『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには⑫

2017年01月28日 | 学ぶ

 経験談を正直に書きました。バカ正直すぎて(!?)、先週閲覧が減りました。よい先生は周辺にもたくさんいらっしゃいます。一般的傾向に対する意見ですので、どうか誤解のないようにしてください。

 さて、年寄りの戯言ですが、少し補足しておきます。
 何かを改善、あるいは改革しようとするとき、客観的意見や新しい提案に対する反発・疑念・諦観・腰の重さは会社勤めで何度も経験済みです。変えない方が楽だから必ずそうなります。
 しかし人の営為やからだのしくみを冷静に振り返れば、採るべき道は明らかです。ぼくたちが発達や発展を成就させるためには、負荷や努力のプラスアルファの継続が欠かせません。
 負荷や努力をプラスアルファすると負担が増えます。「シンドイ」からみんな気が進まず、踏み出そうとしません。しかしそれを始めることによって、その「しんどさに耐えられる力」も身につきます。成長です。
 ぼくたちは往々にしてそれらの利点を忘れがちです。そちらの方が人生にとっては大切ではありませんか? 踏み出さなければ、自らの能力を育て、力をつける機会も放棄することになります。成長の秘密を忘れられません
 子どもの成長にしろ、脳の発達にしろ、それが人である私たちのからだと生きていくしくみの「原理」です。身近なところで、廃用萎縮やウェイトトレーニングを考えても、そのしくみは容易にわかります。かつて会社勤めで組織が動かなかったとき、ぼくはこう伝えました。

 
 「耳の痛い話」ほど、「自らが改革すべき短所や欠点を突いていることが多い。参考にしなければならない」。もう一度、よく考えてみましょう。その反省や検討によって、自らの改善を図り、向上あるいは変化しなければ、周りを巻き込むような大きな「うねり」にはならない、旧態依然では改良や変革は起こらない、「進歩はない」。
 
 受験や受験勉強を含む、教育(界)の流れはどうでしょう。社会や国を支える根幹、これから大きくなり、世の中を背負っていく子どもたちを育てるのが教育、「育てる」のであれば、「育てたい」のであれば、「育てなければならない」のであれば、その責任や思いにかかわる「あらゆること」に対して、マンネリは打破し、ルーティンは見直し、反省と検討を重ね、企画やアイデアを温めながら、「少しでも先に進むことを第一に考えるべきだ」。ぼくはそう考えます。躊躇や逡巡は停滞です。停滞は後退です

 脳のはたらきから、新しく学習要件が次第に明らかになりつつあるとき、相も変らぬ「先端科学~」の掛け声や「機器頼り」だけではなく、「人頼り」の学習指導の方法や方法論に的確に焦点を当て、アイデアを展開していくことが、現在の学習問題を解決するためには一刻を争う急務だと考えています。
 「先端科学」や「機器」には血が流れていません。「機器」では教育や指導にもっとも大切な信頼関係は築けません
 また、会社勤務の経験から明らかになったことがあります。「イエスマン」や「従順で害のない同僚や部下」・「『右に倣え』の社員」ばかりを集めたり、餌をもらった時だけシッポを振ってついてくる社員が多い会社は、詰まるところ「沈滞」か、やがて「倒産する」しかありません

 ですから今後も正しいと思うことを書き続けていきます。アイデアから半歩でも一歩でも前に進めるヒントを見つけてもらえることを願いながら・・・。
 
運がいいとか、悪いとか
 しばらく受験に神経をとられ、映画の紹介ができませんでした。年末から相変わらずレビューのいい加減さに裏切られ、腹を立てながらも、たくさん見た中で気に入った作品があったので紹介します。

 まず「ダイハード4.0」。ダイハードのシリーズは、ブルース・ウイリスのヘアースタイル(!?)を見て、なんとなく親近感(!)が湧いてからすべて見ました。ダイハードは「4.0」まで結構楽しめるシリーズです。
 結婚生活もうまくなく、それでも奥さんが大好きで子ども思いの「イケイケ親父」が「かっこ悪く(!)かっこいい仕事をする」というパターンですが、ストーリー展開が「ツボ」にはまっていて、飽きさせません。だからと云ってなんということはないのですが・・・。
 次はカーク・ダグラスの「チャンピオン」。

 「ボクシング」で描いていますが、結構な人間ドラマになっています。この作品もそうですが、古い良い映画は、映画そのものを丁寧につくっています。軽々しい感じはしません。
 主演のカーク・ダグラス。「人間の裏面を強調するようなイメージ」の強い役柄が多く、その容貌も相まって、彼を使うのは、創る方からすれば、いつも大きな賭けだったかもしれません。強い個性は役者人生では「損をした?(もっと活躍できた)」のかもしれませんが、存在感で他を圧倒する名優です。

 次です。「ある日どこかで」。
 クリストファー・リーブが、偶々見つけた写真の女優に恋をして・・・という映画です。この作品では、その憧れの女優に扮するジェーン・シーモアの魅力に目を見張りましたが、最近の彼女の変貌に驚きました。年とともに、笑顔が「廃れて」いってしまっています。
 キラキラ輝くような表情が影を潜め、目や口は笑っていません。写真を撮り続けてきた経験から云うと、年をとるにつれて、「人生や付き合った人間関係のカス」「心の檻」のようなものがたまってきて、口元が微妙に歪み、笑顔が「部分笑顔(笑い)」になる人がたくさんいます。政治家には特によくありますね。
 「よいもの」を心に積み重ねることができた人は、ほんとうに「目」がうれしそうに笑っています。女性もほんとうにきれいな人は、そんなにたくさんいないことがわかると思います。みなさんも、今度、一見「きれいな人」の写真をていねいに見るようにしてください。きっと真贋を判別できます。ぼくも死ぬころまでにはよい笑顔になっているよう心していきます(笑い)。
 ところで、この映画は「ある日どこかで」とのタイトルですが、個人的には「いつかどこかで」の方がよいと思うのですが・・・。また、主演のクリストファー・リーブが、どうも「スーパーマンのイメージ」が強すぎていけません。掲示のDVDケースの写真をご覧ください。「いかつい身体」が邪魔をしていませんか。私見ですが、もう少し華奢な俳優を配役した方が、映画はもっとヒットしたのではないでしょうか。

 次はキアヌ・リーブス。「フェイクシティ」です。よくある「ロサンゼルスの悪徳警官」もの。ここでは逆に、リーブスの顔が優男過ぎて、少し迫力に欠けるのが惜しいところです。
 先ほどのカーク・ダグラスといい、リーブスといい、俳優が良い脚本や作品にめぐりあえて自らの存在感を確立できるかどうか、突き抜けられるかどうかというのも、運が左右しますね。
 ぼくたちが社会に出ていろいろな仕事に就き、「存在感を発揮できるか」「頭角を現すことができるか」も同じでしょう。そのためにも子どもたちの能力は高く、可能性はできるだけ大きく広げておいてあげなければいけませんね。

 次はキャメロン・ディアズ二作。「運命のボタン」と「ホリディ」。まったく傾向のちがう映画です。「運命のボタン」は人の心に潜む欲望が人生に思わぬ暗転をもたらす。いわば寓話です。この映画を見て、「しばらく考えにふける」瞬間がもてる人が多くなればなるほど、世の中はよくなるかもしれません。なかなかそうはいかないかな?

