偏差値偏向教育の錯誤
写真はすべて、今年の渓流教室のスナップです。
京大や阪大、国公立難関医大等に進学したOB諸君の小学生時偏差値評価の「意味のなさ!(言い過ぎだとすれば偏重!)」を団の実績とともに紹介しました。こうした紹介をすると、当該諸君の「能力の低さ(?!)」を吹聴しているように誤解する人がいるかもしれません。「とんでもないまちがい」です。ぼくが考えているのと全く同じように考えてくれていたOB「アフリカ行きのK君」の一言です。
「ぼくたちがちゃんと努力を重ねて学力や能力を身につけたという自信やプライドになりこそすれ、劣等感にはなりえない」。それを聞いて感激しました。「そうなんだよ、やはり大きく育ってくれたな」。
学力や能力の成長には「人としての総合力」が大きくものをいうと感じているからです。たとえば、「人助けをしたい」、「病気を撲滅したい」という子どもがいれば、その思いや「やさしさ」が学力の伸長にも大きく寄与します。その「夢をかなえようとする」力が応援するからです。
K君の判断に、さらにことばをつけ加えるとすれば、「子どもたちの進歩は多様で、可能性にあふれている」という一言です。OB諸君の成長が証明してくれています。
K君のことばを聞いて、彼らに続く諸君が「偏差値まみれ(!)」でつぶれないように、まず「環覚」を育て「学体力」を身につけ、「学ぶおもしろさ」や「学ぶことの大切さ」を手に、大きく育ってくれることをさらに楽しみに、今後も指導を続けたいと、心を新たにしました。
子どもたちが「目先の受験偏差値を高めるだけの学習」に右往左往する「子育て環境」から脱出しなければなりません。「右往左往」の「超難関」進学で、「右往左往する意味があった」諸君が何人いたか。「余裕があれば抱けたはずの大きな夢」が、難関大合格という「ただの小さな夢」に化けなかったか?
学ぶことにしろ、考えることにしろ、少し視点を変えれば、どこに進学しようと、ひとりでも充分可能で成長もしていくことができます。先週の進学率などの紹介から、それも推定可能だと思います。
かつて紹介した天才物理学者リチャード・ファインマンの伝記?No Ordinary Genius”(CHRISTPHER SYKES W.W.NORTON & Co. Inc.)の一節を紹介します。
彼が、まだベビーチェアに座っているような小さいころです。どこかから中古のタイルを持ち帰ったお父さんが、反対するお母さんをしり目に、ファインマンとそのタイルを色別に規則正しく立ち揃えて『ドミノ倒し』をしたことを回想しています。子どもの可能性に大きな夢を託したお父さんのかかわり方です。ちなみにお父さんは制服販売会社のサラリーマンでした。
親父は言ったそうだよ。「私はリチャードに、『規則性』とはどういうものか、そしてどんなにおもしろいかを紹介したいんだよ。数学の基本だからね」。だから親父は、ずいぶん早くから、身のまわりのことどもや、それがどんなにおもしろいかを教え始めたんだよ、ぼくに。
(上記書 拙訳 p20 下線・太字は南淵)
注 下線部訳の原文です。
So he started very early to tell me about the world and how interesting it was.
