『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑥

2015年07月25日 | 学ぶ

立体授業―指導展開の目標と意図
 「渓流滑り台」の消失(廃棄)の可能性に気づいたころから、「課外学習への保護者参加」も、めっきり少なくなってきました。7~8年前までは、10家族いれば6~7家族は「親子で参加」ということがふつうでした。ところが、子どもだけ参加させる「単独参加」が多くなってきたのです

 また、「立体授業の核」として「課外学習がもっている意味」も、その重要性が十分理解できているというふうには感じられなくなりました。単なる「蛍観察」や「石拾い」、「虫とり」という、子どもが「よろこぶ外遊び」という理解のまま、キャンプやレクリエーションの一環という「軽い想定」から離れることができないようです。そうではありません。立体授業は「総合的な指導」という目的から、企画・立案しています。
 「立体授業」の流れです。

テキストによるスライド学習の意味
 立体授業は、まず課外学習出発前の、テーマごとのテキストによるスライド学習から始まります。これは、単にテーマに対する「ビジュアルの補強」だけを意識したものではありません。

 「対象」やテーマの歴史的背景や学習内容との関係、またテーマの「関連テーマ」などを念頭に構成します。一回の体験で、対象をできるだけ「総合的に(立体的に)」捉えてほしいからです。それによって、興味の喚起と好奇心の広がりを期待するものです。学習内容に限らず日常生活の中でも、今まで目を留めなかったような様々なものが「目に留まる」ように企図します。環覚の育成です。

 それらの対象が多くなればなるほど、学習対象・学習内容が身近になり、関連がとらえられ、考察が深化します。学習が受験勉強に終わらず、学習に対する『疎外感』が緩和されていきます。つまり学習が面白くなり、学習する意味がわかる「きっかけ」づくりです。
 さらに、実際の課外活動に参加して観察し体験することで、机上の学習では気づかない「対象の周辺や奥行き」がわかります。これらは、先週偉人の発明・発見の考察で紹介した『思わぬ関係性』に目覚め、イメージする力や想像力を養う礎です。

 「ファインマンの父とエジソンの母」のブログで紹介したように、エジソンが教室でおとなしく抽象だけを学習する存在であったならば、竹のフィラメントをはじめとする広範で斬新なアイデアの広がりは生まれなかったでしょう。これらが、学習面から考える「立体授業」のテキスト・スライド学習と課外学習の両立、実践の意味です。

日常生活でのルールの確認

 次に行動面です。自動車での移動が多くなってきた昨今、子どもたちが交通道徳や社会生活上のルールやエチケットを学習する機会・タイミングは激減していきます。さらに、「ことな」や「おども」の保護者が増えてきているなか、社会人としての行動の規範や当然の常識を身につける環境は期待できません。電車やバス等の交通機関での往復や宿舎での宿泊体験は、それらを指導できる(指導しなければいけない)貴重な機会になってくれます。

 OB諸君がやさしく、さわやかな青年に育ってくれるのは、これらの指導も大きな意味をもっていると考えます。サポーターとして手伝ってくれるOB諸君は学力や進学先だけではなく、その行動を宿舎や課外活動で行きつけの食堂の皆さんに激賞される存在に育っています。

ハプニングの効用
 また、実際の課外活動は「ハプニング」がつきものです。現象面では、夜中に川底を歩くオオサンショウウオの散歩や妖精のような蝉の脱皮、高い木の上を独特の姿で飛翔する玉虫の生態、山道で生意気な戦闘態勢をとるマムシの赤ちゃんなど、子どもたちにとってはすべて「未知との遭遇」・発見の連続です。印象に残る記憶は、机上の学習を補完するイメージの宝庫になります。

 昔ながらの腕白遊びも、格好の指導の場です。行動上の様々なハプニングは、日常生活における注意や準備や対策の大切さを、子どもたちの前に表面化します。それらに対処するための工夫や努力は、生きる力と生き抜く自信のバックボーンです。

 また、面白いことほど危険が付き物で、細心の注意を払わなくてはならないこと。様々なハプニングは「ルールを守らなければ取り返しのつかないことになることを、取り返しがつかなくなる前に」教えてくれます。これで、少なくとも『ことな』や『おども』にはなりません。