 「ホリディ」はケイト・ウィンスレットとの競演です。結婚や恋愛がうまくいかない二人が・・・ホリディに・・・」。男運に恵まれる、ラブストーリーです。
 ケイト・ウインスレットはそれほど美人でもないし、がっしりした「おばさん体型」だし、どちらかといえば田舎っぽい暗さや影を秘めた女優だと思うのですが、なんか心に残って気に入り、出演作はよく見ます。人生で初めてファンになった映画女優です。ハハ。こういうふうに映画を考えていくと、映画はやはりハッピーエンドのほうが良いですね。身体にいいです。

 ホリディとハッピーエンドから、次は「ウォルター少年と、夏の休日」。
 「どうしょうもない尻軽の母親に育てられていた、ひ弱なオドオドした少年が、遠縁のおじいちゃんの家に厄介払いされ…」、「ところが、おじいちゃんたちは、実は・・・」という映画です。「運がよかった!」少年の話です。少年がたくましく成長する姿を見たところで、子育てです。

過保護が「バカ」に育ててしまう
 「能力(脳)の発達」や「頭をよくすること」について、ぼくは「机に座って勉強することよりたいせつなことがある」と、よく云います。今回は「脳の発達を促す指導」については、「子どもたちの日常生活の様々な行動に対するかかわり方が大きく影響する」ということを実例に即して考えてみます。頭をよくすること(脳の発達)について、「どういうことが、どう関係しているか」に納得していただけると思います。


 かつて「渓流教室」の紹介の時話した事例です。ちなみに「渓流教室」とは夏休みに二泊三日で行う団の夏休み教室のことです。教室と云っても他塾のように勉強(学習)はしません。二泊三日、みんなで遊びほうけます。水遊びや自作の竿での魚釣り、エサもカワムシやミミズです。同じく自作の弓矢での射的大会、宿舎裏の里山でのクワガタやカブト虫・オオセンチコガネ捕り・・・など腕白遊びが満載で、夕食は二日とも野外でバーベキューです。近くの空き地でテントを組み立てバーベキューの道具や準備など、すべて子どもたちと一緒に用意します。その最終日の「後片付け」でのできごとでした。

 バーベキューの焼き網を洗っているとき、一人の団員(5年生)のようすに目が留まりました。焼き網の方を満足に見ようともしないで(「汚れを注視すること」に気づかないで)、「ただ束子を力なく左右に動かしているだけ」なのですそのままの行動形態がつづくと、学習にも能力の発達にも、深刻な影響があるだろうことが予想できました。しかし、一般的には、そうしたようすでもたいして問題視されないまま放置されることが多いと思います。注意すべき理由を説明します。

 「別に作業を嫌がっているというようすではなく、今何をしているか、何をしなければいけないか、それにはどうすべきか、ということが全く頭にありません」。つまり自分が今何のために、何をしているか、何をどうしなければいけないか、という目的や目標が意識にないのです。
 こういう行動は、「小さいころからすべて手伝ってもらったり、やってもらったり、子どもが手をかけないでもよいように用意や準備をしてもらったりしている」過保護の子の典型的な所作です。「何をどうしたらいいか」、「何のためにしているか」、「何をどうしたら目的が達せられるのか?」。 「それらがわからないまま『動く』ようになってしまっている」のです。手伝っても、「子どものようすを見て、あれこれ注意をしながらやれば、まだよい」のですが、何も考えさせないで、考える機会のない過保護な育て方をしていると、こういう結果になります

 みなさんは、「えっ? 元々頭が悪いんじゃないの?」と思うかもしれません。まったくそんなことはありません。学習に対する理解力や成績も決して悪くありません。先天的ではなく子育ての段階で、そういう方面に注意が行き届かず、知らず知らずにそのように育ててしまっているのです。
 そのまま育ってしまう先々をイメージしてください。潜在能力には恵まれていても、社会的評価は「ほんとうに頭が良い子」ではありません。「目的意識がなければ仕事の内容を十分理解して成果をあげることはできないだろう」し、「『自分の考えや行動を客観的に見る』というメタ認知の能力不足」は「まちがい」や「見落とし」の大きな要因です。それでは責任感も期待できません。つまり、社会に出れば、結局「頭が良いとはみなされなくなる」のです。

 小さいころから指導者や保護者がそういうことを意識しながら注意と修正を重ねる躾や指導が進めばよいです。「生来の頭」は悪くないので欠点は克服できますが、気づかなければ、世間から見れば、「頭があんまりよくない子」に育ってしまうでしょう。そういう例も多いのではないでしょうか。
 子どもたちのこういう所作や行動に対して、よく注意を払い指導することで、きちんと目標意識や目的意識をもてる、またメタ認知のよくはたらく子、よく気がつく子に育つのです。そうでなければ、「頭が悪い子」に育つ可能性も少なくありません。


 かみ砕けば、これらの頭のはたらきが、学習にも大きな影響を与える(成長に差が出る)ことがよくわかると思います。ぼくたちは一つの脳で思考し行動するわけで、学習脳という特別な脳があるわけではありません。逆に「学習以外にもバランスの良い脳の発達こそ学習に好影響を及ぼす」とぼくは信じています。

 また普通に考えてもわかるように、目標や目的意識がない(見えない)行動や作業ほど「疲れて嫌になる」ものはありません。勉強が嫌になるのも多くはこれらが原因です。ぼくたち(指導者や保護者)は、「なぜ学習しなければならないか」という答えも、子どもたちが納得できるようにきちんと考えておくべきだと思います。
 ちなみに、ぼくは「脳のはたらき」から、学習することの意味を説明します。「日常生活や日ごろの行動を例に、脳のはたらきやしくみについて説明できる本が、今はたくさん出ているので、みなさんも一度目を通されると、自らのためにも、とても良い「財産」になると思います」。今回のような話もその一例です。


