『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く32

2018年09月29日 | 学ぶ

 カウントダウンが始まりました。団開設時の思いが詰まっている文章が出てきました。四半世紀前と、ぼくの思いがまったく変わっていないことと世間の変容とのギャップに驚きました。
 そのまま掲載します。何よりも子どもたちの教育に正面から、そして心から向かおうとしている若い先生たちに。

恩師への手紙
  学習探偵団の手作りパンフレット、裏表紙の「手紙」です。タイトルは後で付けたものですが、内容は送った当時のままです。

   1995年11月11日

学習に王道あり

 謹啓 つい先日まで、年甲斐もなくTシャツで突っ張っていたのですが、いつの間にかトレーナーになり、早いもので、子どもたちに星空を見せてあげたい季節が参りました。
お元気のことと存じます。
  先の同窓会では、せっかくお越しいただきましたのに、旧友との話で盛り上がり、ゆっくりお話をお聞きすることができませんでした。申し訳なく、また残念に思っております。次回の幹事は僕らしいので、今度こそゆっくりお話しさせていただきたいと、今から楽しみにしております。
  さて、ご挨拶が遅くなりましたが、先日ご理解をいただきました「教室」を別紙(注 同封した折り込みチラシ)のようにスタートさせていただきました。7月から軌道に乗るまで雑用に追われ、ご連絡が遅くなりましたこと、心よりお詫び申し上げます。
  何年か前からライフワークとして温めておりました企画で、教壇も事務所も看板もない十坪弱の空間ですが、団員諸君と僕の「夢」がいっぱい詰まっています。
 長い間第一線で活躍してこられた先生に臆面もなく申し上げるのは「一億年早い」としかられそうですが、何を教えられるのか、あるいは何を教えてもらうのか、これから厳しくも楽しい「戦いの日々」が続くと思います。冗談ではなく、「地球の後輩たち」を育てたいという意気込みで取り組んでみます。
  先生には今後もご教示いただかなければならないこと、ご無理を申し上げご迷惑をおかけすることも多々あるかと存じますが、ぜひよろしくお願い申し上げます。
  なお、同封の折り込み、「学習の王道」ということばは「学問に王道なし」といいますが、そんなことはない、「学習」には「王道」があるという、例の「へそ曲がり」です。ご了解いただければ幸甚です。
  最後になりましたが、時節柄、健康にはご留意いただきますよう、またご多幸をお祈り申し上げております。
                                                                          

敬具

「指導の王道」
  「学習」の「王道」。手紙でこのことばを使ったとき、それほど明確な方法を意識していたわけではありません。
 しかし、準備期間の間にあちこちから入ってきた他大手塾の方法、年末になったら学校を休ませ、「缶詰」にして毎日「受験に関わる断片的知識とテクニック」をつめこみ、実施したプレテストでの類似問題が本番で出てくると、まるで鬼の首でも取ったように吹聴し、選抜テストで能力の高い子ばかり集めたクラスでの難関校合格の実績を誇る等という、中学受験業界の「しくみ」がある程度つかめてくると、「そういった方法からは最も遠いところにある」と確信がもてました。      
  「類似問題」を正答して合格した受験生は、「ただ合格しただけ」です。合格したらいいのか。「合格しないよりはしたほうがいい」というレベルの話でいいのか。それで終わるのか。
 受験業界だけではなく、保護者を含め、もっともっと大きな視点と将来を見据えた取り組みがあってもいいのではないか。ぼくたちが育てているのは受験生ではありません。人間です

 現在多くの塾が実施しているような方針で「受験指導」を行い、「処理能力の速さ」と「妙な優越感」ばかりが身についた子どもたち、合格したはよいが、どういう大人になるのか。推して知るべしではないか。「誇った合格人数」の合格後・成人後のリサーチをして、「それでもなお誇れる人数」をぜひ知りたいと考えるのは、ぼくひとりでしょうか
 「高い能力」だけを身につけ、「自分のことだけしか考えない」人が、社会や多くの人にとって、いかに迷惑千万なのかは、日々のマスコミ報道でよくわかるはずです。もっと真剣に子育ての問題点を整理し、検討を重ねなければならないのではないか。そう思います。
  ぼくたちが子どもの頃、学習に限らず、指導という指導はおたがいに「血の通い合うもの」だったような気がします。中学時代、理科でお世話になった上島先生は、休日を返上して二上山に案内し、サヌカイトや山の成り立ち、様々な植物について話してくれました。

 確かまだ暑い季節で、休憩のとき神社の木陰でオレンジジュースを出して飲んでいると、
 「ナンブチ(上島先生独特の呼び名でした)、みんなで分けろ」
 他に持ってきた人がいなかったのに気づいた先生の優しさでした。同じくのどが渇いている「仲間を気遣え」、今子どもたちにその心を教えている指導者や保護者は何人いるでしょうか。社会に出て行く子どもたちには、まず教えなければならないことです。たいせつなことを教わりました。
  公立中学でしたが、三年になると高校受験用の補習が始まりました。ところが、ぼくをふくめクラスの2~3人は、「おまえらは帰ってもよい」といわれたのです。理由を尋ねると、「おまえらは家へ帰って勉強した方が能率が上がるから」。
  「きょとん」としていたと思います。能率が上がるも何も、家へ帰ると、ぼくは勉強なんかそっちのけで毎日『藪こぎ』をし、近所の小川に行って魚を捕る「マタギ生活」だったからです。

 小学生のときから、真冬をのぞいてほとんど毎日、裏山・野池・川と、それぞれのご機嫌を取るように交互に顔を出し、その頃はちょうど川に夢中でした。「学習の成果」より、水中めがねや手製の銛、タモを抱えて「漁獲の成果」を誇る毎日だったのです。何がぼくに学習の成果をもたらしたのか? 自然に浸ること、「マタギ生活」です。缶詰勉強とは真逆の「受験生活」です。
  夏の課外学習「赤目渓流教室」の最初期のパンフレットです。

  ・・・できうる限り自然に触れさせたいというのが僕の持論で、先日も高校時代の仲間たちと、必死になって勉強している今の子どもたちに比べ、僕たちがそれほど勉強したわけではないのにどうして結構勉強ができたのかという話になりました。
  僕はそこでこういう話をしました。

  たとえば、田舎で「切り通し」を通れば「地層」が分かる。夜になってネオンのない澄み切った空を眺めれば星と月が教えてくれる。雑木林や山に分け入れば、陽樹・陰樹の区別や植生が分かる。虫を捕まえれば、昆虫の構造や生態が分かる。川に入れば肌に直接触れる石や砂で川が変化していくのが分かる。田舎で車窓や山の上から景色を見れば、地形の変化が分かる。真夏だというのに、谷沿いのこの涼しさは何なのだ。カエルがハエを食べ、そのカエルが蛇に食べられることなんか日常茶飯事だ。
 自然を感じることができれば、もうすべてが学習なのだ、あとは本で総合できるさ、すべてつじつまがあってくる・・・という話です。「アンテナ」をきちんと立てれば、子どもたちは「道を歩くことでさえ、勉強になる」わけです・・・。
 自ら積み重ねた経験からの確信でした。

「子どもらしさ」が飛躍のスプリングボード
  自然に接する機会が減り、おざなりの自然体験や「肝試し」を中心とする(!)林間学習や臨海学習でお茶を濁されている子どもたち。 「遊び」が分からない子、「遊び」の本当のおもしろさが分からない子に、その遊び相手である「人間」や「自然」のことを学習する「勉強」が面白くなるはずがありません。
 自然の「おもしろさ」、その「大切さ」を実感することなく、自然環境の保護やその意味が心底分かるのか。川沿いで蛍が描く「光の名画」に感激したことがない子が、蛍のいない川や水路に疑問を抱くことができるのか。蛍の復活に確かな意味と手応えを見いだすことができるのか。

