『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く27

2018年08月25日 | 学ぶ

20年前の原稿です。
国語を「昆虫採集」してみないか  算数も「手づかみ」できるんだよ
 難関中学に入るのは簡単です。素直で子どもらしい感覚の持ち主であること、そして「きちんとしつけをされている子」であれば十分可能です。

 年末の特訓「缶詰!」などに見られる「詰め込み」や、受験の知識だけに「特化した」受験指導は一時しのぎの「勉強」で、心身ともの健やかな成育に「寄与する」ものでは決してありません
  限りない可能性と将来性あふれる子どもたち。彼らのこれからの生き方や人生で、そのバックボーンになるのは、今まで横行していた学習指導のように、「自然を法則のみでとらえる」規格化した見方や「勉強の缶詰」ではなく、「格好の遊びの対象として自然を選べる」余裕、想像力、そして実行力ではないでしょうか。さらに、母として、また私たちを育んでくれるゆりかごとして、「自然に対しても優しい目を注ぐことができる」感性ではないでしょうか
 「地球が遊び場であった」かつての子どもたちとはちがって、子どもたちの多くは「道ばたの花に目をくれる」ことさえしません。できなくなっています。偏った志向の感性ではなく、本来なら子どもが知っておかなくてはならない「身の回りのもの」に、もっと「アンテナ」を向けることができたら、今とは全くちがった子ども時代を過ごせるはずです。たいせつな情報を自らバランスよく吸収できるはずです。本当の「勉強」を憶えてくれるはずです。したくなるはずです

  ふだん、ぼくたちは教科書や本などから「知識」を得、「学び」が進んでいくと考えていますが、実際はそれとは比較にならないくらい膨大な情報が、日々の生活の中でも飛び交っています。そうした情報については、おなじ情報量の中にいても、それぞれ個人が身につけている五感の「アンテナ」の数や感性のちがい(これをぼくは今「環覚」と呼んでいます)で獲得量が大きく異なってきます
 これは情報の入手経路を少し考えてみればよく分かります。
  混んだ車両の中、近くで誰かが「サッカー」や「野球」の話をしていても、「サッカー」や「野球」に全く興味のない人や知らない人は、いつの間にか、それらの会話は耳にとまらなくなるはずです。聞こうとしません。したがって聞こえません。このように知らないものや興味のないものについての知識や情報は増えてきません。

 逆に、興味がある話やよく知っている話だと、スムーズに次々と蓄積されていきます
 たとえば、「田植え」や「稲刈り」を知らない人は「田植え」や「稲刈り」に関係する膨大な情報は入ってきません。すべてとは言わないまでも、それらの中には「学習」にかかわる大切な情報もたくさんあるはずです。
 よい情報に限らず悪い情報についても事情は同じです。「アンテナ」の数で、身につく情報量や質がいかに変わってくるか、ご想像いただけるのではないでしょうか。

 習のみに限らず、ぼくたちが「生きること」は、「見ること」「感じること」「考えること」とともにあり、単に「道を歩いていくこと」だけでも日々「学び」は深くなるはずです。感性の「アンテナ」がきちんと立って、認識のスキーマが揃っていけば、次から次へと新しい情報が入ってきます
 そして、そうした自然に入ってくる「偏りのない」情報の数々がシステム化されていくことで、「発想の転換」や「応用すること」「創造すること」等の学びの進化が生まれます

  学習探偵団のコピー 「国語を昆虫採集してみないか」には、室内での文字だけによる「狭い」情報取得ではなく、自然に「浸る」課外活動や作業で育っていく「バランス感覚」をともなった感性とさまざまな方位に大きく広がった「アンテナ」で、『ことばの森』からあらゆる種類の「情報」を採集してほしいという願いがあります。
 俳句や短歌、詩などのイメージを考えてみても、「外の世界」にふれているかどうかで感動や理解の深さは全く違います。「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほすてふ 天香具山」に込められている雰囲気やイメージは、「田植え」の時期とも重なり、作業とともに団員諸君の「身体」に入っていきます。実は、「豊かな里山の森」は「豊かなことばの森」でもあるのです

  また、「算数も手づかみできるんだよ」。
 算数は、ふつうに考えれば、おそらく「動き」から最も遠い科目かもしれません。それは大きな誤解です。

 外遊びの活発な動作や「身のこなし」は、「立体視」にも大きく役に立つはずです。「くぐる」「こえる」「のぼる」などで経験する視点が、算数の立体図形のイメージに役に立たないはずがありません。
 虫や魚を追いかけて大きくのばした「網の軌跡」が回転図形の参考にならないはずがありません。もちろん、理科の「遠心力」の理解も伴います

 空中でホバリングしたり、急にスピードを速めたりするオニヤンマは「速さの問題」、 「鶴亀算」の鶴や亀は、鶴が「ゴイサギ」に変わることがあっても実際に彼らの頭の中で檻を出たり入ったりしながら解き方を教えてくれるのです。
 抽象性の高い算数も、「手づかみ」でわかることがいっぱいあります。さまざまな活動や実際の動きの中から「算数」の実感を身につけてほしいという願い、「手づかみできる算数」です。課外での活動が、理科・社会にしめる役割は、もはや「言わずもがな」だと思います。

