんいますが、果たして、ほんとうに知っているでしょうか? 団の子どもたちから、今まで、そういうことばを聞いたことはありません。子どもたちは見るもの・聞くもの・触れるものが小さな驚きの連続です。
 「それでも何年かすると飽きるのでは」と思うかもしれませんが、それは好奇心が磨滅した大人の感じ方です。子どもたちは決してそんなことはありません。子ども相手の取り組みを考える際は、そうした感覚の相違をまず頭に入れておかなければなりません。

 見るもの・触るものがみんな、「知りたいこと」だからです。知っていると思っているものでも、知らなかったというハプニングの連続です。もちろん、主催する方は、その小さな驚きを探せる目・その秘密を教える指導も必要になってきます
 おとうさんがファインマンを森の中にいざなったとき、まず、自分が知りたい・見てみたいことがたくさんあったのでしょう。お父さん自身が毎年、その変化や推移が気になっていたはずです。しかし、ほんとうは、一番知りたくて楽しみにしていたのは、その推移を見知って興味を深めていく我が子の変化だったのかもしれませんね。ぼくも、子どもたちと行動をともにしながら、それを一番楽しみにしています。その一例です。

 赤目や飛鳥で宿泊すると、ぼくはいつも「眼鏡」をなくします。そのため。眼鏡のチェーンもいろいろ、飽きるほど試したのですが、どれも一短(!)一短で、良いものがありません。いつもポケットや手に持っているから、指導に夢中になると、眼鏡は、すばやい甲虫のように、すぐどこかへ姿を消します。ここ5年でも、7個ぐらい、山にプレゼントをしています。
 今年も、きれいなオオセンチコガネを見つけ、森の湧水で、川のはじまりの説明をして山を下りはじめると、眼鏡が見当たりません。「またか!」と紛失を口にすると、6年のF君が間髪を入れず、「探してきます!」と大きな声。それに呼応してみんなが山をかけ登っていってくれました。


 「山の中で探す癖」が身に付き、「眼と勘が鋭くなった」彼らは、すぐ見つけてきてくれました。上級生がいたのですが、4年生の時から、「やがてF君をリーダーに」と思っていたので、その成長がうれしく、感激しました。
 どんな組織でも同じですが、リーダーが「ちゃらんぽらん」だと組織はバラバラになります。目的を果たし、目標を手にすることはできません。逆に、バランスの取れたリーダーがいると、組織に限らず、メンバーみんなが少しずつ成長します。子どもたちの今後が楽しみです。

子どもたちは、何から学ぶか? 何を知りたいか?
 左は、ずいぶん前にも紹介しましたが、ぼくがお父さん・お母さんたちに、ぜひ子どもたちにプレゼントしてほしい、と思っている本です。子どもたちが興味をもちそうな身のまわりのものの疑問やなぞについて、その理由やしくみをわかりやすく説明してあり、科学への興味や学習の次のステップへの導入にはぴったりです。

 誰に応援を頼まれたわけではありません。ぜひ手に取ってみてください。身近な謎や不思議が理解できること・納得できることで、子どもたちの「環覚」がはたらきはじめます
 さて、科学の良い本は、今までにも、あるいは現在でも僕の目の届かないものを含めて、いろいろあると思います。「本を読んでほしいから、勉強ができるようになってほしいから」と、本はそろえてもなかなか思い通りにはいきません。それは、本をそろえる以前の問題です。

 大きな原因は、子どもたちが自ら、その不思議を呈するものに「ねんごろに(!)」直に触れ合う機会がすくない、経験がないということだと思います。  
 たとえば、ファーブルは一日中「虫」を見ていたようなことがよくあっただろうし、エジソンは教室での「読み・書き・そろばん(!)」を嫌って先生の嫌われものになりました。外へ行きたかったからです。ファインマンはお父さんとの小さいころからの森のなかや環境を「科学的に見る・考える」習慣によって、経験を積み重ねていました。それによって考えること・調べること、つまり「抽象」に向かいました。
 本で「どうなってんねん!」と調べる前に、「どうなってんねん」「なんでや」という経験がなければ、そもそも好奇心は機能しません。「そこを見切れないところ」に、「大人と子どもの『大きな感覚と視点の違い』を考慮に入れられないところ」に、その後の展開の大きな相違が生まれるのでしょう。

 同じ本を手にする機会があっても、環境に恵まれる幸運な偶然や周囲の努力(たとえばファインマン)で環境や自然のおもしろさを見知った子と、ただ観念的に「科学の本だけを与えられた子」の大きな相違です。
 子どもたちは小さいころ、そもそも抽象する能力が未発達なわけですから、「抽象」ではなく、すべて「具体」から入ります。「総合」ではなく「個別」からです。対象を知らなければ「総合」できないし、「抽象」できません
 抽象すべき材料がない段階で、抽象がおもしろいわけがありません。大人は大人ですから、じかに観察したり子細に検討したりしなくても、形や概要ぐらいは大抵知っています。その感覚で判断します。そのずれが「大きなまちがい・判断ちがいのもと」になります。
 たとえば、先の「科学の不思議な話365」(日本科学未来館監修 ナツメ社)ですが、少ないながら、そうした小さなずれが存在します。443ページに、「寒いときの鳥肌」の説明があります。ちょっとハゲエモン少年(3年生!)が読んでいるようすを紹介します。
 