 かつてのような子どもらしい「遊び」や「遊び方」を知らない現代の子どもたちの感性に、日々の授業や課外学習、そして「遊び」を通じてコンタクトすること、元々子どもが持っているはずの「好奇心」という「アンテナ」の機能を高めること。本来の子どもらしい活動や生活から、素直で柔軟なものの見方、バランス感覚を忘れず正しい考え方を身につけてほしい。自然に浸りながら地に足のついた学力を身につけてほしい。
 難関中学に入るには、素直で子どもらしい感覚の持ち主であること、そしてきちんとしつけをされている子であれば十分可能です。年末の特訓「缶詰!」などに見られる「詰め込み」や、受験の知識だけに「特化した」受験指導は一時しのぎで、心身ともの健やかな成育に「寄与する」ものでは決してありません。

  可能性と将来性あふれる子どもたち。彼らのこれからの生き方や人生で、そのバックボーンになるのは、今まで横行していた学習指導のように、「自然を抽象でとらえる」規格化した見方や「勉強の缶詰」ではなく、「遊びの対象として自然を選べる」余裕、想像力、そして実行力です。さらに、私たちを育んでくれるゆりかごとして、自然に対しても、優しい目を注ぐことができる感性だと思います。。
 「地球が遊び場であった」かつての子どもたちとは違って、子どもたちの多くは「道ばたの花に目をくれる」ことさえしません。できなくなっています。偏った志向の感性ではなく、本来なら子どもが知っておかなくてはならない「身の回りのもの」に、もっと「アンテナ」を向けることができたら、今とは全く違った子ども時代を過ごせるはずです。たいせつな情報を自らバランスよく吸収できるはずです。本当の「勉強」がわかるはずです
  ふだん、ぼくたちは教科書や本などから「知識」を得、「学び」が進んでいくと考えていますが、実際はそれとは比較にならないくらい膨大な情報が日々の生活の中でも飛び交っています。そうした情報については、おなじ情報量の中にいても、それぞれ個人が身につけている五感の「アンテナ」の数や感性の違いで獲得量が大きく異なってきます。
 これは情報の入手経路を少し考えてみればよく分かります。
  混んだ車両の中、近くで誰かが「サッカー」や「野球」の話をしていても、「サッカー」や「野球」に全く興味のない人や知らない人は、いつの間にか、それらの会話は耳にとまらなくなるはずです。聞こうとしません。したがって聞こえません。このように知らないものや興味のないものについての知識や情報は増えてきません。
 逆に、興味がある話やよく知っている話だと、スムーズに次々と蓄積されていきます。

 たとえば、「田植え」や「稲刈り」を知らない人は「田植え」や「稲刈り」に関係する膨大な情報は入ってきません。すべてとは言わないまでも、それらの中には「学習」にかかわる大切な情報もたくさんあるはずです。学習のみに限らず、ぼくたちが「生きること」は、「見ること」「感じること」「考えること」とともにあり、単に「道を歩いていくこと」だけでも日々「学び」は深くなるはずです
 感性の「アンテナ」がきちんと立って、認識のスキーマが育っていけば、次から次へと新しい情報が入ってきます。そして、そうした自然に入ってくる「偏りのない」情報の数々がシステム化されていくことで、「発想の転換」や「応用すること」「創造すること」等の学びの進化が生まれます
  学習探偵団のコピー 「国語を昆虫採集してみないか」には、室内での文字だけによる「狭い」情報取得ではなく、自然に「浸る」課外活動や作業で育っていく「バランス感覚」をともなった感性と様々な方位に大きく広がった「アンテナ」で、「ことばの森」からあらゆる種類の「情報」を採集してほしいという願いがあります
 俳句や短歌、詩などのイメージを考えてみても、「外の世界」にふれているかどうかで感動や理解の深さは全く違います。「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣ほしたり 天香具山」に込められている雰囲気やイメージは、「田植え」の時期とも重なり、作業とともに団員諸君の「身体」に入っていきます。実は、「豊かな里山の森」は「豊かなことばの森」でもあるのです。

  また、もうひとつのコピー「算数も手づかみできるんだよ」。
 算数は、ふつうに考えれば、おそらく「動き」から最も遠い科目かもしれませんが、外遊びの活発な動作や「身のこなし」は、「立体視」にも大きく役に立ちます。「くぐる」「こえる」「のぼる」などの腕白遊びで経験する視点が、算数の立体図形のイメージに役に立たないはずがありません。
 虫や魚を追いかけて大きくのばした「網の軌跡」が回転図形の参考にならないはずがありません。もちろん、理科の「遠心力」の理解も伴います。
 空中でホバリングしたり、急にスピードを速めたりするオニヤンマは「速さの問題」、 「鶴亀算」の鶴や亀は、鶴が「ゴイサギ」に変わることがあっても実際に彼らの頭の中で檻を出たり入ったりしながら解き方を教えてくれるのです。抽象性の高い算数も、「手づかみ」でわかることがいっぱいあります
 様々な活動や実際の動きの中から「算数」の実感を身につけてほしいという願い、「手づかみできる算数」です。課外での活動が、理科・社会にしめる役割は、もはや「言わずもがな」です。
 なお、To teachers all over the worldはアイデア擁護のため休載します。後日新しく掲載します。


発想の転換が可能性を開く31

2018年09月22日 | 学ぶ

なぜ米作りをはじめたか?
 近年、自然体験で、田植えや稲刈りなどの米づくりをする機会も増えたようです。しかし、その際「おもしろい遊び」以上の大切な意味をもたせている人はどれだけいるでしょうか?
  団を始めた頃、子どもたちのようすを見て、自らの小さいときに比べて欠けているものや変わってしまったものがたくさんあることに気づきました。なかでも、「がまんをする」・「時間をかける」・「土にふれる」・「ものをつくる」等の実体験がほとんどなくなってしまっているように感じたのです。

  たとえば、食事ひとつとってみても外食や出来合いのものですましてしまうことが多く、遊びに行くのは遊園地やテーマパーク。そこで手作りのお弁当を広げている家族は、最近ほとんど見たことがありません。
 「子どもが喜ばない」という返事が返ってきそうです。自分が『楽をしたい』『面倒だ』という本心が隠れていることに気づいているでしょうか。それによって、子どもたちが、取り組んでいる勉強に対して『楽をしたい』『面倒だ』と、自分と同じ感想をもつようになってしまうのが、子育てや教育での『怖いところ』です。そうした背景の中で、子どもたちをどう育てるのか、というのがまずたいせつなテーマでした。

 一緒にお弁当を作れば、子どもたちも喜びます。お母さんが「お弁当作り」をおもしろがれば、楽しいお弁当ができるはずです。「作ること」も覚えます。面倒なことでも世の中にはしなければならないことがあるということも身をもってわかるはずです。
 できない理由はいくらでも見つかります。自分が「できない理由」を挙げてスルーしているのに、子どもには『宿題をやりなさい』『勉強ができるようになりなさい』といっても、筋が通りません。心の底から子どもを納得させることはできません。
 「いい加減にすます時間」も「楽しく喜んでもらえるようなお弁当をつくる時間」も、どちらもお母さんの「生命を削っている」同じ時間です。ぼくが子どもたちに寿命や命の限りのことを伝えるのは、それらを頭の隅に置かないと、「ほんとうに大切なもの」が見えてこないからです。
 こう振り返ったとき、「自分の生命の時間」をどう使おうと思いますか。どういうふうにするのがよいと感じますか。老若男女を限らず、手間をかけず、がまんをせず、みんな、性急に結果ばかりをほしがるようにはなっていませんか。

