『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

限りある生命が教えてくれること

2012年08月25日 | 学ぶ

 団塊の世代、片田舎で育ったぼくたちの周りには、おどろおどろしいもの・死の恐怖を想わせるものが、まだ濃密に漂っていました。

 近所のおじさんが酔っぱらうと必ず口ずさんだ「ゴンドラの歌」。その出だしは「いのち短し、恋せよ乙女・・・」でした。教壇では「少年老いやすく・・・」という一節や、「光陰矢のごとし」、「人生五十年・・・」と口をついて出るのは一人の先生だけではありません。

 厳つい身体に似合わぬ嗚咽の後ろ姿を見ながら、野道で棺を運ぶ人たちの葬列に従い、静かに深い穴におろされていく木の箱を、自らが底なし沼に落ちていくかのような息苦しさで見送りました。死に現実感がともない、子どもながらも、いのちの思いの外の短さを感じとっていたように、今思います。

 「三途の川」ということばも不気味なもののひとつでした。「悪いことをしてると三途の川に落ちてひどい目に遭うよ」と、よく祖母に脅かされたからです。小学校しか行けなかった祖母の中で、三途の川は、ごく単純な川になっていました。

 「生きているとき、行いがよかったものはきれいな橋を渡ることができる。天国へ行ける。行いが悪ければ、成仏さえできない強い流れを渡らなければならない」。腕白が過ぎるいたずら坊主を手なずける格好の種だったのでしょう。そして天国にしろ地獄にしろ、祖母の話の中には当たり前のように死後の世界がでてきました。

 今子どもたちが、コントロールされているのも、やはり「サンズの川」です。しかし、この「サンズの川」は腕白がすぎる子どもを手なずけるのではなく、「腕白を知らない」子どもたちを育てる川になっています。「三途の川」ならぬ、「見せズ」「触れさせズ」「つくらせズ」という三つの瀬がある「三ズの川」です。

 そこでは「見せない、触らせない、つくらせない」という過保護の強い流れが手ぐすねを引いて彼らを待ち、その流れに落ちてしまえば、未来を照らすべくもって生まれた英知がすっかり流されてしまう、そんな川です。

 広辞苑では、「英知」は「深遠な道理をさとりうるすぐれた才知」となっています。言いかえれば「ほんとうにたいせつなものがわかる力」といえるでしょう。そうであれば、英知の第一は、今生きていること、そのたいせつさがわかる「いのちの気づき」だと思います。

 死を見ようとしないかぎり、生命の大切さやたいせつにしなければならないものはわかりません。自らの命、そしてみんなの命が年とともに衰え、やがては必ずなくなるということがわかってはじめて、ほんとうにたいせつなものがはっきり見えてくるはずです。

 また、命に限りがあることが意識にあれば、いのちに限りがあることによって、ぼくたちはかけがえのないものをたくさん手に入れていることもわかります。たとえば、もし不老不死であれば、切なる「望み」や大きな希望は生まれるでしょうか? 意欲はでてくるでしょうか?

 僕たちを鼓舞し、夢を見させてくれる「努力」や「進歩」・「成長」という前向きの姿勢や概念は、「いつでもできる」「いつでも手に入る」という環境や条件とはそぐいません。

 ひとりでは営みを完結できないがゆえに、完全なもの・より良きものへのあこがれが生まれます。そのあこがれから目標が生まれ、時間の限りから計画と努力の必要性を感じることができます。

 永遠の時間があれば計画は必要なく、努力は要求されません。限られたいのち、終わりがあること、それを意識することで必要性が生まれます。そして努力した結果や成果によって達成感・充実感・喜びを手に入れることができます。さらなる希望と意欲もそこから生まれてきます。

 すべて、限りあるいのちを意識するからではないでしょうか。平均寿命がいくら延びようと、それは架空の寿命で、自分の寿命の予定ではありません。

 そして寿命は、子どもたちに、もうひとつたいせつなことをおしえてくれます。

 限りある命を意識し、それぞれの死に気づくことで、生をともにしている人に対するいとしさを感じます。優しさや思いやりという人間らしい感情は、死を振り返る機会があってはじめて、その深さをましていくのではないでしょうか。