以前も紹介したように、ファインマンは同書だけではなく、他でもお父さんの指導や影響について触れています。毎年訪れるキャンプ地で「森の中のできごと」を二人で見て歩いたこと、家での「ひも付きワゴン」に乗せたボールで「慣性」のはたらきに気づいた時のことなど・・・さまざまな「周囲のできごと」について観察し考えたことを記しています。
それから考えると、引用の日本語訳のように the world は身のまわりのことどもとでも訳すのが妥当だと思います。ファインマンはお父さんに「周りのこと」に、あるいは「周りのことのおもしろさ」に気づく目、つまり『環覚』を養ってもらったのです。
「環覚」はぼくの学習経験から割り出した「造語」ですが、強化することによる子どもの成長に対するアドバンテージに「わが意を得ました」。確信をもてました。
「自らの環境(世界・周囲)には『不思議なこと』や『おもしろいこと』がいっぱいあることに『気づくこと』」。そして、それが初学者の学習に対する「抽象性克服」のための大きなアドバンテージになること。
それらの検討や研究が「科学に昇華」している(する)のであって、「(受験)学習」はそれらの「枝葉末節」に過ぎない。「おもしろさもほとんどない残りカスである」。そのことに気づかないと「おもしろさ」は始まりません。
学習は「本来」『受験勉強で終えるもの』ではなく、『不思議のワンダーランド』である「世界(身のまわりのできごと)」の謎を解くことであること。それは決して『受験のため』ではなく「生きていくうえでも欠かせないたいせつなものであること」に、子どもたちはもちろん、指導者も気づくこと。そして、考え方や指導方法もその方向にシフトしなければ、おもしろさはもちろんですが、ほんとうに学ぶ力、つまり「学体力」はさらに縁遠く(無縁に)なります。「おもしろさ」がわかることで、真の「学体力」が駆動するからです。
終われば質問をしてやろうというような先生がいないからね
「受験ではない指導(!)方法」のヒントに、前掲書の一節を拙訳でもう一つ紹介します。
ファインマンは冗談交じりで話を始めます。
四六時中考えなきゃならんという厄介な性分にしちゃったのは、ぼくのおやじなんだよ。おやじは、よく「我々は、何もわからないまま地球に来ちゃった火星人なんだ。だからあらゆることを解明しなくちゃならんのだ」なんてことをはじめるんだ。たとえば、「誰もが毎晩眠りにつくのは、どういうわけだ」ってな具合にね。(?No Ordinary Genius”(CHRISTPHER SYKES W.W.NORTON & Co. Inc. p125)
「地球のできごとすべて」について『解明する』、つまり、ほんの小さいころから、周囲のあれこれについて、「おもしろおかしく」その意味を問うという習慣です。「環覚」の養成です。
何も気づかず何気ない日々のまま子ども時代を終わるのか、何気ないものに注目してそれに思いが至り、その面白さに気づくのか? ファインマンのその後を見れば、『環覚』の有無で「考えることや考える力に途方もなく大きな相違」が生まれる、ということは明らかです。
こうした理解は、日ごろ受験オンリーで指導経験を積み重ねている先生方や保護者の想像の枠には収まりきらないことかもしれません。それでも、これが、「科学」やさらなる『学習』を追求する大きなきっかけになることは十分想定内だと思います。
ファインマンは、この後、どうして科学を難しくてつまらないと言う人がいたり、簡単でおもしろいという人がいるのかわからない。科学にはぼくが大きな喜びを手にできる特徴がひとつあるだけなんだ、と言います。そして、この世界が実際はどうなっているのか、を解明しようとすれば、そりゃたいへんな想像力がいるってことさ、と言います。
つまり、ここには「『テストのための勉強(受験勉強)』の範疇で『しか』科学を見ることができない人」と、「環境のすべてを解明することそのものにおもしろさを見出した人」の、大きな違いが見て取れます。いつも強調していることが、ここでも明らかになっています。「天才的な科学者」と「その他大勢のぼくたち」のちがいは、誤解を恐れずに言えば、まず『環覚』の有無なのです。
ファインマンは続けて、いつもあらゆる種類のことに思いを巡らせているのは、ちょうどランナーが汗をかくことに快さを感じられるように、考えることに喜びを感じるからだ、と言います。「『勉強』で始まり『勉強』で終わるのではない学習のすすめ方」が天才を育てたことがはっきりわかります。