継続と連続で意味がある立体授業
 これらの展開の年間を通した「総合」が「立体授業」です。ハプニングの起きる回数(季節もそれぞれ関わります)や、子どもたちが習得・納得するタイミング・期間を考えれば、単発ではなく積み重ねによってこそ、大きな効果を発揮することがわかるでしょう。

 遊園地やテーマパークへの「遠足」ではありません。また、単発やピックアップでは、「指導の一端を伺う」意味しかありません。指導の継続性が生まれず、伝えておくべきたいせつな「やりとり」が抜けてしまうわけです。  
 さまざまなシチュエーションの中でこそ、予期せぬハプニングに遭遇でき、学習面・行動面ともに指導の格好のタイミングも生まれます。それぞれのテキスト・スライド学習の繰り返しと課外学習の積み重ねがあって、環境に対する興味や好奇心に目覚める機能(環覚)が養われ、心身ともの健やかな成長が成就します

 紹介しているように、「学ぶおもしろさ」や「学習する意味」まで伝えようとし、「その学習の結果が受験対応で終わらず、成長後の本人の『糧』となること」を目標にすれば、生活・行動全体を通じた指導と教育は欠かせません。学力の向上はもちろん、人間教育も生活・行動・全般を通じたなかで整います。全体を通じて、子どもたちの性格や人格の陶冶が行われます。
名称を当初の課外学習から『立体授業』に変えたのも、その場限りで、あまり意味のない取り組みとは一線を画したかったからです。

 お父さん・お母さんの理解と協力さえあれば、頭も心も体も健やかな青年に育ってくれる、開設以来のOB諸君の成長ぶりの確信から「立体授業」の指導方法が生まれました。フォアグラ学習指導で受験能力に優れた受験生は育つかもしれません。しかし、その過程で忘れがちな最も大切なこと。「人間であること」。どうでしょうか? 期待できるでしょうか? 立体授業ではそれらも視野に入れ、指導できれば・・・。いつもそう願っています。
 
来週は、こうした指導で子供たちがどう成長するか、実況報告をします。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑤

2015年07月18日 | 学ぶ

子どもの夢と親の夢
 現在ではほとんどなくなりましたが、開設当時、気になったのは、子どもの未来や将来に対する「夢の見えなさ」です。また「夢のなさ」です。そして、子どもに対する思いと願いの「希薄さ」です。「かわいがる」まえにたいせつになる、「子どもの、人としての成長や先を見る思いと願い」が周囲から見えてこない、進学中学しか見えてこないこともありました

 左記のOB諸君の実績(進学中学)を注視してください。成長は進学中学にはこだわらないのが、わかると思います。大学進学時くらいになると、性格を含めて(ブログで紹介しているように)バランスの良い成長が、「単なる受験学力だけを追っかけてきた」子どもたちをはるかに凌駕します。ほんとうです。バランス感覚のある夢多い子どもを育てましょう。
 「最近の学校ではしつけをしてくれない」等という、聞く人が聞けば「口あんぐり」の言葉も出てきたことがあります。「しつけをしたり、ルールを教える」のは学校ではありません。家庭です。「子どものために最終の責任をもつことができるのは、そして、もつべきは親」です

 日本では(イギリスなど歴史ある多くの国がそうでしょう)、子どもにしつけをし、ルールを教えておかないと、家の恥・親の恥でした。そして「恥であることがわからないこと」を「ハレンチ(破廉恥)」「恥知らず」と言ったのです。忘れてはいけませんね。強く意識して、できるだけ小学校低学年までに、遅くとも中学年までに取りかからないと、「本人の自覚」がうまれるようになりません。「ハレンチ漢」にならないよう、きちんとしつけましょう(女の子も)。

 イチロー選手のお父さんは息子がプロ野球で活躍する夢を見、それをかなえてあげたいと思い、仕事をしながら365日中350日ともいわれる練習につきあいました。多くの一流スポーツ選手のお父さん・お母さんも同じです。有名フィギュア選手のお母さんは娘が銀盤で華麗に舞う姿やオリンピックで優勝する姿を夢見ていました。世界大会で活躍する卓球選手もしかり…。

