君には、この美しさがわかるか?
ぼくには画家の友人が一人いるが、時々承服できかねることを云うんだ。
花を一輪取り上げ、「ほら見ろよ、なんて美しいんだ」。ぼくも、そう思うから、うなずくとする。
すると、やつは「ぼくは画家だからこの美しさがわかるがね、君は科学者だから、ばらばらに分解して、てんでつまらないものにしちゃうんだろ」。何とも、とぼけたやつなんだ。(THE PLEASURE OF FINDING THINGS OUT /Richard P. Feynman p2 拙訳)
皮肉屋で自信家(であろう)画家の友人がファインマンをからかった時の一コマです。ファインマンは、こう反論しています。
まず、彼が見ているような美しさなんてものは他の人だって享受できるし、ぼくもわかると信じている。彼ほど芸術的に洗練されたものではないかも知らんがね。だけど花の美しさなんてわかるもんだよ。それより、ぼくは彼が見ている花について、同時にもっと多くのものを見ているのさ。そこにある細胞の姿だってイメージできるし、そこにも同じように一つの美しさがある、内部の複雑な細胞のはたらきもイメージできるんだ。つまり、美しさというものは、単にセンチメートルの範囲に限られたものではなく、もっと小さなもの、内部構造にも同じように存在するものなんだ。(同書・拙訳)
ファインマンの面目躍如、というところです。これに似たようなことに出会いました・・・。
リトル・ファインマンへ
先週、子どもたちと課外学習「二上山と三つの石」を実施したのですが、さまざまな案内本を見ても、「サファイアやガーネット」について、「赤い砂粒」だの、「3~4時間かかって1ミリの青い粒(サファイア)2・3粒などと、「文句タラタラ」が目につきます。
いったい何を期待してるのか? 一獲千金の宝石を日本で見つける可能性など、万に一つもないでしょう。一獲千金を目指すなら、宝くじを買うか、あきらめて一層真面目に働きなさい(笑い)。
小さな子どもたち(と子どもの心をもった大人たち)が手に入れるものは、「地球」という「これ以上ない大きな宝石」に気づくことであり、「学ぶおもしろさ」という「大金塊」です。
それは「道端に転がる石」が、実は「捨て置けない存在である」とわかることであり、小さな川の砂をパンニングすることで「地球」や「火山のしくみ」に興味をひかれ、火山岩や火成岩やケイ素・鉱石などという「勉強の範疇に閉じ込められている」学習内容や学習対象を、「自らの仲間として再認識すること・解放すること」なのです。お金に換えられない、こんな「かけがえのない宝石」はありません。
写真を見てください。これは目的地からパンニングして持ち帰った小川の砂ですが、そのまま見ると、「少し赤っぽい細かい砂だな」、「つまらねえ」という思いしかないでしょう。
たいていの人は、この中から赤い小さなガーネットを丹念にピンセットでつまみ出し、「ため息」とともに「数十粒の情けないコレクション」に収めてしまうのかもしれません。「ひと時の慰み」です。子どもたちも、「なあ~んだ」で終わりです。
もう少し先に進みませんか? パンニングして持ち帰った砂を、白い大きな紙に広げて、風で飛ばないように乾かし、乾いたら、その一部を少し倍率の高い拡大鏡で覗いてください。
「ワオ!すげえ~」というセリフが子どもたち(子ども心を失わない大人、そういう人がそばにいることが、リトル・ファインマンを育てます)の口から洩れるはずです。
「小汚い砂の集まり!」だと思っていたものが、信じられないほど多量の微小なサファイアの粒とガーネットやジルコン、各種鉱物の「塊り」であることがわかるはずです(写真は後日披露します)。それによって、地球上で「石」は様々な形で存在し、生成と消滅を繰り返していることがわかってきます。そしてそこには、たぐいまれな美しさと儚さも顔を覗かせています。
さあ、お父さん・お母さん、子どもたちと一緒に砂粒(?)を集め、鉱物事典や宝石事典を開きましょう。
立体授業「二上山の三つの石」テキストの紹介
立体授業「二上山の三つの石」のテキストは、まったくの新作になったので、課外学習までに間に合わなかったのですが、もうすぐ完成します。その中から一部紹介します。
ここでは比重や大津皇子のことにも触れています。なかには、「むずかしい」という反応があるかもしれません。しかし術語や人名だけの中身のない暗記と、「むずかしいけどおもしろい」興味や好奇心を引き出す体験とでは、どちらが子どものためになり、成長の糧になるでしょう。
例えば、「万葉集」をいちばん古い歌集とだけ覚えて、何かおもしろいことが始まるでしょうか? 所詮テストの解答です。また、「比重」や「密度」を教科書で覚えて、何か役に立つでしょうか。やがて忘却の彼方です。
「学習する内容が、日常の『もろもろ』といかに関係しているか」がわかって、好奇心や学ぶ意欲は駆動します。学習はすべからく、そこから始めるべきだと、ぼくは思います。
二上山と大津皇子(おおつのみこ)
