『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星、宇宙の誕生と死⑪「クワガタを分ける」哲学

2017年07月29日 | 学ぶ

 前回「クワガタ探し」の課外授業の写真を掲示しました。今週は、現在の子どもたちの多くが抱えている問題点とその指導のようすについて紹介します。なお、今週の写真は過去の課外学習のものです。
 

捕ったクワガタは誰のもの?
 自然のもの相手の取り組みは、昆虫採集にしろ化石採集にしろ、欲しいものが、参加者全員の手に平等にわたることはあり得ません。参加者が同年代であれば、日頃からよく参加し要領も会得し、夢中になって探している子の努力が実り、「獲物」を手にすることがふつうです。
 そして、そんな場合は、まず手に入れた子の取得権を認めたいし、認めなければいけないと思います。たとえば、参加者が10人いて、5個(5匹)しか見つからなければ、「平等」は不可能だし、努力し探して手に入れた子、また運良くもゲットできた子の権利でしかたがないというわけです。
 残りの子も、欲しければ頑張って次の機会には何とか手に入れたいと努力する気持ちが必要です。もちろんその場合でも、手に入れた子が「ほしい子にあげる」自主的な優しさは、また別の話です

 かつての田舎のガキ大将がとった行動は、多くの場合そうでした。彼らのそんな行動によって、子どもながら、そのリーダーシップに学ぶべきものがあり、次の世代が育ちました。今は、腕力だけはあっても、そんな「精神作用」がある子はあまり見られません。
 また、運良く参加人数分(以上)見つかった場合、その分け方ではどう見ても不公平感は否めません。みんなで分ける方が自然です。特に今回の「クワガタ探し」のように、小さい子が参加したり、遠路はるばる日本に来た、経験のない外国育ちの、一回限りの子が参加した場合は、捕ったものを一旦集めて、できるだけ平等に分けるべきだと考えました。惻隠の情や思いやりも、そろそろ悟るべき年頃だと考えたからです。

 たとえば8人の参加で10匹以上捕れ、小さな子や不慣れな子がいるのに、持って帰る子と帰れない子ができれば、それはかわいそうでしょう? ひとりで三匹・四匹持つ子がいて、一匹も持てない子がいれば、みんなすっきりしないし、やはり不自然です。思いやるべきでしょう。喜びを分かち合うべきです。そしてみんなで分けるのであれば、平等な方法で分けることも必要です(今年はジャンケンをしたようですが)。
 ところが、こういう分け方をすれば、また問題が発生します。「自分が捕まえたものが自分の手に戻らない」というケースです。本来なら、そういう時こそ、リーダーシップを執れる子(腕白仲間であれば、ガキ大将)の出番なのです。今年は、リーダーに指名していた子が、急きょ病欠したこともあり、分配で少し揉めていたようです。

 こういう機会に子どもたちは様々なことを覚えます。子どもたちの、場面場面に応じたやり取りや問題解決法や判断のひとつひとつが、彼らの人格形成や仲間意識・リーダーシップをともなった成長にも影響し、その糧になっていきます。つまり、子どもたちの成長・人間形成は、こうした日頃の行動のすべてが、その礎になります

「わがまま」がもたらす「軟弱さ」と「せこさ」
 以前、赤目渓谷の川沿いで、躾をきちんとされていない体験参加の小学二年生が、団員が見つけた「カエル(!)」を横から奪い取ろうとして7~8メートル下に転がり落ちた話を紹介しました。

 参加者がたくさんいて、ぼくは別のグループと行動をしなければならなかったので、そのとき近くにはいなかったのですが、幸運なことに、落ちたところが草場で助かりました。マムシの生息域だから、一つまちがえれば、ひどいことになっていたかもしれません。ちなみに、「その時、お母さんは真横にいた!」ようです。
 この事例から学ぶべき教訓は、二つあります。
 一つ目はもちろん、『自分の欲望(ほしいもの)にしか目が届かないように育ててしまっていること』です。もう一つは、「『そういうふうに育っている子が危険な場にいるとき、どういう気遣いをしなければいけないか』に目が届いていないこと」です(自分の子がどういう性格で、どういうふうに育っているか冷静に見ることができていない)。

 おわかりのように、これらの状況は、「どちらも同じ原因」から生まれます。育てる側が、「必要な基準・広角な視点をもっていない(日頃から、様々な問題に対して、しっかり考え自分なりに結論を出していない、したがって判断ができない)という原因です。現在の子育ての大きな問題点の一つはそこではないでしょうか
 老婆心ですが、我が身を振り返っても、子どもの成長は驚くほど速く、待ったなしです。意識しないで済ましている、そのあたりの「あやふやさ」が、全部子どもにかぶさってきます。

 団を始めた二十数年前は未だ少なかったのですが、当然のことを教えられていない子が格段に増えてきているような気がします。「周り」や「足元」には目が配れず、自分の欲求や欲得しか考えない、考えられない。「他の子のもの」も、「隙あらば、自分のものに」というわがまま。考えたくないことですが、子どもたちの間で(も!)、そういう風潮が現在は蔓延しているのでしょうか。
 たとえば、「自ら一生懸命努力することもなく、虎視眈々誰かのすきを狙ったり、横取りしようとする」。一昔前なら(今でも同じでしょう)、「ずるいこと」「こざかしいこと」で、そうした行動は「恥ずかしいこと」・「男の子であれば、プライドにかかわること」です。そうした「振り返り」が見られない。以前、若いお父さんの「男らしさ」にふれましたが、どうもその辺りのバランスの欠如に大きな原因があるような気がします。

 先日、交番に「名前も伝えないように」と、ぼくの財布を届けてくれた「かっこいい人」の話をしました。よくよく考えてみれば、かつての日本人はこういう人たちの方が多かったはずです(明治維新から昭和までの外国人の滞在手記の数々の例をご覧ください)。これは懐古趣味ではなく、ぼくたちは今そんな方向にすすむことを願っているのか、という問いかけです
 時に耳にし、眼にすることがありますが、「落ちていたものは自分のもの(犯罪です)」、「貸してもらったものは返さない」、「黙っていれば自分のもの」などという考え方や判断基準がどんどん「浸潤!」してきつつあるように感じます。
 「小さな『倫理観のほころび』が子どもに伝わり、子どもの人格や将来にも大きく影響するかもしれない、という感覚」をぜひ持ち続けたいものです

 そして、これはお父さん方へのアドバイスですが、子どもが特に男の子が「軟弱」で「せこくなって」しまうことが、「大きくなれば、どれだけみっともないことか」、「陰での嘲笑や非難の対象になることか」、「自らの尊厳や評価を台無しにしてしまうことか」、しっかり伝えるべきだと思います。いわば、自分の「分身」ですから。みっともないでしょ。
 それとも、そんな判断や指導は現在しつけや教育の「蚊帳の外」になってしまっているのでしょうか。「他者の存在を意識する感覚」が磨滅してしまっている、そんな「傍若無人」・「せこさ」が蔓延する時代になってしまったのでしょうか。

 今、「お父さん」といいましたが、それはこういう理由です。
 ぼくは男性と女性という性の区別がある限り、おたがいに役割分担・「ないがしろにできないもの・してはいけないもの」が絶対あるはずだと思います。社会常識やルールを徹底できるのは、やはりお父さんではないでしょうか。男(性)の出番ではないでしょうか。 
 子どもの誕生ひとつとっても、その経過による愛情や感覚の醸成はまったくちがうはずです。その理由を、こう振り返ってみてください。
 「一年近く体内に宿し、その鼓動や動きを自分の体の一部として感じながら子どもの存在を感じていたお母さん(母性)」と、「自分のからだとは別の部分で成長し、その存在を客観的な視線で見られる父親の子どもに対する思い(父性)。はたして同じでしょうか?

