『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

「過保護」を超克する学体力②

2013年05月25日 | 学ぶ

「過保護」で失ってしまうもの(1)ー「自らを守り、自らを律する力」
 十年くらい前、団では実施している課外学習(立体授業)の他に、「腕白大学」という取り組みをしたことがありました。さまざまな職業の方にお願いし、勉強と少しはなれた話をしてもらい、子どもたちの興味を引き出し、見聞も広めさせたいという意図からです。

 板前さんとトラフグやイセエビを調理したり、ジャズのプレイヤーを招いて楽器の演奏やリズム遊びをしたり、印刷会社の友人に頼んで「色の話」、短歌を吟ずる友人と「うた」もつくりました。

 

 かつて知り合った深瀬(昌久)さんのことば(「君はエゴン・シーレみたいだ。写真を撮れ」。嬉しかったです)に力を得、一時写真にのめり込んでいたぼくも「アナログカメラ」でモノクロ写真の講義(「古いカメラで光を読む・世界を見る」・落ち葉の写真・モデル撮影は拙作)をしました。

 なかでも、数年つづけて子どもたちにもっとも人気があったのが「ぼくは名ドライバー」です。自動車教習所の友人にお願いし、練習コースを子ども自らが運転して周回するという取り組みでした。運転にはもちろん、指導の先生が同乗します。
 あるとき、入団したばかりの三年生が「参加しない」というので、家に連絡すると、医師のお父さんがやはり「参加は見送る」という返事です。理由をたずねると、「車を運転させること自体危険だし、家の車を一人で運転するようになったら困るから・・・」。

 「実際にハンドルを握り、ブレーキやアクセルを踏み、本物の車の威力を感じ、交通ルールもきちんと指導されること」で、「より安全に注意する子」が育ちます。「やってはいけないこと」を悟るのです。男親にもかかわらず、このお父さんは発想がまったく逆です
 お医者さんといえば、仕事柄、日々それなりに学識や考えることを積み重ね、冷静な判断力が問われる職業です。果たして「子育て」を冷静に判断できているでしょうか。
 団では、時々子どもたちにノコギリやナイフを使う作業をさせます。子どもたちは、不注意で小さな怪我をすることがあります。しかし、その小さな傷や血が出る痛みで刃物を扱うことの危険度をよく理解していきます。つまり、「小さな傷を経験すること」で、「危険なものにむやみに触れてはいけないこと・自らをコントロールすること」をよく理解するのです
 そのとき自らが感じる痛みで、他人の痛みもイメージすることができます。思いやりの心が生まれ、より安全に気を配ることができるようになります。

 逆に、威力がわからず、自らをコントロールできなければ、刃物に限らず、どんなものでも凶器に変わります。注意力を身につけ、正しく危険度を判断でき、セルフコントロールできる子にしたければ、使わせてみるという経験がたいせつです。それが正しい指導法だと信じています。

 もちろん、使用に際し、安全性について最大限の注意を払うことは当然です。 団の子どもたちはナイフや道具の使い方やルールをよく理解して育ってくれます。大きな事故や事件は、指導の間も家庭でも今まで一度もありません。
 使ったことのないもの・手を触れたこともないものを、いくら「危険だ、危ない」と注意したところで、危なさがきちんとわかるでしょうか? 事故はたいてい不注意、あるいは危険度をきちんと認識できていない状況のときにおきます。「危なさをちゃんと認識することで、事故が起きないように意識する」のがぼくたちの感覚です。危なさを知らなければ、身を守る術もわかりません。
 それより、ほとんど野放しにされていますが、ゲームセンターやパソコンで今、ボタン一つで自分の身が安全で傷つく恐れのないまま相手をいたぶり、やっつけ、抹殺する快感が子どもたちの間に「蔓延」することの恐ろしさに、もっともっと注意をはらわなければなりません
 さて、この超保護の男の子の「その後」と問題点については、次週詳しく展開します。


「過保護」を超克する学体力①

2013年05月18日 | 学ぶ

子どもたちには何を教えるべきか?
          ー「ふつうのことができるように育てる」のが、子育ての基本です
                                            (先週告知したタイトル名を変更しました)
 前回まで、子どもたちの現在の学習環境の問題点について触れてきました。

