『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

うそじゃありません④ 人生のオリンピック

2016年08月27日 | 学ぶ

偏差値偏向教育の錯誤 
 写真はすべて、今年の渓流教室のスナップです。
 京大や阪大、国公立難関医大等に進学したOB諸君の小学生時偏差値評価の「意味のなさ!(言い過ぎだとすれば偏重!)」を団の実績とともに紹介しました。こうした紹介をすると、当該諸君の「能力の低さ(?!)」を吹聴しているように誤解する人がいるかもしれません。「とんでもないまちがい」です。ぼくが考えているのと全く同じように考えてくれていたOB「アフリカ行きのK君」の一言です。

 「ぼくたちがちゃんと努力を重ねて学力や能力を身につけたという自信やプライドになりこそすれ、劣等感にはなりえない」。それを聞いて感激しました。「そうなんだよ、やはり大きく育ってくれたな」。
 学力や能力の成長には「人としての総合力」が大きくものをいうと感じているからです。たとえば、「人助けをしたい」、「病気を撲滅したい」という子どもがいれば、その思いや「やさしさ」が学力の伸長にも大きく寄与します。その「夢をかなえようとする」力が応援するからです

 K君の判断に、さらにことばをつけ加えるとすれば、「子どもたちの進歩は多様で、可能性にあふれている」という一言です。OB諸君の成長が証明してくれています。
 K君のことばを聞いて、彼らに続く諸君が「偏差値まみれ(!)」でつぶれないように、まず「環覚」を育て「学体力」を身につけ、「学ぶおもしろさ」や「学ぶことの大切さ」を手に、大きく育ってくれることをさらに楽しみに、今後も指導を続けたいと、心を新たにしました。
 子どもたちが「目先の受験偏差値を高めるだけの学習」に右往左往する「子育て環境」から脱出しなければなりません。「右往左往」の「超難関」進学で、「右往左往する意味があった」諸君が何人いたか。「余裕があれば抱けたはずの大きな夢」が、難関大合格という「ただの小さな夢」に化けなかったか?
 学ぶことにしろ、考えることにしろ、少し視点を変えれば、どこに進学しようと、ひとりでも充分可能で成長もしていくことができます。先週の進学率などの紹介から、それも推定可能だと思います。

 かつて紹介した天才物理学者リチャード・ファインマンの伝記?No Ordinary Genius”(CHRISTPHER SYKES  W.W.NORTON & Co. Inc.)の一節を紹介します。
 彼が、まだベビーチェアに座っているような小さいころです。どこかから中古のタイルを持ち帰ったお父さんが、反対するお母さんをしり目に、ファインマンとそのタイルを色別に規則正しく立ち揃えて『ドミノ倒し』をしたことを回想しています。子どもの可能性に大きな夢を託したお父さんのかかわり方です。ちなみにお父さんは制服販売会社のサラリーマンでした。

 親父は言ったそうだよ。「私はリチャードに、『規則性』とはどういうものか、そしてどんなにおもしろいかを紹介したいんだよ。数学の基本だからね」。だから親父は、ずいぶん早くから、身のまわりのことどもや、それがどんなにおもしろいかを教え始めたんだよ、ぼくに
(上記書 拙訳  p20 下線・太字は南淵)
注 下線部訳の原文です。
So he started very early to tell me about the world and how interesting it was.

 以前も紹介したように、ファインマンは同書だけではなく、他でもお父さんの指導や影響について触れています。毎年訪れるキャンプ地で「森の中のできごと」を二人で見て歩いたこと、家での「ひも付きワゴン」に乗せたボールで「慣性」のはたらきに気づいた時のことなど・・・さまざまな「周囲のできごと」について観察し考えたことを記しています。
 それから考えると、引用の日本語訳のように the world 身のまわりのことどもとでも訳すのが妥当だと思います。ファインマンはお父さんに「周りのこと」に、あるいは「周りのことのおもしろさ」に気づく目、つまり『環覚』を養ってもらったのです
 「環覚」はぼくの学習経験から割り出した「造語」ですが、強化することによる子どもの成長に対するアドバンテージに「わが意を得ました」。確信をもてました。

 「自らの環境(世界・周囲)には『不思議なこと』や『おもしろいこと』がいっぱいあることに『気づくこと』」。そして、それが初学者の学習に対する「抽象性克服」のための大きなアドバンテージになること。
 それらの検討や研究が「科学に昇華」している(する)のであって、「(受験)学習」はそれらの「枝葉末節」に過ぎない。「おもしろさもほとんどない残りカスである」。そのことに気づかないと「おもしろさ」は始まりません

 学習は「本来」『受験勉強で終えるもの』ではなく、『不思議のワンダーランド』である「世界(身のまわりのできごと)」の謎を解くことであること。それは決して『受験のため』ではなく「生きていくうえでも欠かせないたいせつなものであること」に、子どもたちはもちろん、指導者も気づくこと。そして、考え方や指導方法もその方向にシフトしなければ、おもしろさはもちろんですが、ほんとうに学ぶ力、つまり「学体力」はさらに縁遠く(無縁に)なります。「おもしろさ」がわかることで、真の「学体力」が駆動するからです。

終われば質問をしてやろうというような先生がいないからね
 「受験ではない指導(!)方法」のヒントに、前掲書の一節を拙訳でもう一つ紹介します。
 ファインマンは冗談交じりで話を始めます。
 
 四六時中考えなきゃならんという厄介な性分にしちゃったのは、ぼくのおやじなんだよ。おやじは、よく「我々は、何もわからないまま地球に来ちゃった火星人なんだ。だからあらゆることを解明しなくちゃならんのだ」なんてことをはじめるんだ。たとえば、「誰もが毎晩眠りにつくのは、どういうわけだ」ってな具合にね。(?No Ordinary Genius”(CHRISTPHER SYKES  W.W.NORTON & Co. Inc. p125)