 スポーツ選手だけではありません。ファインマンのお父さんはセールス職のサラリーマンだったにもかかわらず、ファインマンがまだベビーチェアーに座っている頃から、中古の色付きタイルを持ち帰り、遊びの中にパターン化の意識を取り入れ、いつも膝に座らせブリタニカを読んであげました。「この子は大きくなれば、きっと科学者になる」と、自らの夢を彼に重ねながら。

 いずれも子どもに大きな夢を描き、託しました。一方的に自分の夢を託し、無理強いするのは感心しません。しかし、子どもの大成を夢見、それに向かって献身的にする工夫・努力は、当初はともかく、人生を考えるようになった頃、子どもにとっては「かけがえのない宝物になり、自信」に変わっていったことでしょう

 かく言うぼくも、今自らを振り返り、こうした事実を知らず何も考えず、子どものためと思って日々仕事に埋没してしまった、取り返しのつかない「失われた時間」をすこぶる後悔しています。最も苦い思い出です。
 お父さん・お母さん、ぜひ「叫育ママ・パパ」「狂育ママ・パパ」ではなく、「共育ママ・パパ」として進化しつづけててください。子どもたちが、きっと大きなご褒美をくれます。

 子どもに何も考えなければ、「何も考えない子」ができるだろうし、夢を抱かなければ、「夢のない子」ができるでしょう。深い思いがなければ、「思いが深い子」はできません。「丈夫で元気で」ということだけしか考えなければ、「丈夫で元気なだけ」の子が育ってしまうでしょう。
 ぼくは、お父さん・お母さん、そして傍らで関わる指導者が描く大きな夢が、子どもたちの夢もはぐくむと信じています。そして時代の閉塞感はそれらの夢が打破すると

偉人の業績と「見えない関係性」に気づく
 前回までの概要です。
 危機管理や的確な状況判断ができず、責任の所在も考慮できない自己責任を忘れた指示待ち・指図待ちのクレイマーやモンスターペアレンツが跋扈する、混迷した「子育て環境」の出現。自ら子どもを指導・保護できない、身体だけ大きくなった「大供(おども)」や、「子どもを適切に教育・指導するという親としての必要条件」が欠けた「子人(ことな)」の増加。

 根本原因は蔓延した「過保護」にあり、個人として自立した「おとな」が育ちにくい指導方法・社会体制にある。そして、それらの環境を改善するには、子どもの指導や子育てに関わる日々の行動が無意識のうちに子どもの成長におよぼしてしまう影響について、もう一度その関係(性)を見きわめ再考してみよう、という提案でした。

 「関係性を見きわめること」のたいせつさについて、の続きです。
 もう少し視点を大きく、偉人の業績を振り返ってみましょう。天才の貴重な発見や発明も、「ふつうなら見えない関係性」に目が留まる・気づくところに大きなポイントがあります
 ニュートンのリンゴと万有引力、ガリレオの教会のシャンデリアと振り子の等時性、エジソンの「日本の竹」と電球のフィラメント、アインシュタインの光と相対性原理・・・。「まったく関係がない」と思ってしまうようなことが、すばらしい発明や発見に結びついています。偉人や天才の業績や発明には、こういうポイントが必ずといってよいほど見つかります。

 また、一般社会においても「関係性を見きわめられる」というのは、頭のよさ・能力の高さの証明でもあります。たとえば、何か問題が起きても、つながりや関連がわからなければ、手の出しようがなく、どうしようもありません。どうしていいかわかりません。
 しかし、関係性がわかれば、知識や技術の利用や応用が可能です。問題を解決したり、対処する方策も見つかります。頭がよい人の秘密です。関係性がわかるようになるには、まず対象に「目が留まらなければ」なりません。体験の大切さの所以です

 ぼくが子どもたちの「環覚」の育成を目標にするのも、「目が留まる機能が育つこと」をたいせつにしたいからです。先週「忘れ物」について触れたように、何でも何気なく見逃してしまうような「不注意な日常」では、優れた感覚・考察は望むべくもなく、クリエイティブな能力を発揮することはむずかしいでしょう
 だからと言って、生まれつき何かに目を留める能力が備わっている人など、ほとんどいないはずです。成長の過程で自らの環境での指導や学習を「消化」し、「『おもしろいことども』に「目を留めながら」養われていくものだと思います。

