『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて ⑧ 

2017年12月30日 | 学ぶ

「入試問題実践テストの意味」
 団では受験する子のために、また受験しなくても、中学進学時に同レベル以上の学力を身につけて送り出したいので、冬期講習も行います。冬期講習は団員諸君の志望校、また同等以上の入試問題を利用し、各科目・各単元の全体的なバランスや問題レベル・問題内容を考え、同条件で入試実践テストを行っています。
 実践テストをする大きな意味のひとつは、受験のときに、ふだんの実力を十分発揮できるようにできるだけ平常心に近い精神状態で受験させたいという思いからです。まだ塾を始める前、長男の受験指導をしていて、「手が動かなかった」と青い顔をして出てきた姿を忘れることができません。受験場での緊張感「退治」には、「できる限りの努力をしたという確認(不合格であれば、その努力が足りなかったという真理に向かい、次に備える)」と「試験という特異な状況に対する慣れ」。指導すべき最善の対処法です。
 14回の入試実践テスト。入試問題選択基準は、志望校と、やや難度の高い学校のテスト。「どの時期にどこの問題をテストするか」毎年スケジュールを組み立てます

 
 まず難度の高い学校の問題からはじめ、その時期に団のOBが受験したのと同一問題を使い、個人の最終の学力把握に役立てます。その結果が受験までの学習指導の大きなポイントになります。講習中盤から各年度の団員の実力・志望校に応じた過去問を、難易度・問題傾向・バランスを見ながらテストし、実戦の勘を養います。
 なお、団では授業中あるいはテスト中、時計などを見ないよう指導しています。教室にも時計はありません。チラチラ時計を気にしながら集中できるとは思えません。授業には目いっぱいの集中力が必要です
 そうした日々と、毎月の学力コンクールや今回のような冬期講習の入試実践テストを通じて、子どもたちは、テスト時間をきちんと「感じられる」ようになってきます。「時間内」に力を十分発揮することができるようになるわけです
 入試直前、最後の実践テストは、「少しやさしめの学校の入試問題」です。このレベルは一回だけです。やさしい問題をたくさんやっても、精神状態(心の構え)にはよくありません。少し緊張感がほぐれ、心の余裕ができれば、それで十分です。必要なのは適度の緊張感です。
 もちろん、これら実践テストをして終わりではなく、明らかになった、理解の行き届いていない個所や不得意部分に対して、別のプリントを用意し、スクランブル授業も行います。こうして不足部分を補っていくわけです。
 さて、大手の受験塾の一年間の授業料は120~150万円(!)と高額(うらやましい)のようですが、受験指導は家庭だけでも十分(以上)可能です。「要」はその方法と学体力の養成です。


 期間は二年間もあれば十分、もし難易度の高くない学校なら一年でも十分です。もちろん、いつもお話ししている、「人の話をきちんと聞ける」、「やるべきことをやれる」、「少し我慢ができる」等の「基本的な躾や習慣が整っていれば」ですが。「がまんが出来ない」・「好きなことしかしない」というレベルではだめです。
 受験塾のバカ高い授業料不要、お父さん・お母さんでもできる「受験のための家庭学習」のノウハウを、この「夢の教科書」のシリーズが終わった後紹介します

入試直前学習の参考に― 総評例
2017年度入試実践テスト第5回「T中学校平成14年英数コース」総評
 人数が少ないので、実力を明確に判断したいとき、OB諸君との実力比較をよく試みます。今回もその一環です。平成14年度のT中学の英数コースの問題を使用しました。

 このテストは京大大学院へ進んで現在ベトナムで言語の発生の研究をしているY君(西大和学園から京都大学)らをテストした時のものです。なおY君は、別紙成績表のように、合計で311点取っています。この時同じくテストを受けたK・T君は清風標準に合格しています(それぞれ237点・220点)。得点比較の参考にしてください。
 なお、同学年のTA君は近大附属、5年生特進のYO君は奈良学園から阪大歯学部、KIさんは四天王寺、G君は清風理数合格です。子どもたちの学力面の確実な潜在能力把握は、以前から何度も紹介していますが、6年生の夏休み頃になると、はっきりわかります。
 それは学習事項の難易度が上がり、長文が増え、学習ボリュームが大きくなると、それらをきちんと整理する処理能力、つまり能力のキャパシティが明らかになってくるからです。
 
簡単な計算や文章の問題では分からなかった、ある意味、シビアな現実が明らかになります。成績が頭打ち、あるいは逆に下がってしまう場合もあります。


 5年生のKA君は「K」に通っていて、「国語が苦手」という感覚で入団しました。ところが、話をしたり、国語の授業の手ごたえから見ると、決して国語の能力が低いことはありません。「まったく問題ありません」と、入学後すぐお母さんに伝えましたが、この結果を見て予想通りであることがわかっていただけると思います。残念なことに、塾が「しょぼかった」というわけです。
 全受験者の平均点(91点)をご覧いただくとわかるように、5年生では、そのKA君くらいが「ふつうの得点」だと考えてください。昨日も伝えましたが、6年の諸君は、現在の国語の力から見て、中学進学後の読書量と学習姿勢・学習量によって、今後(中学進学以降)の成績が大きく左右されると思います。おもしろい本をどんどん読んでください。Hな本でもいいよ(時々は)。

2017年度入試実践テスト第6回「N学園中学校平成29年C日程」総評
 今年のN学園のC日程のテストです。
 近年はあまりなかったのですが、上位二人は受験前のボリュームに、少しアップアップしている様子です(YA君は真剣さが足りません。点数にあらわれているように、勉強や受験を甘く見過ぎです。「気分屋でペースを維持できない」、「好きなことしかしない」など、心構えや態度など、進学や受験以前に学習する生徒としてたいせつなことを学ぶことが必要です)。

 「アップアップ」とは、頭のなかの情報が整理しきれず(これは個人差があり不可抗力です)、なかなかクリアな頭で論理的に解答に向かえない状況になっているような場合を云います。昨日も書きましたが、わかりやすくいえば、たとえば、「散らかし放題」にしてしまった部屋があるとします。やることや片付けるものが多すぎて、集中することができない。手を付けられない。何から手を付けていいか纏まらないうちに、時間が過ぎてしまう。そんな状態です。
 F君は「このテストはテスト済み」のようで、参考成績です。しかし、それにしてはテスト後の見直しが、全く機能していません。特に、算数は一度やった受験校の問題は全問正解しないとだめです。漢字も、この時期は一度出れば、その漢字は必ず覚えていくという厳密さが大切です。
 これからはバタバタしても、しょうがないですから、まずテストに出た問題は一つずつ、すべて答えられるようにすることが最重要事です。また漢字の宿題は受験まできちんと続けないと、勘が鈍ります
 昨日のT中学の結果報告で、4年生のTさんとYOさんのこと(国語)に触れましたが、今日同一条件で同一テストをしました。その結果報告を団員諸君に渡していますので、参考にご覧ください。 

 

6年生・4年生国語学力比較参考資料
 このテストは、4年生「充実特進」の女の子が二人いるのですが、国語がよくできるので、「ぼくの指導の手ごたえ」から、彼女たちは80点くらいとるだろうと予測して子どもたちに伝えていたテスト結果です。
 26日実施。参考テストです。漢字が、まだ蓄積していないため、合計点数は80に届かなかったですが、読解力は6年生をそれぞれ約20点凌駕しています。こういうふうに国語の点数がとれる場合は、算数の方も、指導とトレーニングによって高い得点がとれるという「めど」が立ちます。ところが逆の場合は、そういうふうにはいきません。つまり、「算数はできるが国語が・・・」という場合は、その克服ははるかに難しくなります  


漢字をできるだけ早く学習しなければならない、たいせつな意味

 漢字学習の大切さについては、何度もお伝えしています。子どもたちやお母さん方にも、口酸っぱくアドバイスしてますが、「漢字学習とどうかかわってくるか」、くわしくお話しします。「なぜ漢字の習得は早い方がいいか」、その意味です
 以前日本初のノーベル賞学者湯川秀樹博士の幼年時代、おじいさんとの「素読」で漢文学習したことを伝えました。湯川博士はそのころを辛かったけれど、漢字に対しては(つまり、読むことは)まったく苦労しなかったと振り返っていました。
 「意味の関連がとらえられない丸暗記」でも、幼い子は、幼いがゆえにそれほど苦労もなく、おもしろがって覚えてしまうのは(たとえば駅名の暗記など)、広く知られていることです。そういう意味から云えば、かつての素読の訓練は理にかなっていたのでしょう。


 たとえば、中学入試で使われる問題文のなかの、小学校高学年(以上)で出てくる漢字をすべて、「黒塗り」してみてください。いかに文章の意味が取れないかが、よくわかると思いますまた、英語の不得意な人・ボキャブラリー不足の人が英文を見せられ、「読んでください」と云われたとしましょう。頑張って読もうとしても、手も足も出ないはずです。そのうちに、「こんなことやってられない」となるか、あきらめてしまうでしょう。「漢字不足で読めない子の精神状態」は、そのように想像すれば手に取るようにわかるのではないでしょうか
 中学入試くらいの難度の問題文になれば、国語に限らず、どの科目を学習しても、そうした「漢字のハードル」が待ち構えているはずです。「読解力は、文章を繰り返し読んでこそ身につくもの」なのに、そのはるか以前の段階で、「飛び越えられないハードル」があり、「競技にさえ参加できない」わけです


 「文字のストレス」がなくなってはじめて、読み続け読み重ねることができます。読解力が身につきます。「漢字が読めないと、読解トレーニングそのものができない」、いわば「練習」でさえ嫌になってしまうわけです。こういう意味から、最低、小学校学習漢字については、できるだけ早い段階で身につけておくことがベストです
 受験レベルの難易度が上がると、条件や解答までの道筋がとらえにくい、さらに「意地の悪い?」文章を読まなければならなくなります。読むことに慣れてなくて苦手な子は、読んで考えるまでいくことが、まずできません。つまり、漢字がわからないことで、手も足も出なくなります。「『練習』できない、練習以前のハードルや障害を先に取り外しておかないと」『打つ手』がありません。
 漢字の習得如何は、このように「漢字の問題(書き取り)」だけでは決して終わりません。読解力の深化にまで大きく影響するわけです。


夢の教科書を求めて ⑦

2017年12月23日 | 学ぶ

 冬期講習「入試実践テスト」第3回の結果と総評(サンプル)を最後に掲載しています。
 子どもの成長は「勉強だけが特別」「勉強だけは日ごろのふるまいや行動とは別」、ではありません。「ひとりの人間としての成長」が、すべての大きな飛躍のバックボーンになります。OB諸君の生き方を見て、年々その確信が深くなります。

 受験は、所詮(!)受験です。その裏には、受験とは比べものにならないくらい大切なことがあるという「視野と視点」を忘れない子育て、そしてそれらのしつけや指導が受験にも大きく影響します。「受験(勉強)には何がたいせつか」については、今までも折に触れ伝えていますが、巻末、「子育て」の今後の参考にしてください。

「サンタクロース顛末」
 妹の保育所のサンタクロース。行ってきました。
 園に入るときも出るときも、「子どもたちに気づかれちゃあいけない」というので、「市川雷蔵!」。えっ? 何のこと? 
 保育園への出入りが、「忍びの者」です。(きっと、知らんな)。
 衣装に「手をかけた」甲斐(!?)あって、大きい組の子どもたちも、すっかり『サンタ』を信じてくれました。みんなが歓迎してくれて、「飲めや(?)歌え」の大騒ぎ。握手攻め、ハイタッチ攻めで、「サンタさんの手、あったか~ィ」、「オレ、握手してもらってない~」・・・歓待です。

 高校時代(1年)に、クラス対抗400メートルリレーの第二走者で、2位を「30m」離したときの、女子の「感動と感激の渦!」を思い出しました(ホントです、証拠写真を同級生の福角君が持っているはずです、ハハ)。
 記念撮影の時、みんなが大騒ぎで集まってきてヒゲを引っ張ったりするので、外れないように「イテテ」とごまかしたり、「件の自作ブーツ」をじっと見た男の子に、「あれえ、雪のなかやろ、濡れてないやん!」といちゃもんをつけられたり(良い天気だったので、飛んでいるうちに乾いたとフォローできました)・・・と、てんやわんやでした。

 そのなかでもいちばんおもしろかったこと・・・「年長さん」の、「ボーダーのトレーナー」を着たかわいい女の子が、微妙な表情で耳元に口を寄せて、「サンタさん、どうして、うちのママの隣で寝てるの?」 と囁いたのです。「エッ?!」。
 びっくりして、「最近数十年(!)は、そんな、女性の家にお邪魔して、添い寝することなんかしてないぞ。遠い昔だぞ・・・」と思ったのですが、ドギマギして、「なんか、・・・まちがってるね、お家へ行ったことないよ」と、「大真面目に(!)」応えてしまいました。
 あとで考えてみると、きっと、「サンタさんに扮したお父さん」(であってほしい)が、プレゼントを渡した後、酔いつぶれて「サンタの衣装のまま」お母さんの隣で寝てしまった。それを「寝ぼけ眼」で見てしまったのでしょう。

 ぼくには、まだ「ああ、この前は居眠りしちゃってね・・・」と云えるほど「人間ができてなかった(!?)」。
さっき、サンタ担当(!)の先生が来られて、子どもたちが書いてくれたお礼の手紙を届けてくれました。みんなありがとう。
全員載せられなかったけど、ごめんね。たいせつにするよ、宝物です。
 次は、サンタが、保育所の子どもたちを見て感じたことです。

環境に目を開く機会ー「環覚」
 「環覚」というぼくの造語で、団の指導方針を紹介していますが、それは学習内容・学習対象に対する『気づき』や「親近感」をたとえたものです。
 「意識の高い保護者のかかわりや先生の指導」を除けば、抽象された「いわばエッセンス」を、文字面で、「テスト問題とその解答として学習すること」が、現状一般的に「流布」「流通(!)」している、子どもたちの学習です。
 その学習対象には、本来もっとおもしろいところや興味をひかれるところがあり、それらを通じて「学習内容の側面だけではない」膨らみを感じてこそ、対象に親しみも湧き、心にも残ります。また、もっと知りたくもなります
 ほとんどの場合、「学習対象」の学習を始めるまで、子どもたちは注意をしてみたり、観察したりという経験のないまま、いきなり対象の学習内容的側面を抽象学習する、「対象が周囲や日常生活での『出会い』で、『いかに学習対象であるか!』を知らないままはじめるのが、現実の学習模様です

 そのまま「現物認識」もなく、学習対象と「出会い(?)」、「参考書や教科書という『抽象媒体』を通じて、そのエッセンスのみを『取得(!)』し、点数を競う」という流れから、子どもたちの心のなかに、果たして「学ぶおもしろさ」が沸きたつものか、始まるものか? 本来、好奇心や興味は、ものを見て、ものを感じ、「知りたくなる」から始まるわけです。いわば「『ルール』の暗記を競って優劣をつけることがほとんどの学習」なんか、知りたくもないはずです。
 KAEDE(次女の長女)の体験、「道端の石」や電車の座席の「埃ポンポン」(以前のブログを参照してください)から、「何」「なぜ」がスタートし、それらの理解が少しずつ行き届き、さらなる「知りたい」が始まるのが、子どもです。周囲はそれらを導き、子どもたちの『不思議や問い』をきちんと正面から「拾いあげ」、「適当な方向に誘導する」ことが、先々の学習のおもしろさへ子どもたちを導くには、何よりたいせつです

 今回の「サンタクロース」の依頼で、まず心に浮かんだのは、実はそのことです。
 就学前の子どもたち。柔軟でピュアな感性をもっている子どもたちに、ぼくの「たった一回の短いアプローチ」ですが、せっかくなので、「彼らの『環覚』を育成することに少しでも寄与することはできないか」という思いでした。

 今回は残念ながら、短い時間の「ふつうのサンタさん」に止まりましたが、小さい子どもたちに接してみて、そういう機会が増えるほど、「自ら学びだす」「自ら調べ始める」子どもたちが増えるはずだと確信しました。ところが一方で、残念なことに、現場の先生方の目の回るような忙しさも見ました。「こりゃあ、ルーチンワークをこなすだけでも、たいへんだわ」も、実感です。
 こうした小さな子どもたちへの指導方法や可能性の開発への視点や方法が目覚めても、結局すべて数字(マス)でしかとらえられない「政治」の網の目から、子どもたちの「可能性」はどんどん漏れ落ちてしまうのでしょう。寂しさを感じるばかりです。

 さて先生方! 忙しいでしょうが、子どもたちが園庭で遊んだり、散歩したりするとき、また遠足のときに、小さな草花でも虫でもゴミ(!)でも、「できるだけ周囲のおもしろいことに目を向けられる」、「自ら見つけ始める、そして見つめはじめる」機会をつくってあげてください
 政治に頼っていては「日が暮れます」、「個」でできる範囲で、子どもたちの可能性を広げる取り組みをしなければ、埒があきません、いつまでたっても
 ニュートンやファーブルやファインマンやマクスウェル、古くはガリレオやギリシャの哲学者まで、偉大な科学はすべて、「ものを見て考える」ところからはじまりました。ファインマンやマクスウェル・ファーブルは幼児からです。ちなみに、彼らはすべて、お父さんが関わりました。

 子どもたちの科学は文献からはじまるのではありません。気づくこと、見つめること、見続けることから『小さな科学者』が誕生します。先生方の日々の小さな努力で、きっと「頭の良い、すごい子」がたくさん増える、「すばらしい結果」になりますよ、数年後には。 経験からの確信です。
 「砂場で、砂と石の区別を考え(させ)る、倍率の高い拡大鏡で砂粒や小石を見る、砂と土とのちがいを考え(させ)る」、「朝顔やカボチャの花をゆっくり虫眼鏡で観察する」、「ミツバチやアリの働きぶりやその仕事ぶりを一緒に観察する」・・・「子どもの目線」で「ふしぎ」を探す・・・。科学者やシャープで総合的・クリエイティブな人材を生むのは、そうした経験・体験の積み重ねからです。むずかしいと考えるのは、『大人の勝手な思い込み』です。

 よくある「ちょっと」だけではなく、「もう少し長い間」、そして回数を重ねて観察(見ること)を続けてみてください。子どもは自ら、その変化や推移に興味を持ちます。そこがスタートです。頭のよい、すばらしい子が、たくさん育ちますよ。いつでも、お手伝いします。

入試実践テスト第3回総評
 (誤解を生まないように、元原稿に一部語句を補充しました。)
 A君とB君は夏休み頃まで漢字の得点がほとんど同じだった(悪かった)のに、現在は大きな差がついています。ほんの数か月の努力の(回数や真剣さの)差が、こうした違いを生みます。子どもたちの成長はそれほどスピーディで、「待ったなし」なのです

 A君の「奉公を奉行」と書いたり、「脳を能」と書いたりする間違いは、漢字に対して「無頓着」、「いかに漢字に神経を走らせていないか、注意が届いていないか」の反映です。「適当に済ませる」ことが「くせ」になったり、「漢字に無神経な状況が続いていく」と、こうした症状があらわれます
 また読解漢字の絶対量が少ないことで、文章は「伏字」や「黒塗りの文章」を読んでいるようで、読解が行き届かず訳が分からないので、集中できなくなります。勉強(読むこと)が嫌になります
 計算や漢字の軽視は、「学習」の最初の段階で、ごく基本的な段階で、このように、大きな障害になるわけです。そのうち要領を覚えて、深い勉強ができなくなる・・・。

 団でも、当然それらの注意や指導はしますが、そういう症状の改善には「本人の素直さ」や、「保護者の応援の徹底ぶり」との「協力体制」が、その結果を大きく左右します。「漢字と計算」という基本的な技能が習熟すれば、それ以降の学力の伸長は、ほとんどの子にとって、それほど困難ではありません。もちろん指導者の力もありますが…。多くの場合、やがて「感動のフィナーレ」が待っています。
 塾や家庭で、「『まちがい』や『注意されたこと』に対しての自覚(メタ認知能力)」と「頭の固さ」は、成績向上には大敵です。「頑固」はまだいいですが、「頭が固い」のは、ほぼイコール「頭が悪い」ということだよ~。それでもいいか~みんな。

 さて、もうひとつ、大いに関連することですが、成績向上や学力伸長の最も大切な要素は「躾」です。そして、その「徹底」です。「躾」は「大きな声を出すこと」ではありません。「いうことを素直に聞くまで指導すること、根気よく言い聞かせること」です
 誤解を恐れずに云えば、「生来の能力(頭の良さ)は二次的要素」です。受験学習(勉強)なんて、そんなもの(!)です。子どもの能力の開発は、それほど可塑性に富んでいます(9割は)。

 「机に一定時間きちんと座っていられること」、「約束を守れること」、つまり「しなければいけないことを約束通りきちんと実行できること」、逆に「やってはいけないことをしないこと」、「がまんができること」等、いわば「『当たり前のことを当たり前』として育てられていること」が前提です。そこがスタートです。
 前回も書きましたが、「良い学校に行きたい、頭がよくなりたい、だけど勉強はめんどくさい、ゲームをしたい」という発想が、「とんでもない自分勝手で、わがままであること」、「そんなことを云っていれば、世の中を渡って行けないということ」を周囲が(!)わかっていること、が「躾」の「前段階」です。

 勉強は、学習机ではなくてもきちんと座って、一定時間考えたり、字を書いたりできることが習慣化していないと話になりません。また「勉強すること」と「『社会人』として成長できること」は、いわば「成長の裏表」で、切り離せないものです
 つまり、「どちらにとっても大切なことは、きちんとしたおとなに育てる」という意識です。勉強ができても「しつけ」がなっていなくては、世間では「お荷物」なだけです。勉強ができなくても「しつけ」ができていれば、少なくとも「邪魔にはなりません」。子育てに「躾」は、本人のためにも、必要不可欠です。
 「どうもそのあたりの感覚がずれているな」と思うことが多くなってきたのは約15年前で、「ゆとり世代のころ」とダブっています。
 「きちんとしているからゆとりを求める(たい)」のであって、「適当にやっていて、ゆとりを求める」のは「ただの怠け者のわがままであること」を、ちゃんと教えなければ、どんな子が増えていくのでしょうか。


夢の教科書を求めて ⑥

2017年12月16日 | 学ぶ

 久しぶりに、末尾に学コン・冬期講習のテスト結果報告と総評サンプルを掲載してあります。2カ月前に入った新入団員のO君(5年生)が、清風理Ⅰの合格点を取れるようになりました。団の指導では、別に珍しいことではありません。

 子どもたちの「何を」「どう」指導すればよいか、「学体力」に発展するか、継続して読んでいただくと、よくわかるようになると思います。お父さん・お母さん・先生方! 頑張って利口で優しい子をたくさん育てましょう


クリスマス・プレゼント

 クリスマスの時期になると、「受験を間近に控えた子どもたちの成長ぶり」がうれしく、彼らとの「想い出」がさまざまに蘇ります。「世の中には自分ひとりではない」という「自他」客観性の認識からはじまり、「ヒトに対する思いやり」、「嘘や狡をしないことのたいせつさ、その意味など」、学習や課外学習を通じての指導の想い出です。現在はその総仕上げの時期です。
 ぼくの願いがきちんと身についた子どもたちが、OB教室でのさらなる成長を重ね、能力・人格ともに整った後輩思いの優しい青年に育ってくれます。指導者冥利に尽きるときです。真面目に、指導を受けて約束を守り、努力を続けて来た子は、今年も順調に成長しています。毎年、こんなうれしいクリスマス・プレゼントはありません

 また、もうひとつの『プレゼント(?)』に思いを馳せることもあります。新春の新入生です。新学期の2月には、どんな子が入ってくれるのだろう?
 告知だけで募集案内を出さないので毎年数名ですが、お父さんやお母さんの願いと理解・協力姿勢が整えば、また「すばらしい子」を育てられるな・・・後何人育てられるか・・・。

 『ひと月遅れの、僕へのクリスマス・プレゼント』を楽しみに待つことにします。クリスマス・プレゼントといえば・・・。

「サンタ先生(!?)」の哲学

 数年前の正月、久しぶりに行った橿原神宮の初詣の際、保母の妹が「サンタクロースになってほしい」といいました。彼女の保育園には毎年「サンタクロース」が来るようです。新しいチャレンジをおもしろがるぼくは、二つ返事で引き受けました。
 その後音沙汰がないので、すっかり忘れていましたが、団の近くの保育園に転任してきていた妹から、再度依頼の要請です。そうなると、さまざまなアイデアが浮かび、おもしろがり続けるのが因果な性。
 ・・・この時期はサンタクロースが世界中を回っていて、忙しいはずだ。だから、大親友のサンタクロースに依頼された「サンタ先生」ではどうだろう? 世界中に「サンタ先生」がいるといい。その方がおもしろい、子どもたちには現実味があるのではないか?