 有名校進学という目標に特化した、いわゆる「教育ママゴン」的子育ては、相変わらず偏差値の上下や合格のためだけに多くの労力や神経が使われている。その陰には忘れられ、ないがしろにされてしまっているものがたくさんあるのではないか。

 つまり、「受験や進学準備に忙しく」、素直さ・やさしさをはじめとする人間性や人となりに目を向け、子どもたちの全体像・将来のイメージを思い描くという視点をもつ余裕がなくなっているのではないか。子育ての基本とも言うべきたいせつなことが二の次になっているのではないか。今の世の中を見ていて、そんな気がするのです
 そんなことは、「学習」や「学力」とは関係ないと思う人がいるかもしれません。しかし、「学習や学力だけの脳」が存在するわけではありません。ぼくたちの考え方や行動のすべてを支配する脳はひとつしかありません。学習や学力に、そのバランスが影響しないわけがありません。
 たとえば「素直さ」や「人の話を聞く姿勢」が「学力の定着や伸び」にも大きく影響するという事実は、子どもたちをきちんと見ながら学習指導している先生方なら日々実見しているはずです
 幼児から「ガンガンに」小学受験準備塾や幼児教室に通わせているお母さんに、「どんな子に育てたいのか」と聞くと、あっけらかんと「ふつうに結婚してくれればいいわ」という返事をしたといいます。
 「わがまま、人の話を落ち着いて聞けない、自分勝手」。育っているその姿を見て、「子どもにとって何がたいせつなのか、わかってるのかな」と聞いたお母さんは思ったそうです。
 それぞれの親には「受験」の前にまず、社会を構成するひとりの人間を育てているという責任があるはずです。子どもはみんな、やがて社会に出て行きます。「当たり前のことが当たり前にできるようになることが大人になること」、それが一市民、ひとりの社会人としての前提です。
 「ふつうに結婚してくれればいい」のであれば、「人の話を聴ける、つまりきちんとコミュニケーションがとれる」、また「自分勝手ではなく、他人を思いやれる」という、「ふつうのこと」がきちんとできるように育てることが、親になった人の義務であり、責任ではないでしょうか。

「自己満足」で終わる子育て
 ずいぶん前のことになります。考えてみていただきたい例をあげます。

 団では紹介のように、指導の柱として毎年一連の課外学習や野外活動を取り入れています。指導の様子・指導に対する理解を深めてもらうために、腕白ゼミの二・三年生や、入団後一定期間には、課外学習への保護者の同行をお願いしています。
 かつて、「中学受験用」私立小学校へ入学したばかりの女の子とお母さんが、体験入団で「トレジャーハンティング」に参加しました。お母さんは「幼時からバリバリの受験指導をしている」という噂がぼくの耳にも届いていました。
 「トレジャーハンティング」。とある小さな川で川底の砂を浚え、アルミのお盆などで「パンニング」をくり返すと、小さなガーネットやジルコン・石英・サファイアなどを集めることができました。宝石ではなく、小さくきれいな石ころでも子どもたちは夢中になります。「環覚」を育てるには絶好の学習対象です。
 ちなみに、この課外学習の実施は、まず石や鉱物に関心をもち、最終的には「地球のなりたち」また「地球の歴史」や、「岩石サイクル」にまで興味を広げてほしいという意図からです。決して「宝石を見つけるため」ではありません。探してほしいのは「心のなかの宝物」です

 さて、パンニングの要領を説明し、それぞれ親子や友だち同士で作業をはじめました。
 しばらくして一人だけつまらなそうに、ぼーっと立っている子に気づきました。件のお母さんの近くです。不思議に思って観察すると、そのわけがよくわかりました。
 準備よく半ズボンに着替えたお母さんが、「子どもそっちのけ」で銀盆をもち、目の色を変えて夢中でパンニングをくり返しています。「自分の道具がなく、つまらない」女の子がお母さんに話しかけても、うるさそうに、「あっちに行ってみんなと一緒にやってなさい」。自己満足でしかありません。
 一事が万事。お母さんの「母親としての気の使い方」がどこまでか。
 だれの受験か? 何のための受験か? 受験や受験勉強の前に忘れられている、もっとたいせつなことはないでしょうか?
 「慈愛」。
 ぼくはそのとき、受験には合格したけれど、子育てでいちばんたいせつな「母親の無条件の愛」を知らないで育ってしまうだろう、と心配になりました。受験も子育ても「自らの満足感を満たすためだけ」におこなわれているようすが想像できたからです
 もうひとつの例です。
 有名私立中学で新入生の合宿の際、用意された夕食に手をつけない子がいるので先生が問いかけると、「いつもお母さんに食べさせてもらっているから」。当該の学校関係者に聞いた話ですから実話です。「超保護」で「受験勉強だけさせられた」子が一流校に進学しているのです。