 「土にふれること」を汚いとか、気持ち悪いとか思っているにもかかわらず、誰がどこを歩いてきたのかも分からない靴で踏まれた電車の床にべったり座って何も感じないこどもたち。それを注意しない保護者。どこかおかしい。こうした子どもたちの意識を変え、正しいことを教えていくにはどうすればいいのだろう。すぐ頭に飛び込んできたのが「田んぼ」での米作りです。
 青々とした稲の葉先に光る水滴のきらめき、側の小川から飛び立つ蛍が夏の訪れを告げ、やがて夕日を浴びて黄金色に育った稲穂が風に吹かれる様子で、自然の移り変わりのすばらしさと豊かな実りを、ぼくは本当に肌で感じることができました。
 農家ではなかったので自ら作業はしなかったものの、身近で見ていて米作りにかけなければならない手間と時間のたいせつさがよくわかりました。子どもたちにまず教えたいことでした。
 場所はどこがいいのか。大阪から遠くなく十分田舎が残っているところ、地の利があるところ、少し融通が利くところ。飛鳥でした。明日香村の高校時代の友人に話し、休耕地を借り、手伝ってくれる人の紹介をうけ、団の米作りは始まりました。

米作りで学ぶもの
 お百姓さん(この言葉の方が仕事の重みや親しみ、歴史が感じられるので、今後この言葉を使います)の言葉です。
 「二十年間百姓やって、米を毎年作っても高々二十回。ほとんどの農作物は一年かけて やっと結果が出る。最初は試行錯誤で、四・五年したら少し工夫ができるようになるが、それでも毎年、温度・雨・風・湿度・日照・害虫と、同じことは一つもない。その都度収穫量が変わり、人間の力の及ばない自然の力がわかる」。
 「二十年やっても高々二十回」。このことばの重みはどうでしょう。人間の力の及ばない力に気づいたとき、感謝や尊敬の念が浮かびます。こうした経験が「結果を出すためには時間をかけなければならない」という、日ごろは忘れている「たいせつなこと」を教えてくれます。同時に「人間は学ばなければならない存在だということ」も分かってきます


 百姓仕事の『時間』は学校や会社、街の時間とはまったくちがうものだ。田んぼや稲の手入れ、農作業は何時から何時と決まっているわけではなく、予測はついてもイレギュラーなことがある方がふつうで、終了は「作業が終わるとき」だ。計画していても、雨が降ればできない。刈ることはできても、刈った後の次の作業も天候に左右される・・・」。 
 「人間の都合ではなく、自然の状態によって必要な仕事や時間が決められる。できるときに必ずしておかなければならない。『後で』とはいかない。自分のペースだけで進められない」。
 この「時間の感覚」は、決して「なるに任せる」ではありません。「自分ができること」「最大限の努力」をしてあとは「天に任せる」。人はそれ以上のことができるでしょうか。

 そうした努力を日々重ねている人は「街」にどれだけいるでしょう。「子どもでも分かることが分からなくなっている大人」がどれだけ多いことか。 子どもたちは、こうした会話を聴いて育っていきました。
  米作りの一連の作業をすべてやりたいのですが、授業や課外学習も一人で進めているため、なかなかそういうわけにはいきません。「田植え」や「稲刈り」程度では、子どもたちがこだわるほどの問いは生まれないし、教科や科学に通じるまでの学びは生まれにくいという主張をどこかで読んだ記憶があります。
 しかし、教室での問いかけをふくめた総合的な展開で補い、「学び」を深化させていくことは十分可能です。まず「環覚」を育てることが何よりもたいせつです。

 「環覚」を育てるにはお百姓さんの知識も大きな役割を果たします。お百姓さんたちは、みなさんたいてい博識で知識も深く、様々な分野に精通しています。農業だけではなく、田舎で生きる、作物を作るという実践を通した「生きている」知識と知恵です。
 「生きている」というのは「使える」だけではなく、深く「『自らの生命の時間』と結びついた」という意味です。稲作に限らず、農作業はほとんど一回性であり、おざなりや手抜きをすれば取り返しのつかない結果を招きます。「生きていくこと」に、即関わります
 「あの山に雲がかかると雨になる」とか「こちらから風が吹いてきたから、もうすぐ雨がやむ」など地域独特の判断はいうまでもなく、みんな「良い天気の前兆」くらいにしか思ってない「夕焼け」も、お百姓さんの間では全く異なる解釈があります。
 「秋の夕焼けは鎌研いで待て。夏の夕焼けは川渡って待て」。
 秋は移動性の高気圧で、西の空が夕焼けなら次の日は晴れるが、夏の夕焼けは大気中に水蒸気がふえると出やすく、雨になりやすい。秋に夕焼けがあったら稲刈りの準備をしなさい、夏に夕焼けがあったら雨で水かさが増えるから川を渡ったら危ない・・・。

  また、農薬を減らしたお百姓さんの田んぼはそれほど発生しないのに、農薬を使いすぎると稲の害虫であるウンカが秋に大発生するという例もあります。ウンカより益虫の方が大きくダメージを受けるのでウンカが増えるということ。また農薬を散布する回数を増やすと、ウンカが農薬に抵抗力をもって進化してしまうことが大きな原因です。
 よく考えもせず農薬という「文明の利器」を対症療法として使うと、大きな失敗をしてしまいます。こうした話で人間の活動が生態系に与える影響の一端もよく分かります。ゴキブリが出たらスリッパ、何とかホイホイ、何とかジエットという経験だけで、この関連はなかなかつかめません。

  「魚付き林」ということばもあります。川の上流の森から流れ出す水が海藻を守り、魚や貝を育てる様々なプランクトンを養います。同じように「山付きの田んぼ」ということばがあります。山から流れてくる小川を通じて「山の養分」をもらえる田です。
 山の養分を流し込んだ小川はやがて大きな川に注ぎ、海につながります。また、養分の豊富な水を供給する山は、当然豊かに水を蓄える山でもあります。総面積が琵琶湖の数十倍ともいわれている田んぼも、急流が多く、すぐ海に流れ込む川の水を絶やさないために大いに役立っています。こうした知識にふれたとき、子どもたちは山・田・川・海のつながりをより深く理解します。
 海と山付きの田んぼを行き来するウナギがかつてはたくさんいました。海に戻るウナギにも思いを馳せると、知識は次第に立体的・総合的に再構成され、子どもたちの頭の中に「知の枠組み」が形作られていきます。成り立ちとしくみを総合的に理解することは、さらなる知的成長を促す強力なスプリングボードになります。

子どもたちは身体から学ぶ
  「米作り」は当たり前のことですが身体を使う作業です。 初夏の暑い日差しが照り続ける中で腰をかがめて何時間も行う「田植え」の作業は決して楽ではありません。特に小さい子にとっては初めての体験で、最初は面白いのですが、丁寧に植えなければならないという制約と「結果の見えない」作業の過酷さで弱音を吐く子も出てきます。しかし、その「過酷さがあってこそ秋の新米のおいしさが際だつ」ので、そこはがまんさせなければなりません。
 実は、はじめは二~三年生より四~五年生の方が要領よくさぼったり、さらに手抜きをする例が多く見られます。「米作り」は「遊び」ではないので厳しく注意します。お百姓さんの真剣な思いからくるアドバイスや叱声も、きちんと子どもたちに伝わります。「生きること」がこもっているからです。

