『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

勉強のできる子を育てるには⑯ 

2017年02月25日 | 学ぶ

 今週は本文の指導に参考になる本を写真紹介してあります。

「学」の性「変換」(オス?メス)
 腕白(三年生・特進二年生)の授業、休憩時間に教室中央のでっかい水槽に目をやっていた子どもたちが、「センセイ、なんかボールみたいなものがある!」と騒ぎはじめました。飛鳥の田んぼの横で「センセイ、なんかカメみたいなやつおるッ!」と大騒ぎしたときとおんなじです。
 「どうしたんや」と言いながら水槽の向こう側に回ると、学が小さな(直径2㎝くらい)ピンポン玉のようなきれいな球を顔の前に置き、両手で(!)ガードしています。

 「なんやこれ? だれかボール入れたんか?」。「学はオス」とばかり思っているぼくたちの頭のなかに、「卵」という判断はありません。
 ・・・この両手(!)でかばっているようす・・・ピリピリしたふるまいと鋭い目つき。「・・・タマゴか?!」。
 「ええ? 学、オスちゃうん?」「ひえ~っ」。ぼくの興奮が子どもたちにのりうつり、大さわぎです。

 学の神経質そうな振る舞いが次第に激しくなります。いつもは教室にカメラを置いているのに、こういう時に限ってカメラがないッ。慌てて取りに戻ろうとする途中、「センセイッ! タマゴ食べた! 学がタマゴ食べたっ、なんか、一瞬やけど、キイロの見えたァ」。危険を感じた学ちゃんは、たいせつな卵を飲み込んでしまったのです。

 連れて帰って来たとき、「上から見てシッポが見えるのがオス、見えにくいのがメス」というインターネットの紹介を見て、「シッポのようす」と「ふてぶてしい(!?)顔とデッカイ身体」から、てっきりオスとばかり思い、命名した「学」。実は女の子だったようです。
 そういえば思い浮かびます。先日、90㎝のでっかい水槽から懸垂の要領で「外出した」ことをお話ししましたが、何とか外に出ようと毎日もがいていた行動の理由を、「産卵」と考えれば納得です。爬虫類で陸上に産卵するので、「兆し」を感じた学は一生懸命産卵場所を探していたのでしょう。飼っているのが少しかわいそうな気もしますが、「彼女」は、恋人(配偶者!)もいないことだし、子どもたちとぼくとで精いっぱい世話をすることにします。

 困ったのは名前です。男の子だとばかり思っていたので「飛鳥学」と命名し、みんなは「学ちゃん」と呼んで親しんでいます。「卑弥呼」という名前も考えたものの、なんか違和感があります。「学」自身も、気のせいかもしれませんが、すでに「学(がく)」になじんでいるように見えるのです。 
 困った挙句「学美(まなみ)」にしました。これなら通り名は「学ちゃん」のままでOKです。「学ぶことは美しい」という字義も意味深です。
 というわけで、残念ながらタマゴの写真は撮れなかったのですが、小さな子どもたちに、また貴重なハプニングと驚きを提供することができました。

 立体授業や日々の指導での、こうした「新鮮な驚き」が脳のはたらきを活性化し、「学ぶおもしろさを後押しする」とぼくは考えています。机上での抽象媒体による指導だけではなく、「ふだん生活している」中での事象を学習と結びつける―結びつけられる―指導が、学ぶおもしろさや好奇心を育み、それが抽象的指導のバックグラウンドになる指導です。
 赤目渓流教室でのオオサンショウウオの赤ちゃんとの遭遇や蛍狩りでのマムシの赤ちゃんとの対面、川虫やミミズを使った渓流釣りやでっかい鯰釣り、チョウや蝉やトンボを捕まえるクモやカマキリ・・・。
 自然は何も生物学者や科学者を育てる(ためだけの)ものではありません。
 団の子どもたちが課外学習と立体授業で経験するハプニングの数々は、「日々の生活」のなかで現れます。「生物の生死」や「食物連鎖」が植物の生育や動物の飼育とともに、生活の中で興味や関心を巻きこみながら始まり、つづいていきます

 受験参考書の「文字媒体でのまとめ」を読んで、「テストの解答の正解率を高める学習」だけでは、将来、科学者や研究者、好奇心の強い感覚の鋭い子どもは育ちにくいと思います。そして、受験勉強が相も変わらず受験勉強で始まり受験勉強で終わる、それが当たり前になっている現状。意味や面白さはよくわからないまま、理屈は後付けでつづいていきます。
 これでは多くの子どもたちの「退屈で憂鬱な学習」の改革や転換は無理だと思います。この項の最後にノーベル化学賞受賞者の福井謙一博士の著書の一節を紹介しておきます。
 
 誰しもそうだろうが、私も幼い頃から「泥んこ遊び」が好きだった。少しもったいつけた言い方をすると、自然にからだごと、どっぷり浸るのが好きで、子どもの頃の思い出といえば自然とじかに触れ合い、その中で体験したことがほとんどといっていい。それは他愛のない体験だったかもしれないが、書物による知識では得られない自然に対する認識を私に与えてくれた。自然がこの上なく奥深いもの、美しくて微妙であることを、私は生の体験として受け取ったのである。学者の家柄に生まれたわけではない、むしろ自然科学とは無縁の家庭に生まれ育った私が、後年自然科学の道を選んだのは、自然の中のその厖大な生の体験の積み重ねであろう
 (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版社 p1 下線は南淵)
 
 「自然体験ならば何でもよい」ということではありません。「ただ、時々行けばよい」という意味でもないと思います。自然にどっぷり浸る中で、「その妙を知り、疑問や不思議を見つけ、それらを考えたり、解明することにおもしろさを見出していく経験が欠かせない」ということです
 福井博士をはじめとする今までも紹介してきた碩学にとっては、それら一連の行動パターンも、おそらく「当たり前のこと!」だったので、「自然に浸る」という描き方(表現)しかしていないのだと思います。

