『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

うそじゃありません⑬

2016年10月29日 | 学ぶ

すっぽん・パワー(続)
 今週のスナップは今までのOB諸君のイメージを入れてあります。
 先週は「稲刈り」の行程でスッポンを見つけ、そのハプニングが「学習や『頭のはたらき』とどうかかわりをもつか」について考えてみました。「スッポン・パワー」です。

 「スッポンの発見」は、よくある「お化け大会」のように、しつらえられた「予想通り、期待通り(!)」のイベントではありません。「楽しかったね!」の「一夜限り」イベントでもありません。
 子どもたちが(ぼくも)「想像もしていない体験」です。自然のなかでは「予想だにしないこと」が待っていることに気づきます。ワクワク感のリフレインです。こうした「思いがけないこと」ほどおもしろく、子どもたちには強烈な印象として残ります。立体授業で子どもたちは度々めぐり合えるハプニングに対峙し「考えを進める機会」に出会います
 

予想もしないできごとでは咄嗟の判断や行動力が要求されます。自らの責任や能力が問われます。今回であれば、飼うことを前提としたスッポンの棲む世界や餌という問題です。「何もない! どうすればいい」や「思ったこととちがう!ほかの方法を考えなければ」・・・等々。イレギュラーな状況にも対処できる頭のはたらき(想像力や創造力)です。子どもたちはこれらの問題に答えを提出し、実践を重ね、一つ一つの経験を自信として吸収していきます。その自信が学習や体験を次のステップに誘います

 もちろん機会はスッポンの捕獲や飼育に限りません。「米作り」ひとつ、「稲刈り」の作業ひとつとっても、ぬかるんでいる田んぼの歩行や稲刈り用の鎌、刈り方、刈った束の置き方、束ね方、干し方など、自らが行っている体験と行動の意味やチェック(メタ認知)、効率的で正しい方法の実践など、「問いかけ」と「応答」は限りなく続きます。そして、それらの実践により自らの行動がもっていた意味や大切さなどを、やがてできあがったおいしいお米やミカンの収穫で「確認」することができるのです。

 こうした実践の積み重ねと、ルーティーンイベントを比較すると、「いかに学習経験に大きな差が生まれるか」が推察できるのではないでしょうか。立体授業では、一連の成長が、「季節の彩のなかで」数年間続くことになります
 以前紹介した「うちの子は、米作りなんかいいから、勉強を教えてほしい」という一言の「絶望的な(!)学習観・子育て観」の錯誤を理解していただけるでしょうか。それにつけても、子どもたちの様々な企画行事の根底に共通して流れているものが「米作りなんか!」という認識ではないことを祈らずにはいられません。

 もうひとつ。一般のルーティーン企画や実践で抜け落ちている(踏み込みが浅い)ことが多いのは、「自分たちの周囲には自然がある」という、ごく当たり前の感覚です。自分たちが『自然内存在』であるという認識の欠落です。原因は企画する方の経験の足りなさだと思います。そして、まずそれが緊急に克服すべき課題です。
 端的に言えば、本や教科書優先で「現実」に目が届かないまま、やれ双子葉植物だ、主根・側根だ、葉緑体だ、光合成・・・それらの「知識」を知っていることが学習だという認識(誤解)になってしまっていることです。
 そんなことだけ知っていても『クソおもしろくもない』という、「自らの経験にもある『学習感(!)』の克服にまで思いが至らない」。その現況が、自らの学習経験から脱出できない、脱出させようとしない悲劇を招いています。「我慢比べの受験学習の混乱」です。

 しかしその意識さえクリアすれば、そして少し工夫を重ねてみるという、ちょっとした努力がありさえすれば、子どもの学習感や学力が劇的に変わるはず、という手ごたえを僕は感じています。
 ガリレイやニュートン・ファインマンやマクスウエル・エジソンやファーブルなどが、自然や森の中でお父さんやお母さん、あるいは一人で観察をすすめ(珍しいものを拾い集め)、その推移や変化のおもしろさに夢中になり、深く考察をすすめ、それぞれの大きな発見や発明・業績に至った過程を、子どもたち(特に小学生など、小さい子)を指導する人たちは、もっともっと重要視するべきでしょう。そして、それらが逆に「必要かつ十分以上の学習意欲」をおのずから引き出していた現実に注意を払うべきでしょう。   
 

いくら優秀な子たち(あるいは過去の子たち)でも、「天才に育つきっかけ」がなくては天才にはなれません。天才までは至らずとも、対象のおもしろさの認識に至り、比類なき業績をあげるほど「夢中になれる」ような人生にも縁遠くなってしまうでしょう。
 自らの環境や周囲の対象にきちんと目を向け「見守る」、できれば問いかけ、興味を引き出したり、観察・考察を続ける機会の増大が、子どもたちの将来にとっても、科学の発展にとってもすこぶる大切です。想いを同じくする先生方(お父さん・お母さん)、いつでもご一報ください。道半ばですが方法を一緒に考えてみませんか。

体験不足がもたらす弊害
 さて、米作りなど課外学習を共にすると、子どもたちの行動様式や作業のようすで、頭のはたらき(賢さ)がはっきり判断できる場合があります。多少の性格差もありますが、それよりも小さいころからの日常生活での行動やお手伝いなどでの指導やしつけを反映していることが多いのではないか。そう考えています。

 頭のはたらきや使い方は、学生時代はもちろん、成人後も行動面や仕事面で大きな影響を与えることになります。もっと深く、多面的に考える必要があるのではないでしょうか。
 問題点はいずれも、「自らの行為や行動に対して、その方法や結果を自ら評価する=メタ認知」能力に欠けると思われるパターンです。小さいころから何を教え、何をさせることが、本人のためになるのか。「させない過保護」が成長にどう影響を与えてしまうのか。下記の例を参考にしてください。

 また以前学習指導の時期の大切さでもふれたように、これらも5年生以降の入団ではなかなか治らなかった例です。学習指導も含めて、やはり脳のはたらきには4年生から5年生くらいの間に「大きな転換点があるのではないか」と感じています。指導にはその「期限」を心にとめておくこともたいせつでしょう。
作業や仕事の意味を考えない(考えられない)―メタ認知が機能しない過保護
 自分で自分のことをさせない(たとえばお母さんがすべてを用意する)環境、今は共稼ぎ等で忙しい、またおじいちゃんやおばあちゃんとの同居も少なく、子どもたちが自ら身のまわりのことやお手伝いをする機会もほとんどなくなりました。

 団では、立体授業で、カブトムシの飼育や、種やドングリから育てた樹木の世話、教室の本や作業の跡片付け、整理整頓などの手伝いをさせます。その過程で子どもたちの様々な「面」が浮き彫りになります
 今までの「稲刈り」でもこんなことがありました。

