『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星・宇宙の誕生と死⑳ 立体授業 「二上山の三つの石」Ⅰ

2017年09月30日 | 学ぶ

君には、この美しさがわかるか? 
 ぼくには画家の友人が一人いるが、時々承服できかねることを云うんだ。
 花を一輪取り上げ、「ほら見ろよ、なんて美しいんだ」。ぼくも、そう思うから、うなずくとする。
 すると、やつは「ぼくは画家だからこの美しさがわかるがね、君は科学者だから、ばらばらに分解して、てんでつまらないものにしちゃうんだろ」。何とも、とぼけたやつなんだ。(THE PLEASURE OF FINDING THINGS OUT /Richard P. Feynman p2 拙訳)
 

 皮肉屋で自信家(であろう)画家の友人がファインマンをからかった時の一コマです。ファインマンは、こう反論しています。
 
 まず、彼が見ているような美しさなんてものは他の人だって享受できるし、ぼくもわかると信じている。彼ほど芸術的に洗練されたものではないかも知らんがね。だけど花の美しさなんてわかるもんだよ。それより、ぼくは彼が見ている花について、同時にもっと多くのものを見ているのさ。そこにある細胞の姿だってイメージできるし、そこにも同じように一つの美しさがある、内部の複雑な細胞のはたらきもイメージできるんだ。つまり、美しさというものは、単にセンチメートルの範囲に限られたものではなく、もっと小さなもの、内部構造にも同じように存在するものなんだ。(同書・拙訳)
 

 ファインマンの面目躍如、というところです。これに似たようなことに出会いました・・・。

リトル・ファインマンへ
 先週、子どもたちと課外学習「二上山と三つの石」を実施したのですが、さまざまな案内本を見ても、「サファイアやガーネット」について、「赤い砂粒」だの、「3~4時間かかって1ミリの青い粒(サファイア)2・3粒などと、「文句タラタラ」が目につきます。
 いったい何を期待してるのか? 一獲千金の宝石を日本で見つける可能性など、万に一つもないでしょう。一獲千金を目指すなら、宝くじを買うか、あきらめて一層真面目に働きなさい(笑い)。

 小さな子どもたち(と子どもの心をもった大人たち)が手に入れるものは、「地球」という「これ以上ない大きな宝石」に気づくことであり、「学ぶおもしろさ」という「大金塊」です
 それは「道端に転がる石」が、実は「捨て置けない存在である」とわかることであり、小さな川の砂をパンニングすることで「地球」や「火山のしくみ」に興味をひかれ、火山岩や火成岩やケイ素・鉱石などという「勉強の範疇に閉じ込められている」学習内容や学習対象を、「自らの仲間として再認識すること・解放すること」なのです。お金に換えられない、こんな「かけがえのない宝石」はありません

 写真を見てください。これは目的地からパンニングして持ち帰った小川の砂ですが、そのまま見ると、「少し赤っぽい細かい砂だな」、「つまらねえ」という思いしかないでしょう。
 たいていの人は、この中から赤い小さなガーネットを丹念にピンセットでつまみ出し、「ため息」とともに「数十粒の情けないコレクション」に収めてしまうのかもしれません。「ひと時の慰み」です。子どもたちも、「なあ~んだ」で終わりです。
 もう少し先に進みませんか? パンニングして持ち帰った砂を、白い大きな紙に広げて、風で飛ばないように乾かし、乾いたら、その一部を少し倍率の高い拡大鏡で覗いてください。
 「ワオ!すげえ~」というセリフが子どもたち(子ども心を失わない大人、そういう人がそばにいることが、リトル・ファインマンを育てます)の口から洩れるはずです。

 「小汚い砂の集まり!」だと思っていたものが、信じられないほど多量の微小なサファイアの粒とガーネットやジルコン、各種鉱物の「塊り」であることがわかるはずです(写真は後日披露します)。それによって、地球上で「石」は様々な形で存在し、生成と消滅を繰り返していることがわかってきます。そしてそこには、たぐいまれな美しさと儚さも顔を覗かせています。
 さあ、お父さん・お母さん、子どもたちと一緒に砂粒(?)を集め、鉱物事典や宝石事典を開きましょう。
 
立体授業「二上山の三つの石」テキストの紹介
 立体授業「二上山の三つの石」のテキストは、まったくの新作になったので、課外学習までに間に合わなかったのですが、もうすぐ完成します。その中から一部紹介します。
 ここでは比重や大津皇子のことにも触れています。なかには、「むずかしい」という反応があるかもしれません。しかし術語や人名だけの中身のない暗記と、「むずかしいけどおもしろい」興味や好奇心を引き出す体験とでは、どちらが子どものためになり、成長の糧になるでしょう。
 例えば、「万葉集」をいちばん古い歌集とだけ覚えて、何かおもしろいことが始まるでしょうか? 所詮テストの解答です。また、「比重」や「密度」を教科書で覚えて、何か役に立つでしょうか。やがて忘却の彼方です。
 「学習する内容が、日常の『もろもろ』といかに関係しているか」がわかって、好奇心や学ぶ意欲は駆動します。学習はすべからく、そこから始めるべきだと、ぼくは思います

二上山と大津皇子(おおつのみこ)
 現在の二上山は、大阪と奈良の県境でふたこぶラクダのようなやさしい山容をしているが、万葉集の歌にもなっている哀しい歴史がある。天武天皇の第三皇子大津皇子の逸話である。大津皇子は日本書紀や現存する日本最古の漢詩集「懐風藻」でも、その「人となり」や才能が高く評価されている。
 「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」。
魁梧(かいご)~大きく立派なこと。状貌(貌状)~姿や形。器宇~人柄・才能・心の広さ。峻~きびしい。遠~はるか・あまねく・奥深い。博覧~広く見ること、見聞が広いこと。属す(文)~作る、綴る。壮なる~元気盛んなとき、またその年ごろ。武~武芸・武道。多力~力がある、勝っている。剣を撃つ=撃剣~剣を使う技。放蕩~ほしいまま、わがまま。自由奔放。法度~法律・制度・礼儀。拘らず~は拘らない、関係ない。士~役人。礼す~敬う。付託~身を寄せる、任せる、頼りにする。
 先の読み下し文を解釈してみると、こんな具合である。
 「いかつく、体格と才能に恵まれ、小さいころから学問が好きで教養あり、文才にもあふれていた。青年期に至ると武芸を愛し、剣道にも秀でていた。自由奔放な性格で、些細な物事にこだわらなかったが、目下の人たちにも礼を失わなかったゆえ、多くの人に信頼され、頼りにされていた」。いかにも弱きを助け、強きをくじくヒーローとしての姿が目に浮かぶが、それが災いしたのであろう、悲劇的な最期を迎える。

 683年、天武天皇の死後、叔母だった皇后(後の持統天皇)が擁立する皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)に対する謀反の廉で捕えられ、翌日訳語田(おさだ)の家で自殺した(10月3日)。大津皇子が歴史に取り上げられるのは、その悲劇的な最期とともに、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)らの、彼を慕う歌が「万葉集」に残っているからである。
 
  現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは、二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(わ)が見む
  (拙訳 未だこの世に残っている私は、明日からあなたが眠っている二上山を弟だと見なければならないのですね、哀しいことです)
  
  磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たお)らめど見すべき君がありと云はなくに
  (拙訳 岸辺の岩のそばに生えている、この可憐な馬酔木の花を手折って、その花を見せようにも、もうあなたはいないのですね)
  

 いずれも、大津皇子が二上山の雄岳に埋葬されたとき、姉(大伯皇女)が弟を偲んでつくった歌である。 
 また、同じく万葉集に大津皇子の歌も残っているが、そのなかに「相聞歌」という、男女の愛の掛け合い歌が残っている。
 まず、大津皇子が
 
  あしひきの山の雫(しずく)に妹(いも)待つとわれ立ちぬれぬ山の雫に
  (拙訳 大好きなあなたを待って長い間、山のなかの木の下に立っていたら、落ちてくる雫で濡れてしまったよ)
 
贈ったこの歌に、相手の女性石川郎女(いしかわのいらつめ)が、またかわいい歌を返している。

  吾(あ)を待つと君がぬれけむあしひきの山の雫にならましものを
 (拙訳 そうなんですか、私を待ってくださってあなたがぬれてしまった、その雫に、ぜひなりたいものです)

