「過保護」で失ってしまうもの(1)ー「自らを守り、自らを律する力」
十年くらい前、団では実施している課外学習(立体授業)の他に、「腕白大学」という取り組みをしたことがありました。さまざまな職業の方にお願いし、勉強と少しはなれた話をしてもらい、子どもたちの興味を引き出し、見聞も広めさせたいという意図からです。
板前さんとトラフグやイセエビを調理したり、ジャズのプレイヤーを招いて楽器の演奏やリズム遊びをしたり、印刷会社の友人に頼んで「色の話」、短歌を吟ずる友人と「うた」もつくりました。
かつて知り合った深瀬(昌久)さんのことば(「君はエゴン・シーレみたいだ。写真を撮れ」。嬉しかったです)に力を得、一時写真にのめり込んでいたぼくも「アナログカメラ」でモノクロ写真の講義(「古いカメラで光を読む・世界を見る」・落ち葉の写真・モデル撮影は拙作)をしました。
なかでも、数年つづけて子どもたちにもっとも人気があったのが「ぼくは名ドライバー」です。自動車教習所の友人にお願いし、練習コースを子ども自らが運転して周回するという取り組みでした。運転にはもちろん、指導の先生が同乗します。
あるとき、入団したばかりの三年生が「参加しない」というので、家に連絡すると、医師のお父さんがやはり「参加は見送る」という返事です。理由をたずねると、「車を運転させること自体危険だし、家の車を一人で運転するようになったら困るから・・・」。
「実際にハンドルを握り、ブレーキやアクセルを踏み、本物の車の威力を感じ、交通ルールもきちんと指導されること」で、「より安全に注意する子」が育ちます。「やってはいけないこと」を悟るのです。男親にもかかわらず、このお父さんは発想がまったく逆です。
お医者さんといえば、仕事柄、日々それなりに学識や考えることを積み重ね、冷静な判断力が問われる職業です。果たして「子育て」を冷静に判断できているでしょうか。
団では、時々子どもたちにノコギリやナイフを使う作業をさせます。子どもたちは、不注意で小さな怪我をすることがあります。しかし、その小さな傷や血が出る痛みで刃物を扱うことの危険度をよく理解していきます。つまり、「小さな傷を経験すること」で、「危険なものにむやみに触れてはいけないこと・自らをコントロールすること」をよく理解するのです。
そのとき自らが感じる痛みで、他人の痛みもイメージすることができます。思いやりの心が生まれ、より安全に気を配ることができるようになります。
逆に、威力がわからず、自らをコントロールできなければ、刃物に限らず、どんなものでも凶器に変わります。注意力を身につけ、正しく危険度を判断でき、セルフコントロールできる子にしたければ、使わせてみるという経験がたいせつです。それが正しい指導法だと信じています。
もちろん、使用に際し、安全性について最大限の注意を払うことは当然です。 団の子どもたちはナイフや道具の使い方やルールをよく理解して育ってくれます。大きな事故や事件は、指導の間も家庭でも今まで一度もありません。
使ったことのないもの・手を触れたこともないものを、いくら「危険だ、危ない」と注意したところで、危なさがきちんとわかるでしょうか? 事故はたいてい不注意、あるいは危険度をきちんと認識できていない状況のときにおきます。「危なさをちゃんと認識することで、事故が起きないように意識する」のがぼくたちの感覚です。危なさを知らなければ、身を守る術もわかりません。
それより、ほとんど野放しにされていますが、ゲームセンターやパソコンで今、ボタン一つで自分の身が安全で傷つく恐れのないまま相手をいたぶり、やっつけ、抹殺する快感が子どもたちの間に「蔓延」することの恐ろしさに、もっともっと注意をはらわなければなりません。
さて、この超保護の男の子の「その後」と問題点については、次週詳しく展開します。