 稲は刈り取った後、「脱穀」まで束にして干さなければなりません。「稲を一定の大きさの束にし、稲わらを使ってクルクルと束ね、端を押し込み留める」という作業です。単純な作業ですが、この作業を二年・三年と続けているのに、6年生になっても未だスムーズにできない子がいました
 からだは大きく、荷物運びなどは「大人顔負け」の力が出るのですから、「力がないからできない」わけではありません。なかなかうまくいかないので、最後は新聞紙やチラシを束ねるように「結ぼうとする」始末。そういう束ね方でハザカケをするとすぐ崩れてしまいます。こういう場合は大抵、過保護で何事にも経験不足、作業やお手伝いをする経験も極端に乏しい、という原因が考えられます。

 ひとつめの問題点は、この稲わらでの結び方に見られるように、とにかく経験が少ないので自らの動作―手の動きや力の入れ方、使い方―に対するメタ認知がはたらかない、要領がわからない、というパターンです。
 同時によくみられる問題点がもうひとつあります。今行っている作業や行動の役割や意味をあまり考えない。「目標が見えない」という事例です。
 たとえば、バーベキューで使用した網を洗うとします。来年も使うので焼け焦げや油がこびりついているのをそのままにしておくことはできません。きれいに洗って干して翌年すぐ使えるようにしておくことが目的であり目標です。

 その網を洗剤やクレンザーを使って束子やスポンジで洗うのですが、「満足に網の汚れの確認もせず、ただ機械的に手を動かしているだけ」。「いやいやながら」とか「サボっている」というわけでは決してありません。「頭が悪いから」でもありません。勉強はそこそこできるのですから。
 つまり、「きれいにする」というイメージや「できあがり」に対する「目標意識」や「目的意識」が希薄で、「自分が何のために何をしているか」もあまり考えない。「さまざまな経験を積んだり、指導をされた機会がないから、イメージが乏しく、そうした感覚が育っていない」のです。過保護による経験不足は、時としてこうしたメタ認知の能力不足を招きます。

 さらにこういうことにもつながります。水槽に入れるレンガを洗うように指示すると、小さなレンガの同じ面を何度も洗って、次の面に進みません。この作業は当然、「レンガについている砂や泥をきれいにしないと水槽の水が濁るから、それを防ぐ」という目的です。その目的に対して今の作業がどういう進捗状況であるかを判断できない(確認しない)のです。
 彼は「網の件」を思い出し、「よりきれいに」と考えたのでしょう。泥や砂が落ちて「レンガを削るだけになる」のも気づかず洗い続けたということでしょう。「今何のために何をしているか、どうしなければいけないか」といった行動の目標や経過が見えていません。
 これらの結果は本来の能力不足が原因というより、「小さいころからのさまざまな体験や活動が不足しているので、『着地点(!)』がわからず、『メタ認知』がはたらかないから」と考えられます。「自らの行動の目的や意味をとらえきれない」のです。当然、こうした影響は学習面にも出てきます。

 ありがちなのは、日ごろの課題(宿題)の実施でも、機械的にこなして「反復による質的深化」が機能しないということです。つまり、漢字にしろ計算にしろ、回数を重ねて熟達するという段階までにはなかなか至らない。くりかえしの効果があまり現れないという結果になることもよくあります。
 これらの報告をみなさんはどう考えますか?
 「勉強ができる、できない」が、決して「抽象学習や机上学習の繰り返し」だけではなく、「子どもたちの日常生活・行動・躾やお手伝い等による心身共の成長にも大きく影響されている」ということなのです。これらの指導の大切さは、子どもたちのゼロからの成長を考えてみると当たり前のことですが、往々にして見逃されがちです。その大切さを再認識していただければ報告した甲斐があり、とてもうれしいのですが…。
 残念なことに、頭は悪くなくても、例に挙げたような行動パターンのまま大きくなり社会に出れば、そうは受け取られません。「あったま、わるっ!」というわけです。
 ぼくたちは「何をするときも一つの頭」でやっています。こと学習に限らず「さまざまな行動に目を留め子どもを指導しておくことが、成長・能力の発達に大きな意味をもっている。それが学習にもフィードバックされる」。指導の中ではっきりしてきた事実です。ぜひ、子育ての参考にしていただければ、と思います。

レベッカ
 ここんとこ、映画DVDの話をしなかったのは、ブックオフや近くの古本屋で手に入れた安売りDVDが、すべて10分も見ないうちに嫌になる、駄作・絶望作ばっかりだったからです。「こういうときは古い作品を」と、ヒッチコックの「レベッカ」を見ました。やっと少し腹の虫がおさまったところです。
 ところで、スッポンの「学ちゃん」(命名しました)は新しい環境にも慣れ、飛鳥でとってきたカワニナやタニシをバリバリ齧るようになりました。時々「ビス千代(近くのスーパー)」のシジミも殻を器用に開いて食べています。


うそじゃありません⑫ すっぽん・パワー

2016年10月22日 | 学ぶ

 タイトルを見て、「よからぬ連想(!)」をした人、いませんか?
 ざんねんでした。実は10月15日の稲刈りの課外学習で、田んぼの横の用水路で「巨大スッポン」(なんと体長30cm以上!)を救出、持ち帰った話です。

 

すっぽん・パワー
 橿原神宮駅を降りて、いつものように明日香村を目指します。行程の半分を消化し、和田町の見通しの良い田園風景を抜けているときです。
 先頭を歩いていた団員が、田んぼの横の用水路を指さしながら、「これ、カメちゃうの!」。そばにいた上級生が、「えっ、おかしいな? ・・・」と考え込んでいます。

 近づいて見ると、なんと用水路の幅いっぱいくらいの大きなスッポンが白い腹部を見せて横たわっています。上級生がおかしいなといったのは、スッポンの腹が普通のカメの腹部とちがって、つるつるで白かったからでしょう。
 全然動かないので、最初死んでると思っていたのですが、ひっくり返そうとすると、微妙に手足(?)が動き始めました。「ヒョホッ、生きてる!助けたろ」。


 一瞬近くの川に連れて行って逃がしてあげることも考えたのですが、見たことがないくらい立派な「体躯」です。放流してもつかまって「食べられてしまう」おそれ(鍋にすれば、まちがいなく5人前)があります。それではかわいそうなので、段ボールケースをもらって、団に持って(連れて)帰ることにしました。子どもたちの気持ちの高ぶりはそれ以降ピークのままでした。

 今年は、渓流教室でも、オオサンショウウオの赤ちゃんに遭遇し、今度はデッカイスッポンです。みなさんは、スッポンなんか水族館や動物園でも見られるじゃないか、と思うかもしれません。しかし、そこが一般に「感覚が麻痺してしまっている」ところです。
 団員諸君が課外学習で遭遇する生きものたちは、「しつらえられた見世物」ではありません。見せられるように準備された「予想通り」の存在ではありません。見つかった場所は「造られた」空間ではありません。 
 生活空間の中で顔を出してくれた、いわば同じ地球上で「人生をともにしている仲間!」です。思わぬハプニングです。予想もしない「事件!」です。この新鮮な驚きや昂奮が、子どもたちの好奇心を養い、「環覚」を育ててくれます