 ・・・「鳥はだは、もともと、さむいときにからだから熱をにがさないようにして、からだをあたためるしくみです。」(フム、フム、)
 ・・・「毛の根元にある筋肉がキュッとしまって、毛がぴんと立ちます。」(なるほど~)
 ・・・「ほんものの鳥や、からだがフサフサとした毛でおおわれている動物がこのじょうたいになると、からだ中の毛がフワッとふくらみます。」(そうなんや~)
 (中略)

 ・・・こうして毛をふくらませると、からだの熱が外ににげず、あたたかいのです(ナッ、なんでや~)
 ここ(下線部・南淵)がたいせつなのではないでしょうか。毛をふくらませると熱が逃げない。そのしくみを、一応イラストで描いていますが、これだけではわかりません。大人が作ったからです。
 さらに敷衍すれば、ここには断熱のしくみ・空気のはたらきや恒温動物の存在があるはずで、子どもたちが不思議を感じたり、興味をもつのは、こういうところです。そしてここから、「風呂上り」や「ダウンジャケット」や「亀の甲羅干し」のはなしも、教室ではできます。エアコンが活躍している今は、鳥肌さえ見る機会が少ないのではないでしょうか。個別や体験から科学は始まるのです。

「蛍狩り」のスライド作成2
 先週、蛍狩りのスライド・テキストの説明で「和漢三才図会」の説明までしました。

 さて、左の写真を見てください。ディベートは好きではありませんが、ぼくは何はさておき、子どもたちに、正しいか・正しくないかは、自分できちんと判断できる子に育ってほしいと思っています。
 あいかわらず、世間の数々の不祥事や情けない現状を目にして、あきらめるのか否か。根本のところを振り返ってみれば、最終的には個人がどうであるかというところに行きつきます。それがあっての「国民主権」です。教育です。

 惑わされず、流されず、正しい判断を続けられる人に育ってほしいのです。「スケベ―」であろうと「頑固」であろうと、その他モロモロの本質から外れたこと、そんなことは大したことではありません。正しい判断を積み重ねていくこと、いけることで、社会はうまくおさまります。ほんとうは、何がたいせつかです。惑わされてはいけません。流されてはいけません。そう教えたいと思っています。

 「蛍の光」。ぼくは右でも左でも真ん中でもない道、MY WAYを進んでいますが、「蛍の光」のメロディと一番・二番の思いやり溢れる歌詞は大好きです。三番・四番の歌詞に問題が含まれているのは、正しく判断すれば、だれの目にも明らかですが、「蛍の光」のよいところ・よくないところを自ら咀嚼して、きちんと説明すること、それが学習指導だと思います。

 「蛍雪の功」の故事をきちんと説明して、文語文や漢文も紹介したい。係り結びでの細やかなニュアンスやことばの奥行。それらを伝えること。それが狙いでした。そうしてこそ、考えを物することができます。よく考えたうえで、しっかり自分で感じ、判断すること。できるようになること。そうあってほしいと思っています。

 さらに、「仰げば尊し」は、「こうした仲間たちと学校のあること」が、「心のよりどころ」になる時代が来なくてはいけないのではないか。「たくさんの友だちや先生との間の、きめ細やかな思いやり」が存在してこそ、心豊かな学校生活を送れ、記憶に残る人生の一ページとなるのでしょう。

 くわしい意味さえ知らされないで、「付随する過去の遺物」のように蹴散らしてしまうのは、果たしてどうなのか? そんなにぼくたちの感性は変化してしまったのか? 様々な思いが浮かんでくるので、徹底的に説明しようと考えました。さらに、そうすることで、「蛍の光」の光という物理現象や光の学習も、より鮮明に印象に残ってくれると考えたのです。

 「蛍の光」の後は、いよいよ「よく見るホタル」の紹介。その見分け方。餌と水質の変化の関係。水質の指標になる川虫の紹介とフライフィッシング。完全変態のホタルの一生。完全変態と不完全変態の虫たち。そして、ホタルの発光器と発光のしくみに触れます。

 蛍の「光」が出てくると、先述の「光のしくみ」に触れていくことができます。先の「蛍雪の功」で触れた車胤の「蛍」と孫康の「雪」の、それぞれの光の相違について考えてみます。ホタルは光源であり、雪は反射光です。
 先週漢字のつくりの指導紹介をしました。ここで、「蛍雪の功」で出てきた「光」と「映す」と「照らす」について、「漢字と意味」を敷衍することができます。これらの漢字はどのように作られているのか? そのしくみに考えが及びます。これらの前提の先に、「光のしくみ」や「光の三原色」・「色の三原色」が登場します。