 僕たちはこのように、命に限りがあるので、退屈な日々ではなく、苦しみながらも人生を味わえ、心豊かな日々を送ることができます。

「・・・人間、時間なんて限られているでしょ。自分はあと二十年生きるとすると、このあいだに何をするかということさえ、本当なら考えをめぐらすべきでしょう。がんを宣告されて、あと二年しか生きられないと言われた人は、もっとシビアな立場に立つ。この二年間どうやって生き ようかと、真剣に考えます。そういう極限の状態にない人は、ずっと生きると思っているから、ゴールがはっきりしない。とくに若い人はそうです。それで、くだらないことでもおもしろいというふうに誤解するのです。やってみれば別にたいしたことでもないことをね。」
( 「私の脳科学講義」利根川進著 岩波書店)

 

 

 味わってあまりあることばではないでしょうか。
 英知がともなわなければ、ぼくたちはトンネルの中を走り回る列車にただ身をを任せている乗客のようなものかもしれません。目的の駅もわからず、降りて観光もできず、きれいな景色や壮大な風景を見ることもない。おみやげを手にすることもなく、旅の楽しい想い出も手に入れられないまま終着駅を迎える、そういう乗客です。

 

 

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粘土発見から土器づくりへ (2)粘土で何が学べるか?

2012年08月18日 | 学ぶ


 小学生のころ、近くの川の土手や裏山の山裾などあちこちに粘土があり、いつも見ていたので、珍しくも何ともなく、「粘土はどうして生まれるのか」など考えもしませんでした。
 土器づくりをするという企画を進める一方で、その体験を思い出しながら、「小学生はすべて、ほとんどそういう直感だけの世界にいて、そこが出発点になる。そこから『成り立ちやしくみ』を学んでいくのが学習だ」と、「遅まきながら」気づきました。
 そして、その成り立ちやしくみを学ぶことが、成長すること、すなわち「自らが生きていく世界にアプローチする」ためにたいせつな意味をもつことなのだ、と。
 

 6月のブログ「ぼくたちは何を知りたいのか」や「天使のほほえみが意味するもの」で「成り立ちとしくみ」とぼくたちの関係について触れました。
 野生の動物たちとちがい、生存の手段やノウハウをまったく手にすることなく生まれ、「頭脳」を頼りに生きていかなければならないヒトは、「学ぶことがおもしろくなるように生まれついている(進化してきている)のではないか」、そして「『学ぶ面白さ』は成り立ちやしくみがわかったときに生まれ、それが極まるのは自らの苦手や難題が克服できたときだろう」と提案しました(6月のブログを参照してください)。
 そうであれば、「あって当然」、「いつものもの」、「よく見ているもの」という感覚の中にいる子どもたちを、「えっ?」「そういうことだったのか」「なるほど!」という、成り立ちとしくみの世界に招待すること。それが周囲に対する「環覚」を呼び覚ますきっかけ、「学ぶ面白さ」に誘う大きなきっかけになるはずです。まず、それが目標になります。
 「粘土はあって当然」と、ぼくが「何十年も一歩も進めなかった世界」にメスを入れること。元になるのは、ぼく自身の不思議や疑問です。

 大学ドロップアウトのおかげで、「中途半端に知識だけ身につけ、わかったつもりになっていない(なれない)」・・・ぼくの知識と好奇心は、ほとんど小学生のレベルと変わらない・・・粘土が陶磁器の材料であるという、ごく初歩的な知識はあるが、それ以上くわしいことは何も知らない・・・「粘土はどうして生まれるのだろう? 」、「なぜ粘土は柔らかく成形が容易なんだろう」・・・その不思議を手繰っていけば、すでに進めている立体授業とリンクし、地球のなりたちに、さらに興味をいだくようになる材料ができそうだ・・・。
 団では、それまでに年に何回も訪れるそれぞれの川で、「石ころ」に興味が向くべくきっかけはつくってきました。川原で花崗岩やチャートなどさまざまな岩石や餅鉄・砂鉄を探し、「土筆ハイク」や「クワガタ探し」で腐葉土に触れ、石榴石やコランダムの粒探しで「トレジャー・ハンティング」と、立体授業は進めてきました。