 いざ「飼う」と話が決まったら、大騒ぎで飼育ケースや餌に思いが及び、さまざまにアンテナが広がり始めます。その鋭い感覚のまま当日の稲刈りの情景や空気感・作業等の「生き生きとした情報」を吸収していきます。それらが以降の野外体験や日常生活の「環覚」を整えます。自然や生態系の不思議へ子どもたちの興味を誘います。その繰り返しが学習対象のバックグラウンドを形成します。子どもたちの「環覚」を今日も研ぎ澄まさせてくれた「ハプニングの神様」に感謝です。

 ちなみに、今回スッポンの好物は「タニシ」だということがわかりました。悪名高い「ジャンボタニシ(スクミリンゴガイ)」は大好物のようです。こんなに大きく成長したのは、無農薬や低農薬の田で、ジャンボタニシという願ってもない食料に恵まれていたからでしょう。
 こういう、子どもたちの実体験からの考察やイメージのバックグラウンドが整った「稲やコメ作りの勉強」と、「行ったこともないコメの産地や銘柄・生産量を字面から暗記させるだけの勉強」。彼我の勉強による「子どもたちの成長の差」を想像してください

 子どもたちの「体験すべて」がそういう差をますます広げることに気づいてください。日常生活や実体験に好奇心が広がっていくことに・・・。
 特に、「アメとムチを用意しながら、先週も話題にした『ほぼ文字限定経由の抽象問題』を、幼時から『しつこく解答させること』が学習」と考えている指導者やお母さん・お父さん。もう一度「自らの学習経験」をたどりながら、伝えている学習体験との比較をイメージしてください。そして学習の深化や次の探究ステップに対する好奇心の行方や興味の喚起について考えてみてください。
 「子どもたちのために本来あるべき学習指導」が、ぼんやりとでも見えてきませんか? 子どもたちの「ほんとうの教科書」が・・・

「繰り返すこと」の豊かさ
 さて、中学入試や国語の問題集によく取りあげられる詩があります。(以下の引用は「詩の世界」高田敏子著 ポプラ社より 「海」 p116)
 
 少年が沖に向かって呼んだ
 「おーい」
 まわりの子どもたちも
 つぎつぎに呼んだ
 「おーい」「おーい」
 そして
 おとなも 「おーい」と呼んだ
 
 子どもたちは それだけで
 とてもたのしそうだった
 けれど おとなは
 いつまでもじっと待っていた
 海が
 何かをこたえてくれるように
 
 この詩は無邪気な遊びを繰り返す子どもと、もはやそれができなくなったおとなの哀しさをうたったものです。
 しばらく前から、「この変化が学習や成長(才能や能力・知能の発達)に大きな意味をもっているのではないか」と考えるようになりました(そして、「かけがえのないもの」を忘れない、「打算のない大人」が、ますます「好き」になりました。そういう人たちこそ、子どもをうまく育てられるという確信があります)。

 幼い子どもたちは、大人から見たら「つまらないこと」なのに、おもしろそうに、いつまでも、何度も「同じこと」を繰り返して遊んでいるのをよく目にします。
 ところが小学校中学年から高学年になると、「同じことの繰り返しを次第に疎んじるようになってくる」。気づいたことはありませんか? 幼い子たちが喜んで何気ない遊びや行為でも嬉しそうに繰り返すのはどうしてか
 それは、「くりかえすという行為」が、特に幼いころは「脳の発達」や「様々な、生きていくための技量の熟達に欠かせないことだ」という本能の発現ではないか。

 たとえば、幼い動物たちの遊び様を見ていると、「食料を手に入れる」ための行動であったり、「身を守る」すべであったり・・・「大人になるため」「生きるため」のトレーニングが遊びに転化されているようすが見られます。仲間同士で盛んに同じことを繰り返してじゃれあっています。生きていく能力を養う格好の学習経験になっているのでしょう。

 家畜やペットを見るときはこんな視点で行動を観察しますが、「人間」の子どもの動作や行動に関しては、「かわいさ」のあまり、あるいは「霊長類としての尊厳?!」という「区別」意識の故か、そうした視点で見ることはあまりありません。
 しかし、進化の系統上、人間もそうしたトレーニングのしくみがあると考えるほうが自然です。同じように厭わず何度も「繰り返しをすること」が「生きていく技術(すべ)」を身につけるトレーニングになっている・・・。

 そう考えると、「『学習という行為』がぼくたちにとってどういう意味をもち、どうすれば練達の域に達することができるか」がすこぶるクリアになります。「くりかえし」です。
 上達のイメージや失敗の反省をともないながら、何度もトレーニングを「繰り返すこと」で必要な力が蓄えられる。他に方法はありません。そうすることが人間であるぼくたちが「必要な力」を身につける最善・最短の方法であり、「身体」に刻みこまれている廃用萎縮もその一例である。腑に落ちませんか?
 
しからば学習はどうあるべきか?
 それから明らかになること。
 「『繰り返すこと』がまだおもしろくてしかたがない」うちに、あるいは少なくとも「『繰り返すこと』に対して嫌悪感や拒否感が育ってこない」うちに、自らが繰り返した結果の、技術や能力の進歩や向上の手ごたえ・自信が少しでも身につくような指導が、とてもたいせつになります

 たとえば、幼いころからの歌舞伎や伝統技芸はもちろん、リオ・オリンピックでも活躍した福原選手など一流スポーツ選手から窺い知ることができる小さいころからの成長のしくみです。継続と目標と自信と自覚です。
 逆に、世間一般にあるように、一定の時機を逸すると、「学習行為」をスムーズに進めていく「状況」は一挙にむずかしくなると考えられます。年齢に応じて「さまざまな要因」が「学習の邪魔をする」ようになってしまうからです
 以前、土や石の学習を例として考えました。それまで土や石を意識もせず「つまらないもの」として見過ごしてきた子どもたちが、性に目覚め「異性のこと」で頭がいっぱいになるころ、急に石の成り立ちや種類の区別・名称を聞いて、興味をもてる子・おもしろく学習する(できる)子がどれだけ残っているか。とても「繰り返す」までは至りません。

 「学習対象」に対する認知やなじみがない子が「性のこと」で頭がいっぱいになるころ、「対象の名称や特性、かんたんなしくみ」を教科書と「退屈な授業」で聞いても、「どれだけ集中でき、考察の(頭を使う)対象になるか、何度考えるか」。いつまでたっても感覚は受験学習対象という域を出ません
 そこでおもしろく感じられる子は、野外体験や自然観察で、少なくとも対象の存在を認知し、多少なりともそれらについて考え、興味をひかれていた「少数」でしょう。その子たちが、次の学習や研究ステップに進む(進める)可能性の高い子たちになる。幼いころから、まずさまざまな学習対象に対する「なじみ」という前提(環覚)を養っておくことがたいせつである。というわけです。