 「地球のできごとすべて」について『解明する』、つまり、ほんの小さいころから、周囲のあれこれについて、「おもしろおかしく」その意味を問うという習慣です。「環覚」の養成です。
 何も気づかず何気ない日々のまま子ども時代を終わるのか、何気ないものに注目してそれに思いが至り、その面白さに気づくのか? ファインマンのその後を見れば、『環覚』の有無で「考えることや考える力に途方もなく大きな相違」が生まれる、ということは明らかです。 
 こうした理解は、日ごろ受験オンリーで指導経験を積み重ねている先生方や保護者の想像の枠には収まりきらないことかもしれません。それでも、これが、「科学」やさらなる『学習』を追求する大きなきっかけになることは十分想定内だと思います。

 ファインマンは、この後、どうして科学を難しくてつまらないと言う人がいたり、簡単でおもしろいという人がいるのかわからない。科学にはぼくが大きな喜びを手にできる特徴がひとつあるだけなんだ、と言います。そして、この世界が実際はどうなっているのか、を解明しようとすれば、そりゃたいへんな想像力がいるってことさ、と言います。
 つまり、ここには「『テストのための勉強(受験勉強)』の範疇で『しか』科学を見ることができない人」と、「環境のすべてを解明することそのものにおもしろさを見出した人」の、大きな違いが見て取れます。いつも強調していることが、ここでも明らかになっています。「天才的な科学者」と「その他大勢のぼくたち」のちがいは、誤解を恐れずに言えば、まず『環覚』の有無なのです。

 ファインマンは続けて、いつもあらゆる種類のことに思いを巡らせているのは、ちょうどランナーが汗をかくことに快さを感じられるように、考えることに喜びを感じるからだ、と言います。「『勉強』で始まり『勉強』で終わるのではない学習のすすめ方」が天才を育てたことがはっきりわかります。 
 ランニングは「勉強」ではありません。「ファインマンの学習はランニングと同じ」なのです。「机上の問題から考えはじめ、机上の問題そのもので学習を終える」のではなく、「環覚」を育てれば、こういうことが始まります。
 節の最後にファインマンは、お父さんの一連の想い出について、真面目に考えすぎないようにしてほしいと述べます。ただ想像するのがおもしろくてやっていたんで、あれこれ思い悩むことなんてなかった、最後に問題を出そうとしているような先生もいないからね。そう結んでいます。
(一連の抄訳は拙訳です。?No Ordinary Genius”(CHRISTPHER SYKES  W.W.NORTON & Co. Inc. p125)
 
 「『終われば質問をしてやろうというような先生がいない』指導や授業が天才を育てたこと」に、ぼくたちはもっと注目し指導の方向を修正するべきだと思います。それによって天才が輩出する可能性も大いに考えられるのではないでしょうか。

人生のオリンピック
 さて、「偏差値39」と、「無反省の偏差値偏重教育環境」を比べてわかること。それは「子育ては数字ではない」、「数学で育てることはできない」、「データで学力はつかない」という、ごく当たり前の事実です。
 さまざまなデータを取得するアイパッドやスマートフォンなどは「血の通っていないもの」です。「血の通わないもの」ばかりに向かっていて「子育て」はできません。子どもは電池で動くのではありません。絶えず呼吸をし全身を熱い血が流れている「生きもの」です。
 「アイパッドは見ていても、子どもをきちんと見ていない」では話になりません。「今度スマートフォンで調べよう」でも話になりません。今、目の前で生きているからです。
 また、子どもは「統計の結果」や「平均」ではありません。傾向はあっても、それぞれが異なるひとりひとりです。

 「現代風子育て」に違和感をもつのは、偏差値や平均はよく見ているけれど、ひとりひとりの自らの子どもを丁寧に見ているようには見えない感じがするときがあるからです。先のブログで紹介した渓流滑り台の撤去の原因もその例のひとつです。
 子どもはひとりひとり自由に動き、独自に成長する、それぞれかけがえのない存在です。平均値でも偏差値でもありません。「データは覚えているが、昨日の子どものようすは頭に残っていない」のでは、日々の成長の足跡さえたどれません

 子育てをする人はIT社員ではなく、職人であるべきだと思います。「送られてくるデータ」を判断材料にするのではなく、それぞれの日々の顔色や目の輝きに目を留め、何が足りないのか、どうすればいいのか、「経験知」を重ねながら、いわば、お百姓さん(あえて、温かい言葉を使います)がお米や野菜を育てるように育てるのがたいせつではないでしょうか。数字に振り回され数字を通して見るのではなく、「もっと血の通った眼で血の通った子どもを日々見直す」べきではないでしょうか?
 様々な話題を提供したリオ・オリンピックも閉幕を迎えました。ぼくは子どもたちも「オリンピック選手」に育てるべきだと思うのです。運動の苦手な子にも柔道やサッカーをやれというのではありません。いわば「人生のオリンピック選手」です
 人生の競技ですからジャンルは問いません。だからみんなオリンピック選手として金メダルを取れる可能性があるわけです。

 しかし、オリンピック選手はみんな目標に向かって、人知れず努力や辛抱を続けてきた人ばかりです。それによって「それぞれの種目の高み」に這い上がってきた人たちです。それを忘れることはできません
 表面しか見なければ、「すごいな、天才だナ」で終わるし、天才であれば、努力をしても所詮追いつかないから努力も無駄です。その発想からは、「所詮『俺たちとは異なる人たち』がやったことだから、凡人の俺たちは努力をしても意味がない」というサボり放題、「悲観的、投げ遣りな」マイナス思考の連鎖しか生まれません
 従来から「これらの考え方が暗に世の中に蔓延している」と感じているのは僕だけでしょうか。この「諦観」が、夢がなく未来が見えない世の中をつくってしまう大きな原因だと考えています。
 子どもたちには、小さいころから、「ひとりひとりが人生のオリンピック選手だ」と伝えてあげれば、それに向かって努力することは当たり前だし、大きな夢も生まれる可能性が高くなります。子どもたちには「人生の金メダルを」。その一言を伝えましょう


