『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑥

2016年06月25日 | 学ぶ

先生より、「せんと(先徒)くん」!
 ファインマンのお父さんらが子どもの好奇心を引き出したテーマはそんなに専門的ではありません。また、多くの人は「ほぼ素人」でした。ふだんあまり気づかない周辺の対象の観察や指導をすすめたことで、そのおもしろさに目覚め、環境に対して「科学する心」が芽生えていきました

これらを考えると、「見慣れた身近な環境こそ、おもしろいものの宝庫である」という発想・展開が有効だと思います。
 ニュートンが晩年「私の前には真理の大海が、手つかずのまま広がっている」と言いましたが、子どもたちは、まず眼前の「手つかずの大海」に気づくことができなければなりません。日ごろから、周囲やふだんの環境に目を留められるようになることが大きな目標です。
 学習対象は「勉強の範疇だけ」にとどまるものでは決してなく、自らが生きている環境なのだということに気づくこと。それによって、学習に対する親近感と学習の必要性を納得して(認識して)欲しいわけですから
 また、指導する側が、テーマ・学習内容に対して『上から目線』ではなく、自ら「おもしろがる(がれる)こと」。「初学者」への導入です。それによって「不思議」の扉が開かなければなりません

 そこにはどんな、おもしろがれる謎があり、何がわかるか? なまじっかの専門知識より、その姿勢の方がたいせつではないかとぼくは考えています。つまり、先生より「せんと(先徒)くん」です。お父さん・お母さんも「せんとくん」ならできるでしょう。ですから、「立体授業」はほとんどの人に『できる』指導なのです。
 
でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅴ
20p 陸上進出当時の面影を今に残す魚たち
(「21世紀こども百科宇宙館」小学館・「小学館の図鑑NEO魚」より)
 前回、渓流教室や蛍狩りで、みんながよく捕まえる「ヨシノボリ」をムツゴロウとともに紹介しました。ここで魚の陸上進出のイメージが身近になるように、「当時の面影を伝えている魚」を改めて紹介します
 ヨシノボリの腹側には岩にくっつける吸盤がついていましたが、「トビハゼ」はそれらを利用して岩や木の上にのぼり、ほとんどの時間をそのうえで過ごします。「魚は陸上で過ごせる!」例の確認です。
 また、「イザリウオ(今は改名されたようですが?)」は泳ぐのが苦手(!)で、胸鰭と腹鰭を使って海底をのそのそと歩き回る魚です。ハイギョはその名のとおり肺が発達している魚です。足代わりのひれや肺呼吸、これらの要素や条件は、魚が陸上進出するイメージの伏線になります

 閑話休題。先の「イザリウオ」ですが、次から次へと差別用語に選定され、ことばがどんどん貧困に、そして「無機化!」していきます。それにつれて、「人の心」が『やせ細って』行きます。
 「ことばを規制すれば差別がなくなる」とでもいうのでしょうか? 今、「いざり」という言葉を知っている人がどれだけいるか?「ことばが悪いのではなく、使い方が悪い」のです。ここにも「使わせないナイフ」方式、結局は教育放棄の無責任思考がのさばっています
 「使わなければ安全だ」ではなく、「使っていいか悪いか」を判断できることが、「安全な社会」をつくるのです。そこに人間の尊厳と理性が生まれます。それらを指導するのが教育だと思います。
 理想論だという人がいるかもしれません。しかし、これから大きく成長する子どもたちに、まず理想を教えないで、何を教えるのでしょう。何とかファンドの誰かのように、「金を儲けちゃ悪いんですか」と教えるのでしょうか?

21p 肺とウキブクロの関係がわかるハイギョ(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 ハイギョは、陸上動物への進化の過程で呼吸方法の変化のキーポイントになる魚です。泥を使って壁を塗ったら、やがて中からハイギョが出てきた、などという「笑い話(?)」もインパクトがあります。
 ぼくは「ヒトのからだの学習」で、肺の機能・胃や心臓のはたらきを羅列的に学習するのではなく、「生きていく上で、それらのはたらきが、いかにうまく統一され進化してきたか」を伝えたいので、呼吸については少しくわしく知ってほしい(内呼吸まで)と考えています。
 自律神経によって管理統一されている「からだのはたらき」はすばらしいものです。健康を維持していくためにも、きちんと学んでおいたほうが良いことです。小さいころ、「身体のはたらきのすばらしさ」を学んでいたら、健康に対する余計な心配がずいぶん少なく、身体に自信がもてただろうと思っています。子どもであるからこそ、その自覚による可能性の広がりは担保しなければなりません。
 このスライドでは、「ハイギョが現在も生息している、オーストラリアやアフリカ・南アメリカに共通する条件は何か」などと考えてみることで、地理の学習に波及します。こういう小さな積み重ねが、「学ぶたいせつさ」や「学ぶおもしろさ」というジグソーパズルを完成する『ワンピース』になっていきます。

22p 呼吸器の進化と内呼吸
(「中学スーパー理科事典」受験研究社、「21世紀こども百科 宇宙館 小学館より)
 最初えら、肺とえら、肺・えらとウキブクロと続く進化をたどります。両生類がえら呼吸から肺呼吸に変わること、また機能が十分ではないので、皮膚呼吸も行っていること。
 また、肺呼吸が肺のまま海中に逆戻りしたのは「だれ」か? 陸上への進出、また海中への逆戻りも何か理由があるわけで、それを考えてみます。
 変化や進化には、たいていの場合理由があるわけで、そこではまちがいなく「生き延びるための工夫」が見られます。「生きていくことは、そんなに簡単じゃない、一生懸命頑張らなくてはならないのは、自分だけではない」という実感は、ぜひ身につけて育ってほしいとかんがえています。

