『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑤

2018年03月24日 | 学ぶ

殺人犯はタブレット④
玉川宛ての手紙(続) 
目がものを言う
 玉川さん、あなたも、「子どもたちを教え、サッカーをはじめとするスポーツにも堪能だったと聞きました。奥さんも、バレーボールもサッカーもおやりになっていたとか? そうですね?」
 あなた方は今回の一連の行動で、少なくとも五つの罪を犯しています。「窃盗罪」「電波法違反」「名誉棄損」「営業妨害」そして無断でマンションに侵入した「住居不法侵入罪」。その世間での「重さ」がわかっていますか? そういう感覚だから、子どもが過ちを犯すのだと、思えませんか? 

 「使命や責任の重さ」をほとんど考えることのないまま、教員免許を取り、社会経験もほとんどなく、教職につき、ほんとうにきちんと子どもを教えられるのか? ぼくは常々、免許取得システムに大いに疑問をもっていました。「先生になる方法」と「受験勉強」は知っていて教えられるけど、「世の中で生きていくルールや責任という、一番大切なことはほとんど何もわかっちゃいない」、その後の世界も狭い。そう思うからです。「先生になるまで」は教えられるけど、「社会で生きていくルールや決まり事・常識・心構え」など、もっとたいせつなことを教えられるのか? これらは、よほどしっかりした家庭で育たないと、覚えられないでしょう。そして、フォローできるのは先生だけです。
 たとえば、あなた方は「そこそこ」スポーツをしていたかもしれませんが、「スポーツで、まず学ばなければならないこと」は何でしょう? 『ルールを学ぶこと』。 次に『フェアプレー精神』、『そして相手に対するリスペクト精神』・・・そうではありませんか? 
 現実問題として
「それさえ学んでいない」のではありませんか、今回の行動を見ていると。スポーツをやるのは、肉体の鍛錬もそうですが、「オリンピック憲章」を見るまでもなく、スポーツ・マインドの習得が大きな目的でしょう。ちがいますか?

 日本ではこれまで、「男と男」特に「スポーツを愛好する仲間」や「男らしい男たち」のあいだでは、「目は口ほどにものをいう」という「誇らしい習慣」が継続していました「男同士」、「気心の知れた間」では、口には出さなくとも、礼儀・信義・信頼関係やルールが「暗黙の了解事項」で、『話』はお互いに十分(以上)通じました。あなたも、この意味はご存じだと思いますが、恋愛感情のみに限りません。

 昨年夏頃、あなたの親せきのお店にポスターをプレゼントしに訪れ、あなたとお会いしたとき、「子どもの窃盗事件に対するあなたの、正直な対応」を期待したのですが、残念ながらそうはいきませんでした
 『目が、ものを云って』くれること。「窃盗の件」で、正直に口を切ってもらえれば、話が進みやすい。こちらから先に持ち出せば、否定されたとき、おたがいに気まずくなり、後々まで尾をひくあなたがスポーツマンであり、職業柄からも、「正義を貫け」・「潔くしろ」と、「自ら子どもにも教えることができる人」ではないかと想像していました

 最近の男と男、スポーツマンの間では、信頼関係や「男気(!)」はないのでしょうか? 破綻したのでしょうか? あるいはスポーツマン同士の間でも、「心の関係」が築かれにくい「他の条件」が発生しているのでしょうか。
 僕らの年代では「できるだけ倒れないようにする」のが、「あらゆるスポーツの真骨頂」でした。「進んで倒れても、場合によっては救われる、救われようとするスポーツ」が、近年とみに幅を利かしてきました。「相手のファウルをもらえばよい。ファウルじゃなくても、もらえば勝ちだよ」という感覚が生まれ、幅を利かすようになるとともに、「侍の姿が消えてしまった」ように感じるのですが、気のせいでしょうか