うそじゃありません③ 「一瞬」の偏差値より「学体力」

2016年08月20日 | 学ぶ

「当たり前のこと!」で、子どもの将来が決まる
 前回から団OB諸君の国立難関大学進学の秘密をお話ししています。
 京大大学院を出て就職後医師への夢に目覚め、学士試験で30倍の難関を突破し、神戸大医学部に合格。すぐケニヤに行き、現地の医療のようすや国境なき医師団の活動を見に行ったK君。彼の一言の紹介からでした。

 「せんせい、今日の説明(スライドによる資料紹介)で、あらためて指導の結果のすごさがわかりました…すご過ぎると、みんな理解できません、嘘だと思うんですよ、ぼくも今まできちんと見ることが出来てなかったんですが、今日改めてそう思いました・・・。ふつうだったら信じられません」(前々回のブログ)。

 実績が「嘘」だと思われたらかなわん(笑い)し、そのことによって、子どもたちの潜在能力が大きく花開く可能性がある学習指導方法の紹介とその「方法展開」の方向が鎖されてはならない、と思ったからです。
 

先週は、まず、「予備校等での補助受講がなくても(つまり、自学で)、国立難関大学に合格できる」ということをお伝えしました。そして、その例として、私立一貫校に進学したものの、その繊細さゆえ中学二年で不登校になり、その後家の近くのゲームセンターで行き暮れた日々を送っていたM君が、19歳から団のOB教室生になり、たった二年の学習で京都大学理学部に合格したことを紹介しました。
 M君はぼくのアドバイスを受けながら、推薦した参考書を、団で自学しました。その2年間の学習だけで京都大学合格です。
 部外者だったら、にわかに信じられない話だと思うので、K君の「みんな、嘘だと思う・・・」という判断はもっともなのでしょう。しかし、M君をはじめ、ご覧いただいているOB諸君の実績はすべて事実です。

 19歳で団を訪れてくれたM君の場合、潜在能力や利発さ・性格等に恵まれていたため特別で、ふつうは小さい頃からの指導で、その「礎」を築いておかなければなりません。しかし、決して難しいことではありません。子どもたちが小さいころから「学ぶ大切さ」や「学ぶおもしろさ」に目覚めるよう、自然体験等による『環覚の育成』に心を砕き、そして次に「当たり前のことがきちんとできるようになる指導」を心がけることです。これらが「自ら学びすすめる力」=『学体力』の基礎にもなります
 前者については、立体授業(自然体験)で「環覚」を養い、テキストによる学習の「抽象性」をできるだけ解消していくように努力すること。後者は、たとえば「約束を守ること」、『やらなければならないことをきちんとやること』・『やってはいけないことはしないこと』等という「当たり前」のルールを徹底することです
 そんなに堅ぐるしく考える必要はなく、団のモットーも、あくまでも「子どもらしく」です。

 たとえば、「人の話をちゃんと聞けること」・「宿題をさぼったり、やるべきことを先延ばしにしないこと〈しなければならないことは、有無を言わさず実行すること〉」という、いわば「躾」として、ごく基本的なことを教えるだけです。それによって、学習が大きく花開く道も整備されます。
 先週は、その一環の指導として、みんなで遊ぶ渓流教室(勉強合宿ではありません!)でのバーベキューの準備や後片付けで、「楽しい思いやおいしい思いを共有した〈自分も味わいた〉ければ、自らも力を合わせて協力・努力することが当たり前」にならなければならないという視点を紹介しました。「『いい思い』をしたかったら、それに見合うがまんや努力は欠かせないこと」を学ぶ(学ばせる)ことのたいせつさです。
 また、みんなで汗水たらして努力する辛い作業の中で、「『作業』や『行動』の先を読むという力」や「周りに目を向けるという姿勢」が養われていくこと。つまり「頭のよさ」や「社会性」が涵養されていくことも伝えました。子育てのことを真剣に考えている、賢明なお父さんやお母さんには十分理解可能なことだと思います。
 こうした「身の回りの人たちの一挙手一投足」が、良い意味でも悪い意味にも、小さな子どもたちの成長の『糧』になります。子どもたちに対する目配り・気配りの「日々の積み重ね」が、その後の成長の「途方もない差」になります。こうした何気ない日々の「落とし穴」に気づけるか、目を向けられるか否か、そしてその指導を継続できるかどうかが、「子育て」では、まず大切です。
 もう十年近く昔になりますが、あるお父さんの、「おれができていないのに、こどもに偉そうに言えない」という「自嘲」を耳にしました。それでは本末転倒です。「自嘲している自分」以下の子どもしか育ちません。
 「『自分ができていない』、『足りないところがいっぱいある』から、『大した夢もなく育ってしまったから』、子どもはきちんと育てなければならない」という、子育ての『基本!』を忘れてしまっています。イチロー選手・松井選手をはじめとする、数々の名だたるスポーツ選手や、社会で幅広く活躍している人たちの「お父さんやお母さんの姿の資料(著書)」を手にし、その「子どもを思う姿」に、まず目を留めてください。


 「天才の親が天才の子を育てた」という例はほとんどありません。「天才」を育てるのは、子どものことを本当にしっかり考えているお父さん・お母さんたちです。これは以前、ファインマンのお父さんやエジソンのお母さんについても検討したことです。
 大事な子どもを立派に育てるために教育やしつけがあるわけです。何もしないで、出来の悪い子どもを再生産するだけなら、教育は必要ありません。「『少し注意すれば誰でもできること』で、たいせつな子どもの未来が大きく開けるの」ですから、がんばりましょう。『共にするのが苦い経験だけ』では、二人とも残念です。

偏差値や超難関校を絶対視するばからしさ
 さて、OBを囲む会の資料説明です。資料をご覧ください。

 右端の拡大表示した数字は、前回紹介した国公立難関大学にすすんだOB諸君の小学校6年生時のI社模擬テスト4科目合計の偏差値平均を大手受験塾の日能研の偏差値に比定換算したものです
 方法は、両社の私立六カ年一貫校の合格可能性判定基準偏差値の比較によりました。(二番目の表。日能研偏差値は2012年受験用発表分)。日能研の模擬テストを受けての偏差値ではなく想定で、表中のOB諸君も同一年度の卒業生ではありません。したがって、ある程度の数値の幅があることは判断に入れておかなければなりませんが、『受験学力』の判断には十分根拠があると考えられます(比較対照表も提示しておきます)。