 サンタ先生なら、子どもたちに「お約束」をしっかり守らせる「応援」、たとえば「A(保育園の名)の君たちが、いつもよい子にしているから、特別にサンタに頼まれて来たんだ」という、園の日ごろの指導の応援もできる。
 サンタクロースはプレゼンターばかりではない。良い子にはプレゼントをあげるが、悪い子には「石炭(!)」や「じゃがいも(!)」をくれたり、「おしおき」をしたり、なかには「プレゼントの袋に入れてさらっていくサンタ」もいるようだ。それでこそ、サンタだ・・・等々考えているうちに、Amazonから小包です。

 気を遣ってくれた(?)妹から。サンタの衣装です。
 開けてみると、「(?!)。(おい、おい)」。「(これじゃあ、『チャッチ(ちっちゃいのまちがいじゃありません!)』くて、オレの着るモンじゃないよ。キャバクラのおねえちゃんに借りてきたみたいじゃないか、サンタクロースが)」。
 「かわいい女の子が着るなら許せる」が、「小太りのおっちゃんが、こんなの着てサンタだ」と云ってきたら、昔のオレみたいな「悪ガキ」だったら、「だまれ、このヤロー!」と石を投げるナ。
 というわけで、時間の節約でいつも世話になっている、「Amazon」で検索すると、「何とか見た目も耐えられる(だろう)もの」が見つかりました(made in Cだからわからんが)。
 こうなると『脇目もふらず』で準備や用意を始めるのが性分。カツラ・ひげ・眉毛・めがね・手袋・ベルトと、順次(!)そろえていきました。

 問題は衣装についてきたブーツです。「黒いビニールの風呂敷」を「靴の形」に切り、それに「100均のフェイク・ファー」をくっつけたようなもの(?!)・・・。これもダメ、というか、これが一番ダメ。これじゃあ、サンタクロースが雪の中をそりに乗ってくる間に、ひざから下が凍傷になり、脚がなくなっちゃうよ。まったく!
 というわけで、また、アマゾンの「ブーツ」のカタログから適当なもの、25㎝を探し出し、ユザワヤで白のフェイク・ファーと接着剤を買うことにしました。

 ブーツのできばえですが、いかがでしょうか?
 さて、次です。きっと子どもたちから質問されるような事態になるのだろう・・・。すると、サンタのお家だ。「どこから来たの?」って聞かれるな。
 ・・・「フィンランドのラップランドと園のある大阪」が一度に見られる地図」がいいな・・・地球儀も用意しよう。これは、机の上に置ける小さなものにしよう。その方が逆に、子どもたちの頭の中では大きなイメージが広がるだろう・・・。「そりに乗ったサンタがいつも空から見ている視点」も、少し子どもたちの身近になるだろう。小学校総復習社会科地図帳と2017最新基本地図世界日本(いずれも帝国書院)で「望みの頁」が見つかりました。

 次の子どもたちの質問は何だろう? きっとトナカイだ。トナカイについては、ぼくもよく知らないので、少し勉強しなければ。
 ・・・鹿の中では唯一メスにも角が生えている・・・フムフム。確か、鯨の遠い親せきでもあったな・・・。何?、サンタのそりのトナカイは8頭いて全部名前がついていて、先頭に赤鼻のトナカイ、「ルドルフ」・・・。等々と調べ、園の先生と「打ち合わせに出向きました」。
 
 先生「サンタクロースの『そりの跡』を園庭に描きます・・・」
 ぼく「・・・きっとサンタクロースは忙しいので、サンタの大親友のサンタ先生ってのはどうでしょう? それだったら、いろいろ話してあげられるし・・・」
 先生「いや、ふつうのサンタさんで・・・時間があまりないもんで・・・」
 (どうやら、ふつうのサンタさん〈笑い〉がお望みのようです)
 ぼく「それじゃあ子どもたちの質問なんかは?」
 先生「いつもは園の先生が代わりに答えたり、耳打ちしたり…」
 (・・・楽でよさそうだが、ぼくには、かえってやりにくいかもしれないな
 先生「それじゃあ週明けに、質問事項を用意しておきます」。
 ・・・というわけで、もらった質問。そして、用意した「ぼくの答え」です。
 
 1 サンタさんの好きな果物は何ですか?(3歳
 ぼくの答え これは「みかん」だな。蜜柑は子どもたちに身近で、もっともいい。
 2 サンタさんのそりは、どんなの(色や形)ですか?(4歳)
 ぼくの答え これはいいかげんにできないな。適当にやったら夢が壊れるし、真面目過ぎても、小さいからよくわからないだろう・・・よし、 そりをちゃんと見せると、悪い人が真似をして悪いことに使われちゃいけないから、神様に見せないと約束したことにしよう。それだけではおもしろくないから、イラストのそりを見せてトナカイを9頭つけ、名前を書いたものを用意しよう。

 3 サンタさんのお家はどんなお家ですか?(4歳)
 ぼくの答え フム、家全体は見せられないな。どこかにプレゼントがいっぱいの部屋で手紙を読んでる写真があったな。それを拝借しよう。
 4 サンタさんはどうやっておもちゃを用意して、何個くらい持ってるの?(5歳)
 ぼくの答え う~ん、数字で来るか・・・。 良い子の分だけ用意する、悪い子が増えると少なくなるから、数はわからないんだ・・・そうしよう。数の多い場合は、サンタクロースにはお友達が世界中にいるから、みんながお手伝いをしてくれる。それがいい。サンタの先生、サンタのお医者さん、サンタのおもちゃ屋さんも、そう答えよう。
 5 おもちゃを配ってもらう子は、どうやって決めているの?(5歳
 ぼくの答え これは世界中のサンタのお友達に、良い子のことはいつも聞いていることにしよう。
 こう考えたけれど、しゃべらせてもらえるのかな? 時間がないようだから・・・。

総評サンプル
 今月度はぼくがつくったオリジナル問題で、全般の力を見るためのテストです。現状の実力を過去の諸君の成績と比較、参考にしてください。過去にたくさんのOBが11・12月度に受験しています。97・98・01年については氏名の横に進学中学を併記してあります。03年の受験者について、A君は西大和学園、B・C・D君は清風標準、E君は清風理Ⅱ、F君は奈良学園、Gさんは四天王寺、H君は近大附属等です。

 主だった大学進学者、K君は京大医学部から京大大学院、Lさんは佐賀大医学部、Mさんは阪大文学部、A君は京大文学部から京大大学院、F君は阪大歯学部等です。いずれもOB教室出身者です。ぼくのオリジナル問題は、漢字や設問も含め、「その文章が本当に読めているか」「不注意な見落としはないか」などが、確実にわかるような、つまり「頭が使えているか」はっきりわかる設問にしています。だから、本来の能力がよくわかります。保護者の皆さんも一度丁寧に読んでみてください。よくわかると思います。
 それぞれについて、少し注意を書いておきます。全般的に、やはり、漢字を甘く見過ぎています。だから見切れないところが出てきたり、意味が分からないわけです。「減少」と「現象」など、文脈から明らかに判断できるものがわからないのは漢字の学習不足で、それが読解の難点になります

 今年の諸君の足を引っ張っている一番の原因です。4~5年生の頃の漢字宿題の手抜きが最大の原因です。漢字の不徹底は最後にこういう結果を招きます。今、その結果を確認できたのですから、次に備えなければなりません。大学受験時までに克服しないと、読解の意味が取れないという、大きなハンディキャップを背負うことになります。
 5年のO君は漢字の徹底と字を丁寧に書くことを、もっと心がけること。それからY君らは、またサッカー(?)のようですが、目的をもって何かを達成しようとすれば、我慢とストイックさが必要です。それが身につかなければ、どんな目標であろうと達成はできないし、目的にたどり着くことはできません。入試前にM1を見てテレビの前を離れない、ゲームをコントロールできない、サッカーをやりたい・・・。それで中学に合格したい、勉強ができるようになりたい。ムリです。そんなうまい話はどこにもありません。そんな姿勢や考えを改めない限り、すべて「大したこと」にはなりません。


夢の教科書を求めて ⑤

2017年12月09日 | 学ぶ

 今週は懐かしいOB諸君のスナップにしました。一枚はKAEDE。

「ゲーム・ボーイ」
 商品名ではありません。「ゲームをするボーイ(ガール!?)」のことです。
 ゲームばかりする子(!)、やめられない子(!)がたくさんいます。指導していると、そんな子たちはほとんど、『潜在能力の高い(つまり頭が良い)子たちである』ことがわかります。
 「わき目もふらず夢中になる(集中力)、能力を競う(競争意識)、攻略を工夫する(創造性)」というような習慣や資質、指先も器用なはずですから、「脳のはたらき」もよいはずです。すべて、能力が高いことの裏付けです


 それがなぜ「正当な方(?)」には生かされず、いわば「脇道」ばかりに向かうのか? それらを学習面や知的探索面に傾注すれば、「相当なことが可能になる」のに、そうはならない。たいてい前者が犠牲になって、ゲームへの時間と努力が増えていくばかりです。
 「どうしてこの子は、ゲームしかしない(できない)のだろう?」。それが多くの保護者の疑問であり、感想なのでしょう。「しっかり観察して」指導していると、その辺の事情や原因はすぐ明らかになります。
 たとえば、小さいころから、「今やるべきこと」、「否でも応でもやらなければならないこと」、逆に「やってはいけないこと」の「けじめ」をきちんとつけてきたでしょうか。いうことを聞くまで指導したでしょうか? ゲーム遊びをセルフコントロールできない子は、何をするときも、そうした「けじめが見られないこと」がふつうです。
 また、我が子を連れだして、ゲーム以外にさまざまな外遊びや知的探索(遊園地巡りではなく)を重ねて、「子どもがおもしろがるものを探す」という試みや機会はあったでしょうか? そうした取り組みをしていた家庭では、「ゲームをする子」はいても、コントロールができる範囲内でおさまっています。 

 例に挙げたように、ゲーム狂の「一番の原因」は「しつけや家庭のルールのあいまいさ」、つぎに「小さいころからゲームを与えるだけで、それ以外の知的興味をもてること―他のおもしろいことや子どもが興味をもちそうなこと―に触れさせなかった、触れる機会・覚える機会がなかった、ゲーム以外のおもしろさや大切さをきちんと提案・指導できなかった、ということ」につきます。
 時代を顧みれば、お父さんやお母さん自身が、外遊びや探索も含めた、そういう遊びや学習をほとんど知らない(知らなかった・できなかった)ことが、その傾向に拍車をかけているのでしょう。
 また、お父さんが、「『仕事や遊び(!)』に夢中で、ほとんど家にいない」など、子どもたちの遊びのバリエーションが少ないと、彼らには「手近なもの」、ゲームしかありません。小さいころから、ゲーム以外の、『自分がおもしろかった』遊びを、一緒に夢中になってやっているような家庭では、ゲームの悩みなんか、ほとんど聞いたことがありません。

 「ゲームに夢中になり、ゲームしかしない」のは、「そうさせている環境があるから」です。「ゲーム以外に、おもしろく興味をもてるものを伝えられていないから」です。勉強が必要な頃になって、「ゲームばかりで勉強をしない」と愚痴っても、「させたのは誰や」という話です。
 それらの生活習慣をきちんと習慣づけられるのは、理想的には「3年生が終わるまで」。最悪でも「4年生半ば」までにはじめなければ、なかなか身につきません。5年・6年になってしまうと、身につけるのは相当以上難しくなります。成長のしくみで、その時期くらいに、何か大きな変化があるのでしょう。
 さて、そのゲームに夢中だったM君の話です。

受験しか知らなかった
 中二で登校拒否し、ゲームセンターに明け暮れ、縁あってぼくのもとで2年間勉強し、京都大学理学部に合格したM君。彼の事情については、何度かお話ししました。そして、その縁というのも、とても不思議で、亡くなった僕の大親友が、「奥さんの『夢枕』に立ち」というものでした(2015年4月ブログ「夢へのワープ」シリーズ他をご覧ください)。
 繊細で、ぼくが出会ったなかでも数人しかいないほど繊細で、数えるほどしかいない高い能力の持ち主です。旅立った親友への思いもあり、「きちんと独り立ちできるまで、できるだけのことをしなければ」と、いつも気になっています。
 鋭い頭脳とナィーブさゆえに、大学入学後、団の先輩たちの明確な目標や目的に向かう姿を耳にし、焦りを感じ、悩んでいるようすを見て、「何とか力になりたい」と考え続けてきました。
 「受験」ばかり、「良い大学へ」ばかりで、目標を達成してしまうと、「無人の荒野」に放り出されたような、自らの若いころの心細さと焦りが彷彿としてきました。「受験」しか見えなくなっていた。それ以外の目標や目的に目が届かなかった、何をしてよいかわからない。焦燥感ばかりの日々を送っていた・・・

 幸せなことに、ぼくは今「一生をかけるべき展開」を見つけることができました。数十年かかって得たものは、「もっとも単純な結論」でした。しかし、それは、考えようによっては、「とても奥深いもの」でした。
 「向かっている現実に、真摯に向き合い、力をふるうこと。精いっぱい努力すること」。
 「奥深い」というのは、「真摯に向き合い、力をふるうこと。精いっぱい努力すること」、その「簡単に見えるすべて」が奥深いのです。日々「生きること」に向かうこと。ヒトはそれしかできません。

 「今、何をしてよいかわからない、見つからない」M君には、まず、彼が「全力で向かえそうな目前の目標を提示しよう」。それがいちばんよい。向かっていく彼の思考や行動に、ぼくなりの意見やアドバイスをぶつけながら、彼の「自立」を応援して行こう。
 現状の受験オンリーの学習指導や目標設定は結局、こうした「優秀な世迷い人(!)」をつくり続けることになります。そして、それらの現状に疑問を呈さない、不思議にも思わない周囲や環境が、本来なら大きく開花すべき才能を「闇から闇に」葬りさることになってしまう。
 先のように「非難の対象になるゲームに、わき目もふらず集中できる才能」こそ、「かけがえのないもの」で、その才能を一方向ではなく、広範囲に展開できる学習対象や学習内容・学習指導をぼくたちは問われています
 子どもたちの周囲には、彼らが生きていくについて、「心からおもしろがれるようなもの」が無尽蔵にあるはずなのに、「小さな画面と指先」だけで、その「貴重な才能」と「かけがえのない時間」を浪費し、「無限の未来」を消滅させてしまっている…。
 そんなたいせつな一面をまともに考察せず、「ゲームソフトや新機種販売の『金集め』に群がるだけ」、「柳の下の泥鰌を狙うばかり」の世の中、どこか狂っていませんか? 

 さて、「向かってほしい対象」とは、「20年以上前から、子どもたちのテキストをつくりたいと集めていた資料」による「テキスト作成」です。集めてある材料は理科と算数です。小学生相手の、それらの指導について考えることは、自らの経験からも、「ものごとを基本から理解するための」格好の思考トレーニングになります。
 M君は大学受験当時、OB教室で一緒に学習していたK君とともに、「先生になりたい」という夢を話していたようなので、指導内容や指導方法を考えるのにも、とても良い経験になるでしょう。
 あらゆることをすべて一人で進めているぼくは、最近、処理能力が落ち、気になりながら手を付けられないままでした。彼の能力なら、きっと良いものができるはず。これでせっかくの資料が『ゴミ箱送り』にならなくて済みます。
 今、ぼくが取り組んでいる「二上山と三つの石」のスライドを見せ、その構想を伝え、テキストの方向性の提案をしました。すごく乗り気になってくれました。二年間、教室や野外でのぼくの指導ぶりを、間近ですべて見ていたので、発想法や指導法等理解してくれていると思います。適任です。

父性の復権
 みなさんに訊きたいのですが、ぼくが彼に感じた「指導の方向」は、家庭では「お父さんの仕事」だと思いませんか?
 時折、子どもの指導に対して「父性」の必要性を伝えていますが、「世の中に出て何をするのか、できるのか、したいのか」。「実際のお父さん」という存在に限らず、「子どもの将来について、夢を語り、可能性に言及し、同時に厳しさも伝える、という役割を果たせる存在」。「将来に目を向ける子ども」を育てるには、やはり「父性の発想」が欠かせないと思います
 ところが、現状は「お父さんも、お母さん」、つまり「お母さん二人」で子育てしていたり、あるいは、「お母さんに任せっきりで、お父さんがいない」というような塩梅ではないですか?