 それらの経緯を考えれば、「『知らないもの』『なじみのないこと』をテキストやイラストを頼りに、ほとんど机上で暗記をおこなう詰め込み教育」と、「自然や環境との「応答」や『相互交流』を繰り返しながら行う教育や指導」が、その時は目には見えなくとも、やがてどんなに大きな差になるものか、容易に想像できるのではないでしょうか。目指すべき方向です。

「子育て」を、もう一度ていねいに
 「関係に目覚めること」。「『関係ない』と思っていることを虚心に振り返り、関係や関連を考えてみること・とらえること」は、創造と発見のスプリングボードです。逆に何でも「関係ない」と思ってしまう意識や考え方は、「狭量」で退嬰的だと思います。見えている人の少なさを考えれば、「関係ない」と思っているものから手に入れられるものにこそ、大きな価値があると考えるほうが正解でしょう。「宝探し」です。「子育て」に関しても、もう一度振り返って、「よく考えてみること」が欠かせません。

 社会の発達(?変化)も複雑化し、表面しか見なければ、こういう関係性の多くが「より見えなくなる」方向に進んでいます。つまり、「正しく見る」には、「個人として、大人としての考え方や判断力」がますますたいせつになっているということです。
 「関係性」に気づかず、「世の中の傾向に流されるだけ」になれば、本来なら「おかしなこと」でもおかしく見えなくなり、次第にそれが「ふつう」になります。「当たり前になってはいけないこと」でも「当たり前」になります。そんな中で育っていけば、「正しいこと」と『まちがっていること』の区別が明確でなくなります。責任転嫁に流れていく方向です

 「子育て」の環境では子人(ことな)や大供(おども)が次第に増加しつつあります。「自分では何もできないのに要求は一人前以上」の『クレイマー』、「一人ひとり責任をもって自らの子を育てるべき子育て」を自分以外のところに転嫁する(せざるを得ない)現況。「ディザスター・ペアレンツ」(ぼくの造語です)の発生です。子どもと子どもの成長に責任をもてるのは親しかいません。ディザスター・ペアレンツで犠牲になってしまうのは子どもたちです

 みなさん、何も知らずに生まれてくる可能性にあふれた子どもたちを「いつのまにか不幸に追い込む」、こんな状況はもう終わりにしませんか? 方向転換しませんか? 
 
高い能力にリーダーシップも兼ね備え、大きな視点から判断を下せるような『自慢の子』、次代を担える「たくましい子どもたち」をみんなで育てましょう。それが、ディザスター・ペアレンツをなくし、ディザスター・ペアレンツを育てない、唯一の方法です。それができるのはお父さん・お母さんです。決して、おじいちゃん・おばあちゃんではありません。
そこまで期待できるおじいちゃん・おばあちゃんは限られています。たいてい、「元気で育てばよい」と単なる子守に終わります。

 さて、「子育て」の現場にいれば、なかなかわからなくなってしまっていることがたくさんあります。判断材料を提供するために、子人(ことな)と大供(おども)についての例をもう少し考えていきます。
 ちょうど「渓流滑り台」が「保護者の危機感の喪失」で消失した頃(7~8年前くらい)から、少しずつ変化してきたことがあります。
 


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ④ 

2015年07月11日 | 学ぶ

今週の写真~写真をやっていたころの作品はほとんどなくなってしまったのですが、紛失を免れたものの一部を紹介します。
 前回、赤目で「渓流滑り台」が消失(『撤去』されたこと)を例に、「子育て」の場に忍び寄っている「妖怪」を考えました。「危機管理や的確な状況判断ができず、何かにつけて『指示待ち』の姿勢や『指図待ち』の態度しかとれない」子人(ことな)や大供(おども)がどんどん育ってくる環境について、です。


過保護がもたらす子人(ことな)と大供(おども)

 「通天閣がまだ高さを誇れた頃(笑い)」大きくなった人たちは、自らの子ども時代の想い出との比較ですぐ想像できますが、これらの環境は小さい頃からの「過保護」が引き起こす「子育て」が大きな原因のひとつです
 かつて子どもたちの多くは、「自分のこと」を自分でしないと、何も始まりませんでした。お母さんとお父さんは「食べるため(!)の生計」を維持するのに精一杯。つまり、はたらかなければ、食べることさえできなかったという状況です(今の多くの家庭の共稼ぎのようすとは大きくちがうことに注意してください)。