つるかめ算や過不足算の、頭を良くする「実践的」指導法
 子どもたちの頭を良くする指導法がわかっていない人たちのために。
 たとえば「つるかめ算」などの難問を面積図や代数で解かせて「事足れり」としているところも多いようですが、子どもたちに意味がとれない代入法や面積図では、頭を良くすることはできません
 実際に折り紙や切り抜きでツルとカメをつくり、模型の囲い(檻)のなかから実際に出入りさせ、一頭の入れ替えで脚の数がどう変わるか。きちんと、そのしくみを考えさせること、ちょっとした工夫をすることでこどもたちの理解度と頭のはたらきは大きく変わります。たいせつなのは現実のイメージです。頭の中で動かせるようになるまで、用意すべきは「見える鶴と亀」です。

 さらに、これによって「ツルとカメだけの鶴亀算しかわからない」と考えるのは大きなまちがいで、この指導で子どもたちはつるかめ算の「しくみ」が腑に落ちるし、印象に残ります。そこから鶴亀算の難問に向かい、さらなる理解を図っていくのは、それほど困難ではありません。
 能力の高い子は別(ちなみに、そういう子が大学生くらいになっても継続して頭がよいとは限りません)ですが、ふつうの子に代数や面積図で「これらを理解させるまで指導すること」は並大抵ではありません。おそらく無理でしょう。

学習指導をはじめるようになってすぐ、こうした指導を開始して結果が出始めた数年後、この代数的手法と算数の手法について、ファインマンの興味深い判断に出会いました。
 ファインマンが小学生のころ、高校生で三歳年上のいとこが代数のできが悪くて、家庭教師に勉強を見てもらっていたようです。「傍にいてもいい」と言われたので、ファインマンは傍らで説明を聞いていました。
 そして、そのいとこに「何をしようとしているの」と聞きました。
 「Xがいくつになるか見つけようとしているのさ。2X+7=15とかね」。
 「4じゃないの」とファインマンが言うと、「そうだけど、おまえは算数でやったろう? それを代数でやらなければいけないんだよ」。
 これにたいして、ファインマンは、ぼくは幸せなことに、学校でではなく、屋根裏にあったおばさんの古い教科書で、Xを見つけ出す「しくみ」をすべて学んでいた。算数であろうと代数であろうとXを求めるのには何のちがいもない。代数は、盲目的に計算のきまりに従っていけば、誰でも答えにたどり着けるように考えられたルールに過ぎない。そんなものは意味がない。そのことが分からない彼には代数なんてできっこない。
 これはいとこを責めるのではなく、そんなテキストを金科玉条のように使っている学習指導を責めるべきですが、同じようなことが相変わらず、行われています。
 このファインマンの指摘の重要性を、中学入試の難問を代数や面積図を使い、意味のないルールに当てはめ解答に向かわせる指導を行い、それで「頭がよい」と本人も周囲も勘違いしているエリート校入試という商売に群がる人たちは、肝に銘ずるべきだと思います。

 算数にしろ何にしろ、子どもたちが理屈をわかり、自分の頭で納得できるような指導をするべきで、数式や面積図でも同じですが、意味のわからないまま「当てはめること」「代入すること」を教えて解答に至っても、子どもたちの頭は決して良くなりません。
 団の指導が決してアナクロではなく、「こどもたちの頭のはたらきの正統」を指導しているからの、高卒時の大学受験結果であることを念頭に、頭の使い方の将来を考え、大切なこどもたちの指導方法を精査してほしい、と願ってやみません

 算数では、ほかにもさまざまな指導法があります。
 過不足算であれば、百均で買える小さなバケツとB玉かマジックボールを適当な数用意し、バケツとボールの数の変化で、分ける数と余りや不足がどう変わるかを「実際に眼で」見せましょう。それによって、子どもたちは『過不足算』や『差集め算』のしくみがよく理解できます。

 速さの問題、例えば通過算や追い越し算では、新幹線や電車やトラックや乗用車や自転車のおもちゃ・人形を用意し、机の上で動かせば注意を引き理解が進みます。また子どもたちを公園や運動場に連れだし、ペアになって旅人算の実演(実際の動き)を演出すればよいし、流水算は流れるプールで泳ぎながら説明すれば理解は早く、そして正しく記憶に残ります。

 ちなみに、立体図形や回転図形や動く図形の問題は、外遊びや自然体験の少ない子、運動の苦手な子は、その軌跡や完成図がなかなかイメージできません。投影図から見取り図を思い浮かべることも苦手です。わかりますね、体感が不足しているからです
 日歴算ではカレンダーを用意すればよいし、立体図や平面図では画用紙にそれぞれの展開図を描くことから始めれば的確なイメージをつかむことができます。市販の模型ももちろん役に立ちます。

 いずれにしろ、こどもたちの日常生活の感覚をもとに、どのように指導を展開するかをよく考えることが、彼らの将来に貢献する指導であること。それがぼくたちの使命であると考えています。
 教科以前の現実(くらし)に問題を投げ込みはじめると、教育に関わる日ごろの「専門性」というものが、いかに学習用に「加工」された特別な枠組みの中に閉じこめられた「底の浅い」ものであるかがはっきり分かります
 「役に立つことが少ない内容」になっている「知識」が、現実の「知恵」を呼び、また「さらなる知識を必要とすることになる」学びのダイナミズムは、学校や受験用の「知の枠組み」の中では、うまく機能しません

