『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

米作りで学べること(11)

2012年12月29日 | 学ぶ

 

 

 ぼくたちが生きていけるのはなぜなのか? ふだん何気なく通り抜けますが、食材売り場に並んでいる牛肉・豚肉・鶏肉、すべて生命を絶たれたものです。人間が食べるためだけに勝手な交配を重ねられ、あるいは去勢までされたものもいます。食料としての有用性のみで飼育され、なお、寿命半ばで強引に生命を絶たれるわけです。僕たちは「見えない」、「見ていない」だけです。競馬場で一生懸命走っていた馬たちは、能力を見限られれば下取り解体されるものがたくさんいます。すべて温かい血が流れ、人とふれあえる、「ものがわかる」動物たちです。購入するとき僕たちは不遜にも、「できれば新鮮なものを」という意識さえはたらくのではないでしょうか。こんな残酷な仕打ちがあるでしょうか。日々どれだけ犠牲になっているか。
「菜食主義者?」。植物にだって生命があります。大根やニンジンの「へた」を切ったとき、皿に入れて窓辺におき、毎日水を取り替えてあげると、大きくなって茎が伸び、花を咲かせます。野菜も生きています。部屋にあるゴムの木はどんどん大きくなって、天井につく気配を感じたのか、「頭」を横に、伸び始めました。それでも植物は生きていませんか?  大根を切る、キャベツを切る、動物の切り身を食べ、生きているエビやカニをさばく。人間は、植物・動物に限らず、他の生物を犠牲にしなければ生きていけない存在です。そして「他の生き物を殺さねば生きていけない」と自覚でき、「殺しているということを考えられる」唯一の動物です。不条理そのものの存在です。
 ぼくたちが自然や植物・動物たちの側面・その姿について学び、考えを深められる力を持ち得ているのはなぜか。自らの生命の終わり、寿命という限界を意識でき、そこから自らを振り返ることができるのはなぜなのか。僕たちはそのたいせつさを忘れがちですが、それらを問わないヒューマニズムではあまりに薄っぺらく、考える子を育てるきっかけにはなりません。「何を思い、どうしなければならないか」を問うことによって、思いやるこころや生命の大切さへの思い、その深さが生まれてくるはずです。

 


 「手軽に、便利に」切り刻まれた魚や野菜が店頭に並び、出来合いの総菜やファストフードなどに囲まれた毎日。家庭では手間が省ける冷凍食品やレトルトパック。中身はすべて細切れ・切れ端。生き物とは思えない姿・形です。かつて子どもたちは学校の行き帰りに、生きていることがわかるネギやダイコンを目にすることができました。駅前の魚屋では釣り上げられた形のまま魚が肩を並べ、お使いに行けば目の前で要望通りに手際よく捌かれていきました。家の台所ではトントンという小気味よい音とともにネギや大根が切り刻まれ、食事の支度がはじまりました。包丁を持たせ調理させたり、手伝わせたりという日常の中で、子どもたちは魚や野菜が姿を変えていくのを見ることができました。
 魚を捌き、野菜を一から調理する家庭は極端に少なくなりました。いのちを感じられるもの、成り立ちが見えるもの、生命とつながるものの有り様や「食べものの生きてある姿」が子どもたちの目の前から次第に消えてなくなっていきます。「元の姿が見えない魚を買う」ことと「魚を捌く」のとでは、生命の手応えは比較になりません。生命あるものが次第に姿を変えていく様子を見て心を動かされないような子どもはいません。同じように食べたとしても、食べ物に対する思い入れもまったくちがってくるでしょう。
 「ヒトは生き物を食べて生きている」という感覚から遠ざかることは、いのちやいのちの重さから遠ざかるということにはならないでしょうか。遊びで触れあう小動物のいのちの姿、動物の生命を糧としている人間、それらの有り様をしっかり見た傷みを抱えてこそ、子どもたちは優しさを身につけていくはずです。
 好き嫌いで鶏肉やピーマンを残すことは、作ってくれたお母さんや給食のおばさんたちに悪いだけではありません。自らの生命を断ち、ぼくたちの生命を育んでくれている動物や植物に申し訳ないのです。食事の前の「いただきます」や「ごちそうさま」は食べ物とその生命を育んでくれているお日様や空気・水・土、つまり「地球」にもしなければならない挨拶です。
 自然に浸り、自然の懐に抱かれることで、ありのままのいのちの姿に目覚めることができます。生命が見られること、自然や他の人に対する思いやりや優しさも、そうして生まれてきます。生命の姿が見えなくなっている今、伝えるべきは「いのち」の成り立ちとしくみです。