 両親は、ほんとうに子どもたちのことまで、手が回らなかったのです。日ごろの一つ一つの小さな判断を含め、子どもたちはできる限り自分でする(せざるをえない)しかありませんおとなも子どもも意識しませんでしたが、これは子どもたちにとって成長するための大きなアドバンテージになっていたのではないでしょうか
 ところが、現在は環境が大きく異なっています。多くの場合、食べるものの不足ではなくて、衣・食・住を含めて、より豊かになるための共稼ぎも多いのではないでしょうか。それによって経済的には子どもたちの環境を豊かにしますが、一方では「工夫するタイミング」や「辛抱して考える機会」も減少させます

 成人扱いされる年齢での受験だというのに、大学の入学試験にまで付き添うお父さん・お母さん。「ひとりでできるようになるのが成人だ」ということが、いつのまにか忘れられています。
 周囲が全部やってくれるから、「自分でする必要がない」、「自分からする必要がない」。そんな経験がない。だから、どうしていいかわからない。一部の「良かれと思って手をかけすぎる」享育(!)ママが「整える子育ての環境」は、大きくなっていく子どもたちに逆に、「不幸な人性(!)」を準備します。
 「自分のことを自分でしたことがない」ので、ひとりでしなければならなくなったら、他人のことまで気が回らない。協力できない。つまり自立した個人にはなれません。それではグループや組織をまとめることはできません。「文句」だけは一人前ですが、リーダーシップはとれず、その他大勢になるしかありません。これは、お母さん・お父さんの思いとは逆の、「不幸な人性(!)」ではないですか?

 一方では、「育児放棄」「育児依頼」「野放し」子育て等による、「しつけにもコミットしない(できない)」子育てが、「子育て世代全体の環境悪化」に輪をかけます。いずれにしても、正しく判断することや、自分のことをきちんと自分でできなくなるのは当たり前です。

子育て異民(!)の登場

 そんな状況下では当然のことですが、「自己責任」という言葉を「扨措いて」、あるいは「まったく意識せず」、政党から個人まで「自分の要求を通すことのみを教えられてきてしまった」各種(!)の「クレイマー」や「モンスターペアレンツ」という、恐ろしい異民(!)が跋扈します。
 まるで「どこかの大国・小国の政治状況」を見ているようですが、いずれにしろ、要求や文句はいやというほど言い散らかすが、自らの責任は蚊帳の外。公私ともの「責任のなすり合い」「責任が及ぶことに対する回避行動」の蔓延です。

 先述のように、反省なく「自らだけの自由」と「自らに都合の良い自主性」を振り回す教育傾向によって、さらに「過剰」になってきた責任のなすり合い(モンスターペアレンツの登場・増加に顕著です)、「責任が及ぶこと」に対する「回避行動」。
 これらの「あなた任せ」の姿勢や態度・教育からは積極的で自立した個人・「自らの責任で」という判断力・「他人の自主性も尊重できる」自主性を備えた青年は生まれません。子どもたちが大人として成長するのに欠かせない条件が、「ぼろぼろ」抜け落ちてしまいます。

 現在のように、複雑に入り組んだ『子育ての迷路』を整理し、見通しよく見渡せる環境に変えていくためには、まず「今育ちつつある子どもたち」を反省をもとに「それぞれ」が「できる限りきちんと育てることに心血を注ぐ」方法しかありません

「関係ない」という意識がもたらすもの
 「少なくとも、私は(家は)関係ない」と思っている方はいませんか。「そういう気持ちのあいだに忍びよってくる」のが、この妖怪のやっかいで、変幻自在なところです。人間の世の中のことで、ぼくたちに「関係のないこと」はありません

 多くの場合、「関係あることがわからない」、「関係ないと思いたい」、「知らなかった」のいずれかだと思います。つまり、その「関係性を見極められなくなってしまっている」のが現実です子育てにかかわる「関係」に目を留めなければ「子育て」は順調に進みません
 また、今は別の地域や環境や余所の(!)家庭で育っていたとしても、成人になるにつれ人間関係は錯綜していきます。「関係ない」関係はありません。影響や被害は、いずれにしろ、どんな形にしろ、やがて自らにも及んできます。
 これらの状況を焦点を絞ってわかりやすく、まず「学習」について考えてみましょう。