勉強のできる子を育てるには⑪

2017年01月21日 | 学ぶ

 今週はちょっとヒートアップしてしまいました。リクエストに応えて、懐かしい学探三兄弟の登場です。

「甘ちゃん」でいいか?
 子どもたちを教えるようになって感じたことは、いわゆる「教育界(?)育ち」の先生方の認識や判断の甘さです。三例紹介します。
 まず、約10年前のことです。ある学校法人がテーマパークの跡地を購入して、小学校(仮にAとします)を建設しました。大きな池や広い敷地を利用してビオトープもつくることになったようです。
 ぼくは、やはり小学校を新設したある総合学園と懇意だったので、新小学校建設の際に、子どもたちのために自然を感知できる、つまりぼくの云う「環覚」を育てるための施設を作ることをトップに進言しました。トップが早速会議に諮ったところ、会議で、こういう答えが返ってきたようです。
 「Aがあれほどの敷地でビオトープをつくるのに、何を作ってもそれ以上にはならない(また聞きですが、確かこういう意味だと聴きとりました)」。

 ぼくは一瞬、意味をはかりかねて、ポカンとしました。そして、我に返り、「何ゆうとんね・・・何甘いこというとんね」と思ったものです。
 社会に出て、小さい会社で仕事をして何とか切り抜けてきた身から見れば、「話にならんわ」しかありません。そういうところから知恵と気力を振り絞り、「血の汗(!)」を流しながら、互角以上、少なくとも負けないように努力しなければ、会社や自分の未来はありません
 小さい会社やその社員はそこからがスタートです。「力の見せどころ」です。大きい敷地で大きな資金力で、果たしてどんなものをつくっているのかを見もせず、調査もせず、企画段階で拒否でもすれば、中小企業の役職なら即「馘」です。
 そういう思いや努力を、学校や受験生活にたとえてみても、「いや、あんなに偏差値が高くて受験生が多いところに、オレみたいな田舎の高校生が受かるはずない、受験料のムダムダ!」といってるようなものです

 相手が大きかろうと人数が多かろうと、「それに負けないもの」や「それ以上のもの」をつくれることを教えるのが先生でしょう! そうして初めて夢がある子が育ち、活気がある学校が生まれるのでしょう! 
 そういう判断をしている時点で、「子どもの可能性は半分つぶれている」ようなものだとぼくは思います。大きいことを考えたり、大きな仕事ができる子は育ちません。
 なかには良い先生もたくさんいらっしゃることは存じていますが、こうした考えが生まれる根本には、やはり「世間の荒波にもまれず、無難に」という経験はありませんか? 世間で生きていく子を育てるわけですから、それではうまくありません。生徒はそれぞれ進む先がちがいますから。相手が誰であろうと何であろうと、負けないようなおもしろいものや斬新なことを考え出す、それが夢のある子を育てられる先生だと思います

予備校へ行きなさい
 さて、これもぼくにしては「信じられない話」です。かつてぼくの塾から名声を頼りに10人近く進学した中高一貫校があります。かなり学力があり将来を見込んでいた子も、みんな大して良い大学には入れません。
 10年くらい前から不思議に思って、在校生に訊いてみると、「受験するには(学校以外に)予備校に行ったほうがよい」という先生がほとんどだという始末。ぼくは、これまた唖然として、過去の名声はどうしたのか、と情けなくなりました。
 私立でプライドのある学校や先生なら、まさかそんなことは言えないはずです。それなりの授業料をとって、あれやこれや宣伝しているのであれば、「大学に行くのに、自分とこの指導では足りないから」というような「泣き言」は口が裂けても言えません
 中学二年で登校拒否しその後中卒の許可は得られたものの、日々ゲームセンター暮らしで、二十歳前になって僕の塾に来て二年で京大の理学部に合格したM君がいます。ぼくはすべて一人での指導ですから、学習方法や学習材料・参考書等すべて用意して、折々の指導を重ねながら、彼はぼくの塾で自学しただけです。ぼくひとりでできたことですから、何十人・何百人の先生がいるのにできないわけはありません。ぼくはここにも、「大きな甘え」を見出します。

予備校へ行きなさい2
  二年前に北大に進学したK君。小さいころからお母さんにかわいがられて、かなり甘えたでわがままに育っていました。
 4年生になった時、ぼくはお母さんに「K君はおそらく一年浪人する、また浪人させた方がよい。大学進学は地方の、すぐには帰ってこれないところ。下宿して」と話しました。彼が一人前になるには、自分と肉親や人間関係を見直すために、そういう経験を積んだ方がよいと考えていたのです。
 彼は近県の私立一貫校に進学しましたが、やはり「甘さ」が出て、能力のわりに成績はすぐれず、「鳴かず飛ばず」が続きました。高校三年生になっても自覚が足りず、やはり受験を失敗しました。

 十年以上見ていて予想通りだったので、彼の指導の最後を締めくくるため、ぼくの教室で一年間学習すれば、能力的には北大なんか楽勝だ、と伝えました。もちろん、目算も十分ありました。先述のM君もちょうど教室で学習していたので、よい刺激にもなります。
 ところがです、高三の時の担任が、よりによって「『この僕(笑い)の』指導より予備校に行った方がよい」と彼のお母さんに進言したのです。ぼくは二重に腹が立ちました。

 一つはもちろん、ぼくの指導力に対する認識不足です。もう一つは、自分が担任をしていて、落ちたから「予備校に行け」という、その「心持ち」です。もちろん責任を感じたからでしょうが、本来なら学校で責任をとっても当然だとは思いませんか? 諸般の事情が許さないのは承知していますが、そういう経緯が当然のように進んでいるのですから、ここにも教育界の甘さが『充満』していると思います
 一般社会で言えば、「すいません、納期が遅れました。お金は払ってもらっているのですが、期限が間に合わないので、他でもう一度作ってください」。そう言っているのと同じだからです。

塾を替えなさい
 ぼくの塾は個人塾でコマーシャリズムとも関係ないし、何分卒業生が少ないので、指導内容やその進学結果が、一般的にはブログでしかわかりません。つまり、世間的には、いわば「どこの馬の骨かわからない塾(!?)」なのでしょう。だから、K君の担任の場合もそうですが、他でも時々「腹に据えかねる扱い」を受けることがあります。
 あとでわかったことですが、近年もこういうことがありました。ひとりの団員の成績が上昇し難関校に志望校変更した時のことです。学校懇談で担任が、それなら(志望校を変えるなら)塾を(それなりに)替えたほうが良いといったといいます。団のことを信頼しているお母さんは絶対替えないとおっしゃったようです。
 みなさんにわかっていただきたいことは、こういう信頼があったからこそ、よい結果が生まれたという事実です。どんな指導でも、指導するには指導者と本人・保護者との信頼関係が大前提になります。

