『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く32

2018年09月29日 | 学ぶ

 カウントダウンが始まりました。団開設時の思いが詰まっている文章が出てきました。四半世紀前と、ぼくの思いがまったく変わっていないことと世間の変容とのギャップに驚きました。
 そのまま掲載します。何よりも子どもたちの教育に正面から、そして心から向かおうとしている若い先生たちに。

恩師への手紙
  学習探偵団の手作りパンフレット、裏表紙の「手紙」です。タイトルは後で付けたものですが、内容は送った当時のままです。

   1995年11月11日

学習に王道あり

 謹啓 つい先日まで、年甲斐もなくTシャツで突っ張っていたのですが、いつの間にかトレーナーになり、早いもので、子どもたちに星空を見せてあげたい季節が参りました。
お元気のことと存じます。
  先の同窓会では、せっかくお越しいただきましたのに、旧友との話で盛り上がり、ゆっくりお話をお聞きすることができませんでした。申し訳なく、また残念に思っております。次回の幹事は僕らしいので、今度こそゆっくりお話しさせていただきたいと、今から楽しみにしております。
  さて、ご挨拶が遅くなりましたが、先日ご理解をいただきました「教室」を別紙(注 同封した折り込みチラシ)のようにスタートさせていただきました。7月から軌道に乗るまで雑用に追われ、ご連絡が遅くなりましたこと、心よりお詫び申し上げます。
  何年か前からライフワークとして温めておりました企画で、教壇も事務所も看板もない十坪弱の空間ですが、団員諸君と僕の「夢」がいっぱい詰まっています。
 長い間第一線で活躍してこられた先生に臆面もなく申し上げるのは「一億年早い」としかられそうですが、何を教えられるのか、あるいは何を教えてもらうのか、これから厳しくも楽しい「戦いの日々」が続くと思います。冗談ではなく、「地球の後輩たち」を育てたいという意気込みで取り組んでみます。
  先生には今後もご教示いただかなければならないこと、ご無理を申し上げご迷惑をおかけすることも多々あるかと存じますが、ぜひよろしくお願い申し上げます。
  なお、同封の折り込み、「学習の王道」ということばは「学問に王道なし」といいますが、そんなことはない、「学習」には「王道」があるという、例の「へそ曲がり」です。ご了解いただければ幸甚です。
  最後になりましたが、時節柄、健康にはご留意いただきますよう、またご多幸をお祈り申し上げております。
                                                                          

敬具

「指導の王道」
  「学習」の「王道」。手紙でこのことばを使ったとき、それほど明確な方法を意識していたわけではありません。
 しかし、準備期間の間にあちこちから入ってきた他大手塾の方法、年末になったら学校を休ませ、「缶詰」にして毎日「受験に関わる断片的知識とテクニック」をつめこみ、実施したプレテストでの類似問題が本番で出てくると、まるで鬼の首でも取ったように吹聴し、選抜テストで能力の高い子ばかり集めたクラスでの難関校合格の実績を誇る等という、中学受験業界の「しくみ」がある程度つかめてくると、「そういった方法からは最も遠いところにある」と確信がもてました。      
  「類似問題」を正答して合格した受験生は、「ただ合格しただけ」です。合格したらいいのか。「合格しないよりはしたほうがいい」というレベルの話でいいのか。それで終わるのか。
 受験業界だけではなく、保護者を含め、もっともっと大きな視点と将来を見据えた取り組みがあってもいいのではないか。ぼくたちが育てているのは受験生ではありません。人間です

 現在多くの塾が実施しているような方針で「受験指導」を行い、「処理能力の速さ」と「妙な優越感」ばかりが身についた子どもたち、合格したはよいが、どういう大人になるのか。推して知るべしではないか。「誇った合格人数」の合格後・成人後のリサーチをして、「それでもなお誇れる人数」をぜひ知りたいと考えるのは、ぼくひとりでしょうか
 「高い能力」だけを身につけ、「自分のことだけしか考えない」人が、社会や多くの人にとって、いかに迷惑千万なのかは、日々のマスコミ報道でよくわかるはずです。もっと真剣に子育ての問題点を整理し、検討を重ねなければならないのではないか。そう思います。
  ぼくたちが子どもの頃、学習に限らず、指導という指導はおたがいに「血の通い合うもの」だったような気がします。中学時代、理科でお世話になった上島先生は、休日を返上して二上山に案内し、サヌカイトや山の成り立ち、様々な植物について話してくれました。