 算数の受験問題を教えるなら、少なくとも、身近なテーマや日常生活での展開に引き寄せての指導・解法が大切です。それによってイメージしやすく、必要性が感じられ学習に親近感が生まれます。
 子どもたちが、このような学習に出遭い、そこから学びの姿勢を身につけられたとき、彼等は、強いて「勉強」という言葉を使わなくなるにちがいありません。同時に指導する側(先生)も「生業」としてではなく、また教科そのものも教えるための「教材」にとどまらず、日々いのちを削っている自らの人生の実感として「教科」をとらえられるのではないでしょうか。真の「学び」とは、そのような関係性の中にこそ存在するのでしょう
 

 それでは「環覚」と「学体力」のアイデア、英文版7回目です。
  
To teachers all over the world

“Slow thinking” and “Slow watching”

 The good time for children to find things in their surroundings and learning the make-up of those things, is gradually vanishing. And their antennas to be interested in things during their happy childhood seem to be fading away. It’s the exact opposite of Feynman’s father’s way of teaching.
 Without understanding the phases of nature and watching the changes that doesn’t feel them their learning matters to be in reality, and doesn’t give them kinship with such matters. This has been my observation.
 The time to observe and physically interact with many plants and animals during the slow turn of nature, and the time to discuss grade or exam results at school with the hope of reaching the goal as early as possible, are two distinct values and must be kept separate. There is no equivalency.

 This leads us to the next topic. Utility of MICHIKUSA, The Chinese characters道草translates to meander here and there on the way home from school. “道MICHI” means track in this case, and “草KUSA“ usually means weed. In my childhood, every child did MICHIKUSA every day and that was typical of “Slow thinking” and “Slow watching”.

The utility of MICHIKUSA
 Before the high economic growth in Japan, there were few opportunities to travel by car, and almost all school excursions were on foot. Yet that provided lots more beautiful scenery to view here and there in Japan, many people often walked around those places with their children.
 Many children had enough time to be able to find, for themselves, lots of interested things such as Feynman and his father found and observed in the woods.

 On their way from school, children had prime time, during MICHIKUSA to feel interested in animals, plants and other parts of nature, and then they always remembered the school matters to learn at class again. That knowledge was going to help them think about learning the matters deeply.
 Even in any small stream, living creatures and fauna lived various and interesting lives. The huge sum of derived information from the five senses of children, were the most excellent method of study. The environment was a “Splendid Living Science Museum”.
Thinking in totality, those childhood experiences must have been far more valuable and rewarding than playing in an amusement park with gaudy decorations, air-conditioning units filled with commercialism.


発想の転換が可能性を開く26

2018年08月18日 | 学ぶ

 24年前の想い出です。
飛び立つツバメが朝の教科書
  「おーい、早くしろーっ」
 ロビーで朝食を待っていた団員(小学4年生~6年生)をあわてて呼び、宿舎前の電線を指さします。
 「ほら、南の国へ飛び立つツバメの子どもたちだ。初めての長旅だから、一生懸命練習している。途中で力尽きたら海の上だ。死ぬからね。大人になる前には誰にも厳しい試練がある。みんなもがんばらないとね」
 話は続きます。

 「つばめが家の玄関や家の中まで入って巣をつくるわけは、天敵が少ないからだといわれている。また、春に南の島からやってくるツバメたちは八月頃までに『二回』子育てして、生まれた子ツバメたちは、みんなで大群になって、また南国を目指して旅立つ。一週間くらい遅れて親ツバメがその後を追っていくそうだ。子どもたちを先にやって、お父さんやお母さんは後からだ。子どもたちが先に旅立つんだ」

 年間を通じた課外学習のメインでもある「渓流教室」では、二泊三日の日程で、赤目四十八滝に続く渓流でカワムツやオイカワ・ヨシノボリ・沢ガニを捕まえたり(後で胃袋にもおさまります)、ヒグラシの声をBGMに、岩の上からきれいに澄んだ水の中に飛び込んだりと、一日中遊びほうけます。とはいっても 、毎年必ず何かハプニングも待っているので、「遊び」は決して遊びだけに終わりません今回の朝のツバメも子どもたちの教科書です。

 蝉やオニヤンマの羽化はもちろん、マムシの赤ちゃん、オオサンショウウオの赤ちゃん。毎年渓流教室の二日目に昼食でお世話になる美晴亭の下では甲羅の直径が30cmもあるようなスッポン夫婦と彼らの小さな子どもがゆったりと泳ぎ、向こう岸では、エメラルドグリーンのカワセミがオイカワをねらってダイビングの機会を伺っています。
 その後ひとしきり渓流で遊んで切り立った岩肌を見ながら川沿いの道を帰れば、「雨と晴の境目」を通ることができた不思議な経験も一度ではありません・・・

 こうしたできごとに出会う度に、学びの周辺、その奥行きの広さや深さ、さらに「生きている」という生命の一面を子どもたちに伝えることができます。

樹が教えてくれる南と北、そして生きること
  子どもたちの「学習内容」は「教科」から発生したものではありません。私たちと自然とのやりとり、そして生きてきた経験の中から抽出され獲得された知識や知恵、その結晶です。知識が先ではなく自然が先です
 自然に触れて自然体験を重ねることで子どもたちが手に入れる「学び」は、机上の学習に終わらず、彼らの身体にしっかり根付いていきます。