  場面による主導権の差はあって当然です。どう見ても、「同じ愛情」と単純に簡単にひとくくりにする方が、愛情を深く丁寧に理解していない、と思います。
 もちろん、だからと云って、女(性)がそういう感覚をもちえない、というつもりは毛頭ありません。また誤解のないように申し添えておきますが、男尊女卑の思想にかぶれているわけではありません。ぼくは女性を人並み以上に尊敬しています

 「男(性)=父性」という存在や意識の崩壊が気になるだけです。男女平等や諸々とは、まったく別次元の判断です。子どもの成長は、感性や社会的意識、あるいは愛情の持ち方も含めて、両性の判断や指導が十分機能してこそ完結するのでしょう。男性女性の愛情を分け隔てなくうけて、健やかな成長が成就するはずです。
 そうでなければ、男性・女性が存在する意味がありません。虫や動物でさえ性差の役割分担は存在します。子どもに対する父親の出番を忘れないようにしたいものです。

それでいいのか? 四の五の言わずやってみなさい
 「クワガタ探し」では、里山の中(整備されているので、それほど危険はありません)をみんなで歩き回り、樹液の出ているようすや木の状態を説明しながらクワガタやカブトの捕まえ方を説明します。

 最初はみんな途方に暮れますが、話をよく聞いている子で自立心のある(できている)子は、自らそんな場所を探し、指導を振り返りながら、丁寧に見て歩きます。ちなみに、今年は「五歳(!)の女の子」が一人で指導通り根気よく見て回り、クワガタを二匹見つけることができました。
 ところが、「依頼心が強く甘やかされて育った子」は、なかなかそんな行動ができません。一人で探そうとしません。できないから手に入らない、「何とか簡単に分け前にあずかろう」とする、そんな堂々巡りです。一生懸命努力しているようすが見られれば、手助けしてあげようと思うのですが、そこまでもいきません。

 こういう性格については「育てる方は緊張感をもって厳しく」対処するべきだと、考えます。五体満足・元気も気力もある子が、がまんも努力もせず、わがままばかりいって「ほしいもの」を手に入れる(ようとする)・・・。そんな子がそのまま大きくなったときのことを考えましょう。
 なかには、それらの行動を叱り指導すべく、頭に浮かべるべき根拠や理由が思い浮かばない場合があるかもしれません。子どもの日ごろのようすを見て、きちんと教えなければならないこと・言い聞かせなければならないことをアドバイスしておきます。
 「自ら積極的に動き回り、頑張って努力を重ねさせる」しつけや指導が必要なのは、「何よりも本人のためだから」です。「どものことを何よりたいせつに考えるゆえの行為」だからです。
 脳やからだのしくみには、「『すべて努力や練習・トレーニングを重ねることによって』向上する、体力がつく、能力がアップする、つまり『自分でできるようになる、さらにその力を維持できる』」という「大原則」があります

 「免疫力」や「老化のしくみ」を考えてもすぐわかりますが、ヒトのからだを支配しているのは「廃用萎縮」の原則です。使わないもの・必要ないものは衰える、機能低下する。できるように、あるいは衰えないようにするためには、不断の練習や努力が不可欠です。つまり、「『使わない方向』・『楽をする方向』は、いずれにしろ成長とは真逆の方向」です。
 かんたんに例を挙げれば、人のまねをしたり、「コピペ」するだけの「手抜き」では、大したものは生み出せません。すぐ底が割れます。それ以外に「努力すること」を覚え、自らの「(行動)哲学」を築きあげてこそ、新しいものは生まれます。自らの成長があります。「真似をする」だけでなく、同時に努力することも教え(覚え)なければなりません
 お父さんなら、「苦労すれば、それだけお前の力になる・可能性が広がる・能力が身につく、だから四の五の云わずに頑張ってみなさい」ときちんと正面から教えるべきです。甘やかしてばかりいれば、「文句(いうこと)は一人前だが、自分では何もできない」、『わがままで軟弱なおとな』にしかなりません。
 「甘やかしているということがわからない」のかもしれませんが、もしそうであれば、手遅れにならないうちに(アドバイスするなら4年生までに)、世間をよく見て、冷静に「子ども」と「日ごろのふるまい」を振り返るようにしましょう。

 「子どもがかわいければ、立派に独り立ちしてほしければ、あらゆる機会を利用して、そちらの方向(自らで努力する方向・がまんして練習する方向)に導く」というのが、親としてもっともたいせつな務めだと思います。「がまんして努力すること」・「自ら率先して行動すること」を通じて、子どもは力をため、自信をつけ、一人前に育っていきます。
 考えてみてください。冷静に見直してください。「上手な人」の後について、その「おこぼれ」にあずかろうというような「せこい」考えで、自立して一人前になれますか? 世の中へ出て活躍できますか

 「先述の崖滑り落ち事件は、それらの基本的しつけの欠如の延長上に起きている」という事実も、ぼくたちは、もう一度次の言葉とともに振り返るべきだと思います。「自分の子をどう育てたいのか?(『どうなってほしいか?』ではありません。それでは今までと変わりません。かかわり方がちがいます)」 
 今の指導やしつけはまったく逆で、「何とか練習やトレーニングや我慢をしないで、『おいしい実り』を手に入れよう、手に入れさせたいという方向」に向かっている気がします(実は、その方向のままでは、たとえ手に入れても、消化できず後で腹を下すようになる方向なのですが)。

 「可愛い子には旅をさせよ」、つまり「『かわいい子』だからこそ旅をさせる」という、子どもに「自立心や力をつけさせようとする」『心の底から子どものことを思う、本来あるべき親心』が、「死語」になってしまった・・・。
 ちなみに、この「旅」は旅行をさせること(だけ!)ではありません。かけがえのない「日々の生活という旅」です。自分の「死後」ではもう遅い、と思うのですが、いかがでしょうか。

 「『金を儲けちゃ悪いんですか』というような寂しいセリフしか云えない大人になる」ことが理想なら、ぼくなんかが偉そうにしゃしゃり出る幕はありません。健やかな子ども、さらに、「心身ともにバランスのとれた人としての成長」を心から願う気持ちは人一倍強いので、ご理解をお願いします。
 なお、話題がそれますが、今週の「男はオトコ」の「写真」をごらんください。 「ぼけたんじゃないの?」のセリフを、「痴呆じゃないの?」に変えてみてください。おもしろくもなんともなく、ユーモアにはなりません。「差別用語」の制限推進意図とは全く逆に、「温かみ」も生まれません。かえって突き放した冷たさになってしまう無作為な差別用の判断や制定は、ユーモアの貧困や表現のやせ細りを招き、ぼくたちの「心の余裕」にも影を落とします。