 そうでなければ、子どもたちがさらに成長するにつれ、性のみに限らず欲望や欲求が増大し、底の浅い雑多な好奇心がひろがり、「おもしろさが未だわからない学習」や「する意味が依然として分からない勉強」は「より疎んじられるようになる」はずです
 「環覚」のともなわない大多数の子どもたちは、ほとんど目的もなく意味もわからず、難関校や有名校に進学する周囲の期待や責任を背負い、合格のために仕方なしに受験知識や受験テクニックを頭の隅に詰め込んでいく。その中からそんなことには意識さえ向かわなくなり、こっそりとスマホ(ゲームや動画)で「内職」している落ちこぼれ諸君も登場します。

 もちろん例外はあり、真面目な子たちの中には、その後僥倖に恵まれ、学習することのおもしろさに目覚め、更なる探求(学習)ステップに向かう子がいるであろうことは否定しません…。しかしその他大勢を考えれば、「繰り返し」をいとわない間に、「学習することや続けることの『意義』」や「学習によって生まれるおもしろさや自信」をうえつけてあげることが何よりだと考えます。「自ら道を切り開くことができる」子は、そうして育つのでしょう。

 そのための基本中の基本はやはり、小さいころからの体験による「環覚」の錬磨や、「資料」を「解析」するための漢字力・語彙力、また計算能力の熟達、つまり「読み・書き・そろばん」です。
 これらの習得もいずれも「くりかえし」を原則としなければならないのは、見てきたように逃れられないヒトとしての「しくみ」なのでしょう。


うそじゃありません⑪ 「考えられない」子ども3

2016年10月15日 | 学ぶ

 今週の写真は、いつも元気をいっぱいくれるKAEDEや娘たちとのスナップです。

「考えられない子」になるなよ
 三週「考えられない子どもが育つ環境」について考えました。
 環境の変化によって、「考える機会」や「考えなければならない環境」が減り、子どもたちが「自ら考えられない子」になりつつあるというものでした。それらを助長する「しくみ」が、もうひとつあります。「小学校受験」とその「予備校(的)教育」です。今回はその結果後の、「ふつうの判断では『考えられない』子」と、「自ら考えられない子」についてです。
 今までの指導で「小学校受験」を経た子も見てきましたが、それらの子たちによく見られる二つの傾向があります。もちろん「全員に」というわけではありませんが、少ない人数の中でも目立った傾向ですので「参考意見」としてお聞きください。

ふつうは「考えられない」子
 まず、「ふつうの考えから見て『考えられない』子」です。
 一部の国立大学附属小学校に進んだ子たちに見られたのは、ある種の「危うさ」です。理解は早いのですが、よく言えば「マイペース」、そのまま言えば「周りが見えず、自分勝手」なタイプで、子どもらしい「やさしさ」や「気遣い」に欠けるところが目につきました。生命に対する親近感や尊重する気持ちなども希薄で、いびつ。協力や協調という「心配り」も足りなかった気がします。
 「危うさ」とは? こういうことがありました。
 もうずいぶん前のことですが、鯉釣りで、バケツに入れておいた鯉を至近距離からパチンコで撃ち、鯉の頭に穴をあけた子がいました。
 こういう場合、「持たす方が悪い」という、「本質を見ない」意見が出そうです。あらゆる道具について言えることですが、「いつ、どう使うべきか、何に使うべきか」を教える(身につける)のが「人間」と「社会生活」と「倫理観」の基本です。それを教えるのが教育です。
 こっぴどく叱りましたが、これらは、幼く、まだ物心がつかない頃ならまだしも、小学校高学年にもなれば、生命や生きているということに目覚めてもよいころです。そうした心情をもてるようになってはじめて、「思いやり」や「やさしさ」が成立します。「何か」を忘れてしまって(覚えられないで)成長しています。指導できるのは誰でしょう? 親と先生です。


 もう一人は、附属を卒業し、弟の同伴で課外学習に参加した中学生です。訪れた沢の岩間に黒化した蛇(ヤマカガシだと思うのですが)がいました。やおら「銛」を取りあげ執拗に執拗に追いかけ、何をするのかと思いきや「串刺し」にしてしまったのです。「蛇」をです。持って帰って食べるわけではありません。
 もう中学生です。「生きている」という意味が本来なら「感じられる(!)」はずです。傍にいたお母さんが何も言わなかったところを見ると、ふだんからそうした指導に無頓着なのでしょう。「蛇には生命がない!」と思っているのでしょうか。
 彼は、小さいころはムチャクチャ優秀だったと聞きました。「国立大附属小5年生の時に『I社』の模擬テスト(6年)を受けて、6年生の成績優秀者並みの得点をした」ようですが、中学受験では残念ながら予想をことごとく裏切り、志望校受験に失敗したといいます。その大きな原因は、「『年齢に応じて成長すべき心の構え』のアンバランス」だとぼくは推定しています。

 敵視しても、怖がっても、「危害を加えるわけではなくただ逃げ惑う」蛇を串刺し。これではいけません。話になりません。「肝心なこと」を覚えていません。到底「物語文」の理解には行き届かず、国語の本質も読めません。
 学習がいくら進んでも、周囲の目が届かず、子どもたちの成長が人として「正しい方向」であるかどうかの判断ができなければ、「学力バカ」という「恐ろしいモンスター」になります受験学力や受験テクニックをいくら上手に操っても、そもそも「生命」や「操っている人間」のことがわからなければ、「とんでもないこと」が始まります
 まだいます。これも国立大の附属(出身)生です(ちなみに、今までもすべておなじ附属生です)。団の前にどもたちといつも手入れをしている前栽があるのですが、上階から飲みかけの清涼飲料水を捨て、(いつも)樹木にかける中学生がいました。注意をすると、今度は子どもたちと掃除や作業をしているとき、上から物を落とす始末。どう思いますか?

 ぼくの周りにだけ、そういう子が集まるのでしょうか? そんなバカなことはないでしょう。
 小さいころから(おそらく)ちやほやされて、(機嫌を損なえば)なだめすかされ、小学校受験の問題解法暗記(理解ではなく)の特訓に、ストレスを募らせ、きちんとした躾もされないまま育っ(てしまっ)たのでしょう。「子育て」をもう一度きちんと見直すべきです。「子育て」は「人育て」です。「対社会」「対個人」という視点の欠落の結果は、現在以上に「進化!」し、更にバージョンアップしたモンスターペアレンツの誕生です。
 「そういう未来は関係ない」? とんでもありません。「かわいいはずの」自らの子どもや孫に大いに関係してきます。それらを忘れることはできないはずです。

自ら考えられない子
 さて、次は小学校受験を経た「自ら考えられない子」です。学習指導上の問題点の露呈です。
 小学校受験の問題は様々だとは思いますが、学習指導法については、「ほぼ『想定問題や類似問題』の解法暗記・熟知までに止まる」でしょう。かみ砕いて、「もの」に興味をもたせ、考えたり調べたり、観察したりしている暇や余裕や対応能力がないからです
 そういう演習を小さいころ(3歳や4歳)から繰り返しているとどうなるか? 