 教壇で話す「言葉だけの学習」。参考書や問題集だけのワーク。あるいは授業に工夫がなく、子どもたちにとって「実感という後ろ盾のない学びのくりかえし」で、果たして彼らの学習に対する興味をどれだけ引き出せるのか。
 私たちにとって一生続かなければならない「学び」のたいせつさを実感させ、学び続ける意欲を彼らの中に呼び起こす力がどれだけあるだろうか。バランスの良い発達や成長、学ぶおもしろさや学ぶことに対する興味の持続という意味から考えても、教室や教科書だけでは、どうしても限界があります

 課外学習の里山に向かうと、何十年・何百年と風雪に耐え力を蓄えた樹木がしっかりと根を張り、大きく枝を広げています。
  子どもたちに問いかけます。

 「磁石がない。曇ってて太陽も出ていない。だけど、自然に大きく育った木々を見れば東から南の方角がわかる、どうしてだとおもう?」
 みんなは真剣に考えますが、なかなかわかりません。
 「枝の付き方や育ち方を見てごらん。枝が大きく育ち、たくさんついているのはどっちの側だ?」
 しっかりと枝振りに注目し観察し始めた子どもたちは大きく枝の張りだしている方向を見つけます。
 「生きるために一生懸命努力するのは植物だって同じだ。大きくしっかり育つためには、できるだけ効率よく光を受け、光合成して養分をつくらなければならない。だからこっちが南。東から南に枝を大きく張り出し、たくさん葉をつけるんだよ」。

 こういう体験を繰り返すことで、子どもたちは次第に注意力の大切さと観察することのおもしろさに目覚めていきます。「環覚」の育成です。
 太陽が東の空から出て南の空を移動し西の空に沈む。単に「知っていること」に終わらず、実際に東と南が子どもたちの前に姿を現します。太陽が東から出て西に沈むということは知っていても、ただイラストや知識として終わっていることが多いのではないでしょうか。
 こうして太陽に応える植物の姿を見ることで光合成が植物にもっている意味がはっきりわかり、生物が生きるということの一生懸命さと切実さを肌で感じることができます。そのとき、子どもたちは太陽がもたらすエネルギーを自らの身体の温かさとしても感じています
 木々が太陽の光を効率的に有効に使おうとしていること、それは生命を永らえる、生きていく方向であること、自然の中での生物と環境とのやりとりに考えが及ぶとき、こう話します。
 「人間も環境からのさまざまな刺激や情報に対して、適応してあるいは備えて自分を育てていかなくちゃいけない。勉強することも、そのうちのひとつだよ」。

 課外学習で太陽と植物の関係を実際に見ている経験は、教室での南中高度と日照時間の学習、植物の生長の学習にも現実感とイメージの追い風があり、学習の定着と興味の持続がはかれます。

都会の片隅でも育つ学びのアンテナ
 体験学習は郊外の野山だけに限りません。街中の寺院や神社にも、南北だけではなくて生きることや歴史を教えてくれる樹は育っています。探せば公園にもイチョウやメタセコイヤなど、生態や進化・人間との関わりに子どもたちが興味をもちはじめるきっかけになる機会もたくさんあります。

 「針葉樹と広葉樹って、この間勉強しただろう?田植えで飛鳥に行ったときも杉とヒノキの葉のちがいを観察したね。針葉樹の葉っぱは針の葉って書くけど、この葉もやっぱり細いね。どうしてだろう?」

 文字面では知っていても、実際に針葉樹と広葉樹の葉のちがいをていねいに見た経験のある子はほとんどいません。子どもたちは、針のような小さな葉を真剣に見つめます。

 「たしか理科のテキストにも、雨が少なく寒い地方に針葉樹林帯ってあったね?」
 その問いかけに、子どもたちの頭はめまぐるしく回転しはじめます。
 「雪?」
 「そうだ、雪が積もったら落とさなくてはいけないね。それと葉の中にたくさん水を抱えると凍ってしまう。水の少ないところでは、できるだけ気孔から水分を失わないようになっている。だけど、細くて葉が少なければ、光合成のはたらきも少なく、大きく育てない。だから針のような葉っぱをたくさんつけることで、補っているんだろうね」。
 
 針葉樹は、夏の渓流教室の際のヒノキや杉林の散歩で大きく存在感が増します。
 生き物の少なさ・子どもたちがよく知っている虫はヒグラシしかいないこと、針葉樹の葉が魚屋さんやお寿司屋さんのショーケースの下で活躍している意味・フィトンチッドに話が進みます。
 そして、日本建築で日本のヒノキや杉を使えば数年間は蚊が入ってこないという大工さんの話や日本家屋につながり、宮大工の寺院建築や建築材料・樹の育ち方によって使う場所がちがう話。
 また、杉林は枝打ち・間伐の生きた教材です。花粉症が増えた理由や日本の木材が使われなくなってきた理由・その話題は外国木材の輸入による地球温暖化の理解を手助けします。
 教科書の知識はただの受験の材料ではなくなります。子どもたちが今立っているところ、そして自らの問題に変わります