 以下次週。


石ころと星、宇宙の誕生と死⑤

2017年06月18日 | 学ぶ

別れの予感
 寿命でも延びる(長くなる)とよいのですが、年をとると余分なものが長くなります。
 ・・・眉毛や耳毛。まだあります。おしっこの時間。仕事を終わらせるのにかかる時間。いやになるぐらい長くなります。

 眉毛や耳毛は、おそらく遺伝子の変異で、成長のコントロールがママならなくなる。ガンや様々な病気も、そうした変異が大きなきっかけになっているということでしょう。仕事の必要時間が長くなるのは=できることが少なくなってしまう、ということなので、これも困ったものです。
 昔は、仕事が終わってから、「きれいな人がたくさんいるところにいる時間」がどんどん長くなっていたのに、なんという相違だ。
 「別れの予感」、知ってますか?
 「泣き出して、しまいそう…痛いほど好きだから…、どこへも行かないで…」というテレサ・テンの「男心」をくすぐるメロディで、ぼくがドアを開けると、入場を見届けたきれいなお姉さんの誰かが必ず歌ってくれる、という日々でした(自慢か!)。


 タバコも酒も、いやというほど毎日のんでいたのですが、団を始めてから、子どもたちとの課外学習に精を出すようになり、息が切れ始めました。「子どもたちとの行動」と「タバコ」と「どちらがいいんだ」、「どちらがやりたいんだ」と問いかけることで、一日80本だったロングピースをやめることができました。
 また、数年前から飲んだ次の日、「頭の調子」がどうも気に入らないので、酒もほとんど口にしなくなりました。パーフェクトフリーかドライゼロで充分まかなえるようになりました。
 子どもの指導が、これほど自分のやりがいになるとは。想像以上です。

 やらなけれならない、「今まではすぐできたこと」が、なかなかできない。国際年齢軍との、生命をかけた(!)熾烈な戦いです。それやこれやで(笑い)いよいよ、ミリタリールックに磨きをかけなければなりません。
 さて、先日高校時代お世話になった先生が、お孫さんが団の指導で希望の中学進学を果たせたということで、遠路挨拶に来ていただけました。恐縮しきりです。とある学園の理事長をしていらっしゃるので、運転手の方がお待ちになっています。少し気持ちが楽になりました。

 縷々、思い出話や同窓の話が出ましたが、学校の後輩には女性の現役閣僚がいて、近くには引退した国連大使もいる、という話。先生は嬉しそうにお話しされていましたので、そういう「出世」を高く買っておられたように感じました(カン違いなら、ご寛恕ください)。
 へそ曲がりのぼくは、学生運動の現実を目の当たりにし、また現在も何やらキナくさそうですが、ほぼ「多くの取り組みが、さまざまに錯綜した人間の欲望と利権が、ただ覆い隠されただけ」に見える(!)「政治というありよう」に嫌気がさしています
 

政治は、みんな『わかっていながら目をつぶっています』が、弱い一人を切り捨てなければできない(だろう)から」です。「世の中を良くしたいのであれば(もちろん、ぼくも心からそう願っているがゆえに)、何はさておき、何よりも人育てである」、「一人一人の人を、今一人一人が育てなければ、世の中はよくならない」。
 信念です。生まれてから何十年かの観察と(十分な!)考察の結果、ずいぶん前に、そういう結論に達しました。人一倍、その現実は、残念に思っていますが・・・。

 先生との話の中で出たことですが、同窓数人との集まりが最近あったようで、その中で、「年をとるとゆっくりしたい」とみんな口をそろえたように話していたようです。ぼくは、「いかに『仕事』に夢中になれなかった半生だろう」と、話から想像できる、その人生の残酷さに唖然としました
 会社勤務のころ、ぼくもあくまで「生業」としての意識しか持てなかったので、気持ちはわからないことはないのですが、ぼくたちは本来、「自分が生きていること(!)」が「仕事になる」のが一番幸せなはずです

 「『好きでもない仕事』を続けて金を稼ぎ、その金をもってどこかへ行き、仕事の憂さを晴らす(なんのこっちゃ!)」という恐ろしい現実が、死ぬまでの多くの人の真実であれば、そこはほんとうに何とかしなければなりませんね。
 実は、指導の際、ぼくが子どもたちにいつも言い続けているのは、そのことなのです。「『自分が生きていることが仕事になる仕事』を見つけなさい」
 先日お話しした医学部学士入学のK君や、言語の発生の研究で4月にベトナムに長期留学に行ったY君は、きっとそうした道を見つけてくれるでしょう。うらやましい限りです。
 K君の近況報告からは、いつも「ぼくも頑張らねば」と力をもらえるのですが、2年前のぼく宛の手紙を紹介しておきます。

「蛍狩り」のスライド作成
 立体授業のテキストで、一番難しいのは物理・化学分野への導入・道しるべです。課外学習のふだんの取り組みは、どうしても生物・地学関連になり、どちらかといえば理科第二分野の傾向が強いからです。