  「米作り」は社会や理科を学ぶための付録ではありません。「生きていくために必要なものを作る」作業です。かけがえのない作業がかけがえのない知識と「学び」を育みます
 たとえば、田植えの苗を育てる際に種籾を選別するのを塩水で選ぶという経験は、「浮力」や「比重」の実験です。農作業で使う鍬一つとっても、実際使うことによって、「ふつうの鍬」より「三つ叉(備中鍬)」が、いかに掘る作業がしやすいかが実感できます。
 教科書や塾での学習で「備中鍬」の知識は持っていたとしても、それ自身では単に記憶の材料であり、受験知識に過ぎません。しかし、備中鍬の使いやすさを肌で感じたとき、人の歴史が成し遂げた「工夫」や「創造」の大きさと力が分かり、農具や稲作りの歴史にも興味が向かいます。

 経験は、米作りのみにとどまらず、やがて「生きていくこと」における「工夫」や「創造」することのたいせつさとして一般化され、積み重ねられていくはずです。実体験は「身体で分かる」体験です。
 『本で学んだ米作り』は「知っていること」ですが、『身体を使った米作り』は「分かっていること」です。「自信」と「次の学び」につながります。はじめて自転車に乗れたとき、ぼくたちはすこし遠出をしたくなったのではないでしょうか
  「リモートコントロール」一つとってみても、現在は、ものやものごとの成り立ちやしくみが見えにくい時代です。「見えない」生活が当たり前のようになっています。あらゆることに「自分が関わっているという実感」が希薄になり、感動や感激も少なくなっています。
  「わかる」世界は、出来事に浸り、直に関係することによって、「実感とともに」展開していきます。「はたらきかけ」や「作業」を通じての「学び」は、予測や予想の枠を超え、新たな展開や出会いをもたらしながら、自らの方法への問いかけや、次のはたらきかけの意欲としても生まれ変わります

  わかりやすくお話しすれば、 たとえば、慣れない子どもたちが網をもって魚やトンボを捕ろうと構えても、彼等はその都度予想外の動きをします。捕まえようとすれば、そのたびに子どもたちは自らの考えや動作をモニターし、修正しなければなりません。子どもたちは根気よくそれを繰り返していきます。はじめはおそるおそる見ていた子もほとんどがそうなります。
 彼等の頭の中では自らの姿が客観的にイメージされて、「第三者的に」見ることができるようになっていきます。『メタ認知』の発達です。課題を解決しようとする自分やその方法を絶えず振り返る自分が生まれるわけです
 そうした視点が人としての成長を促します。実体験による探求や試行錯誤、そして解答を見つけようという努力は、「自分が自分であること」の実感をもたらし、「学ぶ喜び」として結実します
  言葉だけの実感の希薄な「学び」ではつかみにくい手応えも「生きている現実」と向き合うことで確かなものになります。作業の途中での思わぬハプニングが新たな転回を呼び、工夫や新しい発想が生まれます。そうした経験が、子どもたちの「生きる力」を育んでいくのではないでしょうか、さらに、その「生きる力」が「生涯続く学びへの意識」を呼び起こすと考えるのは楽観的すぎるでしょうか。

「目的」のある作業で覚える義務と責任
  米作りの作業ではもう一つの大切なことが身をもってわかります。
  田植えや稲刈りなどを手作業でするわけですから一人ではできません。手伝いのお父さんやお母さんも含め、子どもたちとの共同作業になります。
 たとえば、田植えでは間隔を揃えて植えないと稲の育ち方や、後の作業に影響があるのできちんと並んで植えなければなりません。田んぼの広さと作業の一つ一つを考えた場合、それぞれ一人一人の責任が実感できます。
  中には飽きてしまって、何とかうまく逃れようとする児もいますが、今の作業は、秋にみんながおいしいお米を食べるための作業です。自らもその仲間にはいるのであれば、そこには当然義務と責任が発生します。目的のある集団が共同作業をすることによって一体感や、自らの役割が自覚できます。社会生活をしていく上での大切な前提条件です。

  しかし、最近の若いお父さんやお母さんは、子どもでもわかる自覚がない人が大変多くなっているような気がします。団員の弟や妹を連れて参加される人の中には、みんなが熱心に作業をしている横で、子どもたちを勝手に遊ばせ、自らは「遠足気分」で、連れ立ってきた人とぺちゃくちゃおしゃべりしている人も見られました。遊んでいる子どもたちに注意をしても知らんぷりです。
 団で育ってきた子どもたちは相手が大人ですから、口に出してこそ注意はしませんが、友だち同士で不服そうに目配せしています。彼等の方がみんなで何かするときのルールや役割をわきまえてくれています。子どもに何かを要求したり、子どもを育てるための条件が整っているといえるでしょうか。

  自らの権利を主張することはもちろん大切ですが、社会では義務と責任とのバランスがとれていなければなりません。「マスコミの報道をはじめとし、今は飛び交っている情報が、視聴者や一般受け狙い、営業向けの『権利の主張』の方に偏りすぎていることが多い」と考える人は少なくなってしまいました
 権利と義務と責任のバランスが根付いていない社会が、どんどん凶悪な犯罪の温床を助長するという想像力がはたらく日本と日本人は消え失せてしまったのでしょうか? 諸外国より日本の犯罪が極端に少なく、安全がはかられているのは、そういう国民性が根付いているからだと、ぼくは考えます。権利の主張しか知らない人が子どもを育てたれば、恐ろしい世の中が待つことになります。権利と義務と責任のバランスがとれて初めて、みんなの幸福が成立するという原則を、子どもたちに、いつ、誰が教えるべきでしょう。『米づくり』一つ、『田植え』『稲刈り』という毎年の作業で、ぼくたちは子どもたちにこうした、抽象に終わらない指導を行うことができます
To teachers all over the worldは休載します。


発想の転換が可能性を開く30

2018年09月15日 | 学ぶ

天才の卵、殻を破ったのは何か?
 天才の卵、殻を破ったのは何か? 
 歴史に残る驚異的な発明や発見をした偉人たちの成長のようすを辿ると、まず「自然や周囲のもの」に対する驚きや興味から始まったことがあきらかです。『もの』がきっかけになっています。それらについて大きな興味を抱いてから、彼らの思考が始まっているわけです
 ファーブルの自然の諸相や虫、エジソンの周囲の自然に対する興味、ファインマンがお父さんと続けた森の中や日常生活でのさまざまな体験と考察、アインシュタインが5歳の時にもらった方位磁針に対する興味と執着など、天才のきっかけはすべて「もの」からです

 ものを見ること、それを考えはじめることで、知識欲や強い学習モチベーションが生まれました。ガリレイの教会のステンドグラス、ニュートンの光やリンゴはもちろん、アインシュタインの相対性理論も、大きくなっても持ち続けている、そうした自然や周囲に対しての観察や興味がもたらしたものです。つまり、きっかけは「周囲や自然に対して感じた興味やおもしろさ」です。文字ではありません。まず「もの」です

 課外学習の野外で、自然のなかで遊びはじめる子どもたちの目はみるみる輝きを増していきます。気持ちが高揚してきていることがよくわかります。「野外」が好きなのです。
 うちの子はゲームが好き? ゲームばかりしている? それは小さいころから、自然のおもしろさに気づかないまま「育って(育てて)しまったから」です。お父さん・お母さんが自然の楽しさを知らないで育ったからです。ただのキャンプやバーベキューは別です。自然体験ではありません。