 感性豊かで行動的な大津皇子が歌の才能もにあふれ、女性にも好かれたことがよくわかる。また教養あることが、いかに「粋(かっこいい)」かもわかるだろう。その大津皇子の墓が二上山にある。

パンニングと比重と密度
 竹田川でサファイアやガーネットの粒を集めるのは、お盆のようなお皿を使った図のようなパンニングという方法による。これは川で砂金を集める昔からの方法でもあるが、集めるものの重さが他の不要なもの(砂など)より重い場合に使う方法である。水の流れを利用してお盆を揺らし、浮き上がった軽いものを流し、重いものだけを集める方法である。
 冒頭の地球の構造の説明で、花崗岩質は密度2.8g/立法センチメートル、玄武岩質は密度3.0g/立法センチメートルという説明が出てきたが、そのあと長石の比重2.6、石英の比重2.7と、比重ということばもつづいている。「花崗岩質が陸地側のプレートの中心になり、玄武岩質がそれより重いので海底の・・・」ということから考えると、「軽さ」と「重さ」に関係している術語だとわかるが、それでは軽い・重いとはどういうことどういう意味だろう。また、どうして判断できるのだろう。

 たとえば、君たちが太っている子をデブとか云って揶揄うが、身長145㎝で40kgの子どもより170㎝で60kgの大人の方が、体重は重い。ところがイラストを見ても、この大人の人をデブだとは思わない(言わない)だろう。つまり、「重い・軽いは、単に重量(重さ)だけでは比較できないことがわかる」だろう。それでは、重い・軽いを、どうして判断するのか?
  吉野川の「もち鉄探し」は、川原で最初石を拾ったときの「感覚」が始まりだった。小さい石ころを拾って、「この石は重すぎる」と感じたからだ。それでは重すぎる、とは何に対してだろう? 小さい頃から川原でたくさんの石をつかんでいた経験から、「この大きさの石がこんなに重いわけがない」と感じたからだ。つまり「ものの重さ」を他と比較し、重いか軽いかを決めるためには、そのものの大きさ(体積)を基準に入れなければならない。綿1kgと鉄1kgでは、どちらも同じ重さだから、どちらが重いとは云えない。なお、この1kgの綿と鉄をのせられるような上皿天秤があると、ふつうは鉄の方が下がるのだが、それはどうしてだろう?


  さて、このように重さの比較をきちんとできるように、その体積をきめ、それに応じて重さを考えたものが密度である。つまり、花崗岩の(平均)密度が2.8g/立法センチメートルというのは、花崗岩は体積1立法センチメートルで約2.8gという意味である。
  それでは花崗岩の比重が2.8だと云った場合はどういう意味だろう。このように、ふつう使われている比重は「液比重」のことで、これには『水』の密度が関係してくる。水は一気圧・温度4度Cのとき、密度は1g/立法センチメートルである。(液)比重は物質の密度を、この水の密度で割った数字の比(比の値)なのである。つまり、花崗岩の密度2.8g/立法センチメートル÷水の密度1g/立法センチメートル=2.8.したがって、数値は密度と同じでも単位はつかない。比重には特別なときに使われる空気との比較の『蒸気比重』もある。

 なお、比重は一般的には固体のものに対してよく使われるが、物質は固体・液体・気体と云う三つの状態がある。ふつうは、この順番に同じ質量でも体積が大きくなるので、密度は小さくなる。つまり同じ物質の体積は同じ質量では、固体<液体<気体と大きくなる。したがって、その密度は同じ物質でも状態によって固体>液体>気体となる。
 ところが水だけは体積が液体(水)<固体(氷)<気体(水蒸気)の順になり、その密度は液体>固体>気体と変わることに注意しよう。また、水は温度によっても体積が微妙に変わり、4度Cの時にいちばん体積が小さくなる。したがって、密度も4度Cでいちばん大きく、比重も重い。特殊な物質である。氷が張った池の底でも凍らず魚が生きていけるのは、水の底は、いちばん重い4度Cの水だからである。
 なお、この密度の場合の単位当たりのg数は質量である。gは「『重さ』の単位ではないか」と思うかもしれない。質量とは何か? 重さとどう違うのか? 今度は、それを調べてみよう。

 「重さ」はふつうkgやgと云われるが、正しくはg重、kg重とあらわす。この重さは地球上の高度、高い場所と低い場所では異なるし、緯度によってもちがってしまう。つまり、「はかり」では量る場所やはかりの種類によっても異なってしまうのだ。それは地球の引力が高いところでは弱くなり重力が小さくなるからである。たとえば月にいけば、引力は地球の6分の1なので、同じものの重さが地球の6分の1になる。
 厳密な測定を必要とする場合は、ふつうのはかりでの重さを基準にすることはできない。そのため、最大密度つまり4度Cでいちばん重くなる時の水の量1000mlを1kgと定め、その基準となるkg原器(白金とイリジウムの合金)が1875年各国の条約に基づいて、世界で定められた。

 質量は上皿天秤で量るが、上皿天秤の分銅はこれに基づいてつくられたもので、これによれば、ほぼ正しい質量がはかれることになる。それでは、上皿天秤で、どうして正しい質量がはかれるのかわかるだろうか?
 なお、学習指導内容が多岐に広がるため、手に余る誤謬や誤解があるやもしれません。お気づきのところがあれば、ご指導いただければ光栄です。


石ころと星・宇宙の誕生と死⑲ ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~Ⅱ

2017年09月23日 | 学ぶ

THE SCREENWRITER'S WORKBOOK 
 人生で残された時間も、一日の時間も、ともに少なくなっていく中、やりくりしてシナリオの「勉強」も続けています。今読んでいるのは、「THE SCREENWRITER'S WORKBOOK」と、その邦訳の「素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック」(シド・フィールド著 菊池淳子訳 フィルムアート社)です。

 シド・フィールドのシナリオ本は、とても参考になります。シナリオを書くには「何がたいせつ」で、まず「どうすべきか?」を懇切丁寧に述べていきます。丁寧すぎて、時に諄くなり、「かえってわかりにくくしている」部分はありますが、これも「どうしてもシナリオを書いてみたいのだが、どうしてよいかわからない」という人たちを思ってのことでしょう。お勧めです。

 気に入った映画を「くりかえし」見て、この本を「繰り返し」読んで、そのスタイルを頭の中で辿れるようになれば、シナリオの「習作」は書けるでしょう。その「繰り返し」で、「歴史に残るようなもの」ができるには「才能がものを云う」と思いますが、ある程度のものは、きっと書けるようになるでしょう。「学習はすべて繰り返し」です。
 「本人も作品もレベルが低い指導者やスクールの、訳が分からない」御託を聞いているより、この本を始め、良い指南書を「繰り返し」読みましょう。ポイントは「学体力」です。高い金を出しても、ひとりでできるようにならなければ、結局挫折します。ひとりで、「振り返りながら」続けることです。

 この本を読んでいて、若いころ、ひとりで写真を始めたころを思い出しました。
 表紙の破れた「現像法の本」を古本屋で手に入れ、ダーク・バッグや現像液をカメラのナニワで購入し、中古のペンタックスSPやニコンFEをぶら下げながら、ネオパンやトライXで撮影と現像に向かった日々。開店前の店を暗室に使って、現像液に浮かぶ画像をチェックした日々。
 みなさ~ん、やろうと思えば、自分でできますよ、何でも。必要なのは「学体力」です。逆に、「学体力」がなければ、何もできません。子どもたちに教えたいのはそのことです


 
 さて、たくさんありますが、この本の中の初心者や学習者へのアドバイスのひとつ。
 「脚本を書いている最中にかならず心に留めておくべきこと、それは『ドラマはすべて葛藤だ』ということだ。だがそれを忘れてしまう脚本家は多い。ストーリーを語るには、単にチェスの駒のように登場人物を動かせばいいと思い、葛藤に注目することを忘れてしまう」。(「素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック」(シド・フィールド著 菊池淳子訳 フィルムアート社 p112)