 流行の「ディベート」も、結局、「正邪や善悪ではなく、相手を言い負かせばよい、いかにも論理が通っているように聞こえればよい」という気味はないでしょうか? 「ものの本質」・「心の基準」ではなく、「見えかけ」、「見せかけ」で判断が行われる・・・。
「見えかけ」『見せかけ』ではなく、男であり、スポーツマンであり、「もつべき職業倫理があるはず」のあなたと、『心と心』で話そうと藻掻いていた間に、とんでもなく卑劣な裏工作が進んでいたというわけです
 この度の「窃盗事件」勃発以来、ぼくは常に、あなたの来歴、「まず男であること、スポーツマンである『らしい』、さらに、「公的な免許を取れる」それなりに高い学力を身につけられた(つまり知性と理性がともなっているはず)こと」を念頭に置き、「起こった事件」を正しく処理する方法を考えました。「その後の対応」を考慮に入れ、さわやかな結果を予想し、期待さえしてきました。失礼ながら、「バランスがとれていない子ども」が一回り大きくなるための「指導の肥やし」になる、そう考えたのです
 ところが、裏側では「小さな窃盗事件」が、さらに悪質になる策謀と「隠蔽工作」が進んでいたことになります。その方法を模索する中、妻の職場で2年前に起きた「保護者によるタブレット盗聴事件」は格好の「救いの神」に見えたのでしょう。

 「塾では所持が禁じられていた携帯」を子どもにもたせ、毎回、毎時間、その端末で盗聴を重ねた。授業が終われば、電話連絡をさせて、盗聴終了。それが繰り返された
 あなた方の「職業」は何ですか? 「そういうあなた方の行動パターンが子どもの倫理観や道徳心をめちゃくちゃにしてしまう」ということは考えないのですか? 
 「ばれなきゃ何でもあり」ですか? 「そういう発想や思考形態が、子どもにも伝染し、今度の事件の引き金にもなった」ということに思い至りませんか? 

 盗聴によって、「子どもの窃盗事件のことがばれている」と分かってから、あなたたちは、「何とか『自分たちの保身と見えや体裁』を守ることだけ」を考えた。いちばんたいせつな「窃盗した子どものフォローや教育なんか、そっちのけ」です。そういう対応が、「倫理指導の妨げ」になり、さらなる罪を重ねるかも知れない、そうは思わなかったのでしょうか
 好都合なことに、「ターゲットの相手(ぼくですが)は、指導に力が入り、興奮しはじめると、単刀直入、極端に言葉づかいも悪くなる」。集めた大量のデータは、週3回で6時間、半年では約180時間に及びます。その中から、「自分たちに都合の良い」言葉の端々、切れ端だけを集め、悪意の意図の元で、『一人の極悪人・人』の肉声を「捏造する」ことなんか、すこぶる容易です

 玉川さん。サッカーで教えられるのは、いや、すべてのスポーツで教えなければならないのは、まずスポーツ・マインドですね。そうではないですか? 「シミュレーション・プレー」を覚えるためではないでしょう?
シミュレーション・プレーは、子どものサッカーの審判ならともかく、能力の高い審判には見抜かれます。下手なサッカー選手のシミュレーション・プレーは、すぐばれるでしょ? そう思いませんか?

 水谷は、この後、玉川宛の手紙で、玉川が行った「最後のシミュレーション・プレー」の解説をします。
「天知る、地知る、子知る、我知る」
 一月、古田さんの奥さんが「合格のお礼」に来られて、ぼくと話し始めてもなお、「子どもを迎えに来た」あなたは、「脚でドアを押さえ不自然に長くドアを開けたまま」入り口に立っていました。不審に思ったぼくが、「なにか?」と入り口まで出向きましたね。