現在の二上山は、大阪と奈良の県境でふたこぶラクダのようなやさしい山容をしているが、万葉集の歌にもなっている哀しい歴史がある。天武天皇の第三皇子大津皇子の逸話である。大津皇子は日本書紀や現存する日本最古の漢詩集「懐風藻」でも、その「人となり」や才能が高く評価されている。
「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」。
魁梧(かいご)~大きく立派なこと。状貌(貌状)~姿や形。器宇~人柄・才能・心の広さ。峻~きびしい。遠~はるか・あまねく・奥深い。博覧~広く見ること、見聞が広いこと。属す(文)~作る、綴る。壮なる~元気盛んなとき、またその年ごろ。武~武芸・武道。多力~力がある、勝っている。剣を撃つ=撃剣~剣を使う技。放蕩~ほしいまま、わがまま。自由奔放。法度~法律・制度・礼儀。拘らず~は拘らない、関係ない。士~役人。礼す~敬う。付託~身を寄せる、任せる、頼りにする。
先の読み下し文を解釈してみると、こんな具合である。
「いかつく、体格と才能に恵まれ、小さいころから学問が好きで教養あり、文才にもあふれていた。青年期に至ると武芸を愛し、剣道にも秀でていた。自由奔放な性格で、些細な物事にこだわらなかったが、目下の人たちにも礼を失わなかったゆえ、多くの人に信頼され、頼りにされていた」。いかにも弱きを助け、強きをくじくヒーローとしての姿が目に浮かぶが、それが災いしたのであろう、悲劇的な最期を迎える。
683年、天武天皇の死後、叔母だった皇后(後の持統天皇)が擁立する皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)に対する謀反の廉で捕えられ、翌日訳語田(おさだ)の家で自殺した(10月3日)。大津皇子が歴史に取り上げられるのは、その悲劇的な最期とともに、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)らの、彼を慕う歌が「万葉集」に残っているからである。
現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは、二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(わ)が見む
(拙訳 未だこの世に残っている私は、明日からあなたが眠っている二上山を弟だと見なければならないのですね、哀しいことです)
磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たお)らめど見すべき君がありと云はなくに
(拙訳 岸辺の岩のそばに生えている、この可憐な馬酔木の花を手折って、その花を見せようにも、もうあなたはいないのですね)
いずれも、大津皇子が二上山の雄岳に埋葬されたとき、姉(大伯皇女)が弟を偲んでつくった歌である。
また、同じく万葉集に大津皇子の歌も残っているが、そのなかに「相聞歌」という、男女の愛の掛け合い歌が残っている。
まず、大津皇子が
あしひきの山の雫(しずく)に妹(いも)待つとわれ立ちぬれぬ山の雫に
(拙訳 大好きなあなたを待って長い間、山のなかの木の下に立っていたら、落ちてくる雫で濡れてしまったよ)
贈ったこの歌に、相手の女性石川郎女(いしかわのいらつめ)が、またかわいい歌を返している。
吾(あ)を待つと君がぬれけむあしひきの山の雫にならましものを
(拙訳 そうなんですか、私を待ってくださってあなたがぬれてしまった、その雫に、ぜひなりたいものです)
感性豊かで行動的な大津皇子が歌の才能もにあふれ、女性にも好かれたことがよくわかる。また教養あることが、いかに「粋(かっこいい)」かもわかるだろう。その大津皇子の墓が二上山にある。
パンニングと比重と密度
竹田川でサファイアやガーネットの粒を集めるのは、お盆のようなお皿を使った図のようなパンニングという方法による。これは川で砂金を集める昔からの方法でもあるが、集めるものの重さが他の不要なもの(砂など)より重い場合に使う方法である。水の流れを利用してお盆を揺らし、浮き上がった軽いものを流し、重いものだけを集める方法である。
冒頭の地球の構造の説明で、花崗岩質は密度2.8g/立法センチメートル、玄武岩質は密度3.0g/立法センチメートルという説明が出てきたが、そのあと長石の比重2.6、石英の比重2.7と、比重ということばもつづいている。「花崗岩質が陸地側のプレートの中心になり、玄武岩質がそれより重いので海底の・・・」ということから考えると、「軽さ」と「重さ」に関係している術語だとわかるが、それでは軽い・重いとはどういうことどういう意味だろう。また、どうして判断できるのだろう。
たとえば、君たちが太っている子をデブとか云って揶揄うが、身長145㎝で40kgの子どもより170㎝で60kgの大人の方が、体重は重い。ところがイラストを見ても、この大人の人をデブだとは思わない(言わない)だろう。つまり、「重い・軽いは、単に重量(重さ)だけでは比較できないことがわかる」だろう。それでは、重い・軽いを、どうして判断するのか?