 そして、「葛藤」とは「対立」で、その葛藤を生み出すのは、登場人物である。葛藤を生み出すにはその登場人物にはっきりしたドラマ上の欲求がなくてはならない。その欲求や目的の達成を邪魔する障害をつくると葛藤が生まれる。登場人物が強烈な価値観をもつ人間である場合は、相反する価値観をもつ登場人物をつくると、両者の間に強烈な葛藤が生まれる。葛藤には物理的な葛藤と精神的な葛藤があり、どちらも重要であるが、登場人物は何とか目的を達成しようと努力し、障害を乗り越えていく(そういうストーリー・映画をつくればよい。下線・ 補足は南淵)。

 これができれば脚本づくりは、半分終わったも同然です。いや映画の脚本だけではなく、あらゆるストーリーづくりに応用できます。しかし、そのためには、まずどうすればよいか。シド・フィールドは「登場人物の、生まれてから今までの年表をつくれ。その人生を考えろ」と云います(倉本聰さんもやっておられるはずです)。

 年表のなかでも、特に九歳から十八歳の間に起こった出来事で、ストーリーに大きな影響を与えるものをCircle of Being[CB:トラウマを引き起こす事件 シド・フィールドの造語でしょうか]という。人格が形成されるこの時期に起きた事件―たとえば親や愛する人の死、精神にも肉体にも深い傷を残す虐待、見知らぬ土地へ行くこと等―はトラウマとなって、人生全体に影響を及ぼすことがある。
 登場人物を、パイのような円形(circle)だと仮定しよう。その一切れ一切れ(piece)は、人格形成に影響を与える出来事であり、そういった事件や出来事が集まって一つの円(=一人の人格)が形成される。・・・どんな出来事が、精神的・社会的・政治的・神秘的・知的トラウマを起し、登場人物の人格にどんな影響を与えたのかを考えてみると、人物像に深みや陰影が出る。(前記書 p116)

 創作するにはとても参考になる指南書でしょう。シナリオの指南書は様々見ましたが、約300ページを読み切る学体力は問われますが、この本、初学者にとって、最良の本のひとつです。
 
「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~」に育つのはなぜ?
 さて、先週「子育て」は毎日のことであるがゆえに、感覚の鈍麻(それ以前に基準があやふやな場合も多いかもしれませんが)、「『自分の子どもに限って』というところに感覚が落着いてしまうほど怖いことはありません」と述べました。
 先のシナリオの登場人物の人格づくりは「他人事」ではありません。現実の子どもたちは、日々もっと些細な保護者や周囲の人たちの一挙手一投足を見て、自分の人格形成の「肥し!」にしていきます。礼節から始まり、毎日の出来事や周囲の判断基準をしっかり心に留めながら。ぼくたちは、日ごろ、そういう点まで意識して子育てをしているでしょうか。
 ちょっとひどい例ですが、身近で起きた事件で、「『ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~感覚』とはどんなものか」、参考にしてください。
 

 夏期講習の終盤、都合で授業時間が二時間延びることになりました。夕食の用意をしてこなかった子もいるので、「おなかがすくと思う人たちは何か買ってきてもいいよ、もしお金をもってきてなければ、貸してあげるよ」とぼく。
 「夏期講習の期間、教室で勉強してもよいですか」と言っていた中一のOBと小学生の弟が、「何かお腹の足しになるもの」を買いに行くことになって、ぼくが「千円でいいかな」と渡しました。受講している6年生三人と5年生もそばにいました。

 近くのコンビニに行っておにぎりを買ってきた兄が、おつりとレシートをぼくに渡そうとするので、「小銭をもらってもややこしいから、そのまま持って帰って、お母さんに話して千円持ってきてくれたらいいやん」とぼく。
 兄の方が弟に、なぜか、「お前が持って帰ってくれ」と云いましたが、弟が拒否したので、彼はみんなの前で自分の右のポケットに入れました。
 約一週間たってもお金が返ってこないので、4年生の弟に、「この間の千円、お母さんにゆうた?」と聞くと、「まだです」。「じゃあ、お母さんにゆっといてな」とぼく。

 次の日です。
 4年生の弟が、「先生、お母さんがこれもって行って、って」と、レシートとレシート記載分の小銭をもってきました。「あれ、違うやん、兄ちゃんに、小銭ややこしいから、お母さんに全部渡して、千円持ってきてくれたらええやん、あの時、そうゆうたやろ」とぼく。彼は「はい」と、そのまま持って帰りました。
 次の日です。弟は、「お母さんがお兄ちゃんに訊いたら、これでいい、ゆうた」と、また「小銭とレシート」です
 「ちがうやん」(その時ピンときました)。「おつりも渡してんねんから、千円持ってこな、あかんやん」とぼく(問題は金額ではありません)。
 すると、弟は千円を出して、「もし先生がちがうってゆうたら、これ渡しって」。違うも違う、大違いです。
 「いいや、それでは、そのお金受け取れんわ、じゃあ、今日、兄ちゃん、晩来るはずやから、兄ちゃんに理由聴くまで、ここに置いとくわ」、とみんなの見えるところに置いておきました。

 その晩OB教室に件の兄ちゃんが来ました。
 千円出して、「せんせ、これお母さんから預かってきました」。
 そんなはずはありません。お母さんが弟にレシートと一緒に渡しているのですから、二重に渡すはずはありません。どこか(何か)で嘘を言って都合してきたのでしょう。
 「これどこから、もって来たん?」とぼく。
 「えっ、お母さんにもらいました」(きっと嘘はないんでしょうが、その理由は別だったはずです)
 「そんなはずないやろ、弟が今日、お母さんにもらったゆうて、小銭もって来たのに」
 「ええっ? ぼくがもらいました、今日。・・・弟は、いつもってきたんですか!」と大慌てです。
 「だから、今日や、って」
 「・・・」彼の動揺は収まりません。しかし、「云っておかなければならないこと」があります。

 「・・・S(彼の名)な、失敗やまちがいや、ふとした出来心なんて、誰にでもあるんや。・・・だいじなことはそこでそれを認めて、これからの糧にすることや。センセは、基本的に悪人はいない思てる。嘘ついたままやったらナ、それが一生心の澱になって、顔つきが変わってくるんや。写真やってるから、ようわかんねん。目がちがうんや。顔が変わってくる。できればそんな顔にはなってほしいない。そんな人増やしたないから、塾はじめたんやで」
 「だから、やってませんて」
 「だけど、あの時、他にやり取り見てた子、いっぱいいるんやで、FもNも、みんなおったやん、みんな見てたで。正直に言うたらええやん」
 いきなり、「ワオ、ワオ、ワオ~。ダカラヤッテマセンって!」大泣きです。その姿は、中学生の姿ではありません。埒があきません。
 何日か反省すれば、きっと気づいてくれるだろうと、その場を収めました。
 

 数日後、彼のお父さんから電話があり、話があるということ。ぼくは授業後、来てもらえるように、時間を指定しました。しかし、当日授業が終わってからも学習を続ける6年生がいたので、ぼくはその子たちにも残ってもよい、と許可しました。「正しいことを覚えてもらいたい」、という気持ちもありました。

 お父さんは、型通りのあいさつのあと、
いきなり、「S(本人の名)は、あの時のこと覚えてない、記憶にないというんです。記憶にないというのでは叱れません。先生、それを認めてください、覚えてないというんですから
 まるで、質の悪い政治家や官僚と一緒です。
「ここにいる子たちもそばにいて、ずっと見てたんですよ。じゃあ、そのお金は、どこへいったんですか? ぼくが嘘をついてるんですか?」
「いや、そうは言ってません」と、訳の分からない返答です。
「それじゃあ、他の子が盗ったことになるんですか? みんなの見てる前で」。
おとうさん「・・・。いや、彼が盗ってはいない、と云うことをわかってほしいんです」
「それは無理ですよ、とても。他の誰かの責任になりますから・・・」。
「でも、Sは覚えてない、記憶にない、というんですから・・・」と、お父さん。
延々、その繰り返しです。
 このままでは、子どもと同じで埒があかない、そして、このままでは責任をもって指導もできないと思ったので、
「じゃあ、こうしましょう。神様がいるか、いないかわかりませんが、神様が知っているから、もういいじゃないですか。ぼくのことを神様も見てるし、S君も、もし自分がやっていなかったら、神様が知ってるからそれでいいよね。だから、それで卒業してください」。(ぼくは神様がいるとすれば、それぞれの『心の中にいる』と思っています。)
 ちなみに、このお父さんは高学歴で、開業している方です。「信頼がいちばん」の仕事のはずです。S君が団に通っていた5年間、お父さんは、一度も懇談には顔を出したことがありません。
 S君が入団した時、飛鳥の「クワガタ探し」で、こんなことがありました。
 ひとりの団員が川で足を怪我したのですが、動脈が切れたのでしょう、血が止まらないので、偶々車で同行していた団員のお父さんとぼくとで、橿原市の救急病院まで送りました。手当をしてもらい宿舎に帰ると、彼ともう一人の団員が、なんとお風呂(!)に入っていました
 ぼくは「仲間が大変な思いをしているときに、帰るのを待たずに勝手に風呂に入るとは何事だ」とこっぴどく叱りましたが、付き添いのお母さんが、もう一人の付き添いのお父さんにお風呂に入ってよいかを尋ね、そのお父さんが勝手に許可をしたようでした。しかし、その「是非」は、ふつうなら常識で判断すべきこと(できること)だと思います仲間や相手のことを気遣ってあげる、思いやりの気持ちはそうした小さいころからの気の遣い方で身についていきます
 そういうところからはじめて、一生懸命指導を続けて難関校には入れましたが、だからどうでしょう? みなさんは、これらの行動を、どう思いますか? そして、これらの原因になっているものは何だと思いますか。
 先週の例もそうですが、「世の中には、いろんな人がいますからね」で、済ませられる例ですか。