 昔のお父さんも家にいない場合が多かったかもしれませんが、家庭の中では「父親」という「重し」が、まだ生きていたように思います。いなくても、「『幻影』が目を光らせていた」のです。お母さんの心や日々の環境の中に、「心の支え」あるいは『ガードレール』として一目置かれる存在があった、つまり、子ども心にも、「お父さんという姿がイメージされる状況」にあったのです。今はどうでしょうか?
 お父さんが優しく柔くなりすぎ、「一目置かれる存在」として機能しているようには、まったく見えません。「お父さんがしっかり働いている姿」を見る(ことができる)わけでもなく、「いつも家にいなくて、帰ってきたら、ただ優しいだけ」。「気を使う必要」もない。けじめや基準として作用しません。
 周囲を見ていると、お父さんが「『嫌われなければならない存在、嫌われてもしょうがない存在』に甘んじている環境」の方が、きちんと子どもが育っているような気がします。優しいばかりのお父さんの場合、子どもたちの多くが「わがままで、芯がありません」。
 「ルールや『憲法』のない中」で自由にふるまい、ことあるごとに「おまえはどうしたい?」と「意見を聞いてもらえる(!)」小さな子どもたち。

 常識や社会性や人格も身についていない(修業中です)子どもたちを、「良識が備わった」大人と同じ扱いにすれば、それは「好きにやりなさい」という「放し飼い(!)」と何ら変わりません。
 そうした「基準のない基準で既に大きくなってしまった子どもたち」に、急に「勉強しろ」、「きちんと~しなさい」と云っても聞くはずがない。「聴かなくてもよい」、「気にしなくてもよい」と育ててしまったのですから。
 「そういうことにならないように、しつけや教育・指導がある」ということがすっかり忘れられているのが現況です。子どものために、今こそ必要なものが、林道義さんの著書のタイトルにもなっている、「父性の復権」ではないでしょうか。子育ての悩みを「激減させる」秘訣は4年生までの教育や指導です。

 
「生死」をきちんと教える
 さて、最後に。若い先生方に。
 テレビをつければ、「何でも茶化し倒す」だけ、「中身のない」コントや「底の浅い」ギャグ・その場限りの一発芸、すべてが「グルメ(?)」や「金もうけ」に結びついた制作志向。「『ストックされている知識量』を頭の良さと勘違いし、させ続ける」クイズ番組の氾濫。半裸の芸人の姿はどんどん流れてくるのに、偉人の姿はほとんど流れない「痴呆川」。偏っていて選択の余地がありません。
 小さいころから、そんな環境の中で育っていく子どもたちに、真剣に伝えなければいけないことは何なのか?
 「まず伝えなければいけないこと」は、「かけがえのない時間と生命(生死)」です。それ(そのイメージ)が心に無いと、「ほんとうにたいせつなもの・かけがえのないもの―愛や学ぶこと、人に対する思いなど」が見えてきません

 「時間の限り」がわかってはじめて、「真にたいせつなものである」という判断が生まれます。「いつもあるもの」、「いつまでもあるもの」という感覚から抜け出さないかぎり、「たいせつなもの」は、結局見えません。リミットがわかってこそ、一発芸ではない「真のユーモア」もわかると、ぼくは思っています。
 指導する方も若い時には、実感や手がかりがつかみにくいゆえに、「生死」や「生命」はなかなか伝えきれません。しかし、まず「『かけがえのない人生を送っている、たいせつな時を過ごしているという自覚が明確な日常』を自ら目指すこと」で、子どもたちに「真心」が伝わります
 一生懸命伝えるべきこと・伝えたいこと、それらを何とか工夫して伝えようとすることは、「先生」のもっともたいせつな、「課業よりも大切な」役割です。そう思っています。それによって、子どもたちは少しずつ変わってきます。「先生が成立」します。


夢の教科書を求めて ④

2017年12月02日 | 学ぶ

 毎年、団員諸君とお父さん・お母さんの想い出にしてほしいと、課外学習や立体授業の写真を使ってカレンダーをつくり、プレゼントしています。それらを紹介してあります。
「見えないものを考える」
 3歳になった楓(次女の長女)を、団の「蛍狩り」に同行させたとき、宿舎の駐車場だった広場の小石に興味をもった団員が質問するようすを見て、小さな石を次から次へ拾って「質問」を重ね始めたことを、以前話しました。

 彼女にとっては「道端に落ちている石」を拾って、「そのことについて何かを聞く」なんてことは、文字通り「生まれて初めて」のことで、「衝撃」だったのでしょう。「それらが自らと『関わり』をもっていること」に気づいたわけです。
 また電車に乗っていたとき、ポンとたたいた座席の「ほこり」が斜光線で輝いたとき、不思議そうに『これなに?』と気づき、「その存在をできるだけわかるように伝えることを心がけた」こともお話ししました。かけがえのない子どもたちの成長を考えると、身につけたその感覚が一生を支配するようになるため、子どもの「応対」に対する心配りは欠かせません

 子どもたちは、「見るもの・聞くもの」すべてが初体験ですから、本来何にでも興味があるはずです。それは「これから生を全うすべき(どんな意味でも必死で生きていかなければならない)、この世界のことを、彼らが知りたくないはずはない」というぼくの仮説(信念)です。
 脳の発達の歴史は観察と工夫の歴史です。非力な我が身の代わりに、ヒトは「自然界にあるもの」を使って、それを自らの武器や道具、つまり、たとえば動物の爪や牙の代用にする、あるいはそれらにさらなる工夫や考察を加え、「非力な能力を拡大する歴史だった」という一面があります。それは、見るもの聞くもの、「何か役に立つものはないか」「使えるものはないか」と云う観察と探索の日々でもあったでしょう。そして、その積み重ねが科学の発達をもたらしたのでしょう。

 子どもたちの好奇心や興味の発達も、そういう進化の歴史が大きく関係しているのではないでしょうか。「埃がキラキラ飛ぶ」と云う、「ふだん目にしないもの」を目にしたときは、「おっ、これはなんだ?」という新鮮な驚きです。感覚の立ちあがりです。「これは役に立つかもしれない、あるいは気をつけなければいけないかもしれない」。

 人間の子どもたちには、それらを探求しなければという『血』が流れているはずだ、と思うのです。脳の発達の歴史からは。そこで何気なく流してしまったり、無視をすると、子どもたちはそんなものは必要ないんだ、という認識に至るのではないでしょうか。
 「生きていくために周囲のことをできるだけ知る必要があると生まれついてきた」のに、対応によっては、「そんなことは関係ない」というものがどんどん増えてきてしまって、やがて「周囲に注意をする気持ちや習慣さえ失せてしまう・・・」。大きくなって興味や好奇心の足りない場合は、そうした経験を知らぬ間に積み重ね(られ)てきたのではないか、とぼくは想像しています
 KAEDEについては、かけがえのない人生の「機会損失」をつくりたくない。だから一緒にいるときは、「できる限り答えてあげよう、次につながる機会にしよう」と考えています。

 そのことに限らず、本来『生きていくことに関係ないものはない』、『知る機会・興味をもてる機会があったら、あらゆるものに関わろう』というのがぼくのスタンスで、子どものときの『川遊び』や『「山遊び」の極めから、プレイボーイの創刊号の購入(駅の売店のおばさんが、「お宅の中学校(公立)にはこんな子がいる」と、わざわざ学校に電話してきました。ハハハ)、写真やシナリオやミニ四駆、日本の近代文学、スタンダール、ドストエフスキー、大学生時代のマルクス・エンゲルス・吉本隆明やサルトル・・・何から何まで気になるものには分け隔てなく、あらゆる種類の本や「もの」に興味をもちつづけています。

 長くなるのでこの辺にしますが、その後半年たって、楓は教室にくると必ず、「子どもたちと集めた石の標本」に質問を挟みます。また、自分から、「保育園での砂遊びの『さらすな(きれいな砂)』」について話してくれます。「見えないもの」が、一つずつ見えるようになってきているな。ぼくはそう思っています
 「ファインマン・・・」の時に伝えた、「熱いコーヒカップ」の中の水の分子のようすが手にとるようにわかったり、窓から入ってくる電磁波を目に見えるように話したり、というファインマンのこれらの「能力(才能)」が、森の中や日常生活の中で見たものの「お父さんとの対話(質疑応答)」から始まったことを、ぼくたちは決して忘れることはできません。

 ファインマンは膝に乗って、お父さんに「ブリタニカの読み聞かせ」をしてもらいましたが、その読み方も「ただ読む」のではなく、「できるだけ身近に、現実感」をもてるように、という(お父さんの)配慮がともなっていました。「『抽象』学習が天才中の天才を生んだ」のではないのです(詳しくは以前のブログ「ファインマンの父とエジソンの母…」等をご覧ください)。

「埃を考えられない」
 今、「二上山と三つの石」のスライドとテキストの改訂にかかっていることをお話ししました。
 「もっとかんたんにすむ」と思っていたのですが、進み方を考えているうちに「伝えたい話」が広がり、前・後編の二部に分けることになりました。また学習対象は単元ごとに「ぶちきって」学習するものではなく、できる限り「関係性」をたどっていきたい、という立体授業の『肝』を外すわけにもいきません

 前編は「二上山の三つの石」サヌカイト・ガーネット・サファイアを通じて、地理・歴史・地学・物理・化学のつながりは何とか保てそうで、前編の最終は、「すべての物質は原子からできている」と結ぶシナリオに落ち着きました。
 後編は、「原子の誕生」から「宇宙への言及」が必要になり、その後、ぼくが本来伝えたかった『石ころとぼくたちは親戚かもしれない』というコンセプトで結ぼうと思っています。

 そのときには、「生命」や「死」についての考え方・かかわりもでてきます。また、二上山ゆかりの大津皇子の歌や恋・政争に話が及べば、「『石から始まる一つの小さな世界』が一体化し、大きく完結できるのではないか」と、自ら結果を楽しみにしています。
 一年半くらい前からシナリオの勉強を再開してDVDを見ることを続けてきたのですが、800本以上見終わり、「『ああ、これはいい』というのが約20本、『もう一度見てもよいなあ』というのが約120本という結果」を手に入れた頃、新しいDVDを見ても、気に入ったものになかなか出会えなくなりました。


 そうこうしているうち、こうした立体授業のアイデアとストーリーがまとまりました。思えば、シナリオについて考えることも、昔夢中で撮った撮影経験と同じく、「子どもたちへの指導の肥やしにしなさい」という「天の思し召し」だったのかもしれません。
 さて、そのストーリー考察の中で、「思わぬ出会い」がありました。
 二上山のザクロ石(ガーネット)の堆積について、『風化』を取り扱いたいと思い、調べていると、「硬い『石英』の微粒子が室内でもふつうに飛んでいることがあり、それらが宝飾品を傷つけるので頑丈なケースに入れている」と云う記述に出会いました。
 楓のことも念頭に、「そうだ、部屋に飛んでいる埃やウィルスなど、『目に見えないもの』に対する子どもたちの感覚も必要だ」と気づき、「部屋でふだん飛んでいる埃」の写真を撮りたい、と思い立ったのです。しかし「強い光線が隙間から部屋に入る」、埃が見える条件が整うような場所やタイミングは中々ありません。どうしようか。
 考えた末、「プロジェクターを使うこと」を思いつきました。プロジェクターの光なら、何とか埃を撮れるはずだ。それが掲示の写真です。

 これで何がわかるか? 何ができるか?
 ぼくはまず、「宇宙空間で飛ぶ微粒子が星になる」と云うイメージが中々つかめなかったことを思い出しました。それと世間にふつうに流通している「『清潔』と云うイメージ」の誤謬を正したいと考えたのです。
 「微粒子が宇宙空間で次第に集まり星雲に」等というのは、それこそ「雲をつかむような話」で、こういうきっかけがないと、現実感がありません。イメージできません。抽象そのものです。
 「それを正すこと」ができると思いました。また、空中に浮かぶ「雲や雨の芯」も納得できるでしょう

 もう一つは「病原菌やウィルスの飛散」です。学校で手洗いの励行やマスクの着用を「うるさく(!)」指導しますが、ここに「健康や保健授業の大きな落とし穴」があることに気づかない場合が多いのではないでしょうか。
 ウィルスや大腸菌など、確かに「手洗いは、しないよりしたほうがよい」のですが、子どもたちに「もっときちんと教えなければならないこと」は、「病気を防ぐのにいちばんたいせつなものは『免疫力とその強化』」だということです
 「手を洗っていて、マスクをしていても、インフルエンザにかかる子とかからない子がいる」のはなぜか? 手を洗わず、マスクを忘れていてもかからない子がたくさんいるのはなぜか?
 あたかも「手洗いとマスクが防疫の最高・最善の手段」のようになって(云われて)いますが、もっとも大切なことは、「個々の『免疫力』の必要性と、それをどうして強化すべきか」です。その現実を必死になって(!)」教えるのが科学的な学習(指導)のはずです。
 「手洗いやマスク」はしつこく注意するけれど、「電車や乗り物の床に直に座ることには無頓着」というような「ばからしい清潔思考(!)」も「いい加減卒業すべき」だと思います。
 このスライドによって「目には見えないものが、ふだんもいっぱい飛んでいること」がわかります。「それらを防ぐことはできないのだから、入ってきたときのために、まず『免疫力』を鍛えておくこと」が優先です。それが『健康への発想』です。
 同じくインフルエンザ等の薬は『症状を抑えるもの』が多く、また「熱は何のために出るのか、咳やくしゃみはどうして出るのか」を、「マスクや手洗い」と同時に、いや「それらよりも先に教えるべき」でしょう。
 別に医師の力を借りなくても、今は、どんな本でも、その辺りの基本を知ること(理解すること)ができます。団でも、いつも教えていますが、この「埃」で「イメージ」の助けを借りることができます。
 関連したところで、先日のミカンの収穫の際、地面に落ちて青カビが生えているミカンから「ペニシリン」のにおいが漂ってきたことがありました。また話を広げることができます。こうしたすすめ方を続けていくことで、子どもたちの周囲が「夢の教科書」に育っていくのではないか。教科書は「あるもの」ではなくて、「育てていくもの、育てていけるもの」。という認識が、指導者にとってもっともたいせつなことだ。ぼくは、そう考えています。


夢の教科書を求めて ③

2017年11月25日 | 学ぶ

 今週はテキストの作成で使用した本、またスライドの紹介をしています。スナップは今年最後の課外学習「ミカン狩り」のときのものです。

「頭悪くない?」
 「パ・・・」と言いかけて、中1になっていたことに気づいたのか、長男が恥ずかしそうにつづけて、「漢字とか、社会だけできる子って、頭悪くない?」。と聞かれた経験を、ふと思い出しました。
 高校時代からそのことに気づいていたぼくは「経験あるよ。よくわかったな。そんな傾向は大いにある」。
 気づいている先生方もたくさんいるかもしれません。当時、中1で気づいた長男の「センス」にあとをまかせられればよいのですが・・・。指導はそこから出発しますから。

 「社会」がらみで、もうひとつ。ちょうど今受験時期ですが、模擬テストの得点模様からの判断です。
 国語・算数・理科・社会の得点で、国語・算数の合計得点(率)のほうが、理科・社会の合計得点(率)より高い場合は、まだ「伸びしろ」がありますが、逆転して「『社会・理科』の方が高くなった場合は、学力や能力(余裕)が「いっぱいいっぱい」の場合が多い(その時点で)こと」は知っておいた方がよいかもしれません。
 たとえば、各科目100点の模擬テストで国語・算数の合計が120点あり、理科・社会で80点だとすると、合計で後40点の「伸びしろ」はあるが、これが逆転しているときは、「あまり余裕がない」という判断です。団の、今までの子どもたち、京大・阪大等国立難関大へ進学した子の傾向です。

 おそらく、頭を使うしくみやはたらきの問題なのでしょうが、16人中15人がそう(6年生時。例外の1人は京大へ進学した子ですが、全体に高かった子)だから、傾向としては「可能性大いにアリ」でしょう。

受験前ドタバタに思う
 この時期になると、いつも思うのですが、切羽詰まってから躍起になってバタバタ詰め込んだり、ヒステリーを起こしたり、という対応はまったくナンセンスです。「学習習慣や机に座って考えるという習慣」さえ、小さい頃から身につけさせないで、机に座って勉強したり、落ち着いて考えることができますか? 周囲のドタバタやキンキン声にあおられ、子どもたちが「さらなる深みにはまる」ことの方が多いのではないでしょうか? 「後悔先に立たず」は、子どもの前に、まず周囲が心がけるべきで、子どもたちはそれを見て、「後悔先に立たず」を、「心・技・体!」で覚えていきます

 長い間子どもたちの受験事情を見ていて思うのは、受験の合否は、「総合力(周囲・本人・関係者)」の勝負です。「本人のせい」だけではありません。
 受験するのであれば、そのための準備は小さい頃からしておかないとだめです。これは決して受験塾通いのことを言っているのではありません。進学先(中学)も、「総合力」さえ整っていれば、あまり関係ありません(掲示のOBの進学中学と進学大学のリストを見てください)。

 「総合力」というのは、先ほどの「机に座る習慣」というのも一例ですが、「するべきときにするべきことをする」「してはいけないことはしない」と云うような、至極当たり前のしつけや教育に始まる指導。さらに周囲の「学習の必要性・重要性」に対する意識の定着です
 「学習(勉強)がなぜ必要か」を少しも感じていない、考えていない保護者が「勉強しなさい」と云っても、その言葉にはまったく説得力がないでしょう。「説得力があるアドバイスでも聞かない」人が多いのに、説得力のないアドバイスを聞くことはないでしょう。
 そういう意味でも、学習問題を含め、親と子が「生き方を真剣にぶつけ合う」ことから子育ては始まるのではないか、と思っています。聞かないなら聞くまでやる、身を挺してやる、自分も、一人の人間、大人として何かに真剣に向かっている、という姿が常に問われているのではないでしょうか。

 さらに大きな条件は、もちろん「子どもの能力・センス・キャパシティの問題」です。子どもたちを指導していると、「学力面では?・・・」という子も中にいます。
 子どもの学力については、真剣に子どもに向かっている、能力がある先生なら、「可能性は別だが、現状ではここまでだろう」ときっちり判断できるはずです。それらのアドバイスを受け、冷静に振り返り、判断して「未来をみること」が大切です学力の発達はこれからです。その準備をしておけばよいのです。それも、先に話した「総合力」のひとつです

 無理矢理詰め込んで消耗させ、「伸びしろ」まで摘み取るより、「余裕」の中で「頭と心の栄養」をたっぷり蓄えて、大学進学時の爆発力を養う方が、後の人生は遥かに充実します。どちらの方法が「子どものこと」を考えていますか? 表記の団のOB諸君は、全員後者です。
 人生は昨日今日の受験で終わるわけではありません。子どもたちの場合、これから何十年も先があるわけですから、失敗は失敗で「かけがえのない経験」になります。バタバタするより、そうした場合こそ、真剣に、その失敗に向き合うよう、心を砕いてください。その失敗の経験が、「次はバタバタはやめよう」と悟る糧にもなるわけです。そちらの方が大事です
 「バタバタ」で合格しても、その味を占めて、試験という試験はすべて「バタバタ」と云う、「実りの期待できない勉強の連鎖」になることになります。そういう人も実際多いのではないでしょうか。
 「勉強の大きな実り」は「着実な歩み」の後に訪れます。取ってつけた「バタバタ」はやめましょう。「心の構え」は「たかが受験、これも人生」です

立体授業「ミカン狩り」と夢の教科書
 11月19日は今年の課外学習のフィナーレ、「ミカン狩り」でした。最終でもあり、また季節感の体感も感じさせたく、立体授業のスライドとテキストを作成するのに前日深夜までかかり、当日朝いつもお願いしている米づくりの前川さんにレストランの二階の会場レンタルを打診すると、千葉の高校生の修学旅行で、どうしても部屋が空かないとのこと。焦りました。せっかくスライドができあがったのに、当日子どもたちに見せられないのでは「水の泡」もいいところです。

 さらに「クワガタ探し」の宿舎も紅葉シーズンで満室とのこと。再度前川さんの所に電話をして、「どこでもいいから、コンセントと延長コードがあればいいから」と「無理強い!」すると、「『飛鳥駅』の貸自転車社屋の二階ならよい」というOKをもらい、急遽自転車置き場の片隅にサポーターの皆さんに手伝ってもらいスライドを映写できる簡易スタジオをしつらえました。スクリーンはA1のポスター裏の発泡スチロールで代用し、なんとか上映。

 数年前から、事情が許す限り、現地で立体授業としての指導を完結させたいと思っている願いが叶いました。「環覚」は自らの周囲に対するビビッドな感受性を意味するものであり、『学体力』は、進んで自ら学ぶ力であり、と云うコンセプトから考えると、「災い転じて」という流れだったなと、ホッとしています。
 ぎりぎりまで考えていたスライドとテキスト新作、一部紹介します。
 最初は、まずミカンの品種の多さです。観賞用までつくられていること。これは「学習対象」が何であっても同じですが、「さまざまな種類がある」とわかることによって、その対象の「奥行き」と「深さ」に想いが届きます。その「差異」に目が向けられることで、好奇心は動き出します。「『ミカン』がただ『ミカン』であるうちは、学習意欲は機能しません」。

 2枚目は教科書にもよく出てくる芥川龍之介の『ミカン』の全文です。これは当日読めば時間が長くかかるので、前の日にプリントで配布し、みんなで読んでおきました。
 暗い鬱屈した心理が、「トンネルを抜ける明るさ」とともに、女の子が小さい弟たちにミカンを投げる行為で少しずつ癒されていくこと。また「奉公に向かう」という時代背景も、ぜひ伝えておかなければなりません。

 「立体授業」というネーミングは、その学習対象を学ぶことによって、その学習対象がこどもたちのこころのなかで「生き生きと立ちあがること」はもちろん、それによって、それ以降、子どもたちの周囲の対象に対する感覚が、ひとつでも多くの対象にフィットすることを意図しています。それによって、周囲は『夢の教科書』になります。受験対象の『抽象』という学習の壁を打破しなければなりません

 3~5枚目は、「ミカンの花咲く丘」の写真と歌(音楽)です。ミカンの花が咲く季節を考えたり、受精・受粉の話(温州みかんの検索をしてみてください。格好の学習対象です)に導入したりと、展開は如何様でも可能です。
 ミカンの産地を和歌山・愛媛・静岡とだけ覚えていても、その特徴となるべき共通の地理的条件や諸々の考えなくして、「学習のおもしろさ」や興味の広がりは喚起されません。受験だけの知識です。ところが、こういう展開を始めると、「~思われる」という歌詞によって「僥倖」があり、受験知識の一つ、わかりにくい「自発」の概念がすっきり腑に落ちたりするわけです。

 また、続いての『里の秋』は、こそッと「時代背景を思わせる歌詞」が出てきます。『ミカンの花咲く丘』とともに、よい唱歌であることはもちろんなのですが、その展開次第で、音は音に終わらず、歌が歌に終わらず、子どもたちの心に触れる指導がともないます。
 おとうさんを想うこころやおかあさんを想うこころ、逆に子どもたちを思う心が、時代とともに合成ジュースや濃縮ジュースのような、「不自然な」あるいは『しつこいくらい甘ったるい』味に変わってきたような気がします。「自然の奥深い味」は、自然にふれること、また自然にふれた人の感覚とともに、子どもたちの心に生き生きとよみがえってきます。ぼくは、いつもそれを願っています

 
 7枚目は紅葉鮮やかなとき、紅葉と落葉のしくみを伝えたいと思いました。そのときたいせつなことは、まずカロチンやアントシアンではなくて、どうして紅葉や落葉というしくみができあがったのかという謎です。
 そこには、考え方によっては、切実また無慈悲な植物の生命のしくみが隠れています。「色素を聞いて何がおもしろい?」

 「それを問いかける感覚」が生まれることで、「抽象の集積」・「受験の手引き」である参考書やテキストではない、子どもたちの「夢の教科書」が誕生します


夢の教科書を求めて ②

2017年11月18日 | 学ぶ

 今週の写真は、6年生のリクエストで再化石採集をガーネット探しの新しい採集地に変更した課外学習の際のスナップです。なお、来年の渓流教室は一日を赤目、もう一日を、このきれいな清流で過ごすことにしました。