 ご覧のように、難関大学にすすんだ諸君16名の小学校時偏差値は、最高で日能研偏差値換算54以下(京都大学薬学部)、後は50前後が2名(大阪大学歯学部・京都大学工学部)、ほかの諸君はほとんど平均以下の49以下です中には、小学校時39以下と想定される諸君も3名います。

 その3名の進学大学をご覧ください。その後OB教室を経て進学した大学はそれぞれ、札幌医科大学・奈良県立医科大学・神戸大学工学部です。そして、もう一度、ほとんどバラバラ、バラエティに富む全員の進学中学に目を向けてください。彼らが、「その学力をどこで、いつ養えたか」を判断していただけるのではないでしょうか。
 これらの資料を冷静に見ると、「小学校時の高偏差値や高得点獲得競争に目の色を変え、フォアグラ受験塾に我が子を入れるために奔走し、夜遅くまでの缶詰授業を送り迎えをすることの無意味さ・ばからしさ」に納得がいくのではないでしょうか
 さらに、以下のコメントと提示の表で、小学校時にいくら偏差値がよく、超難関に進学しても、「確たる学力や能力がともなっていない(!)子がどれだけ多いか」を理解していただけるはずです。そして、そこが一番の問題点です。

 「抽象性の高い受験学習だけ!」を毎日詰め込まれ、「点数をとることだけに長けている子」を育てただけです。手に入れたものは「一瞬の偏差値(!)」だけです。
 学ぶたいせつさ」や「学ぶおもしろさ」に気づかず(気づけず)、ゲーム三昧やテーマパーク巡りやお小遣いのご褒美等の「おかげ」で身につけた「受験学力」は、成長してから欠かせない「生きる力」や「学体力」とは何の関係もありません
 甘やかされ、おだてられて超一流中学に合格したものの、「おもしろさ」も「たいせつさ」も見えない「勉強」は、中学合格時点で、「用済み」の感覚しか生まれません。終わりです。
 現在の「受験勉強」では、苦労すればするほど『味気なさ』が募り、消耗が激しくなります。また、「潜在能力」が不足している子が偶々運良く合格できても、悲惨な行く末が待っています。コンプレックスと自信喪失の未来です。
 子どもの将来まで『生産と消費(!)』の経済活動に組み込むことは犯罪(!)です。お父さん・お母さん・塾をはじめとする各先生方は、もう一度その辺りの事情をふりかえり、みんなで反省すべき時だと思いませんか。子どもにとっては非常につらく、残忍な現状です。

 団のOB諸君が大学進学時に爆発力を発揮するのは、「無理をせず、じっくり実力を蓄え、学習のたいせつさやおもしろさをちゃんとわかってくれた子が多いから」だと、ぼくは信じています。たいせつなものは、「一瞬の偏差値」や「フォアグラ授業」、「むやみな超難関校指向」ではありません。
 公立中学進学であろうと私立指向であろうと、「学習するたいせつさ」や「人間らしさ」や「学習するおもしろさ」が身についた「学体力」こそ、お父さん・お母さんが目指すべきものです。また、指導するほうも方針や指導方法の舵を大きく切るべき時だと思います。
 さて、では超難関校と団の大学進学率比較です。

超難関校とOB教室の進学率比較
 下記のOB教室と私立中高一貫校の国公立大学合格率比較表をごらんください。

 青色マスの学校名T学園は奈良の中高一貫トップ校、OS学院は大阪府の中高一貫トップ校です。資料の数字は表中の注記にありますように、2013年度の三大学(東大・京大・阪大)の受験者総数に占める合格率、そして同じく国公立大学合格者数・国公立医科系合格者数の占める比率です。
 2016年度でない理由は二つです。
 先日書きましたように、学習指導から立体授業の企画立案、もろもろのテキストづくりなど、日々膨大な仕事量で、すべて一人でこなさなければならず、リスト作りの時間がなかったから。
 また少人数の個人塾なので、2016年度はOB教室大学受験者がいませんでした。しかし、別報告の2015年度のOB生の合格者を考えれば、全体の率が上がりこそすれ、下がることは考えられないからです。
 比較の中高一貫校の受験者総数は、2013年度の受験者総数に、「前年度」の進学先未決定者(つまり浪人)数を加えたものです。発表は前年度のみですから、さらなる過年度生は算定していません。2浪3浪の受験者を加えれば受験者総数はさらに増えます。したがって合格者比率はもっと下がります。そのことを念頭にごらんください。

 まず、受験者総数に占める三大学(東大・京大・阪大)合格者比率です。団は現役合格率でOS学院を凌駕しています(青字)。また仮に2浪や3浪が数十人いた場合、先述のように両校の合格比率が大きく下がることにも注意してください。
 ちなみに、団に「東大合格者がいないではないか」という指摘に注釈をつけておきます。先日も書いたように、ぼくは、東大に行けるからと言って無理やり進路変更をアドバイスしません。あくまで本人の進みたい学科最優先です。京大へ進んだY君とM君は十分東大にも合格できる学力があったと確信しています。

 次に同じく、国公立大学合格者数を見てください。ここでは、T学園の現役合格率を凌駕しています
 ブログをご覧のみなさんに、ここで考慮に入れていただきたいことは、先の日能研偏差値で「T学園は67」、「OS学院は63」という超難関校だったという事実です。つまり、これらの合格率は「それほど偏差値が高い難関中学に合格できた優秀な(優秀だった)子たちの大学受験結果である」という「現実」です。
 対して、団の諸君は「だれでもOK、無試験入塾」の、その辺で元気に遊んでいる悪ガキ(団生・OB諸君、先生のいつもの口の悪さで、ごめん!)で、中学進学の際の同偏差値比定では「最高で(!)54以下」。「OB教室だけ」の一人を除き、小6時に50以下(50前後が2人、49以下が4人)の子どもたちが京大・阪大に合格しています
 中学進学時では、T学園やOS学院に進んだ子たちとは日能研比定偏差値で10以上(!)差があり、「平均以下」だったのです。その子たちが、大学進学時になると、彼らに勝るとも劣らない学力を身につけ、大きな夢とともに難関大学進学を果たすのです。つまり、身につけたのは単なる受験学力ではなく、生きていくためにたいせつな「学びを自ら進める力」=『学体力』だったということです
 さて、次の表をご覧ください。これは、三大学以外の難関国公立大に進んだ諸君です。