 岩石サイクルやプレート移動・鉱物や岩石の組成・マグマや火山という学習対象を関連の中で構成し、その都度スライドやテキストで紹介しました。観念的知識の積み重ねだけではなく、身近なものとの関わりを押さえながら、感じながら「地球」の探求を総合的に進めて欲しいという願いでした。
 実際に現場に立ち、説明を受けて学ぶこと、自ら発見することは、たとえば「砂場で水を流す単純な実験」による理解や面白さとは比較になりません。そして、自ら発見することは、どんな小さなことでも、次につながる積極性を育てるきっかけになり得ます。自然体験はそういう機会も用意してくれます。
 毎回、石や土に関わるスライドやテキストに興味深げに見入っていた子どもたちですが、彼らがいちばん身近で喜ぶであろう「粘土」という岩石変化のサイクルが抜けてしまっていました。
 なぜ、どこで、どうして粘土ができるのか、また粘土は陶器や磁器とどういうつながりがあるのかなど、少しずつ調べ始めると、おもしろいこと、興味深いことがどんどん出てきます。
 子どもたちにもっともなじみ深いといってもよい鉛筆の芯には粘土が欠かせません。食品にも使われ、洗剤・医薬品・建築用材から化粧品まで。粘土は学習の裾野がものすごく広い学習対象です。先週の最後に書きましたように、ぼくの中でも粘土のことをもっと知りたいという、モチベーションが高まりました。

 一次粘土。「岩石を砕き微少な粒に仕立て上げるのは水だけには限らない」、岩石が壊れたり、分解・溶解するには「風化」も大きなはたらきをしていることがよくわかります。風化の原因、温度による岩自身の体積の膨張と収縮、含まれている水の氷結、植物や風による影響など、硬い岩石が次第に壊れ変化していくようすが、子どもたちにもわかりやすくイメージできるようになります。
 山に砂粒があること、土砂ができるのは水のはたらきに限らないということがわかれば、子どもたちの感覚の中で、砂場でおなじみの砂によって、岩石サイクルの印象はより身近に、鮮明になるのではないでしょうか。

 一次粘土と二次粘土のでき方の区別を知れば、流れる水の三つのはたらきは、さらに豊かなイメージに支えられるようになります。もちろん、これらは、すべて「粘土があるところを、掘るようすを間近で見て体験していること」によって成立する学習だと思います。
 粘土の風化のしくみを知れば、雨水や地下水に含まれている成分、二酸化炭素などが炭酸となり空気中の酸素などとともに岩石中の鉱物や石灰岩を溶かしたりする化学的風化にもなじみができます。もちろんこの理解は、酸性雨のイメージづくりにも寄与するでしょうし、「秋吉台は石灰岩の鍾乳石で有名」などという「暗記事項」も裏付けをともない、簡単に記憶できるでしょう。

 そして、やがては多くの子たちにとって意味もわからない元素記号や化学変化を覚えることから始めなければならない化学の学習に対する「取っつきにくさ、疎遠な感覚」も払拭できるかもしれません。
 立体授業の餅鉄探しやトレジャーハンティングのスライドで紹介した造岩鉱物の紹介で、すでに長石や雲母・石英などは出てきていました。またこれらを川岸で見つけ、子どもたちは大喜びしていました。既になじみができているわけです。

 それらの鉱物が、実は粘土の組成や焼き物のできあがりにも大いに関係があることがわかりました。地球の地表部を構成する元素で最も多いのが酸素で約半分、その次にダントツに多いのが珪素で約四分の一という事実。そして、土筆ハイクのスライドで紹介した研磨材として利用されるトクサやススキが手を傷つける原因になる「ケイ酸」が登場しました。稲作の始まりの確定にもたいせつなプラントオパールが、シリコンが・・・。
 探求の広がり、学習経験による身近さ・子どもたちの好奇心の行方を考えたとき、体験学習また立体授業を進めることが、子どもたちの将来にどれだけ大きな影響を与えることになるか、わかっていただけるのではないでしょうか?