 能力のすこぶる高い子は別ですが、ある種のパターン問題に特化した頭(思考法)になってしまって、「新しい問題には柔軟に対応できない」例に、よく遭遇します。つまり「考えられない例」のもうひとつのパターンです。頭は悪くないのに、「考え方が固定化(!)」してしまうという例です。
 「問題を考える」場合は、課外学習の説明の際にも伝えましたが、補助としてさまざまなイメージの応援を借りて進めなければなりません。ところが、「イメージの手掛かりのない」抽象的な問題に特化した問題解法のトレーニングの集約です。3~4歳というまだ未発達な脳による抽象思考の繰り返しで、「パターン化の習得」を植え付けてばかりいれば、「『考えること』そのもののスタイルが『型どおり』にしか適応しない」ということになるでしょう。
 「さまざまな体験を手掛かりに『考えること』の経験を深めていかなければならない大切な時期」に、「ワンパターンの抽象的問題演習を、体験不足という大きなハンディのなかで2年、3年と練習し続ける」のですから、そうなっても当たり前です。「間口の狭い、特異な問題解決能力」に適した(!)頭になっていくしかありません。
 ちなみに、これらの問題を解決し、「柔軟に一から考える」という正しい思考法を身につけるのに、例えば、団に3年生で入団した子は、3・4・5年生3年間の指導期間が必要でした。しかし、彼は修正できたから、まだ幸せだったと思います。

 「もの心」がきちんとつかない時期の、「抽象的」でストレスのかかりすぎる『偏向』指導の繰り返しでは、上記のような「変質的な思考」、そして「偏執的な志向」の子どもが育っても不思議ではないでしょう。小学受験「至高」のお母さん・お父さんには、是非一考していただきたい問題です。
 本来なら、高い能力をもっともっと大きな可能性に賭けて、「夢のある未来」を描くべき時期に、「口ばっかり達者で、受験学力やクイズの解答にしか通用しない膨大な知識の山を抱えて、それがこぼれそうになるのを必死で拾い集めてる」、そんな若者がワンサカいるのではないでしょうか。

 市井アナクロ変人(!ハハ)が、最近読んだ古い本「天才の世界」(湯川秀樹 光文社文庫)の一節です。少し長いですが、味わい深い一節なので、たどってみてください。
 
 ・・・一口に情報化社会とか管理社会とかいわれる新しい形態にだんだんなってくる。これはひじょうにむつかしい社会でして、そのなかでたとえば創造的なマイノリティ、少数者というものを生み出すことは、ひじょうに困難な状況があるわけでしょう。ものを考えんでもよい、考えたければコンピューターに考えさせろという式の風潮が、ひじょうに盛んになっている。
 たとえばお月さんに行こうといったら、大きな金を使って、何万人という人がそのなかに組み込まれ、無事にお月さんへ行けたという状況で、そこに創造者というものはどこにいるのか、そこにも何人かの創造者がいるかもしれませんよ。しかし、それはわれわれが真の創造者と言っているものとは違うわけでしょう。計画どおりお月さんへ行けるようになったということであって、なにか思いがけないものを生み出したという状況とは違いますし・・・・・・。(前掲書p75・傍線は南淵)
 
 日本の大学の低調の遠因が見え隠れしています。約50年前、1970年代の湯川博士の言葉です。今を言い当てています。そして若者たちの興味の行方はもっと悲惨で、「月に行くお金」を持てないので、ほとんど指をくわえてみているしかないという有様ではないでしょうか。
 そんな「待ちぼうけ」ではなく、「俺はこんなことをする、こんなことを考える」という大きな夢をもつ若者は、どれだけ育っているでしょうか?

 これを読んで、「天才なんか関係ない」と思っている人、お父さん・お母さんに。
 対談の中で、「たいていの人は、天才を自分とはかけ離れた世界の人、また精神病のカテゴリーに入れる」という話題に対して、湯川博士はこう言っています。
 
 もし、自分と天才といわれるような人とが、本来そう違ってないんだということになりますと、おれはきばってやらなかった、つまり当人がよくやらなかった、努力が足りなかったということになる
(前掲書p332・傍線は南淵)

 「だから、自分とは切り離して考える。自分の努力不足を見たくないから」というわけです。傷のなめ合い、「痛いものは見たくない」。

 これが初出版されたときに読みたかったな~。若い方は、まだ十分間に合います。
 「手遅れの連鎖」になってはいけません。才能の深化と進化の「肝」は、まちがいなく、何よりも「継続と集中」です


うそじゃありません⑩ 「考えられない」子ども(続)2

2016年10月08日 | 学ぶ

「自ら考えられない子」に
 先週「『考えられない子』が増えてきたこと」について考えました。その原因として、子どもたちが成長する環境が、次第に「自ら考える必要のない状況に移行しつつある」という問題点を指摘しました。
 少子化や「行き過ぎた過保護(過保護を通り越した超過保護!)」等により、事前に子どもたちが様々に準備・応援される条件が整ってしまうようになった。たとえば、「遊び」ひとつとっても、子どもたちが自ら準備したり(ゲームソフトがあれば足ります!)、用意を整えたり(自作の釣り竿と「餌」や様々な外遊びの用意など)する必要がなくなったこと。お母さん方の食事の支度にたとえれば、「市販の切り身をそのまま焼く」と、「焼くまでの処理を自ら施し、つまり生きている魚を自ら三枚におろし、それから焼くこと」との作業や頭のはたらきのちがいを想像していただくとよいかもしれません。

 両方の作業で頭の使い方、過程での技術の取得(技術を取得する・使っている際も、頭を使っていることを忘れることはできません)は、日々のことですから、どちらも決定的な差になっていくことが想像できます。さらに、昨今は多くの家庭で、家事やお手伝いに対する子どもの分担も減り、自らで頭を巡らし用意するものをそろえたり、段取りを考える必要がなくなったこと等も、自ら頭を使わなくなった(使う必要がなくなった)例に挙げられます。用事を頼まれ、叱られたりする経験を積めば、「OKが出る目標」に対する意識が生まれます。しかし、そういう経験が少なくなると、自ら考える必要が生まれません。「考える機会、考える回数、トライアンドエラー経験・・・」の激減です(ゲームなどの偏ったトライアンドエラーは激増していますが。これらの激増の原因は子どもたちのトライアンドエラーに対する「欲求不満」も影響しているのではないかと考えることがあります)。