 しかし、ぼくたちがそこから読みとらなければならないのは、単に「自然に入る」に終わらず、それをきっかけとして生まれる数々のハプニングや不思議やなぞを「子どもたち自らが求め、調べ、考える」ところまで導く指導です。それが団の立体授業をはじめとする一連の指導でぼくが意図し、目指しているところです。

「がんばって、おかあさんしてたん?!」
 さて、次の日は偶々三者懇談で、お母さん・お父さんと「学」の話題になりました。
 先週F君が学にかみつかれた小金を助けるために「水槽に餌を投げ入れた」話をしました。そして、そうした優しさは、日ごろの生活の中での生物の生育や飼育の習慣が大きく影響するのだろうと推測しました。Fくんのご両親は獣医です。そのFさん夫妻も見えました。

 学が卵を守っていた話や、一生懸命懸垂して「外出」した理由の推測を話すと、おかあさんが、スッポンの方を見ながら、「がんばって、お母さんしてたん?!」。F君のやさしさは、こうした環境から生まれる、ということに気づかれましたか?
 小さなころから昆虫や動物に「なじみ」がなく、生きている姿や生死の場面の体験(実見)が少ないと、「生きていること」や「いのち」の考察にはなかなか入れません

  子どもたちが虫や動物を飼いたいといった時、虫の嫌いなお父さんやお母さんは「そんなんみんな、ゴキブリに見えるわ」といったり、「ひゃあ、気持ちワル―」と言ったりする人がいます。昆虫(つまり自然)に対して眼を開くのに、そうした発言は「百害あって一利(も)なし」です。それが教科書の学習単元「生物」に対する疎外感の一因に変わります。発言が続くたびに「興味をもつべき子どもたちの好奇心対象の価値がどんどん下落し、意味がなくなってしまうから」です。
 

子どもたちは、そうした環境で興味が膨らまず、学習対象を文字やイラストの「抽象的な対象」として、つまり「試験問題」として取り組まざるを得なくなってしまっています。彼らの気持ちのなかでは、お父さん・お母さんたちが「気持ちワル―」というものを「学ばなければならない!」のです。多くが自主的にはなれないでしょう。
 そういう環境では、ほとんどよく見たこともないものでしょう。そんな「気持ち悪いもの!」・「見たこともないもの」に、わざわざ奥を探ろうとする好奇心や興味をもつことができるでしょうか。そういう小さなきっかけが、学びはじめの学習の大きな弊害になることに、ぼくたちはもっと目を留める必要があります

 逆に「自然に親しむ」ことによって、たとえば、きれいな虫を見つけてその美しさに興味をもてば、「光や色の不思議」に目覚めるきっかけになるかもしれません。身の回りのものすべてに、「光と色」は深い関係があります。「不思議」の感覚は次のステップへの入り口です。さまざまな対象への懸け橋です
 「クモの糸」が驚くべき強さをもっていることも科学で解明されました。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読む機会があれば、その接点から何かきっかけが生まれるかもしれません。
 駅の自動改札機切符回収に川を流れる落葉の流れ方が問題解決の糸口になったというエピソードを聞いたこともあります。「流れる水」は、このように理科のみに限らず、社会から治水や建築、あるいは数学にもかかわってきます。
 

つまり、自然が単に自然にとどまることはありません。いや、「感覚の上でとどまっていることが問題だ」とぼくは思っています
 虫や小動物への興味はやがて「自然」に意識が向かう糸口になり、その奥に広がる無限の可能性の入り口でもあるのです。つまり子どもたちが興味や好奇心をもちやすい対象であり、「学ぶこと」を面白くしたり、アイデアを得、考えを深めるたいせつなものでもあるわけです
 「自然に触れる、興味をもつ」ということの意味をもう一度考えなおしてください。もし虫に触れるのが嫌だったり、小動物が嫌いであっても、子どもたちの興味や関心に否定的な態度はとらない」で、その対象を「一緒に本でも読んで調べる」という余裕のある姿勢が賢い子を育てます。先ほども考えましたが、それによって心からのやさしさも育まれるでしょう。
 そんなもの、画面やビジュアルでも代用できるのではないかという意見もありそうですが、「手の上で亡くなるいのち・次第に冷たくなるからだ」や、「昨日まで自分の方を見つめていたのに朝起きても起こしても開かない瞼を見つめる体験」と、「単なる抽象媒体や画面の上での経験」は大きく異なります

 以前、肥後守を使うこと、それによって「ちっちゃなケガをしたり、痛みがあることによって相手の痛みがわかる」と書きました。自らが危険や痛みを感じない(たとえば画面での)経験からは、戦いの場面で相手を抹殺したり爆破しても「快感」しか生まれません
 さらに、植物や動物に対する「無関心」が日常化し生命や生死に対する感覚がマヒして優しさを忘れ、ビジュアルによるゲーム感覚の快感に酔うようになると、その先には大きな「闇」が待っています。さまざまな報道の犯罪や事件内容の微妙な変化は、小さいころからそういう経験に毒される成長の恐ろしさに対する警告ではないでしょうか。

最後に先の福井博士の著書から、自然を学ぶことの大切さを伝えるもう一節を紹介します。
 
 私は子供のころから触れ合い親しんできた自然を、自然科学という学問分野に入り込んで学び、思うようになった人間である。私はその過程で、この微妙にして美しい自然の奥深いところにまことに優れた合理性があることを認識した、あるいは感じとった。自然の仕組みは、地球上に偶発的原因で発生し、半ば必然的経過をたどって深化してきた生命の中にまたとない合理性を見せている。その合理性は、長い年月の間に自ら試行錯誤の法によるという、たぐい稀な原理によって生じたのである。それは地球の遺産の中でも、最もかけがえのない遺産ということができよう。そして、人間はその自然の一部であるのみならず、自然の、「最高傑作」だと思うのである。
 (前掲書 p218より 下線は南淵)
 