 里山・森・渓谷。雲と風と緑。木々や草花のかおり・鳥の鳴き声・木漏れ日・・・。野外での指導では、あらゆるものが生きて動いている中で、同じく「生きている子どもたち」の感覚器官も鋭く立ちあがってきます。高揚感で、動作も機敏になります
 エアコン・人工照明・ゲーム・テレビという、人工的な環境とはまったく異質の開放感・空気感。「光と生命に満ちあふれた世界」がそこにはあります。生まれつき備わっている、子どもたちの感覚や進化の過程で身につけた「学習(本能)」が刺激されるのでしょう。

 生きるために「学習(行動)」を積み重ねてきたからです。生きることを学び、食べ物を手に入れる喜びを味わってきた祖先の遠い記憶が、自然との交流で蘇ってくるのかもしれません。進化の歴史のなかで、生きていくための手がかりを求めるべく情報を入手するため、膨大な時間と経験を経て育てられしくみを整えてきた感覚器官が、その成果を発揮するため、はりきって活動を始めるのでしょう

生きることが学習
 そうしたすべての感覚器官が立ちあがった中で、団の自然体験や野外活動は始まります。視覚・聴覚・触覚・嗅覚、作ること、育てること、時には自ら捕まえた魚や蟹、山菜や野生の果物の味覚まで、あらゆる感覚へのコンタクトと刺激をともないながら進んでいきます。

 かけがえのない時期である子どもたちの成長過程では、とんでもなく重要なことなのに、見逃されているものが、よくあります。たとえば、「認識のスキーマ」のしくみです。
 ぼくたちが新しい情報を認識するとき、それまでの自らのスキーマの枠組みが、その土台になります。それによって情報取得が行われるわけです。その「認識スキーマは入手した情報によって日々変化し、その取り入れられる情報量が変化」します。
 つまり新しく獲得した情報や情報量によって、次の取得情報の質や量が大きく変わってくるわけです。「教室だけでの学習体験」と「野外の体験やそれらの経験知も含めた学習体験」では、その連続によって如何に大きな差が生まれるか、ということです。とんでもない差になっていきます。

 ごくかんたんにモデル化すると、生まれたときは同じように①からはじまっても、その①という認識スキーマが、それぞれの体験知の量の差により、たとえば「10の情報しか受け入れられないスキーマ」と「100の情報が受け入れられるスキーマ」に変わります。情報はすべて単独ではありません。関連がともないます。それが累乗でくり返されます
 次回も同じような体験知の量で考えると、二回目には、それぞれ10×10で100と100×100で10000の情報が受け入れられるスキーマに変わります。その次には千と一億という差になります。それらの情報を、脳は意識の上ではわからなくても日々処理していきますから、やがて築きあげられる脳の相違は、もはや比較になりません
 自然体験や野外体験という、実体験は子どもたちにとって、このように大きな意味をもってくるということに、ぼくたちはもっと注意を払わなければなりません。「学習」は「教室」にあらず、『日々生きることも、即学習』なのです
 さらに、多くの感覚器官で受けとる情報ほど深く心と記憶に残ります。刻々と入る全身の感覚器官からの情報を受けとることで、日常生活での感覚器官のはたらき方も大きく変わってくるでしょう。

 ファインマンはお父さんからさまざまな問いかけやレクチャーを受け、自然の成り立ちやしくみのおもしろさに気づいたことで、天才としての成長がはじまりました。エジソンを天才に導いたのも、残念ながら学校やエングル先生ではなく、小さいころの、周囲の自然の不思議さとそれを解明していくおもしろさでした。
 どちらも、「自然体験」の新鮮な感覚と観察と思考に触発されたことが、彼らの「学ぶおもしろさ」や天才を目覚めさせたことは明らかです。偉人は二人だけではありません。

 類似の豊富な自然体験によって数々の天才が生まれました・・・ガリレオ・ニュートン・ファーブル・マクスウェル・アインシュタイン・・・と、自然の不思議さに気づくこと、そのなりたちとしくみを究めるおもしろさが彼らの偉業の大きなきっかけになりました。
 ニュートンは再婚して母と離れたさびしさを自然の動植物や月や太陽の光の移動をじっくり観察することによって、その不思議さと驚きや疑問から学問を進めるたいせつさに目覚めたようです。ファーブルの伝記からも、彼が最初から虫だけに興味をもっていたのではなく、近くの小川で、貧しい家計の足しになるとの思いから、金のように光る雲母やダイヤモンドのようにかがやく石英をいっぱい集めたほほえましい経験、魚や小鳥・キノコ・・・と、あらゆる自然のものを相手に遊び、観察を進め、育っていったことがわかります。

 “No Ordinary Genius”にファインマンの妹で物理学者のジョーン・ファインマンの回想があります。「IQはふつうだったのよ。こどものころ、こっそりファイルでわたしたちのIQを調べたの。私が124で彼は123。だから本当は私の方が頭がよいってことになるわ!(拙訳)」。
 IQがふつうだったファインマンが稀有な天才を発揮するようになったのには理由があるはずです。天才がひとりでに育つわけではありません。ひとりで放っておいても天才ができるなら、無数の天才が生まれたはずです。誰かが必ず関わっています
 逆に言えば、「あいつは元々頭がよいから」という言いぐさは「片面の真理」でしかありません。本人の「手抜き願望」でしかありません。イチロー選手を見ればわかるように、「人知れぬ壮絶な努力と勤勉さ」が考慮に入れられていません。
 よく「卵が先かニワトリが先か」といわれますが、ニワトリを天才におきかえれば、そんなことはどちらでも良いことで、どちらにしろ、生まれなければなりません。

 「天才の卵」も殻を破るには、『そっ啄』、手伝う相手が必要です。殻を破る大きな手助けになったのは自然体験・自然の中での遊びと、それから生まれた「学ぶおもしろさ」ではないでしょうか。少なくとも、天才になってから自然体験がはじまったわけではありません
 また、ふつうのIQの子どもたちも、ファインマンには叶わぬまでも、みんな大きな可能性を秘めていると考えることができます。ファインマンの才能はなぜ開花したのか、その可能性を開花させるにはどうすればよいのか? その指導法と方法論の解明と実践をぼくたちは求められています。
 それでは外国の方に読んでいただきたい「夢の教科書を求めて」のつづきです。
  
To teachers all over the world10

What do children want to learn?
 Simply, children would like first to learn about things in their world, but almost all children don’t want to learn about the unknown, because they can’t relate to them how to concern themselves with those things. They are not good at imagining things unseen and unknown.
 What do they want to learn about? I will explain later, but generally, the mechanisms and makeup as well as how things work. They first want to know about things around themselves and things that they live together with themselves. They also want to learn more on how to use things to live. They want to know them just like Edison did at one time.
 The things, Thomas Edison said about things little known, I guess, were the rules and ways of arithmetic, the laws of grammar, and operations of data that he had never seen. Those are the textbooks learning but are different from the things that he had experienced. For examples that he felt wonder about, and wanted to do the experiments and plays about nature, the turning colors of the sky and the reason for that, hatching of geese in his house, and so forth. When he was obliged to study the abstract learning matters at school, he may have felt like he was unwillingly moved from easy home and exiled to school.
  The pupil that had naturally been curious and talented, would want to very much find out questions and wonders that they found in their surroundings, but learning matters at school. It is natural that they don’t like school learning to do nothing but training of calculation and doings of abstraction that they don’t want to know so much.
 First, I thought that this tendency not to like school learning, as I said about Edison, was characteristic of the children who were curious, earnest, and gifted. But I was thinking about these problems while teaching for over twenty years, and I supposed that my thought wasn’t accurate. I was convinced over time that almost all children, were naturally born with such similar tendencies. I say the reason.