石ころと星、宇宙の誕生と死⑩ 夢の教科書再考

2017年07月22日 | 学ぶ

 今週は、クワガタ探しのスナップ・テキストの頁を掲載してあります。虫の写真は、ニューワイド学研の図鑑昆虫・小学館の図鑑NEO昆虫からの引用です。ありがとうございます。なお、今のタイトル「石ころと星~」は『身近な物から』というイメージ・タイトルですが、最近石ころと地球を考えるのに、格好の本を見つけました。「三つの石で地球がわかる」(藤岡換太郎著 講談社ブルーバックス)。藤岡さんの著書はわかりやすくおもしろい本が他にもありますが、これは出色だと思います。

学習指導法についての疑問
 以前何度か、表題のテーマについて問題提起をしたことがありました。先日、エジソンの退校の理由についても考えました。このテーマについては、もう誰もあまり正面から取りあげないようですが、将来の子どもたちの成長や学習指導の根幹にかかわることだと思うので、もう一度考えていきます
 今の学習指導法は、ごくかいつまんで言えば、「教室で、対象や環境の概要やまとめを基にした教科書」を使う方法です。至極当然のように踏襲されています。
 その中で「指導書を基に、上意下達、『各自それなりの工夫』を加味しながら、それでも『枠を越えない』試行錯誤の繰り返し」、そんな指導が小学生だった数十年前から続いているように感じています。
 つまり、教科書はビジュアルが変わり、きれいになっているけれども、工夫はされてきたけれども、学習指導内容・指導基準がまず先で、子どもの視点・子どもからの視線が考慮されているようで、実は考慮に入れられていない。変化しているようで変わりない。ぼくは子どもと日々付き合いながらそう感じます。
 
「なじみ」の重要性
子どもが学習をおもしろく感じるのは、あるいは子どもに感じさせるのは、今のような学習「改善」の方向性ではなく、もっと単純な視点からの発想の転換に基づくべきだと思うのです。まず、「子どもが学ぶべきもの」、「学ばせるべきもの」に「『なじむ』機会を用意すること」。
 たとえば、ぼくは「ド田舎」のいたずら坊主で、「野っぱらや近くの小川や里山を飛び回る毎日を送っていたこと」は何度もお話ししました。つまり「小学校で教科書に出てくる環境や事象」の「ストーリー!」は、指導される前に(あるいは学習が始まる前、そして学習と並行して)自らの「身体の記録」として、いわば「血肉化」されていました。 

 近くの川沿い・川岸には、きれいな白や青の粘土が顔をのぞかせ、冷たい地下水がチョロチョロ流れ出ていました。「木や草の芽生え」や「成長のしくみ」は「日々の路傍の友」で、通りすがりに笹をちぎれば、その切り口の香りがあたりに漂いました。
 ホカホカ湯気を立てる「たい肥」を作る里山の小屋はカブトムシの幼虫の山、その幼虫の脱皮は遅くなるほどメスが多くなります。「ああ、これは、おそらく後まで残る強いオスを交尾の対象に選ばせる進化だな」。頭の中では、見つける謎が「考えること」を要求します
 家の中では白熱光の灯りをめがけてくる小さな蛾や虫を追ってギンヤンマやカトリヤンマ、庭の片隅の物置、湿った暗がりにはヒキガエルやムカデ・カマドウマが巣くい・・・納戸のふすまを勢いよく開けると、天井の梁にいた青大将が目の前に・・・つまり「学習内容」は、例えば食物連鎖にしろ、小さな生態系にしろ、その周辺のあれこれとともに、日常生活の中に「確実に」存在していました。「ぼくの感覚と自然環境を切り離すこと」はできませんでした

 そんな日々とナイフや大工道具片手の工作三昧。ナイフやノコギリ・金づちという「道具」を手にすると、覚えるのは、その使い方だけではありません。「素材」の採れる場所・その性質も理解できます。竹・柿の木・樫の木・杉の木・藤の蔓・ヤドリギ・ヤナギ・・・。「生物」の「存在」と「ありよう」がわかり、「学習内容的側面」からではないけれど、対象を「熟知」できる体験が続いていきました。
 そして、いわば「遊び」の「職人生活!」とでもいうのでしょうか。その日々の「観察ともいえない観察」や作業の過程からは、さまざまな不思議や疑問が湧いてきます。
 それらを知らず知らずのうちに「体内」に積み重ね、教室での学習に向かうとき、「ああ、そうだったのか」「それでは、これはどうなっているのか」という了解、さらなる好奇心の芽生えと、「学習することの意味の認識」が、おぼろげながら(!)ついてまわったのです
 ぼくは、キラ星の偉人たちのように何事かを成し遂げたわけではありませんが、それらの体験によって、「学習する」・「学び知る」ことのおもしろさの感覚は手に入れられたと振り返っています。

 
エジソンの戸惑い
エジソンが単純な「読み・書き・そろばん」の繰り返し学習(だろう)を嫌がって、ボーっと物思いにふけったり、授業とは関係ない質問を繰り返した意味が、これによって理解できませんか? 「勉強」に集中できなかった理由が。こうした振り返りをすれば、子どもたちの学習に向かう姿勢の軌道修正や、子どもたちが学ぶおもしろさを手に入れるための指導上のヒントが浮かぶ、と思うのですが。

 エジソンの行動が「多動症(?)」とか何とか、精神的な病のように取りあげられることがありますが、ぼくの経験から思い返せば、とんでもない誤解です。自らの周辺の『おもしろいことども』を嫌というほど知り尽くした、頭が良くて好奇心旺盛な少年が、単純な繰り返し演習の学習を、毎日じっと座ってしなければならないのです。「こんな辛気臭いあほらしいことをやってる場合じゃない(小学校2年生くらいの時です)」と思って当然です。そう思いませんか? 
 「それより、『頭に』気をつけなければならないのは、昨今よくテレビに取りあげられているような人たちや取りあげているマスコミではないか」とぼくは思うのですが、いかがですか(笑)?

 エジソンのエピソードをこのように考え直したときに、そしてファインマンをはじめとする科学者のお父さんや幼少時代の家庭環境・親のかかわり方を振り返ることで、子どもたちの学習に対するモチベーションを機能させ、学習することの意味・学習することのおもしろさを認識する(させる)きっかけが生まれると思います。
 
教科書は見知らぬアルバム
教科書を変え、「大人が思う子どもの感覚で」(!)「子どもの感覚」をとらえ、指導法のマイナーチェンジをくりかえしても、明治以来(!?)の学校教育指導法をすぐに変えるのは至難の業です。子どもの教科書はいくら美しく、丁寧になっていても、今のままではかつて「教科書は見知らぬアルバム(正しくは「見知らぬ人のアルバム」)」と問題提起しましたが、子どもたちにとっては「見知らぬ(人の)アルバム」の域を出ません

 低学年の子どもたちは、「よく見たことのないもの・ほとんど見たこともないもの・今別に見たくないもの」を、「今なぜ知らなければならないか」という理由を知らず、そのわけもきちんと教えられないまま、学習を始めています
 そして、やがて「それらの習得具合」を試験や点数で評価され、自分とはまったくちがう価値観の中で対応・選抜されます。その時点でも、「理由」も「わけ」も未だ明らかにはなっていません。自らを鼓舞し続けてはきたが、内からの真のモチベーションは多くの場合、依然として機能しないままです。学びへのギアは入りません。