23p ヒトの呼吸のしくみと腹式呼吸
(「中学スーパー理科事典」受験研究社、「しくみと病気がわかるからだの事典」成美堂出版、からだのしくみカラー事典 主婦の友社)
 呼吸の模式図は中学受験で頻繁に見る問題です。図を見て問題に答えられても、横隔膜のはたらきを「体で感じる」ことはありません。ろっ骨を触ってみることはあるでしょうか? そういう学習が「記憶の材料にしかならない学習」です。ちなみに、呼気と吸気で提示した入試問題でよく使われるイラストモデルではろっ骨が動くということがわかりません。正しいことを教える、あるいは指導の際、補足をするべきです。

 呼吸方法の男女差や、腹式呼吸と胸式呼吸の呼吸方法のちがいは体験できます。また、腹式呼吸はぼくたちの身体のはたらきを支配する自律神経にコミットできる数少ない方法で、腹式呼吸を実践することによって、セルフコントロールやリラクセーション等、様々な効果が生まれます。お坊さんの座禅の呼吸法でもあります。スポーツ選手の力や歌手の声の出し方にも、呼吸は大きくかかわっています。それらを伝えます。
 手近なところでは「試験にあがってしまう」精神状態をコントロールすることも可能です。これらの学習内容も、学習を身近に感じる役に立ってくれるでしょう。

24p シーラカンス(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 四足動物に進化したのは肉鰭類であるといわれています。現在では、シーラカンスの仲間のことです。現在も四億年前の化石とほとんど変わらない姿で、胸鰭と腹鰭の根元には骨格があり、付け根は足のようで、その先に木の歯のような形のひれがついています。それが上陸へのアドバンテージになりました。
 

こののちのユーステノプテロンは4枚のひれの先に、さらに指のような骨が発達しています。その本数は7本です。指はその後も様々な本数の生物がいたようで、「人間の指が5本に落着いた理由」を考えても、おもしろいかもしれませんね。
 結論は出なくて関係ありません。「対象について考える」という習慣が「学習」です。その積み重ねがやがて「勉強(それも、ほんとうの!勉強)」にもつながるはずです

24p 水中から陸上へ―四足動物の誕生(「小学館の図鑑NEO大むかしの生物」より)
何億年という時間をかけて、脚を身につけ、呼吸方法を工夫し、魚たちは何とか陸上進出を果たしました。しかし、そこは『天国』ではありません。水中の浮力に慣れたからだを、今度は自らの足だけで支えなければならなくなりました。そのための骨やからだのしくみの変化を要求されます。

 敵から逃げ、食料を求めて新しい環境に乗り出しても、そこはそこで新たな障害が待ち受けている。それらを克服しなければ、自らの生命の維持や快適な環境は望めず、種の進化も遂げることが出来ない。

 何やら身につまされる話ですが、生命の歴史をたどると、「いかに生命がたくましいか」ということが再認識できます。生命力の強さに改めて敬服します。この観察も、子どもたちに、ぜひ伝えたいことです。「がんばるんだよ」という地球の先輩からの『無言のエール』です。最後に脊椎動物のまとめを考え、『例外』のおもしろさに注目です。


「でっかい鯰釣り」の立体授業で辿る「進化のスライド」頁はここまでです。この後は、食としての魚、課外学習でよく見る魚…と続いていきます。以下次週。

COLLATERAL
DVDの紹介です。「COLLATERAL」。
 あまり見慣れない単語ですが、ロングマン(現代英英辞典)によれば、名詞としての意味は、property or other goods that you promise to give someone if you cannot pay back the money they lend you とあります。また形容詞の意味としては、他にrelating to something or happening as a result of it, but not as important。また、collateral relatives are members of your family who are not closely related to you。とあります。
 これらからすれば、日本語としては、巻き添え・遠縁・見返り・拾い物・・・等と訳語の様々な発想がわいてきます。ところが、映画のタイトルはCOLLATERALのまま。

 みなさん、この映画のイメージがわきますか? わかりますか? 
 ぼくは、もしこの映画が秀逸な日本語タイトルであれば相当ヒットしたのではないか、と想像しています。「COLLATERAL」にするのであれば、二番煎じにはなりますが、「『恐怖の報酬』や『見知らぬ乗客』や『タクシードライバー』というような視点」からの発想でもよかったのでは、と思います。
 「映画タイトルが「原語」のまま」ということは間々ありますが、ほとんどの場合、関係者の発想やイマジネーションの貧困がその理由ではないでしょうか? 「よい訳語が浮かんでこない」、「ぴったりのイメージが見つからない」。
 だからと言って、「相当英語に堪能な人以外、あまり聞いたこともないことば」をそのままタイトルにするような「宣伝部員(!?)」は、ぼくが上司であれば、即「Fire!」です。

 京大を受験するOB生の学習指導を兼ね、「英語の原書を読めるようになりたい」と数年前から「独学」を始めたことは以前書きました。その経験でよくわかったことは、「『英和辞典あるいは、頭の中の英和辞典』に縛られすぎること」の弊害です。
 学校時代から新出の英単語を、ほぼ英和辞典の字義通りに置き換え(させられ)てきた学習習慣の限界です。「歴史や国民性・生活習慣などすべてにわたってちがう国で使われている言葉が、文脈によって全く同じ意味に比定できる場合の方が稀である」という当然の認識をもちえなかったことです。