吉野川の「もち鉄探し」は、川原で最初石を拾ったときの「感覚」が始まりだった。小さい石ころを拾って、「この石は重すぎる」と感じたからだ。それでは重すぎる、とは何に対してだろう? 小さい頃から川原でたくさんの石をつかんでいた経験から、「この大きさの石がこんなに重いわけがない」と感じたからだ。つまり「ものの重さ」を他と比較し、重いか軽いかを決めるためには、そのものの大きさ(体積)を基準に入れなければならない。綿1kgと鉄1kgでは、どちらも同じ重さだから、どちらが重いとは云えない。なお、この1kgの綿と鉄をのせられるような上皿天秤があると、ふつうは鉄の方が下がるのだが、それはどうしてだろう?
さて、このように重さの比較をきちんとできるように、その体積をきめ、それに応じて重さを考えたものが密度である。つまり、花崗岩の(平均)密度が2.8g/立法センチメートルというのは、花崗岩は体積1立法センチメートルで約2.8gという意味である。
それでは花崗岩の比重が2.8だと云った場合はどういう意味だろう。このように、ふつう使われている比重は「液比重」のことで、これには『水』の密度が関係してくる。水は一気圧・温度4度Cのとき、密度は1g/立法センチメートルである。(液)比重は物質の密度を、この水の密度で割った数字の比(比の値)なのである。つまり、花崗岩の密度2.8g/立法センチメートル÷水の密度1g/立法センチメートル=2.8.したがって、数値は密度と同じでも単位はつかない。比重には特別なときに使われる空気との比較の『蒸気比重』もある。
なお、比重は一般的には固体のものに対してよく使われるが、物質は固体・液体・気体と云う三つの状態がある。ふつうは、この順番に同じ質量でも体積が大きくなるので、密度は小さくなる。つまり同じ物質の体積は同じ質量では、固体<液体<気体と大きくなる。したがって、その密度は同じ物質でも状態によって固体>液体>気体となる。
ところが水だけは体積が液体(水)<固体(氷)<気体(水蒸気)の順になり、その密度は液体>固体>気体と変わることに注意しよう。また、水は温度によっても体積が微妙に変わり、4度Cの時にいちばん体積が小さくなる。したがって、密度も4度Cでいちばん大きく、比重も重い。特殊な物質である。氷が張った池の底でも凍らず魚が生きていけるのは、水の底は、いちばん重い4度Cの水だからである。
なお、この密度の場合の単位当たりのg数は質量である。gは「『重さ』の単位ではないか」と思うかもしれない。質量とは何か? 重さとどう違うのか? 今度は、それを調べてみよう。
「重さ」はふつうkgやgと云われるが、正しくはg重、kg重とあらわす。この重さは地球上の高度、高い場所と低い場所では異なるし、緯度によってもちがってしまう。つまり、「はかり」では量る場所やはかりの種類によっても異なってしまうのだ。それは地球の引力が高いところでは弱くなり重力が小さくなるからである。たとえば月にいけば、引力は地球の6分の1なので、同じものの重さが地球の6分の1になる。
厳密な測定を必要とする場合は、ふつうのはかりでの重さを基準にすることはできない。そのため、最大密度つまり4度Cでいちばん重くなる時の水の量1000mlを1kgと定め、その基準となるkg原器(白金とイリジウムの合金)が1875年各国の条約に基づいて、世界で定められた。
質量は上皿天秤で量るが、上皿天秤の分銅はこれに基づいてつくられたもので、これによれば、ほぼ正しい質量がはかれることになる。それでは、上皿天秤で、どうして正しい質量がはかれるのかわかるだろうか?
なお、学習指導内容が多岐に広がるため、手に余る誤謬や誤解があるやもしれません。お気づきのところがあれば、ご指導いただければ光栄です。