 転じて、課外学習や野外活動は、活動をすればよくわかりますが、良くも悪くもハプニングの連続です。野外で敏感に研ぎ澄まされた神経によって感覚の鋭さや集中力も倍加されます。それによって、数多の「頭を使う機会や体験」を用意されるであろうことはみなさんの想像の範囲内だと思います。そういう経験にぶち当たり、クリアしたり、時には失敗したりしながら、子どもたちは余裕や自信や積極性を身につけて成長するものです。
 しかし今のように、『自ら手をかける』という行為や『目的を果たす』という行動が省略され、遮断されていくという「社会の進歩」の弊害面に気づかず、野放しにしていけば、子どもたちのバランス感覚がともなった能力や成長は、今後、今以上に期待しにくくなります

 授業で使用するプリントや連絡のプリントを忘れる子どもを叱ると、「それくらいコピーしてあげたらええやん!」とクレームをつけるお母さんも、現在は稀ではないと聞きます。そんな風潮が支配し、「忘れても大丈夫」という習慣が定着すると、「事前に準備を万端に整えるという計画性」や、「自ら用意をして、事にあたるという積極性」は身につくはずがありません
 クレームをつける保護者がその時点で「忘れてしまっている、また見逃してしまっていること」は、「自らが育てているのは犬や猫ではなく人間であるという自覚」です。おそらく自らが先に死ぬであろう。子どもは将来ひとりで生きていけるだけの社会的能力が身についているか。そのイメージの欠如です

 「忘れることを叱らなければいけない」のは、社会人になれば「仕事上苦労する」のが「目に見える」からです。仕事に限らずとも、問題を解決するための資料や条件を事前にイメージし、自ら準備をきちんと整えることは、一人前の社会人・仕事人になるための基本要件です。それらを想定しないような先ほどの「過保護」は、子どものことを全く考えない『仮保護』であり「非保護」です。子どものことを思っているようで、実は全く子どものことを考えていない親の育て方です。
 みなさん、「翌日の法廷での問答」をイメージせず裁判に臨む弁護士や、手術の手順や方法をイメージしない医者に、財産や生命を預けることができますか? 仕事を依頼できますか? 忘れ物が多い時点で、それらの職業をふくむたいせつな仕事で活躍できる道は閉ざされてしまうことになります。子どもたちの成長の可能性の消滅です。

 「忘れ物をしてはいけない」という注意やしつけは、子どもたちの未来に直結するわけです。それらは子どもたちがみんなの期待に応え、自らも充実した人生を送るための「何よりの応援歌」です。「日ごろの指導やしつけが『本人が大きくなって立派に生きていけるようにするための根っこである』という認識」を忘れて指導はできません。保護者の真の役目は、自分の子どもが社会に出て困らないように、立派に生きていけるように育てることです。それがほんとうの愛情だとぼくは思います。
 
なまめかしい像を見て
 深瀬(昌久)さんに、若い時いろいろお世話になったことは以前お話ししました。写真雑誌に掲載の場を紹介してもらったり、お伺いしたとき新宿のゴールデン街を飲み歩いたり・・・。荒木経惟さんとお元気だった奥さんの洋子さんなど、写真家の方たちの何かのパーティのときにくっついていったのですが、錚々たるメンバーの中で一言もしゃべれず(若い時はそうでした)、緊張の極みで隅っこに座っていたなあ・・・。時々思い出し、そういう時は行きがけに必ずカメラを持ち出します。写真の2カットは所用で本町を訪れた時のスナップです。

 御堂筋のイチョウ並木に立っている少女像のそばを通るとき、ふと気になりました。対象を問わず昔から「気になるもの」には何でもシャッターを押していたのですが、最近とみにそういう機会が減り、撮影カンも鈍ってきていたので珍しいことでした。一度は通り過ぎたのですが、ブロンズの艶々したなまめかしい質感にもひかれるものがあり、戻ってシャッターを押しました。5~6枚撮ったでしょうか? その中の二カットです。
 画像をパソコンでチェックして気になった理由がわかりました。
 少し角度を変えて撮った左右の少女の顔を見てください。ほぼ同じ時間、同じ像なのに、「もの思う少女」の表情や雰囲気が大きく変わって見えることに気づかれると思います。ぼくが通り過ぎたとき、気になったのは、この表情の変化だと思います。

 前回の「大きなイチョウの葉」の時もそうでしたが、こうした微妙な変化によってぼくたちは「環覚」を刺激されるのでしょう。それらに注意が向くことで発想やひらめきが生まれ、「考えること」がはじまるのでしょう。歩いて何かに気づくことで、それだけ考えることや考える機会のボリュームがちがってきます。いや、立ち止まっていても気づくことはあります。「環覚」の育成は子どもたちに「考える環境」を準備します
 かつて課外学習で飛鳥に入るとき、朝風峠の向こうの「南渕山(南淵請安の住まいがあったところで、こういう名前だったと思うのですが、記憶が定かではありません)」の頂上の林に、遠目で「カラスの巣」を見つけ子どもたちに教えたのですが、いつまでたっても目標をしぼれない子がいました。目が悪いわけでもなかったのですが、野外体験や自然体験に乏しい子で、どんなものについても、なかなか目標に目が届かなかったのです。

 日ごろから周囲や環境の対象の微妙な変化に疎いと、それだけ考える材料やきっかけが乏しくなります。ところが、子どもたちの「認知システムが活発に機能し始める」のは、そういう経験の積み重ねによってですから、「体験」は、特に感覚器官をたくさん使うものは、子どもたちの頭のはたらきや能力開発にも大きな影響があると考えられます
 『指示したもの』や『与えられたもの』しか見ない・気づかない子と、ふだん歩く何気ない道でも、次から次とおもしろく感じるものや興味を惹かれるものがある子の、成長の大きなちがいです。
 野外体験や自然体験をしないと、そもそも変化に出会えない、出会う機会がない。その「感覚」は成長の過程で、いつの間にか「当たり前のもの」として定着し、「鈍感なまま」終わります。こうした成長が好奇心やデリケートな感覚、さらに視覚の広さなどにも無視できない大きな影響を与えるだろうとぼくは想像しています。OB諸君の成長の姿を比較しても、その傾向は明らかです。

古いカメラで光を読む、世界を見る
 団の開設当時、「腕白大学」という特別授業を実施していました。友人や保護者の様々な専門家にお願いし、子どもたちにその知識や仕事の一端を指導してもらう、というものです。皆さんの指導の参考になるよう、その授業内容の一端を紹介しておきます。

 政治家に立候補した友人にはその経験から、ジャズミュージシャンの保護者には音楽や楽器・リズムの実演指導、料理人の友人には生きたトラフグの捌き方、絵の指導や自動車運転の実技指導等々、さまざまなジャンルにわたって子どもたちに紹介してもらいました。
 これらの実技体験は興味が広がることはもちろん、机上の学習・テキストによる学習の応援イメージ作りの大きなバックグラウンドになったと思います。先ほど考えたように体験の少ない子どもたちにとって課外活動は、そのほとんどすべてが、子どもたちの経験知として学習応援のイメージづくりに寄与するはずです。