 あなたは、「挨拶をしていないので・・・」と、つじつまの合わない返答をして、慌てて帰って行きました
 奥さんの「『最後の捏造データの仕掛け』がうまくいったかどうか」、「思い通り古田君が退塾するかどうかを確認したかった」のでしょう? 「あなた方を信用して、あなた方の思い通り、古田さんが大悟君をやめさせるかどうか」、また「口を滑らせて、あなた方の策略がばれるような、余計なことを云わないか、どうか」。
 ぼくとの信頼関係をめちゃくちゃにした、古田家への「退塾教唆」は何のためですか? 「『窃盗事件』がデマであると思わせる」隠蔽工作と、あなた方の「見え」や「体裁」、「偽りの立場保持」のためでしょ? 大悟君の将来と、ぼくに、「どれだけひどいことをしたか」分かりますか

 そのとき、「同じように後ろで立ち止まっていた」高見さんは、「古田さんがほんとうにやめるかどうか」を知りたかったのです。まさか、そんなことが? 聞いたことは本当か? ほんとうか? という捏造データに対する疑念が、まだあったはずです。その根拠ですか?
 あなたの奥さんが、「自分の子どもをやめさせて、なお」2月になって、「教室の廊下の監視カメラのなか」「危ない橋」を渡り、こっそりドア開け、偵察(!)に」来られたこと、です。誰かと思い、ぼくが後を追いかけると、「青鬼のような横顔」を見せて自転車で走り去りました
 「『高見さんがうまく騙されて』、かれんちゃんが、ほんとうにやめたかどうか」の確認でしたね? 「自分たちの子育ての不備」と「窃盗事件」の事実を、「知っている周囲の人たち」に知られてはいけない・・・「職業柄と今後の体裁」があるから。
 正しく、みんなが「カタルシス」を覚える解決方法はいくらでもありました
 今回の画策で、すこぶる順調に進んでいた「かれんちゃんの未来」と、「ぼくと高見さんの信頼関係」に、どれだけ大きなひびが入ったか、わかりますか? 関係ないのでしょうね、あなたたちに、そんなことは。

 「天知る、地知る、子知る、我知る」という言葉はご存じですか?
  「十八史略」が出典で、『誰も知るまいと思っていても、天地の神々は決して見逃さない。君も私も知っている。隠し事は必ず露呈する』という、戒めです。「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉もありますね?
まず、それらを頭に描き、ことの処理に当たるのが、正当で、教育の本義にも叶った方法です
 今回のような隠蔽工作で、順調に成長しつつあった子どもたちの将来に「枷」をかけ、みんなを傷つけ、迷惑をかけ、さらに、自分たちも傷つきました。「本来は、あなた方の子どもに、この故事成語を『幾度も、幾度も』噛みしめさせなければならなかった」のです。それが「親」です。それが「先生」です。それが教育です
 昨夏の親せきのお店での「缶ビール」の時、あなたに「問題がある子には厳しくしないと」とアドバイスすると、「親父が厳しかった(!)ので、そういうふうにはしたくない」と、「思いもかけぬ返事」が返ってきました。

 「厳しくするか、しないか」は、その子の性格や日ごろの行動をよく見て、倫理基準・事態の正邪から判断すべきです。「あなたの、『あるようで、無い』判断基準」では、子どもを「正しい方向には」導けないでしょう。そんなやり方で指導できるのは、「もともと素直で害のない子」だけです。そんな子は、ほとんどいません。
 もし、ぼくが、あなたの親父だったら(年齢が近いはずなので)、「『優柔不断さ・軟弱さ』を矯正しなければ」と、お父さんとは比べものにならないくらい、厳しく指導したと思います「卑劣なことをするな、それも女の尻馬に乗って…」と、糾弾もしたでしょう。

 年齢を重ねると、特に近年はその傾向が強くなりましたが、「正しいもの・正しいことが隠蔽され、無視される世の中」を見過ごせなくなります。そういう事例を見ると、むなしくなります。子どもたちの将来に暗雲を見ます
 「『自分が美しくなくなる』のなら、せめて、『美しいもの』を残しておきたい。心だけでも美しくありたい」。そう思うのは錯誤でしょうか? 叶わぬ夢でしょうか。ちなみに、ぼくが、そう強く思うようになったのは、「『あなた方ぐらい』の年齢のとき」だったと思います。つまり、「塾をはじめたとき」です。