 園児にさえ、早く一人で食べられるようにと考え、指導するのがふつうです。「大きくなったときどうなるのか」というイメージや、「どう育てるのか」という基準やルールのないまま、子育てが進んでいます。
 ここに見られるのも自己満足です。あたかも「ままごと」でもしているような、「信じられない子育てが一部で始まっている」と思うのですが、いかがでしょうか。

 学力や高い能力を身につけるのは何のためなのか。高い能力には自主性・高い見識や実行力がともなってこそ大きな意味があります。「優秀さ」はそれらがともなうことによって人生でも社会でも有効に機能します
 子どもを「教え育てる」はずの「教育」、その「教育」は今文字通りの「教育」として成立しているでしょうか? このような教育環境・学習環境を「異常だ、たいへんだ」と考えられる人がどれだけいるか? 風潮の危うさに気がつく人が一人でも多いことを祈らざるを得ません。
 先に話した福井博士や湯川三兄弟のお母さんのエピソードと比べてください。今回のお母さんたちの「愛情」と「母としてのまなざしの行方」、みなさんはどう感じられましたか?


教育ママゴン脱出作戦 ④

2013年05月11日 | 学ぶ

「ある」ようで、「無い」かもしれない愛情 
 厳しく聞こえるかもしれませんが、今風の子育てを見ていて、いちばん欠けていると感じるのは「愛情」です。評判の塾や学校に子どもを入れるという「安心感」は、言い換えれば「子育てを人任せにしてしまっている(せざるを得ない、という面も多少ありますが)安心感」です。「愛情があるようで、無い」、そんな気がするのです

 どんな意味においても、子どもの成長に責任をとらなければならないのは親。
 日々正面から子どもに向きあうことで子どもは素晴らしく育ちます。一部で評判の良いエリート養成の塾や進学率の高い学校に何とか入ってほしい・・・と、「人」頼りでウロウロするのが「素晴らしい子育て」ではありません。
 子育て、ひとりの子を育て上げるまでのやり直しはききません。また、ヒトは「まちがえる動物」です。はじめてのことは誰しも不安で、誰かを、あるいは何かを頼りたくなります。
 しかし、人にゆだね、判断を預け、指導まで・・・とすべて任せてしまうと、「親としての自らの誤りを自ら正す力」は身につきません。子どもを育てながら親も成長し、お互いのより良き人生が成就します。

 自分が中心になった子育てをせず、塾や学校に入れることに夢中、預けて責任の所在をうやむやにしていると、うまくいかなければ、また、変わろうか? 変わればいい! というわけです。責任が軽くてすみます。その間に子どもは大人になっていきます。現在子育て最中のお父さん・お母さんにそういう傾向はないでしょうか。
 人はまちがいに気づき、「自ら」修正することで成長や発展をはたしていきます。「まちがいを正せる修正能力」・「考え直せる力」―「メタ認知」は、自らが日々手を下していない限り身につきません。人任せでは、いつまでたっても自らのまちがいに気づかず、「冷静な判断力」や修正能力を養うことはできません
 まず保護者自らが、理想の姿を思い描き、あるいはあるべき姿をイメージし、目の前にいる子どもたちにしっかり目配りし、真剣に子育てに向かえば、「何をすればよいのか、どうすればよいのか」が少しずつはっきりするはずです。
 理想の姿・あるべき姿とは、自らの子どもが人の役に立ち、社会で活躍してほしいという願いであり、夢です。人は一人では生きていけません。どこまで行っても社会の中の個人です。どういう夢であろうと、その夢は個人のものだけではなく社会にとってもたいせつな夢です