 

 

 

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米作りで学べること(10)

2012年12月22日 | 学ぶ


える生命と見えない「いのち」ー成り立ちとしくみを学ぶ ー4

  自然というものは人の心を癒す不思議な力を宿していて、自然こそ、最高の教師だと僕は思います。

 生命あるもののすばらしさも、またどんな生き物にも必ず訪れる死についても、自然のふところでのびのび遊びながら、子どもたちは体で知っていくことになるのです。むろん、自然界の残酷な面をも目撃することになるし、ときには子ども自身、ちいさな生き物たちに残酷な仕打ちをして遊ぶことだってあります。

 


  蛇のしっぽを地面にたたきつけたり、昆虫をちぎったり、かえるに息を吹き込んで破裂させたり—。でもそれは、おなじ生命あるものとして生きていく予行演習のようなものでしょう。そこで様々な生き物たちの生と死に出会って、生きることの喜びの裏側にある悲しみも知らず知らず体の奥の方で理解していくのです。
(「ガラスの地球を救え」手塚治虫著 光文社より)

 手塚治虫の体験は田舎育ちの団塊以上の世代にとっては共通のものでした。生きていること・生きているもの・いのちのしくみを覚えるのは、引用のように遊びやいたずらをするときだけではありません。自然の中に身を置くだけでいのちの伝達が始まります。自然が子どもたちの「生と死に対する環覚」を育ててくれます。
 雪がちらつく中、蕗の薹は黒い土と白い雪を押しのけて春の色を届けに来ます。土筆が顔を出し、タンポポが小さな花を咲かせはじめると、慌て者の虫たちがそわそわ散歩を始めます。満開の桜。花吹雪が舞った後の初夏の蒼い勢い。紅葉のあでやかさ。落ち葉の音の寂しさ。季節の移り変わりは「生きていることの喜び」、それゆえの「はかなさ」を知る格好の教材です。無意識のうちにも、いのちに対する環覚は育ちます。
 「いのちの環覚」とは「生あるもの」すべての生命からはかれる、限りあるいのちです。生命に限りがなければ、いのちはたいせつにはなりません。自らのいのちのたいせつさがわからなければ他のいのちもほんとうにたいせつにはできません。人生をたいせつにはできず、学ぶことの意味も見つかりません。

 
 自然とのふれあいがなくなれば、生命をありのままの姿で見ることができません。自然の中の存在であるという実感がどんどん希薄になり、生きているという感動を味わえる機会、いのちの時間が有限であることに気づく瞬間は極端に少なくなります。「虫さんがかわいそうでしょ?」。子どもたちの話を聞いていると、郊外などに出かけたとき、生きものをつかまえたり、いたずらすることをうるさく禁止されることも間々あるようです。
 しかし、カエルのおなかを破裂させた手塚治虫がヒューマニズムあふれる作品を書き、世界の子どもたちに夢を与え続けてきたことを考えれば、それほど短絡的なものでないことは明らかです。虫や魚を殺して殺人鬼が生まれるわけではありません。それより、「いたずらをすれば心の痛みを感じ、してはいけないと悟る」のが子どもの常です。自然の生きものに対する残酷さという点から考えれば、山を崩し、木を切り払い、小さな川までコンクリートで固め、農薬をまき散らす行為の方がどれだけ残酷か。みんなでそれを反省しなければなりません。「生きものの生命を大切に」というテーマは、もっと深いところから考え始めるべきではないでしょうか。