 人間だけ別格、「理性」と「知性」が備わっているのは、どうしてでしょう。
 「正しいもの」や「美しいもの」・「博愛」など、「『他の動物には理解不能なもの』が、生きていく上でたいせつであることを人間に知らしめるため」ではないですか? そうは思いませんか。
 「子どもを指導する人」はすべて、どんな時代になろうと、その基本を忘れてはならないと思うのです。あなたはいかがですか?
 「美醜や正邪の判断など一切なく、礼儀や信頼や相手の気持ちも立場も考慮に入れない凶行・蛮行が充満する」世の中で、自らのたいせつな子どもや孫が、「傷まみれ・汚泥や糞尿まみれになる未来」を、あなたは望まれますか

 できるだけ、子どもたちが「きれいな環境」の中で、「人間らしい仲閒たち」と健やかな生活ができるように、少しずつでも浄化しよう、努力しようとは思いませんか? 今回やったことは、世の中をきれいにすることでしたか? 
 ぼくは、自らの子どもたちはもちろん、「袖すりあう」子どもたちをも、「何よりもお互い同士のため」に、「思いやりや倫理感が身につき、高い能力と正義感あふれる、実行力や行動力がある人間に育ってほしい」、そう願って今まで指導してきました。 あなたたちはどうですか? 今回の行動は正義感にあふれるものでしたか? 正義は必要ないのですか?

 『高い能力や学力』を商売にし、「『生徒も』『自らも』金を儲けるためで、他のことは一切考えない」という指導をつづけているところもあるとは思いますが、そういう教育を、あなた方はどう思いますか? 
 こういう事件が起きた今振り返れば、「お世辞だった」と思いますが、「日ごろのぼくの判断基準」を、もし買っていただいていたとするなら、こう思いませんか? 「善悪の基準も分からず、バランス感覚もなく、正しいリーダーシップをとれない高い学力」など「クソ」だ、と。 
 
 水谷は手紙で、この後、自らの観察と経験から、子育てやしつけのアドバイスをつづけます。
医者になりたい子たちに
 あなた方の子どもが、「お医者さんになりたい」と云ったとき、「まず、『相手のことを考えられる』ようにならなければ、医者になったらダメだ」と云いました。これはあなた方の子どもだけではなく、「今まで教えたすべての子どもたち」に云ってます
 また、「どこに出しても恥ずかしくない子になってほしい、先輩たちのように」、あるいは「人格が整ってこない子には勉強は教えたくない。」とも言います。「人格が伴わない、高い学力など意味はないと思う」とも云います。
 当たり前です。そういう人を育てたいから、ぼくは塾を始めました。どこかまちがっていますか? 
 こういう「指導の文言」も、あなたたちの長期間の盗聴タブレットには、たくさん入っていたでしょう? 拡散するなら、省略また悪意の捏造編集はやめて、全部拡散なさい

 京都大学の大学院から神戸大学医学部に学士入学した金山君の小さいときにも、条件のたいせつさは話しています。彼は今、立派な医師に育ちつつあります。昨日、医学部の5年の最終試験を終えて一段落した彼と、酒を酌み交わしたときのことです。
 「どうしてそんなことが起きるのだろう、できるのだろう」と、ぼくの話を聞き涙をためていました。ぼくの「不遇」だけではなく、人間の愚かさ・浅ましさに、哀しくなったのです
 今ベトナムなので、わざわざ連絡はしていませんが、京大大学院の山北君も感覚は同じでしょう。京都大学の松尾君も同じでしょう。あなたの奥さんは、彼ら全部の「人となり」・やさしさ・優秀さをよくご存じです。何回もあってますから。