 一人の人間が社会人として身につけておかなければならないことは何でしょう。そして教育とは「だれをどうすること」でしょう。
 いろいろな考え方があるかもしれませんが、ぼくは「同行の仲間が大変なときに、痛い思いをしているときに、自分だけ風呂に入ったり」、あるいは「全然関係のない仲間に、あらぬ疑いがかかるような行動を平気でするような人」は、増やしたくありません。自分のことしか考えられないおとなには育てたくありません。
 「そういう子には育ってほしくない」と考える、世の中のお父さんやお母さんと、自分のことと同じようにヒトのことも考えられるこどもをたくさん、たいせつに育てたいと思って指導しています。いやはや。

 「ワオ、ワオ、ワオ、耳ダンボ~」を育ててしまうのはだれでしょう? 子どもたちの指導は共通理解がないと、うまくいきません。じゃあ、その共通理解はどうして生まれるか? もう、今育ちつつある子どもたち一人一人を、きちんと育てていくしかありません、それぞれがよく考えながら。その「くりかえし」によって共通理解が「みんなのもの」になります。それはだれの責任であり、義務なのでしょう
 


石ころと星・宇宙の誕生と死⑱ ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~

2017年09月16日 | 学ぶ

「あたりまえだけど、とても大切なこと」
 見出しは、少し古い本(2004年6月発行)の書名です。著者紹介の一部を引用します。

 ロン・クラーク。ノース・カロライナ州出身。大学を卒業後、各地を冒険旅行したのち、1995年から小学校教師となる。学習や行動に問題を抱える生徒の多い学校、なかでもハーレムの底辺校から優秀児を輩出し、目覚ましい成果をあげる。2001年、28歳のときに、ディズニー社主催「全米最優秀教師賞を受賞。毎年、うけもちの生徒に教えるルールをまとめた本書は、全米で大ベストセラーとなった。(「あたりまえだけど、とても大切なこと」ロン・クラーク著 亀井よし子訳 草思社)
 
 出版当時は日本でもそこそこ売れたようですが、そのときの書評を検索してみると、なかには「場ちがいな論評」「的外れな反論」も多数あるようです。斜めに見て、「こんなことをルールにして、わざわざ言わなくてはならないアメリカ」というような、「信じられない感想」もありました(高校の先生)。心の中に、「ルールという縛り」に対する潜在的な嫌悪感があるのでしょうが、「ルールという縛り」を嫌っている自分が「つまらないイデオロギー」に縛られていることに早く気付かねばなりません。たいせつな子どもを育てる方法です。著書の感想を自分が聴かれているわけではありません。視点は子どもをどうすべきか、という現実論です。
 また、「売れているもの」「評価の高いもの」に対してよくみられる、嫉妬や羨望からくる拒否感や嫌悪感がみられるものもありました。「若い」いわば「駆け出し」の先生が高評価を受けたからでしょうか? そんなこと、どうでもええやん。育て方で、これからどうとでもなるこどもが大事や。

 アメリカであろうと、日本であろうと、あるいは某国(?)であろうと、「ダメなものはダメ」・「よいものは良い」という「今後子供たちが『社会生活を営む』うえでたいせつになる基本的なことがないがしろにされていることが、現在「おども(責任感のないおとなこども)」を大量に生産している原因の一つであること。それが、現状のような社会的混乱や政治的混乱を形作る一助(?!)になってしまうことに、ぼくたちはもっと反省の目を向けるべきだと思います。
 毎日小さな子どもたちの教育や指導にかかわっていると、彼らの行く末や成長後の社会的影響、また「被」社会的影響を指導の視野に入れなければ、教育は不可能であるということがよくわかります。先述の高校の先生も、一度小さい子の指導に本気で関わってみれば、納得できるでしょう。

 子どもたちを見ていると、心も体も大きく賢く、バランスよく育ってほしい、彼らが活躍できる社会が今よりも良い社会であってほしいと願わざるを得ません。そういう視点で見渡すと、できるだけ客観的な評価をして、子どもたちの成長に役立つものはすべて、率先して取り入れなければならないというポリシーが成立します。そのときは、「腰の重さ」が成否の分岐点になります。
 さらに、その成長に欠かせない、「伝えるべきエッセンス」も見えてきます。「ないがしろ」にされがちでも、世界共通であるべきだろうという、「縛り(?)のルール」も見通すことができます。チンケナ固定観念や、植え付けられた心の狭い指導から、いったん自分を解放し、もっと大きい眼で教育や指導を見直したらどうか、と思う「反論」の数々でした。

ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~
 現在も、近隣の精励(頼むからしてくれ!)指定都市の「世間的エリート」が「しょぼい横領」で「情けないデートの小遣いづくり(?)」をしていたようですが、数年前も世界中に破廉恥な話題を提供した「おども」がいました。「四十面さげた、見え見えのマザコン」が行ってもいない「温泉巡り?」の架空計上で政務活動費を横領した事件です。そうです、「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~」です。

 こういう「おども」たちの情けない事件が報道されるたび、既に「立派に(!)育ってしまって、いまさらどうしようもないおども」を罵倒し、嘲笑し、非難しますが、ぼくたちは自らとまったく関係がないように、結局それどまりです。数か月の話題です。「このハゲ~エ」もぼくの心に響きます(ハハ)が、セリフを借りれば「ちがうだろ!」という感じです。
 そして、訳の分からない、こうしたハレンチな事件が、また増え続けます。原因の追究と、その撲滅には、なぜか向かいません。もちろん、教育・子育てへのフィードバックのことです。先述の「一見まとも、実は場違いな」評論者(家ではありません)のように。
 忙しさにかまけて、自らの責任範囲の処理さえ忘れ、そのうち記憶からも消え去り、また次の事件が、今度は仲間を連れて大勢で(!?)現れることになります。「拡大再生産」です。当然です。子どもたちはそのまま大人になり、自分たちの子どもを再生産していきますから。

 「関係ない」と思っていた自らの周辺に、今度は直接関係してくるような事態も起こります。子どもたちを少なくとも良い方向に導く(アメリカでは、それなりに結果が出ています)「ルール」を、それぞれが、もっと自らの環境の中で深く考え、落とし込み、自らのオリジナルな「子育てのルール」にしてしまうような社会感覚が、今こそ求められているのではないか
 それによって、「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~」や「片方には女性の手、もう一方の手には『くすねたお金』」というような「おども」は、少なくとも自らの代表には当選させないという、自覚があり、セルフ・コントロールできる有権者と候補者を育てられる社会に一歩ずつ向かっていくのでしょう。少子化のなか、「おども」がどんどん増えてくるような社会こそ、ぼくたちがいちばん望まない社会のはずです。

 「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~」も、純粋無垢でいたいけない赤ちゃんの時に、お金をくすねることを覚えたわけではありません。そうした行動に導く何十年かの経験、そしてそれらを誰も指導、是正しない日々があったはずです。本人や周囲のために、それらを是正していくのが教育であり、躾ではないでしょうか。またその存在意義だと思います

「日本は外国人にどうみられていたか」
 以前、幕末・明治期に日本人が日本を訪れた外国人にどうみられていたか、を話しました。またしばらく前のワールドカップで、日本人サポーターが自らの座席の周辺をきれいに掃除し、世界に配信され話題になりました。幕末や明治期に日本を訪れた外国人は、日本人をどう見ていたのか?

