いつも、子どもたちに「学ぶことのたいせつさ」をわかってほしいと願いながら授業をすすめます。学習は受験に特化した学習に止まらず、「学習することのおもしろさ」や「学ぶことのたいせつさ」を確認できてこそ、以後の人生が充実します。
人生の深さや奥行きを味わうには、学習する、机に向かい、本を手に取り、専門書をひらき、というステップは欠かせません。それができることが、より良い人生と健やかな成長の何よりの糧になります。
ところが、たいていの人が「勉強=おもしろくない受験勉強」という意識から抜け出せないのが実情です。「勉強はもうええ!」というスタンスです。多くの場合、おもしろくない勉強をただ合格目的で、いやいや積み重ねてきたのが原因です。
それでも、かつては「少年老い易く学成り難し」あるいは『光陰矢の如し』などと、故事やことわざを使って時間のたいせつさや学習のたいせつさを指導されることが日常的にありました。50年だった平均寿命が75年・80年と延びていくとともに、そういう指導・教育もずいぶん少なくなってきてしまったような気がします。
寿命が延びるのは大いに喜ばしいことです。しかし寿命は延びたけれど、人生の充実が水っぽく拡散してしまったとなれば喜びも帳消しです。「ただ生きている」というだけではなく、日々や人生の充実があってこそ、延びた寿命が意味をもちます。
「いのちの限り」や「人生の有限」を伝えず、意識から遠ざかると、人間にとってほんとうにたいせつなものが見えなくなります。たいせつさが霞みます。かけがえのないものも「かけがえなく」見えません。
いつもあるもの、いつまでもあるものをたいせつにしようとは思えないからです。この「しくみ」も、子どもたちを指導する人たちはきちんと心にとどめておかなくてはならないことだと思います。
そんな指導の一例です。中学受験では古典は必要ありませんが、みんなが知っている徒然草の一節を授業でとりあげて指導することがあります。今から約700年前に生きた兼好法師も、学習や教養のたいせつさを力説していることを伝えます(下記)。
そういう機会を増やすことで、「子どもたちの勉強や人生に対する視点」が変わってくれることを期待しています。立体授業の指導もそうですが、こうした指導を根気よく積み重ねることで、大学入学前後になると、学力とともに子どもたちの人格がきちんと整ってくるのが見えてきます。人格のともなわない学力はあまり意味がないのではないかとぼくは考えています。それによって他の迷惑になってしまうことが多いはずです。
徒然草から学ぶこと(学問のすすめ)
品かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか賢きより賢きにも移さば移らざらむ。かたち心ざまよき人も、才なくなりぬれば、品くだり、顔にくさげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、ほいなきわざなれ。
ありたきことは、まことしき文の道、作文・和歌・管弦の道、また有職に公事の方、人の鏡ならむこそいみじかるべけれ。(「徒然草」第一段・訳は南淵)
氏育ちや容貌の美醜などというものは生まれつきのものだろうが、賢さは、より上を目指そうと思えばかなわぬことはないだろう。見場よく、端正で心根の美しい人であっても、年齢を重ねて頭のはたらきも衰えてしまえば、氏素性が低く見た目もよろしくない人の中でも、取り立てて存在感が感じられなくなるのは残念至極である。
望むらくは、真の学問を身につけ、文学や詩歌・音楽の教養があり、伝統や一流の礼儀作法にも通じ、人の手本とされるような存在になることである。
なお、ぼくは前後の文脈から判断して、下線部を上記のように訳しました。市販の書籍から他の方の訳をいくつか取りあげておきます。ぼくは古典の研究者ではありませんので誤解をしているかもしれません。識者のご意見をいただければ光栄です
今泉忠義訳注 「改訂 徒然草 角川ソフィア文庫」より
容貌や気だてのいい人でも、学才がないとなると、氏種性(原文まま)が劣っていて、いやらしい顔つきをした人々の仲間にはいっても、ひとたまりもなくみんなから圧倒せられるのは、何と心外なことではないか。
佐藤春夫訳 「現代語訳 徒然草 河出文庫」より
風采や性質の良い人でも、才気がないというのは、品位も落ち、風采のいやな人にさえ無視されるようでは生きがいもない。
山崎正和著 「徒然草・方丈記 学研文庫」より
容貌も美しく、気だての良い人であっても、学才がないということになると、人品が低く、見るからにいやしい顔立ちの人と交わっても、それにもろくも圧倒されるのは、まことに残念なことである。
保坂弘司著 「声で読む徒然草 学灯社」より
容貌や気立てのよい人も、学問がないという段になると、自分より家柄の低い、容貌の醜い人たちの間にいても、たわいなく圧倒されるのは、どうも不本意なことである。
紹介する碩学の訳は以上ですが、どうでしょうか?