 小学校では今、ぼくたちのころとちがって、素晴らしい教科書が使われています(上記)。今週のブログの関連単元では、5年生では「流れる水のはたらき」、6年生では「大地のつくりと変化」があります。紹介した教科書以外でも、それぞれが総合的な視点もふくめて、ぼくたちも小さいころにぜひ習いたかった、ぜひ欲しかった、非の打ち所がないできばえだと思います。
 しかし、その素晴らしい宝物たちが、子どもたちにとっては単に「見知らぬアルバム」に終わってしまっているのではないか(7月のブログを参照してください)。すばらしい学習対象や教科書掲載内容が、果たして子どもたちの中で、自らの体験と合わせて『翻訳』されて理解されているでしょうか?
 子どもたちは塾や学校で、たしかに水の流れの三つのはたらきは習っています。
 三つのはたらき、『けずる』『運ぶ』『積もらせる』で、岩石が次第に細かくなりシルトや粘土に、という経過は、おそらく子どもたちも「何となく」わかります。しかし写真と理屈で何となくわかっても、面白さが始まるでしょうか。「暗記」を越える学びのきっかけが生まれるでしょうか? 

 小学校では林間学習や臨海学習などで川や海に行く機会もあります。
 しかし川に行ったとき、その川が上流か中流か下流かを岸辺の石や砂で確認したり、海岸の砂に注意を向けたりすることがあるでしょうか。教科書のきれいな写真のみに頼っている学習ではないでしょうか。体験学習や川遊びで、そういう指導が行われているでしょうか。
 団に通ってくれる子たちからは、残念ながら、今までそういう話を聞いたことがありません。せっかく川になじみができているのですから、環覚を育てる機会をむざむざ逃すことはありません。
 川で遊び続けたぼくは川の砂や石・岩のイメージが、いわば身体に染みついています。しかし、今の子どもたちにそういう前提を期待することはできません。教科書で指導される流れる水のはたらきと石や砂の変化が、子どもたちの頭の中で、きちんと照合されイメージをともなって理解されているとは思えません。
 素晴らしい教科書は、いわば、宝の持ち腐れになっているのではないか。あくまで観念的な知識の積み重ねにとどまり、それ以降の発展性やおもしろさをあまり期待できない「勉強」で終わっているのではないか。子どもたちのために、ぜひ「有効な体験学習」を取り入れていただきたい、教育関係者の方々には、ぜひ、検討していただきたいと、願ってやみません。

 今年の土筆ハイクでは粘土を掘り出して、土器づくりに取りかかりました。
 近くの農家の人に声をかけ許可をもらって、サポーターのOBやお父さん方に掘ってもらった粘土をタッパーに入れ、持ち帰りました。もちろん立体授業はエンドレスですから、土器を作って終わりにはしません。「粘土」は、そこで終わらせてしまうには、あまりにも「もったいない」宝物です。
 このシリーズを続けていくことによって、子どもたちの中で自らの環境を構成する身近なもののひとつの大きな枠組み、土や岩石に対する環覚が立派に育ってくれるのではないかと期待しています。
 「国語を昆虫採集してみないか、算数も手づかみできるんだよ」の項はこれで終わります。来週から(八月二十五日アップ予定から)、子どもを育てるためにたいせつでありながら、今は見落とされがちな視点、団の三訓「嘘をつくな・狡をするな・楽をするな」を紹介します。その後の予定として「限りある命でわかること」等と続けたいと考えています。覗いていただき、子育ての参考にしていただければ、こんな嬉しいことはありません。

 

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粘土発見から土器づくりへ (1)山と土と学ぶ面白さ

2012年08月11日 | 学ぶ

 


 みなさんは通勤の車中から、あるいは郊外に出て「山」を眺め、「山はどうしてできたのか」と思ったことはありませんか?

 「・・・地殻変動や土地の隆起」と、それなりに答えは出てくるかもしれません。

 しかし「懐かしさ」はあったでしょうか?
「生きている山」でしたか? 「地殻変動や土地の隆起」という『ことば』でできた山ではないでしょうか。 木々が茂り、笹の葉先の水滴の世界に思わず見入ってしまう山、木漏れ日の中で小鳥が囀る山だったでしょうか?「教科書掲載写真の山」・「コラムの山」・「要領よくダイジェストされた山」ではないでしょうか。

 