 しかし、以前にも書きましたが、ファインマンは物理学者の妹の前で、あたかも電磁波を目の前で見ているように(!)物理現象を説明したといいます。つまり、「世界を『物理を通して』見ていた」のです。そういう視点が身についた時、学習は学習でなくなります
 つまり、「ふだんの生活における何気ない日常現象」の中から「科学の種」を見つけ出すことが、子どもたちの学習観や学習指導を大きく変えていくたいせつなポイントです。「環覚」の育成です

 蛍狩りのテキストについても、従来、「蛍」という昆虫の視点から抜け切れず、なかなか昆虫学習の指導の枠から出られなかったのですが、それを大きく変えられるきっかけを見つけることができました。
 ホタルの「光」です。光は「物理」です。また「光を見る目」は「生物」です。それらを中心に据えることにしました
 1ページ目は渓流教室の「赤目」の場所を地図で特定すること。室生赤目青山国定公園にあり、伊賀忍者の里です。忍者の紹介と、いつも子供たちが遊びでお世話になっている上田屋さんは伊賀忍者の末裔です(2ページ目)。

 これらの紹介を重ねることで、地理の材料が豊かになり、印象に残ります。遊んだ「赤目の滝」は、典型的な渓谷で「忍者の修業の場」。天然記念物オオサンショウウオの生息地です。
 3ページ目は、後に出てくる「光のヒミツ」を解き明かしたニュートンの言葉の紹介です。ニュートンの言葉を、拙訳で紹介します。
 

 「わたしという人間が、世間の人の目にどう映っているか、知る由もないが、自分では浜辺で遊んでいた子どものようでしかなかったと感じている。時折、ふつうよりちょっとつるつるした小石やきれいな貝殻を見つけて気晴らしをしているようなもんだったよ。目の前には数え切れない未発見の真理の大海原が横たわっているというのにね」。
 
 この言葉は、ニュートンの謙虚さを表しているという感想が多く寄せられていますが、もちろんそれを否定はしませんが、ぼくは、何より、ニュートンの「後に続く若い人へのエール」だと受けとりたいと思います
 「ぼく(ニュートン)でさえ、多くの真理を前にして限られたことしかできなかった。どうか君たち、偉大な発見を積み重ねていってほしい。時間は限られている…」という
 だから「きみたちはニュートンの、この言葉から何を思うだろう?」というわけです。受験という小さなくくりでしかものごとを考えられなくなってしまっている子どもたちや先生、お父さん・お母さんがもっとも忘れてはいけない言葉だと思います

 4ページ。次は文字・ことばです。なぜ「ホタル」というのか? なぜ「文字」が生まれたのか? 「蛍」という字はどうしてできあがったか? を問いかけます字や言葉は、ほとんど意識もされず、当たり前のように使われているが、そこにも大きな謎や秘密があります。

 5ページで、その秘密を歴史的に考えていきます。貝原益軒が出てきて、歴史の知識が印象に残ります。そして「六書」(6ページ)。7ページは和漢三才図会の紹介です。これによって、元禄前後に学問や文化が急激に発達してきただろうことが想像できます。
 さて、明日から(17~18日)蛍狩りです。田植えとの間が一週間しかなく、雑用も次から次と、一人での準備は目いっぱいです。子どもたちは楽しんでくれるでしょうか。
 以下次週。


石ころと星、宇宙の誕生と死④

2017年06月10日 | 学ぶ

カッコいいあなたに
 「宵越しの金をもっていない」家に生まれ、「宵越しの金をもたない」『江戸』でおとなになり、「宵越しの金をもてない」生活を続けていると、逆に「お金よりもたいせつなもの」がよくわかります。昨日(6日)は、そう気づかされた一日でした。

 子どもたちには好評の「ハゲエモンカレー」を自分用に作るのが面倒になっているので、三番目に気に入っている鶴橋駅近くの「上等カレー」に向かいました。ルー・ごはん大盛りのビーフカレーの食券を購入した時、財布はあったはずです。
 ズボンの後ろポケットに入れるので、長財布から二つ折りに換えていたのですが、ポケットの浅いタイプのカーゴパンツだったので、落としてしまったのでしょう。「人混みが苦手、心斎橋もできるだけ通らない」ようにしているぼくは、「コリヤタウンに行く人でいっぱい」の大通りより、人気の少ない裏通りがMy wayです。いつもの細い道をチャリンコ飛ばして「快適に!」戻り、ふと確認すると財布がありません。

 中には入金しなければいけない額が入っていたので、ぼくにすれば少なくありません。慌てて同じ道を「上等カレー」まで戻りましたが、見当たりません。
 かなりショックで、近くの交番に駆け込むと、太った優しそうなお巡りさんが、大声で電話中です。ぼくの方をチラッと見ましたが、そのままです! 無視かァ!?
 仕方なく丸椅子に腰かけようとすると、おまわりさんの目の前に、見慣れた財布と中身が広げられています。「・・・二つ折り、黒革です。カードが7枚。」「・・・そうです。住基カードがありました。本人確認ができます。・・・今来られたようです・・・」。