 がんばって、おかあさん・おとうさんしなければなりませんね。子どもたちは自然の「最高傑作」なのですから。


勉強のできる子を育てるには⑮ 

2017年02月18日 | 学ぶ

F君のやさしさ
 野生の「学」は時々とんでもなく凶暴な一面を見せてしまうことがあります。もちろん本人(本スッポン)はそんなつもりなど毛頭なくて、「おなかが減った」や「気まぐれ遊びの一環」なのでしょうが、数日前小金の後半身四分の一ぐらいに食いついたようす(そういう仕草はぼくたちが見ているときは一切見せません)。「その部分が何とかくっついている状態」の金魚を朝発見しました。

 ところが、この金魚は生命力が強いようで、自由にならない身体で一生懸命泳いだり、潜って水槽の底の学の食べ残しやプランクトン(?)などを、他の元気な金魚と同じようについばんでいます。学はもう彼(?)を無視なのですが、他の金魚がいけません。何とかくっついてる傷ついた金魚のからだの四分の一をついばみ始めました。「見境なし」です。
 それを見ていた5年生のF君が、「かわいそうや、助けたろ!」と、学はまったく食べないので、いっぱい残っている人工餌を数粒掴んで水槽に投げ入れました。金魚たちは浮かんだ餌の方に一目散です。(なお、金魚は頑張ったのですが、6日目に亡くなりました)

 F君はご両親が獣医さんで、小さいころから生きものに触れ、生きものの生死に触れ、生きものの中で育っているので、ふだんから自然にそういう「やさしさ」が出てきます。生育や飼育すること、そして「何よりも生死に触れること」が情操教育にはやはり欠かせないのでしょう。「学と金魚という関係」を超えた優しさです。

 今の子どもたちは虫や生きものに触れる機会が少ない子が多く、入団してくる子を見ていると、触れていても「生命あるもの」として大切に育てるのではなく、「デパートやスーパーで買えるおもちゃ感覚」の子がほとんどのように思います。つまり「生育や飼育が意味をもっていない」のです

 植物にしろ、動物にしろ、自分も相手も生きていることを感じながら、その成長や生死の過程をきちんと見守りながら手をかけて世話をしたり遊んだりすることで、心からのやさしさが育ちます。「『切り花』を「ただ、きれい」とだけ思っている感覚」や「カブトムシやクワガタはお店で買うものと考えている感覚」は、「花壇や鉢植えで日々一生懸命育てた花を美しいと思ったり、ちゃんと世話をしている動物をかわいいと思う感覚」とは、まったくちがう感覚です。「どちらが優しい子に育つだろう」ということも、そう考えるとはっきりイメージできると思います。
 団のOB諸君が高校生や大学生ころになると、とても優しく後輩たちの面倒をよく見てくれることも、「生きものに触れ、生育や飼育にかかわっている日ごろの指導と決して無縁ではない」と考えています。「いのちの営み」を「実見・実感」できなければ、生命のありがたさや大切さは心底わからない。触れないで「ビジュアル」だけで学習できるものではないと思います。触ると動いたり逃げたり壊れたりする「感覚」を通じて学ぶものです。

OB教室の学習指導紹介
 先々週紹介したように、今年のOB(中一生)からOB教室でグレードリーダー(“Logan‘s Choice” RICHARD MACANDREW Cambridge English Readers level 2)講読を始めました。一年間の予定です。
 写真の登場人物の頁を紹介して、ストーリー出だしの英文を少し紹介し、その状況を説明します。次に、丹念に辞書を引きながら話の筋を追っていくよう指導しています

 指導は、小学校での英語授業以外ほとんど何も知らない段階ではじめました。彼らの解釈(日本語訳)をたずねながら、答えが返ってこなかったら、ヒントを与えたりアドバイスをして進めていきます。かつてグレードリーダーを読み続けていた時、ぼくがおもしろいと思った本なので、もうすぐおもしろさがわかってくれるでしょう。
 小学校の段階から課題の方法等「先取り学習」や「ひとりで始める」指導を少しづつ続けているので、中学入試を終える頃、OB諸君はこうした一人で進める学習をそれほど戸惑いなくできるようになっています。「学体力」です

 こうした姿勢が整ってはじめて、大学受験でも「予備校頼りや受け身の学習ではない学習」がすすめられるようになります。団のOB諸君が学校の授業とOB教室だけで京大や阪大という難関に進めるのは、こうした背景(指導の定着)があるからです
 団の学習指導は、「教えてもらうもの」「座って講義を聴くもの」という固定観念を打ち破り、「自ら行うもの」という意識を定着させることからはじめます。小学生時、入団してくれる諸君には、まず、こうした学習姿勢への転換を意図します

 もちろんこうした指導を周囲にすぐ理解してもらえたわけではありません(今でもすべて理解してもらっているとは限らないかもしれません)。しかし、「卒業生たち(OB教室を経た)の成長ぶり」を見てもらうことで、次第に理解と認知が進んできました。
 「『頭がよく理解力がある素直な子』が、懇切丁寧な授業や指導を受けられれば学力がつく」かもしれません。それでも、「『自らの努力や積極性が、学習にいかに大きな意味をもってくるか』ということを心底理解するまでには至らない」ことも多いでしょう。それらを伝え続けなければなりません。自らその事実を確認・自覚できる状況を用意しなければなりません。また、能力や性格や環境などを含めて、学力が飛躍するこれら諸条件が整っている子はそんなに多くありません。「頭が良くても素直でない」や、「自らの能力はあっても指導者に恵まれない」などがふつうでしょう。