 これは子どもに対する強制ではありません。夢を描く人が身近にいて、子どもは夢を描くことを覚えます。その姿から、子どもは自らの夢を築きあげるヒントや手がかりを手に入れます。そうした子育ての姿勢と日々の行動が受け継がれ、次代を担うべき、夢と希望に溢れた、責任感の強いこどもを育てていきます。
 さて、「子どもにきちんと目が届き、ちゃんと向き合う」とはどういうことか。
 理解していただくためには「ちゃんと向き合えていない例」を紹介することがわかりやすいと思います。そこから類推すれば、正しいことがきちんと見えてくると信じています。
 取りあげた例の多くが、受験のために、『定評ある』中学進学用私立小学校に入学させ、全国的にも「名の通った」塾に通わせている、子どもの成績に一喜一憂、相当以上に教育熱心なお母さんたちの行動エピソードです。

 ふだんから受験一辺倒で、そのための成績確認には余念がありません。しかし、実際に子どもと過ごし、行動しているとき、「ほんとうに大切なところ・見るべき所を見ることができているかどうか」。それができなければ、子育てははじまりません。いちばん大切な子育てのポイントです。
 「子育ては人育て」。見るべき所をきちんと見ていかないと、取り返しのつかないことばかりです。必要以上に情報を追いかけ、追いかけ回されているうちに肝心なところが抜けてしまっている。受験を追いかけているお母さん方によく見られる例です。
 ぼくたちはよほど優れた能力をもっていない限り、すべての面に神経を走らせるということはなかなかできません。したがって、「この子を大きく育てる(もちろん身体のことではありません)ためには、今何がたいせつか、その優先順位はどうするべきか」、その判断が最も大切になってきます。もちろん、その前に判断する基準がきちんと備わっていなければなりませんが。
 親も子どもも人生は一回です。次週からの例を参考にしていただき、たいせつな子育てに役立ててください。そして受験合格という小さな夢ではなく、もっと大きな夢に向かう子どもたちを育てていただきたいと思います
 次回エピソード第一回は「百か、ゼロか」事件です。

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教育ママゴン脱出作戦 ③

2013年05月04日 | 学ぶ

森の音は賢母の声
 ぼくたちにやすらぎと心の潤いを届けてくれる木々。花々。
 都心でも緑が多い公園は、昼休みや休日になるとみんなが集まってくる憩いの場になります。四季折々の自然の変化で人生の彩りはより鮮やかに、味わいはより深くなります。

 ・・・知的空間というものを考えるときに、私がどうしても「自然」ということに関心が向いてしまうのは、自分が東京生まれだからかもしれません。こういう殺風景なところに生まれ育つと、自然の中にいることでどれだけ心が癒されるかということを、豊かな自然の中で生まれ育った人たちよりも、かえって強く感じます・・・
(「知的生活・楽しみのヒント」渡部昇一・林望著 PHPより)

自然に癒される感覚は、ぼくたちの多くが共通してもっています。森や自然と僕たちとの近しい関係は、恐竜をおそれて森に逃げ込んだ小動物の時代から五千万年以上続いています。その間庇護してくれた森への敬慕の思いも身体の奥深くでしっかり根付いていることでしょう。
 生命の維持や感情の動きに関わる脳の古い部位には、全身の感覚器官から受けとった情報を集積し、生きるための反応や行動を繰り返してきた歴史があります。遺伝子には森での生活体験や生命の維持に関わる歴史も刻印されているはずです
 そう考えれば、心が落ち着いたり、癒される感覚は当然かも知れません。自然は気の遠くなるほど長い間私たちの生命を養い、魂を育んでくれた、心とからだの故郷ですから。
 そして、自然は僕たちを癒してくれるだけではありません。子どもたちの健やかな成長にも大きく寄与してくれます。たくさんのことを教えてくれるのです。