 確かまだ暑い季節で、休憩のとき神社の木陰でオレンジジュースを出して飲んでいると、
 「ナンブチ(上島先生独特の呼び名でした)、みんなで分けろ」
 他に持ってきた人がいなかったのに気づいた先生の優しさでした。同じくのどが渇いている「仲間を気遣え」、今子どもたちにその心を教えている指導者や保護者は何人いるでしょうか。社会に出て行く子どもたちには、まず教えなければならないことです。たいせつなことを教わりました。
  公立中学でしたが、三年になると高校受験用の補習が始まりました。ところが、ぼくをふくめクラスの2~3人は、「おまえらは帰ってもよい」といわれたのです。理由を尋ねると、「おまえらは家へ帰って勉強した方が能率が上がるから」。
  「きょとん」としていたと思います。能率が上がるも何も、家へ帰ると、ぼくは勉強なんかそっちのけで毎日『藪こぎ』をし、近所の小川に行って魚を捕る「マタギ生活」だったからです。

 小学生のときから、真冬をのぞいてほとんど毎日、裏山・野池・川と、それぞれのご機嫌を取るように交互に顔を出し、その頃はちょうど川に夢中でした。「学習の成果」より、水中めがねや手製の銛、タモを抱えて「漁獲の成果」を誇る毎日だったのです。何がぼくに学習の成果をもたらしたのか? 自然に浸ること、「マタギ生活」です。缶詰勉強とは真逆の「受験生活」です。
  夏の課外学習「赤目渓流教室」の最初期のパンフレットです。

  ・・・できうる限り自然に触れさせたいというのが僕の持論で、先日も高校時代の仲間たちと、必死になって勉強している今の子どもたちに比べ、僕たちがそれほど勉強したわけではないのにどうして結構勉強ができたのかという話になりました。
  僕はそこでこういう話をしました。

  たとえば、田舎で「切り通し」を通れば「地層」が分かる。夜になってネオンのない澄み切った空を眺めれば星と月が教えてくれる。雑木林や山に分け入れば、陽樹・陰樹の区別や植生が分かる。虫を捕まえれば、昆虫の構造や生態が分かる。川に入れば肌に直接触れる石や砂で川が変化していくのが分かる。田舎で車窓や山の上から景色を見れば、地形の変化が分かる。真夏だというのに、谷沿いのこの涼しさは何なのだ。カエルがハエを食べ、そのカエルが蛇に食べられることなんか日常茶飯事だ。
 自然を感じることができれば、もうすべてが学習なのだ、あとは本で総合できるさ、すべてつじつまがあってくる・・・という話です。「アンテナ」をきちんと立てれば、子どもたちは「道を歩くことでさえ、勉強になる」わけです・・・。
 自ら積み重ねた経験からの確信でした。

「子どもらしさ」が飛躍のスプリングボード
  自然に接する機会が減り、おざなりの自然体験や「肝試し」を中心とする(!)林間学習や臨海学習でお茶を濁されている子どもたち。 「遊び」が分からない子、「遊び」の本当のおもしろさが分からない子に、その遊び相手である「人間」や「自然」のことを学習する「勉強」が面白くなるはずがありません。
 自然の「おもしろさ」、その「大切さ」を実感することなく、自然環境の保護やその意味が心底分かるのか。川沿いで蛍が描く「光の名画」に感激したことがない子が、蛍のいない川や水路に疑問を抱くことができるのか。蛍の復活に確かな意味と手応えを見いだすことができるのか。

 かつてのような子どもらしい「遊び」や「遊び方」を知らない現代の子どもたちの感性に、日々の授業や課外学習、そして「遊び」を通じてコンタクトすること、元々子どもが持っているはずの「好奇心」という「アンテナ」の機能を高めること。本来の子どもらしい活動や生活から、素直で柔軟なものの見方、バランス感覚を忘れず正しい考え方を身につけてほしい。自然に浸りながら地に足のついた学力を身につけてほしい。
 難関中学に入るには、素直で子どもらしい感覚の持ち主であること、そしてきちんとしつけをされている子であれば十分可能です。年末の特訓「缶詰!」などに見られる「詰め込み」や、受験の知識だけに「特化した」受験指導は一時しのぎで、心身ともの健やかな成育に「寄与する」ものでは決してありません。