 桃色の数字をご覧いただくとお分かりのように、小学6年時に偏差値39に比定される先ほどの諸君も2人含まれています。難関の公立医科系大に、その偏差値39の2人が合格しています。  
 前出の表で国公立医科系の合格率をご覧ください。団の比率はOS学院の浪人生・現役生の比率の倍以上です。奈良トップ校のT学園とも遜色ありません。偏差値が低くとも、小学生時代に無理をせず、正当な学習指導を受けた諸君の爆発力です。ぼくがフォアグラ指導の弊害を強調できるのは、こうした根拠があるからです
 みなさんは、この現実をどう解釈されますか? 「現在の子どもたちの育て方と学習指導法がまちがっている」とは思いませんか?
 以下次週。


うそじゃありません② 指導報告―OBを囲む会資料説明

2016年08月13日 | 学ぶ

ひとりでもできること
 学習探偵団は開設以来、個人塾で学習指導はぼく一人です。指導スケジュール・指導内容はもちろん、たいせつな課外学習〈立体授業〉の企画立案・テキストづくりも一人でおこなっています

 小学校低学年の指導から、中学進学後、継続指導希望者のOB教室生の大学受験指導までぼく一人ですから、いつも時間には悩まされています。学習指導のテキストは市販のものとオリジナルテキストを併用しています。それぞれの諸君の日々の課題は各自の進度・学力に合わせて適宜指示していきます。しかし、課題(宿題)は受験学年の6年生になっても、集中してやれば70分程度のボリュームで、それで十分です。
 指導方針に対する家庭(保護者)の理解が得られ、協力体制が整うと、京大・阪大など国立難関大学受験にも、予備校等の補助受講は必要ありません(本人の意思であれば別ですが)。そのOB教室生の全実績が掲示の表です。
 OB教室生32名中16名が国公立大学合格。京都大学進学者5名、大阪大学3名、他国立大学4名、公立大学4名。内、医科薬科系進学者6名です。なお、「2015年3月」の集計は、今年はOB生の受験がなかったからです。毎年数名の卒業ですからOB教室に進む子がいない場合があります
 

ちなみに、今年の渓流教室を手伝ってくれた3人、Y君〈京大文学部大学院・西大和学園卒〉・M君〈京大理学部・奈良学園中退・NHK学園卒〉・K君〈北海道大学総合入試文系・奈良学園登美ヶ丘卒〉の大学受験は学校と団の指導だけでした。
 M君の卒業校がNHK学園になっています。デリケートな彼は、諸事情により中二で不登校になり、中学は何とか卒業できたものの、以降5年間T市のゲームセンターに通う毎日でした。「NHK学園卒」はそのためです。

 能力の高い彼のことですから、日々悩みながらも行き暮れていたのでしょう。初めて彼に会った時、彼の高い能力・利発さ・細やかな神経に大きな可能性を感じたぼくは、「ぼくのところで勉強すれば、二年あれば十分京大に行けるよ、もしかすると一年でも大丈夫かもしれない・・・」と伝えました
 やはり「積み重ね」の不足で、一年間では少し届かなかったのですが、予想通り、二年間の学習だけで、見事京都大学理学部に合格してくれました。別ブログでも書いたように、2年で東大でも十分合格できる学力だったと思っています。

 団を始めようと決めた時の「不思議な感じ」は以前に書きましたが、M君とも不思議な縁です。数年前なくなった大親友が奥さんの『夢枕』に立ち、「ブチに頼め」と言ったのがきっかけです

 ちなみに、これら成績報告の紹介は自慢話をするためではありません。「当たり前の学習」を当たり前にするようになり、きちんとした学校(表中のOBの進学中学を見てください。決して難関一貫校だけではないことがお分かりでしょう)に入り、適切なアドバイスさえともなえば、難関大学や国公立難関医科系大学に、ひとりででも「軽く」合格できるということを伝えたいのです。これは、自身の大学受験の経験でもありました。

小学校4年までの大切さ
 次に、OB諸君の入塾学年を見てください。小学3~4年生がほとんどだということが分かります。これは何を意味しているのか?

 「ぼくの指導の手ごたえ」でもそうですが、子どもたちの「性格や生活習慣をきちんと整えるのは、遅くとも小学4年生まで」という教訓です。「してはいけないこと」・「有無を言わさずやらなければならないこと」・「避けられないこと(ぼくたちの寿命もその一つです)」を考え、社会的ルール、きちんとした生活習慣等を「無理なく」身につけられる年齢は「小学4年生まで」だということです。
 今、オリンピック真っ盛りですが、多くのメダリストや派遣選手の「ことばづかい」や態度にさわやかさを感じ、好感を抱くのはぼくだけではないはずです。それは、高い能力を身につけるために、「小さいころから目標に向かって、我慢をしながらきちんと努力をしてきたこと」と、生活習慣の徹底等の「厳しい指導」を乗り越えてきたからです。その成長過程で「忍耐力・心配りや自信・プライド・感謝の念〈つまり対社会性〉も知らず知らず身についたから」です。そして、毎日一生懸命生きる、きちんとするべきことをするという日々の姿勢や習慣は、スポーツに限らず、学問・芸術等、どんな分野でも「結果を出すためには」必要になることです。「自らの苦い経験」を経ての信念です。自らの苦い経験も、同じ轍を踏まないように、是非子どもたちに伝えなければなりません。