 対象は樹木だけではありません。
 たとえば街中、歩道の脇、植え込みや庭先に小さな露草を見つけることはできます。
 可憐な露草の涼しげな色や変わった形に子どもたちの目が向けば、図鑑を開く機会も出てきます
 感じる心・見つける目をぼくは『環覚』と呼んでいますが、ふだんの小さな発見・注意力から「調べること」がはじまり、「考える力」が育っていきます。

 「露草」の項目を開けば、単子葉植物であることがわかります。らしからぬ幅広の葉が印象に残り、古来の染め物の材料でもあるという記述は、そのすがすがしい藍色と可憐な姿ともに子どもたちの頭の中に、歴史の引き出しも、一つつくります。
 
 それでは「『環覚』と『学体力』のアイデア」英文版6回目です。
  
To teachers all over the world 6
 In those days of your daily life when you become curious about things and want to know about their surroundings, it is the catalyst of studying. By gaining those strong motivations, you will know the necessity for this studying to pass the entrance examinations as a part of your dreams coming true. The reason why is that you will reflect upon your future, and realize its importance. That is the very opposite from the current abstract learning method using only textbooks.
 Before the former words, Dr. Masukawa says this.
You learn not only things written in a textbook, but you must work hard to examine and think about those things that interest you, that’s much better. 
 (“Masukawa Hakase No Roman Ahureru Tokubetsu Zyugyo ”  written by Masukawa Tosihide  The Asahi Gakusei Shinbun:This title is translated in English into “Dr. Masukawa’s special class of full of dreams”)

The reason why I underlined these words, is that we must carefully and deeply think about
the meaning behind these words, or behind the another recollections of many great men. I wonder if we would feel interested in or be curious about those things that are written in the textbooks in the same as these great people did. 
 Most great people and geniuses, who are naturally sensitive and talented enough, usually felt wonderment and interest about things in textbooks. But there are few ordinary people that feel interested or curious about their surroundings that are written textbooks.
 However they scarcely tell us how and why they could get such a sense about their surroundings. The reason why is that they had many experiences to think about the things of their surroundings, and since this kind of thought comes naturally, it is of no importance if other people have or don’t have this sense of wonderment.
 Even most great people don’t know why and how an ordinary child turns out to be a specially talented child. They never think about that. It becomes natural for them to not think about. Why did Dr. Masukawa feel wonder about things in textbooks?  Is it natural?

 But, I conceive, it must have depended on them to be so sensitive about so many observations of their surroundings during childhood. That is to say, most of learning matters written in textbooks are abstractions from things in surroundings or environment. They probably had looked at them (; things written in textbooks) in reality more clearly and in a much better way than ordinary people and had sympathy and felt kinship with them. If not, they wouldn’t feel wonder and have questions, because they didn’t get evidence to compare with each other.
 That is to say, children must care about things of their surroundings, and find something interesting, or of wonder. That’s KANKAKU(環覚) for children to get first. KANKAKU motivates them to watch things carefully, examine them and to think about them.
 Such many experiences give children the joy of studying. Children aren’t willing to study things unknown and strange by textbooks only like Edison. They have nothing in common with them, and don’t find any reason to study. “Sympathy and Kinship” is “ 馴染みNAJIMI and親近感SINKINKAN” in Japanese.
 To make matters worse, at present, there is lots of IT equipment around children, and they must not break this equipment because it is too precious and complicated. Most of them don’t examine or can’t watch what is inside of such equipment.   
 But it’s the best way for children to learn something important and get such precious things or treasures that they break them and try to rebuild them up again and again. And then, they understand that there are things that they must not and can never break in the world.

 Without breaking out and building up, they have less chance to find the joy of knowing about mechanisms and the make-up of things around them. They don’t know much about things around them.
 I doubt that current things in daily life give few opportunities for small children to feel wonders and get a different view point. How often does “Slow thinking” and “Slow watching” are activities prepared for them in their daily lives?
 Do you know that those insufficient surroundings for small children lay around them? If you don’t notice that, you would not be able to give your boys and girls a sense of things about their surroundings.
One of most important requirements to give a sense of these things about their surroundings to your children is to give them daily opportunities of “Slow thinking” and “Slow watching”.


発想の転換が可能性を開く25

2018年08月11日 | 学ぶ

人生に必要な物理50
 奈良県の田舎の進学校で、右も左もわからずくすぶっていたころ、当時の受験雑誌で目にした英英辞典を使えるようになりたくて仕方がありませんでした。いつのまにか編者であったA.S.ホーンビーという名や「新英英大辞典」(開拓社)という書名に憧れ、決して安くはなかった「革装」を手に入れたのですが、利用どころかチンプンカンプン。いつの間にか本棚の片隅で埃をかぶり、教育大に進学し、学生運動や結婚や子どもの誕生や、あれやこれやの間に、実家は引っ越ししており、ホーンビーもどこへ消えたか、わからずじまい。