 「森はコミュニケーションの基本を教えてくれる」。森に分け入った経験のない人には、想像もつかないことかもしれません

 お互いの理解を深めるためのコミュニケーションでたいせつなことは、まず相手の意見を聴く姿勢です。夫婦げんかが好例ですが、相手の言うことを聴くようにしないと、聴ける状態にないと会話は正しく成立しません。
 また、「人が前に立って話をしたら、きちんと話を聴く」というのは、社会生活を送る上でも、たいせつなエチケットのひとつです。森や自然はこれらの姿勢を育てるのにも大きなはたらきをしてくれます。体験学習を重ねて成長していく子どもたちを見て、毎年そう感じます。
 夏、渓流教室の散歩で森に踏み込むと、森は子どもたちを「大聖堂」のように迎えてくれます。身体に深く染みいるように香りが漂い、みんなその静寂に圧倒されます。
 歩を進めるとともに自然の力の豊かさや深さ・その包容力に気づき始め、子どもたちの心は敬虔な思いにさえ満たされていくようです。そのとき聞こえてくる森の音は、ひかえめな中にもそれぞれの主張がきちんとあり、心と身体に深く響いてきます。

 せせらぎの音は朝靄の森を抜け、驚くほど遠くまで涼やかさを運んでくれます。音にも透明感や儚さがあることを夕暮れのヒグラシが伝えてくれます。
 森の音は子どもたちに、ぼくたちが生命あることを見届ける心も準備してくれるのです。生命の有り様を子どもたちに示してくれるのは喧噪ではなく、森の静寂です
 人の話を聞くとき、田舎の子は都会の子に比べてうるさく騒いだり、話の邪魔をする子が少ないような気がするのは、気のせいでしょうか。
 自動車の音を始め、見境もなく無遠慮にがなり立てるようなさまざまな音に毒され、聴くという態度の成立そのものさえ困難になるような都会の日常。そのうえ、いやなものは聞かなくていい、見たいものだけ見ればいいと、音や画像を一方的にスイッチで遮断することがふつうになってしまった生活習慣。田舎の子は、未だそういう習慣に染まっている子が少ないからかもしれません。
 日々の静寂の中で小さくとも千変万化に主張する響きが子どもたちを育てているのでしょう。自然の静寂は、「向かい合うものに対する」子どもたちの態度を変え、きちんと「聴く姿勢」を育ててくれるのでしょう

 ちゃんと話を聴けない習慣や態度はコミュニーケーションのエチケットに違反するだけではあり
ません。話が聴けるかどうかは、さらに大きな意味ももっています。学習をスムーズに進めるために欠かせない条件が「話を聴くという姿勢ができていること」です。勉強できるようになるための原則です。
 できる子というのは、たいてい「他人や先生の話を聴くことのできる子」です。「集中して聴く」という姿勢がないと、「考えること」は始まりません。考える段階までは進めないからです。頭の中に入らないものを考えることはできません。きちんと聴くことができなければ学力の伸長など望むべくもありません
 また、聴くことができる子は、問題に向かったときにも「答えなければならないこと」をきちんと読みとれます。相手を理解しようとする態度がともなわなければ聴くことができないからです。
 もちろん問題を読める漢字力や読解力も必要ですが、話を聴ける子とそうでない子の注意力や集中力には大きな差ができています。さらに「しっかり聴くという経験を積み重ねること」によって「理解する速さ」もどんどん増していきます。

 螢狩りや渓流教室で森や里山の静けさと親しむ経験を経た子どもたちは、翌年、うららかな春の野辺、土筆ハイクでウグイスと出会うことになります。一生懸命「鳴きまね」をしているのがほほえましく、理由を聞く子どもたちから笑顔がこぼれます。
 でっかい筍掘り、田植えと春から夏の課外学習を重ねる間に、次第にウグイスらしく整っていく声は、子どもたちに自らの成長の姿もかいま見せてくれます。自らを振り返り、少しずつ自信が生まれ、その自信にともなって、さらなる目標が生まれてきます。成長しているという自覚があればこそ、責任の自覚も生まれます。優しさと他人に対する気遣いはそこから生まれます。
 「人の話をきちんと聞きなさい」という注意があまり聞かれなくなってしまった今、子どもたちにとって森の音は、実に、やさしい賢母の声なのです

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   立体学習を実践 学習探偵団 http://www.gakutan.com/
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