 学習指導においても、自身では学習内容や学習対象の周辺指導も含め、できるだけ学習や学習の中身に興味を持つように指導しているつもりですが、そうとばかりはいえない(そうできない)場合も多々あります。何も分からない間の漢字や計算練習の習熟過程もそのひとつですし、暗記すべき述語や項目など、基本的学習の繰り返しでも同じです。これらは、「我慢して聞く、覚える」という「忍耐する」過程を伴います。「座って人の話を我慢して聞く」という「しつけ」さえ家庭でできていなければ習得はむずかしくなります。基本的学習が成立しないわけですから、以降の学習も当然滞りがちになります。良好な結果は望めません。


 最近は、「人の話をきちんと聞く」ということ「さえ」できない大人〈!〉も多いようですが、かつては、そういう態度は「かなり恥ずかしいこと」でした。自分だけならまだいいですが、それでは自分の子どもをきちんとしつけることも不可能です。
 「人の話を聞けない、人の言うことを考えられない」人は「学習」もできません。脳に落とし込み、それを考えるということが出来ないからです。もちろん子どもも同じです。現在では忘れられていますが、学習にかかわるたいせつな一面です。これら基本的なしつけの確立も「一人で難関大学にも合格できる」ための必要条件です。

団在籍年数
 先の表OB諸君の団在籍年数については、小学校時とOB教室に分けてあります。


 小学校時3・OB教室6とあれば、小学校4年生の時に入団し、中学進学後高3まで9年間在籍〈通塾学習〉したということです。ちなみに9年在籍は、現在京大大学院のY君です。北海道大学のK君の場合は小学校2年入塾で、中・高6年間、浪人1年間で、計12年間通ってくれました。
 子どもの成長をこうして10年近く見守り続けることで、その子の良いところも悪いところもすべて把握できるようになり、それらに対する指導も的確に行えます。そして、逆にぼくの方がその成長ぶりを見ながら、指導について教えられることもたくさんあります。それが、彼らに続く諸君たちの指導にも大いに役立ちます。
 小さいころ入団した諸君は多くの場合、中学進学後はそれほど厳しく注意することはありません。小学校時代に、すでにふさわしい姿勢が身に付いているからです。
 きちんとした生活習慣や日常生活・社会生活で守るべき、また気付くべき大切な基本的ルールの定着については、保護者のみなさんの協力と理解が欠かせません。おたがいの方向性の一致がないと指導の成立は困難になります。そしてそれらが、その後の成長や学力の成否にも大きくかかわってくるのです


 写真をご覧ください。左は今年の渓流教室でのスナップです。二泊三日の赤目渓流教室の夕食は野外でのバーベキューです。肉の本場鶴橋から持ち込んだ焼肉、宿舎で用意してもらった野菜やハムをバーベキューコンロで焼き、おにぎりをほうばります。
 ところがバーべキュー施設があるわけではなく、テントやバーベキューコンロ・いす・机を準備するところから始めなければなりません。野外で、ブヨや蚊・アブも飛んできますから虫除けの蚊取り線香もたくさん設置します。これらをすべて日中、酷暑の中で行わなければなりません。今年は36度近い気温でした。準備には最低でも一時間以上、長い時は二時間かかります。

 『米作り』の作業もそうですが、小学生ですから、共同作業・目的のある作業の協力に、まだ慣れていません。適当にさぼろうとする子も居ます。協力しようとする意志のある子でも、初めは何をしたらいいかもわかりません。ウロウロするするばかりです。
 少ない人数で、大人も早く終わらそうと必死ですから、よほど余裕があるときでないと、丁寧に指導するという悠長なことはしていられません。子どもはもちろん、ウカウカすると自らが熱中症になるからです。
 かんたんな指示、あるいは叱声が飛ぶ中、子どもたちはまわりのようすやおとなのしぐさを見ながら、「自らのやらなければならないこと」を会得していきます。それによって「行動の先」を読むというたいせつな態度も身につくわけです。バーベキューにありつき、おいしい、楽しい思いを共有するには、みんなの協力は不可欠です。きちんと場を整え、準備をすませなければすべてが始まりません。

 備も努力もしないで「おいしい思いだけ」を手に入れようとすれば「泥棒」と同じです。こういう当たり前の自律が、今子どもたちにきちんと徹底されているでしょうか。そしてこういう自律をともなった成長が学力伸長の基礎にもなります
 何か欲しいものを手に入れるには、それに見合った努力をすることは不可欠です。オリンピックで「ハレの場」にいる人たちはみんな、きちんとそういう努力や責任を果たしてきた人ばかりでしょう。オリンピックではなく、これから社会に出て行く子どもたちでも、そういう前提は何ら変わりません。ぼくたちはそのことをきちんと伝えるべきです

 表中の団のOB諸君も、通塾の過程で、そういうことがきちんとわかった子どもたちです。もちろん、両親(保護者)のみなさんの理解と協力があってこそです。
 以下次週。

渓流教室日記―ロケーションへの提案
 二泊三日の赤目渓流教室が無事終わりました。渓流で、大きな岩も多く、濡れた川の岩は滑りやすいので、慣れないまま不用意な動きをすると、思わぬ事故につながりかねません。一安心です。

 さて、遊泳場には、かつて写真のように毎年子どもたちが「おもしろさに弾ける」コンクリートの滑り台がありました。以前ブログでも紹介しましたが、付き添いの大人の監視が行き届かず、また渓流遊びでの危険度のイマジネーションが乏しく、事故が相次ぎ、10年くらい前閉鎖、そして撤去されました。残念です。
 小さな滑り台でしたが、水の流れで勢いよく滑る「目玉」アトラクションでした。それが消えたのですから、集客面の痛手は甚大です。入場者は目に見えて減少していきました。

 もっともこれは数十年以上、毎年通っているぼくたちだからわかるので、主催者側は、そのマイナス面や原因・理由をそれほど考慮しなかったでしょう。それ以降の川の手入れ(?!)や運営方法でもよくわかります。
 キャンプ場の川原は、石で『整備(!)』され、生えていた自然の草もきれいに刈り取られました。その努力は認めますが、どんどん虫や魚の種類が減り、川の生態系がやせ細っていきました。特にイトトンボをはじめとするトンボ類、オイカワなどの魚が見る見るいなくなり、ブヨやアブが増えていきます
 滑り台がなくなり、魚が少なくなったので、漁協が放流魚を入れました。ところが草を刈って見通しがよくなったこともあり、それらの魚はカワウの格好のターゲットです。また放流したので、網や釣りが一部制限、規制が厳しくなり、十分な川遊びができなくなります。川幅や川相を見ても、釣りに良い漁場とは決して言えません。集客には「負の連鎖」です。川原の草を刈り始めたとき、知人に考えを述べアドバイスしたのですが、結局変更なく現状の有様です。