ランニングは「勉強」ではありません。「ファインマンの学習はランニングと同じ」なのです。「机上の問題から考えはじめ、机上の問題そのもので学習を終える」のではなく、「環覚」を育てれば、こういうことが始まります。
節の最後にファインマンは、お父さんの一連の想い出について、真面目に考えすぎないようにしてほしいと述べます。ただ想像するのがおもしろくてやっていたんで、あれこれ思い悩むことなんてなかった、最後に問題を出そうとしているような先生もいないからね。そう結んでいます。
(一連の抄訳は拙訳です。?No Ordinary Genius”(CHRISTPHER SYKES W.W.NORTON & Co. Inc. p125)
「『終われば質問をしてやろうというような先生がいない』指導や授業が天才を育てたこと」に、ぼくたちはもっと注目し指導の方向を修正するべきだと思います。それによって天才が輩出する可能性も大いに考えられるのではないでしょうか。
人生のオリンピック
さて、「偏差値39」と、「無反省の偏差値偏重教育環境」を比べてわかること。それは「子育ては数字ではない」、「数学で育てることはできない」、「データで学力はつかない」という、ごく当たり前の事実です。
さまざまなデータを取得するアイパッドやスマートフォンなどは「血の通っていないもの」です。「血の通わないもの」ばかりに向かっていて「子育て」はできません。子どもは電池で動くのではありません。絶えず呼吸をし全身を熱い血が流れている「生きもの」です。
「アイパッドは見ていても、子どもをきちんと見ていない」では話になりません。「今度スマートフォンで調べよう」でも話になりません。今、目の前で生きているからです。
また、子どもは「統計の結果」や「平均」ではありません。傾向はあっても、それぞれが異なるひとりひとりです。
「現代風子育て」に違和感をもつのは、偏差値や平均はよく見ているけれど、ひとりひとりの自らの子どもを丁寧に見ているようには見えない感じがするときがあるからです。先のブログで紹介した渓流滑り台の撤去の原因もその例のひとつです。
子どもはひとりひとり自由に動き、独自に成長する、それぞれかけがえのない存在です。平均値でも偏差値でもありません。「データは覚えているが、昨日の子どものようすは頭に残っていない」のでは、日々の成長の足跡さえたどれません。
子育てをする人はIT社員ではなく、職人であるべきだと思います。「送られてくるデータ」を判断材料にするのではなく、それぞれの日々の顔色や目の輝きに目を留め、何が足りないのか、どうすればいいのか、「経験知」を重ねながら、いわば、お百姓さん(あえて、温かい言葉を使います)がお米や野菜を育てるように育てるのがたいせつではないでしょうか。数字に振り回され数字を通して見るのではなく、「もっと血の通った眼で血の通った子どもを日々見直す」べきではないでしょうか?
様々な話題を提供したリオ・オリンピックも閉幕を迎えました。ぼくは子どもたちも「オリンピック選手」に育てるべきだと思うのです。運動の苦手な子にも柔道やサッカーをやれというのではありません。いわば「人生のオリンピック選手」です。
人生の競技ですからジャンルは問いません。だからみんなオリンピック選手として金メダルを取れる可能性があるわけです。
しかし、オリンピック選手はみんな目標に向かって、人知れず努力や辛抱を続けてきた人ばかりです。それによって「それぞれの種目の高み」に這い上がってきた人たちです。それを忘れることはできません。
表面しか見なければ、「すごいな、天才だナ」で終わるし、天才であれば、努力をしても所詮追いつかないから努力も無駄です。その発想からは、「所詮『俺たちとは異なる人たち』がやったことだから、凡人の俺たちは努力をしても意味がない」というサボり放題、「悲観的、投げ遣りな」マイナス思考の連鎖しか生まれません。
従来から「これらの考え方が暗に世の中に蔓延している」と感じているのは僕だけでしょうか。この「諦観」が、夢がなく未来が見えない世の中をつくってしまう大きな原因だと考えています。
子どもたちには、小さいころから、「ひとりひとりが人生のオリンピック選手だ」と伝えてあげれば、それに向かって努力することは当たり前だし、大きな夢も生まれる可能性が高くなります。子どもたちには「人生の金メダルを」。その一言を伝えましょう。