「関係」に気づくたいせつさー「忘れ物をさせない」ために
 「落ち着きがない」とか「よく、遅刻する」等という態度や姿勢からはじまり、「ひとりでやってみる」・「あきらめずに最後まで努力する」態度の有無など、日常生活のようすも学習とすべて関わってきます。「関係が見えにくいこと」でも子どもたちの習慣や日常生活を丁寧に比較対象すれば、その影響や関係がわかりやすくなります
 「よく忘れ物をすること」を例に考えてみましょう。「忘れ物をしたからと、取りに帰らせる」先生がいれば、現在では「それくらいコピーしてあげればよいのに」と考える保護者も多いようです。

 コピーするのは簡単です。しかし、それでは根本的な問題解決はありません。きちんと注意をし叱らないと、自らの失敗を反省することはできず、責任をとることも覚えず、以後の行動を改めるきっかけにもなりません
 「コピーで手軽にすまして」簡単に終われば、他者に迷惑をかけてしまっている(お金がかかる・要らぬ時間をかける等)という、周囲に対する「気遣い」や「思いやり」も育ちません。「まちがっても、迷惑をかけても平気な子」になります。それより、忘れ物がなくなるように努力や指導しないと、「やがて本人が大いに困る」ことになります。
 「持っていくべきものに意識が向かっていない・準備できていない」わけですから、「注意力」の問題です。注意力が養われないと、テストや考え方の「ケアレスミス」を克服することができません

 また、大事な入学試験の場や機会に忘れ物や遅刻をすれば、ふつうは致命的です。大切な場ではそれらの気配りの定着具合も問われています。このように、「関係ないという関係」はありません。
 もう少し深く考えてみましょう。
 その「忘れ物」をしない(させない)ために、「よくできる(!)お母さん」は、先回りして準備します。一見「よくできた」保護者に見えるのですが、毎回続けていると、当の本人は「自分で用意をする・気遣いをする必要がなくなる」ため、逆に「ある程度大きくなっても忘れ物をする癖が抜けません」。
また、「いつも準備してもらう」ので、「自分で準備する必要がなくなり、何でも一人ではできない、またいつまでたってもやらない・どうしていいかわからない子」になってしまいます。

 「本当に忘れ物をしない子」を育てるためには、ふだんから、子ども自らに忘れ物をしない準備をさせ、どうしたらよいか考えさせること。「メタ認知」の能力を発達させなければなりません
 このように、忘れ物ひとつとっても「関係ない」・「小さなこと」と思ってしまう考え方が、子育て全体から見れば「いかに危ういか」、よく理解できると思います。考えられないほど多くのことに関係しています。
 来週は、この「関係性」と、大発明や大発見・偉人たちの業績から話を始めることにします。


お父さんとお母さんのための「母親教室」 ③ 「大供(おども)」の子育て

2015年07月04日 | 学ぶ

 「妖怪が二つ、子育ての現場に現れている―『子人(ことな)』と『大供(おども)』という妖怪が…」。「この妖怪たちは、今後も日本ではどんどん拡散、拡大再生産されていく可能性が大です・・・」と、先週お話ししました。そして、 

「経験上、家庭の理解と協力があれば、6年生までに子どもたちの一定の成長は成就します。逆に、理解がない場合、いつまでも治りません・・・」。
 おとうさん、おかあさん、いろいろ大変だろうと思いますが、いちばんたいせつなこと、忘れないでください。子どもはかけがえがありません。人任せでは、絶対後悔をします。実例を挙げます。「子育て」を考えてみましょう。

「渓流滑り台」消滅の理由
 7~8年前まで、夏になると赤目キャンプ場の谷間(たにあい)は、子どもたちの興声(?!・造語・きょうせい)がこだましていました(写真)。コンクリートの「渓流滑り台」で、水の冷たさとスリル、高揚感で大はしゃぎです。何度も何度も清流の細流から滑り落ちて、夏らしい夏を満喫していました。