 そのあたりの諸問題をクリアすること。学ぶことの(一生に亘る)大切さや意味を伝え、自ら学習を始める(進める)段階までもっていかなければ、いつまでたっても勉強=受験という壁を乗り越えられません。学習は受験で終わり、おもしろい学習は永遠に始まりません

先生、第一巻が終わりました
 先日合格のOB二人には、合格後すぐ数研出版の体系数学シリーズを紹介しました。既に独習を始めています。この体系数学シリーズの独習は、繊細さゆえ中学時に登校拒否し「ゲームセンター通い」だったのですが、団で学習をはじめ二年で京大の理学部へ進んだM君に、まず勧めた数学学習法です。学年の配当に関係なく、やる気があればどんどん進んでいける、手ごろな分冊になっています。達成感が得られるので、従来から指導に採用していました。

 中学入試が終わって約ひと月ですが、自学を進めていたA君が「第一分冊(代数編)を終わりました」と報告。その速さに少しびっくりしたのですが、「自学」が習慣化して、「学体力」が身についてくれば、こういうことも稀ではありません。念のために「もう一周」繰り返しておくように指示しました。
 以前にもお話ししましたが、今は大学受験するにも、良い参考書やテキストがたくさん出版されていて、自学は十分可能です。ところが「細かい字で分厚い」参考書やテキストを自ら読みはじめる根気やパワー・自ら考えようとする力(つまり学体力)が身についてないので、いつまでたっても「人頼り」。
 いくつになっても「何かを習うには、どこかの学校に行き・・・」、そして「学体力」が続かず、結局お金を無駄遣い、ということも多いのではないでしょうか。

 外山滋比古氏の著書から、少し長いですが、引用します。
 
 勉強したい、と思う。すると、まず、学校へ行くことを考える。学校の生徒のことではない。いい年をした大人が、である。こどもの手が離れて主婦に時間ができた、もう一度勉強をやりなおしたい。ついては、大学の聴講生にしていただけないか、という相談をもって母校を訪れる。実際の行動には移さないまでも、そうしたいと思っている人はたくさんあるらしい。
 家庭の主婦だけのことではない。新しいことをするのだったら、学校がいちばん。年齢、性別に関係なくそう考える。学ぶには、まず教えてくれる人が必要だ。これまでみんなそう思ってきた。学校は教える人と本を用意して待っている。そこへ行くのが正当的だ、となるのである。(「思考の整理学」  ちくま文庫 p10 下線は南淵)
 

 古い本ですが、東大・京大の生協で未だベストセラー、根強い人気を誇っている本です。ご存知の方もたくさんいるでしょう。ぼくが舌足らずのコメントを付け加えるより、続きを紹介します。
 
 ・・・学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない
 グライダーと飛行機は遠くから見ると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、哀しいかな、自力で飛ぶことができない。
 学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。(「思考の整理学」  ちくま文庫 p11 下線は南淵)
 

 わが意を得たり。これ以上ない強い見方です。
 ただ、ベストセラーになっている東大・京大生協で東大・京大生が手にするだけではなく、小さい子どもや小学生を育てているお父さん・お母さん・先生方が指導を見直すには絶好のテキストになると思います。子どもたちは「人生という空」を自由自在に飛び回り、どこでも好きなところへ行くことができる飛行機人間に育ってほしいし、育てたいですね。もちろん自動操縦ではなく。基本訓練は、まず「学体力」の養成です。

「ガンヒルの決闘」
 映画DVD。今週の紹介は二作品です。
 まず「ガンヒルの決闘」。以前紹介した「チャンピオン」でその存在感に触れたカーク・ダグラスと「ワーロック」で紹介したアンソニー・クインの共演です。

 何の先入観もなく、ブック・オフで偶々手に取り購入しましたが、映画のセオリーにのっとった佳作です。他の西部劇の名作ほど取りあげられてはいないようですが、絵作りもきれいだし登場人物・ストーリー構成とも過不足なく、よい作品です。人間にたとえれば「さわやかな好青年」という感じでしょうか、シナリオ学習にも適しているのではないですか。

 エイリアン2。以前見たことがあるのですが、「映画で学ぼう」なんていう気はなかったころなので、それほど印象には残っていませんでした。しかし150分を十分持たせるよい作品です。
 「ガンヒル」とはまったく異なるテーマの映画ですが、これも「筋の運び方」がセオリーにのっとった作品で、「安心感」があります。映画のおもしろさは、その「『安心感』の果てに生まれる」のかもしれません。セオリーを追求してセオリーを超える。見終わって、なぜか「風姿花伝」をまた読みたくなりました。
 


勉強のできる子を育てるには⑭

2017年02月11日 | 学ぶ

心に染み込むタイミング
 先日案内しましたが、今年の6年生2名は受験した一貫校すべてに合格できました。
 この2年間は決して「楽な闘い」ではありませんでした。受験を目標に指導しているわけではありませんが、子どもたちの夢は壊したくありません。入試直前まで不安で、そういう時、ぼくは「自分ができる限りのことを指導したか(伝えたか)、精いっぱい努力したか」を振り返ります。そして、「一生懸命やったから失敗するはずがない」という手ごたえが得られると、それを子どもたちに伝えます。

 これは、まだ団を始める前、会社勤めをしているとき、長男の中学受験指導にかかわり、試験場から青い顔をして出てきた彼が、「手が動かなかった」といった一言から始まりました。初めてのテストで不安いっぱいの子どもに、「『何をどう伝えたらよいか』も考えられなかった情けなさと悔しさでいっぱいでした。
 いつも、その時を思い出しながら、先生も一生懸命やるから、君たちもそうしてくれ、と伝えることにしています。今回2人が合格したのは、その時の学校です。