 もちろん、山に対するこの感覚の想起は、数多の学習対象に対する感覚の代表例に過ぎません。
 距離や時間を置いても、時に振り返ったり、ゆっくり思いをめぐらすという経験さえない。ぼくたちと学習対象とは、それほど儚い、うつろな関係だということがわかります。特に経験の少ない子どもたちにとって、学習対象の多くはさらに身近ではありません。

 山の場合であれば、「登山家やハイキングが趣味!」ほどではなくても、山に入り、山に触れ、山を感じ、その折々の表情に眼を留める経験を積めば、次第に親しみが増します。対象に近しさ・親しみをもってはじめて、学ぶことに面白さが生まれ、不思議さや次の探求心・研究心・大きな目標やテーマが育ってくるとぼくは考えています。山が学びの対象として動き始めます。

 それには、まず対象に注意や眼が向かわなければなりません。子どもたちにおもしろいものがあると伝えなければなりません。その場所に立ち、不思議を感じ、好奇心が起きる状況が育たなければなりません。環覚の育成です。
 地殻変動や山の土のなりたちは中学校からの理科の学習テーマのひとつです。ところが、昔と環境がすっかり変わってしまった今は、自然体験がなく、それまで山をきちんと見たり考えたこともないだろう中高生が大半です。

 学習するべき時期までに、それらを受け入れる態勢がまったく整っていません。環覚が育っていません(まだ自然がそれなりに残っていた昔でさえ、粘土のあり方をイメージできなかった前述の秀才を思い出してください)。
 さらに残念なことに、学習時期も子どもたちの現実にそぐいません。
 中学生・高校生といえば、性やファッションなどに、目一杯好奇心と興味をもち始める時期です。山の中に喜んで入り、土や虫を興味津々愛でるのは、もっともっと小さいころではありませんか? その頃には既に環覚の育成が始まっていなければなりません。

 小学生時代にそういう経験が乏しく、性に目覚めるような中学生時代になって、いきなりトビムシやカニムシが出てきても、好奇心いっぱいで対象に向かえる子がどれだけいるでしょう?
 環覚がともなわず、自然を受け入れることに何の準備もない彼らに、「唐突に」、見たこともない地殻変動や山の土や微生物の説明を始めても、「異性や流行に対する興味をひとまずおくだけの関心」で興味が向かうでしょうか? 。

  落ち葉を分解するバクテリアや虫たちは、ただ気味の悪いものの象徴であり、悲鳴の原因になるしかありません。

「何でこんなもの勉強せんとあかんの」という感想とともに、「勉強」は「始まった段階から既に終わったも同然」になるのではないでしょうか。

 これらも、学習が身近にならず、おもしろくない大きな原因のひとつだと考えられます。「理科離れや勉強嫌いも当たり前ではないか」ということが、こう考えればよく納得できると思います。

 そして、今のままでは、その多くがそのままおもしろくない「勉強」として、いつまでもつづいていくことになりかねません。防ぐためには、もっと早くに、できる限り体験をともなう、学ぶ「きっかけ」が生まれ、環覚が育っていなければなりません。

 多くの科学者の子ども時代を振り返ってみれば、学ぶことが、調べることが、追求することが、おもしろくておもしろくてしかたがなくなる時期を見つけることができます。
 子どもたちの「天使のほほえみ(6月ブログ参照)」が「健在」な間に(私見では遅くとも小学生高学年までに)、ファインマンのお父さんのように、自然の中で好奇心を引き出す問いかけや指導をうまく重ねていけば、幅広い好奇心と探求心を備えた、素晴らしい子どもたちが育っていくのではないでしょうか。(岩波現代文庫「困ります、ファインマンさん」・大貫昌子訳等で、そのあたりのようすがよくわかります)。

 

「こうして私はその後の人生を決定づけられ、あらゆる科学に興味をもつようになりまし  た。物理が得意なのは偶々なんです。いってみれば、小さいころにすばらしいものをもらった人  が、もう一度それを見つけたいと探しつづけているかのように、私は科学に魅了されてしまいま した。まるで子どものように、いつもすてきなものを探しつづけています。探しても、必ず見つか るとは限らないだろうな、時々だろうな、ということがわかりながらも」 
("What Do You Care What Other People Think?" R.P. Feynman W.W.Norton & company,Inc.以下引用は同書より・拙訳・傍線も南淵)

 この回想を虚心に味わってみてください。どんな子どもたちにも、学ぶ面白さに出会える大きな可能性があり、そして、それがさらに大きく実る可能性が秘められていることを示唆していると思えませんか?