 無事、財布は手元に戻りました。
 年をとると身体がカッコよくなくなり、着るものがカッコ良く着れなくなり、かっこよいことを考える精神的な余裕もなくなります。カッコよい生き方がなかなかできなくなります。

 年をとってこそ、不細工な生き方はしたくないのに。「好意」を、身に照らし合わせて、反省しきりです。
 「礼は要りません、男も女も言わないように」と、名前や年齢も告げず、交番に財布を届けてくれた「あなた」。久しぶりに「カッコよさ」を教えられました。
 「出てこないだろう」と、狭い料簡だったぼくに、「『カッコいい』子どもを、もっとたくさん育ててくれ」というエールだと受け取りました。「拾得場所は鶴橋2ノ17…」ということで、きっと顔なじみの方だと想います。ありがとうございました。

マタギのナイフと大量生産ステンレス包丁
 現在の受験指導・学習指導を傍から見ていると、それぞれの受験料理を切れる安物のステンレス包丁を買いそろえ、子どもたちに料理をさせているような指導に思えてきます。それぞれの科目や問題に応じて、出刃包丁・刺身包丁・菜切り包丁・パン切り包丁・・・ペティナイフをという具合に。買った当時は、それなりによく切れ、一応体裁良く料理を仕上げることができるが、残念なことに、砥ぎ方まで教えてもらっていない
 研ぎ方を教えてくれる「お店」で買えばよいが、そんな「店」はほとんどない。研ぎ方も教えてくれなければ、ほかに良い包丁があることも教えない。

 すぐに使い物にならず、そのままゴミ箱行きです。使う方は「また買えばいい」というわけです。ところが、「すぐに切れなくなる」包丁ばかりだから、そのうち使うのも嫌になって、まったく使えなくなってしまう
 この「包丁使い」の「包丁」を、「学力」や「能力」に変えれば、今の受験体制が見えてこないでしょうか
 ぼくはまったくひとりで指導していますから、もちろん、すべてにパーフェクトというわけにはいきません。限界があります。
 しかし、勉強以外でも日ごろ行動を共にして気心が知れている子どもたちは、ぼくが真剣に悩んだり、叱ったりする姿からも学んでくれます。そう信じています。そして、「学体力」や「問題を追い詰める姿勢」は、一人だからこそ充分伝えることができます。
 子どもたちに(こういう話は、特にOB諸君に)よく話します。

 「・・・君たちにいろんな包丁を用意してあげることはできないかもしれないが、マタギのナイフはどうなんだ。昔は出入りの鍛冶屋に作ってもらったり、見よう見まねで自分でつくったんだろう、きっと。 ぼくは不格好でも、手作りの良く切れるナイフをつくる応援はできるつもりだ。 『出刃包丁を忘れたので魚がさばけない』、『刺身包丁がないので薄造りはできない』なんてことになったら困るから・・・マタギのナイフは猪だって裁けるよ。 川原で砂鉄を取ってきて、鞴を使い、鉄を鍛錬し、自分のナイフを打てるようになることがたいせつなんだ。研ぎ方や手入れの仕方も学んでおけば一生困らないだろう?」。

田植え」からわかる生命のつながり
 明日日曜日は「田植え」です。立体授業のスライドも新しくなりました。

 課外学習や日常の指導を通じて、学習事項に対する親近感、気づきを養ってもらうことが立体授業の大きな狙いです。「環覚」の育成です。
 子どもたちの中で環覚が育っていくにつれ、学習することの意味や、自らが生きている環境や日常について「考えること」そして「わかること」が増えていきます。学習するモチベーションが「受験(学習)」を、はるかに乗り越えていきます
 京大の大学院を出て就職後、医師を志し、学士入学で神戸大の医学部に進んだK君、同じく京大に進んで音韻学に興味をもち、今年「言語の発生の研究」に、ひとりベトナムに旅立った京大大学院のY君、中学で登校拒否をしゲームセンターで遊んでいて団の2年間の学習だけで京大の理学部に進んだM君・・・頼もしいOB諸君ばかりです。

 ぼくたちは日々、自らの環境で外界を感じ、対象に触れ、「学習」と「考えること」を進めていきます。そして、それらの総ては、よく考えれば、どれも分かちがたく結びついています。つまり、逆に、一つの対象を見るとき、そのひとつだけでは「学べること」や「考えること」が限られてしまいます。「大きな見方・考え方」ができません。それを何とか伝えたいと指導した諸君たちです。

 学習を進めはじめる小さいころは、さまざまな対象の多様なつながりについて、その関連や相互作用がわかるほど、考えが深く正確になり、おもしろくなります。それらを立体授業のスライドやテキストの根底に据えたいといつも考えています。
 試行錯誤が毎年続きましたが、今回の「田植え」のスライドで、その方向が見えてきました。