 金山君はさらに、夏期合宿で今回の3人を見かけ、「ぼくと同じように感じた」ようで、「能力が高く性格も整い、うまく育ちつつあった」龍生君や大悟君・かれんちゃんの退塾を、とても残念がってくれました。なぜか? 
 彼もぼくも、「こんな愚劣で理不尽な謀略」によって退塾する羽目になり、子どもたちの明るく大きな未来が、不透明になってしまったことが、悔しいのです。そのまま進めばすばらしく育ったであろうに・・・
 わかりますか? ぼくの教育や指導は、18年近く付き合っている彼やOB諸君、OBのお母さん方が、しっかり証明してくれているのではないですか?
 玉川さん、どうか、お持ちのはずの、あなた方の「美しい心」を、もう一度探してください。
 子どもが「医師になりたい」と云えば、「医師にふさわしい子」になるように、指導やしつけをしてください。あなたの優れた能力(嫌味では決してありません。今回のようなストーリーを描け、応答の「台本」まで思い浮かぶような能力)を、どうか「次世代の素晴らしい人材育成に傾注」されんことを
 十数年前から、偶々医師の仕事にかかわるようになり、近くでお年寄り(ぼくも既にそうですが)の患者さんの姿を見るにつけ、「医師に対するぼくの思い」は、さらに強くなりました。「人の寂しさの理解も含め、医師になるなら、患者さんの『心のひだ』にまで踏み込めなければ、正しい治療はできない」。そう、思うようになりました

 国家試験を合格しても、医師免許を持っていても、薬代や収入のことしか考えない医者は『クソ』です。そう思いませんか?
 患者は「苦しさや生命を何とかしてほしい、たすけてほしい」から医者を訪れるのに、その医者が患者のようすや心の状態、症状に最大限の心を配らず、思いやりもなく、「患者が札束にしか見えない」人だったら・・・あなたが患者だったら、どう思いますか? 「そんな医者は、いないほどよい」と思いませんか

 医者がそれなりに高い収入を保証されているのは、「ともなうべき責任」も大きいからです。正しい倫理観を身につけ、広く相手のことも考えられ、自己犠牲をいとわない。もちろん技量や優れた知識、日々の学習や研鑽を欠かさない。
 子どもが「医師になりたい」と云えば、そんな医師を目指すよう指導しなければならないのではないですか、先生や親は。「医者になりたい」のであれば、「医者に伴うべき条件」を欠かすことはできません。「ともなうべき人間性や倫理観・自己責任の自覚もないまま、学力だけを身につけた」医者がいれば、恐ろしいことになるとは思いませんか? 

 それでは、そういう指導を「事前に」行わなければならないのは「どこ」で、「誰」ですか? ぼくたちの仕事は「教育」ですね? 「子どもたちを育てること」ですね? 関われるのは『子どもを育てる人』と『教育』ですね?
 「能力が高いが、金のことしか考えない」。そんな医師を育てるのですか? 「倫理のはしくれも見られない」、そんな医者を社会に送り出すのですか?
 同じように公的免許を取得する教職も、医師と収入はちがえど、負けず劣らずたいせつな職務と責任があるのではないですか? どちらも「かけがえのない人間の人生」を「救う」のです。 その仕事に、自負と責任と正しい倫理観、バランスの良い判断基準は必要ないですか?
 あなたの子どもを、まだよく知らなかった2年前、化石採集に向かう電車の中で、僕は彼女の言い分を「ふん、ふん」と聞いていました。あなたも、傍にいましたね。その時は未だ、あなた方の倫理観を心底信じていたので、ぼくも一生懸命聞きました。彼女は、同じクラスのひとりの男の子のことを散々けなして、「自分の正しさ」を訴えていました。