 ふたりがOB教室に来てくれることになったので、今後の指導内容を考えていますが、英語は、まず簡単なグレードリーダーを辞書を引きながら丹念に読んでいってもらおうと思っています。文法の学習の前に、昔の人が英語の本を読みたいとき行った(やらなければならなかった)ように。まず英文を読むこと。読むことのおもしろさをわかってほしいという思いです。

 さて。合格して、ふつうなら「よかった。がんばったね」で終わるところですが、ぼくは合格して自信がみなぎって、眼がキラキラと輝いているその時こそ、「伝えるべきこと」があると思っています。その自信は「次のステップの大きな力」になり、「おとなへの目覚め」につながるはずだからです
 中学校に進学するころは、そろそろ社会の一員としての自覚が必要になるころです。「至れり尽くせり」の子どもの時期が過ぎ、その「『至れり尽くせり』が、どのように成立しているのか」に目を向ける必要があると考えているからです。
 

 「難関に合格して、その努力や能力を認められたということは、その能力にともなう、義務や役割を果たす責任が生まれたということだ」。
 
 ぼくが、奈良の片田舎から当時は雲をつかむような遠い目標だった東京教育大を目指すきっかけになった母校の講師のK先生の次のことばからヒントを得ました。
 「キミたちは伝統ある高校に入ったと思っているかもしれないが、伝統とはあるものではなくて、キミたちがつくるものだ」。
 これはK先生が講師をやめ東京に帰られるときのあいさつの中の一言です。心に響く一言は、その時期とタイミング・関係がとてもたいせつだとわかった瞬間でもあります。

 ことばには、心に染み込むタイミングがありました。悪から善まで、醜から美まで、猥雑・清廉・・・世界の名作からAV(!)まで、身体中がドロドロに塗れる混在・折衷の世の中ですが、その中を一生懸命泳ぎながらも決して忘れてはいけないことを、何とか伝えたいと思ったのです。合格して、未来に少し目を向けるようになった彼らには、一人の社会人としての視点も身につけてほしい。そう思っています。
 ところで、U高校同級生のみんな、並びに先生方。校訓は「至誠・至善・堅忍・力行」でしたね。覚えていますか? 堅忍・力行は年齢とともに大変になってきますが、至誠・至善はできますよね。目指したいですね。
 
「習いごとの多さ」は、子どもにとって是か非か
 先週、「親が先に手を差し伸べて子どもが自分でしなく(てもよく)なること」の「罪!」を考えました。「『忘れ物』や『まちがい』を自ら振り返ることができる力の未熟さ(つまりメタ認知の欠如)」です。
 もうひとつ、伝えておきたいことがあります。「習いごとの多さ」の「弊害」です。ピアノやバイオリン・少林寺拳法・サッカー・バレエ・英語・学習関係の多くの塾など、子どもたちの周りにはあらゆる習いごとが氾濫しています。そこにも「大きな落とし穴」があるようです。
 

「自分が小さいころ習いたくても習えなかった」、「できるだけ子どもの可能性を伸ばしてあげたい」、「好きなことをやらしてあげたい」等々、理由や思いは様々でしょう。たくさん習わせてあげたい思いも理解できます。
 ところが、「五つ、六つも」と、習いごとが多い子どもたちを見ていて、よく目につくことがあります。「忘れ物が多い」、「わがまま・がまんができない」、「集中力が続かない」等々・・・バランスよく成長するためにはもっとたいせつになる指導やしつけの不足です。

 芸事にしろスポーツにしろ学習にしろ、「集中力」が続かなくて大成する(できる)ものはありません。また、道具やテキストを忘れては練習もできません。道具やテキストなどの忘れ物は、先週見たようにトレーニング不足です。「わがまま」ではチームプレーは成立せず団体行動はうまくいかないし、がまんしてきちんと練習ができなければ結果は出ません。その間に「人生の時間」・「指導料」「子どもに対するせっかくの思い」が、きれいに霧消してしまうことになります。
 大切なトレーニングや指導の前に、「子どもがやりたがっているから」と、次から次へ「習いごとを増やしていくこと」の結果を次のようにイメージしてみてください。
 「言うがままに何でもやらしてもらう(やれる)」という状況は、一方では『我がままの温床』になりかねません。次から次へ習いごとの多さで時間に追われ余裕がないので子どもは疲れるし、欲求不満がたまります。「ほとんどゆっくり考える暇がなく、落ち着いて会話することもない子」に「集中力」を要求しても、それは無理な話です
 子どもの習いごとや日々の指導と成長について、こういう視点が決定的に欠落しているのではないでしょうか。子どもの将来を考えて優先しなければならないことは何なのか。リーダーシップは誰がとるべきか?

 好きになるには、大成するには、まず「我慢」や「忍耐」はつきもので、勉強にしろ仕事にしろスポーツにしろ、それは何ら変わりません。時間に追われ、それらの指導やしつけ抜きで、単に「子どもがやりたがっているから」という理由で習いごとが多くなってしまっている・・・。バランスのとれた成長という視点から、もう一度振り返る必要があるのではないでしょうか。
 「仕事がたいへんなので、その間見てもらっていると、安心だから」という理由などを聞くことももありますが、どこかおかしくはありませんか? 考え方が逆です。
 「たいせつな成長期に目を離してしまうこと」・「きちんと見ることができない(しない)こと」、それこそ「どう成長しているかがわからない」つまり「安心できないこと」のはずです。もし、こうした考え方をもっていれば、子どもの将来を考え、もう一度よく振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。