授業料と責任と
 A君「月10万円!」。B君「そんなの、まだ安いHGは年間140万円だって!」。
 最近まで興味がなかった大手受験塾の授業料です。
 団には大手受験塾の指導に嫌気がさして転塾してくる子が時々います。先週、『学体力が整ってきた』と伝えた、現在OB教室で学習を続けているH君もその1人です。
 お父さんの言では、Mの宿題の多さとおもしろくない指導に一年弱でいやになり、泣きながら拒否したと云います。H君は運良く(!)団の指導で学習を続けることができ、学習のおもしろさを理解できましたが、そんな高額授業料でも、指導がおざなり、勉強が嫌になったり、勉強を拒否してしまう子が、おそらくたくさんいるのでしょう。今までの転塾生を見ていて、そう想像しています。

 何でもかんでも『寄らば大樹の陰』、また「誇大気味の広告、ハリボテの進学実績を見て選択したのが大きなまちがい」ということも稀ではないでしょう。近頃物議をかもしている、さまざまな議員先生の選挙の投票もそうですが、「自らの目と感覚で、正しいもの、本物をしっかり見分けること」が、ますます必要になってきている時代です
 学習塾は「高級ホテル」ではありません。「入れ物が大きく設備が整っていればよい」というものではありません。「人数が多ければよい」というものでもありません。タイガースの応援ではありません。 志ある小さな塾で、自らの責任の元できちんと指導している先生方は、みなさんそう思っているのではないでしょうか。

 塾は預かったひとりひとりの「人間のこども(!)」を、立派な社会人に育つべく、学力や能力・人格育成も含めて関わらなければならない「神聖でたいせつな交流の場」です。また「いつも温かい血が通っていなければならない『学力養成の心臓』」です。それが、ただの「商売の種」では、いくら考えても片手落ちです
 団のOB諸君は医大や医学部に進む子が多いのですが、ぼくは彼らに言い続けてきた(言い続けている)ことがあります。「やりがいのある、ほんとうに人のためになる仕事」を見つけてほしい。先生と医師は、その中でもおすすめだ。生命と一生の学力(能力)と云う、かけがえのないものに携わることができるからだ。心からの感謝は、お金には代えられない」
 そして、「金儲けを考えて医者になるならやめてほしい。他の職業に就いてくれ。死ぬのが怖かったり、苦しくて仕方がない人が『なんとかしてほしい』、「生命という無二のものを救って」と頼ってきているのに、金もうけや高級ブランドや高級料亭しか考えていない、考えられない『先生』では、患者さんがかわいそうだ。生命や人間に失礼だ。それに、そんな片手間で真心がない治療では治る病気も治らない」。

 先生(教師)も本来なら医師と同じように、高額の対価(診察料や授業料)を取るのは、ある意味では当然かもしれませんが、それはそれに見合う仕事をしての補償です。人を助け、人を育てるという「かけがえのない仕事に、それにともなう責任や義務は果たせているだろうか、と絶えずその確認がもっとも問われるのが、これらの職業でしょう。一人一人の人間の『人生そのもの』が関わっているわけです。それだけの自覚はあるでしょうか。

 年間120万、140万と云えば、収入のそれほど多くない家庭では、お母さんのパート代以上の収入が飛んでいくわけだし、これでは通塾させられないという家庭もたくさんあるでしょう。転塾してくる子の性格やその成長ぶりを見ていて、「そんな高額の授業料を取って、果たしてそれに見合うだけの指導をしているのか、その責任を感じているのか」。
 半分にも満たない授業料でも、その法は崩したくない。ハゲエモンは、改めてそう思いました。ぼくたちが育てているのは、「人間の子ども」です。親も先生もそれを忘れることはできません
 授業料がままならず、通塾させられないお母さん・お父さん。学習では小学生のときがいちばんたいせつです。一生を左右します。
 ほんとうに真剣に子育てや学力伸長のことを悩んでいる方、子どもに立派になってほしいと、心から願っているお父さん・お母さんは、学習方法の相談や指導やしつけの注意等、ご遠慮なくご相談ください。家庭でもできる効果的な学習法や指導法をアドバイスします。なお、封書で、もしくは直接お見えいただいた方に限らせていただきます。

塾代助成事業に思うこと
 塾の指導問題に関連して。
 大阪市では塾代の補助金制度を導入し、学力向上に対する「てこ入れ」をしています。これは前にも本部に直接手紙でアドバイスを送りましたが、学習指導や通塾に対する支援や学力の向上を本気で考えるなら、小学生の段階での支援体制や学習指導の強化に本腰を入れるべきです
 学習に対するおもしろさがわかり、学習を自らすすめていく「学体力」の定着と強化、その導入に最善・最高の時期は小学4年生まで、いくら遅くとも5年生までです。中学生では遅すぎます
 小学校以降でも、中には学習に夢中になる子もでてくるでしょが、圧倒的に少数だと思います。また、負けん気をあおられゲーム感覚の受験学習にはまって、という子もいるでしょうが、その学習はたいてい受験までで、「一生の目的に嵌る」ことは少ないでしょう。
 この観察は、「小学生から高校生まで1人で指導して、毎年その成長を見守れるからわかること」かもしれませんが、大阪市の学力伸長が、この支援によって目覚ましく進んでいるわけではない(そうではありませんか)のは、ひとつは「打つ手の効果的な時期や対象」の認識のちがいではないでしょうか。

 もちろん学力の伸びについては、現場を含め他の問題も山積みでしょうが、これらの学習指導時期や指導支援の適性に対する選抜、根本的な認識・判断を、まず再検討するべきだと、ぼくは考えます。
 子どもたちの学習に対する意識づけや「環覚」の育成・「学体力」の養成に、もっとも効果的なのは小学校4年までの指導です、「遅くとも5年生まで」に、学習に対する意識や考え方を課外学習も含めた『立体授業』で培っていくことです
 それが定着すれば、自らおもしろく学習を進める子が飛躍的に増え、学力・学習問題は半分解決するだろう、とぼくは考えます。ともあれ、個人・大手を問わず、指導内容や指導レベルの中身を厳密に精査することが、まず必要だと思いますが。

学習がおもしろくない理由
 「おもしろい学習」「おもしろくない学習」という話題で、よくお話ししていますが、ひょっとして「おもしろい学習」ということが、そもそもわからない方もいらっしゃるかもしれません。
 学習塾や予備校で受験指導しか受けてこなかった、そういう学習経験しかなかった人には、「勉強がおもしろい? そんなことは考えられない」。そんな人もいるのではないでしょうか。
 それは、いわば『滓』の勉強、『出がらし』の勉強しか知らなかったからです
 歴史的に振り返ると自明ですが、今子どもたちが学習している『学習項目』や『学習内容』は、いわば先人の研究(学習)の「結果」や『結論』(ばかり)です。経過が抜け落ちています。
 人類は誕生以来、『学習』を続けてきましたが、「学習の対象」は、『生きていくために知らなければならなかったこと、どうしても考えなければいけなかったこと、解決しなければならなかったこと』でした。つまり、学習の多くは『生きていくためにかけがえのなかったこと』でした。そして、それに自ら向かわなければならなかったのです。
 それらは生きていく以上必然でもあったし、生きていく上では当然のことだったでしょう。さらに、その解決に至った過程では苦労があったとしても、すべてに「それによって家族や身内が快適になったり、ゆとりが出たり、みんなから尊敬を受けたり…」と云う、「快を生む」現実の結果と大きな喜びがともなっていたはずです
 つまり、学習は、それをすることが生きていく上では必然のことであったし、することによって喜びをもたらすものだったのです。生活と切っても切り離せないものでした
 ところが、現在の勉強、つまり学習対象や学習内容は、そういう祖先の営為によってもたらされた結果や結論の『集積』のみです。それらを抽象的にたどり、覚えていくだけ、と云うのが、ほぼ現在の学習スタイルです。
 「誰のためかもわからないし、することの意味も不明」です。「果たして役に立つものか、かけがえのないものなのか」という確信も得られず、その過程で苦労したり、失敗したり、考えたり、という試行錯誤も、「現実に即して何かを獲得する、完成を見届ける」というような体験もともないません。
 現状(の指導)では、「学習の意味」も「おもしろさ」も見えようがありません。見方によれば「進化した不幸」とも云えるかもしれません。「生きていく術」で、わたしたちが取り組んできたはずの学習が、進化によって、「学習が、生きていく術ではなくなった子どもたち」を生み出したわけですから。

 おもしろく学習させるには、これらの現実をふまえ、意味するところをしっかり認識し、その解決を図らなければなりません。「学習するとはどういうことなのか」の伝達から始まり、「学習する(した)ことの力の確認(受験合格以外)ができること」、そして「学習することはおもしろいことである」という指導法を極めていかなければならなくなった時代なのです。
 教師は受験指導、生徒は受験学習に明け暮れている間に、どんどん(本来の)学習にも関係のない(としか考えられなくなっている)『落ちこぼれ』が、ますます増えてきてしまっているのが、現状ではないですか。公も私もその辺りの認識を共有し解決に向かわなければ、大阪市(をはじめとする)現状の子どもたちの学力向上は難しいでしょう。


夢の教科書を求めて①

2017年11月11日 | 学ぶ

 立体授業テキストで二上山の写真を提供してくれた辻本勝英氏は、ぼくの学生時代からの親友で、若い時から写真を撮り続けている写真家です。写歴は彼の方が古く、二上山をはじめとする風景写真を中心に撮っていました。ぼくは「心に引っかかるもの」を何でも撮る方で、彼とはテーマがまったくちがうのですが、心置きなく何でも語れる、よき友です。

 彼は15年くらい前からライフワークとして「花火」を撮り続けていたのですが、この度作品集が日本カメラから出ました。素晴らしい作品の数々で、良い刺激をもらいました。写真は撮影の継続とボリュームが質に転化します。子どもたちには、継続の大切さをまた伝えようと思います。さらに、できれば「オンリーワンの自分」を何か形で残しておくことを。
 一部を紹介します。なお、スキャナーの関係でサイズや色合いが微妙に変わってしまったことを作者とみなさんにお詫びします。(「PROMETHEUS-プロメテウス」 辻本勝英 日本カメラ社)



学体力と受験学力のちがい

 先日、OB教室の英語指導の話をしました。くわしい文法の説明もなく中学入学後すぐグレードリーダーを、辞書を引きながら一緒に読み続けているというエピソードです。週一回そういう指導をしていますが、英語に拒否感や苦手意識もなく、黙々と読み続けて、その訳文をノートに書き、ぼくといっしょに検討するという方法で継続しています。微妙なニュアンスを確認し、英単語=辞書の訳語だけではないことを、毎回口酸っぱく強調し、情景を想起させ、訳に反映させる、という指導です。

 大学受験まで6年間勉強したのに、大学入学後英文講読を「まるで初心者のように進めざるを得なかった」ぼくの苦い思い出から生まれた指導法ですが、半年経過し、どんどん自分で進めていく姿を見ていると、「学体力」が確実に定着したことがわかります。
 全く知らないことでも、ともかく説明や解説を読むことから始めて、自分で理解をすすめ、納得していくことができれば、何も困ることはありません団の指導は家庭学習も含め、そこから始めます。大学受験当時のぼくは「受験学力」しか身についておらず、残念ながら「学体力」は未だ養成されていなかったのです。

 そうした学習と並行して、ぼくが読んでいる本から、ふだん子どもたちに伝えていることを補強する内容や、参考になる一節を見つけると、紹介していくこともよくあります。昨日もそうでした。
 昨日のOB教室では、「今すぐ役に立つ翻訳84のコツ英和翻訳の基礎知識」(松本安弘・松本アイリン著 バベル・プレス)からピックアップしました。まず目についたのは、ぼくがふだんから強調している訳語に対する「認識」の確認です。
 
 訳語というものは文脈から、その場に最も適したものをいくらでも作り出すことができるもので、英語原文を本当に理解しておれば、柔軟な頭で、自然な日本訳語文が生まれてくる。英和辞書に出ている訳語は一つの例にすぎず、その例の訳語を一つだけ固定的に覚えておいて、それをどんな文脈の場合にも無反省に強引に使おうとするのはよくない。そこで英英辞典を利用する必要がある。英和辞書の定訳を使う悪いくせから脱することができる。(前記書p38下線は南淵)
 
 このアドバイスは彼と、現在の英語指導を始めて最初に云ったことです。自らの経験から実感としてそのまま伝えていたので、きちんと理解してくれているようですが、紹介によって、彼の中にその大切さが、さらに定着することを願ってのことです。そして、本の一節を読むことで、自らが学校の指導より一歩先に進んでいることも、よく自覚できたでしょう。

 もう一つ同書から。サイデンステッカー氏の芭蕉の訳を引用しての一節です。この芭蕉の俳句は誰でもよく知っています。「俳句が英語に変わるとどうなるのか」という感覚をつかんでくれると思いました。
 
 古池やかわづ飛び込む水の音―芭蕉
 The quiet pond
 A frog leaps in,
 The sound of The water.
 ―trans.by E.G.Seidensticker
 
  「古い」はold,aged,ancient,antique,usedなどいろいろあるが、結局quietとしている。
 old pondでは古くなった、水がくさった、年老いたなどの意になり、ばかげて意味をなさないからである。またancient pondでは古代の池となり、原文「古池や」のもつ軽みがない。「や」という咏嘆詞は英語にないので訳をあきらめている。(同書 p32)

 
 「古い」をquietという、ふつうの学習からは到底馴染めない感覚もつかんでくれたでしょう。中一ですから、彼の英語の読解力の肝になったはずです。
 俳句を英語に直して意味があるのかどうかなど、様々な考えがあるかと思いますが、日本語を英語に直すおもしろさや、異言語で感覚を伝えあうむずかしさ、日本の感覚を英語から読み直すという考察など、学ぶことは山ほどあります。
 「子どもたちの学習がおもしろくなる大きなきっかけは、自分の方が先に進んでいる、深いところを知っている、よくわかっている、というアドバンテージに対するプライドや自信」です。その点が、受験オンリーで点数や順位に縛られ、評価の対象が限られるだけの受験指導・受験学力では見落とされているところです点数・順位が評価の絶対的対象である受験学力では合格で用済みで、「オールマイティの学体力にはなりえない」のです。「受験以外での大切さやおもしろさには縁遠い」わけですから
 「H(彼の名)、どうや、英語がおもしろくなったようだな」とぼく。
 「はいっ」彼のうれしそうな表情と返事が、彼の先々を暗示してくれます。何よりも「学体力」です。

学体力からの導入
 もう一つ「学体力」へのきっかけを紹介します。
 左の社会の参考書は授業で使用しているものです(「社会メモリーチェック」企画編集/日能研教務部 みくに出版)。
 「都市と人口」など典型的な暗記学習の分野で、ぼくも大嫌いだったし、子どもたちに教えるのも、「彼らの心」を思うと、うっとおしくていやになります(笑い)。左の解説ページを参照しながら右のポイントチェックで確認テスト欄を埋めていく、という方法ですが、ほんとうにうっとおしい。

 県の形や人口・面積・人口密度・・・未だに「こんなことを覚えて役に立つのか」という思いでやっています。こんなところに子どもたちの大きな消耗原因と、勉強に対する誤解を生む大きな要因が宿っています。そんなものを覚えてもクイズに役に立つぐらいで、記憶力のチェックにしかならないでしょう
 この単元で、唯一おもしろかったのは、Ⅰの(1)の問題で■の部分です。
 「2010年の人口の多い都道府県は、1位東京都、2位□、3位大阪府、4位愛知県、5位□、6位千葉県で、これら6都府県の人口の合計は、日本の人口の約■割を占めています」。

日本の人口に対する割合を求める問題です。 
左に、それぞれの都道府県の人口は資料で載っているのですが、日本の人口は載っていません。この理由はおそらく、改訂が頻繁になるので、偶々ということなのでしょうが、入学テストをする側は、「こういう問題作成こそ主力にするべき」だと思います。
 「日本の人口は何人」というぐらいは小学生としても知っておいてもよいと思うし、その知識を利用して、こうした問題に答えられることこそ、必要な学力でしょう。各県の人口順は1位とビリぐらいは県名を知っていてもよいと思いますが、それ以上の何位だとかは必要なのだろうか? そう思いませんか?
 それよりそんな詳しい順位は表(資料)で出しておいて、それに基づき先ほどのような問題や、順位の原因や様々な理由に問いかけをして考えさせる、「ひらめき」を問う、「頭のはたらき」を見る問題にシフトする方が、素晴らしい子どもたちが集まってくるのではないか。その方が、過大な記憶のストレスがなく、センスやひらめきのよい子が集まってくるでしょう

 そういう子たちが集まってきて、自ら学びたい、先に進みたい、学問したい、研究したいと思うようになったとき、その「学体力」とともに、必要性や経験を通じて記憶もついてくる(来なければならない)という進み方。そういうスタイルが子どもたちの可能性の大きな開花を考えた時に、望まれる方向ではないか。
 特に「社会科」は、先々を考えれば、「現実や現象について、思考力や判断力がもっとも必要とされる科目」でしょう。細かい資料などは問題に用意して記憶の対象にせず、「分析力や思考力を問う方に問題作成をシフトすべき」ではないでしょうか
 優秀な生徒・潜在能力の高い生徒を集めたい学校は、すべからくそうすべきだとぼくは考えています。不必要な些末な知識のチェックでは、優秀な生徒は集まりません。「そうしたことの苦手な子」の方に却って、鋭いセンスをもっている子がたくさんいる、というのが子どもたちを指導しての実感です。


石ころと星・宇宙の誕生と死25

2017年11月04日 | 学ぶ

 今週は、立体授業の指導をしたり、このブログで指導の紹介をしたりするときによくお世話になっている本を一部紹介してあります。
 紹介以外にも良い本がたくさんあります。「数研」や「とうほう」、「東京書籍」などの高校生用生物資料集、小学館の図鑑NEOシリーズ、主婦の友社のふしぎ!なぜ?大図鑑シリーズなど、いずれも子どもたちの環覚養成にビジュアルアプローチをするのにとても役に立っています。なお、「これが物理学だ!」は何度読んでも、指導への愛があふれていて、指導の参考になるのではないでしょうか。
 団の子どもたちの「心・技・体」が健やかに整うのは、みなさんのおかげです。日ごろの引用使用のお礼とともに、ここで紹介させていただきます。

「受験コース分け」で失ったもの
 ぼくが卒業した高校は、それなりにレベルの高い奈良県の県立高校でした。
 高校二年くらいのときから進学希望別にコース分けされ、授業配分もそれ(入試科目)にもとづいていました。ぼくの選択は国立の文系だったので、理科はほとんど生物だけ、という変則受講です
 つまり、それ以外の理科科目は高校で満足に学習できなかったわけです。いまはどうなっているのでしょう? 相変わらず、「将来の教養」より、「受験効率優先」なのでしょうか?
 当時は何もわからず、受験中心で指導されていたので、「そんなもんか。」と云う軽い気持ちで疑問も持たなかった(持つ余裕がなかった。これも問題です)のですが、成長するに連れて、特にこどもたちを指導するようになってから、「あんな馬鹿なことはなかったな」と、その理不尽さを痛切に感じるようになりました

 たとえば、簡単にいえば、物理・化学・生物・地学という理科4科のうちの1科や2科では、「世の中(環境)を知り、解釈する力が半減して(すべて中途半端に終わって)しまう」ということです。それによって「おもしろく興味ある対象として覗ける世界」が半ば鎖されてしまうことになります
 年齢を重ねて余裕もでき、いろいろなことを見る(が見える)ようになると、その指導されなかった科目が、もし素晴らしい先生の指導によって少年時代に解きほぐされていたら(少なくとも興味をもたせる指導を受けていたら)、老年になっても、孤独をかこたず「興味津々で、日々おもしろいことを探し、また考えて一生を終われる人」だって、少なからずいるだろうと想像しています。それこそ「生涯学習」です。

 20年以上前になりますが、こどもたちを教え始めたとき、基本的なことさえ満足に知らない(忘れている)ことが多く、不便を感じ「再勉強」を始めました。それ以降、「できるだけ子どもたちのレベルで丁寧に」と考え、勉強をすすめていくと、「こういう科学的な考え方や知識が若いときにきちんと身についていれば、成長の過程で、どんなに興味や大きな可能性が広がったであろう、おもしろく過ごせただろうに」と振り返り、情けなくなりました。これは就職や職業関連だけで云っているわけではありません。
 今でも受験に有利だ(ほんとうにそうかな?)として、まったく疑問をもたず、その指導スタイルに賛成する人の方が多いのではないかと思いますが、その「受験をターゲットにしか学習(勉強)を考えられなくなっている思考形態・習慣」そのものが、「勉強(学習)」から『学ぶおもしろさ』という『最重要要素を欠落させる』要因になってしまっていると、ぼくは観じています。
 現状の教育体制では、どんな意味においても受験を避けては通れませんが、決してすべてではないはずです。途中経過です。
 受験を含んでも、もっとおおらかに、余裕をもって乗り切れまいか、それをいつも探しています。もちろん前提として、保護者のみなさんとの信頼と共通理解がなければなりませんが。