 団の子どもたちの遊ぶようすを監視する一方で、ぼくにはとても気になることが二つありました。
 ひとつめは、保護者の状況判断の甘さ・危機管理能力の欠如です
 「すぐ上のキャンプ場に親子連れで来ているのに、危険がいっぱいの岩場だらけの渓流で子どもたちだけで遊ばせている」という感覚。いつ事故が起きてもおかしくないところ。近くにいても姿が見えないところでは子どもたちを守ることはできません

 もうひとつ。状況に応じたセルフコントロールがまったく教えられていないこと
 その滑り台で、数人でふざけて頭から滑り落ちたり、勢いをつけるために後ろから押したりする子どもがたくさんいました。町内会かPTAのグループらしく、保護者らしい人がいたのですが、そういう遊び方を見ても何も注意しません。

 「状況判断できず危険度を察知できない」彼らの行動を見て、他の子どもが巻き込まれ、大けがをさせる恐れもあるので、ぼくは厳しく注意していました。すると、「おっちゃんがうるさいから、やめや・・・」と母親らしい女性の信じられない「ひと言」。「開いた口がふさがらない」のではなく、さらに広がりました。

 「叱られるからやめる」という感覚。これは、「叱られなければ、続けてもいい」。つまり、なにもわかっていない、ということです。まさに子どもの感覚そのままで大きくなった大供・おどもです。残念だが、この楽しい遊び場も、おそらくすぐ使えなくなるだろうと、そのとき予測しました。

 案の定、数年後に滑り台は金網で厳重におおわれ、さらに数年後、完全に「消滅」しました。噂では、やはり、小さからぬ『事故』が続いたようです。「目玉」がなくなったキャンプ場も今大きな痛手でしょう。

大供(おども)や子人(ことな)が生まれる一因
 こうした大供(おども)や子人(ことな)が、団で指導し始めた20年の間に、恐ろしくもどんどん増えているのが現状です。保護者の考え方の基準があやふやで、正確な状況判断や安全管理ができなくなっている・・・ということです。

 「おっちゃんに言われるから!」ではありません。父親や母親になれば、子どものどんな行動に際しても、日頃の注意を怠らず、様子を見てきちんと状況判断でき、適切に行動できる(そしてさせられる)力が必要とされます。子どもを守るという意識が基本です。親は「成人するまでは、どんな意味からも、自らが子どもの安全を担保し、注意や指導することができて」の親です。

 例にあげたような遊具や岩場で走ったり、突き飛ばすことはもちろん、水苔で足を滑らせるだけでも、打ち所が悪ければ、生命に関わります。小さいころからよく知っている人なら誰でも、そういう姿を見れば、まるで「槍衾の上をサンダルで飛び回っているのと同じだなあ」とでもいうはずです。「骨折したり打撲程度より、生命に危険が及ぶ確率の方が高い」と言っても、決して言い過ぎではありません。そんな「シチュエーションで危険度がまったく予想できない」保護者がたくさん現れたのです。「今何をしなければならないか」、「何をしてはいけないか」。状況判断能力の欠如です

 思い返してください。これは、二十年前くらいから大卒の新入社員に見られた「指示待ち」の姿勢に共通する性行です。「指示待ち」、つまり、「自らで判断できない」。そういう保護者が増えてきているようです。 

 おそらく「渓流遊び」の経験等もほとんどなかったのでしょう。運動会や遠足・合宿でも「『(勝手に決めつけ)危ないこと』はすべて禁止」、また、馬鹿なヤンキーがナイフを持ち出せば、すぐ大騒ぎになって「刃物禁止・ナイフ禁止!」・「持ってはいけませんの一点張り」というような環境で育ったはずです。バカなヤンキーはいつの時代もいますし、そういう事件だけを取り上げて、判断の基準にする必要はありません。そういう輩がどこにでもいるから、「普通の人」にしっかり教育する必要があるのです

 本来なら、持たせて、使わせて、「ほらこんなに良く切れるんだ」、「使いたければ、常に注意をしておかなければ、けがをするよ」、「だけど便利な道具だから、時と場所をよくわきまえて使わなくてはね」と指導することが「教育」です。「それらを踏まえて」セルフコントロールを身につけ、危険を察知する感覚を身につけ成長することが「一人前」になるということです。そういう訓練を経ないまま大人になってしまった…。

 どんなことがあるかもわからない「人生行路」なのに、「危険度の察知と危険なものを手にしたときのセルフコントロールさえ教えない」のが現在の教育です。そうではないでしょうか。「ナイフの危なさは信頼している(!)」のに、その


「ナイフを扱う「理性」や『知性』を育てる教育を信頼していない」のです。子どもの「健やかな」成長は「さておき」、公から私まで、「『危ないこと』は知らん振りをする」、「誰かがやってくれるのを待つ」、「臭くなる前にふたをする」、責任逃れのオンパレードになっていませんか?

