「やりたいこと」と「やれること」
子どものときはもちろん、大きくなっても未だ「やりたいこと」はたくさんあって、「あれもやりたい」「これもやりたい」という思うことがふつうです。ですが、「やりたいこと」はあっても、「やれたこと」は決して多くありません。
「多くは想っているうちに『日が暮れてしまう(!)』」からでしょう。「日々やりたいことを思い続けて、それに向かって進んだり、力を尽くしたり、ということができないまま」陽が落ちてしまう。自戒です。
「才能」とは、あるいは「天才」とは「やり続ける能力」だというようなことを、よく耳にしたり、目にしたりすることがあります。それらのことばが至言であるとわかるころ、つまり人生を半ば以上すぎると、切実な日々が待っています。哀しいことに「やりたいこと」が減り、「やれること」も次第に少なくなっていく・・・想像すらできなかった事態です。過去、多くの人が経験した現実なのでしょう。
年をとると、「少年老い易く、学成り難し」や「光陰矢の如し」という故事成句やことわざは、「老年老いすぎて、行なり難し」や「光陰もう滅し」に代わります。そして、『時間のたいせつさ』こそ、「かけがえのない人生」を軽佻浮薄のままに終わらせないよう、子どもたちに伝えておかなくてはいけないことだと気づきます。
「夢」というストップウオッチの裏側では針が日々刻々進んでいること。そして自ら手を伸ばすことをしなければ夢を手繰り寄せることはできないこと。子どもたちには、ぜひ、これらに目を向けられるように育ってほしいと思います。
学体力―「ひとりで考えつづけられる力」を育てることの意味
今年もそうですが、子どもたちを指導していて、ぼくが考えている以上に『学力(学体力)』がついていることが、受験結果に現れてくるようになりました。教室での過去問の入試実践テストの得点に現れている結果以上の力、という意味です。どうしてでしょうか?
毎年、甘やかされていたり、過保護ゆえの悪影響が子どもたちの学習に対する姿勢・取り組み方にも「浸潤」しつづけていることがわかります。「教えてもらうことを待っている」、「一人でできない」、また「忍耐力やがまんする力」の欠落です。それらの克服から団の指導は始まります。
これらの「症状」を客観的に考えると、「自分で考え続ける力」はもちろん、「『考える力を育てる力』そのものが弱くなっている」ということです。新しい学習・新しい問題に入るとき、「一人では何をしてよいか、どうしてよいかわからない」という戸惑い。「説明やヒントをもらっても、手取り足取り、かみ砕いてかみ砕いて説明しないと、集中して取り組めない」。
みなさん、もう一度この姿をイメージしてみてください。これは「子どもたちは、次第にひとりでは、考えられなくなっている」ということでしょう。もちろん、もっと幼い頃の、学習の初めは別ですが、小学校の高学年までそのままでは、それ以降問題が多発します。ひとりでは、中学校・高校の高度な学習や大学受験には到底対応できない、ということです。これらを何とかしなければいけない、ぼくの指導法の原点です。たとえば、身近な問題であるテストというテストも、ひとりで立ち向かわなくてはならないからです。
十年くらい前は、まだ半分くらいの子は何とか苦労しながらも「しがみついてきた」ものですが、今は、指導の中で、ぼくの予想通りに「問題に入っていける子」は、よくて数年に1~2名しかいません(なお、ぼくの塾は選抜試験がありませんので、ごく一般的な諸君が入団します)。
なぜ問題が多発するのか? それらの姿勢が身につかないと、「自分のペースで学習を進めることができないから」です。いつまでたっても、「誰かが傍にいないとできない」、自分で考える、考え続けることができない。つまり、高校受験になっても、大学受験になっても、そのままの姿勢は継続するし、社会人になって仕事をはじめても、大差ないでしょう。
社会や会社はそういう人を必要としているでしょうか? 逆に、少々の失敗はあったとしても、助けや指導がないところでも、自らのアンテナを活用し、積極的に仕事をこなしたり、プラスアルファの成果をもたらしたりすることが要求されるはずです。
こういったからと云って「社会に貢献できるから育てたい」と願っているわけではありません。学体力が身につくことによって、夢が開花したり人生が大きく転換したり、という子どもたちの可能性が広がるからです。
「お母さんや塾の先生を頼りにするようなサラリーマン」は優秀でしょうか、有用でしょうか。子どもを育てる、あるいは指導する過程で、そういう問題意識が不問のまま、「大きくなればわかる、できるようになるという思い(込み)で、しつけや指導が見逃され(すぎ)ている」。それが現状です。
また、「できないことをやる必要はない」、「誰かにやってもらえばいい」という依頼心の塊りが、大きくなって急に解消されるでしょうか。小さいころはお金を払って家庭教師を雇い、塾に通えば、受験学力や入学試験は望みがかなうかもしれない。しかし、子どもたちは「受験をクリアするために」生まれてきたのでしょうか? 「死ぬまで受験ですごす」人生でしょうか? クリアすれば、充実した人生が送れるのでしょうか? それよりもっと大事なことがあるのではないでしょうか? 人生に塾や家庭教師はありません。
大きくなってきちんと仕事ができたり、社会で活躍するときの駆動力になるのは、「問題解決力」であり、それを可能にする「学体力」なのです。現状「華やか」で「にぎやかな」受験戦争の中で事態は相変わらず、その受験学力や入試対応力を可能にする、子どもに内在する「学体力」やすべてを含む「精神力」に、目が届いているようすはありません。「あなた任せの一本道」です。
入学試験場でのぼりを片手に、大声でデモンストレーション指導をする学習指導と、冷気の中、白い息を吐きながら自らが受ける受験を想い、白く霜が降りている自らの周囲に目を見張り、学習内容を振り返る学習指導の、「子どもたちに与える大きな相違」にぜひ目を向けていただきたいと思います。「中学合格したら学校を平気で休ませる」ような子育てではなく、心身ともに健やかな子どもたちが一人でも増えることを願ってやみません。「学習するときに、学習する姿勢や態度」も覚えなければ、いつ身につける(られる)のでしょう?
