団塊の世代、片田舎で育ったぼくたちの周りには、おどろおどろしいもの・死の恐怖を想わせるものが、まだ濃密に漂っていました。
近所のおじさんが酔っぱらうと必ず口ずさんだ「ゴンドラの歌」。その出だしは「いのち短し、恋せよ乙女・・・」でした。教壇では「少年老いやすく・・・」という一節や、「光陰矢のごとし」、「人生五十年・・・」と口をついて出るのは一人の先生だけではありません。
厳つい身体に似合わぬ嗚咽の後ろ姿を見ながら、野道で棺を運ぶ人たちの葬列に従い、静かに深い穴におろされていく木の箱を、自らが底なし沼に落ちていくかのような息苦しさで見送りました。死に現実感がともない、子どもながらも、いのちの思いの外の短さを感じとっていたように、今思います。
「三途の川」ということばも不気味なもののひとつでした。「悪いことをしてると三途の川に落ちてひどい目に遭うよ」と、よく祖母に脅かされたからです。小学校しか行けなかった祖母の中で、三途の川は、ごく単純な川になっていました。
「生きているとき、行いがよかったものはきれいな橋を渡ることができる。天国へ行ける。行いが悪ければ、成仏さえできない強い流れを渡らなければならない」。腕白が過ぎるいたずら坊主を手なずける格好の種だったのでしょう。そして天国にしろ地獄にしろ、祖母の話の中には当たり前のように死後の世界がでてきました。
今子どもたちが、コントロールされているのも、やはり「サンズの川」です。しかし、この「サンズの川」は腕白がすぎる子どもを手なずけるのではなく、「腕白を知らない」子どもたちを育てる川になっています。「三途の川」ならぬ、「見せズ」「触れさせズ」「つくらせズ」という三つの瀬がある「三ズの川」です。
そこでは「見せない、触らせない、つくらせない」という過保護の強い流れが手ぐすねを引いて彼らを待ち、その流れに落ちてしまえば、未来を照らすべくもって生まれた英知がすっかり流されてしまう、そんな川です。
広辞苑では、「英知」は「深遠な道理をさとりうるすぐれた才知」となっています。言いかえれば「ほんとうにたいせつなものがわかる力」といえるでしょう。そうであれば、英知の第一は、今生きていること、そのたいせつさがわかる「いのちの気づき」だと思います。
死を見ようとしないかぎり、生命の大切さやたいせつにしなければならないものはわかりません。自らの命、そしてみんなの命が年とともに衰え、やがては必ずなくなるということがわかってはじめて、ほんとうにたいせつなものがはっきり見えてくるはずです。
また、命に限りがあることが意識にあれば、いのちに限りがあることによって、ぼくたちはかけがえのないものをたくさん手に入れていることもわかります。たとえば、もし不老不死であれば、切なる「望み」や大きな希望は生まれるでしょうか? 意欲はでてくるでしょうか?
僕たちを鼓舞し、夢を見させてくれる「努力」や「進歩」・「成長」という前向きの姿勢や概念は、「いつでもできる」「いつでも手に入る」という環境や条件とはそぐいません。
ひとりでは営みを完結できないがゆえに、完全なもの・より良きものへのあこがれが生まれます。そのあこがれから目標が生まれ、時間の限りから計画と努力の必要性を感じることができます。
永遠の時間があれば計画は必要なく、努力は要求されません。限られたいのち、終わりがあること、それを意識することで必要性が生まれます。そして努力した結果や成果によって達成感・充実感・喜びを手に入れることができます。さらなる希望と意欲もそこから生まれてきます。
すべて、限りあるいのちを意識するからではないでしょうか。平均寿命がいくら延びようと、それは架空の寿命で、自分の寿命の予定ではありません。
そして寿命は、子どもたちに、もうひとつたいせつなことをおしえてくれます。
限りある命を意識し、それぞれの死に気づくことで、生をともにしている人に対するいとしさを感じます。優しさや思いやりという人間らしい感情は、死を振り返る機会があってはじめて、その深さをましていくのではないでしょうか。
僕たちはこのように、命に限りがあるので、退屈な日々ではなく、苦しみながらも人生を味わえ、心豊かな日々を送ることができます。
「・・・人間、時間なんて限られているでしょ。自分はあと二十年生きるとすると、このあいだに何をするかということさえ、本当なら考えをめぐらすべきでしょう。がんを宣告されて、あと二年しか生きられないと言われた人は、もっとシビアな立場に立つ。この二年間どうやって生き ようかと、真剣に考えます。そういう極限の状態にない人は、ずっと生きると思っているから、ゴールがはっきりしない。とくに若い人はそうです。それで、くだらないことでもおもしろいというふうに誤解するのです。やってみれば別にたいしたことでもないことをね。」
( 「私の脳科学講義」利根川進著 岩波書店)
味わってあまりあることばではないでしょうか。
英知がともなわなければ、ぼくたちはトンネルの中を走り回る列車にただ身をを任せている乗客のようなものかもしれません。目的の駅もわからず、降りて観光もできず、きれいな景色や壮大な風景を見ることもない。おみやげを手にすることもなく、旅の楽しい想い出も手に入れられないまま終着駅を迎える、そういう乗客です。
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