 ところで、この先生にわかっていただきたいのは、ぼくが子どもの夢や希望や将来をどれだけ大切に考えているか、ということです。そしてその夢や希望に対して、自らの責任をいつも意識しています
 また、ぼくは全科目を一人で指導しています。ですから全科目を通じて、子どもの考え方の癖や弱点をきちんと把握、指導していくことができます
 また、課外学習や立体授業を通じて、子どもたちの学体力や環覚を錬磨し、ものの見方や考え方・忍耐力に対するプラスアルファの指導を続けています。だから他塾の「通り一遍の指導」とはまったく異なる力を身につけて子どもたちは育っているのです
 先生!それらがわからないのが、今の多くの学習指導の限界です。今度「塾を替えなさい」という時は、「是非、ぼくの塾(学探)に替えなさい」とおっしゃってください。

一般受験塾指導参考例
 ちなみに、巷では、受験指導がどう行われているか。まだ、中学受験や受験の様子を知らない方のために、少しそのようすをお伝えします。

たけし おいらも受験数学はすぐ忘れちゃったね。最近の塾で子どもたちに教えているのは、こういう問題が出たら、何も考えずにこういう公式を使いなさいと、記憶力と反射神経だけで解くやり方なんですよ。これでは発想する力が育たないと思う。

藤原  私の息子の通った塾なんてすごいです。数列の問題の解き方は八種類しかないというので、それを全部覚えさせて「頭から順に試していけ、それで必ずできる」と教える。本当に反射神経的にやれば簡単にできてしまうんですよ。ところが、大学の先生が自分たちのつくった入試問題を同僚に解かせると、結構、解けないんです(笑)。でも、東大の理Ⅲに入るような生徒は、それを瞬時に解いてしまう。数列だったら、「八種類のうちのどれかな。あっ、これだ」ってササッと解く。しかし、一番重要なのはそんな解き方を知っていることではなくて、いろいろ問題をひねくったりして考えて、考える喜びや、一生懸命考えた後で発見したときの喜びを得ることでしょう
(「達人に訊け!」ビートたけし著―藤原正彦 新潮社 下線は南淵)

 今から10年以上前の本ですが、受験業界では現在もこうした方法が先鋭化しています。過去問や試験に出てくる可能性の高い予想問題を要領よくまとめた参考書や受験用問題集を演習し、その正誤を確認し、正答や解法の演習と暗記をつづけるという方法の連続です。
 また、日ごろ塾から与えられた膨大な課題を、おもしろさが先立つわけではなく、「受動的」あるいは「事務的」にこなし、小・中・高・大と受験のたびに、ほぼ毎回、上記のような指導が続きます。
 子どもたちに学習そのもののおもしろさを感じさせるような指導、受験の先にあるべき大きな目標に子どもたちが目を向けるような指導方針にシフトされてきているようすは見えてきません。「させられる勉強」ばかりで、子どもたちの「したくなる勉強」が行われているわけではありません
 子どもたちの意識の中では、結局、勉強はすべて暗記中心、そして目的は、いかに問題の正答率を高めるか、それによって合格する可能性を高めるか、という方向に集約されます。その間に、もう一方では「子どもたちの可能性が日々けずられている現実」を見逃すことはできません。
 学習は受験で終わるわけではありません。子どもたちを学習に駆り立てる駆動力は何か。合格目標以外に学習の駆動力を発揮させるような研究が進んでいるようすはありません。受験以外に学習そのものがおもしろくなる指導、あるいはおもしろくなる環境を育てる方法が検討されているようすはありません。

 さらに入試前ともなると、受験塾の多くでは、相も変わらぬ「カンヅメ」授業がはじまります。特別クラスに「業界」のエキスパートを結集し、練りあげた「高額」の合格パックを用意し、年末から入試まで学校さえ休ませます。一日じゅう受験知識をガンガン注ぎ込みます。
 学習指導は、有無を言わさずロートでエサを流し込むフォアグラづくりではありません。子どもたちはガチョウではありません。

 「学校の先生方は、偏差値の高い学校に何人入れたかということに、血眼になっているが、そんなことをカウントしたところで何の意味もない。もし、先生方が、偏差値の高い学校に一人でも多くの生徒を合格させることを、自分たちの教育効果であると本気で考えているならば、まったく間違っている。本来、教育効果というものは、教えた生徒が、一生のうち自分の天分をどれだけ発揮し、伸ばすことができたかでわかるものだ。要するに、生徒が棺桶に足を突っ込んだときはじめて、その人間に関わった教育者たちの教育効果がわかるのである」
(「独創教育が日本を救う」西澤潤一著・PHPブライテスト)
 
 自戒とともに。興奮してすみません、来週は元に戻ります。


特報 受験速報

2017年01月16日 | 学ぶ

合格速報

   前回お伝えしましたが今年の受験生二人は、上記のように受験した中学すべてに合格しました。二名とも、希望通り第一志望奈良学園に進学です。
 今年の受験生二名は、後日くわしくお伝えする機会があると思いますが、現状の受験体制や指導・教育が抱える典型的な問題をはらんでいました。

 A君は小学校受験を経て三年生の時に入塾してくれました。
 小学校受験を経た学習姿勢や頭の使い方にかかわる大きな問題点については、再三述べていますが、物心つくかつかないくらいの時の受験指導は学習過程に様々な弊害をもたらします
 そして指導者自身が、その問題点を意識していないことが、さらに問題を大きくしています。潜在能力の高い子、センスがありキャパシティに恵まれた子は問題がない場合もありますが、そうでない場合の方がはるかに多いのです
 小さいころから、あるパターンに特化した問題をくりかえしドリルし、「パターンにのっとった頭をつくってしまう」、キャパシティに余裕のない子は「『考える』ということはそれでよい」と「無意識のうちに」納得してしまう。つまり、「一から考える」ということがむずかしくなってしまうのです
 3~4歳のころといえば、どんどん吸収する(できる、またはしなければならない)ときです。A君は、指導によくついてきてくれて克服しましたが、それは彼が「3年生の初め」という早い時期に入団してくれたから可能になったのです。指導経験の少ない先生方は、小さいころの、その問題点に気づかないことが多いのではないでしょうか。