 この姿勢を育てるのに大きく貢献できるのは、もちろん両親であり、指導に携わる人たち(特に小学生時の)をおいて他にありません。そして、まず応援すべきは子どもたちの環覚を育てる手助けです。環覚を育てることを目標にすれば、子どもたちが足を運ぶ環境に材料が埋もれているわけで、そこで出会う、どんなものでもテーマたり得ます。

 したがって、団の課外学習で、ぼくは一方では、「子どもたちが喜ぶもの(子どもたちの興味をひくもの)」、「できれば小学校の学習内容にうまくリンクできる(する)もの」という条件にあてはまる材料探しもしながら、課外学習をしていることになります。毎回がテーマ探しの道のりでもあるわけです。

 同じ取り組み、同じことのくり返しでは—たとえば土筆ハイクではツクシや草花だけを探しつづけるだけでは—経験を積んでいく子の中には飽きる子も出てきますし、幅広い好奇心を養うことはできません。

 ちなみに、子どもたちと遊ぶ、土筆ハイクの際の余興として、今まで手作りの紙飛行機の飛距離競争やこれも手作りの吹き矢での風船割りなどを組み合わせてきました。あくまでおもしろく遊べるものという観点から始めたものですが、これらの遊びの対象も、やがては大きなテーマのもとで総合された立体授業として結実してくることを期待しています。おもしろく学ぶための「きっかけ作り」は、たくさんあるに越したことはありません。これらが空や空気・風への関心を呼び覚ますきっかけになれば、こんなうれしいことはありません。

 さて、昨年のことです。土筆ハイクの道中、山から流れてくる道端の小川底でブルーグレーの粘土が目に留まりました。十年近く前になりますが携帯用のスコップで粘土を取り出し、OB諸君が大感激をしてくれた想い出を振り返りながら、子どもたちに「来年は粘土で土器を作ろう」と約束していました。
 土器づくりは、田舎で遊んでいれば身近にあるものが、いつのまにか縁遠くなってしまった子どもたちに、「粘土の近しさ」を伝えるチャンスでした。その経験を経て、自らの環境に目を向けるきっかけができれば、環覚が、またひとつ育ったことになります。
 もちろん、粘土に触れて成形し、自らで型押しした経験から生まれた想像力は、縄文や弥生時代の学習にも大きなアドバンテージになってくれるでしょう。
 そしてこの企画を実行するについては、ぼくのなかでもモチベーションが育っていきました。

 

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土筆ハイクの行程ーゆっくリズムと振りかえリズム

2012年08月04日 | 学ぶ

 

 スライド授業が終わると、住宅街や商店街を抜け、子どもたちと参加保護者が並んで駅へ向かいます。団の課外学習のメインスポットは飛鳥と赤目です。土筆ハイクは飛鳥方面、稲淵までの道程になります。
 途中でツクシをさがしながら、さまざまな生きものや自然にふれ、時には粘土(! 次回、この項の最終回に紹介します)を探し、採集地である棚田の公園に向かいます。ちなみに、つき添いのお父さんやお母さんは晩酌の肴のノビル、季節の香りいっぱいのセリなど手に入るので、いつも大喜びです。

 以下は飛鳥までの行程と指導内容のおおよその紹介です(なお、写真は課外学習の行程のイメージで、土筆ハイク以外の季節のものもあります)。

 課外学習の大きな目的のひとつが、ふだんの生活の中で教科書の学習対象や学習内容、おもしろい現象に気づくこと—環覚や好奇心を育てること—です。
 したがって、街中、駅への道中も、その環覚を育てられる「めぼしいもの」に目を光らせます。その「めぼしいもの」は、どこにでもあるありきたりのもので、子どもたちの注意や関心をひきそうなもの、という意味です。
 ただ「目新しいもの」だけを探していれば、環覚を育てることなど及びもつきません。「目新しいもの」は日ごろ、そんなにあるものではありません。
 ありきたりのものを見て不思議なことやおもしろいものを見つけることが、環覚を育てることです。教科書の学習内容の多くはありきたりのものについてです。「しょうもないもの」が、実は「しょうもなく無いもの」であると気づけるようになること、あたかも「目新しいもの」のように目が向くことが、「環覚」がそだつという意味です。

