経験談を正直に書きました。バカ正直すぎて(!?)、先週閲覧が減りました。よい先生は周辺にもたくさんいらっしゃいます。一般的傾向に対する意見ですので、どうか誤解のないようにしてください。
さて、年寄りの戯言ですが、少し補足しておきます。
何かを改善、あるいは改革しようとするとき、客観的意見や新しい提案に対する反発・疑念・諦観・腰の重さは会社勤めで何度も経験済みです。変えない方が楽だから必ずそうなります。
しかし人の営為やからだのしくみを冷静に振り返れば、採るべき道は明らかです。ぼくたちが発達や発展を成就させるためには、負荷や努力のプラスアルファの継続が欠かせません。
負荷や努力をプラスアルファすると負担が増えます。「シンドイ」からみんな気が進まず、踏み出そうとしません。しかしそれを始めることによって、その「しんどさに耐えられる力」も身につきます。成長です。
ぼくたちは往々にしてそれらの利点を忘れがちです。そちらの方が人生にとっては大切ではありませんか? 踏み出さなければ、自らの能力を育て、力をつける機会も放棄することになります。成長の秘密を忘れられません。
子どもの成長にしろ、脳の発達にしろ、それが人である私たちのからだと生きていくしくみの「原理」です。身近なところで、廃用萎縮やウェイトトレーニングを考えても、そのしくみは容易にわかります。かつて会社勤めで組織が動かなかったとき、ぼくはこう伝えました。
「耳の痛い話」ほど、「自らが改革すべき短所や欠点を突いていることが多い。参考にしなければならない」。もう一度、よく考えてみましょう。その反省や検討によって、自らの改善を図り、向上あるいは変化しなければ、周りを巻き込むような大きな「うねり」にはならない、旧態依然では改良や変革は起こらない、「進歩はない」。
受験や受験勉強を含む、教育(界)の流れはどうでしょう。社会や国を支える根幹、これから大きくなり、世の中を背負っていく子どもたちを育てるのが教育、「育てる」のであれば、「育てたい」のであれば、「育てなければならない」のであれば、その責任や思いにかかわる「あらゆること」に対して、マンネリは打破し、ルーティンは見直し、反省と検討を重ね、企画やアイデアを温めながら、「少しでも先に進むことを第一に考えるべきだ」。ぼくはそう考えます。躊躇や逡巡は停滞です。停滞は後退です。
脳のはたらきから、新しく学習要件が次第に明らかになりつつあるとき、相も変らぬ「先端科学~」の掛け声や「機器頼り」だけではなく、「人頼り」の学習指導の方法や方法論に的確に焦点を当て、アイデアを展開していくことが、現在の学習問題を解決するためには一刻を争う急務だと考えています。
「先端科学」や「機器」には血が流れていません。「機器」では教育や指導にもっとも大切な信頼関係は築けません。
また、会社勤務の経験から明らかになったことがあります。「イエスマン」や「従順で害のない同僚や部下」・「『右に倣え』の社員」ばかりを集めたり、餌をもらった時だけシッポを振ってついてくる社員が多い会社は、詰まるところ「沈滞」か、やがて「倒産する」しかありません。
ですから今後も正しいと思うことを書き続けていきます。アイデアから半歩でも一歩でも前に進めるヒントを見つけてもらえることを願いながら・・・。
運がいいとか、悪いとか
しばらく受験に神経をとられ、映画の紹介ができませんでした。年末から相変わらずレビューのいい加減さに裏切られ、腹を立てながらも、たくさん見た中で気に入った作品があったので紹介します。
まず「ダイハード4.0」。ダイハードのシリーズは、ブルース・ウイリスのヘアースタイル(!?)を見て、なんとなく親近感(!)が湧いてからすべて見ました。ダイハードは「4.0」まで結構楽しめるシリーズです。
結婚生活もうまくなく、それでも奥さんが大好きで子ども思いの「イケイケ親父」が「かっこ悪く(!)かっこいい仕事をする」というパターンですが、ストーリー展開が「ツボ」にはまっていて、飽きさせません。だからと云ってなんということはないのですが・・・。
次はカーク・ダグラスの「チャンピオン」。
「ボクシング」で描いていますが、結構な人間ドラマになっています。この作品もそうですが、古い良い映画は、映画そのものを丁寧につくっています。軽々しい感じはしません。