 もうひとりのH君も受験問題を抱えていました。大手の受験塾Mに通っていたのですが、「宿題の多さ」と「授業のつまらなさ」に音をあげてしまったのです。
 ある伝手でぼくのところに来るようになりましたが、今流行の「至れり尽くせり」の環境で、「自分から~」という自発的行動がなかなかできませんでした。お手伝い等もほとんど経験がないので、状況判断が出来ず、見通しを立てる、ということも苦手だったのです
 過保護が蔓延している現在は、「こういう事例がほとんど」といってよいかもしれません。スタートは課外学習や立体授業でのその辺の指導からでした。
 いつもお伝えしていることですが、これらの『頭の使い方』こそ、学習に欠かせないものなのです。特にH君は入団が5年生と遅く、なかなか指導が予定通りいかなかったのですが、次第に改善され、今回の栄冠を手にすることができました。
 指導についてきてくれた二人には、「頑張ったね。おめでとう」そして「気を抜いちゃだめだよ。指導されたことをよく思い出してくださいね」。そう伝えようと思っています。                                                                                                                                                                                              学習探偵団


勉強のできる子を育てるには⑩

2017年01月14日 | 学ぶ

がんばれ! 受験生
 冬期講習の入試実践テスト結果報告サンプルを一部掲載しています。また、「中学進学後~」の掲示を見て、団員諸君の小学生時の成績と、その進学後OB教室指導を経て大学受験するころの爆発力を精査、読みとってください

 きちんと見ていただければ、つまらない「詰め込み学習」の無意味さが、よく確認できると思います。子どもは大きく、夢があり、そしてどこに出しても恥ずかしくない子に育ってほしいものです。
 今日(14日)は私立中学統一試験日です。人数が少ないので、毎年受験生がいるわけではないのですが、今年は2名が受験します。入塾テストがあるわけではなく、団員はいわば、近所のやんちゃ坊主やいたずら小僧ばかりです。
 無試験で入塾した子たちを計算方法や本の読み方・ノートの書き方という初歩から指導します。したがって3年生、少なくとも4年生からの指導がより効果的です
。5年生になってからでは、「頭ではわかっていても、身体は動かず」という結果になることがよくあります。このことについては後程考えます。

 課外学習や立体授業・さまざまな作業を通じて、「やってはいけないこと」「どうしてもやらなくてはならないこと」を叱ったり褒めたりしながら指導していきます。課外学習や立体授業での指導については、今までくわしく伝えていますので、旧ブログを参照してください。
 「さまざまな作業を通じて」とは、たとえば夏期講習の暑い日、植込みや前庭に水をまきながら、植物の蒸散作用のしくみやようすを話したり、虹ができるしくみを解説しながら散水で実際に虹をつくります

 また前栽の植木の刈込では高いはしごを使って屋根にあがり、上から植物のようす、枝の広がり方や葉のつき方を観察します。刈り取る植木ばさみは、「てこの原理の指導」には最適です。枝の太さによる刃の使い方や刈り方のちがいが、力点・支点・作用点の理解深化の何よりの応援です
 それらの植木には小鳥用の子どもたち自作の巣箱が取り付けてあります。みんなでたくさん作っても雀が営巣したのは一個で、その他では、中を覗いたり入ったりしても巣作りしませんでした。
 巣作りしない巣箱なんか意味があるのか? と考えている方はいませんか? 「巣作りする」より「しない」方が、実は学ぶことが多いということは、お気づきでしょうか
 自然の、たいせつななりたちやしくみは、そうした疑問や失敗の「不思議体験」を通じて学びます。買ってきた市販の巣箱に小鳥が入っても、自らが考え試行錯誤して作ったわけではありません。それでは自作のノウハウをさまざまな機会に応用するアイデアは生まれません。彼我の「脳のはたらき」がまったく異なる、というのはおわかりですか?

 今教室に鎮座している「学ちゃん」のでっかい水槽の掃除や水替えは大変な作業ですが、持ち運びできないので排水は手動のポンプを使います。石油ポンプのように握って離す、というタイプです。
 勢いよく水が排出されるにはちょっと工夫がいりますが、その過程で、(ふだんは見えない!)大気圧のはたらきや高い木の上まで水を吸いあげる植物のしくみが明らかになります(あきらかにします)。
 教室はお湯が出ないので、ぼくの部屋の温水器からバケツに水を入れ、台車にバケツを乗せて運びますが、途中には段差があります。ここでも、台車の前輪を上げるには「てこの原理」を応用しなければなりません。このようにそれぞれのタイミングで、そのしくみを考えさせます

 子どもたちは、こうした作業を通じて、身近なもの・身の回りにいつも存在しているものの「科学的裏付け」に目覚めていきます。それが「科学の目」を育むはずです。「考えるきっかけ」を生み出すはずです
 ぼくは、科学館や先端科学イベントに連れていくという、「目先だけ」、ありきたりの指導について、よく「難癖!?」をつけます。それは、子どもたちが科学(学習)に目覚め、学習の大切さを理解し、やがて科学者として世に出ることができるようになるのも、こうした身のまわりの事象、何気ない日常の中の自然のしくみやはたらきを理解するからこそ、と信じているからです。

 歴史に残る偉人や科学者の大発見や大発明に大きく寄与したのは、こうした日常での観察や学習や指導がきっかけだったはずです。科学館や先端科学イベントの訪問は、そうした指導も併行しなければ、大きな効果は生まれないのではないか。そう思うからです。
 ぼくとこういう日々を過ごしてきた諸君が試験でまずい結果を出すはずがない。彼らが試験に向かう時は、いつもそう信じて送り出します。そして、子どもたちには、「一生懸命頑張ったから、解けない問題はないよ」と伝えます。

付け焼刃はやめよう!
 もう一つ、この機会にぜひ伝えておかなくてはならないことがあります。
 それは「受験勉強、試験合格のみに特化した缶詰学習はやめろ」ということです。
 試験の前や入試に合格するためだけの勉強は、いわば、「パスポート」としての役割しか果たしません。見も知らない「外国に行く」ときは便利でしょうが、使わずに放っておくと期限切れになって、糞の役にも立たない
 そうではなくて、「生きていくために必要なもの」はもっと身近な物、箸であり茶碗であり・・・云わば日々使う道具の数々です。その不思議やしくみこそ面白さの根源です。勉強は「箸」や「茶碗」でなければなりません
 日常使うものですから、日々積み重ねてその使い道やはたらきをしっかり血肉化するという学習が必要です。毎日、少しずつ、きちんと味わい、消化しながら進むこと。

 試験の前に、たとえば12時間ぶっつづけ、何カ月も続ける、「疲れて嫌になる」勉強ではなくて、一日一時間を何年も続ける勉強です。そうして初めて学習は血肉化され、たいせつな使い慣れた箸や茶わんになってくれます。一生役に立ちます。
 そういう指導を目指しましょう、お父さん・お母さん。そして心ある先生方。
 そうした指導を受けて現在大きく育ってくれた一人が、京大大学院を卒業後、医師や医療の現状に目覚め、神戸大に学士入学し医師を目指したK君です。K君の団在籍時のようすを一部紹介します。