 子ども時代は、知りたいこと・やってみたいことが山ほどあります。うちの楓(孫です)は、遊びに来ると少ない時間に、ままごと・トランプ・お絵描き・学との面会(!)・カブトムシ・かくれんぼ…と、次から次へと催促します。「『ふだんから一緒にはいられないこと』がそうさせる」という一面もあるのでしょうが、次から次へと「やりたいこと」が思い浮かぶのでしょう。いつもおもしろいこと・夢中になれるものを探しているのでしょう。
 以前も考察しましたが、子どもたちは「自らが生を紡いでいく環境」を一刻も早く、よく知りたいのでしょう。それらを十分に知ることができないと、生きていくことはできません。おそらく、生来的に備わっている、その本能の発露が好奇心なのではないか、ぼくはそう考えています。
 しかし、その子どもたちの切なる思いやモチベーションは、多くの場合ほとんど無視され、みなと同じように、好きでもない(まだ好きになれない!)学習に専念させられる。それが現状の学校教育(もちろん家庭教育も)と、その指導の現実ではないでしょうか。

逆転の発想からはじまる
 こう述べたからと云って、もちろん学校教育そのものを否定しているわけではありません。社会で生きていくには学校教育という指導形態・指導法を避けて通ることはできないし、一番有効な方法だから続いてきたのでしょう。しかし冷静に振り返れば、その方法が延々改善や工夫をされないまま、形骸化しつつあるのも、現実だと思います。

 教科書を使って指導しなければいけないのであれば、子どもたちを、そんな学習にモチベートできるような方法を導入する必要があります。従来通りであれば、子どもたちが生来持っている(はずの)有り余る好奇心を大きく開花させるような結果は生まれません。
 ファインマンがお父さんにめぐまれたように、またマクスウェルなど数々の偉人たちのように恵まれた環境に生まれた人は良いですが、その一方で、その環境の故に天才を発揮できず歴史に埋もれてしまった無数の人がいるのではないか。
 「『実物(!)』をよく見たことも聞いたこともないという、『なじみのない』中で『環境の抽象』を学習する」という指導慣習を逆転する方策。少年時代のぼくのように自然環境に入り浸るという体験は無理ですが、ファインマンのおとうさんが実践したように、機会を逃さず、最大限環境になじむ・触れる企画を実践する、と云うことなら、周囲の意識次第で始められます。そしてみんなで、家庭でのそういう機会も、同じように最大限に生かす、という方法・企画について検討を重ねる。

 
子どもたちが知りたいもの、もっと知りたくなるように、日ごろからの身近なもので抽象されるものの裏付けや原理を周知させる機会を増やす。それによって、子どもたちの「環覚」は立ちあがり、自ら進んでいく、調べる機会はどんどん増えていく。
 あるいは周囲の「謎」を「あぶりだし」、一緒に調べる・考えていく(これがファインマンのお父さんの方法です)。「それが学ぶおもしろさを引き出す」「学びを次のステージに勧める」大きなきっかけになると思います。それが立体授業のポリシーでもあります
 ぼくの立体授業とはまったく別の取り組みですが、以前紹介した灘の橋本先生の実践のように、あらゆる先生が自らの体験や心に問いかけ、「生徒・学生としての学びに対する記憶」を振り返り、「体験」を回想し、「そこで感じていた『疑問』の解決を全力で図る」、ということこそ、今すべての先生が求められているテーマではないかと思います。それこそ「自分が教えられる一番正確なこと」です。「もっとも自信をもって教えられる、たいせつなこと」です
 受験指導より大切な、子どもたちの学び・知りたい心そのものを揺り動かす指導です。「理由もわからず、抽象事項を脳みそにストックさせ、それを数値化して選別する側」の反省からすべて始まります。

 

二時・四時・六時
 クワガタ採集が終わりました。今年びっくりしたのは、夜中の二時・四時・六時にぼくを起こしに来た子がいたことです。「クワガタ捕りに行っていいですか?」
 今までは、朝の六時ということはあっても、真夜中はありません。ぼくは睡眠時無呼吸でCパップを着用しながらの睡眠で、「睡眠不足で翌日みんなと遊べないといけないから起こさないように」という注意をしておいて、この始末です。
 

「クワガタ捕りに行きたかったんちゃうん?」と思うかもしれません。しかし、課外学習は「家族旅行」ではありません。
 団体行動で、もし夜中に何か事故があったり、寝ないで誰か一人でも翌日体調不良になったりすれば、行事を前に進めることができません。ぼくひとりですから、団の行事はそういう制限と隣り合わせです。そんな中、注意と配慮を悟って、セルフコントロールしながら、みんな一人前になっていきます。
 自分の欲望オンリーで突き進むのではなく、自分の欲しいものを手に入れるためにも、相手に対する配慮や気遣いを欠かさない、ということがしばらく前までの暗黙の了解だったのです、良識ある日本人の間では。ところが、そうした了解がドンドン崩れてきてしまっているように思うのですが、いかがですか? 
 ずいぶん前に何とかファンドの何とかが、臆面もなく「金を儲けちゃ悪いんですか?」というセリフを公衆の面前で吐き出したころから、日本は大きく変わってきたような気がします。

 「金を儲けるのは自由ですが、金より大切なものがあることを、あなた分っていますか?」。「いい大人」の発言者に、そう言いたかったのは、ぼくだけではないと信じています
 
 さて、ジャック・ニコルソンの「アバウト・シュミット」を見ていて、途中なんとも辛く、見られなくなって・・・ということを二度繰り返しました。思うとおりに行かない人生に何度か納得・妥協しようとするが・・・。養育援助のボランティアをしているアフリカの子どもの、「自分と手をつないだお礼の絵手紙」を見て涙する・・・いやはや、なんとも「つらい」映画でした、二時・四時・六時です。
 ちなみにクワガタ結構とれました。


石ころと星、宇宙の誕生と死⑨

2017年07月15日 | 学ぶ

ウォルター少年とキュウリの「旬」
 キュウリの調達に、加工食品以外は『目利き』さえできれば「おいしい野菜」も手に入れることができる激安スーパーを覗きました。目利きが鈍っても、きっと『旬』はおいしい。
 案の定、入り口にキュウリが山積みになっています。ずっと見渡して手頃なものを数本手に取り、「学」の笹身と甲羅カビ掃除用のスポンジを買って帰ることにします。

 「ホンマ、どんだけ手間かけさせるねん」。「学」にぼくの「日頃」の気使いや手間の大変さを、云って聞かせるネタがまた増えました。
 最近、「学」がほんの少しやさしい表情を見せ、仕草に柔らかさが出たと感じるのは、「スッポン」なりに「ヒトの心」がわかってきた(?)のかな。もしそうなら、苦労も少し報われるなァ…とか考えていると、部屋に到着。
 キュウリを洗って、大きめのザク切りにし、器にきれいに盛って手作りのポン酢とラー油を好みの量で散らし、ラップをかけて冷蔵庫におく。夕方には一品の出来上がりです。

 食べるときには、香り高く煎った胡麻を好みでふれば云うことがありません。それに、良い椎茸があれば、あまり焦がさないように注意して焼き、焼きたてに醤油をかけて少しレモンを振りかければ、減退した食欲も元に戻るというものです・・・。
 