 そのころ、お世辞を言っても外国人には何の得にもならなかったわけですから、これらの人たちの感想は、当時のぼくたちの曾爺ちゃんや曾曾婆ちゃんの姿をよく伝えているはずです。
 なお、これらは「日本は外国人にどう見られていたか」(三笠書房)よりの引用です。
 
 「私はもう学生達に惚れ込んでしまった。これほど熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ」(「日本その日その日」E・S・モース)
 「これ等の青年はサムライの子息達で、大いに富裕な者も貧乏な者もあるが、皆、お互いに謙譲で丁寧でありまた非常に静かで注意深い」(同上)
 日本の学生たちのことを「アメリカの大学卒を凌ぐほどの学力を身につけています」(「スピリット・オブ・ミッション」J・ヘボン アメリカの雑誌に発表)
 「ユキの息子は十三歳の少年で、しばしば私の部屋に来て、漢字を書く腕前を見せる。彼は大変頭のよい子で、筆で書く能力は相当なものである」(「日本奥地紀行」イザベラ・バード)
 「子ども達は我らの学問や規律をすべてよく学び取り、ヨーロッパの子どもたちよりも、はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える」(「日本巡察記」ヴァリニャーノ)
 当時の子どもたちが、いかに優秀だったかよくわかります。そして、当時の人たちの人間性です。
 先述のモースが「私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子どもや召使は一日に数十回出入りしても、触ってはならぬものには決して手を振れぬ」((「日本その日その日」E・S・モース)。また、私の外套をクリーニングするため持って行った召使は、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれをもって来た。(同書)
 
 こういう例はまだまだあります。それらから考えれば、「日本から」和製ロン・クラークや「あたりまえだけど、とても大切なこと」がもっと出ていてよいはずですが、話題になるのは「体罰」や「性犯罪」や「いじめ隠し」ばかり。その辺にも、根深い教育問題が横たわっていそうです。その間も、どんどん子どもが「ことな化」し、大人が「おども化」する割合が増えていくのに。
 このロン・クラークの著書が出た時、鼻で笑った(!?)先述の「評論者!」は、約十五年たって、少数ではない現在の授業が成立しない小学校の指導風景を見て、どう思うのでしょうか。
 ルール12 人が読んでいるところを目で追うこと
 ルール15 宿題は必ず提出しよう
 ルール16 教科の切り替えはすばやく
 ルール18 宿題に文句をいわない
 ルール19 代理の先生の授業でもルールを守ろう
 ルール20 授業中は許可なく席を立たない
 
 これらのルールは、どこの国の教室であろうと守るべきルールです。何かおかしいところありますか? 守られていますか? 文句をつけるべきことですか? あたりまえだけど、とても大切なことです。
 

「置いとく方が悪い」の恐ろしさ
 さて、ルールの徹底やしつけや教育的指導(?)を要する、これらの問題について、ぼくが異変を感じたのは、15年くらい前のことでした。当時、始まったばかりのOB教室には4人の女の子がいました。小学校からのOB中学生二人と、伝手で頼まれて指導していた超難関S学園に通っている新人中学生が二人です。
 OB教室は長時間、集中力がかなり要求されるので、少額ですが、休憩時間にお小遣いをわたし、近くのコンビニにガムやジュースなど、自由に買いに行かせる時間をつくっています。ところが、教室の机の上に500円玉2枚を置いて、少しの間目を離したすきに、それが消えうせました。
 20分くらいの間で部外者は教室に入ることができません。驚きましたが、中学生以上のOB教室では、注意をしないと決めていたので、そのときはそのままにしておきました。
 あるとき、一人の保護者(女性です)に、その経緯を話すと、「せんせ、置いとく方も悪いんですよ」。今は、こういう人が増えているかもしれません。みなさんはどう思われますか。
 こうした理解や理窟が一般的になってしまうと、社会がムチャクチャになりかねない、人と人との信頼関係が根底から崩れてしまいかねない、ということがわかりますか。実はこれ、「危ないからナイフをもたせない、使わせない」というような感覚と、深い部分でつながっている事例です。
 「監視がいようといまいと、いくらほしくても、ヒトのものは黙ってとってはいけない」というのが、「あって当然の倫理感」であり、「身につけていなければならないセルフ・コントロール」です。ナイフを持っていても人を傷つけたり、殺めてはいけないということが、「まず身につけておくべきヒトとしての倫理感であり、セルフ・コントロール」です

 それらを教えておかなければ、「ナイフがなくても、他のものを探して人を殺める」ということになります。ルールや人倫の徹底です。「こんなことをルールにして、わざわざ言わなくてはならないアメリカ」、と云ってる場合ではありません。
 つまり、「だれか(警察や他人)が見てようと見てまいと、ダメなものはダメだし、してはいけないことはしてはいけない」と教えるのが、子どもにかかわるすべての親、保護者、指導するぼくたちの責任であり、役目です
 それとも、これらの問題は「道徳だから」「勉強に関係ないから」、放っておいてもよいのでしょうか。そのままであれば、純粋無垢で、いたいけない子どもたちは、そうしたセルフ・コントロールや倫理感をどこで、誰から教えられて育つのでしょう。
 「おいておく方が悪い」という感覚は、その段階で、すでに倫理観が半ば崩れています。こうした感覚が次第に蔓延しつつあるような気がします。
 さらに、数年後、この話をしたとき、「世の中にはいろんな人がいますからね」と、あるお母さん。そういう客観的な問答を期待しているんじゃなくて、やはり、子どもの教育やしつけには注意してくださいね、というつもりだったのですが・・・。無理を承知で、理想ですが、ひとりひとりが自らの子をちゃんと育てれば、何の問題もないわけですから。


 「世の中にはいろんな人がいる」からルールが必要なのだし、子どもたちにそのルールをきちんと伝えることが要求されるのです。「いろんな人がいるのはわかっています、自分の子どもには注意してくださいね」、という思いが通じなかったわけです。
 「自分の子どもに限って」というところに感覚が落着いてしまうほど怖いことはありません。また文頭の、どこかの高校の先生のように、ルールやしつけや道徳に拒否感や嫌悪感をもっている「暇?」はありません。その間も、「ことな」は、結局何も身につけないまま、「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~」と、「おども」に育ってしまうのですから・・・。


石ころと星・宇宙の誕生と死⑰

2017年09月09日 | 学ぶ

ヌードグラビアと盗人のちがい
 『夜の大捜査線 霧のストレンジャー』。古い映画で久しぶりのDVD批評。
 副題は「霧のストレンジャー」、主演はシドニー・ポワチエ。黒人の名優シドニー・ポワチエの名前に惹かれてアマゾンに頼んだDVDは、「夜」も「霧」も「ストレンジャー」も、ほとんど関係ない代物でした。このタイトルにはエスプリもセンスも奥行きもありません。本家、名作の「夜の大捜査線」にちなみ、集客を図るための命名。それにつきます。
 前にも書きましたが、「タイトルの付け方のいい加減さ!」が映画ファンを裏切りつづけ、「それが今日の低迷のひとつになっているのではないか?」と思えるほどひどい。原題はTHE ORGANIZATION。大掛かりな麻薬組織と警察(政治)組織の癒着を描いたもので、よくあるパターン。

 原題は「当たり前すぎる」ものの、内容と齟齬はありません。まちがってはいません。日本語タイトルは何のこっちゃ!? 「夜の大捜査線」? 「霧のストレンジャー」! 「蜥蜴を見て、蛇を描いてしまい、慌てて蛙の足をつけたようなもの」。
 こういう仕業は、「蛇足」ではなく、「駄即」とでも呼びましょう。シドニー・ポワチエはそれなりに良い味を出していますが、肝心の映画のストーリーの出来も「可もなく、可もなく」というところでしょうか。
 さて、唯一おもしろかったのが、小学生くらいの息子と一緒にいるとき、おもちゃ箱でヌードグラビアを見つけ、黙って息子の顔を見たおやじ(ポワチエ)に、男の子はそれほど照れるわけでも、萎縮するわけでもなく「興味があったから」というような返事で流してしまう。それを聞いた親父も何も言わず、表情も変えないで次の行動にうつる。『うわあ、おやじだなあ』と微笑ましくなりました。