 和訳する場合に、その言葉の「『コア』の意味をとらえて、文脈から自由に発想をめぐらせる」ということがなかなかできなかった。発想の段階から「英和辞典」の訳語に縛られてしまう解釈法しか身につかなかった。その経験による発想やイマジネーションの限界です。宣伝部員の人たちは、その「しわ寄せ」を受けてしまったということです。
 英語を学習しなおして、ロングマンやオクスフォード現代英英辞典・PODを頼りに読み始めると、「文脈により生まれる一単語の訳語」は、ほとんど際限ないのではないか、と感じることがあります。そしてその「コア」のイメージを頼りに、日本語に比定しないでそのまま読む、ということが少しずつできてくるにつれ、内容がほんとうによくわかるようになりました

 OB生諸君とは英英辞典で学習を進めてきましたが、中学三年生以上の諸君や英語を学びなおしたいと思っている方々は、二・三カ月で慣れますから、ぜひ英英辞典での学習をはじめてみてください。きっと英語が楽しく、おもしろくなります。なお、DVDは他に、「ハイ・クライムズ」「天使のくれた時間」を紹介しておきます。


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑤

2016年06月18日 | 学ぶ

明日が変わる、一生が変わる
 「一日がたいせつ、時間がたいせつである」と感じてはいても、なかなか生活習慣や行動の変化にまで踏み込めません。なぜなのか? 
 若いころには、「寿命のこと」を真剣に考える前に、「ほとんど無意識のうちに湧きあがる元気」に気がとられ、さまざまな「欲求」を処理する方に一日が消費されます。さらに、有り余る(と考えてしまう)時間に「切実感」は生まれません。

 逆に、年を重ねるにつれ、続けてきた生活習慣や行動パターンを変化していくための元気や活力が次第に低下していきます。ヒトの身体の中には「元気」や「昂奮」という「風船」があって、それが若い時には「エア・バッグより速く膨らみ、瞬時に勝手に身体が反応しまっている、制御が利かない」。しかし年を重ねるにつれ、エアバッグはあっても咄嗟には膨らまず、「膨らませなければいけない」という意識のもとで、「空気入れ」を取り出してエア・バッグをふくらましても、もはや間に合わない。また、「今更変えても」という「あきらめ」が先に立ちます。
 つまり、「何かをしなければならない、どうにかしたい」とは感じていても、若い時も年をとってからも、行動を起こすためには、「強い意志力がなければいけない」ということです「秀でた人」というのは、その意志力と行動力をもっているヒトだと思います。「すべてに対して、その自覚を前提にすること」が基本になります。

 子育て世代は、これら両極端の間を揺れ動き、なおかつ子どもの教育や老後のたくわえのために「金もうけ」に走らなければいけない。そんな一日ですから、さらにたいへんだと思います。
 しかし、自らはもちろん、子どもたちの成長においても、日々のかけがえのなさを冷静に、客観的に振り返る時間をたいせつにすること以上にたいせつなことはありません。その繰り返しが子どもの成長を育み、一生を規定し、自らの人生を形作るわけですから・・・。
 たとえば、ぼくはこの欄で、繰り返し自然体験や野外活動のたいせつさをお話しします。それは、その機会の有無によって、子どもたちのその後の成長がまったく変わってしまうからです。自らが今まで「見たもの、訊いたこと、習ったこと、考えたこと」という、それぞれの「日々の体験の積み重ね」がぼくたちを形作っていきます。さらに、そこには大きな「落とし穴」が隠れています。
 体験や経験の少ない子どもたちは、体験や経験の多い子どもたちより、日々の情報量は少なくなります。影響は一日だけでは決して終わりません。一つ一つの情報が、次の情報の取得を誘うからです。「五感から取り入れる情報それぞれ」に対して、その「取得の差」が繰り返される毎日が続きます。

 その経緯を団の立体授業を例に考えてみましょう。土筆ハイクの、「つくし」が「車中」で話題になっているとします。「何も知らない子」がその話題を耳にしても、ほとんどの場合、注意が向かわず、「右の耳から左の耳へ」と通り抜けてしまうでしょう。知らないものには興味の向きようがないからです。
 しかし、土筆ハイクで土筆を採ったり、「往来」の中で、気候や自然環境を眼にし説明を聞いて観察をしている子たちは、その話が耳に留まり、イメージのリフレーンが始まるはずです。思い返し、聞いた情報のなかに新しい意見や知識があれば、「それらも習得していく」機会が生まれます。
 そして、次は、それらをもとにして「考えること」や「考えるきっかけ」が生まれるはずです。その繰り返しは長い間には考えられないほどの差になります。無意識ながらも、次の情報、次の情報と幾何級数的に増えていくからです。倍々ゲームです。

 こうした経験のない、ふつうのお母さんやお父さん方は、「勉強といえば、机に座って参考書や教科書を開く」というイメージしか浮びません。しかし、ほんとうに勉強ができる子は、そういう豊富な、幅広い経験を積みながら、「環覚」を養い、深く考えることを始め、そのとき知識も(!)増やしていくのです
 「机に向かい受験用問題集を開き、それらを覚えて偏差値を上げる」という類は、「一面的な勉強」です。「それらの学習は学ぶことの些少な一部である」という認識に変えれば、「地に足の着いた賢さ」が身についた子どもが育ってくれるとぼくは思います。

 今年の立体授業も先の「土筆ハイク」から始まり、「デッカイ筍掘り」・「でっかい鯰釣り」・「化石採集」と四つ終わりましたが、その過程で体験したことや感じたこと、学習したことの「総量」は、先ほどの「次の情報収集へのきっかけ」も含め、やがて膨大な量になると自負しています。「すぐには目に見えない力!」を溜めながら継続する学習指導がどういう子たちを育てるか。その成長のようすは、四年間の、このブログの折々のOB紹介に目を通してください。
 そして、自然体験や外遊び。何よりも日々の子どもらしい体験によって、明日が変わる、その積み重ねで一生が大きく変わることに、もう一度目を開いていただけることを心から願っています。



でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅳ
 さて、立体授業、でっかい鯰釣りのテキストとスライド紹介。4回目です。なお、来年度のスライド・テキストは紹介の順番での構成です。
 もちろん指導する側の考え方によってさまざまな構成が可能です。いずれにしろ、子どもたちにぶつけて、子どもたちが「考える(主体的に・能動的になる)きっかけ」をつくることができれば、それが最上の構成なわけです。
 問題を提示し、「子どもたちが考える」というきっかけをつくること。発言や発表を求めることで、彼らの中で「自分の考えまとめる」・「それを理解する(正しく理解する・理解を深める)」という経験も始まります。
「抽象的な環境」の下で「講義を聴くだけ」という指導では、「考えるという作業(!ほぼ作業に終わってしまいます)」も受動的で限定的にならざるをえません。能力や指導力が高い(と思い、思われている)塾(や指導者)に限って、「実りの少ない」一方通行の指導が「まかり通っていること」も多いはずです。

16p 魚のからだのしくみとはたらき(「小学館の図鑑NEO魚」・「スーパー理科事典」受験研究社より。なお呼吸関連の一部のイラスト出典が資料散逸で不明です。関係者の方申し訳ありません)

ヒトのからだ・動物のからだ、ふだんそれらを見ても、ぼくたちは疑問を感じたり、不思議に思うことはあまりありません。ところが本来、「子どもたちはすべて不思議に思うことだらけ」のはずです。「大人の目線」の否定から指導は始まらなければなりません
 ぼくの印象では、ほんの十年前まで、子どもたちは「なぜなに攻撃」を仕掛けてくるのが普通でした。現在の子たちは昔に比べて、「環境や自然に対する不思議や疑問に疎くなっている(興味が少なくなっている)」と感じるのは、気のせいでしょうか?
 何かを見て不思議に思ったり、疑問が生まれてくるのが子どものはずで、そういう意味から言えば、「子どもらしくなくなってきた」のが今の子です。「頭でっかち」になっているというか、「すべて知っているつもり」になっているというか、そういう「冷めた感覚」は「大きく成長するための害になる」と、ぼくは考えています。

 「何でもない、バカみたいなこと」に、疑問を感じ、追求していくことで、偉大な発明や発見が生まれたはずです。それらが「学びを進める大きな駆動力」にもなります。
 シャンデリアが揺れること、リンゴが落ちること、逆に月が落ちないこと…。日ごろから「もの」を見て、不思議に思うこと、謎が生まれること。それらの追求と発見が「学ぶおもしろさ」を手に入れ、大きく成長するためのスプリングボードです。できれば、小さいころにそれらに対する目を開くこと。『環覚』の育成です。
 魚の眼がよく動くのはなぜ? 魚に鼻はあるのか? あるとすれば、どうしてそう思うのか。どうしてわかるのか?
 魚の身体の形が大きくちがうのはどうしてか? 魚の種類によって赤い身と白い身があるのはどうしてか?
 魚のひれはどんな役目をしているのか? 魚の口をよく観察すると? えらの役目は何? 

 それらの疑問を上記のスライド等(まだスライドや写真は追加することがあります)で考えていきます。「なるほど」という納得が次の学習の足掛かりになります。最後に「えら」が来るのは、次の「魚の陸上進出と呼吸の進化」への伏線です。
 魚のからだの写真の提示と「謎」の問いかけや提案で、「『メダカのひれの形で オス・メスを見分けるだけの学習』でない世界」が広がります。また、それによって対象を観察すること・ものをよく見ることのたいせつさも伝えることが出来ます。

17p ムツゴロウ(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 「ムツゴロウ」の登場です。「魚の陸上進出」といっても、なかなかイメージがわきません。つまり、「そのまま」であれば『言葉による知識の習得』で終わります。それらがおもしろさを導くことは少ないし、覚えていても「クイズ」の答えになるだけです。ムツゴロウは子どもたちが興味をもちやすい魚です。また干潟は、田植えの「泥田」でイメージを補えます。陸上進出のイメージを、それぞれが補いやすくなります。

18p ヨシノボリ(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 ハゼ科のムツゴロウ・トビハゼは、子どもたちが蛍狩りや渓流教室で夢中になって捕まえる「ヨシノボリ」の仲間です。子どもたちは姿・かたちがムツゴロウやトビハゼに似ていることに気づきます。また身体の裏の吸盤も、子どもたちの想像力を誘うきっかけになります。
 自分たちがふだんよく見かける魚が、進化の過程で出てくることで、周囲や日ごろ見慣れたものに対して「新しい視点」が生まれます。これらの経験の積み重ねが『環覚』の育成には欠かせないと考えているからです

19p 魚類の進化の系統(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 「魚の進化」をたどってきたところで、無顎魚類・軟骨魚類・条鰭魚類・肉鰭類への流れをまとめます。この段階で、魚が固い背骨をもつようになった理由を考えてみます。条鰭魚類が筋の入ったひれが特徴で、現在の魚たちの大部分を占める、一番進化した魚であることも紹介します。
 「土筆ハイク」や植物の立体授業で、キク科がもっとも進化した植物であると紹介してあります。これら植物と動物の歴史を見届けることで、進化は「環境に適応するために生物の生きていくための工夫が生んだ歴史であること」がわかってきます。以下、次週。