 団のお母さん方は最初、受験学年になっても年間10回以上も課外学習に出かけ、遊びほうける、そののんびりしたようすにびっくりされるようですが、幸せなことに、そうした経過をへても、その後多くの子どもたちは、後年もすばらしい成長を続けてくれます。これは課外学習や立体授業による、学習の周辺や奥行き、関連事項の、いわば『受験勉強』以外の「余裕の指導」によってもたらされたものではないか、と推察しています。
 ふだん取り組んでいる子どもたちの「学習するおもしろさ、学ぶおもしろさの取得は? その方法は?」ということを考えると、ぼくの場合の例のように、既に捨象されてしまっていた(あるいは気づかなかった)科学的知識や思考法(ぼくの場合は物理・化学・地学)のなかった感覚の不幸に行きつくのです。子どもたちの学習では、いわば、「関係のないものはない」のです。何もないところからはじめるのですから。「枝葉の広がり」が「学ぶおもしろさと大きな喜びを生む」のです
 ふつうであれば身につけていたかもしれない科学的な知識や考え方が、現実解釈や判断に相乗効果を発揮し、その思考の先のステージや研究の道が開かれたかもしれないこと、あるいは逆に、その不足によって「学ぶことそのもののおもしろさがわかる、したがってさらなる成長の可能性を制限してしまったかもしれないこと」に、思いが至るのです。高々(!)『一回の大学受験』のために。

 こうして考えれば、受験効率しか考えない「仕打ち」は、将来の子どもたちにとっても、とても残酷なことではないでしょうか。「大学に合格するための受験勉強」は、「その大学に合格しておもしろさや興味をもてるものを追求するため」のはずが、逆に「それらをすべて喪失してしまって、結局何を学びたいか、何を知りたいか、何で生きていきたいかもわからぬまま卒業する羽目」になる。冷静に考えれば、「本来さらなる広がりを求めるべき、研究や専攻に直結する大学教育そのものに対して、進学する方は正反対の教育方法、指導形態になっている」ということでしょう。
 どちらにしろ、成長過程における精神的「豊かさ」の喪失です。教育そのものや子どもの成長をもっとちがった視点、先を見た長い視点でとらえ直し、指導法や教育法を深く考え組み直し、という取り組みがもっともっと盛んになるべきだと考えています。

科学の大発見はなぜ生まれたか
 このタイトルは、少し古い本の書名です。「科学の大発見はなぜ生まれたか~ 8歳の子供との対話で綴る科学の営み ヨセフ・アガシ著 立花希一訳 講談社ブルーバックス」。紹介の原書の英語もそんなにむずかしくありません。
 タイトルにあるように、科学哲学者の著者が、自分の子ども相手に科学(史)の手ほどき、科学と哲学について話しあった対話をもとに書きあげたものです。ふだんから、お父さんの指導のもとで、さまざまな科学的知識や考察を指導される機会があったのでしょう、アガシの息子は8歳の子供とは思えない高度なレベルで抽象的思考を巡らせています。もちろん本の体裁を保つという執筆の影響もあるでしょう。
 ところで、ぼくが、この本を読んだのは、「日本版のまえがき」で披露している作者の考え方に興味をひかれたからです。

 まず
 「本書は長年の研究の成果でもあります。私はアカデミックな学問の壁を打破する必要性をいつも痛感してきました。この目的にとって必要なことの一つは、学問研究のもっともよい成果を公に示すことです。この点で、私はガリレオとアインシュタインにならっています。かれらは、科学は贅沢品などではなく、ポップ・サイエンス(一般向けの科学)こそが科学の頂点だと見なしました。 
 いかなる科学的成功も、それが教育を受けた一般の人々に届かないかぎり、全面的なものとはなりません。残念なことに、ほとんどの専門家は、ポップ・サイエンスのほうが、それが模倣する完全な構造をもつ科学以上に大きな利点をもっていることに気がつきません。
 その利点とは、(中略)広い視野のもつ明快さです。自分にもうまく説明できないような科学の細部を暗記するように学生に押しつける科学教師のやり方は混乱を招くだけです。科学に関する骨太のアウトラインを学ぶことは、多くの点で学生に役に立つことでしょう。そうしたアウトラインこそが科学の細部に意味をもたらすのです。(前記書p5~6 下線は南淵)
 

 科学指導また科学教育に対する疑念です。
 「科学に関する骨太のアウトライン」という訳は、日本版がないので原文をたどれませんが、「広い視野のもつ明快さ」という訳語から類推すると、たとえば、先ほどの4科の「骨子となる一般的な事象に対する基本の考察である」とも考えることができます。「それが逆に、自由な考察を促し、科学の細部にも大きな影響を与える」ということをアガシは云いたいのでしょう
 そしてそれらが、大きくとらえ直して環境を再解釈した、ニュートンやアインシュタインの「発見と思考の流れ」だととらえることもできます。いずれにしろ、基本的な科学に対する認知・習得の意味と、その重要性の強調です
 なお、ここで使われている「ポップ・サイエンス」が、よく見かける『手品まがいの見世物』だけではなく、その「『手品』の根拠やしくみを現実に即して振り返る(考えさせる)指導や指導方法が含まれているもの」と、アガシのために想定しておきます。
 その後、アガシは自らの科学教育経験を振り返り、科学教育にも若いころに受けた宗教教育と同じように「教義」があった。しかし、科学教師たちの「教義」に対する独断的な態度にほとんど抵抗できなかった。その独断的な教育にまったく根拠がないことを理解するのに何年もかかった、それが理解できたのはカール・ポパーのおかげだった。そして、どんな教義を押しつけられようとも、寛容で有能な教師さえいれば、学生は、その援助のもとに自由に勉強することができる、と述べています。

 こういう考えのもとに、アガシは自らの子どもと質問や反論を挟みながら、自由な対話を繰り返していきます。「子どもの能力が相当高く、日ごろから観察や指導を繰り返されているからこそ」の指導法です。素晴らしい方法で、条件さえ当てはまれば、相当優秀な子どもが育つでしょうが、一般的ではありません。
 そういう意味から、科学教育へのアドバイスとしては、ふつうのお父さん・お母さんに育てられる子どもは、やはり日ごろから身のまわりの事象に目を向けられ、その謎や不思議に気づく機会、そしてそれを考える機会(時間)をたくさんつくっていくことの方が、現実的で、有意義です。それによって、子どもたちは自ら調べ、考える子に育っていくでしょう
 その結果、知りたいことや質問が出てくるようになったら、間髪を入れず、機会を逃さず、その質問や疑問を解決する準備や手伝いをする、また一緒に考えるという時間をつくってください
 何よりもタイミングを外さないことが大切です。「知りたいことが解決されないまま」だと、知りたい気持ちは次第に薄れていきます。次がなくなります。一生かかわってくる「環覚」の養成にはタイミングが欠かせません。

科学者は社会的な活動のできない人間?
 さて、アガシのアドバイスは続きます。

 多くの西洋の学校や、日本、ラテン・アメリカ、その他事実上すべての学校では、科学のトレーニングには、自由な討論に熟達するためのメニューは含まれていません。(中略)いっそう悪いことに、かれらは、誤りは減点だとしてペナルティを科すように条件づけられています。さらに、教え子を科学者にしたいと思う教師たちは、科学者というものは専門に精通していなければならず、しかもその専門的知識だけを語ることが模範的なふるまいだと指示するのです。この模範にしたがうと、科学者は、社会的な活動のできない人間、おそらくそうしようとすら思わないつまらない人間になってしまいます。(前記書p7 下線は南淵)

 下線部は学習や学習内容を身近に引き寄せる、つまり「環覚」の養成を心がけるに際して、熟読玩味すべき反省点だと思います
 こうした考えのもとに、アガシは子どもとの対話を、科学史だからといって、重要な古代ギリシャの考えから勉強するのではなく、地球が惑星であるというコペルニクスについての議論から始めます。そしてその結果を、やはり、「息子はすぐにコペルニクス説に興味を示しましたが、古代ギリシャについてはそれほどでもありませんでした」と結んでいます。
 しかし、これについては「ある程度の科学的知識を蓄え、知的能力も優れていたアガシの子どもだから」という条件もあるでしょう。ギリシャの科学的考察は、一般人が、科学に目覚める良いきっかけにもなる指導内容や指導法に止揚させることもできるのではないかと、ぼくは考えています。
 いずれにしろ、ファインマンの小さい頃の記憶やアガシの方法からぼくたちが学ぶべき第一は、学習にしろ、科学にしろ、子どもたちに伝えるためには、何よりも「伝えたいという思いと情熱」が先である、ということでしょう。それがなければ何も始まりません


石ころと星・宇宙の誕生と死24

2017年10月28日 | 学ぶ

 ガクの目を見ていると、今週掲載した写真のように、とても表情が豊かなことがわかります。スッポンは、ぼくたちが考えているより、もっと高度で複雑な感情があるかもしれない、そんな気がします。

我が輩はスッポンである
 わたしはスッポンである。名前は「疾うにある」、と云いたいところだが、これには一悶着あった。
 そそっかしいハゲエモンが、あろうことか、オスだと思い込んで「学」と名付けたのだ。あっハゲエモンとは、オーナーである塾の教師のニックネームだ。
 「捕虜」になって間もなく、小うるさい腕白坊主たちが、オスだのメスだの、ギャンギャン騒ぐ中、ハゲエモンが「こいつはオスだろう」。「甲羅からしっぽがはみ出ていたら、オスだというから・・・」と宣った。つまらない本を信じたようだが、知ったかぶりもいい加減にしなさい。中途半端な本は「時々嘘を教える」から、ほんとうに困る。

 「しっぽが長いの、短いの」と云っても、スッポンの間ではそんなに厳密に区別されているものではない。人間だって、デブもいればノッポもいる。「スッポンよりオス・メスの区別がわかりにくくなっている」場合もあるでしょう?
 スッポンも、鼻の下をのばした「おっさんスッポン」が、濁り水の中でメスとまちがえ、同性の「おっさんスッポン」の後を追っかけたこともあるらしい。甘樫丘の下、飛鳥川の美人友だち、スッチーに聞いたことがある。
 単純にしっぽだけで決めつけるのはやめなさい、いろいろいるんですよ、人間もスッポンも。  
 『オイ、まちがえるなよ』と一言文句を云ってやりたかったが、やはり声が出ない。しょうがないから、精一杯睨んでやった。ふんッ。今に見ていろ! 

 思いっきり予想外だったのは、ハゲエモンと、生命の危険さえ感じていた腕白坊主たちが、よく面倒を見てくれることだ。うれしすぎる誤算だ。週に一度みんなで水槽のゴミを掃除し、ポンプをきれいに洗って水を入れ替え、快適な環境を維持してくれている。子どもたちが作業のスピードが遅くて、忙しいハゲエモンに毎回叱られるのはご愛嬌だ。

 思い起こせば、教室に来た当座は不安でしょうがなかった。というのも、飛鳥の田んぼの溝でひっくり返っていたとき、ひとりのチビが、「アあぁ 亀みたいなやつ死んでる~」。
 スッポンに向かって、「亀・ミ・タ・イ・ナ」とは何事だ。「みたい」とは。少し怪我はしていたが、お腹の白さや甲羅の模様を見れば、スッポンのなかでも、飛び抜けた「美人」だとわかるはずだ。それに、ひっくり返っていただけなのに、「死んでる~」とは何だ、縁起でもない!

 こんな、訳も分からない、わたしが生きているのか死んでいるのかもわからない、小うるさいチビどもに連れて帰られたら、たいへんだ。中には「食っちゃおう」という、恐ろしいやつも出てくるかもしれない。生命の保証はない。そんな感じだった。
 子どもたちと一緒だった厳ついおっさんが、農作業をしていた隣の田んぼの持ち主の元に行き、「このスッポン、持って帰ってもいいですか?」と聞いていた。顔なじみだったおじさんが「いいよ。でも殺生しないでよ」と言ってくれた。
「わかっています」。いかついが、ニコッと笑ったオッサン顔が憎めなかった。それがハゲエモンだった。
 こいつは単細胞そうだから、「二言」はなさそうだ。気は向かなくても、からだのデカさから逃亡はムダな抵抗だ。逆らえない。もはや、ついていくしかない。

 現在の住まいは教室にある90cmの水槽である。授業中、周りを囲むように子どもたちが座る。いつでも見ることができるように、というハゲエモンの配慮だが、「他に場所がない」という方が本音かもしれない。
  住まいをあてがわれ、落ち着いたわたしは、オスと取りちがえられていることに、少しずつ腹が立ってきた。セクハラだ。それに、誰彼なしに「ガク、ガク、ガク」。うるさくてしょうがない。

 学じゃないッ。オスじゃないっうの。この美しさがわかんない? 誤解されたままでは「スッポンクイーン・ミス飛鳥」の称号が泣く。
 というわけで、一人のチビが休憩時間に水槽をのぞいているとき、「エエイ」と気張って卵を産んでやった。そのときのチビの、おどろいたのなんの、大声で、「センセエ! ガクが卵みたいなの生んだぁあ」。
  「なんだ? 卵みたいとはなんだ、ミタイとは。タマゴだよ、正真正銘のタマゴっ!」。云ってやりたかったが、残念なことに「声帯不足」で、やはりしゃべれない。
 ハゲエモンと、もう一人のチビがあわてて駆け寄ってきたとき、今度は用がなくなった卵を「ゴクン」と飲み込んでやった。これで、みんな、「ミス」だって認めただろう。

  その後、ハゲエモン先生(一年間お世話になったので、先生をつけるようにしようと思う)によって、わたしの名前は「飛鳥学美(あすかまなび)」に変えられた。飛鳥で捕まって、学習塾だから「まなび」。これなら、「ガクと云う、呼び慣れたニックネームがそのままでいいから」というのが理由だという。
 結構な「手抜き」だが、メスと認知されたのだから、今回は「よし」としよう。もったいないから腹立て卵も、もう生まないことにした。

 そうだ、最近、子どもたちと一緒にハゲエモン先生の講義を聴くようになった。授業中、時に気をそらせて、美しいわたしに見とれる腕白坊主がいる。先生は一言、「エサにするぞ」。
 「みんなア、エサにされちゃたいへんだからサ、勉強なさいョ」。いつもわたしは、心の底から子どもたちに、そうエールをおくっている。
  
逆転の発想
 子どもたちを指導しているぼくたちが指導の際、とくに気をつけなければいけないことを、年を重ねるごとに、より意識するようになりました。天才を育てた「ファインマンのお父さん」と、「天才になるエジソンを育て損ねた」エングル先生との、「認識の大きなちがい」です。
 ファインマンのお父さんはブリタニカこそ読み聞かせましたが、その「教科書」は「避暑地の森」でした。エングル先生の方は、きっと「計算問題の問題集」や「書き取りノート?」だったでしょう。さらに、その中に家で膝にのせてブリタニカを読み聞かせてもらったり、森でおもしろがるお父さんに興味ある話を聞かされた子はほとんどいなかったはずです。
 二人の立場のちがいは当然考慮に入れるべきものとしても、注目すべきは、「教えるときの感覚」です。「ファインマンのお父さんは『自分もおもしろいこと』を教えよう」とし、「エングル先生は『教えなければならないと勝手に思い込んでいるもの』を教えよう」としたことです。「何がおもしろいか。子どもたちが何を知りたがっているか」なども考える余裕はまったくなかったでしょう。
 ふだんよく見えませんが、ここには、予想外に大きな問題が隠れています。「自分がおもしろいこと、おもしろいと思っていること」を教えずに、はたして「教えたいこと」がうまく子どもたちに伝わるだろうか、という問題です
 自分がおもしろいと思っているからこそ、その面白さを何とか伝えたいし、伝えようとする熱意も生まれ、工夫も重ねるのでしょう。教科書で教えるのであれば、「借りてきた教科書」ではなく、その教科書を「自分がおもしろいと思う内容と体裁に自ら変えて伝える」ことこそ求められることではないか。こうした問題は百年を経過しても、その多くは個人的な問題になってしまうので、ほとんど未解決のままではないでしょうか。

 当時より教科書はよくなり、教え方も少し変わってきたかもしれません。教科書をよく教えようとする工夫は重ねられているのかもしれません。もちろん、中にはそう思って指導されている先生方もたくさんいらっしゃるだろうことはわかっています。心からエールを送ります。
 しかし、本質的な問題の解決は図られたでしょうか。エングル先生ではなく、ファインマンのお父さんはどれだけ増えたでしょうか。
 「おせっかい承知」で申しあげると、エングル・スタイル打破の突破口は、まず「子どもたちの感覚」に対する意識改革だと思います。「観念」やイメージではなく、「子どもたちの現実の姿」をもう一度虚心に見なおす。経験から、これは何度やっても、やりすぎることはありません。

 ヒントになればよいですが、「指導をこちらから進めるという意識ではなく、今ある『現実』に彼らが注目するような問いを子どもたちに投げかけ、彼らが考えた解答にアンチテーゼや例外を投げかけ、彼らが自らの考察の枠にそれらを取り入れ、さらに考えを進めていくことをくりかえす」、というスタイルが最良だと思います。結論や解決に至ればそれもよし、たとえ結論が出なくとも、彼らの「考える力」は次に向かいます。
 それがファインマンのおとうさんがやった方法の基本です。古くはソクラテスの問答も、類似のパターンだったのではないでしょうか。それによって、子どもたちは「考えることと、学習対象の奥行きと広がり」を学んでくれると思います。「好奇心のきっかけ」のひとつにもなり得るでしょう。

 釈迦に説法かもしれません。しかし、ぼくが指導を始めたときのことを振り返ると、「反省ばかり」が頭に浮かびます。「学習指導要領」や「それに類するもの」がまず頭にあって、それをいかに教えるか。そこから抜けきれない。抜けられない。「それを教えればよい」と考えている自分がいる。みんな自分自身の経験知がそうだったからです。それ以外の方法に出会うことがほとんどなかったはずです。
 あるいは受験問題「馬鹿裏」(考えながらマックのキーを打っていたら、今こんなふうに変換しました、こいつ! おもしろいやつだ、その通りだ!)が頭にあって、それの得点力をいかに高めるか? それ以外のことが、ほとんど「の売り」(「脳裏」と打とうとしたら、今度はこう!ハハハ最高だナ、こいつ)に浮かばない。

 既定のテキストを使うことを前提に、学習対象・学習内容を教えようとすれば、どうしてもそうなります。さらに、自分たちが指導されてきた姿しか見えない、知らない。なまじ知っている知識がある故に、勉強してわかっている(と思っている)が故に、「結論や理由を知ったつもりになってしゃべってしまい、それで済ませる」。そうなってしまいがちです
 これでは、いつまでたっても「抽象を抽象で教える」という、従来のサイクルから抜け出ることはできません。子どもたちの感覚を脳裏に、学習対象や学習内容をもう一度分解して身近に引き戻し、内容と方法を考え直し新たに組み立ててみる努力は欠かせません。「銀の匙」の灘中の橋本先生の努力に比べれば、元があるのですから、まだ容易ではないでしょうか。
 子どもたちは「抽象」を知りたいのではありません。「自然をはじめとする周囲のこと、身の回りのこと、そのなりたちとしくみ」をもっと知りたいのです。自分がそこで生きていかなくてはならないわけですから…。その現実をどうしても知りたいはずです。「現実」です。それらを考えたいのです
 事情が許さないのであれば、少なくとも彼我の『狭間』を、常に意識して授業を組み立てなければならない。それが次のステップです。子どもたちの興味ある、おもしろい勉強のスタートです。

 左の写真を見てください。これはサヌカイトの切断面です。サヌカイトの切断面は写真のように黒っぽいのですが、表面は風化して「他の石」と区別がつきません。石器に使用された特別な石ですが、現物を知らず風化のままなら、取り立ててなんということはない、ただの石です。意識が向かいません。観察や考察の対象にはなりません。「学び」は進まないのです
 道端の石も、たいていの場合キラキラ光ったり、特徴ある姿をしていることは少なく、また近くでは石ころも見なくなり、子どもたちも忙しく、石ころなんかに目をくれる暇もないので、よけい興味がわきません。つまり『狭間」の存在です。「単なる石」を乗り越えられません。学習内容が「現実の石」ではありません

 それなのに中学校の段階になって、岩石や地殻のことを少し詳しく勉強させられ、主要な岩石として、地殻では大陸地殻が花崗岩、海洋地殻が玄武岩、マントルは橄欖岩と核は鉄等・・・と学習するわけです。受験知識で火山岩や深成岩のでき方をイラストと二・三行の紹介で勉強していても、実際の花崗岩は見たことがない。海洋地殻の玄武岩やマントルの橄欖岩は見たくても見られない・・・。
 さらに、いずれの石も、さっきのサヌカイトのように風化しているので、道を歩いていて、時に岸壁や地層に出会っても、その違いが目には留まりません。「花崗岩が大陸地殻を構成している姿を見たくても見ることができないまま」なのです。地球にとってはそれだけ身近でたいせつな石なのに、です。

 「現実に存在する姿」を知らないまま、そのたいせつさがわからないまま、「勉強する対象」である花崗岩という受験事項を文字の抽象によって頭に溜め込んでいくだけです。学習が進むとともに、「狭間」はさらに広がっていきます
 子どもたちは「身の回りのこと」を知るのではなく、ずうっと「勉強のための勉強」をしているのです。「知りたい周囲のSomethingに何ら興味をもてない感覚」のまま、好奇心が届かないまま中学校に行きます。

 そして、年齢から云えば、ほとんど「異性にガンガンの頭」のときに、あるいはそこまででなくとも「興味津々」のときに、いきなり、地層や岩石の区別を詳しく「勉強しなければならない!」のです。
 異性への興味で「燃えるような思い」、「身体が火のように熱くなっている」ときに、教科書の溶岩や爆発なんか、「もうどうでもいい」はずです。ともすれば、自分の肉体が熱で溶け出したり、自分が爆発してしまいそうなんですから。
 偶に真面目な子がいて、我慢して受験知識として蓄えても、所詮そこどまり。裏付けやバックグラウンドがないので、多くの場合そのまま発展性は生まれません。知識は「クイズの解答」のゴミ箱です。