 この場合、「ヌードグラビア」が「AV」であろうと、そのままでは犯罪に結びつきません。みなさんも、見たことあるでしょう? 年頃になった男の子が女性の裸に興味をもつのはすこぶる自然で、男と女がこの世に誕生して以来繰り返されていることでしょう。男の子の成長の過程では当然のことで、取り立てて「目くじら」たてることではありません。
 逆に、それらの行動を「目の敵」にして罰したり、厳しく叱正、抑圧する『指導?』や『しつけ!』が偏向した性意識や性向にいざない、「いびつな」性犯罪を生む可能性も生まれるのだろう、と考えています。今、「しつけの過程」では、どのようにとらえられているでしょうか。
 しかし、例えば、『ぬすみ(窃盗)』はちがいます。「窃盗」や「横領」は犯罪です。ヌードグラビアを見ても、ヒトのものを盗るわけではありません。何もなくなりませんが、「窃盗」や「横領」は「人がたいせつにしているものがなくなる」のです

 『窃盗』は「自然な成長過程」ではありません。人の所有物(または公共の)を黙って持ち帰れば犯罪です。盗人です。また盗癖は、意識してきちんとフォローしなければ繰り返されます。子どもを育てている場合は、その大きな差をきちんと考え、峻別しなければなりません

罪を憎んで、ヒトを憎まず
 ほほえましい「プチ・エッチ」に比べて、「人のものを盗んだり、拾ったお金をそのままポケットに入れたり、目的をもった共同作業に協力できなかったり・・・」という行動は、はるかに問題です
 これらは、放っておけば、いずれも信頼関係を構築できず、社会の根幹を揺るがすものです。「これらのそのまま犯罪につながる行動様式」こそ、小さいころに、厳しく対応しなければなりません。
 その重要性が、子育ての中で、きちんと意識されているでしょうか。子育ての法として確認されているでしょうか。当然のルールに対するこれらの指導やしつけに対する意識、感覚が次第に希薄になり、さらに、近年は恐ろしく鈍麻してきたような気がします。

 そういう行為が露呈しても、流してしまう。一昔前だったら、きちんとしたおやじ(お父さん)は(お母さんも)厳しく叱正し、近所の交番に連れて行ったり、被害者宅を訪れ、自らの指導(しつけ)不足を心から詫び、本人の猛省とともに謝罪させました
 「そういうことが社会(世の中)では通らない犯罪(許されない刑事事件)である」ことを厳しく指導しました。決して「うやむや」では終わらせません。お母さんも何日も(時によっては何ヶ月も)口をきかず、ペナルティを施したり、ということがふつうでした。
 それは「被害者に対して親として申し訳ない」というのももちろんですが、「大事な」子どもですから、何より「犯罪(!)」を犯した当人が一人の社会人として立派に成長し、社会からはじき出されないように、きちんと迎えられるようにしつけます、という「心の底からの親の覚悟と愛情」のなせるわざでした。それが正しい愛情です。また、「世間様」にかけた迷惑を、「自らもお詫びしてけじめをつける」というのが一人前の大人の務めでした

 「『罪を悪んで人を悪まず』という言葉があります。
 これは本来、「罪を犯してしまった人を憎むのではなく、その『心ならずも犯してしまった罪』を憎め」ということが原義です。しかし、それは小さいころからのしつけや指導が行き届いて、「心ならずも犯してしまう罪」と「本人が罪を認め改心するという状況」があった時代(社会)であるからこそ、意味をもった解釈です。残念ですが。
 世情に見られる、「意識して罪を犯し、頬かむりをすることが多くなった時代」にはそぐわない解釈です。現代での、このことばの意味は、『罪を犯したことを反省し、許しを乞う人(!)』に、「いや、もういいじゃありませんか、悪いことだとわかってくれたら。また仲良くやりましょう」という『思いやり解釈』にせざるを得なくなってしまっているのではないか。
 あるいは、もっと、誤解されてはいませんか? 「やった俺は悪くない、罪が悪いんだ!」と。

 「犯した罪を悪いと思わない、反省もしない犯罪者」に、『罪を悪んで人を悪まず』と言いつづければ、その犯罪の助長により、本人と周囲と被害者の、さらなる取り返しのつかない事態」を招いてしまう。そんな時代になってはいまいか? 「罪を悪んで人を悪まず」の本義を、ぜひ取り戻したいものです。 ふぅ。

三年後、そして六年後を思う親の心
 この章の写真は今年出会った「マムシ」シリーズです。ハハ。
 さて、先週のA君とB君の3年後の学力伸長、その能力の「雲泥の差」について補足しなければなりません。子どもたちのようすをよく見、きちんとその姿を捉える必要性です
 子どもたちの学力(勉強の進み方)を見ていると、先週の「学体力の強化」についての父性の問題もそのひとつですが、それ以外に見逃されている(というより、きちんと整理して注意しなければいけない)さまざまな問題があります。
 以前、「学習事項や学習内容の相互の関連」をとらえる「センス」の有無、つまりわかりやすくいえば「頭の良し悪し」の観点のひとつについてお話ししました。たとえば、同一問題や類似傾向に対する「ひらめき」がある子かどうか。「一を聞いて十を知る」まではいかないまでも、「一を聞いて二がわかるかどうか」。この可否が、「頭の良さ」のわかりやすい判断基準のひとつになります。センスです。
 この能力が乏しければ、学ぶこと学ぶこと、すべてが『見知らぬ問題!』になります。学習を続けることによって少しずつ改善していくことはありますが、中にはいつまでも関連をとらえられない子も、かなりいます。

 当然のことながら、「一を聞いて二がわかる『ひらめき』」のある子の方が、速やかに、勉強はできるようになります。その「ひらめき」によって、「わかる嬉しさ」や「手ごたえがある喜び」の量(学ぶおもしろさ)が経験を重ねるとともに大きく変わってくるからです。それにともなって自信も湧いてきます
 たとえば、何人かが、同じようにまじめにやっていたとしても、次第に大きな差になってくるのが、「勉強(学習)」の現実です。「3~4年生時には『そこそこ』勉強ができても、5年生の後半や6年生になると伸び悩む」という子は、みなさんの想いの他、たくさんいます。
 こちらの原因には大きく二つあって、その一つは先述のように、「本来の能力からくる場合」、つまりセンスの問題です。もちろん、これで「人間のすべての能力」を規定するわけではありませんが、「学力向上をはからなければならない勉強面では、やはりセンスの有無による学力差」が存在することは否めません。
 「学習量が増えてきた時、その関連や相互関係がとらえきれないので整理がつかず、脳内に納めきれなくなる」イメージです。つまり、「学習量に対応できるだけのキャパシティがない(十分能力が伴わない)」場合、学習量に成長がついていけない場合、「学習『量』にアップアップ」している場合です。

 ところが、多くの場合、このシビアな現実が周囲に冷静にとらえられないまま、ことは進みます。我が子ゆえに、あるいは情が絡むゆえに、それを認めたくない、認められないことがあるのかもしれません。しかし、そこでたいせつなことは、「その現実を認めて、いかにその差を詰めていくかという手段や方法に、精いっぱい注意と努力を払うこと」です。
 同じようにできるようになりたいのであれば、また「引けを取りたくない」のであれば、(本人が自ら)努力しなければならない、という生きる現実を教える(覚える)良い機会です。それが保護者の役目だと思います。そんな良い機会はありません。

 興奮するばかりで冷静に対処できず、「それが見きわめられないまま、原因不明(!)で放置されること」が、よくあります。そして、そのまま「無闇な詰込み」が始まります。時には「ヒトとしてのいちばんたいせつなこと」も置き去りにされたまま。
 最善・最高の方法は、まず、「学習」を「『日々の生活習慣や努力』に落とし込む生活」の指導やしつけを心がけること。「きれいな字で正しく書くこと」や「正しく計算をすること」をふつうにできるような子どもに育ってくれるように、生活習慣や指導を見直すこと。それをきちんとはじめるだけでも「りっぱな大人」に育ってくれるでしょう
 「大学受験だけが学力や頭の良さの基準にならない」のは十分経験(認識)済みですが、入塾試験もなく多くのふつうの子どもたちに出会い、学習指導を工夫して、その半数が、すばらしい大学に合格してくれましたが、それでも半数です。この結果は、他の要素も当然あるものの、能力差(この場合は学習適応力の差)が歴然と存在していることを示しています。現実です。