 そういう指導も経ず、ナイフ・刃物や武器の怖さを知らない子どもが、「痛みがわからない架空の武器や刃物」で「心身ともに、自らは痛みを感じないまま、無差別に攻撃する」ゲームで、相手を倒す快感を感じながら育っていく怖さ。世の賢人や、心ある教育関係者、知識人は、なぜ、その恐ろしさをもっと訴えていかないのでしょう。

 小さいころから自律・セルフコントロールを教え、一方で危険察知、自分を守る術・・・を教えないと、すべての道具はいつでも凶器に変身するし、なお、それを防ぎうる心や身体の「構え」さえも養うことはできません
 ところが、今はどうか。何が危険か、どこが危ないかなどを「危ない方からのみ」考察し、組織の責任逃れを模索する。これが社会や多くの学校・教育機関・指導法の現状です。

 こうして一見安全を堅固に守られているような環境で育てられてしまった、危険度がわからず危険察知ができない「大供(おども)」が、「おっちゃんが言うたから・・・」と宣うとき、頭の中には、「救急車もすぐ来ない山中で子どもが頭から血を流して、通じない携帯電話をもち右往左往している自らの姿」など「かけらもない」はずです

 赤目では、子どもたちがはじける面白さを味わうシチュエーションが、また一つ姿を消しました。つまり、自らの子どもたちにその面白さとセルフコントロールを指導できるきっかけも一つ姿を消していきました。危険度を知らず、危険を伝えていけない「大供の再生産」は、また拡散していきます。
 さて、参考のために、これらを克服するためのヒントを紹介しておきます。

子育てのヒント
 団では、教室や課外学習で、ナイフやのこぎり・植木ばさみを使わせ、作業をします。使ったナイフや包丁は砥石で自ら研ぎます。切れない方が、より危ないことが実感できるからです。木登りをし、屋根に登って植木を『散髪』します。立体授業です。

 紹介のように、団の立体授業(課外学習)のロケーションポイントは、主に二カ所です。飛鳥と赤目。どちらも交通の便が良く、大阪から短時間で移動できるので、団開設以来約二十年、それぞれ毎年宿泊を含め4~5回訪れ、遊びと学習を満喫しています。

 以前にも総合学習や社会学習の現状の展開の無意味さ?「一方的な知識の伝授」や「買い食いで通りを歩くだけの時間つぶし」のくりかえし? についてふれましたが、飛鳥も赤目も、あるいはどんな場所でも、何回も足を運ぶことによって環境を知悉し、『危険度』も含めて、子どもたちが積極的に「自然と交流を図れる」展開が始まります
 自然環境だけに限りません。土地の歴史や文化・遺跡など、子どもたちの関心をひき、興味が生まれるのは、「回数を重ねてこそ」です。自分がその場所に存在し、馴染みが生まれてこそ(「環覚」の成立)です。「覚える」「出会う」「見つける」「思い出す」です。「おとなへの一歩」や「学ぶおもしろさ」のきっかけはそこから生まれます

 教科書でならっている「通り一遍の学習」に、専門家が多少の色づけと説明でお茶を濁しても、教科書と教室の指導から一歩も抜け出すことはできません。団では、同じ場所を訪れても、毎年新しい出会いや発見があります。子どもたちには宿舎の方や世話になる人・出会う人が「隣のおばちゃん」や「向かいのおっちゃん」になります。子どもたちは向かいのおっちゃんやおばちゃんの元で、遊びながら、さまざまな出会いと発見を重ねます。学習とともに、身のこなしや体と心のバランスを覚え成長していきます

 社会学習や総合学習、「大供(おども)」に終わらず、「子どもが大人として成長する教育」とは、そういうものだと、ぼくは思います。来週は「状況判断」の例を、別角度から考えてみます。