 「『嘘をつくな・狡をするな・楽をするな』2・米づくりで学べること」はあと二回、「生命に対する考え方」と「最大限の努力をすることのたいせつさ」について考えます。 その後、一月十九日からは「夢の教科書を求めて」です。相変わらず多くの子どもたちにとって義務や強制に過ぎない「勉強」。「学ぶこと」がおもしろくてしかたがなくなったエジソンやファーブル、ファインマンの例から、内発的、自主的に子どもたちが「学習」を進める方向への指導法を探っていきます。

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米作りで学べること(9)

2012年12月15日 | 学ぶ

 

 田植えや米作りの作業の前に近くの空き地でお弁当を食べます。田舎ですから小さな虫がたくさん飛んでいます。お弁当に入ってしまうことも時々あります。表面的な清潔志向だけで育てられた神経質な子がいれば大騒ぎです。頑として食べない子が出てきます。
 田んぼのぬかるみにはじめて足を浸けるとき、気味悪がったりする子も出てきます。付き添いのお父さんが「なだめすかして」入らせようとしますが、かたくなに入ろうとしません。「なだめすかして入らせようとしているから」永遠に入らないでしょう。小さい頃、田んぼや水に入ることを怖がっていたら、僕たちは「誰か」に後ろから蹴られました。

 このお父さんは、子どもが中学生になって反抗をはじめれば、手を拱いて打つ手が無くなる方でしょう。あるいは大きくなってから言うことをきかせようと、「慣れない」暴力をふるって、さらに反抗され、おどおどしてしまうかもしれません。小さい今なら、「何が嫌なんや!」「何がこわいんや!」「ぐずぐず言うな!」で済むことです。成り立ちとしくみがわからず「表面だけの清潔志向」「先を考えない上っ面の優しさ」、誤解のオンパレードです。泥田に浸かるという行為は、子どもの将来にとって役に立つことはあっても、マイナスにはなりません。

 
 僕たちが毎日食べている米は、男の子が気味悪がって入らなかった田んぼの水を吸いあげ育ったものです。また、田んぼのようすは女の子が食べなかったご飯に入った一匹の小さな虫どころではありません。オタマジャクシやクモやヘビ、ミジンコやプランクトン(これらもふつうは気づきません)がウジャウジャいる、どこから何を乗せて飛んでくるかわからない風に吹かれながら、「小さいゴミを芯にした」雨粒に何度も打たれながら育つのです。
 オタマジャクシやクモやミジンコがいなければ、さらにたいへんです。目には見えない農薬がたくさん使われているということです。「白いご飯」しか見てなければ、お米ができあがる前のようすを思い浮かべることもかなわず、正しい認識は生まれません。農薬をたくさん使っていても、白くてきれいだという姿しか見えないわけです。汚いものとは何でしょう? きれいなものとは何でしょう? ドロドロ・ニュルニュルであれば汚いのでしょうか? 成り立ちやしくみがわからないということは恐ろしく、そして情けないことなのです。
 世間では、表面だけの清潔志向・見かけだけの美しさ・ディベート流行の「口のうまさ」が、いよいよ幅をきかすようになっています。しかし人間のいちばん美しいもの、「きれいな心」は見かけや口先ではわかりません。

 
 清潔であることは大切ですが、それ以上にたいせつな免疫力は蔓延る病原菌や外敵に対しての必要性がその強さを育てます。完璧な殺菌や清潔さなど日常生活には存在しません。免疫力で被害を防いでいるわけです。それらがわかっていない清潔志向は、あまり意味がありません。
 「先を考えない優しさ」ともつながる話ですが、研究されなければならないのは消毒薬やワクチンだけではなく、病原菌あるいはアレルギーに対して、それらに抗するために、子どもたちは今後どういう経験を通して、どんな身体をつくっていかなければならないかということです。今いちばん研究されなければならない究極の「新薬」です。