 街中や公園にあるものなど、大人にとっては「よく見るもの」かもしれません。しかし、実はよく見ていないもの、よく考えてみれば、ほとんど知らないものばかりなのではないでしょうか。
 また、知っていると思っているものでも、近寄ってよく見れば、不思議なことや興味深い現象はたくさん見つかります。ぼくは最近特に、「ほんとうは何も知らない、周囲はぼくの知らないことだらけだ」と思うようになりました。

 子どもたちは、ぼくたちとちがって感受性が豊かで、興味を感じれば、どんどん学びのステップが進んでいくはずです。そういうおもしろさがわかれば、点数や到達地を競うゲームのように、飽きがきて次のものが欲しくなることはありません。

 


 田舎の小学生だった時、担任の先生と学校周辺の里山で過ごしたひとときのことは、今でもよく覚えています。また中学生時代も理科の先生と二上山に上ることができました。いずれも、先生がたいせつな時間となけなしのお小遣いを犠牲にして生徒を育ててくれたころの想い出です。

 小学校の時は畑の土の中から古い食器や銅器を発見し、中学生の時は炭化した植物に出会いました。何十年も前のことを鮮明に覚えているのですから、教室をはなれて(環境を変えて)の遭遇が、どれだけ印象的か、また、おもしろさや興味を引き出すか、がよくわかります。つまらないと思っていたものがつまらなくないと思える、よいきっかけになるはずです。

 土筆ハイクのころはまだ風が冷たく、街中ではそんなにたくさんの花が見られるわけではありません。しかし、その気になって探せば、興味をもたせられるきっかけになる対象はいくらでも見つかるはずです。それに、今はどういうわけか、雑草の本がたくさん出るようになりました。周囲に目を向けようという私たちの心の叫びかもしれませんね。

 都会の道端や公園の片隅で時々見かけるのはハルノノゲシやオニノノゲシです。姿形はほとんど同じですが、葉のとげと茎への巻き方がちがいます。寒さに強いらしく、ほとんど一年中開花しているこれらキク科の花は、タンポポと同じで舌状花が集まって頭花を形作っています。小さい舌状花を一枚ちぎれば、合弁花や花の四要素・タンポポのなかまを印象づける教材に最適です。

 横断歩道で信号待ちの間は車線を隔てる植え込みにも注意します。この時期には穂はまだ出ていませんが、

田植えの時には、この植え込みでいつも、コバンソウやチガヤが見つかります。どちらも単子葉植物。特にコバンソウは、そのかわいらしい容姿で子どもたちの人気者です。
 駅に着くと、それぞれが行き先までの切符を買います。

 今の子は切符を買った経験も、あまりありません。ほとんどクルマでの移動では買う必要がないからです。こういう小さな事をひとつひとつ覚えて、子どもたちはしっかりしてきます。

 切符を落とさずにもっていられることも、最初はそれほど簡単ではありません。慣れない間は無くしてしまう子が結構出ます。無くしてはいけないもののしまい方(この場合は決まったポケットで)を教えるのによい機会です。また、電車での移動は、並ぶことや車中での態度など、公衆道徳を身につけるのにもよい機会になります。現在はこういうことをきちんと教えられている子も少なくなりました。

 駅のホームではレールのつなぎ目が目に留まりました。少しの間隔が空いているのはなぜか。問いかけます。気温によっての金属の膨張は、道中で架線のコンクリートブロックでのたるみ調整を見、話が及ぶことで印象に残ります。


 鶴橋から近鉄電車に乗り目的地までの間、子どもたちは電車の中で本を読んだり、友だち同士で話したり、思い思いの姿で楽しく過ごします。もちろん折々の景観の中から、子どもたちに見せたいもの・伝えたいことを、即、子どもたちに反映させることも忘れません。