 経済的問題や保育環境など、これらの原因解消にかかわるすべての問題にはもちろん社会的な取り組みがたいせつであることは云うまでもありませんが、半生を振り返ると、社会的な取り組みを期待している間に、また「夢のようなスローガン」に「目くらまし」されている間に、子どもはどんどん大きくなっていきました
 いつの時代もそうなのでしょう。「『景気が良くなっている』といわれる『景気のよさ』が大半の人にはほとんど見えてこないこと」も同じしくみです。
 そして「経済的条件にかかわらず」、「子どもに対する思い」や「手にできるかどうかわからない雲をつかむような話を頼りにしない意識」をちゃんともっている人(おとな)ほど、子どもをきちんと育てることができている(子どもがきちんと育っている)ように見受けられます。やはり自らの工夫や注意で日々の子どものようすや変化に目を配り、丁寧に指導を重ねることがもっとも確実で、子どもの将来のためになるのだと反省しています。「金銭的!」にとらわれず、子どもに対して自分ができることを一生懸命考えること、考えていくことのたいせつさです。

名作とは
 「黄金」(1948年製作)はジョン・ヒューストン監督。父親であるウォルター・ヒューストンとハンフリー・ボガード等で撮った作品。「西部の男」(1940年製作)は名監督の誉れ高いウイリアム・ワイラーがゲイリー・クーパー主演で撮った作品です。
 ぼくは、一度見てよいと思った(何度も見たい)映画にはケースの背表紙に花マルシール(!)を貼っています。「黄金」と「西部の男」はどちらもそれなりの作品だと思うのですが、何度も見たいかと云うと・・・そうでもありません。花マルには足りません。

 「黄金」。テーマは素晴らしいのですが、ハンフリー・ボガード演ずる主人公の一人の人間造形の甘さ(「成長」とは云えない一貫性のなさ)が目につきます。また、これは「西部の男」にもいえますが、不要なバイストーリで、テーマの印象が薄められてしまっています。

 「西部の男」は、娯楽作品にしては迫力が足りないし、テーマの追求にしては中途半端だし・・・というところです。「エンターテイメントにするのか、真実を掘り当てるのか」が「どっちつかず」で見えないままです。観客にサービスしようという「下心」や「芸術っぽく」という「くささ」は、かえって逆効果だと思います。ちなみに、どちらもアカデミー賞受賞作品です。

 これらのすぐ後に「七人の侍」を見ましたが、当然のことながら、やはり比較になりません。エンターテイメントを突き抜け、立派な作品に仕あがっています。テーマに対するストーリーの乱れや人間造形の不備を感じる「余裕」はなく、三時間という長さも感じさせることのない名作です。こういう映画を徹底的に研究・考察することで、映画は「芸術」に昇華できるのでしょうね。
 余談ですが、「黄金」のハンフリー・ボガードの役柄名がダブズなのに、会話音声を聞いていると、「ドブス!」に聞こえます。思わず笑いながら、「そんなはずはないなあ?! もっとはっきり発音しろ、セクハラだぞ」。


勉強のできる子を育てるには⑬

2017年02月04日 | 学ぶ

子どもの頭をよくする要素
 先週は、「勉強とは関係ない」と、「『学習だけを特別視』する育て方の錯誤」について触れました。「ふだんから子どもたちの作業のようすやふるまい・行動のようすを見てトータルに指導をすることのたいせつさ」です。そして、それらの行動パターンや「頭のはたらきぐあい」が、学習にも大きく影響することの意味や理由を考えました。

 勉強ができる(学習ができる・成績が上がる)ようになるには「よい学校!」や「有名な受験塾!」に行かなければならない(行けばよい)という「まちがった思い込み(団での指導経験と子どもたちの成長ぶりから、あえて言いますが)」から離れられず、その奥にある「もっとたいせつなもの」が、未だあまり振り返られず、目が届いていないことが多い(ように見える)からです。


 机の前で学習をすることだけが成績の上下や脳の発達にかかわっているのではなく、逆に、日常生活における様々な生活習慣や子どものふるまいの多くが学習姿勢や学習態度・学習成果に影響する(している)ことを理解してもらいたい。「学習脳」や「生活脳?」や「遊び脳!?」は子どもたちの頭の中で別々に存在しているのではありません。学習も生活習慣等も、日常生活は総合して学力の伸長や能力の発達にかかわっているという現実に目を留め、日ごろのしつけや指導のたいせつさを再認識してもらいたいからです。それらを見直してもらえるきっかけになってほしい、と思っています。それによって、受験学習(でさえ)も、もっと楽に進むと思います。実は受験勉強なんて(!)、それほどむずかしいことではありません。知らない間にむずかしくしてしまっているのです。

「持っていくもの」が想い浮かばない
 さて、日ごろの指導やしつけを考える一例として、過保護の弊害をもう一つ。「忘れ癖」についてです。
 先週の団員ですが、6年生になっても「忘れ癖」がなかなか治りませんでした。彼が団に来たのは5年生です。「5年生までに指導やしつけを」とぼくが繰り返すのは、こうした5年生を境にする指導結果の判断からです。

 5年生のころを境に、学年があがるとともに、身についた頭のはたらきや習性をクリアして軌道修正するということがむずかしくなってしまいます。「指導に対する柔軟性」が次第になくなるのでしょう。ちなみに4年生までに入塾した子は大抵の場合、問題なく改善します。
 さて、彼は準備しなければならないものやテキストを、6年生になっても、一人だけ忘れることが続きました。同じ指導を受けている5年生が忘れていないのですから、能力も標準以上で成績も悪くない6年生の彼が忘れるのは、ふつうなら考えにくい。

 ちなみに、彼はそれまで、忘れ物に対する指導で、謝りはするのですが、それに対して真剣に思いを巡らす、というようすはあまり見られませんでした(だから治らないのです)。先週説明した作業や行動を、目的や目標などを「振り返る、考えることなくこなしてしまう癖」が透けて見えませんか?