「くりかえし」が創造の礎
 西村賢太さんの随筆集(題名は忘れました)をブック・オフで立ち読みしていて、横溝正史原作の映画を約100回(!)見たとの記述がありました。
 それだけ見ていれば、おそらく各シーンのつながりをアリアリと思い浮かべることができるだろうし、セリフも次から次と出てくるのではないでしょうか? つまり、創作は「くりかえし」によって、どれだけイメージを描いたか、イメージをたどる経験をしたか、というトレーニングが大きくものをいうのでしょう。「筆が走って話が生まれる」という類の作家の発想も、それら定着したイメージと自らの経験の「合作」です。

 「小説を書きたければ、気に入った小説を何度も筆写すればよい」というアドバイスを読んだことがありますが、それによって「きちんとイメージを浮かべ、作者の想像力の追体験をする」というトレーニングになっているからだと思います。
 素人は、ふつうそんなに何度も繰り返して見たり、読んだりすることはないし、意識を集中して、その「作業」を繰り返すこともないので、『創造』にまで至らないのでしょう。いずれにしろ、創造も学習も、「繰り返し」が大きな役目を果たすということ、「血肉化する」機会が欠かせない、ということなのです。

 今週のDVDは、「わが道を行く」と「スパイダー」。どちらも佳作です。


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導④

2016年06月11日 | 学ぶ

学探ワールド
 「でっかい鯰釣り」の企画意図。
 近くの小川でオイカワやカワムツを手作りの道具でバケツ一杯も釣りあげた快感。「小鮒釣りし、かの川・・・」の合唱で脳裏に浮かぶ野池。それらのイメージのリフレーンは『環覚』のなせる業です

 こう書けば、伝えたいと思っている『環覚』や「自然とのイメージのつながり」、そして学習対象や学習内容にともなってくる「親近感のレベル」が少し理解していただけると思います。多くの子どもたちには、今「雑魚つり」や「小鮒釣り」さえ(!)身近ではありません。さらに、今でも「ふるさと」は教室で歌われているのでしょうか? 
 比べて小学校や中学校の教科書の学習対象や学習内容はおどろくほどカラフルになり、わかりやすくビジュアル化されています。説明も精緻で、よく工夫されている素晴らしい教科書ばかりです。こんな教科書できちんと指導してもらえれば、わざわざ塾に行かなくても、難関中学の合格だって難しくないだろうな、といつも感心しながら見ています

 ところが、そんな良い教科書を使いながら、満足に話を聞こうとせず、授業を受けようとしない子どもたちがたくさんいるようです。その問題の「根っこ」は何処にあるのだろうか? もちろん現場で指導しているぼくも、「指導以前のさまざまな大問題(!)を解決すること」が先決であることは重々承知しています。しかし他には問題がないのだろうか。
 考えてみると、教科書の製作にかかわる人たち、そして「出来上がりに感心する」ぼくたちは、「収録写真の経験を経て育ち、そこから振り返っているから良い教科書だ」と思えるのです。「大人の目線」です。
 問題は、今のお父さん・お母さんたちも子どもの教科書を見て、はたして「よくできた教科書だ」と思えるかどうかです。思えなければ教えることやアドバイスすることも出来ません。そんな中で、現在の子どもたちは育ちます(ちなみに、昔の親が教科書を見て判断したわけではありませんが、それを補える自然環境がまだ健在でした)。

 たとえば、「『自然体験のない(少ない)お父さんやお母さん』と『虫の学習』」を想像してみてください。「気持ちワル―。私、虫苦手やねん。そんなん見たないわァ」。もちろん、学習内容に対するこうした感想の行く末は「虫の場合」に限りません。体験は年少者(学習初心者)の「あらゆる学びはじめ」に大きくかかわってきます
 自然がどんどん遠くなり、「ふだん見る生きもの」といえば、カ・ゴキブリやコバエばかりです。日常的に「学習対象になるさまざまな生きもの」に囲まれ、触れ、見慣れているわけではありません。「身近な感覚」がともなっているわけではありません。道端の雑草やスズメやカラスに目を留める子もほとんどいません。数少ない「自然体験」の林間学習や臨海学習のスタイルも、ほとんど「相変わらずの自然体験?」のまま踏襲されています。一年に一回(!)の「キャンプファイアーやカレー作り」を「自然体験(!)」とは言わないでしょう。

 朝露に濡れた草をかき分け、ズボンや足の冷たさを気にしながら、輝く「木漏れ陽」に目を留め、露玉が葉に落ちる音に耳をすませて育ったわけではありません。それらの体験の前提があってこそ、ビジュアル的にも素晴らしい教科書の体裁が「ものを言います」。よく見よう、よく読もうとします
 「この写真を使えばわかるだろう」とか、「おもしろくおもってくれる(!)だろう」とか、たしかに「体験の多い子どもたち」には、また「塾である程度の知識を身につけた子どもたち」にはそれなりの効果をあげるかもしれません。しかし、そんな子ばかりではありません。
 室内でゲームに明け暮れ、画面やテーマパークの、けばけばしくエキサイティングな人工物に慣れている子どもたちは、ふだんから「教科書以上」に「目と興味を奪われるもの」を見ているわけです。さらに、今の多くの子どもたちが育っている「コバエ・ゴキブリの日常体験」からでは、いくら良い教科書を使っても、きちんとした「誘導」がなければ効果はそれほど期待できません。