 団は無試験入塾ですから、多くの子は学習習慣が未だついていない、或は、あっても家庭でお母さんやお父さんの指導を受けながら、という子がほとんどです。K君は全く学習経験がない口でした。
 入団後5年生になって初の団オリジナルの学力コンクールでは、ご覧のように、国語2点(4~5人いた平均点26点)・算数18点(同37点)計20点という得点でした。もちろん満点は各100点で二科目合計200点です。彼は宿題を、まじめに指示通りきちんと続けていきました。

 その後の推移は掲載のとおりですが、団の指導を受けたK君をはじめとするOB諸君が見せる爆発力は、裏表ない日々の努力によってそなわった「学体力」と「頭の使い方やはたらきの結果」です。「無闇な無理強い」や「詰め込み」ではない余裕と、正当な学習法がもたらしたものです。もう一度、最初の掲示の近畿トップ校と団との大学進学成績比較を精査して、これらの意味するところをご理解ください

 なお、2月から団の新学期が始まります。団では理解ある一生懸命なお父さん・お母さんと一緒に、大切に子どもたちを育てたいと考えています。大きく育てましょう。若干名の定員余裕があります。

四年生(まで)の大切さ
 前回、学体力が整わないままの勉強の不備、並びに受験指導や作家(もの書き)指導をはじめとする各種指導の姿を考えました。
 見たように、「何か学びたい・身につけたい」というとき、その夢や希望を形にするために、まず問われなければいけないのは「学体力」です。それが備わっていないのに(身につけようとさせていないのに)、中途半端なままで、ムードやブーム・根拠のない情報・無責任な素人判断に流されれば、待っているのは「三日坊主」、あるいは「夢半ばで挫折」という結果でしょう。
 「夢や望みをかなえるためには、その夢が大きいほど、おろそかにできない『もの』や『こと』がある」という認識があって、はじめて確かな一歩が踏み出せます。「片手間」や「ほのかな思い」だけでは夢はかないません。
 子どもたちにも「頑張る心」や「頑張る気持ち」を伝えるべきです。そして結果が出るまでの少しの辛抱や努力をきちんと伝え、指導するべきです。それによって生まれた結果が次のステージに彼らを誘います

 現状の子育ては、その部分が大きく欠落していると感じています。それがあってこそ、「至れり尽くせり」の応援も意味をもちます。ひとつ「学習」のためのみならず、どんな夢をかなえるためにも必要なことだと思います
 さて、先週の終わりに、「引用の谷崎潤一郎のことばには子どもたちの学習にも大いに参考になるアイデアにあふれていることにお気づきですか。次週はそれを考えてみます」と結びました。先週引用の出典先、中公文庫版「文章読本」(谷崎潤一郎著)に、こうあります。
 
 昔からよく、舞や三味線の稽古をするには大人になってからでは遅い、十歳未満(小学4年生未満ということです、南淵注)、四つか五つ頃からがよいと云われるのは、全くこのためでありまして、大人は小児ほど無心になれないものですから、とかく何事にも理窟を云う、地道に練習しようとしないで、理論で早く覚えようとする、それが上達の妨げになるのであります。(上記書p90)

 
 当初、この一節を読んだ時、「十歳未満」つまり小学校4年生未満ということが強烈に印象に残りました。指導の手ごたえと全く一緒だったからです。
 ぼくはOB教室を含めると、北大に進んだK君のように、ひとりで長ければ十二年という指導期間をともにします。小学校中高学年から高校まででも7~9年間見ることが珍しくありません。その経験から、小学校4年というのが成長や指導結果の分岐点だと感じてきました
 少なくとも4年生までに来てくれた子は「寝食を共にすれば」指導を心から理解してくれているのがよくわかるのですが、5年生以降の子はどこか、「すり合わせが利かないところがある」ことが多いのです。また学習に入るにも、なかなか順調にいかない子が多い

 やはり、これはこの時期が人間的な成長のひとつの節目を暗示しているということなのでしょう。したがって、指導やしつけをスムーズに運ぼうとしたら、少なくとも小学校4年までに、きちんと基本的なところを押さえておくべきだと思います。
 たとえば、学習の漢字や計算なども「くりかえし」が不可欠ですから、4年生までの繰り返しを厭わずできる間に基本の基本である計算と漢字の学力を定着しておくべきだと思います。
 さて、「くりかえしの効用」から。とっておきのアドバイスを一つ。

 今まで団では算数(数学)の学力がすばらしく飛躍した子が三人いますが、基本的な分野をある程度押さえたのち、彼らには学習研究社の「計算問題の特訓」を日々の課題にしました。一日十題ずつ、約1900題ありますから、200日弱で1回終わります。約半年間です。
 できなかった問題をチェックしておいて、二回目は、できなかった問題を中心に、三回目も同様にやり続けます。やり終えた子たちは、「特段特殊な算数問題をやらなくても」、 難関の中高一貫校を難なくクリアし、高校時代には数学でも、素晴らしい飛躍を見せてくれました。三人とも、京大へ進学しています。くりかえしの効用です。
 しかし、その「繰り返し」ができたのも、努力することによって結果がきちんと出るということを、はっきり認識できるようになったからです。それを教えなければなりません。それによって学体力も発動します。その後は、放っておいても自ら進んでいきます


勉強のできる子を育てるには⑨

2017年01月07日 | 学ぶ

母の手紙
 あけましておめでとうございます。
 以前、親父が生きていたら、彼の女遊びの破天荒さや、やんちゃの数々を肴に、酒を酌み交わしたかったと書きました。残念ながら、夢はかなわなかったのですが、年末、見覚えある字の書留が届きました。その親父に苦労してぼくと妹を育ててくれた母からです。

 忙しさにかまけ、親孝行ができていないのに、暮れの寒さを忘れられる手紙でした。こうして子どもたちと生きていくことができるのは、身近な人たちの様々なやさしさに支えられてのものだということが、改めてわかりました。感謝です。
 母はもうすぐ90歳。指にも力が入らないようで読みにくい字なのですが、紹介します。ぼくの原点です。みなさまも、どうか親孝行を。

「他人の目」
 今シリーズのタイトルは「勉強のできる子を育てるには」です。そして、二週前から、団の過去の月例テストの総評を紹介しています。
 総評では団員諸君の解答や勉強ぶり・テストのようすを見ながら、毎回アドバイスを重ねています。そのアドバイスが、時々刻々成長を重ねる子どもたちを導くアイデアになってくれることを願いながら。