発想の転換が可能性を開く29

2018年09月08日 | 学ぶ

 開塾当時寺子屋という命名から、江戸時代の寺子屋で行われた『素読』について、参考リーフレットを作成したことがありました。明治維新の偉人たちを輩出したときの指導法なので紹介しようと思ったのです。再録します。

 
「素読」が英才を育てる
 「素読」という言葉をご存知でしょうか。
 江戸時代の寺子屋などで、今で言う小学校低学年ぐらいからの子どもたちが「漢籍」(「論語」などの難しい漢語や変体仮名だけの書物)の「読み方」だけを習い、声に出して『正確に』何度も何度も読み続けることをいいます。
 ちなみに、寺子屋の授業時間は一日7~8時間!にもなったようです。「たくさん勉強している」のは今の子どもたちだけではないわけです(「学びの復権」辻本雅史著 角川書店より)。
 「素読」とは「馬鹿の一つ覚え」じゃないですが、最初は意味もわからず、ただ「正確さ」に気をつけ、ひたすら読み続けるだけです
 こうした学習が,子どもたちにとって決して面白いものでなかった(!)であろうことはご想像いただけると思います。何事においても、いつの時代でも、「何か」を身につけるまでには、必ずこうした面白くない「スキルトレーニング」の時期を経なければなりません

しかし、正確さに注意し音読を繰りかえす「素読」で、「文章を正しく読む力」や「集中力」が向上し、さらに「優れた古典」を読みつづけることで「感性」が養われ、「論理的な力」も自然に身についていったことは否定できません
 最近までもて囃されていたにもかかわらず、あまり効果がなかった「『考える力』や『創造性』をはぐくむ教育」などが特別におこなわれたわけではないのに、明治維新であれだけの「創造的な活躍」をした人たちは、このように「徹底した素読」で育ったわけです。
 「素読」によって脳を活性化しつつ,同時に集中力をはじめとする「さまざまな能力」を身につけていったのだと思われます。近いところでは,戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は三人兄弟ですが、兄弟三人とも小さい頃は「素読」で育てられたようです。湯川博士はもちろん、小川環樹・貝塚茂樹という二人の弟も専門分野は異なりますが京大教授で、それぞれの分野で「日本の知性」を代表する有名な学者でした。

 このように復唱を繰り返す例は日本だけではなく、ユダヤ式教育でもおなじで、幼い頃意味がわかってもわからなくてもユダヤ教典を徹底的に暗唱させられるようです。ユダヤ人にはチャップリンをはじめ優れた芸術家や学者が多く、人種的にみればノーベル賞受賞者も群を抜いています(ちなみにアルバート・アインシュタインもユダヤ系ドイツ人です)。
 こうしたことを考えてみれば、実験結果はありませんが、「素読の効用」はハッキリしているのではないでしょうか。「素読」を応用して,ルビを振ってある「漢字の多い定評ある文章」や古典(漢文読み下し文)を、声を出してどんどん読み続ける習慣がすばらしい効果を与えることはまちがいありません。声を出さないまでも、日々読んでいくことで、漢字の使い方やことばの使い方・リズム・文の書き方が自然に身についただろうことが想像できます。
 子どもたちに限らず、お母さんお父さん方も恥ずかしがらず、毎日10分間ぐらい『音読』の時間をもたれてはいかがでしょう。脳科学者の川島教授の調査では、認知症の予防や頭のはたらきを回復する効果もあるようです。

「漢字と、書くこと」を得意にするには
 一般庶民の間では「寺子屋」という呼び名より,「手習い塾」という呼び名がふつうだった(寺子屋という呼び名は主に関西)ようですが、その名のとおり、子どもたちは毎日師匠から渡された手本を机において、ひたすらそれを「書き写すこと―手習い」も繰り返していました。
 師匠は手本を与えるときに、手本に書いてある文字の「読み」と「意味」も同時に教え、子どもたちはその「意味」を頭におき、あるいはその「読み」を口に唱えながら手本を習い、稽古をしました。したがって「手習い」を繰り返す中で、その文字の「読み」と「意味」もおのずから覚えることができたわけです。

 学生時代を振り返って考えていただくとお分かりのように、習字(手習い)は一画一画自分の「書きよう」と「手本」を丁寧に比べていき、微妙な違いを自らできちんと見直す作業が続きます。日々これを繰り返すことによって漢字を正確に覚えることはもちろん、「集中力の鍛錬」にもなっていたことは容易に想像できます
 また、こうした素読と手習いの繰りかえしを重ねることで「自分のまちがいの傾向を見つけることができた(メタ認知が発達した)」ことも想像に難くありません。さらに、「書き写す」という行為は「表現する(アウトプットする)」という行為に向かう「ちょっとしたきっかけ」にもなったのではないでしょうか。

 団では漢字を書く場合、毎時間「くどいほど」一画一画の丁寧さを強調します。これは字をきれいに書くという意味もありますが、雑に書いていてはなかなか覚えられない漢字も、集中することによって書く回数も少なく早く覚えられるからです。このとき声に出して読みながら書くと、さらによく覚えられます。「たくさんの感覚器官を使うほうが脳の多くの部分を刺激するから」です
 また、団の宿題では「漢字を文とともに筆写する教材」を使っています。これは、先ほどの『思い出す』しくみを考えると,ひとつの漢字にともなう関連付けや連絡網が多いほど,思い出すとき「検索に引っかかりやすい(思い出しやすい)」からです。また,筆写する経験が増えていくに連れて、記述式の問題など、「書くこと」に対して違和感がなくなっているのがよくわかるからです。
 「書くこと」についてもう少しお話しすると、「書けない」と「固まってしまっていては」永遠に書けません。団では記述式の問題などで、よく冗談半分に「書けなければアイウエオとでもいいから書け」といいますが、とにかく自由作文などでも「『書けない』とでも書く」ことからはじめることがたいせつです
 「文字に表す」ということです。「書けない」と書くことで『考えること』が始まります。「考え」を次の段階に進めるようになります。「書けないなぜ」が始まります。次はその『なぜ』を考え、書いてみることです
 ところで、なかなか文章を書けない人が、文の組み立てや文章の構成を学ぶのに手軽でよい方法は、「新聞のコラム」をそのまま書き写すことです

 小説家志望の人が「気に入った小説をそのまま書き写し書く練習をする」のをご存知の方もおいでかと存じますが、団では記述式が苦手な子や作文が書けない子には、「子どもが興味をもちそうな新聞の『コラム』をストックしておいて、そのまま書き写させること」を奨めています。
 それによって「文の組み立て方」が身につき、ことばや漢字の使い方がわかります。もちろん、コラムだけに限らず、何か手ごろな本の一節を手本にされても結構です。国語の力も大きく伸びます。
 さて、この江戸時代の「手習い塾」の手本は最初「いろは」から始まりますが、そのなかには50種類にも及ぶさまざまな場面での「手紙の書式」や離縁状・証文・契約書の類もふくまれていたようです。ふつう手習い塾は13~14歳までですから、小学校高学年になると,そうした大人向けのものまで書き写し、「世の中のことも」学んでいたことになります。そういう意味からいえば、今の子どもたちの「過保護振り」は一層明らかになってきます。