 さて、数カ月映画やシナリオの話ができませんでした。
 田植え・蛍狩り・クワガタ探し(今日からです、一泊二日)の立体授業のストーリーやスライド・テキスト作成の構成や画像のセレクト製作に追われ、時間がなくなっていました。
 もう一つの理由、ここ一年半くらいで、おもに海外映画ですが、新旧取り混ぜて700本以上見ました。良い映画が次第に見つからなくなった、中休み(中だるみ?)もあります。700本の評価は花マルシール1個が約150本・花マル2個が約20本。見た映画はほとんどアマゾンのレビュー平均4以上で、アカデミー賞受賞作品も多数含まれています。
 つまりレビュー評価4以上のもので、「まあまあおもしろい(よい)」と思ったものが約20%、「これはいい」と感じたものが約3%というわけです。よい映画というものは、なかなかないものです。

 というわけで、最初花マル2個をつけたものを、時間をやりくりしながら、もう一度丁寧に見ることにしました。まず、「ウォルター少年と夏の休日」。
 やはり、花マル2個の評価は変わりません。自分勝手で、嘘つきで、出来の悪い、尻の軽い・・・という「箸にも棒にもかからない」母親が男と生活するのに邪魔になって、息子を遠縁の一風変わった老人兄弟に預けるという物語です。
 寡聞のゆえかわかりませんが、「佳作」どまりで、それほどすごい評価を聞かないのは、見方によれば、荒唐無稽なバイストーリーが足を引っ張っているのかもしれません。しかし、映画の重要な要素の一つは『ロマンを感じさせることである』と、ぼくは思っていますから、それはあまり気になりません。文句なしに良い映画です。

 子どもたちも結構喜ぶのではないでしょうか。劇画やアニメとはちがったおもしろさを感じてくれると思います。シナリオを学習するにも、このストーリーの進行は参考になるでしょう。
 さて、夏の休日。キュウリやトマトを食べて一番おいしいと思うのは、やはり夏です。「旬」です。
 今はすべて見えにくくなっていますが、『旬』は本来、「ものそのものに備わっている生命力の発揮時期」だとぼくは考えています。「夏の野菜、キュウリやトマトの生命力」を食べているから、それが一番強く発揮される時期のものを食べているからおいしいのだ、という判断です。

 生命あるものにはみんな、やはり『旬』という絶好の時期があって、「子どもたちを成長させる指導や教育」にも旬がある。そう思っています。それは、ぼくの指導経験や手応えでは小学校2・3年から4年生、遅くても5年生まで
 その「旬」に、学習の基本はもちろん、幅広い考え方や感じ方・ルールや気遣いという、「ヒトとしてのかけがえのない成長の基本的なことすべて」を身につけてしまう(が身についてしまう)。
 いつもお話ししていますが、何年間も一緒に過ごしているOB諸君それぞれの成長の姿を見ていると、その実感がますます深まります。お父さん・お母さん・先生方、「旬」を外さないようにしてください。
ちょっとピンぼけ1
 団員のアメリカ在住のいとこの小学生二人(お姉ちゃんと弟)が、夏休みを利用して来日し、今縁あって団で学習しています。当初、指導が通じるかどうか心配していたのですが、日本学校に通っていて、能力も高く、素直で、繰り返して何度か説明すると、十分理解してくれているようです。
 でっかい水槽が鎮座している教室で、「学」やカブトムシの世話にも大いに興味を示し、楽しそうです。心配は杞憂に終わりました。ちなみに今日(15日)からの「クワガタ探し」にも同行します。短い間ですが、ぼくが今伝えられることを一つでも多く伝えたい、と考えながら、付き合っています。忘れられない思い出になってくれれば良いのですが・・・。
 昔、写真をやり始めた頃、写真の歴史を語る本には必ずといってよいほど載っている「ある人の写真」が目に入ると考えることがありました。戦争の写真を現場で撮りつづけていたロバート・キャパのことです。

 「銃を持ちながら血を流して死んでいる兵士」や「巻き添えにあったであろう子どもをかばうように生命を落としたお母さん」・「戦時下の病院のようす」や「銃を両手で掲げ軍装を頭にのせて流れをわたる兵士を間近でとらえたスナップ」・・・。写真を始めた当時のぼくの想像を遥かに超える写真が目にとまりました。
 ぼくならどうするだろう、「人の生死がかかっている一瞬」や「子どもが死ぬかもしれない瀬戸際」にカメラを向けられるだろうか。撮らない、いやおそらく撮れない。カメラなんか放り出して逃げてしまうのではないだろうか。いや、行かないかもしれない、もし行けば、助けるのか。我先に逃げるのか、撮り続けるのか? 

 いつまでたっても結論は出ないまま、ねじ込み式のワイドレンズを装着した、古びたペンタックスSPを構えて周囲を撮り、また風景や人を撮るために街に出ました。モノクロームの世界です。
 数十年たった今は、ぼくなりにその結論が見えています。「ちょっとピンぼけ」という彼の「著作のタイトル」に、その秘密があかされています。この著書は、以前から知っていたのですが、写真を見るときは先入観をもたないように、また良い意味でも悪い意味でも期待を裏切られたくなく、今もってきちんと目を通していません。

 「著作も読まなくて」という感想が出るやもしれませんが、写真を見るときは、その他のウジャウジャではなく、「写真そのもの」を見た方が、知りたいことがよくわかります。感じとれます。
 彼は「ちょっとピンぼけ」の写真しか撮れなかった。それほどの状況下で、生きること・生きていくこと・人が生きている姿を写したかった、撮りたかった。だから『ちょっとピンぼけ』にしか撮れなかった。ギリギリだった、それがぼくの写真だ…。と、云うことなのでしょう。
 「何かに夢中になる」・「一生懸命になる」ということが今はよくわかるようになりました。そして「生きる」ということが、やはりそういうことなのだろう、ということを。
 それなら、ぼくはどうするべきなのか。

 キャパのことについて考えたこと、いくら考えてもかつては結論が出なかったこと、悩んだこと、今もって悩みながら答えを求めつづけていること…。
 結論は出なくても考え続けなければならないことがあること、考えつづけてしまうことが続いていくこと・・・。
 そうした姿を、正直にきちんと子どもたちに伝えていくことが、今までと、今と、これからのぼくの『ちょっとピンぼけ』なのだ・・・と。

ちょっとピンぼけ2
 写真といえば。今小学4年生が三人いて、いずれもよくできます。充実課程(5年生)に特進進級していて、かなりむずかしいことを指導していますが、よくついてきてくれるようになりました。

 左は7月度の学力コンクール、国語のテストの中の一問です。とある新聞に掲載されていた風景写真で、ぼくがどうしても使いたいと思って、かつて作成した問題です。
 問いは「添付の写真を見て、その季節を答えなさい。そして、どうしてそう思ったか、その理由を書きなさい」。
 風景写真に限らず、写真を見ても、ほぼ一目見ただけで脇においてしまい、それについて感じることはもちろん、考えることもあまり経験がないことがふつうです。ものをちゃんと見ない、多くの子はそんなきっかけさえないでしょう。

 それでは考えることは始まりません。モノクロだからわからない? そんなことは決してありません。草が生えているようす、空や雲の具合、感じられる空気感…。すべてが判断の材料になります。
 「何かを見て感じ考えたこと」が集積されて「考えること」が深化します。つまり『環覚』が備わってくるほど「考える機会」が増え、学びが次のステップにすすみ、子どもたちの成長と発達はすすみます。