自ら手を初めることのたいせつさ
 「いつも注意されているのに、どうして忘れるのか」と訊くと、6年生になって、ようやくその理由を落ち着いて考え、振り返りながらこたえられるようになった彼は、「その時(たとえば出発時に)思い浮かばない」といいます。「メタ認知のはたらき」がそうなってしまっているのです。くりかえしますが、さっきも言ったように、決して頭が悪い子ではありません。

 以前から、お母さんの日ごろのようすやふるまいを見ていて、小さいころから「傍でようすを見ていて『自分で用意をさせる』指導」ではなく、「お母さんが一人でする、或は本人が知らないうちにしてしまう、必要以上にかまってしまう(また、かばってしまう)」ということが多かったのであろうと推測していました。
 お母さんにすれば、「忘れ物をさせないように」、「忘れ物をしたらこまるから」という親心からでしょう。取り立てて注意や指導をしなくても、「気が走る子」はその習慣によって自然に身につく(メタ認知がはたらくようになる)ことがありますが、そうではない子もいます

 その差については先天的な資質が大きいでしょう。しかし、さらなる成長については、「個々の大きなそのちがい」に気づける周囲の注意力を欠かすことはできません。のんびりした子には、やはり行動に対する思いやりやトレーニングが必要です。
 「明日『~』をもって行かなければいけない」とか、「これが必要なのでは」という判断や連想は、「自ら手を初めて、失敗しながら覚えていく」ことです。自らの関与なく「いつの間にか用意できていた、準備が整っていた」では、本人の自覚やメタ認知は育ちようがありません。
 

先述のように、「その時思い浮かばなくなる」子に育ってしまうのです。そのままで、忘れ物が多く、気づかないことも多ければ、成人後、傍から見れば「記憶力が悪い・覚えが悪い」と誤解されるようになるでしょう。決して「頭が悪い」わけではありません。「単なるトレーニング不足」で「頭が悪く(!)なってしまっている!」わけです。周囲の注意力不足で、たいせつな訓練が日ごろ忘れ去られていたことが原因です。

教育は共育
 このように、「ちょっと見れば、よいお母さん・気がつくお母さんに見えても、子どもたちの成長にとっては、決して良いお母さんになって(なれて)いないこと」がよくあります。「一見」よく気がつくお母さんほど、その可能性が高いのかもしれません。「気がついて、自らやってしまうから」です。そして、「良かれと思うゆえの不注意(!)」がつづいて「時には、小さくはない欠点にふくらんでしまう」。日ごろの行動やふるまいに対する指導やしつけについては、子どものようすをよく見て思いを巡らすか否かで、子どもの成長に大きな差ができることを、ぼくたちは忘れられません
 

さて、過保護以外にも、親や周囲のふるまいや行動をいつも見ている子どもたちは知らない間に様々な影響をうけます。見栄を張ったり、ごまかしたり、隠しごとをすることが多ければ、いつの間にか子どももそうなってしまいます。
 自分のことはなかなかわからないですから、もし子どものそういう短所や悪癖が目につけば、振り返って反省する余地は大いにあるかもしれません。偉そうに宣っている(!)ぼくも、子どもが大きくなった今でも、いつも教えられています。「子は親の鏡!」ですね。教育は一方通行ではなく、『共育』だと思います。

 団ではふだんから、作業のようすや行動癖にも目を配り、注意をしていくことを心がけています。OBの成長を見ていて、それらの指導が、よく気がつく、素晴らしい子の成長には欠かせないことも実感しています。団の子どもたちの学力や人間性の望ましい成長は、こうした指導も含めて成就します。

 その「目配りや気配りもできる成長」が、学習に対してもケアレスミスや見落としや読みちがいを防いだり、克服できる成長につながっていきます。学習は机に座ってだけするものではありません。「受験学習指導」の前に、人としての成長にも整わなければならないことども・・・。きちんと目を向け、ぜひ気がついていただければ・・・。

自ら手を初めることの意味
 古いマンションに住んでいるので、数年前から画面に「アンテナの不具合」の表示が出て、次第にテレビが見られなくなっていたのですが、とうとう全部映らなくなりました。哀しいことにぼくたちは年齢とともに作業効率や処理能力が落ちます。時間が惜しいのでテレビはほとんど見なくなっていましたが、現在は、何とかシナリオを「感じたい」と、映画を見る時間はさらに貴重です。「ラッキー、時間の節約」と、そのままにしていたのですが、遠隔地のボランティア仲間の友人が多い長女が、ぼくの部屋をホテル代わりにとまりに来ることがよくあり、友だちの手前いつも困惑気味です。町の電気屋さんに依頼すると、出された見積もりが40,000円。ムㇺ。ぼくの感覚では高すぎます。
 

電気屋さんの話を聞くと、部屋は6階で東向き、アンテナ中継基地がある生駒山まで障害物が何もなく見通しがよい。簡単な屋外用アンテナをつければ問題ないということです。
 「アンテナを立てて、アンテナ線を這わせ、室内ではモールを」と、大袈裟なことを言っていますが、作業の一つ一つを現実に即してイメージできるぼくからすれば、すべてすこぶる簡単な作業です。おそらく、作業員一人の派遣(日当)分15,000円。工事はふつう二人ですから30,000円。器具や部品代・税で約一万円。計40,000円という見積もりです。作業のイメージからすれば、今まで大抵のことはひとりでやってきたので、できないことはないはずです。

 昔、写真をやり始めた時も、偶々古本屋で見たぼろぼろのカメラ雑誌(日本カメラ)から始まりました。ペラペラめくったカメラ雑誌のコンテストの入選作品を見て、「しょーもない写真やなあ」と思ったことがきっかけです。「もっとおもしろい写真撮れるやろ」。ほんとーです。恐ろしいことに(!)、「写真をほとんど撮ったことのない経験」が言わせた独り言です。