超難関校でもない限り、入試前にも学校は休まず一日2時間弱の家庭学習でも、十分受験対応は可能です。また、超難関校に入った諸君にそれほど「引けを取らない」実績を残している、一貫校出身のOB諸君の実績もご覧ください。ぼくが、考えている以上に、子どもたちが大きな力を発揮してくれるのは、こういう静かな時間や課外学習のゆとりが、精神的な構えに大きな影響を及ぼしているのでしょう。団の子どもたちが、想定以上に力を発揮してくれるのは、こういう理由です。
むずかしいことは、ほんとうにむずかしいのか?
むずかしいときに、あるいはむずかしければ、「取り組む前に投げ出してしまう」「できないものはしょうがない」という認識が、今はほとんどではないでしょうか。「何とかもう少しがんばって結果を出さなければ」という「当たり前のこと」ができているでしょうか。それができなければ、「学体力」も存在しません。
「むずかしいときにでも、まずひとりで取り組む」という「気概」や「根性」や「忍耐力」がなく、「がまん」もできないと、やがて、ひとりでは何もできなくなります。つまり「教えてもらうのが当たり前」という意識から抜け出なければ、自分ひとりでは前に進めず、新しいことに取り組むことができません。
ひとりで取り組み克服することで、自信が培われます。そして次の目標にも勇気をもって立ち向かえることが成長するということです。そして、その自立過程での自らの過ちに気づくことによって、メタ認知機能が発達し、成長は確実なものになります。ひとりで踏み出せなければ、どんな進歩もありません。
ところが、むずかしいことや新しいことになると、いつも手伝ってもらったり、躊躇したり、あきらめたり、逃げたりしている習慣が「定着」してしまえば、それが本人の『生きる術』になってしまいます。そうこうしているうちに、自分では道が見えなくなり、人生の意味も見いだせなくなってしまう(「人生には意味がない」と考える人の人生を否定するつもりはありません)。
また、『依頼心の強いままでは』本も読まない(読む必要を感じない)し、考えることもできない(考える必要を感じない)、つまり「知的な部分を半ば放り出さなければならない」ような後半生を送ることになってしまうのではないか、そうも自戒しています。
できるだけ豊かな人生を送ってもらいたい考える団の子どもたちにも、さまざまな機会を通じて、ひとりで問題に取り組むよう指導し、解決を図る努力を奨励したいと考えています。
さて、学体力が整ったときの学習方法を、ぼくが読んだ碩学の著書から紹介します。「『学習』が伴侶になったとき」の学習のノウハウです。これらはOB諸君に伝えています。
「学体力」がついてからの学習方法
まず、哲学者の木田元さんの本の読み方とノーベル賞学者の福井謙一博士の学習法です。木田さんの引用部分は、大学院生相手の原書の読み方の指導です。以下、引用の下線はいずれも南淵。
「哲学のばあい、本がきちんと読めなくては話になりません。ハイデガーの書いたものを読むということは、その思考を追体験するということです。だいたいわかればよいということではなく、ハイデガーの思考のあとを精密にたどることができなくては意味がありません。たとえば、ある文章と次の文章が「そして」でつながるのか、「しかし」でつながるのか。欧米の言葉ではそうした接続詞が表に出てこない場合が往々にしてありますが、それを読みこむことが本を読むということです。接続詞ひとつで意味ががらりとちがってきますから」。
(「闇屋になりそこねた哲学者」木田元著 晶文社p183)
これらの書には多くの数式が載っていたが、私はそのすべての式を、紙と鉛筆を用いて省略なしに導くことを実践した。それでもなお誘導できない式はいちいち原論文を読んで理解することにした。そして、この勉強が後で非常に役立ったのである・・・私は教え子にも文献を読むのは少なくてもいいが、一字一句をおろそかにしてはいけないと言ってきた・・・例えば湯川先生の著書のような簡潔にまとめられた書を読む時、一つひとつの数式を自分のわかっているところから始めて仕舞いまで誘導してみなければ、専門外のものにはなかなかそのエッセンスはわからないと思う。これは数理的要素の強い理論を読解する時の心得であるが、おしなべて文献を読む時は、字句の深層に横たわっているものを自分なりに捕捉しなければ本当に理解したとはいえないはずである。」そのためには手を動かす労を惜しんではならない。