 「一生懸命勉強して詰め込めば誰でも賢くなる(!)」と、かんたんに考えられている場合も多いと思いますが、このような「動かしがたい現実」から目を背けることはできません。「原因不明」のままの放置ではなく、「子どもの特性を冷静に見きわめて、それに対して、学習方法や学習内容・学習量の多少についても、適切な方策を講じていくこと」が必要です。「量が少ければ少ないほど、きちんとていねいにやる」という当然の指導も欠かせません。そうでなければ意味がありません。
 「儲け主義による、誇大で無責任な指導に惑わされ、結果的に子どもたちに消耗をもたらす」進め方ではなく、周囲がセンスの有無を冷静に判断し、学習法・進学先を含め賢明に対応しないと、受験は「カツカツ」乗り越えても、進学後本人が大いに困る場合もまれではありません。

 「センスが多少足りなくても、本人の性格が素直で真面目、保護者も賢く懸命に対応するという環境」があれば、中・高受験くらいなら対応できるかも知れません。しかし、「進学先が優秀な子があふれている学校」になればなるほど、さらに、「自分の実力をわかってくれない家庭環境」であればあるほど、子どもたちには「挫折と消耗の学園生活」が待っています
 「生来の能力の差」はあって当然で、それに対して、時期や「『それぞれの症状』に応じて、手当てをしていかなければならない」のが、本来の学習の進め方です。
 ところが夢大きいが故に、その現実を認めたくない。子どもたちに学習を教え、都度の保護者との関係を見ていると、どうもそのあたり(能力判断)については「冷静に見ることができていない(できない)」場合がかなりあるように思います。
 中学生になれば、それなりの判断力も身につき、進学先での彼我の能力の差を実感します。『それを克服するに十分な学体力』が備わっていれば、何の問題もありませんが、そうでなければ、やがて劣等感と失望に苛まれるようになります。特に、最近の子育てや子ども教育事情を見ていると、「学体力を養成できるはずの環境そのものも弱体化してきつつある」ようです。

 中途半端な判断で「コンプレックスや挫折の塊」をつくって、「思い」とは逆に、将来や夢をつぶしてしまうより、「ランクは多少落としても、余裕と自信とプライドある学園生活を送り、捲土重来をはかる」という「賢明な選択」をすることが、その後「大をなす」、とOB諸君の成長した姿を振り返っています。
 『学校』や『塾』が優秀な生徒を育てるのではなく、「『自らで』優秀な生徒に育つ」のです。その指導・成長の原則を確認、再認すること。そして、それをいちばん指導、応援できるのが、唯一保護者です。ついては『学力』や「学習」に対する能力を「できるだけ冷静に見極める」ということが、「子どものよりよい人生」を考えた場合、かなり大切なことだと思います。そこからがスタートラインです。
 このように、学習ができるようになるには、まず「それぞれのセンス」のちがいが当然あります。さらに、本人の「性格(素直さや柔軟性)」等、それ以外に、「(両)親のしつけ、学習に対する考え方・育て方のポリシーのレベル」があり、「日々の生活習慣・生活指導の問題」があり、「学校や塾の指導力の問題」が続きます

 「いいところに入れたい、入ればよい」という判断での進学先や学校選択で、親の見栄やプライドは満たせても、子どもの将来を約束、保証するものではありません。逆に、消耗で完全に夢が途絶えてしまう(夢を持てなくなる)ということも少なくありません。その前に、まず何をどうすべきか、という冷静な観察・判断と指導が欠かせません。「『子どもを思う親の心』をまちがえる」ことはできません。
 
次週は「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ?」です。


石ころと星、宇宙の誕生と死⑯

2017年09月02日 | 学ぶ

「『学体力』指導が成立しない環境」を憂える②
 前回は学習の必要性が見えなくなったことによる「学体力」の欠如について考えました。学習の「必要性が見えにくくなったことによるモチベーションの低さ」を原因のひとつにあげました。

 そして、それらを解決し、学習に対するモチベーションを高めるには、「学ぶおもしろさ」を獲得できるタイミングやシチュエーションを増やす方法がいちばん有効ではないか。そのためには、自らの周囲の学習対象(学習として取りあげられている対象・事象)に対する「環覚の養成」が「鍵」になることを、改めて提案しました。今回は『学体力養成』に関わる、もうひとつの大きな問題です。

「父性不在」
 もうずいぶん前(2013年3月アップ)になりますが、「考えることができない3年生」というタイトルで、「子どもたちの『学体力』が養成されない(!)大きな原因」として、過保護の問題、特に「軟弱(!)な父性」について取りあげました。

 「対社会的判断や行動力をともなう(?)成長」という意味では指導の中心にあるべき(と思います)「父性そのもの」が、近年の子育てを見ていると、さらに減退してきたようです。そもそも存在しているのか、そのたいせつさが家庭レベルできちんと確認されているのか、と思われる例があまりに多く見られるようになりました。
 「その『軟弱さ』こそ、子どもをダメにする大きな原因ではないか」と思われます。「結果としての学力」もそうですが、「学力を養成(獲得)しなければならない子どもたちにとってのモチベーション」さえすり減らしてしまいかねない現状を考察します。
 まず8年前の、「『軟弱パパ』による過保護」がもたらした「学体力不足」の例です。

 塾開設当時、現在の立体授業のアイデア構築の前、団では「腕白大学」という課外授業を開催していました。「友人や恩師、保護者のお父さんらに、仕事内容の紹介やそれぞれの専門分野の興味深いテーマの指導をしてもらおう」という意図でした。それによって、父親たちのふだんとちがう一面を見ることができるし、子どもたちの自らの社会的義務や責任、さらに社会を見る目も少し変わってくれるだろう、という思いでした。

 少し紹介すると、小料理店の板前さんにトラフグや伊勢エビのさばき方を指導してもらったり、ジャズミュージシャンに楽器演奏とリズムの指導をしてもらったり、ぼく自身がアナログカメラで写真撮影やカメラのしくみを指導(タイトル『古いカメラで光を読む・世界を見る』)したり・・・という、自賛になりますが、他では見られないおもしろい指導展開ができました。ちなみに、指導前・指導後の文字が入った写真は、子どもたちに撮影指導した前後を比較した団員三人の作品です。

 子どもたちにいちばん人気があった授業が「君は名ドライバー」でした。
 これは、自動車学校の指導教官をしていた友人に依頼し、動員してもらった教習所の指導員たちに、実際の運転コースで子どもたちが自動車で周回できるまで運転指導してもらうというものです。子どもたちのよい体験になるから、ぜひ全員参加してもらいたい取り組みのひとつ。そのときに遭遇した「異星人パパ(!)」との貴重なコンタクトです。
 
自然体験や外遊びで子どもたちが手にする学びの量と学びの質の深化の程度は、おそらくみなさんが考えている予想をはるかに超えます。団の子どもたちの成長のようすを日々間近で見ていて、そう断言できます
 次は、脳科学者の小泉英明氏の過保護や溺愛についての論考です。

 ・・・保護者が『溺愛』『過保護』『過干渉』だと、子供にとって大事な脳神経回路を作る時期に、刺激が入るのを阻害してしまっている可能性があります。赤ちゃんが口の中に指を入れてしゃぶるのは自分で刺激を身体に与えて脳神経回路をつくろうとしている働きともいえます。赤ちゃんが自分の手で食べ物を口に入れようとしているのを見て、無理にスプーンで食べさせるのも神経科学的に見れば大切な手の働きの神経の発達に対する妨害ともいえます。足が冷たいからと必要以上にソックスをはかせ続けるのも足の裏や足指への刺激の遮断です。赤ちゃんはまず自分で手を伸ばして、食べるときも自分で触って、その感覚や距離感もわかり、次第に上手になり口の中に食べ物を入れられるようになっていく、こうしたことがすべて学習過程(脳の発達過程)です。やってみた刺激の結果で『正しいやり方』だということがわかる。その正しいものが、それから生活していくときに役に立つ『アルゴリズム(問題を解くやり方)』です
(「脳は出会いで育つ」小泉英明著 青灯社から抜粋/文責は南淵)