 繰り返しになりますが(できるだけきちんと考えてほしいからです)、「まず本から学ぶ学習体験」は、あくまでも「抽象体験」です。イメージの応援がありません。「よく知らないこと(!)」だからです。「実際に仲良くなる」まで「対象に対する強い好奇心」は湧きません。「見知らぬ人のアルバム」を覗いてみるのと同じです。その中で偶々派手な衣装を着ている人を見ても、「なんで、こんなん見るん?」というわけです。  
 ちなみに、臨海学習や林間学習に「自然体験の意味」を持たせるのであれば、少なくとも、対象を見て「なぜ」・「どうして」という不思議や疑問、「子どもたちの考えるきっかけ」を引き出す体験の導入が、まず必要ではないでしょうか? 
 こうして考えてみると、学習問題の一端は「教科書が『教科書作り』で終わり、また指導は『教科書や指導要領に基づいて教えること』にとどまっているところにある」のではないでしょうか? どちらにしても「教科書の後先がない」のです
 それらを克服するにはどうすればいいのか。テーマパーク「学探ワールド」を完成できれば、団の取り組みの根底には、そんな思いがつまっています。

 「でっかい鯰釣り」であれば、子どもらしく、そのおもしろさを味わうこと。遊びの「ナマズ釣り」や「鯉釣り」で「一生懸命遊ぶ(!)」こと。「学習ワールド」への取り掛かりは、まず「遊ぶおもしろさ(外遊び)」です
 次に、子どもたちの周辺の対象に迫る「好機」ですから、「単発」や「ぶつぎり」ではなく、課外学習のテーマにとどまることなく展開していくこと。できればストーリーの中で「できるだけ学習対象に多面的に」迫っていくこと。そして年間を通じて、子どもたちの「周りのsomething」に集約・総合できればいい、という狙いです。さて、「ナマズ釣りのテキスト紹介」の三回目です。

でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅲ
10p 進化・顎は魚類の大発明(「小学館21世紀こども百科宇宙館」・「小学館の図鑑NEO大昔の生きもの」・「小学館の図鑑NEO魚」より)

 脊椎動物としてもっとも原始的なグループの紹介からです。「顎がない」という紹介で興味をつなぎます。「顎の有無」で、何がどう変わってくるのか? 進化ということ、進化のようすやからだのしくみへの興味を引き出します。食べ物やからだの大きさにかかわる視点が生まれます。食べ物による口の変化も身近になります。16Pの魚の口の変化参照。
11p 魚のからだ・骨のようす(「小学館の図鑑NEO魚」より)
メクラウナギの軟骨から硬骨へ。魚の骨のようすです。

 魚には軟骨魚と硬骨魚がいること。骨があることによって、身体のはたらきや動きはどう変わるか。このポイントを押さえておくことで、後々出てくる昆虫などの外骨格のイメージも明確になります。
 いきなり『外骨格』となっても、「どこに、昆虫の骨があるねん!」。それが子どもの見方です。
 その指導は『身近』なのか? 「知識の暗記」と「納得できる指導」の大きなちがいは、学習の初期にこそたいせつにしなければなりません。それによって「学ぶこと」の先々が決定されます。カやコバエやゴキブリに終わらせることはできません。
12p 進化・硬骨魚と軟骨魚(写真は「小学館の図鑑NEO魚」より)

 子どもたちは『サメの歯』の化石はよく知っているし、大好きです。また「ジョーズ」を知らない子でも、サメやマンタの映像はよく見ています。そのサメの歯の化石はよくあるのに、サメの骨を見ることが少ないのはなぜか? サメやエイなどは古い時代に分岐した、硬骨魚類がもつ「肺→ウキブクロ」という進化を経ていない「軟骨魚類」であることを伝えます。
13p チョウザメの卵(「小学館の図鑑NEO魚」より)


 思い込みや常識を覆す意外性が子どもたちの知識欲をそそります。例外です。サメはサメでもサメじゃないもの。「キャビア」のチョウザメは『サメ』の仲間だと思われることがありますが、全く別の三億年前からの「生きている化石」。硬骨魚。またウキブクロをもっていることを伝えます。意外性やハプニングが、子どもたちの学習に対するおもしろさを引き出す原点です
14p 脊椎動物と無脊椎動物(「新訂理科②分野上」 啓林館より)

骨の紹介を済ませて、「脊椎動物」と「無脊椎動物」です。動物全般への視点と、その仲間分けです。子どもたちの頭の中では「脊椎動物」の「感じ」がつかめるようになっています。また、昆虫が無脊椎動物であることも、はっきりわかります。中学校になってからの、「脊椎動物」と「無脊椎動物」が無味乾燥な抽象産物になることを、こうした指導と野外体験の積み重ねで防ぐことができます。

15p 脊椎動物の初期発生(「サイエンスビュー生物総合資料」実教出版より)


脊椎動物の「輪郭」をとらえることが出来たところで、さまざまな脊椎動物の『初期発生』の姿を見せます。これは、毎回、動物に対する新鮮な興味を呼び起こします。ヒトを含む脊椎動物が似ている姿は進化のイメージを明確にしてくれます。また、他の動物に対する『ある種の仲間意識』も芽生えるようで、こうした指導が環境保護や思いやりの気持ちを育むとぼくは信じています。また「生物」という科目・学習対象も、これによって身近になるでしょう。以下、次回です。

「黄昏」賛歌
 今週はDVD三本紹介します。

 一本目は『黄昏』。人生の「たそがれ」時の、寂しい映画なのに、いつの間にか、見ている自分の顔が自然にほころんでいるのに気づきました。久しぶりです。「招かれざる客」で少し気になったキャサリン・ヘップバーンのパーキンソン病の首の震えも、年齢相応の役柄なのでそれほど違和感なく見過ごせました。小津映画のような雰囲気の良作です。