(「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p116~117・文責南淵)
たいてい一回読んでしまったら「読んだ」と納得(?)しがちですが、それは予行演習で、「一回読んで終わりの本」と「何回も読む本」とを区別することから読書は始まるということが、読書を重ねるとわかります。次は読んだことを定着させる方法です。
「図書室で閲覧させてもらったそうした書物を読む時、私は関心を覚えた箇所があると必ず紙に写すことにしていた。外国の教科書で写したい箇所が厖大にある場合には、さすがに骨が折れるので、そのときは要点を書きとめることにした。これは複写機械の発達した今日からみると、いかにも手間のかかる方法だといわねばならないが、決して無駄ではなかったと思う。手を動かして学んだということが、血となり肉となったからである」。
(「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p114~115)
本を書き写すことより役に立つこと。それは要点をまとめることだと福井博士は云います。インプットしたのち、アウトプットの重要性です。これで理解は整います。これは以前紹介した、ファインマンの子ども時代の読書(学習)法でもあります。
手を動かして学ぶということは記憶に役だったと思うが、それ以上に「要点を整理すること」が、役だったと思う。「コピーを取って保存しておくという方法に甘んじると、本のエッセンスは決して身につかない。古風なやり方ではあるが、本の内容を自分の血とし肉とするためには、自ら筆を取って写すか、要点をメモするのが、かえって近道なのである。経験による信念からそういうのであるが、これは若い読者にお勧めしておきたい事柄だと思っている」
(「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p115)
次は学習の「量から質への転換」です。
「広く学ぶことは大切である。そのために刻苦勉励することも、もちろん大切である。が、それは多数の文献を読み、多量の知識を不統一に吸収することとイクォールではない」。したがって、「私は多数の文献を読んで知識を集めるという、いわば衒学的勉強を捨て、数少ない文献を徹底的に読みこなす勉強態度を自分に課していた」。
(「学問の創造」 福井謙一著 佼成出版・p107~109)
「人間は、やっぱり、平生から記憶をきちんと整理して、オルガナイズする、いろいろな知識を―自然とおぼえた知識でも、自分が努力して獲得した知識でも―自分なりにうまく組織化しておかなければなりません。整理のしかたには高度なものから非常に簡単なものまで、いろいろありましょうが、整理することと、理解することとは密接に関連しているように思われます。教育にはそういう、すぐに記憶を再生する能力が身につくようにする効果もある。そこで、そういう記憶と理解とかをもとにして、創造性を発現できるようにしたい」
(「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p149)
さて、最後は「東大・京大へ進んだ数学のできる秀才たちの勉強法」です。繰り返し問題演習の効用―「学体力」の必要性の確認です。斎藤孝さんの「偉人たちのブレイクスルー勉強術」(文藝春秋p239~241)に、斉藤さんが、秀才たちにその勉強方法を聞いたときの答えが書いてあります。
「どうやってできるようになったの?」と聞いたときに、口々にこんなことを言いました。
「ただ、問題集を五周、十周するだけですよ」
「そうそう、十周すればたいていできるようになりますよ」
彼らはこれぞ"鉄板"といわれているような問題集を、五回、十回と繰り返し解く。そのことを、「何周する」という言い方をするのです。みんな信じられないぐらい繰り返して鍛錬している。勉強には、理解するプロセスと習熟するプロセスの両方が必要です。そして、例題をわかっても、それは習熟したこと(理解が整って自分のものになった・南淵・注)にはならない、「わかるとできるは大違いなのです」と述べます。
「重要問題集を十周しろと言われて、十周できる人はできるようになる。何周もできないとあきらめてしまう人はできないまま。比較的数学のできる人が鍛錬に鍛練を重ねて習熟していくので、ますますできるようになっていく。「数学が苦手だ」と思っている人ほど周回練習をやらない。これが現実なのです」。
これが『学体力』です。