 数年前に古本屋で見て、懐かしさのあまりもとめてしまった二代目も、Oxfordの現代英英辞典の陰に隠れ、ロングマンの用途に押され、彼は相変わらずぼくの英語学習とは無縁の、隠遁生活を送っています。
 当時そのU高校では同志社を出て(うわさです)、当時珍しかったトヨタのスポーツタイプに乗り、ヘアースタイルをポマード(?)できちんと整え、007ばりにアタッシェケースをもち、さっそうと校庭に止めた車から降りるT先生。おそらく「ええし(金持ちのことを、当時田舎では、こう云いました)」の跡取りだったのでしょう、授業にはPODをもってきていたようです。

 幸か不幸かぼくたちのクラス(国立大文系志向)では小柄でヒョコヒョコ歩き、時折笑えないギャグやH話で生徒の機嫌をとるF先生で、直接指導を受けることはできなかったのですが、英英辞典を開いて目を白黒させていた当時のぼくが、PODを使った指導を受けていたら、今頃どうなっていただろうと、いろいろ思いをめぐらせています。ひょっとして英英辞典の使い方をまちがっていたかも・・・。
 OB教室で、中一の英語を知らない時から、ロングマンベーシックも使うことをすすめ週一で一年間、CAMBRIDGEのgrade reader"Logan’s Choice”に夢中で向かうようになっているH君を見て、心からそう思います。

 ぼくは、なにかのふしぎな力で中年を過ぎてから子どもの指導を始めることになり、今ベトナムで言語学の研究を始めたY君の京大受験英語指導というきっかけがあり、「老人と海」から始めた読解から12年間。当時憧れだった英英辞典を開けるようになりました。
 近くにいる同級生で、難関を受験突破してあちこちの先生になっている友人はいますが、英語の本を読めるようになっているという人はいません。高校時代の007のPODも、H話のF先生の指導も残念ながら実らなかったわけです。
 子どもを指導している身として、先生(指導者)とのきっかけが、成長や人生にもつ意味の大きさを、今更のように感じています。Y君の指導を始めてから、OB教室に進んだ子は、ほとんどが英語の本を読めるようになっているのはぼくの救いですが、見聞きする、巷間の小さい子どもたちへの指導については、まだまだ「闇の中」だと感じています。
 

今、「人生に必要な物理50」(ジョアン・ベイカー著 和田純夫監訳 西田美緒子翻訳 近代科学社)を読んでいますが、大学受験や高校受験の問題に出てきそうな、環境の物理へのしくみの数々が、丁寧に解説されています。レビューを見ても結構高評価なのですが、本来は、こういう本を、一生懸命何とか読もうとするのは、おとなではなく小中学生であってほしい、と感じました。
 環境に対するセンス(「環覚」)を身につけ、その奥行きに興味を惹かれ、何とかしくみを探っていこうとする、そんな子どもたちから、偉大な発見や発明が生まれてくるだろうからです。理科離れや論理力の低下の修正も、まず環境を整えることから始まります。

 落ち着きがない・騒がしい・けばけばしい日常生活と日常の環境、「健康のために」と、本来なら年寄りがぴったりのスイミング教室や体操教室。終わればピアノやバイオリンさらに受験勉強と、周囲を感じたり、環境に目を向け、その謎に気づいたり、それらを考え込んだりという日常が、どこかへ消えてしまった今、「理科離れ」や、じっくり考えをまとめ思考を進めなければいけない「論理力の低下」は当たり前だということに、ほとんど誰も気づかない。不審にも、疑問にも思わない

 さらに運動神経があまりない子にも、「いかにも一流選手になれるような、二流の指導」が蔓延り、その間にも、子どもの大きな可能性や鋭い感覚が、ドンドン消失してしまっている。サッカーや野球では、運動神経から見て、可能性の開花はあり得ない、ということはスポーツをふつうにやっている人なら、ほとんどわかるはずなのに、朝から晩まで可能性のない練習に明け暮れ、他にもっている可能性をことごとく潰してしまう・・・
 たとえば、メッシやロナウドやイチローや大谷になる可能性は絶対なくても、日本のノーベル賞学者になれる可能性は、少なくともそれらよりはるかに高いはずだ、とぼくは思っています。ほんとうに子どもの将来を考えている賢父・賢母であるならば、子どもの応援にはそういう視点が最も必要であると思います。

 子ども時代のあれこれや、頭脳の発達を促す期間の短さは、自らの経験を振り返れば、おのずと明らかになるはずです。そういう意味から、今日も可能性をつぶされている多くの子どもを、何とか救おうとしている方たちに、心からエールを送りたいと思います。
 それでは「環覚」と「学体力」のアイデア、英文の5回目です。

  
To teachers all over the world 5
 Their teaching methods were most natural for children to learn and study, because of this the two boys experienced the joy of studying from those methods. Besides developing confidence they could discover the wonders of things and their surroundings. That is most important for children to live well throughout their lives.
 Now, think about the teaching methods of Edison’s mother and Feynman’s father again.
 Even if they were raising their child today, they would probably put priority on the same methods, I believe. For children, it brings the most happiness to know that they increase their power to live more than before and not to be forced to study by someone else’s desire, because that’s the very power for children to live well after there. You will have more powerful in your life to learn and study about your surroundings, and their make-up and mechanisms.