  見かけ大事、「必要以上にかざったり、気にしたりする人ほど、中身がともなっていない人が多い」という経験はありませんか? 「口がうまい人ほど信用できない」という経験はないでしょうか? 何とか政経塾だけではなく、中学・高校や大学でもディベートで優劣を争うコンテストが一般化してきました。ディベートは政治上のやりとりや自己主張には大きな効果を発揮するかもしれません。しかし、その陰で、まったく忘れられていることはないでしょうか。

 言い負かせれば、事は済みますか? ことばで伝えるのが苦手な人の心をわかってあげられる優しさは一緒に育っているでしょうか?
 口先や見かけではなく、土に触れて感じる思いや感覚が枝葉を伸ばし、やさしくたくましく生きていく子どもたちを育てるのです。そして、何ごとも正しく判断するために必要なことは、人任せでない正確な情報・知識、そして冷静さです。体験はそれを準備することを教えてくれます。

★ホームページに今年最後の立体授業「ミカン狩り」をアップ紹介しています。あわせてご覧ください。★

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米作りで学べること(8)

2012年12月08日 | 学ぶ


土に触れるー成り立ちとしくみを学ぶ(3)
 子どもたちの指導法を伝えたいとはじめたブログです。つたなさのまま、もうすぐ満一年を迎えます。
 毎日20から30人の方に覗いていただくようになって、子どもたちの指導に熱心な方の予想外の多さに感激と嬉しさ、そしていっそうの責任を感じるようになりました。いつもほんとうにありがとうございます。
 このブログを読んでいただいている方は、多くが小さい子どもを育てていらっしゃるお母さんやお父さん、また小学校や塾の先生方ではないでしょうか。いつもできる限り参考にしていただけるようにと願いながら書いているのですが、力不足で要領を得ないところがあるかもしれません。もう一度、米づくりの稿を長く続けている意味をお話ししたくなりました。
 もうすぐ大手受験塾では学校さえ休ませる受験知識の「缶詰指導」—将来の消耗と退廃を約束する学習—がはじまります(もうはじまっているかもしれませんね)。子どもたちのほんとうの学力や学ぶ面白さは受験参考書や受験前の缶詰授業で育つのではありません。日々生きていくなかで目にするものに向ける彼らの「環覚」がそれらを大きく育てていきます。
 学習をおもしろく、自ら積極的に学ぶ姿勢を育てるには、ふだんから現実の学習対象になじみがあること、親しみをもっていることが大きなきっかけになります。

 


 何のつながりもない、興味もない、見知らぬ人(学習対象)のアルバム(教科書)を見せられて、どんどん調べが進んだり、研究する機会、学習を「深追い」する機会が生まれるとすれば、それは希有な偶然です。多くは面白さが生まれないまま、自らを育てる肥やしにさえならず、記憶の片隅で二度と開かれることもないまま、焼却場まで道連れです。
 今回長くつづいている米づくりの作業やそれにともなう課外活動でのようすは、同じ風景の連続に見えるかもしれません。そうではありません。ちょっと、みなさんが道を歩いているときのことを考えてみてください。何かに目を止め、足を止めることがどれだけあるでしょう。
 子どもたちに伝えなければならないのは、そうした「殻」の脱皮なのです。見たことがある、知っているという感覚からの脱出なのです。そうでないと学ぶおもしろさは始まりません。自らの周囲に目を向ける「環覚」が育ち、それと正しい学習姿勢や学習習慣・学習指導のコラボが、学ぶ面白さを核に学習を進められる子どもたちを育てます。
 たとえば、米づくりのテーマの展開を、どうか「自らが指導するならば」という感覚で考え直してみてください。「学習材料そして子育ての材料」のアイデアが滾滾と涌いてくるはずです。そこから見えてくる子どもたちへの目の向け方が子どもを育てるために、いちばんたいせつなものであるはずです。