 そのストーリーとスライドの一部を紹介しておきます。
 
  毎日の食事の例→三大(五大)栄養素→三大栄養素の消化と吸収→ハンバーグの材料→食品の源→調味料や香辛料の源→植物への集約→食事する理由→体内でのエネルギー取り出しのしくみ→植物と動物の同化と異化→子どもたちの田植えの写真→田んぼがあるのはどこか→山から海への食物連鎖例→食物連鎖はエネルギーの移動→イネと人間も食物連鎖の一員→鷹の一年の食物量と食物連鎖→捕食者と被食者の関係→光合成のしくみ→山の土はどうしてできるのか→山の消費者と分解者→山の湧水→ブナ林の環境→ぼくたちの命を育む森の水と四季→田んぼの水と土・・・略。
 

 立体授業のテキストを子どもたちに配布した時、保護者のみなさんに渡した案内です。


2017年6月8日

               「立体授業」テキスト配布について

 団員保護者のみなさま
 
 いつもご理解をいただきありがとうございます。お知らせです。
 本日、6月11日の田植えの立体授業テキスト(「田植えでわかる生命のつながり」)を渡しました。
 立体授業のテキストは、課外学習をより効果的に学び、自らの周囲に対する気づきやひらめきを豊かにするための案内になります。学習が机上の学習・受験のために止まらず、日々学び、考えるべきおもしろい対象である、という認識に導きたいと企画立案しているものです。
 試行錯誤していた(今も毎日しています)のですが、今回の「田植え」の指導テキストは、「田植え」については、何とかぼくが描いている理想に近い流れになってきたのではないかと感じています。
 こうしたそれぞれの課外学習の取り組みに対する立体授業が確立して、「子供たちの将来にわたるおもしろい学習」が成立する、そう考えています。手にとって、感想や意見を聞かせていただければ幸甚です。
 
                                                      学習探偵団

絵に描いた餅
 先日、久しぶりに小学校の理科の教科書「新しい理科」(東京書籍)の4・5・6年を通して読みました。一言で、「素晴らしい!」。
 これらを使って、ちゃんと教えることができれば、受験参考書なんて(!)、まったくいらない。そう感じました

 「子どもの立場に立っていない、味もそっけもない」教科書で「学ばなければならなかった」ぼくたちからすれば、うらやましい限りです。今の子どもたちに対するぼくたちのアドバンテージは、自然を自ら観察したり、その推移を見守って時間的にも季節的にも自然をトータルで考えられた身近な環境の存在です。それらによって「無味乾燥な教科書でも、『一定の価値』をもつことができた」のです。

 今のように、「バスや車で一瞬のうちに、『学習の宝庫』である環境を置き去り」にしないで済んだ、「ゆっくリズム」と「振りかえリズム」。それらが少しずつ『理解』と学習の『深化』を後押ししてくれました
 ファインマンのお父さんのように教えてくれた先生はいませんでした。しかし、ひとりの「ゆっくりズム」や「振りかえリズム」は存在していたのです。もし、ファインマンのお父さんのような先生がいてくれれば、きっと素晴らしい科学者がたくさん育ったでしょう。

 あの頃と比較にならない「豊かな学習材料」が詰まった教科書を使えば可能になるはずの、受験塾に行かなくてもよい(!)学習指導が生まれない問題点は、何処にあるのか
  一番の問題点は指導的立場にある、子どもを育てなければならないポジションにいる人たちが、「ゆっくりリズム」や「振りかえリズム」による生活体験や自然体験を経験できなかったことだと、最近考えるようになりました。

 つまり、学習内容そのもの、教科書は本来身のまわりの生活や自然に根差したもので、その源に触れることで、子どもたちの学習感が大きく変わるということが指導者や保護者がわからない。想像できない。思いつかない。
 「『日ごろの体験・生活を通じて取得できる学習を補助するイメージ群』が、学習を観念的な机上の作業から解き放ち、学習に対する疎外感を縮小できる大きな可能性にあふれているというイメージがない(湧かない)」ということなのです。

 以前紹介した「田植えより勉強を教えてほしい」というお母さんや、「校庭に田んぼをつくり田植えをするから」と「田んぼに行くこと(途中)のたいせつさを考えられない」先生は、その典型的な例なのでしょう。

 その指導や指導法を検討・追求・進化させない限り、事態は解決しません。検定教科書がすばらしく高みに昇っても、同時に、その指導法や指導の検討・研究を(強力に!)進めないと、文字通り「絵に描いた餅」・「池に浮かんだ月(!?)」に終わる可能性が大です。
 子どもたちを見ていて、近年のこれら教科書の進化が子どもたちの学習に反映しているとは、今のところ思えません。