  可能性と将来性あふれる子どもたち。彼らのこれからの生き方や人生で、そのバックボーンになるのは、今まで横行していた学習指導のように、「自然を抽象でとらえる」規格化した見方や「勉強の缶詰」ではなく、「遊びの対象として自然を選べる」余裕、想像力、そして実行力です。さらに、私たちを育んでくれるゆりかごとして、自然に対しても、優しい目を注ぐことができる感性だと思います。。
 「地球が遊び場であった」かつての子どもたちとは違って、子どもたちの多くは「道ばたの花に目をくれる」ことさえしません。できなくなっています。偏った志向の感性ではなく、本来なら子どもが知っておかなくてはならない「身の回りのもの」に、もっと「アンテナ」を向けることができたら、今とは全く違った子ども時代を過ごせるはずです。たいせつな情報を自らバランスよく吸収できるはずです。本当の「勉強」がわかるはずです
  ふだん、ぼくたちは教科書や本などから「知識」を得、「学び」が進んでいくと考えていますが、実際はそれとは比較にならないくらい膨大な情報が日々の生活の中でも飛び交っています。そうした情報については、おなじ情報量の中にいても、それぞれ個人が身につけている五感の「アンテナ」の数や感性の違いで獲得量が大きく異なってきます。
 これは情報の入手経路を少し考えてみればよく分かります。
  混んだ車両の中、近くで誰かが「サッカー」や「野球」の話をしていても、「サッカー」や「野球」に全く興味のない人や知らない人は、いつの間にか、それらの会話は耳にとまらなくなるはずです。聞こうとしません。したがって聞こえません。このように知らないものや興味のないものについての知識や情報は増えてきません。
 逆に、興味がある話やよく知っている話だと、スムーズに次々と蓄積されていきます。

 たとえば、「田植え」や「稲刈り」を知らない人は「田植え」や「稲刈り」に関係する膨大な情報は入ってきません。すべてとは言わないまでも、それらの中には「学習」にかかわる大切な情報もたくさんあるはずです。学習のみに限らず、ぼくたちが「生きること」は、「見ること」「感じること」「考えること」とともにあり、単に「道を歩いていくこと」だけでも日々「学び」は深くなるはずです
 感性の「アンテナ」がきちんと立って、認識のスキーマが育っていけば、次から次へと新しい情報が入ってきます。そして、そうした自然に入ってくる「偏りのない」情報の数々がシステム化されていくことで、「発想の転換」や「応用すること」「創造すること」等の学びの進化が生まれます
  学習探偵団のコピー 「国語を昆虫採集してみないか」には、室内での文字だけによる「狭い」情報取得ではなく、自然に「浸る」課外活動や作業で育っていく「バランス感覚」をともなった感性と様々な方位に大きく広がった「アンテナ」で、「ことばの森」からあらゆる種類の「情報」を採集してほしいという願いがあります
 俳句や短歌、詩などのイメージを考えてみても、「外の世界」にふれているかどうかで感動や理解の深さは全く違います。「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣ほしたり 天香具山」に込められている雰囲気やイメージは、「田植え」の時期とも重なり、作業とともに団員諸君の「身体」に入っていきます。実は、「豊かな里山の森」は「豊かなことばの森」でもあるのです。

  また、もうひとつのコピー「算数も手づかみできるんだよ」。
 算数は、ふつうに考えれば、おそらく「動き」から最も遠い科目かもしれませんが、外遊びの活発な動作や「身のこなし」は、「立体視」にも大きく役に立ちます。「くぐる」「こえる」「のぼる」などの腕白遊びで経験する視点が、算数の立体図形のイメージに役に立たないはずがありません。
 虫や魚を追いかけて大きくのばした「網の軌跡」が回転図形の参考にならないはずがありません。もちろん、理科の「遠心力」の理解も伴います。
 空中でホバリングしたり、急にスピードを速めたりするオニヤンマは「速さの問題」、 「鶴亀算」の鶴や亀は、鶴が「ゴイサギ」に変わることがあっても実際に彼らの頭の中で檻を出たり入ったりしながら解き方を教えてくれるのです。抽象性の高い算数も、「手づかみ」でわかることがいっぱいあります
 様々な活動や実際の動きの中から「算数」の実感を身につけてほしいという願い、「手づかみできる算数」です。課外での活動が、理科・社会にしめる役割は、もはや「言わずもがな」です。
 なお、To teachers all over the worldはアイデア擁護のため休載します。後日新しく掲載します。


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