 それからモノクロ現像のマニュアル本を、やはり古本屋で買い、カメラのナニワで用具や薬品をそろえ、誰に教えてもらうでもなく、一からモノクロ写真の撮影と現像を始めました。カメラは知人から譲ってもらった当時でも古いアサヒペンタックスSPと中古ニコンFE(だったと思います)です。

 失敗を繰り返しましたが、その代わり微妙な光や色の表現を、その都度おぼえることができました。失敗して覚えたことは、その失敗の原因をきちんと考えれば、まさに「成功のもと」です。すぐ日本カメラのコンテストで何度か入賞し、まもなくカメラ毎日のモノクロームコンテスト選者だった深瀬昌久さんに出会うこともできました。いろいろ刺激を受けたことは以前書きました(笑い)。

 さらに。もっと昔、21歳くらいだったと思います。教育大学を休学してバイト生活していた時、葛西(千葉)の鉄鋼会社の経営者と知り合いになり、新しく立ちあげるパブの調度品やメニューなど開店準備の一切を頼まれたことがあります。それまでのバイトの経験や飲食業の関連本を参考に、合羽橋の道具屋街を訪れ数日間で準備を整えました。

 ・・・それから家の大きな窓を壊して、一面造形の壁にしたときも、大学入試をどこにも行かず一人で乗り越えた時も、中学校の卒業記念のレリーフの下絵を描いた時も…そういう経験を振り返れば、地デジアンテナなんて、「洗顔前」です(朝飯より、もっと前)。
 インターネットやアマゾンで調べると5,000円弱のアンテナで充分なようす。あとはケーブルや分配器をそろえても7,000円で済みます。やはり、予想(予算?)通りです。モールを使い、エアコン用の壁穴を通してあとをパテでふさいでおけば、何の問題もありません。工事時間30分で十分でしょう。

 「自分にはできない」と最初から思いこんだり、「業者や専門家に頼まなければならない」では、何も始まりません。33,000円の差額は馬鹿にはできません。そして、そういう経験は金額の問題だけではなく、先週も書きましたが、自らの能力や趣味の発見や自信にもつながるわけです。総べて、自ら手を初めることが始まりです。どうしてか?

快感神経が意味するもの
 かつて、快感神経の存在に触れたことがあります。砂糖や油分をおいしく感じる意味から、子どものハイハイやヨチヨチ歩きから、その心からの笑顔の意味をたどりました。生きていくこと、種を存続するためのプラスになるものを快感と認識するように進化している、という説がヒントでした。ほんとうにぼくたちが感じる快感は、「生きていける可能性や望みが感じられるとき、その方向が見えた時」に「はじける」のではないか、という類推です。それなら「学習」も本来なら『おもしろくてしかたがないはずでなければならない』という仮説です。(注、この仮説については「独占権」を譲れませんので、出典は必ず明らかにしてください)
 

そうであれば、たとえば、ブランド物を欲しがったり、みんなが持っているものを欲しがったりして、手に入れても「満足が行く」、「快感が極まる」はずがありません。潜在意識の中では、脳は「決して生きていくことに役に立つものではないこと」を知っているからです。「ものそのもの」を造れるようになった方が、はるかにうれしいことが想像できるはずです。そんな「買い物」より、今までできなかったことや技・仕事ができるようになれば、生きていくことに大いにプラスになる力が身につくはずですから、普通に考えても、その快感は比べようもありません。

 子どもたちがさまざまなものに触れ、そのしくみやなりたちを考察し、このように考えをまとめていくことは、これ以上ない快感のはずで、学ぶことは、本来そうあるべきだと、ぼくは考察しています。それらを身につけた喜びや自信が、子どもたちの明日を、未来を創ってゆきます。ちょっとした経験が新たな発見や成長をもたらし、自分を豊かにしていくことは、子どもたちにぜひ伝えたいことです
 ちなみに僕が、写真にすぐのめりこめた理由を今考えてみると、小さいころ、感光紙を使った日光写真のおもしろさに触れていたことが大きかったような気がします。小さいころの様々な経験は決して馬鹿にできません。


いいかげんにしろ、学

 団に連れて帰ってから4カ月を経過、写真で紹介しているように、でっかい水槽にも慣れた学君は今「ゴジラ化!」しています。「煉瓦製の建物をことごとく破壊し、数日前からその廃墟に乗って水槽の縁に手(?)をかけ登ろうとしていました。首だけ出ているような状態なので安心していたのですが、次の日、外出から帰ると水槽にいません。
 

びっくりして慌ててあたりを見回すと、水槽の横で排水用のホースの陰にとぼけた顔をして、行儀よく座って(?!)いました。90㎝の水槽で、深さ50㎝です。水槽の縁をもって懸垂の要領で乗り越えたのです。彼がどれだけデカいか、わかりますね。
 エアーポンプから出るバブルが大のお気に入りで、時々泡を首にあてたり、「吹き出し口」の上に乗り、泡ぶろ状態にしてうっとりとしていることもよくあります。

 「寂しそうだから」という子どもたちの意見で買ってあげたガチョウのガーコにはまだ警戒心を解きませんが、三カ月以上同居している金魚をいたぶり、死なせてしまったのも、数日前のことです。大きな声でいたずらを叱ると、首を引っ込め(カメですから得意です!)、しおしおと水槽の底に戻り、しょんぼりします。そのしぐさが、また愛敬です。
 いずれにしろ、いつも子どもたちの興味と関心の的の「学君」です。…あっ、今また廃墟の陰で無残な姿の金魚を発見しました・・・。