 しかしその後、彼女のふだんのようすをよく注意していると、彼女自身が従来の子と比べても、相当自分勝手で、「自分のことも満足にできない」。「云うことだけは云う、さらに、そのことをまったく自覚していない」等がよく見えてきました。典型的な「王様育ち」です。「すぐ手抜きしようとする」、「人のことを考えられない態度(「ホタル狩り」や川遊びでの網を独占、なかなか人に譲らないような態度・奥さんがよく知っています)」・「自分勝手な物言い」や「リスペクトのない言動」・・・。ぼくは彼女の育てられ方、「真相」がよく見えたので、「2年目から」指導を厳しくするよう、方針チェンジしたわけです
 甘やかされて、問題ある子どもには、開設以来いつも採ってきた方法です。甘い顔はできません。「理屈がわかり、指導が身について、悪癖が直る」まで

 子どもの「人となり」や日々の「態度」に、あなたの「客観的な目」は届いていますか? わかっていますか? 失礼ですが、ぼくにはまったくそう見えませんでした。「甘いだけ」のようでした。そういう育ち方をしている子を、「そのことが分かった人」が、そのまま放っておいて良いのか?
 「ほっとけ、ほっとけ! どうせ他人(ひと)の子や!」。「そのうち、わかるやろ!」。他の先生なら、あるいは、そう考えるかもしれません。しかし、ぼくはそうではありません。ぼくたちが育てているのは、将来の「社会人」です
 「そのうち分かる子」など、『二上山でダイヤモンドを見つけるような確率』です。 その心は? 裏側のブラジルまで掘っても、見つかりません。

 「医者になる」なら、「『良識・社会常識・思いやり』の伴わない」医者は、ぼくの元からは育って欲しくありません。人のこと・苦しみや迷惑を考えず、金や自分のことしか考えない医者なら、「いればいるほど邪魔になる」のではありませんか? 
 失礼ながら、あなたは指導や教育をそこまで考えていますか? 「一人の人間(社会人)を育てている」という認識に思いが届いていますか 「将来ある可能性豊かな若者を指導する基準」に、「あなた方の行動」はふさわしいですか? 「あなた方の子どもを預かるのであれば、できれば『思いを共有』していただければ」、と思いながら、ぼくなりに2年間指導してきたつもりです
 「医者になりたいという子どもの気持ちを制限はしませんが、それにふさわしい人格や能力を備えさせるのも、教師のたいせつな役目」です。ぼくの頭は、「本人以外のことも」同時に考える頭です「医者になりたい、それはいいことだ、だったらこうしなければならない、そんな態度じゃだめだ」という視点や指導・教育は必要ではないですか? 

 かつて、「赤ひげ」という映画がありました。日本人が古来たいせつにしてきた、『仁』と『義』と『理』があふれていました。あなたたちの今回の仕業は、「仁」にあふれていましたか? 「義」にかなったものでしたか? 「理」に基づいたものでしたか? そのたいせつさを思い出してもらいたい、心からそう願っています。それらを忘れて、潤いのある人間社会は成立しません
  玉川さん、あなたも実際にお住まいだから、ご存知だと思いますが、ぼくはあなたの生まれるくらいのときから、つまり40年以上前から、この地にも住み、その事情をよく知っています。全国的に、この市は学力レベルも低く、特に近在は教育環境や学習環境、子育て環境でも、大きな問題を抱えています。ぼくが開塾以来、この地で続けてきたのは、この環境で生まれた子どもたちを、学力や人間性とも、屈指のレベルにひきあげたい、と思ったからです。ここで、子どもたちを育ててこそ意味がある、と思ってきたからです。あなたがたがやったことは、その思いを無にするだけではありません。自分たちの子どもも育っていく、たいせつな街、その未来をどうしようというのですか?  
 
水谷は、この問いかけの後、「これ以上の捏造データを作成し、拡散をしないこと」の約束、「データ捏造と悪意の教唆によって退塾した三人の保護者に対し、速やかに真実を明らかにすること」。それが、『人生の王道』に戻れる、唯一の道ではないでしょうか」と結んでいます。(つづく)


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