 現在のところ、特に例に挙げた岩石(地学の学習)に限らず、ほとんどの学習(勉強)が、類似のすすみ方をしているのではありませんか?「必要性」にも、「なじみ」にも迫られず、学習対象や学習内容は、子どもたちの中で、こうして疎遠なもの、取り立てて価値が見られないものになりつづけていくのです。学習指導のこの壁はどうしても突破しなければならないと思います

 教育にかかわる人たちはすべて、この「教科書は見知らぬアルバム(過去ブログ参照)状態」から抜け出す発想と方法を現実化する必要に迫られていることを意識すべきだと思います。それによって、ぼくたち(日本)は、数十年後すばらしい科学者を、もっともっと送り出せるはずだ、いつもそれを夢見ています。 


石ころと星・宇宙の誕生と死23

2017年10月21日 | 学ぶ

 今週は新しくなった立体授業のテキストの一部紹介しています。

川遊びと読書の関係 
 もうずいぶん前になりますが、長女に「子どもたちの指導をやらないか」と打診したとき、「わたしはパパのように、いつも子どもたちのことを考えていられないから…」と、やんわり断られました。
 娘にそういわれるまでは意識しなかったのですが、そういえば団を始めてから、子どもたちの学習や指導のことが、いつも頭から離れません。そうだ、写真をやっていた時もそうだった、恋愛もそうだった(そんなこともあったのです!ハハ)・・・何をするときも、いつも、ずっとそうだった・・・。子どもたちには可哀そうなことをしてしまった・・・反省しきりです。
 さて、今日所用でタクシー移動をしている際、どういうわけか「ぼくが本を読むようになったのはなぜか」と、ふと疑問がわきました。小さいころ家にはほとんど本がなく、学校も田舎の小学校で、当時図書室や子どもが手にする本など、あまりありませんでした。
 つまり、まわりには本がなかったのに、「Cパップの器具をつけた上から」苦労しながら眼鏡をかけ(不便です)、眠くなるまで本がないとどうしょうもなくなっている現状はなぜか? それが不思議になったのです

 周囲の本をよく読む子どもたちのことを考えてみると、よく読む子には共通した特徴があります。まちがいなく周囲の影響が大きなポイントです。保護者がいつも本を手にしている、あるいは、さまざまな本をおもしろそうに読んでいる。たいてい、こういうバックグラウンドが垣間見えます。まず、何よりも子どもに大きく影響するのは、おもしろそうに本を読むおとなの姿です。
 もちろんお父さん・お母さんが読まなくても、兄弟やおじいちゃん・おばあちゃんの影響を受ける場合も大いにあります。そして、そういう家庭には、当たり前ですが、身近に本があるので、子どもが手に取ってみる機会もたくさんあります。本になじむためには、格好のアドバンテージです。


 「うちの子は本を買ってあげてもちっとも読まない」という嘆きをよく聞きますが、そういう場合、「買ってあげるだけで、誰も家庭であまり本を読まない(読んでいない)」ことがほとんどです
 あるいは、テレビはガンガン、周りはワアワア。それでは、自ら手に取ってみようというタイミングもなければ、本がおもしろそうなイメージも浮かびません。「何冊かを読み続けて、よく意味がとれるようになり、おもしろさがわかり、そして本が手離せなくなる」、という本にのめり込むパターンの、はるか以前の問題です。


 本を読むには「落ち着いて、あるいは静かに振り返るという経験や習慣」がたいせつになります。静かな雰囲気がなく、物思いにふける習慣もなく、テレビや音楽・足音が、ガンガン・ドヤドヤしているなかでは、誰も本を読もうとは思わないし、読めないでしょう。読書に向かわせようと思えば、手近に本があるだけではなく、そういう雰囲気づくりもたいせつになります。

 さて、それでは家に本がなく、年がら年中、朝から晩まで川遊び、魚とりや魚釣りをしていたぼくは、どうして本を読むようになったのか? 「漁師になっても不思議じゃなかったなあ、ハハッ」。タクシーの道すがら、そう考えて、ふと思い至りました。
 木漏れ日の中、山奥の静かな小川で、気づかれないように魚を追っているという行為は、魚との繊細な駆け引きと試行錯誤(つまりメタ認知の行使)の連続です。水音を立てないように、足を忍ばせ、動きを見ながら、そっと魚を追い込む、という繰り返しです。

 また山中、野池の傍らの木陰で小さな水音に耳を澄ませ、浮子の動きを見逃さず見守る、という行為は、相当な集中力が要求され続けるはずです。ちなみに、そのころ高い木の上からリスもおりてきました。いずれも自らの企てや行動の振り返りと修正の連続です。脳のはたらきのトレーニングです
 これらの行為を日々繰り返していれば、落ち着いた静かな雰囲気の中で、試行錯誤をともないながらメタ認知を強化し、集中力を養うという、まさに「読書に入り込むための格好のトレーニング」になっています。ぼくが幸運だったのは、田舎で、一人で過ごせる川遊びや魚釣りでの精神作用やイメージトレーニングがあったので、きっかけさえつかめば、すぐ読書に入れる状態だったのかもしれませんね。
 「バタバタ・がやがやという、小うるさい友だち関係」や、時には「煩わしいだけのやり取り」の外遊びしか知らない子どもたちが、家に帰ってもなお、テレビ・音楽・おしゃべり、ワンワン・ギャンギャンという、騒がしい世の中では、本に見向きもしなくなる(しない)のは、いわば当然かもしれません。読書好きにするには、「読書に向かわせる環境や条件」をもっと考えてみる必要があるようです

 


A君への手紙

 先日は課外学習の応援、ありがとうございました。助かりました。
 さて、お母さんにはいつもお心遣いをいただき、感謝しています。お礼の連絡をして、最近の君のようすを訊ねると、言葉を濁されていたので、少し心配になりました。


 どうですか、悩み。まだ先が見えないのかな? 大丈夫ですよ、そんなことは。
 ぼくはいろいろな人や子どもたちを、もう長い間見てきて(笑い)、よくわかったことがあります。それは「感受性が豊かで頭が良い、まじめな人ほど悩みが大きく、重い」ということです。


 まず、いつも言うように、君はたぐいまれな頭脳、素晴らしい能力をもっています。ぼくの見る限り、出会った人の中ではトップクラスです。中学校2年までしかきちんと勉強していないのに、いくらぼくの指導があったとはいえ(ハハ、少し云わせてください)、19歳からの2年間の学習で京都大学の理学部なんて、ふつうじゃありません。そんな人は日本中探しても、あまりいません。
 まずその能力に自信を持ってください。君の能力の大きさがその大きさゆえに、世の中の役に立つには何をするべきかと、今真剣に君に「相談」しているのです。若いんですから、君の心と二人で(!)心行くまで相談にのってあげてください。数日前読んだ本、こんな一節に出会いました。
 釈尊が、この世の苦悩と、自分のなすべきことに悩み続けて、それらを解決してゆく過程の考察です。
 
 釈尊が、その出家に際して胸奥にいだいていた課題は、他でもない、苦の問題でありました。その苦なるものはいかにして存するものであるか。いかにして苦なるものは生起するのであるか。
 (「釈尊のさとり」増谷文雄著 講談社学術文庫より)
 

  苦とは何か。
 
 「比丘(びく)たちよ。苦の聖諦(しょうたい)とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。嘆き、悲しみ、苦しみ、憂え、悩みは苦である。怨憎(おんぞう)するものに会うは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するものはすべて苦である」(前記書p42)
 
 つまり、生そのものが苦である・・・。そんな大変な、しんどい世の中なら生きていたくない、という人がたくさんいるかもしれません。
 そうではありません。それは、「ことば」に縛られ、「苦」を「苦」と規定してしまうから、たいへんなのです。よく考えてください。
 みんながそういうふうに生まれついているのですから、それは「苦」ではありません。「生」なのです。他と比較するから「苦」になるのであって、比べることがなければ「苦」になりません。
 

 ぼくは、長い間生きてきて、「少し賢く」なりました。
 人生は決して良いことばかりではないし、悪いことばかりではありません。たとえば、悪いことだと思っても、もしそれに耐えることができれば、それだけ強くなるわけですから、次はもっと大きな悩みにも立ち向かえるでしょう。人生そのものが苦であるとするなら、そんなうれしいことはありません

 また、こうも考えるようになりました。一見よいことに見えても、見方を変えれば必ず悪いことが隠れているはずで、欲望に任せて動いているぼくたちにはそれがよく見えないのです。それが「苦」のはじまりです
 簡単に言えば、自動車の発明は便利だったが、それによって歩くことがなくなり、荷物を運ぶことがなくなったわけですから、体力や心肺機能は落ちるわけです。また時間は節約されたかもしれないが、ゆっくり見て感じる、という感受性は鈍麻していきます。二酸化炭素の排出などの環境汚染は最大の苦です。

 このように、ふだんはなかなか見えてこないのですが、苦と楽は、実は「相反するものではありません」。「苦を苦と見る」ことばかりではなく、さらに「苦に(から)入ること」をやめれば、苦は苦でなくなる。連鎖を断ち切れる。僭越ですが、釈尊はおそらくそういう発想に至ったのではないでしょうか
 
 悩みが深ければ、人はさらに大きくなれます。悩みが大きければ、ひとはいっそう優しくなれます。ぼくたちは、悩みや問題を解決しようとする志向や努力によって、ひとつずつ成長していきます。
 君は「先生になりたい」と云っていましたね。悩めば悩むほど、人の気持ちがわかる良い先生になれます。悩むことを気に病むことはありません。見えないことを苦しむ必要はありません。
 それは君の頭がよく、感受性がいっそう鋭い証拠です。生まれたばかりの赤ちゃんは最初よく見えません、みんな忘れていますが。自信をもってください。

 寒さが募ります。からだに気をつけてがんばってください。
 もう一つ大きくなった、君の姿、期待しています。
                                                         南淵喜浄


石ころと星・宇宙の誕生と死22―人生が大きく変わる「小さなきっかけ」

2017年10月14日 | 学ぶ

「三者懇談の案内」例から 
 今週は子ども達との稲刈りの写真を多数掲載しました。
 先週、中学受験に対する志望校選択の判断基準について触れました。以下は、冬期講習案内の一節です。(一部改変)


   団員保護者のみなさま

 毎年のことですが、受験をする子どもたちを送り出す時、ぼくの不安を振り払う心の支えになるのは、「自分が精いっぱいやったか」という確認です。
 最近は、中学受験までたいてい4年間指導することになりますが、その間様々な活動や行動をともにし、受験に向かう子どもたちに何を教え、何を指導してきたか。中学に進んで、きちんとついていけるだけの心や態度・学力を養えたか、ということの振り返りです。それが整えば、受験はいずれにしろ、「ただの一里塚」です。受験するのに、もっともたいせつな準備は、そういう「姿勢の確立の手助け」だとぼくは考えています。
 自身がテストで一度もあがったことがなかったのも、いつも「できるだけのことをやったから」という受験前の確信でした。受験塾や予備校に行くことができたわけではなく、学校以外だれかに指導を受けたわけではありません。一人での取り組みを繰り返してきました。
 ぼくだけではなく、人生は誰にとっても、ほんとうは「ひとりの戦い」です。厳しい戦いを勝ち抜くには、やはり裏表のない不断の努力です。「そうした気概と力をもった子に育ってほしい」と、願いながら日ごろ指導しています。
 あまり余計なことを考えず、残された日々、「やるべきこと」と「目標」に向かいましょう。ぼくたちはみんな、「毎日一生懸命やること」しかできません。いずれにしろ、その結果が大きな成長の糧や自信になります。(以下略)
 

 毎回このような案内を保護者に配布しています。「受験及び受験生・受験勉強に対する意識の変革を図ること」で、子どもたちは素晴らしく成長するという確信のもとで指導を重ねています。
 それでも、個別の事例になると、やはり「勉強」が「余裕のない受験勉強の域」にとどまってしまう状況から抜け出ることはなかなかむずかしいようです。ほとんどみんな「それ以外の勉強(法)を教えられた経験がない」から、当然のことかもしれません。「自らの経験からしか判断できないぼくたち」は、視点が全く変わった発想や考察には、なかなかなじみにくいのでしょう。
 以前の「困ったお母さん」の例、「田植えより勉強を教えてほしい」を思い出してください。「田植えも勉強も、同じ人が同じ頭でやる取り組みである」ということがわからない。何をしても、自らがする行動によって、絶えず脳の発達・進化・変化が生まれているという認識の欠落です

 科学上の大発見や真理の多くは、「いわゆる常識」の奥からひっそり顔をのぞかせたように、一度は「学習というものの奥」を丁寧に見直し、再考してみるという姿勢が必要ではないかと思います
 ぼくたちの「学習」は、他の動物の多くとちがう誕生の、たとえば成長過程で「すぐには立ち上がれず摂食行動や防御姿勢もとれない」ヒトの、自らの生きるべき術をできるだけ早く確立し、早く身につけるために進化してきた行動パターンのはずです。決して「抽象的な概念の習得から始まった行動」ではありません。
 そこに大きな秘密があるはずなのに、「『学習の一部である勉強』のしくみ」しか取りあげられていない、ほとんどそれらの行動様式しか研究対象とされていないのが現状ではないでしょうか。それらの学習の「もっと以前」に、ヒトは「学習」を最も有効な「生きる手段」にするべく進化を重ねてきたはずです
 先週の「稲刈り」の帰途、団の指導について「『課外学習』の周辺学習がおもしろくなってきた」と伝えてくれたお母さんがいました。感激でした。指導の狙いはそこにあるからです。
 先の課外学習「二上山の三つの石」で見つけた小さな宝石が、実は「酸素やケイ素がもとになってできているもの」という事実が子どもたちに理解されたとき、彼らの中で化学記号の暗記や計算式から始まるのとは全く異質の「科学の世界」が生まれます。子どもたちは酸素と云えば『呼吸』でしか知らないし、ほとんどの子は「気体」という認識しかありません。これによって呼吸と宝石、酸素の姿や関係性が激変します

 
長い人類の歴史で、ぼくたちはこうした感覚で科学に開眼し続けて来たのではないでしょうか。酸素やケイ素という術語や原子記号・化学式が元々あったわけでは決してありません。子どもの場合、抽象事項や述語からおもしろさや興味は広がりません。それは一部の「クイズマニア」だけです。
 子どもたちが「『そうした時代』から生きることをはじめる」と考えれば、「何がたいせつか」、「どう指導すべきか」がはっきり見えてくるはずなのですが・・・。
 

人生が大きく変わる「小さなきっかけ」1 
 「ぼくは重度の睡眠時無呼吸症候群だったことを知らなかった」、という話をしました。最近はある程度名前や症例もポピュラーになりましたが、ぼくの場合検査を受けてみると、最長79秒(!)という長時間無呼吸(呼吸をしていない)状態を一晩に何十回も繰り返す重症でした。無呼吸が79秒と云うのはどんなものか? 

 あたりまえですが、一晩中、「約一分二十秒の間、『息を止める』ことを何十回も繰り返している」ということです。おどろきませんか?
 ぼくがその危険性をアドバイスしても、軽くしか考えていない人が結構います。若い時は体力があるので身体はもち、日ごろの生活も十分維持できます。しかし健康に大きな影響を与えているのは変わりません。その状況をもう少しわかりやすく、「夜毎、何十回も首を絞められ放されるという拷問をされている」と云ったらわかるでしょうか。

 いつも「酸素不足」だから、当然新陳代謝が滞り、疲労物質の除去もできないし、もちろん熟睡なんかとんでもない。息が苦しくなって、恐ろしい夢を見、動悸と寝汗で目を覚ますなんてことがしょっちゅうでした。
 また、ぼくの場合は熟睡を示す4のステージが一回もありませんでした。これらの症状も、この病気を知らなかったら、「悪い夢を見た」とか、「疲れやすい」とか、「お酒を飲み過ぎた」という軽い判断で見過ごされてしまうことがほとんどでしょう。ぼくの場合もそうでした。逆に、かつては「いびきをかいていれば、熟睡している」と考えられていたものです。
 小学生のころ、何度も溺れている夢を見ました。水のなかでもがいて上にあがろうと手足をバタバタさせようとするのですが、動かず、水面に出られません。もう駄目だと思った時、目が覚めるのです。そのころ、そんな病気があるとは誰一人知らず、「どうしてこんな怖い夢を見るのだろう」という不思議な感じで終わることが毎回でした。

 小学生のころからぼくは電車通学をしていました。ある時、友だちのお母さんと乗り合わせました。母の隣に立っていた僕の顔を見て「目の周り、真っ黒やん!」。「母は今日は疲れてるから」ぐらいの認識しかなかったのでしょう。「病気がまだなかった(!)」わけですから。 
 その「隈」は小さいころからの「ぼくのトレードマーク」みたいなもので、シーパップ治療をするまでとれませんでした。いつも歌舞伎役者のまねをして下手な化粧をしているようなもんです、ハハッ。
 その疲れや「隈」は、この病気を病気と認識できるまでは「原因不明」で、体質や年のせいとしか解釈できません。つまり、子どもたちにとっては(あるいは、この病気や症例を知らないお父さんやお母さんにとっても)、「原因を追究されない(!)異変」なのです。ぼくが子どもたちの日ごろの変化についても、きちんとしっかり見てほしいのは、こういう例があるからです。

 「睡眠時無呼吸の潜在患者」である内は当然「その病気を治療すれば身体がどう変化するのか」に想いが至りません。しかし「いつも眠たい」、「しんどくてやる気が出ない日が多い」、「集中力が続かない」、「毎日怖い夢を見る」…。睡眠時無呼吸の子どもたちは、こういうことが常態化するわけです。当然「思考力や前向きな気持ちの減退」、「怖い夢を見ることによる暗さ」等、性格形成にまで影響が出てしまうでしょう。「本来は元気良い子に育つはずが、暗くて元気のない子に育ってしまう…」。

 今治療をすることで体調がよくなり、前後の体調の大きな相違に気づいた僕は、こうした隠れた阻害因が、子どもたちの健やかな成長と人生を大きく変えることになるかもしれない悪しき可能性を危惧するのです。
 「大きな鼾をかく」、特に「いびきが途中で止まる」、さらに「太っている」、「首が短く太い」、「顎が小さい」、などの心当たりがあれば、念のため検査を受ける(させる)ことをお勧めします。こうした視点は、受験勉強に対する注意喚起よりはるかにたいせつなことだと考えています。
 

人生が大きく変わる「小さなきっかけ」2 
 以前、今年中学に進学したOBと、入学後すぐグレードリーダー(写真)を読み始めたことをお伝えしました。文法や単語もまったく知らないところから始めて週4回一時間ずつ、現在12ページまで。
 最初単語を英和辞典で調べるのにも時間がかかって右往左往していたのに、半年を経過すると、自学がすっかり板についてきました、次はロングマンの“Basic English Dictionary”を引いて講読をすすめたいと計画しています。

 かつて夏目漱石は、「語学養成法」で、学生たちの英語力が自分たちのころより、かなり衰えてきたという現状について、次のように感想を述べています。

 われわれの学問をした時代は、すべての普通学は皆英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科も皆外国語の教科書で学んだが、われわれより少し以前の人になると、答案まで英語で書いたものが多い。
 

 理由は、日本語で教育をやるだけの余裕や設備が整っていなかった。日本語での教科書が存在せず、教える先生がいなかった。だから外国語の教科書を使い外人の先生が教えたので、「英語を教わる」というより「英語ですべての学問を習っていた」からできるようになった、特に漱石より少し前の人たちはテストの解答も英語で書いていた、ということです。つまり、英語漬けだった環境が、現在(漱石が年をとった頃)はすっかり変わってしまったという認識です。そこに英語力衰退の原因の一つを求めています。
 参考にすれば、たとえ時代が変わっても、初学者が辞書を引きながら、かんたんな本(英文)を読むのも、それほど無茶ではないと考えられないでしょうか。江戸時代はそうだったでしょう? それによって、「英文を読むことばかりか、日本語の書き方まで『感じてくれる』」はず。そんな思いでぼくは指導を始めました。「受験方式じゃない英語の読書(自学)」を始めてほしい、というわけです

 H君は、最初短い英文を日本語に直すのも四苦八苦して、「たどたどしい」ものでした。
 「君がこの小説を書いているとすれば、今の云い方で何を言おうとしているかわかってもらえるか?」 「最初はどういう話で始まり、どういう状況で話が続いてきたか?」 「今どこで誰と誰が何をしているのか?」等々と指導を続けていきました。彼の口から次第に日本語らしい日本語の訳も出てくるようになりました。意味をとらえた、相手(ぼく)にわかる日本語が出てきます。
 
 「どうだ、H。おもしろくなったか?英語」。
 「はい、おもしろいです」。
 「!」
 「先生、学校(N学園)の実力テストの成績、返ってきました。26番でした(約150人中)」。
 
 ニコニコ笑って自分から話してくれました。もう安心です。もちろん、こうしたすすめ方ができるようになるまでには、「人知れぬ苦労(!)」があります。それは保護者と本人とぼくとの信頼関係の構築です。
 特にH君の場合、難関中高一貫校や大学まで数多くの学校を統括されている理事長のお孫さんです。ぼくの方法論と指導に対する確信と自信が一層要求されました。彼は大手受験塾の指導に嫌気がさして、勉強が嫌になっていたから余計です
 最初入団してくれた時は、渓流教室のバーベキューの後始末の指導から始まりました。以前のブログで触れたことがありますが、「バーベキューの網を洗っているのに、肝心の網に注意をしないで、ただ無目的に束子でこする」というような行動パターンがあったのです。
 最近の子たちはお手伝いや家での作業等の経験が少ないので、「何のための行動か」という目的意識をもてなかったり、「作業の目標が見えなくなっている」ことが多いのです。そのまま成長すると「自らの行動に対して、メタ認知がはたらきにくいという致命的な欠陥」になりかねません。そうした指導から始めるわけです
 よく見られる考え方や視点の狭い保護者や関係者であれば、ぼくが「なぜ叱っているのか」の理由が見つからないかもしれません。しかし自ら行っている作業や行動に対するメタ認知がはたらかず、目的意識も見えなければ、それを最も必要とするだろう、テストの解答や学習が順調に進むわけがありません
 最近の子育てでは、そういう方向からの視点は存在せず、それゆえ指導もまったく欠落しているのではないでしょうか。それらを補っていくことは普通なら当然のことであるにもかかわらず。そうした指導の継続による成長が、理解のある保護者のみなさんに十分認識されてこそ、強い信頼関係が生まれます。
 「受験頭(?!)」のお父さんやお母さんや先生には理解することがむずかしいかもしれません。「難関校に進んだ」はよいが、「学校の勉強を応援するのではなく(実際はテスト指導もし、質問にも答えますが)、いわば、英語の本が読めるようになる指導を進めている」のですから。
 しかしそこで、たとえば大学へ入った時点で、入試問題の解答に終わらず英語の本を何の苦労もなく読み続けられれば、どれほど実りの多い、未来を見通せる学生生活を送れるか、と発想する余裕はあったでしょうか?
 また、先のH君の報告にもあったように、すでに「学校の勉強は学校の勉強でちゃんと進めてくれている」こともわかると思います。保護者との理解が整えば、子どもたちの成長は、こう進みます。
 これが、やがて難関大学へ進学するOB諸君の途中経過なのです。人生が大きく変わる「小さなきっかけ」二例です。
 学習指導に悩む若いお父さんやお母さん・先生方、何か困ったことがあれば、ご遠慮なくご相談ください。一緒に問題解決しましょう


石ころと星・宇宙の誕生と死21 立体授業 「二上山の三つの石」Ⅱ

2017年10月07日 | 学ぶ

受験校選択への疑念 
 受験する小学生のお母さん・お父さんたちは、この時期になると受験校の選択・決定に大わらわでしょう。しかし、その段階で「何を選択の基準にするべきか」という落着いた判断力はともなっているでしょうか?