 アドバイスをくみ取り、日ごろの生活の中でしつけや指導に反映させてくれる方もいますし、以前はまったく見ない方もいました。もちろん目を通して参考にしてくれる人と、無関心な場合の、学力や人間性の成長具合は大きく異なります。そして、無関心な人は、「やがてできるその差」の原因にも気づかないことがふつうでした。
 自分の子どものことは、「必要以上に」よく見てしまったり、かばってしまったり、ということが多く、なかなか冷静にはなれません。つまり「見まちがい」、「判断まちがい」が多くなります。ちゃんと見ている第三者の眼からの判断に基づく指導やしつけがとてもたいせつになります
 この事情は、たとえば「他人の子を観察している」、あるいは「教えている」ときのことを考えてみてください。「他人の子」はしばらく見ていると、「過不足!」がはっきり見えてくるのではないでしょうか。そういう眼を、自らの子どもにも向ける機会が「子育て」には欠かせません。

学体力がないと
 さて、先週、「軽佻浮薄」の世の中だ、と書きました。
 今は「何でも手軽に、楽に」が当たり前になってしまって、その中身を精査しない時代、判断できない時代です。その時代感覚は学ぶことにも大きく影響します
 たとえば、作家や「もの書き」になりたいとなれば、どこかの「簡便」学校(!)に行って、名前も知らない半端な「先生」の中身不明な指導を受ける、実体のない肩書に惑わされたまま、愚にもつかない話を聞く。

 そんな指導だから、当然思わしい結果が出ず、「夢」を求めて、類似の学校をはしごする。その繰り返しによって、信じられないほど高い授業料をどぶに捨ててしまう。それでは社会経済のためになっても、決して自分の夢の力にはなりません。
 それが、「指導」の一方の極端だとすれば、「子どもたちの指導での極端」は、こんな具合です。
 一流(!?)の受験指導の先生が、弁舌さわやかに、できるだけわかりやすく、懇切丁寧に解法を指導する。それらをそのままマスターし解法をおぼえることで受験はなんとかクリアするが、「問題そのものを自ら発見する力」、「一から考える力」、「答えを紡ぎ出す力」がついていないので、指導者がいないところでは(=いつも導きがないと)右往左往して、まったく無力になってしまう。これが軽佻浮薄の時代の典型的指導の両極端です。
 どこかおかしいのではないか? どこがおかしいのか。まず、「何でも、手軽に手に入るものだと錯覚してはいけない」ということです。人を頼るばかりで、努力を忘れてはいけない。どちらも、「自らの力が必要になる」ということを忘れ、「自ら踏み出す」という意識が欠けているわけです。自ら学び、自ら学び取る力。どちらの極端も「学体力」の欠如です

学体力のアドバンテージ
 まず、前者の解決法は賢人の経験・先人の方法から探りましょう。
 

 作家になるのに、決まった手順があるとも思えませんが、まず本を読むこと、書いてみること、この二つに尽きるのではないでしょうか。(「ぼくのミステリ作法」赤川次郎著 徳間文庫 p86・下線は以下も南淵)
 
 「つまらない、得体のしれない学校に行って話を聞きなさい」とは、どこにも書いていません。また。仮に、よい学校があったとしても、「まず読むこと。書くこと」で書けるようになるのです。そう書いています。自ら踏み出さなければなりません。続きです。
 
 ミステリを書くからといって、ミステリだけ読んでいてはだめで、古典といわれるような作品は一通り読んでおくべきです。そうでないと、創り出す人間が薄っぺらになってしまう。そして量を読む。乱読です。話をつくるには、頭の中に、従来のストーリーのパターンが沢山蓄えられていることが必要なのです。(前記書 p86)

 ストーリーだけではありません。作家は「書き方」も「読むこと」で解決します
 
 ジョン・ファウルズの『魔術師』の文体やレトリックなどの文章作法を、どうしても真似したくて背表紙が崩れるほど何度も読み直しました。(「小説を書きたい人の本」成美堂出版 清原康正監修 p10 市川拓司のインタビューより)
 
 必要になるのは、「背表紙が崩れるほど読める学体力」です。バカ高い意味のない授業料ではありません。続いて例を引きます。
 「読んで、読んで、読みまくれ」。その後クーンツはこう言います。(「ベストセラー小説の書き方」 ディーン・R・クーンツ著 大出健訳 講談社 ・朝日文庫で出ています)

 どんな作家でも、つねに数多くの」他人の小説やノンフィクションに接して、自分の潜在意識を豊かにしていなくては、次々に黄金のアイデアを生みだすことはできない。どんな小説からでも、無数の事実、登場人物、イメージ、語り口、プロットのひねり方などが、あなたの潜在意識の中に蓄えられ、それらが絶えず意識下で作用しあう。こうして取り入れられたアイデアの断片は、独創的なアレンジが加えられて、まったくちがうものに生まれ変わるのだ。(上記書p65)
 
 つまり、教えられてできるものでは、結局、ない。読書経験によって、積み重ねられるものです。「学体力」が育ってないがゆえに、つまらない「金もうけ主義」の学校に騙されている。毒されている。永遠に夢は実現しない、「自らの力で歩き出さない(出そうとしない)から」です。それが現実です。
 ちなみにこれらの類似の方法については、現代の作家や小説家に限らず、かの歴史に残る文豪、谷崎潤一郎も、感覚を磨き文章に秀でる方法を次のように教えてくれています。

 「舞や三味線のけいこが大人ではなく、子どもから始めなくてはならないのは、大人は小児ほど無心になれないものだから、とかく何事にも理屈を言い、地道に練習をせず理論で早く覚えようとするのがよくない、それが上達の妨げになる」という前段に続く論説です。なお、仮名遣い以外の一部表記を変えています。(以下谷崎潤一郎の引用は、「文章読本」(吉行淳之介選 福武文庫 p23~25より・なお福武版は、今は中公文庫で出ている「文章読本」谷崎潤一郎著からの抜粋です。)
 
 かように申しましたならば、文章に対する感覚を研くのには、昔の寺子屋式の教授法がもっとも適している所以が、お分かりになったでありましょう。講釈をせずに、繰り返し繰り返し音読せしめる、或は暗誦せしめると云う方法は、まことに気の長い、のろくさいやり方のようでありますが、実はこれが何より有効なのであります。が、そう云っても今日の時勢にそれをそのまま実行することは困難でありましょうから、せめて皆さんはその趣意を以て、古来の名文と云われるものを、出来るだけ多く、そうして繰り返し読むことです。(同p24)
 