 


 ぜひ指導する立場になって想像力を働かせてください。自然に向き合い刻々と変わる景色の中で、自ら子どもたちを指導している姿をイメージしてみてください。みなさんの周りは、子どもたちの学習の芽や好奇心—「環覚」を養うことができる宝物ばかりではないですか? その見方が優秀な子を次々と育てられる指導法として結実します。そしてぼくは、これからもみなさんへの、そのヒントを探しつづけていきます。
 なお、団では保護者のみなさんへ指導のノウハウをお伝えする「母親教室」を開催しています(十二月十五日開催・隔月開催・詳細はホームページで)。
 さて、いつも僕たちは土の上に立っています。しかし「土とは何か?」、そう聞かれて、すぐに答えられる人は多くありません。何からできあがっているか、どうなっているか。成り立ちとしくみがわからないからです。大人である僕たちがそうですから、子どもたちはなおさらです。「土」という漢字が易しく、いつも見慣れたものであっても、学習内容としては決して身近ではないのです。課外学習前の立体授業では、さまざまに土のことを学習します。土に触れることでわかることがたくさんあります。
 まず、「クワガタ探し」のときです。クワガタやカブトムシの幼虫はミミズや他の微生物と合わせて、山の土作りには欠かせない学習対象です。クヌギやコナラの腐葉土は幼虫と切り離せません。
 次は「渓流教室」です。川の流れを山からたどるとき、ブナなど広葉樹の森の占める役割を抜きにしては語れません。そして、秋の課外学習の立体授業では紅葉を取り上げます。落ち葉の話では「分解していくまで」がわかります。
 「餅鉄探し」の立体授業では「岩石サイクル」。山の母岩が風化によって細かく砕かれていくようすを学習します。土は岩が次第に細かくなるとともに、そこに生えてきた植物や動物の、いわば死骸である有機物が混じり合いつくられます。子どもたちは、これらの知識を積み上げていきます。土の成り立ちとしくみです。
 土の成り立ちとしくみがわかると「見えてくること」がたくさんあります。「成り立ちとしくみがわかるということ」は「正しい姿が見えるということ」なのです。顕微鏡で見れば、山の土の中には、おどろおどろしい生きものが嫌というほど住まわっているはずです。雨水が落葉の層を経て土壌にしみ込み、長い年月をかけて濾過されます。そして同じような土や岩間から出てきた水を僕たちはおいしく飲んでいるわけです。天然水です。

 

 
 

しかし、天然水精製の成り立ちとしくみを直接目にすることはあまりありません。目にするのは、ペットボトルに入ってきれいにショーケースに並んでからです。山の土がどういうものか知らないし、山の土と水の関係も正しくイメージできません。こういう成り立ちとしくみに対する無知が誤解の原因になることがよくあります。
 たとえば、田植えにしろ稲刈りにしろ、田んぼでの作業が終われば、子どもたちは泥まみれです。作業が終わった後、その汚れた足や手を田んぼ横の細い流れで洗います。流れで手足を洗う習慣に、お母さんたちは動揺を隠せません。
 ところが、炎暑の日、テレビのニュースなどで散見する、噴水に子どもたちに足や手をつけさせるような行動にはそれほど神経質なようには見えません。炎天下で溜まり水を循環放水する噴水と、自然の山から流れてくる冷たい小川の水です。心配の仕方が逆です。
 山の水の成り立ちとしくみを知っていれば、「山からわき出た細流」と「溜まっている噴水池の水」のどちらに菌が多いかは想像の範囲内です。流した後はお百姓さんの庭で水道を拝借し、もう一度きれいに汚れを洗い流します。噴水遊びとどちらがきれいか?