石ころと星、宇宙の誕生と死②

2017年06月03日 | 学ぶ

日々の生活の空白化
 先週、「餅鉄探し」で「『石ころ』が宇宙の誕生から始まり、宝石にまでつながった」ことを伝えました。
 ところで、これらの指導内容や方法の探索には、何よりも子どもたちの現在の学習環境・学習に対する意識や指導に、「一石を投じたい(!)」というより「でっかい石をぶつけたい」という願いがあります。

 「学習」のありようは現在、「ごく」端的に言えば、一方では入学試験や受験問題・受験指導がどんどん先鋭化・歪曲化し、もう一方ではゲーム化・テーマパーク化された「先端学習」がそれぞれ「見場(!)」を争う、という具合です
 子どもたちが成長して生きていく上でもっともたいせつになり、確かな力になり、無限の興味や渉猟の対象になり、やがて信じられないほど大きく実る学習指導の対象は、もっと「日常生活に根差したSOMETHING」(であるべき)だと思います。「日常からこそ、学習(学び)は出発すべきだ」と、ぼくは考えています。

 いつも何気なく見ている周囲の事物や生き物や自然環境・生活環境の中で、これはどうしてか、この美しさは何なのだ、この不思議、この理由・その原因…それらが子どもたちの心の中で立ちあがることで、「探究心」が芽生え、小さな「研究者」が誕生します。それによって知りたいことが加速度的に増えます。学習(勉強)は不可欠(必要)になり、考えることが進みます。そうした成長が自らと社会を幸せに導き、その中から世界的な発見・発明や歴史に残る研究が生まれる・・・。

 こしらえられた「クイズまがいの問題」や「よく目を引くようにしつらえた出来合いの製作」は、「特殊」であり「イベント」であり、つまるところ「経済活動」である・・・。目をひくがゆえに、そしてそれ以外の対象が見えないゆえに、いつのまにかそれらだけがおもしろい・楽しいと目を奪われ、学習の「幻影」を見、誤解が続き、一方では入試合格のために、「正反対の」抽象の暗記や解答に忙殺されている・・・。子どもたちの現状です。
 そして、その間の最も充実させるべき「何気ない(?)日々」や「環境のSOMETHING」が、子どもたちの頭の中でも、現実にも、ドンドン「空白化」してしまっている。「何もない(?!)、つまらない日常(!)」だと誤解されてしまっている

 本来「生きていく力」「知的体力」を養成するべき学習が、「受験学力」と「知的好奇心の線香花火」にとってかわられているのです。「環覚」の養成の提唱は、それらの「いびつな日常」を少しでも元に戻したい、というささやかな試みです。もっと子どもたちの日々の生活や行動とともにある、「地に足の着いた」学習や「うわべだけではない」学習指導が求められるべき学習指導だと、ぼくは思います。
 
成り立ちとしくみのたいせつさ
 その指導の中身です。「餅鉄探し」の立体授業。
 石ころの「輪廻転生」はもちろん「地球の輪廻転生」の一環であり、「宇宙の・・・」と続きます。その過程にはすべての生命活動がともない、先週のガーネット・宝石の生成もふくまれます。すべて「成り立ちとしくみの『宝石箱』」です。

 ところが、今の学習は「子ども心や子どもの能力(!)」の「余計な詮索や忖度(!)」のうえに成り立っているようで、「『できるだけ総合的に、立体的に』ととらえていく」指導法は、学習指導では、まだあまり見られません。そこに大きな問題点があるように思います。
 ファインマンは、お父さんの膝の上でブリタニカの「恐竜の絶滅」が「隕石の衝突」だという原因を聞いたり、あるいは「森の中で実際に見る生態系の推移や食物連鎖の紹介」がおもしろくてしかたがなかったと追想しています。結局は、よくある生物の名前や抽象的な結論のみを暗記する受験学習と受験学習指導。その「殻」を、いい加減に破りましょう。学習の「比重」を変えていきましょう。
 「子どもたちの学習(指導)をもっとおもしろくする要因」は、何よりも、「対象の成り立ちとしくみの開示や不思議を解明するしかけ」です。あるいは、その「考察であり紹介」です

 自然現象ばかりではありません。ノーベル賞学者の益川さんは銭湯帰り、お父さんに「自動ドア」のしくみを聞いて感動したようすを振り返っています。これらはいずれも、ぼくらの日常(生活)の中の些細な構造やふだんは当たり前だと思っていたり、考えもしなかった対象の「成り立ちとしくみ」だということがわかります。

 子どもたちが、これらに興味をもったり喜んだりするのは、彼らが何よりも、「自らの生活環境あるいは『生活圏』のすべての対象に対して、本来興味を抱くように生まれついているからだ」とぼくは考えています。
 そうしなければ、強い力や鋭い牙をもたないヒトは「生活していけない」「生きられなかった」からです。「脳」を頼りに、周囲の対象を知悉し、その成り立ちとしくみを究め、その応用を考案し、利用すべき道具や技術を深化・発達させてきたのがヒトだからです。