 写真家になったり、画家にはならなくとも、「ものを見て考えること」がないと、表現者にはなれません。表現できません。そのきっかけになるような機会をたくさん用意すること。
 彼らが何をするか、何になるかはわからないけれど、何になるにしても、まず「日常生活の中で」日々感じ考える子どもに育つよう指導したい、いつもそう考えながら『ちびっ子ギャング!』たちに接しています。

 さあ、暑い中、銃ならぬ、網を携えてクワガタとカワムツに突撃です。


石ころと星、宇宙の誕生と死⑧

2017年07月08日 | 学ぶ

 立体授業「クワガタ探し」の頁、一部紹介しています。
ドンコの保護色
 休憩時間に学の『でっかい水槽』をのぞき込んでいたF君が、「アレッ、ドンコの色が変わった・・・」と呟きました。ちなみに、ふだんの水槽の微細な変化に気づくのもほとんど彼です。

 「『観察する』習慣が日常化しているので、集積された「データ」との比較(つまり、感じること・考えること)が「知らず知らずに」行われていくのです。もちろん、これらの成長は、本人の資質・小さい頃からの周囲のかかわり方の積み重ねにもよります。子どもたちの「脳の発達」つまり、頭の良さを決定するのは、こうした何気ない日々だ、と子どもたちとの日々を振り返りながら、ぼくは感じ考えています。
 一般的には、『勉強をして(するから)頭が良くなる』と思われがちですが、日々の何気なく「感じ、考える習慣」が「何気ないが故に」見逃され、忘れられ、それゆえ途方もない差になってしまう、ということに、ぼくたちはもっと着目すべきだと思います。

 たとえば、小さい頃からの日々の生活・生活習慣の中で、「蝉のこえ」や「蛙の水の音」や「白妙の衣」を、「そのときの気温や空気感とともに耳にし、目に留める日々がもたらす成長」と、「判別もつかない猥雑な音やがなり立てる音楽の中で日々を送るだけの生活」が、感じることや考える幅・奥行き・深さに、いかに大きなちがいをもたらしてしまうのか。「『自然に』考えてしまっている」ことが日々続いてゆくのです。
 いつも話している『環覚』は、こういう「考える」日々を用意することになります。「無意識のうちに積み重なる(!)こと」で、「テキストとノートと『講義(!)』だけの毎日」とは比較にならない「差」ができてしまうのであろう。
 気づかなければ、それは単純に「生まれつき」や、『あの子は頭が良い』だけで片付けられてしまうことがほとんどだと思います。「頭が良い」のではなく『頭を良くする習慣がきちんと身についている』のです。「『考える環境』がきちんとできあがっている、整っている」のです。

 日ごろから「感じ考える機会が多いこと」以上に、頭を良くする方法は他にありません。それこそ「脳のトレーニング」そのものです。「落ち着いて感じ考えることを続ける(けてしまう)」機会があるから、考えをまとめたり、整理することもできる。自然に生活の中でそれが行われていく、身についていく。こういう視点から考えると、ノートとテキストだけによる勉強は、頭をよくする方法のほんの一部分だとよくわかります。
 こうした視点は、ぼくが学習指導だけではなく、「立体授業や宿泊などによる子どもたちとの生活をそれぞれの子と何年も送ること」で、その成長をトータルに感じ、総合判断もできるからだと思います。
 ふつうは「生活の中で子どもを感じる」親と、「学習指導の中で子どもを見る」先生との『どちらも一面判断』ですが、ぼくの場合は総合する機会、日々が何年も続くわけです(団OB諸君との「付き合い」のリストをご覧ください)。それらがあることで、「生来の頭の良さ」と「指導の結果予測」との総合判断が可能になり、「京大へ行ける子が小学4年生でわかる(見込める)」というようなことができるのだと思います。

 「本来の資質の高さ」があれば(実は、ほとんどそんな子なのですが…環境が潰してしまう場合が多いと、ぼくは感じています)、家庭環境の条件(経済的側面より、お父さんやお母さんの指導に対する理解度・信頼性)が整っていれば・・・と、すべて「見えてくる」わけです。
でっかい水槽の役割
 さて、先日「蛍狩り」で、ぼくが眼鏡を山の中で落とし、F君がすばやく見つけてくれたことを話しました。学力の発達や成長に欠かせない「環覚」は、こうした、周囲の微細な変化や推移に気づく「目」・「気配」を感じる心の発現が、その定着具合のバロメーターになります。 

 今回の「ドンコの色のちがいに気づいたこと」がよい例ですが、そういう変化に気づいてこそ、「考えるきっかけ」や「新しい発想」が生まれます。「それらの継続」の行きつく先がすばらしい大学進学や「天職」・「一生をかけるべきおもしろい仕事の発見」につながっていくとぼくは思います。
 彼はそれからどうしたか?
  「保護色やろ」というぼくの一言で、水槽掃除用の菜箸(!)を使ってドンコの尻を突っつきながら、「水中ポンプの隅の陰」になっているところ、次に「砂の上」に移動させ、その体色の変化を観察するということを「自然に」始めます。
 おもしろいのです。知りたいのです。その結果で自らの判断の結論や解明を求めていくのでしょう。それも「遊び」の一環として

 ぼく自身が、団の教室のど真ん中にある、「学の住まい」のために設置したはずの「でっかい水槽」は、こうしたことにも大いに役立つのだ、と改めて気づきました。団の子どもたちの成長は、日々、こうした行動の振幅とともに進んでいきます。
 繰り返しになりますが、教科書とノートを使っての、いわゆる「学習」は、そんな「頭をよくする成長」の全体に比べたら、些細な一部分であることに、ぼくたちは日ごろからもっと目を向けなければならないのではないか、そんな気がします。今までもおつたえしている、OB諸君の明確に目的意識をもった行動と成長は、そんな中から生まれたことにまちがいありません。そこでY君のエピソードです。

OB生Y君の成長
 奈良の難関校NY学園にすすみ、現役で京大進学、院にすすみ、今「言語の発生」の研究目的で、単身一年間予定のベトナム留学をしている団OBがいます。高校時代の同級生の知人の息子さんから団の話を聞き、という関係で約15年前、小学校4年生のときに入団してくれました。
 彼は課外学習での行動も、日頃の宿題でも、裏表なく真摯な態度が印象的でした。「団の宿題は、以前もお話ししたように、受験学年になっても毎日一時間強ですむ」くらいの量で、日曜日の宿題はなく、完全休日(課外学習があるときは別ですが)です
 今までの実績をご覧いただいてもわかるように、ぼくの判断では、受験するにも必要で十分なボリュームです。しかし集中力は要求しなければいけないので、「やっつけ仕事(!)」ではなく、指示通りに遂行することがたいせつです(別にむずかしい方法を強制しているのではありません。きちんとやるということだけです)。

 それぞれの諸君の学力や志望校を見きわめながら、個別に課題を提案していきますが、Y君はその課題を的確に実行してくれました。ちなみに、Y君の家は両親で散髪屋さんを経営されていて、お母さんも決して『教育ママ』ではありません。小さいころにきちんと、しつけをされていた。そういうお母さんです。
 ところで、塾の宿題と言えば、「毎日寝る時間を削る」という話や、「宿題だけで一日3~4時間」とかいう話を聞くと、「宿題の量を指導の穴埋めやいいわけに使っているのではないか」という疑念が消えません。ぼくの指導経験から、そんな必要はまったく感じないからです。「下手な鉄砲」式の提案ではないのか。そんなにやる必要があるのか。そういう『無理矢理勉強』が大きな原因として、難関校からの大学受験「現役半数」、という状況を招いているのはまちがいないでしょう。