 かつて挨拶もなくアイデア盗用の、形だけを繕った企画をした学校もありましたが、その根底にある「環覚」育成のポリシーや目的の一貫性がなくては、「腕白大学」はあまり意味がありません。挨拶をいただければ、それらを考え、実施内容や講演内容を企画することのたいせつさをお伝えできたのですが…。それらが整わなければ、「客寄せパンダ」や「遊園地への遠足」とあまり変わりません。つまり、その場限りです。
 さて、「腕白大学」の一環でぼく自身が取り上げたのは、もちろん「カメラ」です。デジタルカメラが未だ貴重品で、オートマチックが幅を利かしていた時期でしたが、ぼくはあえて、マニュアルカメラを取りあげました。それによって絞りやシャッタースピードの関係で、写真に対する「光の役割」がよくわかります。日ごろ、「見ること」ではあまり意識しない光に意識が向かうこと、また、「眼のしくみ」に対する学習補助にもなります。

 「白いティーカップやソーサーを用意し、光のあたり方を観察し、画用紙にスケッチをさせる」ということもやりました。あまりそんなふうには見たことがない子どもたちに、「光のあたり方」や「よく見ること」の大切さ、つまり「ふだんはほとんどものをよく見ていないこと」を教えるためです。ちなみに、ぼくの腕白大学のテーマタイトルは「古いカメラで光を読む、世界を見る」でした。

 まず、「ふだん意識しない光」を「読んで」ほしかったのです。次に「ほんとうに見たいものを見ているか」という問い。「世界を見る」です。公園や神社へ出向き、「見たいものをとってごらん」と撮影指導をしました。写真の撮り始めは誰でもそうですが、撮りたいもの、見たいものが何かよくわからないものを撮ります。「画角」の方が気になって何をとったかわからない、というやつです。「見たいもの」がわからないのです。

 そうして子どもたちに問いかけたそれぞれの写真の「ビフォー・アフター」を紹介しておきます。ちゃんと物を見る、見たいものは何か、という意識を整えるには、よいトレーニングになったと今振り返っています。


うそじゃありません⑨

2016年10月01日 | 学ぶ

「考えられない」子ども(続)
 タイトルのテーマについては、以前二度ほど考えてみました。だから「続」編です。

 一回目は、小学校の宿題の「本読み」の弊害(面)に関して。上手に(間違えたり、つっかえたりせず)音読できる子が、必ずしも読解力がともなっているとは限らないこと。つまり、宿題などで、「上手に本を読むこと」を「奨励? 賞賛?」されるので、「読みなれていない子」は「意識」がその方に向かい、「内容把握が伴わないままの子」が少なからず存在すること。解決法としては、聞いているお父さんやお母さんが聴き取った後、「読んだ内容」に関して訊ねてみること。そうアドバイスしました。
 二回目は、「ひどい先生」の話でした。先生方、まさか同僚にはいないと思うのですが…。

 団に来ている子(5年生)に、かんたんな文章題の計算問題で、「割り算やかけ算の判断ができない子」がいました。「小学校での指導の有無」を尋ねてみると、びっくりするような答えが返ってきました。「どういうときにかけ算をして、どんな時に割り算をしなければいけないかを教えてもらえなかった? 」というぼくの問いに対して、「宿題の計ド」などで計算の仕方がわからないときに訊くと、満足に指導しないで、「ページのタイトルに『割り算』とあれば『割り算』をして、『掛け算』とあれば『掛け算』をしろといわれた」というものです(男の先生、新任ではありません。いい年です)。
 ちなみに、その子は「きちんと説明しても計算の種類がわからないほど知能が低かった」わけではありません。「基本的な計算技能の習熟」は社会人としての最低限の条件のひとつです。「そんなことも教えないで小学校を送り出す」では、「笑い話」ではすみません。
 ここ5~6年の間に、こういうことが稀とは言えなくなっています。以前はそういうことがほとんどありませんでした。つまり、そういう教育環境が地域に少しずつ浸潤しているということなのでしょう。ぼくのように「個人指導」ではない先生方のご苦労は並大抵ではないと思いますが、先生という職業に携わっている以上、どんなことがあっても決して崩してはいけない一面があると思います。

 ぼくたちは全員が「ひとりの人間を社会に送り出す責任」の一端を担っています。また、最近の都庁の諸問題を見るまでもなく、先生という職業は、ぼくたちが生きている社会(みんなが生きている、世話になり、世話をする社会)に、「みんなにできるだけ迷惑をかけない」、「自分だけではなくみんなが生きている」という意識をもてる人材を、どれだけ多く送り出せるか、という使命をもっているのではないでしょうか? 「みんなが望む、個を尊重できる社会」にするためには、『個をたいせつにできる社会を、能力で担え、心情で理解できる一人一人の個』がいなくては到底不可能」です。子どもを指導しているぼくたちは、それらの原点をもう一度見直すべきではないでしょうか?

停電になれば・・・
 さて、「考えられない(考えない)子」に対する新しい視点です。
 一時「指示待ち」という言葉がはやりましたが、今は『当たり前』になったのか、それほど問題視されなくなりました。そんなときには既に問題が根深くなってしまっているのが「世の常」です。ヒントをもらっても手をこまねき、「自ら考えるという姿勢が育ってこない」子が、ここ十年ぐらいで急速に増えてきています

 現在は食べ物や着るものさえ十分ではなかったぼくたちのころとちがい、経済的にも恵まれ、「少子化」という条件によって、「豊かな?!環境」が用意されるようになっています。多くの場合、自ら行動したり我慢しなくても、先回りして用意され準備がととのい、「自らで手を下す」必要がなくなっています。
 つまり、「考えられない」のは、「考える必要に迫られない」からです。何もないところから始める「遊び」のための「創意工夫の必要性」なんかもほとんどありません。たとえばゲーム機があれば用は足ります。「どこへ行って、何をとってきて、どう手を加えるか」等という、昔の子どもたちが自ら積極的に行動する必要に駆られたきっかけもありません。
 さらに、共働きのお母さんたちは、日ごろから時間に追われる関係上、子どもの対応や行動を待ちきれないで、先に手を出してしまう。その結果、「子どもは自ら率先して問題を解決することをおぼえない(覚えられない)、解決することができなくなる」という構図です。これらの習慣が、おおもとの「脳のはたらき」にまで大きな影響を及ぼしているような気がします。