主演のカーク・ダグラス。「人間の裏面を強調するようなイメージ」の強い役柄が多く、その容貌も相まって、彼を使うのは、創る方からすれば、いつも大きな賭けだったかもしれません。強い個性は役者人生では「損をした?(もっと活躍できた)」のかもしれませんが、存在感で他を圧倒する名優です。
次です。「ある日どこかで」。
クリストファー・リーブが、偶々見つけた写真の女優に恋をして・・・という映画です。この作品では、その憧れの女優に扮するジェーン・シーモアの魅力に目を見張りましたが、最近の彼女の変貌に驚きました。年とともに、笑顔が「廃れて」いってしまっています。
キラキラ輝くような表情が影を潜め、目や口は笑っていません。写真を撮り続けてきた経験から云うと、年をとるにつれて、「人生や付き合った人間関係のカス」「心の檻」のようなものがたまってきて、口元が微妙に歪み、笑顔が「部分笑顔(笑い)」になる人がたくさんいます。政治家には特によくありますね。
「よいもの」を心に積み重ねることができた人は、ほんとうに「目」がうれしそうに笑っています。女性もほんとうにきれいな人は、そんなにたくさんいないことがわかると思います。みなさんも、今度、一見「きれいな人」の写真をていねいに見るようにしてください。きっと真贋を判別できます。ぼくも死ぬころまでにはよい笑顔になっているよう心していきます(笑い)。
ところで、この映画は「ある日どこかで」とのタイトルですが、個人的には「いつかどこかで」の方がよいと思うのですが・・・。また、主演のクリストファー・リーブが、どうも「スーパーマンのイメージ」が強すぎていけません。掲示のDVDケースの写真をご覧ください。「いかつい身体」が邪魔をしていませんか。私見ですが、もう少し華奢な俳優を配役した方が、映画はもっとヒットしたのではないでしょうか。
次はキアヌ・リーブス。「フェイクシティ」です。よくある「ロサンゼルスの悪徳警官」もの。ここでは逆に、リーブスの顔が優男過ぎて、少し迫力に欠けるのが惜しいところです。
先ほどのカーク・ダグラスといい、リーブスといい、俳優が良い脚本や作品にめぐりあえて自らの存在感を確立できるかどうか、突き抜けられるかどうかというのも、運が左右しますね。
ぼくたちが社会に出ていろいろな仕事に就き、「存在感を発揮できるか」「頭角を現すことができるか」も同じでしょう。そのためにも子どもたちの能力は高く、可能性はできるだけ大きく広げておいてあげなければいけませんね。
次はキャメロン・ディアズ二作。「運命のボタン」と「ホリディ」。まったく傾向のちがう映画です。「運命のボタン」は人の心に潜む欲望が人生に思わぬ暗転をもたらす。いわば寓話です。この映画を見て、「しばらく考えにふける」瞬間がもてる人が多くなればなるほど、世の中はよくなるかもしれません。なかなかそうはいかないかな?
「ホリディ」はケイト・ウィンスレットとの競演です。結婚や恋愛がうまくいかない二人が・・・ホリディに・・・」。男運に恵まれる、ラブストーリーです。
ケイト・ウインスレットはそれほど美人でもないし、がっしりした「おばさん体型」だし、どちらかといえば田舎っぽい暗さや影を秘めた女優だと思うのですが、なんか心に残って気に入り、出演作はよく見ます。人生で初めてファンになった映画女優です。ハハ。こういうふうに映画を考えていくと、映画はやはりハッピーエンドのほうが良いですね。身体にいいです。
ホリディとハッピーエンドから、次は「ウォルター少年と、夏の休日」。
「どうしょうもない尻軽の母親に育てられていた、ひ弱なオドオドした少年が、遠縁のおじいちゃんの家に厄介払いされ…」、「ところが、おじいちゃんたちは、実は・・・」という映画です。「運がよかった!」少年の話です。少年がたくましく成長する姿を見たところで、子育てです。
過保護が「バカ」に育ててしまう
「能力(脳)の発達」や「頭をよくすること」について、ぼくは「机に座って勉強することよりたいせつなことがある」と、よく云います。今回は「脳の発達を促す指導」については、「子どもたちの日常生活の様々な行動に対するかかわり方が大きく影響する」ということを実例に即して考えてみます。頭をよくすること(脳の発達)について、「どういうことが、どう関係しているか」に納得していただけると思います。