 さて、Y君は「光るもの」はありましたが、6年生のときの偏差値だけでいえば、いわゆる京大・東大への進学率を誇る難関校にすすむ予定の、天狗の面をかぶった子どもたちから見れば、「歯牙にもかけない(!)だろう」レベル(掲示)でした。
 それでは楽に現役合格できた、偏差値では測れない「光るもの。頭の良し悪し!」を何によって判断すればよいのか。「学習」指導の上でも、よく観察していれば確認できる判断基準がいくつかありますまず、関連をとらえられること、類推ができること。いわゆるセンスのよさです。系統立てて整理できること。ポイントを整理し同条件を考え、応用することができること

 これらの条件は、トレーニングによってもある程度鍛錬できますが、やはり、それは一定レベルまでです。周囲がきちんと判断できず、本人も周囲も「誤解したまま」、不確定な小学生時の偏差値でトップ校に進学すれば、悲惨な結果が待っています。
 ところが、一般的には、進学校やネームバリューばかりが目につき、偏差値一辺倒で「頭の良さ」まで判断が追い付かないことが多いのではないでしょうか(この点は、子どもたちのために、周囲は是非もう一度振り返るべきだと思います)。ごり押し・無理押しは、いずれにしろ、そのしわ寄せがどこかに現れます。
 さて、先の条件の芽生えが見られたら、後は「学体力」です。「わからないこと・知りたいこと・解答が見つからない答えを追い詰める力」=学体力です。「学体力」は躾や子育ての中で、家庭で身につけることも十分可能です。甘やかさなければ
 Y君には思い出がたくさんありますが、その「学体力」にまつわる話を。

 小学校五年の時、彼のもっている「算数のセンス」に気づいた僕は、宿題に「計算問題の特訓」(学研)を課しました。やはり5年生では難しく、できなくて悔しく、彼は考えながら机の下の畳をけり続けて脚から血が出てしまったということがありました。あきらめない力、挫折しない力です。
 その後も「特訓」をやり続け、トータル1時間強の宿題量で、彼はNY学園に進みました。「特訓」はNY学園受験の学力レベルから見れば、程遠いレベルに見えるかもしれませんが、「量から質への転化!」は指導力次第だと思います。
 そうそう・・・そうだった。京大に入学してすぐ、彼は一級下で同じOB教室で学んでいた後輩たちの受験のようすが気になり、「得意の数学で応援できないか」と後輩の自宅まで足を運び、学習補助をしていたやさしさがありました。

 彼は、その時、ぼくに「T(私立K大附属から神戸大工学部)とYO(私立N学園から阪大歯学部)では、今は、Tの方が、数学わかっていますね・・・」と冷静に分析できるほど、力がついていました。ちなみにI社の6年時の偏差値では、二人は算数も国語も10以上の差があったのです・・・。Y君は二人の解答を見比べ、ベテランの数学教師のような判断を下せるほど、数学力がついていたということです。
 さて、ついでに、Y君のエピソードをもう少し紹介しておきます。

 京大受験前、英文読解の「苦手」を打ち明けられ、ヘミングウェイを一緒に読むという、「ぼくが英語をもう一度勉強しようと思ったきっかけ」をもらい、彼のきっかけのおかげで「受験勉強ではかなわないままだった原書が一応読めるようになれたこと」。
 渓流教室の手伝いでは、後輩諸君にほんとうにやさしく接してくれたので、お礼を言うと何ともうれしそうに微笑み、ぼくもその心がわかり、お互いに目頭が熱くなったこと…。
 そして、理科系の方が断然いいのに、どういうわけか文学部に進学した理由。
 あとで、おぼろげながら記憶をたどってみると、高校3年のOB教室の英語のヘミングウェイの時だったか、確か「Yは理科系の科目の方が優れているけど、本来は文系の頭かもしれんな…」とつぶやいたことが、ひょっとして・・・。

 京大進学後、何を思ったのか、音楽にはそれほど興味がなかったはずなのに、「アカペラ」のクラブに入り、その発声や発音が「言語の発生」に興味をもつきっかけになったこと・・・。
 ベトナムから、まだ連絡はないのですが、しっかり自らのやりたいことに目を向け、努力を続けている姿に、ぼくはいつも教えられました。どこかY君を彷彿させる「ドンコのF君」をはじめとする諸君たちも、きっとたくましく後を追ってくれるでしょう。「無理矢理勉強」を知らない姿で…。


石ころと星、宇宙の誕生と死⑦

2017年07月01日 | 学ぶ

数日前、お互い未だ生き残っている(?!)友人の一人と話をしました。彼は長年公立高校の先生をしています。高校が受験校だったからか、先生をしている友人は結構います。彼は大親友の一人です。ぼくのブログの話になりました。
 彼「『正論(どこかの雑誌ではありません)』ばっかりやったらあかんねん。冗談もないと」。
 ぼく「・・・・・・・」。

 ぼくのブログが、冗談を「排除」している(!)わけではないことが、いつも読んでいただいている人にはよくわかっていただけると思います。彼は「おそらく『正論!』が通らない」、「正論だったら通らない」「正論を通してはいけない」世界で、悶々とする機会が多かったのだろうことが想像できました。よく我慢したのでしょう。
 そうなんです。ぼくも「一般社会経験」が、彼のような教育界経験に比べて相当豊富(!)ですから、「正論」が通らない事情や事態は非常によくわかります。しかし、自らの考えや行動や意見が、「正論であれば、何とか手を尽くして通そう」としてきました。

 まず正論を立てないと、「正しさ」はどうするんだ?
 世の中には、「なあなあ」、で済むことと済まないことがあります。まだ何も知らない子どもたちに、まず冗談や妥協を教えて、なあなあにして、きちんとした子がどうして育つんだ?
 「正しいこと」や「有無を言わさずやり通さなくてはいけないことがある」ということを教えないで、きちんと考えて、自分の意見を紡ぎ出し、自ら行動する(できる)子が育つのか? 
 子どもたちの指導では、「そのうちに」とか、「まあまあ」とかが、最近あまりにも多すぎるような気がします。正論を端折って、「面倒なこと」を避けて通っている間に、いつのまにか大きくなってしまって、後悔しきり、ということにならないように、自戒しなければなりませんね。

 思いっきり冗談を言って、思いっきり正しく走って、その間に、そしてその幅でこそ、きちんと考えられる子が育つのでしょう。「生ぬるさ」の中で育つのは気味の悪い菌類だけではないでしょうか

学の近況
 学ちゃんが団に来てから8カ月が過ぎました。団のでっかい水槽や雰囲気に慣れ、ぼくのことも、よく認識するようになりました。振る舞いがドンドン「大阪のおばちゃん化(?)」している学は、考えていたよりグルメで、同じエサが続くと生意気にも無視し、そっぽを向くようになりました。