 「問題に向かっていけない」、「問題を読んで中に入り込めない」。つまり、子どもたちに見られるそれらの姿勢の多発は、「自ら問題に向かうこと、そして自らの現在の能力を駆使したり、頭を使って工夫したりする必要がなくなった状況下にいる」ということが大きく影響しているのではないか
 これらの問題は、ふつう、生来の性格(たとえば消極性)に帰されることが多いと思いますが、日ごろの子どもたちとのやり取りや指導の中に、それらの原因を求めていくことの方が「より科学的なのではないか」とぼくは感じています。
 猛獣や野生動物たちとちがって、「生きていくのに必要になる力」も満足にもてないまま(無防備なまま)生まれてくる人間は、知力や行動力の発達面で、相当な可塑性や可能性が、進化の過程で用意されているであろうことは、他動物と比較した前頭葉や脳の大きさから判断しても明らかです

 さまざまな日々の行動の成功体験や失敗経験を重ねて、それら能力を身につけられるよう準備されているのではないかと想像しています。いつも推奨する自然体験や野外体験に限らず、もっと身近な例では「留守番」や日ごろの「お使い」・「お手伝い」など、さまざまな日常行動を繰り返すことによって、独り立ちできるバランスの良い、生きる力を身につけて育つというふうに考えることが自然ではないでしょうか。
 類人猿に始まる歴史を省みれば、ぼくたちは猛獣たちとちがって、そうした能力と創意工夫によって、食べるものや安全を確保してきました。そうして自らの進化の歴史を築いてきたわけですから。
 ところが、小さいころから今のようにボタンやスイッチ一つで用が足せたり、金さえ払えば「多くのもの」が苦も無く手に入ったり、自ら何をしなくても周りに手伝ってもらえたりして成長できる状況が続けば、自ら問題に向かい、それを解決しようとする努力の必要性を自覚できず積極的な姿勢をもつ能力の高い子が育つ可能性は、どんどん低くなります
 時代は、『代用をするしくみ』を次々生み出す「すこぶる高い能力をもつ一握り」と「停電になれば何もできないその他大勢のバカ」をつくるような方向に向かっていることだけはまちがいないでしょう。こういう「危惧」を子どもたちの教育や日ごろの指導の中に反映させなければならない時代が来ていると考えられます。

石ころとぼくたちは親せきかもしれない
 25日、雨天で一週延期した「石ころ」の課外学習に行ってきました。
 「みずから手を下す」必要がなくなっている環境が『指示待ち』や『手をこまねく』子どもたちをつくっていると反省しましたが、提唱している課外学習や自然体験は、子どもたちに全く逆の刺激を与えてくれます。野外活動では、「自ら手を下したり、工夫することがつきもの」だからです。
 風が吹き、雨が降り、雲が流れる自然環境のなか、高い気温と噴き出る汗を感じながら、子どもたちはたくさんのイメージを頭の中に蓄えていきます。それらが地下水のように脳裏深くしみとおり、やがて日々のテキストによる学習にも理解の深化や発想の広がりという大きなアドバンテージをもたらします

 また、課外活動ではハプニングがつきものです。たとえば、今回の「ガーネット探し」では白っぽい花崗岩を探し、それを割らなければいけません。金づちや子どもたちの力では、なかなか割れません。硬い大きな石を手に入れ、「割る石」の『枕』を探し、「ぶつけて割れるしくみ」を工夫・準備しなければなりません。砂鉄やガーネットのパンニングでは、川の流れの速さに注意し、盆を振るスピードを手加減しなければ望みは果たせません。

 指導する側に、こうした指導経験がなければ、野外活動・さまざまなハプニングで子どもたちが要求される「頭のはたらきの変化」にまで考察が届きません。自然体験や野外活動が、子どもたちの「環覚」を養い、工夫することによる頭のはたらきや学習や発想・連想に対するイメージ作りに大きく影響するという「子どもたちの成長のたいせつなしくみ」に、指導者はもっと目を留める必要があります。日常行動の一つ一つが子どもを賢く育てるために、役に立っているわけです。こうした活動が『指示待ち族』をなくし、「ひとりで手をこまねく姿勢」を克服できる大きな手掛かりにもなるとぼくは信じています。

海辺の家
 先週も「ブラス!」や「陽のあたる教室」などのよい映画を見ることができましたが、今週も素晴らしい作品に当たりました。まず「海辺の家」。
 夢を失い、人生に「行き暮れた」中年男が、とあるきっかけで人生でやり残したことを「残りの数か月」で「完遂」させようとします。「身につまされる」部分もあり、心を打たれました。

 ぼくたちは日ごろ寿命や「生命の限り」のことを真剣には考えません。しかし「誰もが避けきれないこと」だから、時に「真面目に向かい合う」ことで自らの人生を良い方向に変えられるきっかけになってくれるのではないか。一度は真剣に向き合い、だから「自分は何をしたいのか」、「何をしなければいけないのか」という「問い」は誰にとっても、いつでも必要なことではないでしょうか

 心がそれほど強くないぼくたちは、必要なことも、往々「怠け心」が先に立ち、「いつでもできる」「そのうちできる」と逃げを打ったり、後回しにしてしまうことが度々です。そして、「いつもあるもの」「いつまでもあるもの」は、たいせつにすることはできません。つまり、「たいせつなもののたいせつさ」がわかりません。年を重ねるほど「反省の念」が浮かびます。しかし、それは実は逆で、本来は、こうした自覚は「年をとった人」ではなく「若い人」こそ身につけておくべき感覚ではないでしょうか。それがこれから送る長い人生の豊かさにつながるからです。

 かつて、特に田舎では「身内の死を家で看取る」ということが珍しくありませんでした。ところが今は「核家族」、「病院で死を迎える」という場合が多く、人が次第に身体が弱り、「生命の火」が消えていくという、厳しい現実を眼にすることがあまりありません。寿命の限りや生命のたいせつさを「感得」する機会がなくなりつつあります。
 子どもたちが大好きな「カブトムシ」や「クワガタ」は貴重な捕獲の機会を逃したり、死んでしまっても、売っているので、いくらでも「代替」が利きます。たいせつにする必要は感じません。魚や鶏、生きたものを家庭で捌くという機会も少なくなり、「限りある生命」がどんどん見えにくくなってしまっています。

 先ほどの『指示待ち』や『手をこまねく』という問題でも、今「生きている」ということのたいせつさがわからなければ、「いつまでも待っていられる」し、「いつか誰かがやってくれる」ということになってしまいます。「時間がある(なくなることに気づかない)から、今やらなくてもいい」のです
 「海辺の家」のような映画は改めて、生命の限りや人生の大切さを考える機会や、親子で話し合うチャンスを用意してくれるでしょう。
 もう一つの傑作は、「縞模様のパジャマの少年」。ナチスによる悲劇を思いもよらぬ視点から描いた作品です。それによって悲惨さが際立ちます。「海辺の家」も「縞模様のパジャマの少年」も大きな賞や栄誉には恵まれていませんが素晴らしい作品です。

今週は他に「GATTACA」と「ザ・インターネット」を推薦しておきます。