 そして、こう続けます。「この条件は、あえて文章に限ったことではない」。「総べて感覚と云うものは、何度も繰り返して感じるうちに鋭敏になるのであります」。さらに、「多くは心がけと修養次第で、生まれつき鈍い感覚をも鋭く研くことが出来る。しかも研けば研くほど、発達するのが常であります」。
 以前、オリンピック選手を目指す運動神経(運動機能)と違って、脳のはたらきは鍛え方によって、仕事面では一流になれるということを述べましたが、脳のはたらきがまだ全く解明されていない時代に、谷崎潤一郎は、そのはたらきの可能性を喝破しています。もちろん数多く書いた経験からでしょう。そして、もう一つのポイントを挙げます。

 
 「多く読むことも必要でありますが、無闇に欲張って乱読をせず、一つのものを繰り返し繰り返し、暗誦することが出来るくらいに読む。たまたま意味の分からない個所があっても、あまりそれにこだわらないで、漠然と分った程度にして置いて読む。そうするうちには次第に感覚が研かれて来て名文の味わいが会得されるようになり、それと同時に、意味の不明であった個所も、夜がほのぼのと明けるように釈然として来る。即ち感覚に導かれて、文章道の奥義に悟入するのであります」。(同p25)
 
 「ひとつのものを繰り返し読む」というのは、当然自分が気に入ったものに限られるでしょうから、先ほどの「擦り切れるほど読む」の引用とも重なるしくみです。そして「読むことを繰り返す」だけではだめで、「実際に自分でつくってみること」をその次の条件としてあげています。
 
 学生時代(学校時代)、誰がこういうことを教えてくれたでしょうか? いや、こういうことを先生も知らなかったから(考えなかったから)、教えられなかったのです。ヒントを与えられるだけでも、意欲のある若者は、即実行可能です。そして、その際必要になるのは、やり切る力、「学体力」です。それが伴えば、こうした意味を伝えられない、金もうけ主義の凡百の文学学校は廃校にせざるを得ないでしょう。
 
 「つまらない話を聞いてるだけでは解決しない」。それを教えないから、みんな知らない。わからない。どんなことにも、「学体力」が、まず必要になることを考えない、伝えない。だから、大きな「夢」が、永遠に「金もうけの出汁」にされ続けるのです。教えるべき、培うべきは「学体力」です。自ら切り開く力です
 それでは小説の場合、まず培った「学体力」で、どうすればいいのか? 類似の解決法が他の本でも紹介されていますが、まず作家はどうしたか。長編小説を書くことをどう学んだか。
 

大沢在昌著「売れる作家の前技術」(角川書店)から一方法を紹介しておきます。
 
 ・・・自分の大好きな長編小説を分解してみるということです。生まれて初めて興奮した長編小説―私の場合はアリステア・マクリーンの『ナバロンの要塞』という冒険小説だったのですが、自分が一番面白いと思った長編小説を十等分してみる。350ページの小説なら35ページずつに十等分して、それぞれのパートに何が書かれているかを書きだしてみる。もちろん、きっちり35ページごとにわかれるわけではないでしょうが、だいたい十等分したパートごとに、どのような情報が伝えられ、どんなふうに出し入れされているかを調べてみれば、それぞれのパートで作者が何を狙ったのかという意図がわかってきます。(中略)自分の好きな長編小説を分解し、そこにどんな情報がどういうバランスで組み入れられているかを研究することは、これから長編小説を書く上で必ず役に立ちます。これまでで一番面白かった小説、一気に読んでしまった物語を分解し、研究することは、皆さんが長編を書いていく上での勇気になります。(同書p192 頁の漢数字は変更してあります)
 
 名前だけの指導者がいる学校に行っても、おそらく、これ以上のことは教えられないだろうし、果たして、自らの手ごたえや実感として、これだけのノウハウを持って指導しているかどうかもわかりません
 アイデアを形にするには、以前紹介した西村賢太さんが横溝正史シリーズの(ある?)映画作品を100回以上見たという経験も参考になります。イメージを文字に転換する際にも、そうした繰り返しは大きな力になってくれるでしょう
 最後に、先ほど「読んで、読んで、読みまくれ」とアドバイスをしてくれたクーンツの次のアドバイス。「書いて、書いて、書きまくれ」と言います。
 
 もしもひとつのストーリーを思いついたら、すぐに、それがたとえ君を金持ちや有名人や人気者にしそうにもないアイデアであっても、机の前にすわって、それを書き取ってみることだ。小説を書くという行為そのものが精神を集中させ、柔軟にし、創造的にするのだ。たぶん書きはじめのころには、出版不可能な題材を山ほど書くことだろう。が、そのうちによいアイデアがどんどん君のなかから生まれてくる。そしてやがては本物にぶつかる。(「ベストセラー小説の書き方」 ディーン・R・クーンツ著 大出健訳 講談社 p66)
 
 夢を手にできるか否かも、結局は個人の力、学体力の有無によることがわかると思います。こうした指導の成功に至る感覚や手ごたえはすこぶる理解できますが、ぼくの場合はもう年なので時間があまり残されていないことが残念です。ハハ。
 ところで、物書きのノウハウに限りませんが、ぼくは二十数年来、小学校・中学校を問わずOBたちに、「これはいい本だから読みなさい」と、学校で先生に何か本を薦められた子がいるか(課題図書は別)と聞いています。ところが、恐ろしいことに(!)(ぼくの塾では)一人もいません。ほんとうです。もちろん、他ではたくさんいらっしゃるであろうことは承知していますが。

 国語の先生は文法や漢字や受験テクニックを教えるだけが仕事ではなく、一生の糧になるおもしろい(おもしろかった)本を紹介するのも、とても大切な役割だと思います。本のおもしろさを「滔々と」しゃべって、本が大好きになる子をたくさん育てる・・・。国語の先生ができなければ(しなければ)、それができる人は数限られるはずです。 
 同じように、理科や算数の先生は未だ解決されていない科学や数学の難問の数々、身近な科学や算数のおもしろさ。社会の先生は身近な政治や経済。美術の先生は素晴らしい芸術作品。音楽の先生は心を打たれた曲や楽器のたのしさや演奏のすばらしさ…。そして自らがその科目を志すようになった熱い思い。
 それらを伝えることこそ、子どもたちが夢や未来を育む糧になるはずです。受験テクニックで手にするのは「入学許可で」「夢」ではありません。 
 さて、引用の谷崎潤一郎のことばには子どもたちの学習にも大いに参考になるアイデアにあふれていることにお気づきですか。次週はそれを考えてみます。