 後は『愛と青春の旅立ち』と『G.I.ジェーン』です。
 『愛と青春の旅立ち』はテーマが絞り切れておらず、「中だるみ」がひどかったのですが、最後の最後で何とかまとめあげたという一本です。『G.I.ジェーン』はエイリアンを作ったリドリー・スコットらしく、優等生の映画でした。しかし、その「優等生」は全国レベルとはいかず、「田舎の学校どまり」でしょうか。それでもアカデミー賞に輝いているのに最後まで見られなかった、最近見た数本の凡作より、まだ「まし」です。
 

ちなみに主演のデミー・ムーアの「女性を超えた」パワフルさには驚嘆しました。ブルース・ウイリスの元奥さんだったと知って、「そりゃ、すごい夫婦だったんだろうなあ」と妙な感慨です。日常生活・喧嘩。マシンガンやロケット砲は登場しなかったでしょうか。
 うん? 十年くらいで子どもが三人…。すごい戦いをして、別れてしまったんだろうな・・・。


立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導③

2016年06月04日 | 学ぶ

 よい映画を見たいのですが、「受賞作」という基準やレビュー(映画DVD)の評価がいいかげん、最近「はずれ」で5分と見ていられないものが多く困ったもんです。その代わり、シナリオの勉強で読んだ本を一冊紹介します。結構参考になるところがありました。

 さて、子どもたちに読書を薦める際、「おもしろくなければ途中でやめればよい。また、おもしろい本を探せばいいんだ」とアドバイスしますが、こう何本も続けて駄作に出会うことを考えると、「途中でやめればよい」というすすめ方は片手落ちかもしれません。フォローに注意しなければ、「子どもたちの本を探す気力」・「本を好きになる機会」も失せてしまうのではないかと心配になります。本が好きになる経緯を少し考えてみます。
 「好きになる」には、やはり「琴線」に触れた経験がないとむずかしいはずです。遊園地やテーマパークのように、ビジュアル主体であれば好きになるのも容易ですが(手間がかかりませんが)、読書となるとそういうわけにはいきません。手間がかかることだらけです。むずかしい漢字を読んで、イメージをふくらませ、ストーリーや論理に寄り添い・・・という「過程」を経るからです。
 理想は、小さいころ子どもたちにまず周囲に本の重要性やたいせつさ・おもしろさを伝える環境があり、伝道師がいること(そういう機会がないと、運任せになります)です。本をおもしろそうに読んでいたり、さまざまな本が手近にあったり、本のたいせつさやかけがえのなさを伝えたり・・・という環境の存在です。その場合、「本のおもしろさ」を「心から」伝えられるお父さんやお母さんはかなり少ないでしょうから、「知的存在であるべき」先生の役割や責任は重大であると思います。

 次は漢字です。漢字の多い文章を抵抗なく受け入れる状況が整わないと読書は始まりません。つまり、かつて子どもたちが指導された「素読」は、好きでやっていた子は少なかったでしょうが、「本になじむ」にはたいへん有効な手段だったと言えます。
 
 私はこのころの漢籍の素読を、決してむだだったとは思わない。
 戦後の日本には、当用漢字というものが生まれた。子供の頭脳の負担を軽くするには、たしかに有効であり、必要でもあろう。漢字をたくさんおぼえるための労力を他へ向ければ、それだけプラスになるにちがいない。
 しかし私の場合は、意味も分からずに入って行った漢籍が、大きな収穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは怖ろしいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である。(「旅人」湯川秀樹自伝 角川ソフィア文庫p49)
 
 次の「イメージをふくらませ・・・」という「イメージの応援」ですが、これをかなえるには二つの方法があります
 まず一つ目。「小さいころからの読み聞かせ」です。「読み聞かせ」は「イメージ」や「抽象」の格好のトレーニングです。その経験によって、「違和感なく」イメージの応援を「頼める」ようになります
 もう一つは何度も、このブログでも展開していますが、子どもたちの「体験の充実」と「環覚の育成」です。見たこともないものを『文字・ことばや音だけでイメージすること』は、低学年にはほぼ不可能です。イメージできなければ、全くわからないし、おもしろくありません。
 子どもたちのそんな状況に対して、ぼくたちはもっと敏感になるべきです。自然を含め様々なものに興味をもち目が留まり、願わくば観察がすすめられるようになっていること。こういう繰り返しによって、イメージの問題は解消していきます。
 

いずれにしろ、本をほんとうに好きになるには、これに類するような経緯を経て、手に取る本が「琴線に触れる」機会がなければ始まりません。読書ができないとほとんどの学習は進められないわけですから、小さい子を育て、指導する親や先生の責任は重大です。
 保護者のみなさんにはいつも伝えていることですが、読み聞かせと漢字のきちんとした習得だけでも、「本に対する距離」はなくなると思います。「本を読める子」に育ててあげてください。
 
立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導Ⅱ
 さて、先週から立体授業『でっかい鯰釣り』のスライドとテキストの紹介を始めています。紹介はページ(写真の左上にページ数記載)順です。また、立体授業のスライドとテキストのほとんどは毎年つくりかえます。子どもたちの反応を見、考え直していきます。エンドレスの取り組みです。
 できるだけ「子どもたちの興味がわくよう、イメージが膨らむよう、不思議が生まれ、疑問がわくような展開」にしたいからです。今年の「でっかい鯰釣り」は終わりましたので、今紹介しているのは来年のバージョンです。
 なお、一部の出典については、資料散逸で不明のものがあります。申し訳ありません。

 個人塾で、数人の子どもたち相手の指導ですが、この指導法によって、学習や本が好きになり、早い時期に大学進学や人生の目標を定める子が出てくれたり、と良い結果が生まれています。ブログでの公表は「素晴らしい子どもたちをたくさん育ててほしい。その参考になれば」という願いからです。ご理解を、そしてご寛容にお願いいたします。
 