 大阪(鶴橋)から乗り換えなしの約一時間で最寄り駅という渓流は近郊ではほかにありません。展開の仕方によって、子ども相手の大きな可能性を秘めているロケーションだけに、現状の姿は残念です。
 なお、「川を残す」ことを考えるのであれば、保養所や飼育施設の流域招致(?)は、排水などによりイメージのマイナスになりこそすれ、良いことはないと思うのですが、いかがでしょうか。

夜の大捜査線
 アカデミー賞映画には凡作も多いと思うのですが、「夜の大走査線」は良い映画でした。シドニー・ポワチエの抑えた演技も存在感たっぷりだったし、絡み役のロッド・スタイガーもさすがでした。 それに特筆すべきはカメラワークで、絵づくりの感覚がすばらしかったです。久しぶりに、ぼくも「写真」を撮ってみたくなりました。

 それにしてもシドニー・ポワチエといい、デンゼル・ワシントンといい、モーガン・フリーマンといい、黒人にはすばらしい役者が多いですね。運動選手を見ていてもそうですが、動物的なカンのするどさ(ものに感じる心)もあるのかもしれません。
 さて、こどもたちに“I have a dream”を教えることにしよう。


うそじゃありません①

2016年08月06日 | 学ぶ

塾や予備校なしでも難関大学進学はできます、でも
 団の指導方法そしてOB諸君の成長ぶりを、時々紹介しています。ブログでこれらの実績を紹介する大きな理由のひとつは、意識の高い保護者のみなさんに「子育て(学習指導)」の真実を伝えたいからです。そして、子どもたちが、「学習」を「勉強!」という「ひとくくりの厄介ごと」で終わらせてしまう《しまっている》現状を、協力して何とか改善したいというねがいからです。

 塾に入れて「試験に合格させたい(合格できれば)、という子育て」ではなく、もっとたいせつなこと、「一人の人間としての夢や理想・社会的責任に目覚める子ども」たちの成長に目を向けていただきたいからです。
 「塾に入れれば勉強ができる」のではありません。「入れただけ」ではできるようになりません。
 「塾に入れておけば安心だ」ではありません。塾は漬物樽でもなく、刑務所でもありません。ひとりの人間を育てる『現場』です
 また、「教育や指導は、受験のためにある」のではありません。受験や勉強の方が『子育て』『人育て』のために存在します。受験や勉強は人育ての『一場面』なのです。
 塾や学校と家庭が、そのためにきちんと意思統一し、協力をしなければ、一人の人間をきちんと育てることは、「ほとんど」叶わぬ夢です。「受験を切り抜けた人」というだけに終わります。今は、多くの『受験を切り抜けた人』を作っているのです。世の中の現状を見るたびに、そんな思いに駆られませんか?

 成長の過程で必要になる幅広い好奇心や高い学力(たとえば難関大学まで進むための学力)の育成にも、塾や予備校、現在のような学習(受験)指導は、団のOB諸君の成長から考えれば、まったく必要がありません。後に登場する団卒業のK君の振り返りも同意見です。
 ただ、その前提として、小さいころ(3・4歳~小学校中学年まで)に「当たり前のこと」を指導しておく必要があること。特に社会教育や自然体験の導入が大きなポイントになること。それも伝えておかなければなりません

望まれるべき学習
 社会教育。「社会で生きるひとりの大人としてあたりまえのことができるようになること(つまり、社会には守るべきルールや約束事があり、また有無を言わさず対峙し理解、また解決しなければならないことがあること《たとえば人は死ぬこと》を教えること)です。その指導によってほんとうにたいせつなことが見え、やるべきことが見え、心からのやさしさも生まれます。

 もうひとつの「自然体験」。子どもたちが学んでいく(いる)学習対象や学習内容は、「いつも見慣れているはずの環境・周囲」に存在しているものです。今までは、学習がそれらの抽象や集約であることが等閑視されていました。子どもたちにそれらをきちんと伝え、実感させること
 すべて、本来はテストの問題の『ネタ』としてだけ取りあげられるべきものではありません。教育現場で欠けているのが、それぞれ、ぼくたちが生きていく上で、たいせつでおもしろい「学習対象」であることを把握、理解できるようになるための指導です。

 ぼくたちが生活するため、また生きていくために、「何が、どうたいせつで、おもしろいか」というまったく忘れられている側面に光を当てる、それらによって興味や好奇心を増幅させること、『学習』や『研究』のモチベーションになることを目指さなければならない。歴史から見れば、それらが本来の「学習の初め」、「学習目的」であったはずです
 つまり、かつて読み・書き・そろばんの時代に、今と比べても信じられないほど多数のこどもたちが寺小屋に集ったのは、まだ、それらの習得が生きていく上で身近で、また役に立つという功利的な側面がよく見えていたからだと思います。
 さらに、寺小屋もまだはじまっていないとき、ぼくたちの祖先は日々暮らすことや生きていく上での不便さや便利さ・なぞや不思議に対する面白さが、学習や研究の大きなモチベーションになっていたことでしょう
 しかし、それらがすべて、どんどん見えなくなり、学習の目的が受験だけに集約される(せざるを得なくなった)のが現在です。その現状を打破し、実は君たちの周りはこうなんだ、という視点や発想をできるだけ多く持たせることで、学習に対する子どもたちの見方は大きく変わると考えています(現実の指導で感じられています)。

 紹介のように個人塾ですので、学習指導やすべての資料作り、立体授業の企画実行など、すべて一人での準備で、なかなか思うように時間が取れず、形にならない現状に切歯扼腕の毎日です。それほど長く残されているわけでもないぼくの「残り時間」を考えた時、心ある人たちとの協力で、何とか子どもたちの輝ける明日が大きく開けてこないか、と可能性が見えた方向を紹介することにしました。
 