 今の多くのお父さんお母さん方は逆に、わが子を実際より二つ三つ幼く扱っているように思えてなりません。子どもたちをよく観察するとわかると思いますが、実際は想像以上にたくましくて(誤解しないでほしいのですが!)「したたか」です。最近のテレビなどマスコミ報道も必要以上に子ども(特に小学生)を幼く取り上げる嫌いがあるのではないでしょうか。
 少し話がそれましたが、漢字(熟語)というのは文のなかでの使われ方がわかって始めて意味をもちます。また「文の中での使われ方」を学ぶことによって「個々の漢字そのもののもっている意味」の類推が進み、当て字を書かなくなり、語彙が広がります。使い方がわかり思い出しやすくもあるわけです。「漢字を辞書で調べなければならない大きな理由」もそのあたりにあります。「意味を抑えながら文とともに書き写す」という「手習い塾」での学習方法は「漢字学習の理想」にかなっていたわけです。

 「ことばの意味をおさえる」という点から言えば、一般に「よくできる子の家庭」では、そうではない家庭より、語彙(使われていることば)の豊富さや意味の厳格さ・漢字の正確さに対するこだわりが見られます。やはり辞書を身近に置き、家族で調べる習慣がついているか否か、また家族でそれを活用する回数が子どもたちの学力にも大きな影響を与えるのでしょう。
 難易度に関わらず、格調の高い優れた文章をくりかえしくりかえし声に出して読むこと、漢字は辞書で意味を確認しながら、使われている文とともに丁寧に書き写すこと。また、できれば子どもの興味を引きそうな新聞のコラムを書き写してみること。国語の力を伸ばすには、小学校入学前後から年代順に、こうした取り組みをしてください。かなりの効果が期待できます。


 最後に、江戸時代の学者貝原益軒の考え方を紹介しておきます。(資料は「日本の名著」貝原益軒 中央公論社より)まずその前に、これを現代語訳した小児科医松田道雄の解説の一節です。
 
 とくに、「和俗童子訓」から学ぶべきことは、過保護の戒めである。益軒は、しばし富貴の家の子の教育の困難について語っている。当時の風紀の家のこの環境がこんにちは一般市民の家のなかにあらわれていることに気づかねばならない。
 「富貴の家に生まれた子どもは、幼時から世にもてはやされ、人からちやほやされ、万事裕福で気ままになり、世の栄華にばかりふけるくせがついてしまうので、畏れ慎む心がなく、おごりが日々に長じて、遊びごとを好み、人の諫めを嫌って憎む」。(前記書p45より)
  「いつのことか」と思う観察です。さらに問題なのは、江戸時代に富貴の子だけだった姿が、今はほとんどすべての子に蔓延して、しかも、周囲がそれに気づかないという事実です。(益軒の肖像は前記「日本の名著」貝原益軒より)
 
 

To teachers all over the world 9
今週から英文は新しいタイトルです。
To possess the superlative text book for small children
The Reward System for Learning
"Even if you might be familiar with the name of something, you really never know the true meaning of it.”
 I have insisted that we should bring up KANKAKU(環覚My own term in Japanese for the sense about things and their surroundings) for small children, and instill in them a concern and interest about the things around them. I will explain the reason once again.
  Most of what children learn at school about their surroundings are translated into learning matters. Previously as well as today, children at elementary school not only in Japan but in many other countries have to learn these matters by designated textbooks even in the earliest learning period.
 Although, small children don’t yet have enough experience in real things and their origin that have been changed into learning matters, they also have no foundation for a  kinship with them. I wonder what inspire them to learn and study things unseen and unknown to them.

 In the present state, and future, they must learn and are going to learn of things almost entirely of not to unknown to them, and not to know their relevance for their daily lives, for living of those things, and not to have a clear understanding of what to concern themselves with.
 Further, the children must take examinations to understand and remember those learning matters without knowing how to apply them and even what they are useful for. Even the very meanings of the examinations are very vague. They are rated by grade only to qualify for higher education or cram schools.

 Although, it is often said that children are poor at abstract learning before the ages of nine or ten, without much thought about these problems by most of the people in their surroundings. Children have been learning for this way over hundreds of years at a time when their abstract thinking is not fully developed.
 One of the honest reactions of small children for the abstract thinking, can be seen in  Edison’s rebellious action against Mr. Engle, as well as the representative action of children during  this period is what I call“Why and What Attack”. “NAZE・NANI KOUGEKI” in Japanese, their many questions for us about different things.


発想の転換が可能性を開く28

2018年09月01日 | 学ぶ

子どもたちは、知らないものを学んでいる
 これまで子どもたちの学習指導を進める前に、こどもたちの「環覚」を養うこと、「周囲(環境)のさまざまな対象に興味や関心をもてるように指導すること」を強調してきました。今のままだと、子どもたちは、エジソンの言葉にあった「見たこともないもの・知らないものばかり」を学ぶことになるからです。
 エジソンのいう、「見たこともないもの・知らないこと」は、前にも考えたように計算演習や書き取り演習などのくり返しや、教科書に出てくる抽象思考のエッセンスだと思いますが、幸運なことに、エジソンの場合はそういう「つまらないこと」ことを学ばなければならない一方で、理解のあるお母さんのもと、外遊びで自然の諸相を知り、既にそのおもしろさやそこにある不思議や謎を知っていました

 つまり「学習に対するモチベーション」は既に心の中に芽生えていました。野外で自然環境に触れ、そのおもしろさを知っていたことで後日、学ぶことに対する好奇心や研究したいという欲求が、彼の中で爆発しました
 現在の学習環境・受験環境にある子どもたちは、そういう経験のある子が居ますか? 一方的な抽象指導の押し付け以外の余裕やモチベーションはありません。しかし『環覚』を養えば、子どもたちの学習内容に対する興味や関心が大きく変わり、彼らの学習観・学習姿勢が激変する可能性があります。

 ダーウィンに「比類なき観察者」と呼ばれたファーブルのコメントがあります。
 
 「なんでそんな名を授かるほどのことがあるのかこの私には未だに理解できないのだ。自分のまわりにうようよしているものに興味を持つというのは、どうも極く当たり前のことではあるまいか。誰にもできることだし、それに面白くはあるのだから。」
 (「完訳ファーブル昆虫記」山田吉彦・林達夫訳 岩波文庫 第6巻 p43)
 
 下線部を読んで、「自分のまわりにうようよしているもの、そんなものに興味を持つやつがいるのか」というのが、たいていのおとなの感想でしょう? それは、虫に限らず、面白いものに気づく「環覚」が芽生えていないからです。おもしろさに気づかなかったからです。 これらはよく見たり、浸ったりしないと気づきません

 ファーブルには当然だった「誰にもできることだし、おもしろくあるもの」を、まったく知らないまま育ってしまった。目を向けることを教えてもらえなかった。だから、いつのまにか周囲が、「目を向けることもない『路傍の石』」ばかりになってしまったのです
 「環覚」を育てられなかった、育たなかった。好奇心の幅が狭い、好奇心の少ない、つまり考えることが少ない、情報量が少ない、さらに考えることが制限されてしまう。「環覚」が育たないと、そういう結果になることがあります
 このように学習行動が受験オンリーになれば、積極的な学習姿勢を望むことがむずかしくなります。受験以外の目標や目的が見えなくなるからです。