7p カンブリア紀の主要発掘地(「生命」とは何か いかに進化してきたのか」ニュートン別冊より)
 先週の「課外学習地への移動」でも近畿地方の地図から始めましたが、実はぼくたちに大きな関係があっても、地図や地理は、その関係や関連が見えないままの「勉強」で終わることが多いのではないでしょうか
 かく言うぼくも、高校1年生の時、それも地理のK先生が担任だった時、地理だけが「欠点」でした。全く勉強する気になれなかったのです。三者懇談の時K先生曰く、「お前、他のテストはみんないいのに、よりによって、なんで俺の担当の地理だけが欠点やねん!」。ぼくは、おもしろくないから、と言いたかったのですが、さすがに言えず、苦笑いでごまかしていました。その反省からです。
 日ごろから勉強に関係のない部分、興味をひかれる部分で「地理」や「地図」が出てきて眼を通す経験は大切だと思います。そういう経験を積み重ねて、違和感なく地理に入って行けるのではないでしょうか



8p カンブリア紀の動物大発生
(サイエンスビュー生物総合資料 実教出版より)
中国の澄江やカナダのバージエスがカンブリア紀生物発掘地で有名ですが、脊椎動物の進化
の関係でピカイアを紹介したく、バージエス動物群のイラストにしました。次のナメクジウオとの関連からです。「小学生にそこまで必要ない」、「専門的に過ぎる」という意見の方もひょっとしていらっしゃるかもしれませんが、子どもたちの興味や好奇心は、「少し深く奥行きを紹介していくこと」でどんどん膨らみます。あるいは、「思いもかけなかったこと」や「意外な発見」が次の学びへの意欲やステップになります
 専門的な(少しです!)方がよいことがよくあります。それらを「できるだけ身近なたとえでわかりやすく展開しようとすること」で、彼らの「食いつき」と理解が得られます。

9p 進化・最初に現れた脊椎動物
(「小学館21世紀こども百科宇宙館」・「小学館の図鑑NEO大昔の生きものより」)
 ホヤの幼生やナメクジウオとピカイアの比較、せきつい動物への進化の道筋の考察です。現生の魚を紹介するだけで終われば、単なる学習知識の集積に陥りがちです。ほとんどの場合、歴史や進化の過程の学習を通じて「なぜ」の理解が進み、「納得」が生まれます。その経緯で知識はうまい具合に「わがもの」となっていきます。ここが単なる受験勉強や一夜漬けとの違いです

 そして、その「なぜ」や「納得」の理解の過程で次の「なぜ」が生まれます。「学習」の高度化や研究はそうして進みます。 
 この考察で参考になる天才の意見を紹介します。先ほどの湯川秀樹博士です。少し長いですが、「学習は死ぬまでたいせつになる(なってほしい)」という従来のぼくの考えを補完してくれる一節とともに紹介します。

 私は研究者として、今日まで研究を続けてきておりますが、研究を続けてゆくということ、これは同時に学習することでもあるわけであります。研究といえば、いかにも大きなことのように思われますが、私が自分で独創的なことを年がら年じゅうやっているかというと、もちろん、そんなことはないのです。どんな天才的な学者でもそんなことはしておりません。やっぱり人の書いた論文を読んだり、本を読んだり、それを理解しようとする。また、計算をしたり、実験をする、といいましても、それもなるほど研究生活の一部ではありますけれど、それらはすべてが独創ではありません。つまり、学習と研究とは、それほどちがったことではなく、しかも一生ずっと続いてゆくものなのです。(「創造的人間 湯川秀樹」 筑摩書房 p160より)

 こういう引用をすると、「天才科学者と自分たちはちがう」という人がいるかもしれません。はたしてそうでしょうか? 一般人は関係ないのでしょうか? 向上や成長を図る必要はないのでしょうか? 次の引用です。

 ・・・やはり研究と学習とは、私たち研究しているものにとっては、一生切り離すことのできないものだということを、申し上げたかったからです。それでは、研究生活に入らないで、社会に出てしまった人の場合はどうなのでしょうか。私は、この場合も、研究者の場合と、全く同じことだと思うのです。四角ばって研究とか、学習とかいわないだけのことで、学校に行かなくても、書斎にこもらなくても、また、研究室にいなくても、やはり人間は、学習し続けている。形はいろいろありましょうが、どこまでも学習を続けているのが、人間のほんとうの姿だと思うのです。
(「創造的人間 湯川秀樹」 筑摩書房 p161~162より)

 どんな意味においても学習を続けることによって、ぼくたちは「生きる力」を蓄えていきます。やはり「学習を好きになること」で幸せを得られる道が開けると思います。学習は「継続性」のものですから、一朝一夕では好きになれません。その過程には克服すべき様々な障害や誤解があり、一定の期間と努力が欠かせません。
 それを伝えるのはだれか? これから「生きる力」を育む子どもたちが「学習」を嫌いにならないように指導すること、その役目と責任はどこにあるのか? まず身近にいる親しかありません。現在は他を頼る人が多いようですが、それでは、いつまでたってもきりがありません。らちがあきません。「あなたまかせ」でいいのか? その「ぐだぐだ」の間に子どもが育っていってしまうのが現実です。ブログの方法を参考にしていただけることを願っています。
 次に「先生」と呼ばれるぼくたちの番です。合格すればよいのか? 時間や金儲け・生業で割り切ってしまっていいのか? 最低限、「学ぶおもしろさを伝えられる工夫」ぐらいしてこそ、先生ではないのか? いつもそんな思いでいれば、きっと子どもたちもわかってくれると思います。「自戒とともに」です。