 Another notable point that we can make, is that two parents had provided Britannica for their children, and intended it them to arouse their questions and wonders. As a result both children had access to accurate knowledge and realized the depth and width of studying.
 First of all, these two parents convinced their children that they had limited knowledges of surroundings.
That was the first step to bring a sense of things in their surroundings. Such a sense motivates them to find interesting things and the wonders of their surroundings. It also motivates them to examine closely and find out more about them. That’s the GAKUTAIRYOKU, "学体力” I said.
 The joy of solving the questions of the wonders that they found, showed them that the environment was the happiest theme park and an amazing wonderland. From this they intended to find more interesting and wonderful things around them, and could create “the superlative textbook for themselves”

 Isaac Newton once said, 
 
 I seem myself to have been only like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me. (Isaac Newton) 

 Newton said that the great ocean of truth lay all undiscovered before him. But I want to tell you that “the great ocean of truth” lay before every child all over the world, it is however, a pity, that they have never watched their surroundings carefully. They don’t interact with their surroundings but only use textbooks. 
 And almost all of them don’t know that reality, and further more they don’t know about there being any pebbles or any shells on the sea-shore, because there is no sea-shore, and pebbles, and shells in textbooks. Of course, they can’t compare these things to be smoother or prettier than ordinary.
 
 

 ニュートンは、死ぬ前に私の前には広大な真理の海が広がっているのに、私はふつうより少しきれいな貝殻やすべすべした石を少しだけ拾って喜んでいる子どものようだったと振り返っています。しかし、その前にまず、子どもたちに浜辺の存在を教え、石や貝殻が落ちていることを伝えないと何も始まりません。子どもたちは探すことさえ知らないまま生命を終えます。


発想の転換が可能性を開く24

2018年08月04日 | 学ぶ

小学生の学習導入~学習の抽象性について
 ぼくは学習をはじめた小学生の学習について、よく抽象の学習という文言を使います。「表現」というものは、そもそも抽象ではないか、と単純に考える方も多いのではないでしょうか。
 団の立体授業では小川や一級河川の川辺などで、餅鉄を磁石で探したりガーネットやサファイアなどをパンニングして採取します。時にはそれらの川岸で青い粘土の層が見つかることもあります。

 つまり、現実の環境には、さまざまな川や水の流れがあり、その景観も多種多様で、川原にある石は、例えば、「堆積岩だけではない」わけです。それぞれ気の遠くなるような長い年月に様々な生成過程や「体験!」を経て、現在の姿になっているさまざまの石があるわけです。「抽象の石」ではありません。その石には過程も過去も未来も存在します。
 火成岩の中に含まれている石英やガーネットの細粒は、子どもたちの採取の楽しみであり、その生成過程を彷彿させる「かけがえのない存在」でもあるわけです。そこには、やがて学習対象になる珪素や金属元素の存在があり、火山活動や地殻変動があり、水の流れや水蒸気、気温や風による「介入」があります。

 現状の学習指導では、子どもたちは、それらを実際に見た経験もほとんどなく「異性が気になり、異性のからだに爆発的な興味をもつようになってから」堆積岩や火成岩のなりたちやしくみを「受験」と「単位」のために学習しなければならないわけです。こんな理不尽(!)そのものの学習がありますか? 
 何も知らされないまま「わけのわからない石」と「水着のかわいい女の子」が現れたら、「よく見たい」と思って石の方に近づくのは、よほどの「オタク」か、頭のおかしい、寂しい子でしょう。女の子の場合なら、「石」の横にアイドルや韓流スターを据えれば、よくわかります。つまり、そうした「勉強」は多くの場合、「次のステージ」を目指すことにはいたらない、とってつけた学習です
 子どもたちの学習は、今おおむねこんなスタイルで進んでいると考えても、「まちがい」と云えないことは、学習状況に一生懸命目を向けて解決を図ろうとしている先生方には自明でしょう。

 「実際は、遠い昔から、現実世界を眺め、対象を手に取り、さまざまな細工を加え、利用し・・・」というその対象にかかわる「『先人』たちの多様な経験とともに、その存在の認識と成り立ちや仕組みの解明を続けてきて、今の科学が存在し、生活があり、我々の(子どもたち)の学習内容があるわけです
 このように、学習内容は現実世界のものが、ごくごく「抽象化」されたもので、指導や指導内容のなかでは、その過程にあったそれぞれの時代や人間とのかかわり・感激・感動がほとんど見えてこなくなっています。子どもたちが「現物」を見て感じるはずの、「なぜ!」も、「どうして!」も、すべて抜けてしまった、子どもたちにとってみれば、いわば「カス」ですこういう子どもの気持ちに「鈍感な!」人は教科書をつくったり、検定したり、指導したりしない方がよいと思います。なぜか? 興味を引きつけるような指導や結果が期待できないからです

 石ころと宝石の取り組み。河原にある石を観察します。
 「宝石や餅鉄を探す」わけですから、当然あちこち目を走らせ、「よく観察する機会ばかり」です。子どもたちの注意力が養われます。観察力が鋭くなります行動そのものが「学習」になります、野外では
 これらの能力は観察や実験に役立つだけではありません。当然、テストの際の見落としや見まちがいなどのケアレスミスの防止にも効果的です。今の受験指導一辺倒の保護者や先生が見落としていることは、こういう面においても、子どもたちがバランスよく成長するにはどう指導すればよいのかという視点です。