 「ふんっ、そんなもん食べられるかいナッ」。
 数日笹身を食べなかったので、おなかが減っているころだと、小さく切っているものを水槽に落とすと、寝ぼけ眼で臭いを嗅ぎ、慌ててガッつきました。ところがまだ居眠りから目が覚めきっていなかったのか、二つ目の笹身が(学の)手(?)の向こう側に落ちてしまうと、焦ってしまい、自分の手を噛んでしまっていました。嘘のような話ですが、ほんとうです。それも二回も。
 暑くなったのでお気に入りのドジョウが市場で手に入らなくなり、件の笹身やシジミ・金魚、課外学習で子どもたちととってくるカワニナやタニシ・小魚で、学のグルメ対応をしています。

 ちなみに、今、彼女(!)は「田植え」で取ってきたタニシ(30匹以上いたタニシは現在5匹くらい、コオニヤンマのヤゴは食っちゃいました)と、先日「蛍狩り」で持ち帰ったカワニナや、まだ小さいですがヨシノボリ・カワムツ・ツチフキ・ドンコと同居しています。
 この小さなドンコ、驚くほどタフで、来た当時、頭を齧られ骨が見えていたのに、元気に回復し、骨が見えなくなり治癒しました。

 名人のF君がとったヨシノボリはたくさんいますが、小さいので食欲をそそらないのか、全く減りません。だから学を怖がらず、学が居眠りをしているあいだ、ヨシノボリたちは背中(甲羅)で、のんびり遊んでいます。ちなみに、彼女は今、首はふつうにしていても身長(?)40cm以上あり、首を伸ばすと優に50㎝は超えます。

『蛍狩り』のスライド作成3
 さて、「蛍狩り」のスライド紹介最終回です。前回は「車胤と孫康の光」まででした。

 「『光のこと』について触れるのなら、ニュートンから」です。何気ないもの、木になっているリンゴ、光や星という、いわば「ありふれたもの」「ふだん目にしているもの(リンゴではなく、他の果物や木の実でもよいわけですから)」「知っているのに知らないもの」に「目を留める」『気づくこと』でおもしろい学習が始まるのだろう、そしてそれらを「ゆっくり見ること」で考えが巡り、疑問や素晴らしいひらめき・発想が生まれるのであろう。  

 おそらく偶々発見した(そんな人はいないのではないか)のではなく、ふだんから対象の不思議さや美しさや推移に気づいていること・見つめることで「疑問」や「ひらめき」が湧いてくる・・・。その「見るということ」については、現在のように「時間に追われるせわしない日常(!)に埋没する」ばかりではなく、感性の振り子を「ゆっくリズム」や「振りかえリズム」にもどさなくてはならない
 今快進撃を続けている将棋の藤井4段も、幼い頃から、「将棋盤と対峙し、じっくり思いめぐらす時間」が豊かに流れていたのだろう、「試行錯誤」と「ひらめき」と「追い詰める時間」が滔々と流れていたのだろう。そうであれば、「難問の類似問題を集めた問題集」で、その「模範」解法に習熟することが目的の、一般の小学校生活や中学生時代とは大きなちがいです。  

 「与えられた解法の、解答がきまっている問題の、その正解だけに習熟するトレーニング」と、「解法はあっても、他にもある無限の解法を自ら創作するトレーニング」では、脳の発達に「恐ろしいほどのちがい」が生まれるだろうことが想像できます。
 ぼくたち指導する方も、少なくとも、「答えの未だない問い」を自ら立て、「くりかえし考える姿勢」や「考えて追い詰める」姿勢に向かえるきっかけを用意すること、そういう姿勢に近づけるよう工夫することは心がけなければならない。微力は痛いほど承知で、そう思いながら子どもたちと触れ合っています。

 ほとんどの子はニュートンの業績は知っていても、ただ「すごい人」だと「聞いている」だけで、「ほんとうは何を、どうしたのか」、おもしろくなるように教えられていない(教えられない)。それが現状であるならば、その壁を打破しなければならない、「ほんの少しくわしく展開すれば」、より興味をもって、壁を乗り越える子どもも出てくるかもしれない。資料を読んでいて、ぼくが「なるほど」という機会に出会うたび、そう考える、日々の小さな積み重ねです。

 掲示のサブ資料のスライドについては、出典元の書籍を紹介してありますが、引用写真の数点は出典未詳のものがあります。お詫び申しあげます。また、光と色については、厳密な色の再現を目的としたものではなく、そのしくみを子どもたちに紹介したいもので、その旨ご了解いただきますよう。
 さて、先述のように、まずニュートンの紹介から始めました。ニュートンの概要・実績等、「子どもたちが知っているようで知らないこと」についてです。
 ぼくたちは知っていると云っても、ほんとは「名前だけ」だったり、「聞きかじり」だったり、と実は知らない場合がほとんどです。たとえば映画だったら「タイトルだけ」とか、主演俳優だけとかいうような具合で、興味を掘り起こすような段階には至らぬ、「ちんけな」雑学ばかりのことが多いのではないでしょうか。もう少し詳しく見たり、調べたりすることで、興味や関心が続く、ということを、ぼくはこの年になって、よくわかりました。

 ぼくとは違って、生涯にわたる今後の時間の長さを考えてみれば、子どもたちには小さいころから、そういう指導をすることで、考えることがどんどんステージアップする可能性が高くなるのではないでしょうか。
 通りすがりの看板や見知らぬ人というような浅い関係ではなく、深い付き合いや研究が始まる対象が見つかるかもしれません。その可能性に賭けたいと思っています。ニュートンの「22歳のころの三大発見」は、その若さゆえ、子どもたちにも大きな期待を抱かせることができるかもしれません。

 「ニュートンの机の再現」は、市販のゲーム機やおもちゃではなくても、「かんたんな道具や手元にあるものでも、十分おもしろくなったり考えを進めることができること」を暗示しています。それを感じてくれれば、という思いです。
 「光のスペクトルの分光実験」では、プリズムによって「分光することよりも、実はその光をもう一度集めたり、さえぎって違う色を演出したりするアイデアのすごさ」を話しました。そして、これらは「一つの現象やできごと・対象を、時間をかけてじっくり観察したり、推移を見守ることではじめて可能になること」。「机上の抽象トレーニングだけ」では到底不可能なことを知っておいてほしかったからです。

 「電磁波」。電磁波のしくみ、そして光がどうして見えるか、を「光とは何か」(江馬一弘著 宝島新書)のアイデアを借りて、考えるようにしました。ファインマンが、かつて眼の前に電磁波が見えているように物理現象を説明した、と言われるのもこういう視点からの無限の積み重ねがあったからかもしれません。

 次は「光」と「色」の関係について伝えなければなりません。「照明」のちがいによって、見える色や見え方がちがうこと。これはぼくが写真をやっていた関係で、いわばお手の物だった分野です。あと夕焼けや山の色・海の色の変化も提示しておきました。
 さてもう一つ大切なもの、それは「蛍の光」の最初に紹介した「蛍雪の功」で出てきた「雪の『光』のしくみ」の解明です。そして、雪と云えば忘れてはならないのが中谷宇吉郎です。「雪は天からの手紙」。子どもたちは「ぼくからの手紙」をしっかり読んで、わかってくれたでしょうか。

 さて、次のスライドとテキストにかからなければなりません。テーマは「カブトとクワガタでわかること」。課外学習「クワガタ探し」(7月)のテキストです。ちなみに、次のスライドでも「構造色」について「光を参加」させます。立体授業です。