 「脳は体験と失敗から学ぶ」、ということです。その経験を経て工夫や創造をするという段階に進めるのでしょう。「体験をさせない」ということは、言いかえれば「能力開発の可能性を狭め、能力の発達を阻む」方向になるということがよくわかると思います。
 さらに忘れてならないことは、ぼくたちの身体を支配している「廃用性萎縮」というしくみです。スポーツをやめたり、加齢で身体を動かさなくなったり、頭を使わなくなったりすると、その能力が衰えてくるのは、みんな経験済み(見聞済み)だと思います。「使わない器官は、徐々に衰える」のです。

  「さまざまな体験をさせて、『振幅の大きい日々』から豊かな実りを手に入れる手助けをすることこそ親の役目」です。その体験が「環覚」を育て、子どもたちのさらなる学びや好奇心の礎となっていくはずです。
 「『たいせつに』『苦労させずに』子どもたちを育てようという思い」の多くが、逆に「成長や能力の発達を阻害する方向にはたらくことになってしまう」ことに、もっと注意をはらうべきではないでしょうか。大事な子どもたちのことを思うのであれば、「苦労をさせない方向ではなく、さまざまに『小さい旅』や『冒険』をさせ、自ら考えさせ、やりとげる習慣をつけること」こそ、心がけておくべきことです。それが「学体力」の基礎になります

 これが、現在にも通じている、団の子どもたちを指導するポリシーです。ところが(以下前述ブログより。なお内容を一部改変しています)。

 

 

考えることができない小学三年生

 過保護な発想が子どもの学力に大きな影響を与えた例を紹介しておきます。
 数年前すばらしく潜在能力の高い子が腕白ゼミ(三年生のクラス)に入団してくれました。団は二月が新学期で、左の成績表は彼(A君)が小学4年生になる直前のものです。A君は入って2~3ヶ月、同じく三年生のB君は入団後約一年を経過しています。ごらんのように、一学年上の受験にもかかわらず、表記の点数を獲得し、年上の子たちを圧倒していた彼の潜在能力は相当高かったであろうことはすぐわかっていただけるでしょう。

 しかし、数ヶ月間彼を指導して、将来の学習の進み方・学力の伸長までを考えると、致命的なウィークポイントがあることがわかりました。新しい単元や初めて習うことは、すぐお手上げになるのです。取り組む前にギブアップです。ヒントを与え、考えるよう誘導しても「自ら考えはじめようとしません」。教えてもらうのを待っているのです。典型的な指示待ち・他者依存型に育っています。「分からん!」「これ。どうすんの?」と小さい声を繰り返すばかりで、問題を読み、問題に入っていくことができません。
 入団面接の時、看護師だったというお母さんが誇らしげに、お父さんは「超一流の私立一貫校(OS学院)を卒業した(!)医者(大学は云いません)」だと、話してくれました。それならば、教育環境や学習に対する理解はそれなりに整っているだろうとぼくは予想しました。団の指導方針もきちんと説明し、理解してもらえただろうと期待していました。

 ところが入団後、すぐ首をかしげるようなできごとがありました。
 予定の体験学習「君は名ドライバー」当日、彼が来ません。
 欠席理由を尋ねると、電話口のお父さんの返事は「車の運転を覚えて勝手にひとりで運転したら困るから・・・」。
 びっくり。発想がまったく逆です。子どもたちは「そんなことをしたらいけない、危ない」ということを覚えて帰るのです
 釣り竿や竹とんぼづくりで使う肥後守もそうですが、使ってみて、使い方や威力・怖さが分かれば、子どもたちは手出しをしません。使ってみて、「無闇に手を出してはいけない、遊び半分では危険だ」ということを覚えるのです
 「君は名ドライバー」は十年以上続けていた取り組みで、毎年、子どもたちはその気になれば、家にある車をひとりで運転できる知識を身につけて帰りました。参加した子の中には「やんちゃ坊主」も何人もいました。
 しかし、帰ってから一人で運転をしたり、いたずらをした子は、ただの一人もいません。教習所のおじさんに教えてもらう交通ルール・車のスピード、実際にハンドルを通して自動車の「威力」がきちんとわかれば、隠れて自分で車を運転することなんかしません。それが「父性」の正しい視点です。

「石橋を叩いて壊す」パパ
 参加を禁止したお父さんは、きっと外遊びや男の子らしい体験をあまりしないで育ってきた人なんだろう、と想像できました。小さいころ、自らもすぐ、「危険だからやめなさい」などと止められ、ママゴトかなんかで育ってきたのでしょう。
 「危なくないように、失敗をしないように」と、いつもお母さんに付きまとわれ、「危ないこと(?!)」をしないように育てられてきた人なのでしょう。総べて「そこそこ」で、振幅も反復もない子ども時代、判断力が身につかなかった。そんな「おぼつかない」判断力で、生命のギリギリの判断を下さなければならない、他人の生命を預かる医師が務まるのでしょうか? 

 実際にたくさんの子どもたちを相手にして教える経験でもない限り、子育ての基準は個人の経験に頼るしかありません。しかし、そうであるからこそ、腕白体験や社会的経験が豊富であるお父さんの出番です
 ところが、最近のお父さんの多くは、「石橋を叩いて叩いて、ついには石橋を壊してしまって渡れなかったり」、「叩いたが、渡れるかどうかを判断できず、結局渡らせずに、自分が舟で送る」ような始末になっているような気がします。それは、どちらかといえば、お母さんやおばあちゃんの役目でしょう? そもそも豊富な経験と判断力があれば、木の橋でも丈夫なものがわかります

 よく「頭を切り換えて」といいますが、ぼくたちは生活と仕事を、それぞれ別の頭を用意してやっているわけではありません。発想のパターンや行動の指針は、どんなことをするときにも影響し合う関係になります。子どもたちも、遊びにしろ、体験学習にしろ、勉強にしろ、それぞれ別の頭を使ってやるわけではありません。逆に、それらの体験の数々が、彼らの判断能力や行動基準を養っていくのです
 必要以上に過保護にされ、ひとりで新しいことや経験のないことに立ち向かうことを知らない子たちは、難題に当たったときや難関に立ち向かう時、勇気を出して解決に向かう気概を、いつどこで身につけることができるのでしょうか。やがて彼が関わることになる「どんな問題」に対しても、その発想や姿勢は影響してくるはずです。その姿勢が学習にだけ影響しないというはずはありません

 「何事にも積極的にチャレンジしていく」という姿勢が身につかなければ、いつか大きな壁にぶつかる時期が来るでしょう。低学年の間は問題のシンプルさや本来の素質で乗り切れても、学年が進んでいくほど勉強はできなくなるはずです。「自学」できるようにはなりません。
 みなさんの参考のために、団を退団し有名受験塾H学園に行ったA君と、3年生の時には相手にもならなかった団員B君の、その後の中学入試結果を、当時アップしたブログから紹介しておきます。

当然すぎる逆転劇
 さて、指示待ちの彼のその後です。彼が全国的にも有名な中学受験塾「H学園」に入塾したという噂を聞きました。その頃、たまたま懇談で来られた同学年のB君(上記の二人の学コン成績表参照)のおとうさんと過保護の話題になったとき、「三年後の中学受験の時になれば、ふたりの学力の伸長のちがいがはっきりわかりますよ」と伝えました。

 三年後、難関中学を受験してすべて不合格だったA君の進学先は私立中堅校S学園の標準コース。一方、三年前は彼のおよそ半分しか得点できなかったものの、団で指導を続けたB君は国立教育大附属天王寺中学(もう一校近県の教育大付属も合格)。やはり予想通りの結果で、それまでの過保護の児童のケースと同じです
 団では偏差値を子どもたちの学力の基準においてはいませんが、わかりやすく判断基準を提供するために偏差値を紹介すると、附属天王寺は65、S学園の標準は54です。その差11という大差です(平成23年度・I社偏差値)。A君の力をうまく伸ばせなかったのは誰の責任でしょうか。そして学力とは、指導力とは何でしょうか?

 「父性」の役割を少し了解していただけたでしょうか。学体力の基盤を形作るお父さんの役目、視点や発想を変えなければ、それは「父性」ではなく、『負性』であり、『不性』に堕してしまうものだと思います。
 次週はさらなる「父性の減退」がもたらした「不正」について考える予定です。