 子どもたちは日ごろの行動もテストの解答も、すべて「一つの同じ頭」で取り組みます。つまり、それぞれの行動に、それぞれのタイミングでの成長面が影響しないわけはありません。ガチガチの教育ママ・パパは視点が固定化しがちなので、時には広く大きく考えることが欠かせません
 また、それぞれの川で、景観をよく見れば、当然のことですが、おもしろいものがたくさん見つかります。「川の石にも注意すること」に目が向けば、まず、石の様々な姿や形・大きさ・ありようが比較できます。まず比較です。そこから科学は始まります
 それぞれの川の特徴によって、形や石の削られ方がちがい、大きさも変わることに眼が向けば、川の流れの広さ・深さ・速さにも「視点」が広がります。石を見なれ、縞模様の石や小さな粒の集まる石、粒が見えない石等の区別ができて、石の組成に考察が向かいます。「教科書の写真」から石のなりたちと組成に考えや興味が向かうことは、あっても稀です、小さい子たちは。現状では、教科書が「見知らぬ人のアルバム」だからです。

 石を見馴れたことによって、それぞれの石のなりたちに興味が向かい、生成過程に考えが及びます。火成岩が区別でき、目の前にある石基や斑晶の大小の実見で、教科書の説明を超え、火山や地球のなりたちと変遷・地殻変動への「身近さ」を手にします。学習対象が子どもたちに近づきます。
 団での石の体験は川辺の観察のみに止まりません。化石採集では、岩盤のなかから化石とともに小さな丸いチャートが見つかることがよくあります。この小さなチャートや川原で見つけた角が取れ始めた礫岩。チャートの成立の条件や教科書で学んだ丸い小石のでき方を振り返ることで、石たちが気の遠くなるほど長く生成と消滅をくりかえしているという過去が子どもたちの頭の中で育ち、悠久の地球の歴史をイメージできる下地もできあがります。

 つまり、これらはいずれも教科書や室内での学習をはるかに超える、学習が学習に終わらない「次のステージ」へ誘うきっかけになるのです。それは「抽象的な学習」では決してありません。 
 また補足ですが、川辺で見る風物や石の微妙な色合い、自然の色は人工色になれている子どもたちの色彩感覚や美的感覚に、大いに寄与してくれるだろうことも明らかです。先生方、これが団の総合学習です。
 野道や山道での自らの周囲や環境に対する気づきから発見や観察が始まる。季節や時間の流れのなかで微妙なちがいに目を留め、変化に気づくことによって、おもしろいことがはじまります

 そのきっかけをうまく生かすことによって、「『教科書と学習内容』が勉強!」という、「子どもたちの日ごろの意識のなかに存在する『抽象性の境界』」が溶解し始めるでしょう。教科書および学習内容は手の届かないところのものではなくて、いつも「となりにあるもの」だ、という現実に目覚めるはずです。それが勉強や学習内容に対する「なじみ」です
 先端科学の「実演」を見せる前に、まず、このような「現実認識と科学的な考え方や環覚」が生まれている経験が必要なのです。それが「先端科学」の紹介で飛躍するわけです。その「環覚」や、それによって生まれる『学体力』があっての「先端科学」です。エリート校の先生方、アドバルーンや見栄では生徒は大きく伸びません。

 それでは、「環覚」と「学体力」というアイデア、4回目の英文です。

To teachers all over the world 4

What is the proper way for the parents who are earnest about their children’s education to pursue?
 In order to solve these problems,the parents, who have dreams and responsibilities for their children, need to envision a new way. If not, the matter would continue to be fruitless.
 Many parents have made their children study at well-known cram schools only to pass the entrance examinations of prestigious upper schools and universities. They have a tendency to overlook their children’s feelings of accomplishment and satisfaction.

 Of course, there may be many unreliable schools and cram schools. But then, I guess, we often forget a more reliable way of teaching by ourselves. The people, who dared to choose to teach their own children are the very same people that have raised successful and world renowned are the sons and daughters.
 Everybody feels happy to have children, but there may be great differences of great people in the form of education while bringing them up. The hopes and dreams of the parents for their children to be wise, honorable come true in part, because,their consciousness of responsibility has greatly helped the developments of their children’s faculties.
Every parent hopes their children will become wise, and they must know what to do to achieve that. Feynman’s father and Edison’s mother and many other parents of great persons carried that out.
Feynman’s father’s dream was for his son to be a scientist, and Edison’s mother was sure of her son’s ability and hoped him to be an excellent person.

  What was that they did first to make their dreams come true?
Edison’s mother removed her son from school, because he was curious and neglected to follow Mr. Engle’s abstract teaching with textbooks and training only. But she never enrolled him in many schools as many parents do. She would not rely on other’s teaching methods. She tried to think about things that her son found out about nature and their surroundings, together.
And he developed KANKAKU(環覚) around his surroundings gradually.
 Feynman’s father’s effects on caused him to have interest in nature and his surroundings. He then thought about their mechanism and discovered their composition together.
Of course, these two parents must have been occupied with every day’s work and chores like ordinary parents do, so they made efforts to do as much as possible. I guess, and each parent may not have done very well, but certainly enough to motivate their sons to study hard and realize the joy of studying throughout their lives.
 Just wanting success and leaving it to others is not acceptable, these two parents took an active role in their sons quest to make their dreams come true.