 現在は、環境の様相も大きく変わりました。自然物が人工物に変わり、その人工物はすべて『自己主張』が強くて、けばけばしく、うるさく、コマーシャリズムに先導されて、さまざまな欲望を刺激してやまない。周囲をゆっくり観察することなど、指導者や環境に恵まれた人たちにしかできない。環境のおもしろさがわかる以前の問題です。
 また学習指導は、実際にある学習対象物の受験に関係のあるエッセンスの伝達です。使っている教科書はそれら学習対象が現実に持っている不思議なところや興味深いところ・自然の色や形・日々の推移や変容など、興味を引き出す要素を全部削り取って裸にし、なお「試験に出る骨組み」だけをX写真にして残しているようなものです。

  「環覚を育てなければならない」理由は、今のままでは、「おもしろいものもおもしろさがわからないまま」勉強しなければならないからです。学習対象や学習内容に興味をもったり、おもしろさを感じる機会が生まれません
 環境に気づく目、「環覚」を育てれば、学習対象や学習内容と教科書記述内容とのあいだで実感をもとにした相互交流や自問自答がはかれる、学習していることに親近感が湧き、考えるきっかけや必要が生まれる。こういう習慣が、「学びつづける学体力」や「学んでいくモチベーション」を育てます

 こういう考え方を提示すると、やれ自然体験だ、それいけ野外へ、というような反応になりがちですが、一時的な取り組みであれば、何の意味もありません。自然環境を含む環境に対する『環覚』が、子どもたちの中に根を下ろし、日ごろの気づきに反映されなければ意味がありません。「自然に環境に目が留まる育て方」が望まれる方向です。
 
 教える側にも問題がある。理科の先生は、生命現象を物質的基礎に結びつける分析的、還元論的分野の生物学の知識は豊かにもっているようだが、周囲に生えている草木の名も知らないことが多い。(「学問の冒険」河合雅雄著 岩波書店 p241~242より)
 

 ここに引用した「周囲に生えている草木の名も知らないことが多い」という表現から、植物図鑑を持って野山を歩き回り、名前を覚えることがたいせつだと誤解されるといけないので、指導の参考になるファインマンのお父さんのようすをもう一度紹介しておきます。ファインマンのお父さんの「環覚の育て方」です。
 個々の事象のおもしろさはもちろん、さらに自然のしくみと成り立ちの奥深さを総合的にとらえさせ、考えさせようとする意図がありました。

 ファインマン一家が、よく訪れていた避暑地のキャッツキル山地でのようすです。いつも家族連れの大賑わいで、お父さんたちは、ウィークデイは勤めに戻り、週末にまた家族と合流するというパターンのようでした。

 親父はやってくると、ぼくを森での散歩に連れだし、森で起こるさまざまな興味深いできごとを教えてくれるんだ。それを見ていた他の母親連中は、もちろんすばらしいことだと思うわけだ。だから父親たちに子どもたちを散歩に連れ出すよう働きかけるのだが、最初はどうもうまくいかない。なので、ぼくの親父にみんなを一緒に連れて行ってくれるように頼みにきたんだ。
(The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p4  拙訳)

 しかし、ファインマンのお父さんはOKしません。なぜか?

 だけど、親父はぼくと特別な関係を続けたかったので、ウンと言わない。ぼくと親父の個人的なやりとりがあったからね。(前掲書p4  拙訳)

 ファインマンのお父さんに断られた母親たちは、結局父親たちを説得して子どもたちを連れ出させます。そして翌月曜日、子どもたちみんなが野原で遊んでいると、その中のひとりが、見つけた鳥を指さしファインマンに、「何という鳥か答えてみろ」とたずねます(このあたりはファインマンのお父さんに断られた「やりとり」の「しがらみ」が感じられておもしろいところです)。
 名前は既に知っていたファインマンですが、とぼけて「いやまったくわからない」と答えます。すると、彼は「茶首ツグミだ」とか何とかいいながら、「何だよ、お前の親父は何にも教えてないんだな」と毒づきました。

 だけど、実際はまったく逆だったんだよ。ぼくの親父はちゃんと教えてくれていた
                                 (前掲書p13)

 何が「逆!」だったのか? どう教えていたのか? 
 ファインマンのお父さんは鳥を見て、あの鳥は「スペンサー虫食い」(ここでファインマンは、親父は実際の名前を知らなかったのだろうが、とコメントしています)っていうんだ、まぁイタリア語で何とか、ポルトガル語で、中国語で、そして何と日本語まで持ち出して「でたらめの名前」を並べて、ファインマンにこういいます。

 これで、あの鳥の名前は世界中のことばでわかったわけだ。だけどそれが済んだからといって、お前はまだあの鳥について何にも知っちゃいない。ただあちこちに人がいて、あの鳥のことを何て呼んでいるかがわかっただけだろう。だから、まずよく見ようや、奴が何をしているのかを見よう。たいせつなことは、そのことなんだよ。(前掲書p14)

 ファインマンはいいます。「こうして、ぼくはずいぶん早くから、何かの名前を知っていることと、何かを(ほんとうに)知っていることのちがいを学んだのさ」
 つまり、先ほどの生意気な、そして「不幸な」少年の例に代表されるように、ふつう教えがちなのは「名前」や受験事項だけなのです。「ただの抽象や知識」からは何も始まらない、おもしろいことは何も生まれない、大切なことはわからない。まず、自分の目で「そのものがどんなものかを見ること、そして考えること」。ファインマンのお父さんが心がけ、ファインマンが強調するのは、そういうことなのです。
 そしてぼくが伝えたいことも同じです。まず目を向けなさい。周りをよく見て、何があるのか、どうなっているか、何が起こっているか、何が起こったかを見なさい。
 それでは外国の方に読んでいただきたい「環覚」のつづきです。
  
To teachers all over the world 8
There seems to be very few children having such experiences. The living things that show different characteristics and appear in different forms are grouped into the insects on TV such as the cockroaches, and plants that are grouped into dull trees and trivial weeds only.
 Anyway we are losing our feeling of living with animals and plants all together. The roadside trees that make us feel relaxed, are only seen as trouble makers scattering unwanted leaves.
 The living trees teach us intimately, through the turning of leaves in the four seasons, how to live well. Everyone feels obliged to clear and clean up, the fallen leaves as taught to us as daily habits.
Ashes made from fallen leaves in open-air fires are effective for the growth of plants and small cinders teach children how to make charcoals. Those experiences lead them to imagine learning matters in textbooks more easily and deeply.

 Roasted sweet potatoes in open-air fires are so delicious for children after helping their parents clean up fallen leaves. They cannot get such sweats at fast food shops.
 Even if we cannot see open-air fires and roasted sweet potatoes, we should teach about living things in their true colors and live lives with them in harmony just as the turnings of the four seasons. We should do this everlastingly for our children.
In only the urban landscapes of cities that pass by quickly, kids never get a chance to raise their antennas to look at things of surrounding and think about them more carefully. They lose their opportunities to discover things and will not be able to get a sense of their surroundings at all.

 For those children that find an unknown flower beside a path, will be able to appreciate the joy of learning and studying. And after that they will continue to have many experiences such as this. If they don’t care and
aren’t interested in things around them, it will be near impossible for them to get 環覚KANKAKU,(the sense about the things of their surroundings), and kinship with learning matters, and much of the joy of studying.
Children usually used to learn and study by textbooks written in letters and simple drawings and pictures, and imagine the outlines of learning matters. It would be increasingly more difficult for them to study such matters, as fewer and fewer had they experiences to observe life around them. It is boring for children to not understand very well or deeply.

 The best ways for children to learn and study while getting the joy of learning is to watch carefully and interact by touching friendly and thinking about these experiences deeply. To distinguish differences of things one to another is the door to kinship.
Do you think of walking around in your surroundings with your children? If you are interested in things around you, your children would also internalize this interest.