OBを囲む会
 今まで、資料をその都度提示すれば、その内容がきちんとチェックされ、よく理解していただけるものと考えていました。ところが、なかなかそうは行かないようで、先日、一期生の、「アフリカを目指した」K君(「K君、アフリカへ行く」ほか参照)にお願いし、保護者の方と「OBを囲む会」を催しました。

 一般の塾とは大きく異なる(似ても似つかない!?)団のようすや指導方法の、更なる理解を促すためでした。そのあと食事に行った際、団の指導の有効性を強調し、それによる子どもたちの可能性の開花を力説するぼくに、K君の一言。
 「せんせい、今日の説明(スライドによる資料紹介)で、あらためて指導の結果のすごさがわかりました…すご過ぎると、みんな理解できません、嘘だと思うんですよ、ぼくも今まできちんと見ることが出来てなかったんですが、今日改めてそう思いました・・・。ふつうだったら信じられません」。
 OB諸君の実績というのは、前述の理由で、他に伝達手段がない団の方法論が正しいことを理解してもらえる、いわば生命線です。「そうか、だから現に目の前で見ている卒業生しかわからないんだな・・・」。

 今まで断片的にしか紹介できなかったのですが、「囲む会当日」の資料を今回提示し、説明を加えていきたいと思いました。
 「立体授業」を家庭でも実践し、約束ごとをきちんと守るなど、基本的指導を徹底すれば、素晴らしい結果が返ってくること、それは「試験に合格する」というだけではなく、もっと先が見えてくる成長です。学ぶことのたいせつさやおもしろさまでわかる成長であることを、ぜひ理解していただきたいと思っています。

「囲む会」でのK君の発言と応答から
 K君は、まず京大の医学部(保健学科)に合格し、大学院に進み、薬品会社に就職後、医師を志して30倍の倍率を突破し神戸大の医学部に学士入学を果たしました。
 その「医師再志望理由」を聞かれたK君の答えです。
 新薬治験臨床で医師とともに病棟を回っているとき、医師の態度や能力に疑問をもったこと、さらに医師免許を持っていないので、患者さんの質問や疑問に直接答えられないもどかしさ、役に立てない歯がゆさを感じたことだったといいます。
 つまり、「自らの能力の無さ」、困っている人の役に立てない「もどかしさ」がたまらなかったのです。単に世継ぎや金儲け目的ではない医師の誕生です。彼のような医師が増えることこそ、何より医療問題の解決に寄与することになるはずです
 また団では、「東大でも十分だ」とぼくが判断した諸君ふたりも、一人は音韻学に興味をもち京大文学部へ、もう一人は化学専攻の進路の判断で京大理学部へすすみました。これらをご覧になっても、若くして「何をしたいのか」という「眼」が育ってきていることがよくわかるのではないでしょうか。

 教育大へ進んだぼくが、とんでもない遠回りをして現在の天職にたどり着いた(ものすごい幸せなのですが)貴重な時間、何かを成し遂げるのに十分な時間が彼らには、まだ残されています。それが、何よりもうれしいことです。
 小さな会社や職場で糊口の資を得るために悪戦苦闘した半生を振り返り、「自分のほんとうにやりたいことに全力を傾けられることほど、世の中の役に立つことはない」のではないか、と思うからです。中途半端に金を儲けるためだけに、「適当に仕事をこなされる」ほど、みんなにとって不幸なことはありません。団で育った子どもたちが、こうして若い時から、自分の目指す方向に、人生の目的に、きちんと目を向けられるように育ってくれることも何よりの喜びです。以下次週。


AVはだめ! マンガは×! ふんッ!

 久しぶりに、若いころ見た「シンシナティ・キッド(DVD)」を再見しました。
 当時はそれほど心に残らず、「まあ、映画だ・・・」くらいの感想だったのですが、年を経てみると、傑作とは言えないものの、なかなか良い映画でした。いつもピリピリして、愛する女性に心を尽くせないギャンブラーの心情もよく分かったし、たいせつなものは何かを考え直す結末も、さわやかでした。
 それにしても、アン・マーグレットはプリプリで、悪女ぶりも、やはり一世を風靡した女優の面目躍如です。よい映画や良い本は、何度も見たくなるし、その都度味わい深くなるということを再確認した次第です。

 たくさん見て、たくさん読んだら、ほんとうに良いものがわかってきます。それを年とともに実感します。すべてに言えることだと思います。「隠れH!」のくせに、AVはだめとか、漫画はだめ、というような、狭い考え方ではなく、オープンに、できるだけいろいろなものを経験する中から、ほんとうに良いもの・真実を見出す眼を養うこともたいせつだと、ぼくは思います。
 偏った見方や無理に「斜眼帯」をかけるような指導からは、対立と非難と孤立、そして競走馬しか生まれません
 ほかに、「双子の姉妹が両親の離婚で離ればなれになり・・・」、という「ファミリーゲーム」も、子どもが喜びそうな映画です。しかしタイトルがいけません。どうして「ペアレント・トラップ」のままにしないのか? 「ファミリー」も「ゲーム」も「馴染みがある言葉」だからかもしれませんが、語義が広すぎて焦点がぼやけ、「映画のよさ」を殺しています。

 「ハートブレイカー」は、あの「エイリアン」のシガニー・ウィ―バーがお色気たっぷりの女詐欺師に扮し、おもしろい一面を見せています。肩が凝りません。
 「メイド・イン・マンハッタン」は、いわば典型的なシンデレラ・ストーリーですが、アクのないさわやかさです。「ファミリーゲーム」の母親役、ナターシャ・リチャードソンが気に入ったので買った「メイド・イン・マンハッタン」ですが、映画はまあまあでも、こちらの「有閑マダム役」の彼女にはがっかりしました、ハハハ。

 さて、5日からは二泊三日の渓流教室です。次週展開予定の「嘘じゃありません」の成績紹介の際、そのようすを詳しくお届けします。