 

★ホームページに今年最後の立体授業「ミカン狩り」をアップ紹介しています。あわせてご覧ください。★

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米作りで学べること(7)

2012年12月01日 | 学ぶ

 

 

 野外での作業や課外学習では、目にするもの・触れるものすべてが学習の対象になります。例えば食物連鎖です。ふだんの授業ではもちろん、田植えや渓流教室・稲刈りのスライド授業でも「食物連鎖」が頭に入っていきます。

 ミジンコたちが田んぼで植物プランクトンを食べ、カブトエビやオタマジャクシに食べられます。その彼らをゲンゴロウやヤゴなどの昆虫が食べ、昆虫はサギの仲間などに食べられます。稲先ではウンカなどが稲の葉や茎を食べ、彼らは他の昆虫やクモに食べられ、クモはカエルに、そのカエルはヘビやサギの仲間に食べられます。小さい生きものを食べるヘビやサギも決して安泰ではありません。時にオオタカのエサになってしまうこともあります。動物たちの死骸やフンは土に帰っていきます。

 

 これらをただ覚えるだけでは受験の材料にすぎません。学習は発展しません。
 しかし、米作りでは、子どもたちの眼前で「生きている食物連鎖」が展開します。カエルを食べにくるヘビ、中サギやコサギ・大サギがそれぞれ「めぼしいもの」を見つけようと、田の上を飛んでいます。渓流教室では子どもたちが捕まえたヘビトンボの幼虫やサワガニが、小さい水槽の中で小魚を大あごや大きなはさみで挟んで食べ始めます。土筆ハイクの際、朝風峠のため池ではウリ坊やタヌキの亡骸が浮かんでいます。餅鉄探しの川原では、よく動物の頭蓋骨や骨が見つかります。
 大きな生物も死に絶え、それらがやがて土に帰るという明確なイメージが子どもたちの頭の中で生まれるのは「野外での体験を重ねてこそ」、「田や森を知っていればこそ」ではないでしょうか。夏、赤目の宿舎には毎晩シカが何頭も現れます。お米の収穫の時期には増えてきたイノシシが稲穂を食べてしまうこともよくあります。体験は食物連鎖に終わるのではなく、生態系と僕たちとのかかわりを考えるきっかけも生み出します。

 


 思慮深さの育成も米づくりと無縁ではありません。年一回収穫の農作業には失敗が許されません。ところが無思慮な行動で取り返しのつかない結果を招くことがあります。
 たとえば、害虫を退治する農薬で、害虫であるウンカが秋に大発生する場合です。農薬を使えば天敵である益虫も大きなダメージを受けるからです。よかれと思った農薬散布が逆効果になるわけです。散布の回数が増えることで抵抗力をもったウンカが増えてしまうことも原因のひとつです。
 よく考えず、あるいは目先のことだけを考え、なりたちやしくみの全体を見ることができないと、大きな失敗を招いてしまう良い例です。便利だからと自動車が増えすぎた無思慮が地球環境に与えた影響もつけくわえれば、そこから子どもたちの考える深さが変わります。
 ウンカの逆襲の話は、人類の永遠のテーマであるウィルスや病原菌の耐性を考えるきっかけにもなります。インフルエンザの例のように、強力な特効薬が出現するたびに、しばらくするとその薬が効かないウィルスが誕生します。こうした話で子どもたちは人間の活動が生態系に与える影響やそのしくみも理解していきます。
 田んぼや川・山の中で、生きものの食物連鎖を実見し、稲作や天気と自然との関わりを実感し、そして苦労しながら自らが育てあげたおいしいお米を味わう。生きている作物・育っていく作物と真剣に向き合う米作りは、文字からの味気ない知識だけをストックしていくのではなく、時にイレギュラーやハプニングをともない、子どもたちの「生きていく力」も育ててくれます。

 

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