でっかいナマズ釣りのテキストと指導
さて、「でっかいナマズ釣り」のスライドとテキストの指導です。
学習対象は、興味や好奇心を呼ぶために、それぞれの立体授業(課外学習)の中でできるだけ親しみをもてるような紹介をしなければなりません。それらは環境の中で、さまざまなかかわりをもって実在します。野遊びや腕白遊びの対象であったり、生活用品や食料品としての一面があるものもあります。学習対象はそれらの全体の中で捕えて初めて、生き生きとした学習内容として立ちあがってくるはずです。
まず課外学習で行動を共にする子どもたちに紹介する立体授業のストーリー作りをすること。それがたいせつです。遊びとの関連の中で様々な学習対象が立ちあがってくれば、おもしろさや興味が一層膨らむでしょう。
いつ行くのか、どこへ行くのかからはじまり、道中や遊び、その時のテーマの関連からテキストとスライドのストーリーを考えること。もちろん、そこには実施する季節も関係します。テキスト表紙(スライドタイトル画面)から順を追って紹介します。
1p 目的地までの地図(「中学校社会科地図 初訂版 帝国書院より」
授業中地図を開くことはよくあると思いますが、「自らの在住地から目的地まで」という見方や、「大きな地域の中での自らの移動を地図帳で見て」という経験は少ないと思います。
自分がこれから移動する、あるいはいつも移動している場所を、ふだん勉強で使っている地図の上で見ることによって、「地図や地理が身近になること」、あるいは「自らの移動を頭の中で地図をもとにイメージできるように」という狙い。子どもたちやお母さん・お父さん、ふだん目に付くところに大きめの日本地図を飾っておくことをお勧めします。テレビや会話の中で、地名や地方が出てくることがよくありますが、それらの場所を地図上で意識することで、無味乾燥な(!?)地理の勉強に対する感覚が少しずつ変わってくることが期待できます。
2p 細胞の大きさと原核生物から多細胞生物への進化
(資料が散逸して出典が不明です。関係者の方、ご教示またご寛恕を心より)
生物の学習に細胞のしくみやはたらきがたいせつになってきますが、小さな子たちには「見えないもの」のイメージはなかなかつかめません。手近にあるもの、身近にあるものでイメージの不足を補う、よい資料が必要です。「太古の海の一つの生命から」という流れをそれなりに理解していくのはもちろん、原核生物から多細胞生物へという進化の道のりでも、細胞のイメージが明確化したほうが理解が深まります。
また、ぼくたちのからだの様々な細胞やゾウリムシやアメーバ―等の単細胞生物の大きさを比べることで、新鮮さや意外性が生まれる。そうした気づきが学習(内容)が身近になるための礎です。学習知識として定着することもたいせつですが、情報が子どもたちの身近になること・増えていくことがたいせつです。それが学習に対する「なじみ」になり、「学習する」意欲を誘う。これは先週も見たように小さいころが最適です。
3p 多様化する生物たち(「小学館の図鑑NEO大むかしの生物」より)
生物愛護や環境保全が声高に叫ばれますが、それらの大切さを観念的ではなく理解・認識していくには、前頁の、細胞や生命の誕生からはじまる生物の進化を一目瞭然にイメージできることが重要だと考えます。一つの細胞から生物が多様化してきたことをイメージすることで、同じ生命としての親近感が芽生え、やさしい気持ちが育まれていくきっかけにもなるはずです。そういう経験を経ずして、人工的な人形に囲まれ、無機的な構造物の中で育つ子どもたちに、「生物愛護や環境保全の心」が生まれるでしょうか。
4p 生物の系統と分類(「生物総合資料」実教出版《株》より)
5p 生物の系統と分類の仕方(「フォトサイエンス生物図録」数研出版より)
進化の過程で多様化してきた生物たちが、現在どういうふうに分類されているかの確認です。綱や目をたどれることで、進化の過程や仲間分けができるようになります。また気の遠くなるような地球と生命の歴史も、子どもたちの脳の片隅に居場所ができます。次に「ものに出会ったとき」、ものの見方や感じ方が変わる一助になります。
6p カンブリア大爆発(「ニュートン別冊 『生命』とは何か いかに進化してきたのか」より)
子どもたちには結構なじみ深いカンブリア紀の紹介です。ここでは「カンブリア紀に急激に生物の種類が増えた謎」を問いかけておきます。答えは誰も出せていません。謎が子どもたちの心に残れば、ぼくはそれで十分だと思います。それがやがて好奇心や学習や研究の核となるからです。
ファインマンの項で紹介しましたが、彼はお父さんの膝に座って恐竜絶滅の話を読んでもらったとき、不思議でおもしろくてしょうがなかったと思い出を語っていました。結果や知識の伝達だけではなく、大きな謎を問いかけることもたいせつだと考えています。
以下次回。