 「難関大学への進学率とその伝統」、あるいは「雲をつかむようなうわさや風評」、「個人の感想」「受験塾のある意味無責任なアドバイスと洗脳」、そして「周囲のプライドや見栄」。それらが選択基準になっている場合が多いのかもしれません。そこで忘れられがちなのは「受験生本人の学力レベルやキャパシティ」を冷静に判断する「作業!」です。
 まず一つ目、「難関大学への進学率」から考えてみましょう。
 団ではこのブログでの塾紹介以外、塾生募集の告知は行ってはいません。その理由は「『学力のみに限らず、さまざまな面で子どもの成長をたいせつに考えている』お父さんやお母さんと子どもたちを、じっくり育ててみたいという思いがあるから」です。中学受験での優劣判断ではなく、その先にある子どもたちのたいせつな人生についても、考えたいと思っています。彼らがどういう夢や目標をもつにしろ、「それらをかなえるためには何がたいせつで、何が必要かを考えたい」のです。それが子育ての基本です

 子どもたちの人生は中学受験で終わるのではありません。そして「学校は何のための学校」か?
 自らが、そこで力を養い、切磋琢磨し、独り立ちできる能力を養うことができること。できれば、自らの夢以外に自らが生きている社会の夢を担える度量や学力を蓄えられること。それしかありません
 これらの力は学校だけで養えるものではありません。周囲に夢や理想を抱え、子どもに接する人の存在がなくては、まず不可能です。さらに「『それらを心から願い、いつも忘れず原点に戻る』という冷静さ」が周囲になくてはなりません。
 定評あるトップ校へ行ったらすばらしい成長が可能になる、という単純なものではありません。何よりも必要なことは「行く学校」ではなく、ふだんからそれらの夢や理想を自らも忘れない客観的な視点であり、広い心であり、そのために自らを律する冷静なセルフ・コントロールです。成長は進学先のみに頼れるものではありません。それが団の実績です。

 もっと誤解を恐れずに云えば、学校はあまり関係ありません。整うもの・整うことが整えば、よほどレベルの低い学校でもないかぎり、どこへ行こうと「素晴らしい成長」は可能だとぼくは思います。OB教室を経た団員の中学進学先と進学大学、そして時折紹介しているOB生の姿を、もう一度振り返ってみてください。

 京大院卒業後就職し神戸大医学部に難関を突破し学士入学、もう次の目標を掲げ合格後すぐケニヤに飛んだK君、医大へ行くというので何を専攻するのと聞いたら、「センセイ、わたし、日本一の看護師になりたい!」といったYさん。
 同じく医大に行くので、「何をやりたいの?」と聞くと、「ぼくがアトピーで苦しんだから、皮膚科に行きます」と夢を語ったKS君(今は北海道で、救急医療に邁進しています)、Kさんは「高校のときにいじめにあい、カウンセラーの先生にお世話になったから、精神科に行きます」。そして、ことばの発生の研究でベトナムに飛んだ京大院のY君・・・進学中学は関係なく、こうして育ってくれたOBがいます。ちがいが分かっていただけますか。

 まず大切なことは、学校ではなく「学ぶことのたいせつさを自覚する(できる)環境」。「学ぶおもしろさに気づくことができる指導と環境」。そして「本人が責任や夢を自覚できる余裕」。
 これらを可能にするには何が必要か? 決して学校ではありません。必要なことは、日々の「周囲の」細やかな対応と指導です。そして、指導者・保護者の「思いの共有」であり、「熱さ」であり、「両者の協力と信頼関係」です
 それらによって、子どもたちの「学体力」が育まれ、健やかな成長を重ねていきます。たいせつなものは、まず「これらの環境がもっともたいせつであるという自覚」と、「それに対するアプローチ」です。
 学校ではありません。「学校の指導力を当てにしない本人の『学体力』の養成が根本」です。その方法については、五年間のブログを参考にしてみてください。ヒントがたくさんあると思います。

進学中学レベルより「学体力」
 進学先の選択をすることについてのアドバイスです。先の進学中学や子どもたちの成長のようすをヒントにしていただくと、「無理矢理進学」はどういう結果をもたらすか、想像できると思いますが、そんな例を一つ。
 以前、ぼくは「小学校3~4年生のときに、京大や阪大へ行ける(進学可能性のある)子がわかる」と述べました。学力については「このまま僕のところで指導を受け、保護者の適切な理解と協力はあればまちがいない」という確信があります。表の京大・阪大へ進学した8人は、小学校の段階で本人や保護者にそう伝えたはずです。そして、そのために必要な頭のはたらきの判断の基準についても以前披露しました。もうひとつ、彼らの保護者のみなさんはアドバイスをきちんと聞き入れ、指導にもすこぶる協力的でした。

 逆に、そうではない場合、例えば背伸びして進学しても、本人には過重負担で、良くない結果を招くだろう(たとえば低迷するだろう)ことも、はっきりわかります。そうしたとき、保護者や本人には、それとなく何回も懇談等で伝えていきます。しかし、なかには冷静に対処できないお母さん・お父さんたちもいます。
 自らの学生時代、友人たちのようすや指導経験を振り返ると、日々自らの手に余る過酷な競争の中で、過重な負担とコンプレックスを背負い続けるだろう悪影響は痛いほどわかり、一生にかかわる自負や自信にも影響するので、何度もアドバイスを繰り返すのですが、わかってもらえないこともよくあります。近年もそんな例がありました。

 5年生初めの段階で、模擬テストではほぼ同じ成績だった子がいました。ひとりは5年生で入団した子で、もう一人は3年生から団で学んでいた子(B君)です。模擬テストの成績は、その時点ではほぼ同じでも、「関連をとらえる力」や「ひらめき」が、A君とB君では明らかにちがいます。
 つまり、学力を究めるための「前提」が大きくちがうのです。B君は私立小学校で、1年生からそれなりの受験学習をしていたので、模擬テストの基礎点ぐらいはとれます。もう一人のA君は公立ですが、明らかに勘が鋭くひらめきが豊かです。経験は不足ですが、現在の力と将来の可能性や能力はまったく別です

 6年生になったとき、三者懇談で、ぼくは、進学しようとしている中学での生徒の能力レベルや学習内容がそんなに甘いものではないこと、ついていこうと思えば、おそらく相当の学習量をこなさなくてはならないことを、当該のB君のお母さんにも本人にも伝えましたが、聞き入れてもらえません。
 それよりも、ランクを少し落としてでも、プライドを保てる余裕のあるなかで、先々の学習を進めたほうが良い結果が出るだろうことを、やはりそれとなくほのめかすのですが、「本人が行きたいというので」の一点張りです。冷静な判断ができず、こちらの進学先アドバイスも効果がありません。

 残念に思いましたが、強制的にあきらめさせるわけにはいかず、そういう結果であれば、ぼくはその方向で最善を尽くすしかありません。できるだけ思いをかなえてあげたいからです。彼の学力と受験先レベルを考え、受験対応をしていきました。そして、二人とも合格できました。
 B君(と呼んでおきます)もなんとか合格はさせましたが、わがままに甘やかされて育てられた子ですから、調子に乗り、合格後の注意を聞かず、すぐ手抜きです。最初の中間テストで、ビリから5番になりました。

 最近、進学先の先生があいさつに来られ、「センセイ、A君は素晴らしいですね」。ぼく「そうでしょう、今のまま育ってくれれば阪大は大丈夫でしょ」。「ですけど、B君の方がちょっとシンドイんですわ」。「わかっています、進学先について、何度もアドバイスしてみたんですが、聞き入れてもらえなかったんです・・・」(B君はすでに退塾)。
 進学先を決める場合、きちんと子どもたちを見ている能力の高い先生ならば、学校と子どものレベルのイメージは高い確率で合致するはずです。選択のアドバイスを聞くことが大切です。学校レベル優先では決してありません。学校と本人の可能性レベルの比較が、まず優先です
 子どもの将来は日ごろの観察ときめの細かいしつけや指導が基本です。やるべきことをやるべき時にやる。やってはいけないことをやらない。それを教えること。可能性は、きちんとした指導やしつけによる人間性の確立、余裕ある学習の中での教養の定着、それらと本人の能力という、「総合力」の展開です。他力を期待しすぎることはできません
 単純な基準をまず徹底し、学ぶおもしろさや学ぶ大切さを心の底から伝える努力をする。それによって、彼らは、もっている能力をはるかに凌駕して、花開く未来を手にすることができるのではないでしょうか?

立体授業 「二上山の三つの石」Ⅱ

 この立体授業の学習指導内容については、次の書籍・リーフレットの内容を参考、また引用させていただきました。なお、ご紹介できなかった学術内容引用分があるかもしれません。お詫びとともに、厚くお礼を申し上げます。内容に誤謬があれば、ご教示いただければ光栄です。また、今回の二上山の写真は、畏友の写真家辻本勝英氏の撮影です。
 日本列島地学散歩 近畿・中国編 竹内均 平凡社カラー新書/大地のおいたち 地学団体研究会大阪支部編著 築地書館/日本列島の誕生 平 朝彦著 岩波新書/よみがえる二上山の3つの石 展示解説 二上山博物館/山はどうしてできるのか 藤岡換太郎著 講談社ブルーバックス/二上山博物館案内リーフレット他

近畿地方
  近畿地方は、北部には中国山地の延長と云ってよい丹波山地・比良山地など、平均高度約600mの高原状の山地が続いている。日本海側は急な崖になっているところが多く、若狭湾沿岸はリアス式海岸である。
 南の方には、高く険しい壮年期の山である紀伊山地の北の端には日本の二大構造線のひとつである中央構造線が走り、紀伊山地は海にまで迫り、熊野灘や志摩半島は複雑なリアス式海岸が発達している。紀伊山地は日本有数の多雨地帯で、尾鷲市は日本一降水量の多い市である。
  中央低地には、ほぼ南北に並行して走る伊吹・鈴鹿・笠置・生駒・金剛・和泉などの小さな地塁山地があり、その間に近江・京都・亀岡・上野・奈良等の、これまた小さな地溝盆地がある。地塁・地溝というのは、ほぼ平行には知る『断層』によって区切られ、その両側より高まったところを地塁といい、低まったところを地溝と呼ぶ。鈴鹿山脈や生駒山脈をつくる褶曲運動が始まったのは、第三紀の終わりに近い約500万年前である。その後その運動がはげしくなり、断層やこれらの山々ができた。
 ヒマラヤ山脈の誕生のときも学んだが、歴史を大きくとらえると、おもしろいことがわかる。仮に1000メートル級の山であっても、100万年でできたとすれば、その隆起スピードは年1mmにすぎない。また、このような隆起は現在でも日本列島のあちこちで見られる。
 つまり、地球は今でも絶えず変化している、生きているのである。立体授業の化石採集地は約1500万年前の地層と云われているが、その間、もし毎年1mmずつ成長している山があったとすれば、現在標高15000メートルと云うような、飛行機が飛ぶ高さを超える、とんでもない山ができていることになる。

サヌカイトと1500万年前の火山活動
 サヌカイトという名前は外国人の命名だった。今から100年以上前、ナウマン象でおなじみのドイツのナウマン教授が、ドイツの学術誌に「日本の讃岐地方(香川県)に、カンカンと澄んだ音を立てる珍しい石がある」と書いて、そのサンプルをワインシェンクという知人の学者に届けたことによる。それを調べたワインシェンクが岩石学的にも珍しいタイプだと、1891年に「サヌカイト(讃岐の石)」と名付けた。
 それはサヌカイトが火山岩で安山岩であるにも関わらず、安山岩に特徴的な大きな結晶(班晶)と小さな結晶(石基)の区別がないガラス質であることだ。これはサヌカイトが特に急冷されてできた石であることを物語る。ガラス質は黒曜石などと同じく、鋭い刃をつける石器に最適だ。そのため、サヌカイトは、名前で有名になった香川県産ばかりではなく、みんなも知っている二上山産でも旧石器時代から弥生時代にかけて、さかんに石器に利用されていった。
 なお、香川県下では、7カ所でサヌカイトが見つかっているが、その成分の微妙なちがいにより、それぞれの産地が特定されるという。サヌカイトは、類似の石もあわせて『サヌキトイド』と総称される。

 サヌキトイドは、この二カ所に終わらず西南日本の数カ所で発見されている。また香川県下の1300万年前をはじめとして、生成されたのが1400から1200万年前の間だけであることがわかっている。それはサヌキトイドがふつうの安山岩によく見られる化学組成以外に、マグネシウムを極端に多く含んでいること(学会での呼び名は、高マグネシア安山岩)から判明した。
 マグネシウムが多くなるには、マントルの物質に多くの水が供給されなければならないというが、この時代の少し前、1500万年前くらいからアジア大陸にくっついていた日本列島が日本海の拡大により太平洋に向かって押し出された時期があったという。それによって太平洋の水をいっぱい含んだ堆積物の上に乗り上げ、その堆積物が日本海溝からマントルに引きずり込まれ、マントルに水が供給されたからと想定されている。そのため西南日本に一時的にサヌカイトのできやすいマグマが発生したと云うわけである。
 1500万年前の日本列島は二上山近辺に限らず、現在の地形で云えば、屋久島から九州・瀬戸内海・四国の足摺岬をこえ、紀伊半島の奈良・三重県境の室生を抜け、千葉の銚子あたりにかけて短い期間であるが、全域にわたり火山活動が起った。渓流教室で、赤目の地勢を学習した時にも述べたが、先の室生をはじめ、大和三山の畝傍山・耳成山や生駒山周辺も激しい火山活動があった(左図は「上記「大地のおいたちより))。

 二上山は約1300万年前には活動を終えたが、その間サヌカイトなどの安山岩の生成だけではなく、屯鶴峯の白い凝灰岩の景観や、石切場火山岩(シソ輝石ザクロ石黒雲母デイサイト)と呼ばれる岩石にザクロ石を大量に含むような地殻変動が続いた。それらの岩石が長い間に風化し、周辺にザクロ石が大量に堆積した。「金剛砂」である。
 これらは平安時代から昭和初期までさかんに採掘され、利用されていた。平安時代には天皇の住まいの御所の敷き砂としても利用され、室町時代には、特産品として税の代わりに納められた。江戸時代の終わりには、瑪瑙の研磨用として利用され、その後戦闘機のガラスを研くのに利用されたり、サンドペーパーの材料として盛んに使われた。

 金剛砂の中にはザクロ石ばかりではなく、サファイアや石英・ジルコン・紅柱石など、さまざまな小さな鉱物が含まれているが、このサファイアを産する元の岩石は見つかっていない。しかし、この石切場火山岩に「捕獲岩」となっている片麻岩礫の中に含まれているのではないかと考えられている。


石ころと星・宇宙の誕生と死⑳ 立体授業 「二上山の三つの石」Ⅰ

2017年09月30日 | 学ぶ

君には、この美しさがわかるか? 
 ぼくには画家の友人が一人いるが、時々承服できかねることを云うんだ。
 花を一輪取り上げ、「ほら見ろよ、なんて美しいんだ」。ぼくも、そう思うから、うなずくとする。
 すると、やつは「ぼくは画家だからこの美しさがわかるがね、君は科学者だから、ばらばらに分解して、てんでつまらないものにしちゃうんだろ」。何とも、とぼけたやつなんだ。(THE PLEASURE OF FINDING THINGS OUT /Richard P. Feynman p2 拙訳)
 

 皮肉屋で自信家(であろう)画家の友人がファインマンをからかった時の一コマです。ファインマンは、こう反論しています。
 
 まず、彼が見ているような美しさなんてものは他の人だって享受できるし、ぼくもわかると信じている。彼ほど芸術的に洗練されたものではないかも知らんがね。だけど花の美しさなんてわかるもんだよ。それより、ぼくは彼が見ている花について、同時にもっと多くのものを見ているのさ。そこにある細胞の姿だってイメージできるし、そこにも同じように一つの美しさがある、内部の複雑な細胞のはたらきもイメージできるんだ。つまり、美しさというものは、単にセンチメートルの範囲に限られたものではなく、もっと小さなもの、内部構造にも同じように存在するものなんだ。(同書・拙訳)
 

 ファインマンの面目躍如、というところです。これに似たようなことに出会いました・・・。

リトル・ファインマンへ
 先週、子どもたちと課外学習「二上山と三つの石」を実施したのですが、さまざまな案内本を見ても、「サファイアやガーネット」について、「赤い砂粒」だの、「3~4時間かかって1ミリの青い粒(サファイア)2・3粒などと、「文句タラタラ」が目につきます。
 いったい何を期待してるのか? 一獲千金の宝石を日本で見つける可能性など、万に一つもないでしょう。一獲千金を目指すなら、宝くじを買うか、あきらめて一層真面目に働きなさい(笑い)。

 小さな子どもたち(と子どもの心をもった大人たち)が手に入れるものは、「地球」という「これ以上ない大きな宝石」に気づくことであり、「学ぶおもしろさ」という「大金塊」です
 それは「道端に転がる石」が、実は「捨て置けない存在である」とわかることであり、小さな川の砂をパンニングすることで「地球」や「火山のしくみ」に興味をひかれ、火山岩や火成岩やケイ素・鉱石などという「勉強の範疇に閉じ込められている」学習内容や学習対象を、「自らの仲間として再認識すること・解放すること」なのです。お金に換えられない、こんな「かけがえのない宝石」はありません

 写真を見てください。これは目的地からパンニングして持ち帰った小川の砂ですが、そのまま見ると、「少し赤っぽい細かい砂だな」、「つまらねえ」という思いしかないでしょう。
 たいていの人は、この中から赤い小さなガーネットを丹念にピンセットでつまみ出し、「ため息」とともに「数十粒の情けないコレクション」に収めてしまうのかもしれません。「ひと時の慰み」です。子どもたちも、「なあ~んだ」で終わりです。
 もう少し先に進みませんか? パンニングして持ち帰った砂を、白い大きな紙に広げて、風で飛ばないように乾かし、乾いたら、その一部を少し倍率の高い拡大鏡で覗いてください。
 「ワオ!すげえ~」というセリフが子どもたち(子ども心を失わない大人、そういう人がそばにいることが、リトル・ファインマンを育てます)の口から洩れるはずです。

 「小汚い砂の集まり!」だと思っていたものが、信じられないほど多量の微小なサファイアの粒とガーネットやジルコン、各種鉱物の「塊り」であることがわかるはずです(写真は後日披露します)。それによって、地球上で「石」は様々な形で存在し、生成と消滅を繰り返していることがわかってきます。そしてそこには、たぐいまれな美しさと儚さも顔を覗かせています。
 さあ、お父さん・お母さん、子どもたちと一緒に砂粒(?)を集め、鉱物事典や宝石事典を開きましょう。
 
立体授業「二上山の三つの石」テキストの紹介
 立体授業「二上山の三つの石」のテキストは、まったくの新作になったので、課外学習までに間に合わなかったのですが、もうすぐ完成します。その中から一部紹介します。
 ここでは比重や大津皇子のことにも触れています。なかには、「むずかしい」という反応があるかもしれません。しかし術語や人名だけの中身のない暗記と、「むずかしいけどおもしろい」興味や好奇心を引き出す体験とでは、どちらが子どものためになり、成長の糧になるでしょう。
 例えば、「万葉集」をいちばん古い歌集とだけ覚えて、何かおもしろいことが始まるでしょうか? 所詮テストの解答です。また、「比重」や「密度」を教科書で覚えて、何か役に立つでしょうか。やがて忘却の彼方です。
 「学習する内容が、日常の『もろもろ』といかに関係しているか」がわかって、好奇心や学ぶ意欲は駆動します。学習はすべからく、そこから始めるべきだと、ぼくは思います