 ところが、現状は道具や機械の発達が進化を極め、一部ではマニュアルがあっても理解が行き届かないような状況がどんどん発生しています。オール機械化、自動運転が発達すればするほど、こういう状況はさらに進みます。一部の優秀な人と、言葉は悪いですが「その他大勢のバカ」という事態が先鋭化していくばかりでしょう。
 ゲームの遊び方や使い方はよく知っていても、その中身のことは興味がない、わからないということになっていく・・・。これらは、先に考えたように、「成り立ちとしくみ」がわかることによる「知的興味」・「知的好奇心」の増強や発達とは相いれません

 進化に照らすと、「おもしろさがわからない(わかりにくい)・わからなくなる」方向です。ぼくたちが、今後子どもたちを指導する際に、より心がけるべきは、何よりも『成り立ちとしくみ』に対する興味や好奇心の喚起とその考察・開示だと思います

石ころと星、宇宙の誕生と死②
 さて、今年の「餅鉄探し」の立体授業のテキストは、かつてお手伝いいただいたOBのお父さんの「河原での写真」から始まりました。石ころを「話題」にしているシーンです。石ころがいっぱいある河原でのワンショットです。

 次の頁は、「石ころとぼくたちは親せきかもしれない」という問いかけ。そして星空に「流れ星の写真」(「素材辞典」より)です。次はその「星空」に「天の川」が見えるしくみを解説した写真。四季と星座の移り変わり、それから太陽系・銀河系・銀河団・宇宙の大規模構造とたどってみました。子どもたちは天の川が見えるしくみがよく分かったようです。
 次は恒星の一生です。太陽のしくみとその運命。太陽と地球・月の関係。さらに「ハビタブルゾーン」の説明をして、ヒトの身体と地球の元素の紹介です。

 石ころにつながらなくてはいけませんから、地球上、海洋地殻と陸をつくっている代表的な岩石とその成分。鉱物。
 続いて岩石の生まれるしくみ、です。まず火成岩から始めますが、プレート・テクニクスの説明もしておきます。そのエピソードに今回は「サヌカイト」を加えて、石器への橋渡しをしました。安山岩と花崗岩、火山岩と深成岩に鮮明な理解が生まれます。「黒曜石」の石器のレプリカを紹介しておきます。石器に必要な性質が実際に理解でき、「歴史」にも、もちろん「産地」(地理)への「きっかけ」も生まれます。理科と社会がリンクします

 次は、「餅鉄探し」への電車移動途中にある「山を崩した採石場」の写真で「岩から石ころへのイメージ作り」をしなければなりません。ちなみに課外学習に参加すれば、この山中の岩塊を車中から実見できます。「手に乗るような大きさの」石ころは、最初から手に乗りません。「岩盤」から始まります
 さらに川の流れの作用を紹介し、大きな岩が石ころになり砂になっていく過程を説明します。課外学習に必ず参加している子は、この経緯では飛鳥川の岩場での『亀穴』も想起します。

 ちなみに、かつてOB諸君とは実際に粘土を採取し、土器づくりをしました。粘土も岩石サイクルに収まります。その後、堆積岩・変成岩のでき方としくみ。これらによって、岩石サイクルが子どもたちの頭の中にきちんとイメージされます
 次は餅鉄の成分や磁石の話。今回スライドが長くなり、テーマが「ぼやける」といけないので、磁力と鉄についてはくわしく触れることができませんでした。次回の課題です。

 あと「化石採集」で子どもたちになじみ深いチャートは、ぜひ紹介しておかなければなりません。ところがチャートの紹介では、チャートも石器の材料だったことがわかります。先ほどの「サヌカイト」とリンクし、石器をつくる石に必要な特質が、火山岩の性質に現実感を与えます。さらに指導が立体的になります。
 立体授業では、こうして毎回「関連」や「しくみ」に触れることで、環境に対するなじみが深くなっていきます。環覚の育成です。子どもたちを「バカにせず(?!)、焦らず、回数を重ね」紹介していきます。
 「子どもたちにはむずかしい」と考えるのは、大抵おとなの独りよがりで、ぼくは子どもに失礼だと思います。ファインマンの例を考えてみてください。おとなもそれほど知っていますか? ぼくはあまり知りません。だから「知りたい、何とかわからせてあげたい」「わかってほしい」と思っています。
 このように子どもたちに教えたい、知ってほしいことがらを総合的、立体的に紹介していく立体授業を、恣意的なチョイスによって分断すれば、如何にその意図とかけ離れていくかがわかっていただけたと思います

 なお、「ニューステージ新地学図表(浜島書店)」におもしろい取り組みが掲載されていたので紹介しておきます。校庭や屋上で「隕石を見つけよう」というものです。
 こういう類の課外授業こそ、小学校でやるべきだと思います。それによって、宇宙や地球や星空など、膨大な学習対象に対する興味がいかに喚起できるか、ワクワクしませんか? それが「総合授業」です。見つからなくてもよいではありませんか? それに代わるものを用意して楽しませてあげれば。