 山の斜面のブドウ畑を見れば生育の条件、田の畦にキジが見られれば、その縄張りや生態。山を越える高圧線からは水力発電とダムの話、大和川を越える鉄橋では川の汚染、大和川を越えたところでは、初夏に貴重なササユリが車窓から見えます・・・車中で長い話をすることはもちろんできませんが、次の機会に、窓外の景色に興味をもたせられるポイントは伝えられます。その都度、季節の変化にも眼が向くようになってくれます。
 教科書の内容は画像であっても、学習対象は「画像」ではありません。それぞれ、刻々、子どもたちと同じように変化を続けている、「生きている対象」です。教科書はいわば「プロフィール」だけの紹介です。よく見れば教科書に書いていないこともたくさんみつかります。子どもたちにはそちらの方がおもしろいことがふつうです。


 飛鳥の駅を降りると、遠くに薄墨色の山並みが見えます。駅前には早咲きの菜の花が咲いていました。「薄墨色」を見るために子どもたちに両手で枠をつくらせます。ものをきちんと見ることの始まりです。子どもたちの手の中で、景色はそれぞれ思い思いに切り取られていきます。

 晴れていれば、空の上下の青さも比べます。この体験は後々の光や大気の話の伏線になります。
 遠く、近く、見方・目の届かせ方もその都度学んでいきます。遠近法の体験です。枠の中で、無彩色の山並みが遠く空に溶けていくのもきちんと見ることができました。

 子どもたちは、かつてのぼくと同じように、きっと薄墨色と春の景色を心に刻んでくれたでしょう。なお、現在、子どもたちの手での枠は、大中小三つの大きさの黄金比の木枠に変わろうとしています。やがて、黄金比の意味や算数の比の考え方を説明するとき、明確にイメージして欲しいからです。


 さて、飛鳥駅前には「貸し自転車」がたくさん並び、呼び込みの人たちが、さかんに自転車の利用を勧めています。観光スポットを廻る飛鳥周回のバスも止まっています。
 しかし子どもたちは、それらを横目に山の方に向かって歩き始めます。高松塚古墳の横を抜け、これから徒歩で朝風峠に抜ける急な山道に向かうのです。

 「自転車に乗って分かること」と「ゆっくり歩きながら分かること」は同じではありません。ペダルをこぐときの呼吸や鼓動のリズムは、土筆を摘んだり、レンゲソウに戯れるミツバチや花粉と格闘するハナムグリに見入るリズムではありません。流れるリズムではあっても、振りかえるリズムではありません。自転車で出会う風はタンポポの綿毛を運ぶ風ではありません。

 車での移動がほとんどで、「じっと見ること」や「じっと聴く」という、自然の「ゆっくリズム」を身につける機会がほとんどないまま成長してしまう子どもたち。さらに、考えるいとまもなく時間が流れ、切れ目なく映像が氾濫する時代は、子どもたちから「振りかえリズム」さえも奪ってしまいました。

 自転車は遺跡「巡り」には好都合であっても、田舎に浸り、時間の流れを味わい、環覚を育てるには速すぎます。自動車移動では、「何をか言わんや」です。


 生物だけに限らずあらゆるものの存在を感じるための「ゆっくリズム」。「思い」をめぐらす「振りかえリズム」。その経験が子どもたちの行動と思考パターンを形作っていきます。「振りかえリズム」は「自らと自らの行動をモニターするメタ認知」の形成にも大きく関与していくのではないでしょうか。

 ゆったりと進んでいく時間の中に身を置き、刻一刻変化する「自然」の姿を感じること、見ること。その中から学ぶことがおもしろくなるきっかけも見つかります。「ゆっくりリズム」に浸れるのは自然の中を歩いてこそ。周囲に興味をひかれ、ふと立ち止まったり、考える機会もそこから生まれます。「振りかえリズム」の誕生です。

駅から棚田の公園に向かうまでの間、動植物や自然の景観を愛でながら、ゆっくリズム・振りかえリズムをたいせつに、草笛遊びをし、飛鳥川で釣り糸を垂れるときの篠竹を切りながら、子どもたちは歩を進めていきます。ツクシを摘んでいくのはもちろんです。

 次回はこの項「国語を昆虫採集してみないか 算数も手づかみできるんだよ」の最終稿「粘土発見から土器づくりへ」を紹介します。

 

  

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