二上山と大津皇子(おおつのみこ)
 現在の二上山は、大阪と奈良の県境でふたこぶラクダのようなやさしい山容をしているが、万葉集の歌にもなっている哀しい歴史がある。天武天皇の第三皇子大津皇子の逸話である。大津皇子は日本書紀や現存する日本最古の漢詩集「懐風藻」でも、その「人となり」や才能が高く評価されている。
 「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」。
魁梧(かいご)~大きく立派なこと。状貌(貌状)~姿や形。器宇~人柄・才能・心の広さ。峻~きびしい。遠~はるか・あまねく・奥深い。博覧~広く見ること、見聞が広いこと。属す(文)~作る、綴る。壮なる~元気盛んなとき、またその年ごろ。武~武芸・武道。多力~力がある、勝っている。剣を撃つ=撃剣~剣を使う技。放蕩~ほしいまま、わがまま。自由奔放。法度~法律・制度・礼儀。拘らず~は拘らない、関係ない。士~役人。礼す~敬う。付託~身を寄せる、任せる、頼りにする。
 先の読み下し文を解釈してみると、こんな具合である。
 「いかつく、体格と才能に恵まれ、小さいころから学問が好きで教養あり、文才にもあふれていた。青年期に至ると武芸を愛し、剣道にも秀でていた。自由奔放な性格で、些細な物事にこだわらなかったが、目下の人たちにも礼を失わなかったゆえ、多くの人に信頼され、頼りにされていた」。いかにも弱きを助け、強きをくじくヒーローとしての姿が目に浮かぶが、それが災いしたのであろう、悲劇的な最期を迎える。

 683年、天武天皇の死後、叔母だった皇后(後の持統天皇)が擁立する皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)に対する謀反の廉で捕えられ、翌日訳語田(おさだ)の家で自殺した(10月3日)。大津皇子が歴史に取り上げられるのは、その悲劇的な最期とともに、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)らの、彼を慕う歌が「万葉集」に残っているからである。
 
  現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは、二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(わ)が見む
  (拙訳 未だこの世に残っている私は、明日からあなたが眠っている二上山を弟だと見なければならないのですね、哀しいことです)
  
  磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たお)らめど見すべき君がありと云はなくに
  (拙訳 岸辺の岩のそばに生えている、この可憐な馬酔木の花を手折って、その花を見せようにも、もうあなたはいないのですね)
  

 いずれも、大津皇子が二上山の雄岳に埋葬されたとき、姉(大伯皇女)が弟を偲んでつくった歌である。 
 また、同じく万葉集に大津皇子の歌も残っているが、そのなかに「相聞歌」という、男女の愛の掛け合い歌が残っている。
 まず、大津皇子が
 
  あしひきの山の雫(しずく)に妹(いも)待つとわれ立ちぬれぬ山の雫に
  (拙訳 大好きなあなたを待って長い間、山のなかの木の下に立っていたら、落ちてくる雫で濡れてしまったよ)
 
贈ったこの歌に、相手の女性石川郎女(いしかわのいらつめ)が、またかわいい歌を返している。

  吾(あ)を待つと君がぬれけむあしひきの山の雫にならましものを
 (拙訳 そうなんですか、私を待ってくださってあなたがぬれてしまった、その雫に、ぜひなりたいものです)

 感性豊かで行動的な大津皇子が歌の才能もにあふれ、女性にも好かれたことがよくわかる。また教養あることが、いかに「粋(かっこいい)」かもわかるだろう。その大津皇子の墓が二上山にある。

パンニングと比重と密度
 竹田川でサファイアやガーネットの粒を集めるのは、お盆のようなお皿を使った図のようなパンニングという方法による。これは川で砂金を集める昔からの方法でもあるが、集めるものの重さが他の不要なもの(砂など)より重い場合に使う方法である。水の流れを利用してお盆を揺らし、浮き上がった軽いものを流し、重いものだけを集める方法である。
 冒頭の地球の構造の説明で、花崗岩質は密度2.8g/立法センチメートル、玄武岩質は密度3.0g/立法センチメートルという説明が出てきたが、そのあと長石の比重2.6、石英の比重2.7と、比重ということばもつづいている。「花崗岩質が陸地側のプレートの中心になり、玄武岩質がそれより重いので海底の・・・」ということから考えると、「軽さ」と「重さ」に関係している術語だとわかるが、それでは軽い・重いとはどういうことどういう意味だろう。また、どうして判断できるのだろう。

 たとえば、君たちが太っている子をデブとか云って揶揄うが、身長145㎝で40kgの子どもより170㎝で60kgの大人の方が、体重は重い。ところがイラストを見ても、この大人の人をデブだとは思わない(言わない)だろう。つまり、「重い・軽いは、単に重量(重さ)だけでは比較できないことがわかる」だろう。それでは、重い・軽いを、どうして判断するのか?
  吉野川の「もち鉄探し」は、川原で最初石を拾ったときの「感覚」が始まりだった。小さい石ころを拾って、「この石は重すぎる」と感じたからだ。それでは重すぎる、とは何に対してだろう? 小さい頃から川原でたくさんの石をつかんでいた経験から、「この大きさの石がこんなに重いわけがない」と感じたからだ。つまり「ものの重さ」を他と比較し、重いか軽いかを決めるためには、そのものの大きさ(体積)を基準に入れなければならない。綿1kgと鉄1kgでは、どちらも同じ重さだから、どちらが重いとは云えない。なお、この1kgの綿と鉄をのせられるような上皿天秤があると、ふつうは鉄の方が下がるのだが、それはどうしてだろう?


  さて、このように重さの比較をきちんとできるように、その体積をきめ、それに応じて重さを考えたものが密度である。つまり、花崗岩の(平均)密度が2.8g/立法センチメートルというのは、花崗岩は体積1立法センチメートルで約2.8gという意味である。
  それでは花崗岩の比重が2.8だと云った場合はどういう意味だろう。このように、ふつう使われている比重は「液比重」のことで、これには『水』の密度が関係してくる。水は一気圧・温度4度Cのとき、密度は1g/立法センチメートルである。(液)比重は物質の密度を、この水の密度で割った数字の比(比の値)なのである。つまり、花崗岩の密度2.8g/立法センチメートル÷水の密度1g/立法センチメートル=2.8.したがって、数値は密度と同じでも単位はつかない。比重には特別なときに使われる空気との比較の『蒸気比重』もある。

 なお、比重は一般的には固体のものに対してよく使われるが、物質は固体・液体・気体と云う三つの状態がある。ふつうは、この順番に同じ質量でも体積が大きくなるので、密度は小さくなる。つまり同じ物質の体積は同じ質量では、固体<液体<気体と大きくなる。したがって、その密度は同じ物質でも状態によって固体>液体>気体となる。
 ところが水だけは体積が液体(水)<固体(氷)<気体(水蒸気)の順になり、その密度は液体>固体>気体と変わることに注意しよう。また、水は温度によっても体積が微妙に変わり、4度Cの時にいちばん体積が小さくなる。したがって、密度も4度Cでいちばん大きく、比重も重い。特殊な物質である。氷が張った池の底でも凍らず魚が生きていけるのは、水の底は、いちばん重い4度Cの水だからである。
 なお、この密度の場合の単位当たりのg数は質量である。gは「『重さ』の単位ではないか」と思うかもしれない。質量とは何か? 重さとどう違うのか? 今度は、それを調べてみよう。

 「重さ」はふつうkgやgと云われるが、正しくはg重、kg重とあらわす。この重さは地球上の高度、高い場所と低い場所では異なるし、緯度によってもちがってしまう。つまり、「はかり」では量る場所やはかりの種類によっても異なってしまうのだ。それは地球の引力が高いところでは弱くなり重力が小さくなるからである。たとえば月にいけば、引力は地球の6分の1なので、同じものの重さが地球の6分の1になる。
 厳密な測定を必要とする場合は、ふつうのはかりでの重さを基準にすることはできない。そのため、最大密度つまり4度Cでいちばん重くなる時の水の量1000mlを1kgと定め、その基準となるkg原器(白金とイリジウムの合金)が1875年各国の条約に基づいて、世界で定められた。

 質量は上皿天秤で量るが、上皿天秤の分銅はこれに基づいてつくられたもので、これによれば、ほぼ正しい質量がはかれることになる。それでは、上皿天秤で、どうして正しい質量がはかれるのかわかるだろうか?
 なお、学習指導内容が多岐に広がるため、手に余る誤謬や誤解があるやもしれません。お気づきのところがあれば、ご指導いただければ光栄です。


石ころと星・宇宙の誕生と死⑲ ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~Ⅱ

2017年09月23日 | 学ぶ

THE SCREENWRITER'S WORKBOOK 
 人生で残された時間も、一日の時間も、ともに少なくなっていく中、やりくりしてシナリオの「勉強」も続けています。今読んでいるのは、「THE SCREENWRITER'S WORKBOOK」と、その邦訳の「素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック」(シド・フィールド著 菊池淳子訳 フィルムアート社)です。

 シド・フィールドのシナリオ本は、とても参考になります。シナリオを書くには「何がたいせつ」で、まず「どうすべきか?」を懇切丁寧に述べていきます。丁寧すぎて、時に諄くなり、「かえってわかりにくくしている」部分はありますが、これも「どうしてもシナリオを書いてみたいのだが、どうしてよいかわからない」という人たちを思ってのことでしょう。お勧めです。

 気に入った映画を「くりかえし」見て、この本を「繰り返し」読んで、そのスタイルを頭の中で辿れるようになれば、シナリオの「習作」は書けるでしょう。その「繰り返し」で、「歴史に残るようなもの」ができるには「才能がものを云う」と思いますが、ある程度のものは、きっと書けるようになるでしょう。「学習はすべて繰り返し」です。
 「本人も作品もレベルが低い指導者やスクールの、訳が分からない」御託を聞いているより、この本を始め、良い指南書を「繰り返し」読みましょう。ポイントは「学体力」です。高い金を出しても、ひとりでできるようにならなければ、結局挫折します。ひとりで、「振り返りながら」続けることです。

 この本を読んでいて、若いころ、ひとりで写真を始めたころを思い出しました。
 表紙の破れた「現像法の本」を古本屋で手に入れ、ダーク・バッグや現像液をカメラのナニワで購入し、中古のペンタックスSPやニコンFEをぶら下げながら、ネオパンやトライXで撮影と現像に向かった日々。開店前の店を暗室に使って、現像液に浮かぶ画像をチェックした日々。
 みなさ~ん、やろうと思えば、自分でできますよ、何でも。必要なのは「学体力」です。逆に、「学体力」がなければ、何もできません。子どもたちに教えたいのはそのことです


 
 さて、たくさんありますが、この本の中の初心者や学習者へのアドバイスのひとつ。
 「脚本を書いている最中にかならず心に留めておくべきこと、それは『ドラマはすべて葛藤だ』ということだ。だがそれを忘れてしまう脚本家は多い。ストーリーを語るには、単にチェスの駒のように登場人物を動かせばいいと思い、葛藤に注目することを忘れてしまう」。(「素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック」(シド・フィールド著 菊池淳子訳 フィルムアート社 p112)

 そして、「葛藤」とは「対立」で、その葛藤を生み出すのは、登場人物である。葛藤を生み出すにはその登場人物にはっきりしたドラマ上の欲求がなくてはならない。その欲求や目的の達成を邪魔する障害をつくると葛藤が生まれる。登場人物が強烈な価値観をもつ人間である場合は、相反する価値観をもつ登場人物をつくると、両者の間に強烈な葛藤が生まれる。葛藤には物理的な葛藤と精神的な葛藤があり、どちらも重要であるが、登場人物は何とか目的を達成しようと努力し、障害を乗り越えていく(そういうストーリー・映画をつくればよい。下線・ 補足は南淵)。

 これができれば脚本づくりは、半分終わったも同然です。いや映画の脚本だけではなく、あらゆるストーリーづくりに応用できます。しかし、そのためには、まずどうすればよいか。シド・フィールドは「登場人物の、生まれてから今までの年表をつくれ。その人生を考えろ」と云います(倉本聰さんもやっておられるはずです)。

 年表のなかでも、特に九歳から十八歳の間に起こった出来事で、ストーリーに大きな影響を与えるものをCircle of Being[CB:トラウマを引き起こす事件 シド・フィールドの造語でしょうか]という。人格が形成されるこの時期に起きた事件―たとえば親や愛する人の死、精神にも肉体にも深い傷を残す虐待、見知らぬ土地へ行くこと等―はトラウマとなって、人生全体に影響を及ぼすことがある。
 登場人物を、パイのような円形(circle)だと仮定しよう。その一切れ一切れ(piece)は、人格形成に影響を与える出来事であり、そういった事件や出来事が集まって一つの円(=一人の人格)が形成される。・・・どんな出来事が、精神的・社会的・政治的・神秘的・知的トラウマを起し、登場人物の人格にどんな影響を与えたのかを考えてみると、人物像に深みや陰影が出る。(前記書 p116)

 創作するにはとても参考になる指南書でしょう。シナリオの指南書は様々見ましたが、約300ページを読み切る学体力は問われますが、この本、初学者にとって、最良の本のひとつです。
 
「ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~」に育つのはなぜ?
 さて、先週「子育て」は毎日のことであるがゆえに、感覚の鈍麻(それ以前に基準があやふやな場合も多いかもしれませんが)、「『自分の子どもに限って』というところに感覚が落着いてしまうほど怖いことはありません」と述べました。
 先のシナリオの登場人物の人格づくりは「他人事」ではありません。現実の子どもたちは、日々もっと些細な保護者や周囲の人たちの一挙手一投足を見て、自分の人格形成の「肥し!」にしていきます。礼節から始まり、毎日の出来事や周囲の判断基準をしっかり心に留めながら。ぼくたちは、日ごろ、そういう点まで意識して子育てをしているでしょうか。
 ちょっとひどい例ですが、身近で起きた事件で、「『ワオ、ワオ、ワオ。耳ダンボ~感覚』とはどんなものか」、参考にしてください。
 

 夏期講習の終盤、都合で授業時間が二時間延びることになりました。夕食の用意をしてこなかった子もいるので、「おなかがすくと思う人たちは何か買ってきてもいいよ、もしお金をもってきてなければ、貸してあげるよ」とぼく。
 「夏期講習の期間、教室で勉強してもよいですか」と言っていた中一のOBと小学生の弟が、「何かお腹の足しになるもの」を買いに行くことになって、ぼくが「千円でいいかな」と渡しました。受講している6年生三人と5年生もそばにいました。

 近くのコンビニに行っておにぎりを買ってきた兄が、おつりとレシートをぼくに渡そうとするので、「小銭をもらってもややこしいから、そのまま持って帰って、お母さんに話して千円持ってきてくれたらいいやん」とぼく。
 兄の方が弟に、なぜか、「お前が持って帰ってくれ」と云いましたが、弟が拒否したので、彼はみんなの前で自分の右のポケットに入れました。
 約一週間たってもお金が返ってこないので、4年生の弟に、「この間の千円、お母さんにゆうた?」と聞くと、「まだです」。「じゃあ、お母さんにゆっといてな」とぼく。

 次の日です。
 4年生の弟が、「先生、お母さんがこれもって行って、って」と、レシートとレシート記載分の小銭をもってきました。「あれ、違うやん、兄ちゃんに、小銭ややこしいから、お母さんに全部渡して、千円持ってきてくれたらええやん、あの時、そうゆうたやろ」とぼく。彼は「はい」と、そのまま持って帰りました。
 次の日です。弟は、「お母さんがお兄ちゃんに訊いたら、これでいい、ゆうた」と、また「小銭とレシート」です
 「ちがうやん」(その時ピンときました)。「おつりも渡してんねんから、千円持ってこな、あかんやん」とぼく(問題は金額ではありません)。
 すると、弟は千円を出して、「もし先生がちがうってゆうたら、これ渡しって」。違うも違う、大違いです。
 「いいや、それでは、そのお金受け取れんわ、じゃあ、今日、兄ちゃん、晩来るはずやから、兄ちゃんに理由聴くまで、ここに置いとくわ」、とみんなの見えるところに置いておきました。

 その晩OB教室に件の兄ちゃんが来ました。
 千円出して、「せんせ、これお母さんから預かってきました」。
 そんなはずはありません。お母さんが弟にレシートと一緒に渡しているのですから、二重に渡すはずはありません。どこか(何か)で嘘を言って都合してきたのでしょう。
 「これどこから、もって来たん?」とぼく。
 「えっ、お母さんにもらいました」(きっと嘘はないんでしょうが、その理由は別だったはずです)
 「そんなはずないやろ、弟が今日、お母さんにもらったゆうて、小銭もって来たのに」
 「ええっ? ぼくがもらいました、今日。・・・弟は、いつもってきたんですか!」と大慌てです。
 「だから、今日や、って」
 「・・・」彼の動揺は収まりません。しかし、「云っておかなければならないこと」があります。

 「・・・S(彼の名)な、失敗やまちがいや、ふとした出来心なんて、誰にでもあるんや。・・・だいじなことはそこでそれを認めて、これからの糧にすることや。センセは、基本的に悪人はいない思てる。嘘ついたままやったらナ、それが一生心の澱になって、顔つきが変わってくるんや。写真やってるから、ようわかんねん。目がちがうんや。顔が変わってくる。できればそんな顔にはなってほしいない。そんな人増やしたないから、塾はじめたんやで」
 「だから、やってませんて」
 「だけど、あの時、他にやり取り見てた子、いっぱいいるんやで、FもNも、みんなおったやん、みんな見てたで。正直に言うたらええやん」
 いきなり、「ワオ、ワオ、ワオ~。ダカラヤッテマセンって!」大泣きです。その姿は、中学生の姿ではありません。埒があきません。
 何日か反省すれば、きっと気づいてくれるだろうと、その場を収めました。
 

 数日後、彼のお父さんから電話があり、話があるということ。ぼくは授業後、来てもらえるように、時間を指定しました。しかし、当日授業が終わってからも学習を続ける6年生がいたので、ぼくはその子たちにも残ってもよい、と許可しました。「正しいことを覚えてもらいたい」、という気持ちもありました。

 お父さんは、型通りのあいさつのあと、
いきなり、「S(本人の名)は、あの時のこと覚えてない、記憶にないというんです。記憶にないというのでは叱れません。先生、それを認めてください、覚えてないというんですから
 まるで、質の悪い政治家や官僚と一緒です。
「ここにいる子たちもそばにいて、ずっと見てたんですよ。じゃあ、そのお金は、どこへいったんですか? ぼくが嘘をついてるんですか?」
「いや、そうは言ってません」と、訳の分からない返答です。
「それじゃあ、他の子が盗ったことになるんですか? みんなの見てる前で」。
おとうさん「・・・。いや、彼が盗ってはいない、と云うことをわかってほしいんです」
「それは無理ですよ、とても。他の誰かの責任になりますから・・・」。
「でも、Sは覚えてない、記憶にない、というんですから・・・」と、お父さん。
延々、その繰り返しです。
 このままでは、子どもと同じで埒があかない、そして、このままでは責任をもって指導もできないと思ったので、
「じゃあ、こうしましょう。神様がいるか、いないかわかりませんが、神様が知っているから、もういいじゃないですか。ぼくのことを神様も見てるし、S君も、もし自分がやっていなかったら、神様が知ってるからそれでいいよね。だから、それで卒業してください」。(ぼくは神様がいるとすれば、それぞれの『心の中にいる』と思っています。)
 ちなみに、このお父さんは高学歴で、開業している方です。「信頼がいちばん」の仕事のはずです。S君が団に通っていた5年間、お父さんは、一度も懇談には顔を出したことがありません。
 S君が入団した時、飛鳥の「クワガタ探し」で、こんなことがありました。
 ひとりの団員が川で足を怪我したのですが、動脈が切れたのでしょう、血が止まらないので、偶々車で同行していた団員のお父さんとぼくとで、橿原市の救急病院まで送りました。手当をしてもらい宿舎に帰ると、彼ともう一人の団員が、なんとお風呂(!)に入っていました
 ぼくは「仲間が大変な思いをしているときに、帰るのを待たずに勝手に風呂に入るとは何事だ」とこっぴどく叱りましたが、付き添いのお母さんが、もう一人の付き添いのお父さんにお風呂に入ってよいかを尋ね、そのお父さんが勝手に許可をしたようでした。しかし、その「是非」は、ふつうなら常識で判断すべきこと(できること)だと思います仲間や相手のことを気遣ってあげる、思いやりの気持ちはそうした小さいころからの気の遣い方で身についていきます
 そういうところからはじめて、一生懸命指導を続けて難関校には入れましたが、だからどうでしょう? みなさんは、これらの行動を、どう思いますか? そして、これらの原因になっているものは何だと思いますか。
 先週の例もそうですが、「世の中には、いろんな人がいますからね」で、済ませられる例ですか。

 一人の人間が社会人として身につけておかなければならないことは何でしょう。そして教育とは「だれをどうすること」でしょう。
 いろいろな考え方があるかもしれませんが、ぼくは「同行の仲間が大変なときに、痛い思いをしているときに、自分だけ風呂に入ったり」、あるいは「全然関係のない仲間に、あらぬ疑いがかかるような行動を平気でするような人」は、増やしたくありません。自分のことしか考えられないおとなには育てたくありません。
 「そういう子には育ってほしくない」と考える、世の中のお父さんやお母さんと、自分のことと同じようにヒトのことも考えられるこどもをたくさん、たいせつに育てたいと思って指導しています。いやはや。

 「ワオ、ワオ、ワオ、耳ダンボ~」を育ててしまうのはだれでしょう? 子どもたちの指導は共通理解がないと、うまくいきません。じゃあ、その共通理解はどうして生まれるか? もう、今育ちつつある子どもたち一人一人を、きちんと育てていくしかありません、それぞれがよく考えながら。その「くりかえし」によって共通理解が「みんなのもの」になります。それはだれの責任であり、義務なのでしょう