かつて「渓流教室」の紹介の時話した事例です。ちなみに「渓流教室」とは夏休みに二泊三日で行う団の夏休み教室のことです。教室と云っても他塾のように勉強(学習)はしません。二泊三日、みんなで遊びほうけます。水遊びや自作の竿での魚釣り、エサもカワムシやミミズです。同じく自作の弓矢での射的大会、宿舎裏の里山でのクワガタやカブト虫・オオセンチコガネ捕り・・・など腕白遊びが満載で、夕食は二日とも野外でバーベキューです。近くの空き地でテントを組み立てバーベキューの道具や準備など、すべて子どもたちと一緒に用意します。その最終日の「後片付け」でのできごとでした。
バーベキューの焼き網を洗っているとき、一人の団員(5年生)のようすに目が留まりました。焼き網の方を満足に見ようともしないで(「汚れを注視すること」に気づかないで)、「ただ束子を力なく左右に動かしているだけ」なのです。そのままの行動形態がつづくと、学習にも能力の発達にも、深刻な影響があるだろうことが予想できました。しかし、一般的には、そうしたようすでもたいして問題視されないまま放置されることが多いと思います。注意すべき理由を説明します。
「別に作業を嫌がっているというようすではなく、今何をしているか、何をしなければいけないか、それにはどうすべきか、ということが全く頭にありません」。つまり自分が今何のために、何をしているか、何をどうしなければいけないか、という目的や目標が意識にないのです。
こういう行動は、「小さいころからすべて手伝ってもらったり、やってもらったり、子どもが手をかけないでもよいように用意や準備をしてもらったりしている」過保護の子の典型的な所作です。「何をどうしたらいいか」、「何のためにしているか」、「何をどうしたら目的が達せられるのか?」。 「それらがわからないまま『動く』ようになってしまっている」のです。手伝っても、「子どものようすを見て、あれこれ注意をしながらやれば、まだよい」のですが、何も考えさせないで、考える機会のない過保護な育て方をしていると、こういう結果になります。
みなさんは、「えっ? 元々頭が悪いんじゃないの?」と思うかもしれません。まったくそんなことはありません。学習に対する理解力や成績も決して悪くありません。先天的ではなく子育ての段階で、そういう方面に注意が行き届かず、知らず知らずにそのように育ててしまっているのです。
そのまま育ってしまう先々をイメージしてください。潜在能力には恵まれていても、社会的評価は「ほんとうに頭が良い子」ではありません。「目的意識がなければ仕事の内容を十分理解して成果をあげることはできないだろう」し、「『自分の考えや行動を客観的に見る』というメタ認知の能力不足」は「まちがい」や「見落とし」の大きな要因です。それでは責任感も期待できません。つまり、社会に出れば、結局「頭が良いとはみなされなくなる」のです。
小さいころから指導者や保護者がそういうことを意識しながら注意と修正を重ねる躾や指導が進めばよいです。「生来の頭」は悪くないので欠点は克服できますが、気づかなければ、世間から見れば、「頭があんまりよくない子」に育ってしまうでしょう。そういう例も多いのではないでしょうか。
子どもたちのこういう所作や行動に対して、よく注意を払い指導することで、きちんと目標意識や目的意識をもてる、またメタ認知のよくはたらく子、よく気がつく子に育つのです。そうでなければ、「頭が悪い子」に育つ可能性も少なくありません。
かみ砕けば、これらの頭のはたらきが、学習にも大きな影響を与える(成長に差が出る)ことがよくわかると思います。ぼくたちは一つの脳で思考し行動するわけで、学習脳という特別な脳があるわけではありません。逆に「学習以外にもバランスの良い脳の発達こそ学習に好影響を及ぼす」とぼくは信じています。
また普通に考えてもわかるように、目標や目的意識がない(見えない)行動や作業ほど「疲れて嫌になる」ものはありません。勉強が嫌になるのも多くはこれらが原因です。ぼくたち(指導者や保護者)は、「なぜ学習しなければならないか」という答えも、子どもたちが納得できるようにきちんと考えておくべきだと思います。
ちなみに、ぼくは「脳のはたらき」から、学習することの意味を説明します。「日常生活や日ごろの行動を例に、脳のはたらきやしくみについて説明できる本が、今はたくさん出ているので、みなさんも一度目を通されると、自らのためにも、とても良い「財産」になると思います」。今回のような話もその一例です。