『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて ⑨ 

2018年01月06日 | 学ぶ

良心は何処に
 遅ればせながら。明けましておめでとうございます。他塾では「正月返上のねじり鉢巻き」がふつうでしょう。団では毎年暮れの30日から年明けの3日まで休みです。

 「国語を『昆虫採集』してみないか」、「算数も『手づかみ』できるんだよ」のコピーとともに、このペースは20年以上続いています。学校が休みの間、冬期講習や夏期講習はありますが、ガンガンの「缶詰学習」はしません
 演習問題や宿題の量とおなじく、そんなもの、「指導の言い訳」や「料金のかさ上げ」の為ではないのか? ふだんから、きちんとしっかり勉強させておいて、入試前でも、正月は家で、少しゆっくりリラックスしましょうよ。「良心的」に子どものことを考えている先生方、そうではありませんか?

 「良心」で思い出しました。かつての「耳ダンボ」のエピソードも、その典型ですが、「最近の子育て」で目に余るのは、「悪いことをした子どもに責任を取らせない」、というしつけや仕業です。これは、しつけ以前の問題です
 隠す・ごまかす・とぼける・白を切る・・・など、やってしまったこと・失敗したことに対して、その結果を認め、反省させたうえで、きちんと謝らせ、悪いことは悪いことだ、ということを教えない。そういうことを「ないがしろ」にして、「社会できちんと一人前に仕事ができる大人」に育つのだろうか?
 「失敗や過ちは誰にでもあることだが、それでも『自分がやってしまったこと』だから、責任はとらなければならない」という「社会での基本中の基本ルール」を教えないで、どうして一人前の社会人として育つのか

 そういうことをすると、周りにも迷惑をかけるし、家族にも迷惑をかけるし、もちろん相手にも迷惑をかけ、嫌な思いをさせるという「言い聞かせ」「責任の取り方(面と向かって自分のしたことを悟らせる。責任はほかの誰も取れません。教えないと責任をとるということを覚えません)」「二度としないという約束」。それらを果たして初めて、社会は受け入れてくれます
 本人は責任をとらずにノホホンとして、その陰で困ったり悲しんでいる人がいることに、想いが至らない。他者に対する「思いやり」や「慮り」意識が、ドンドン希薄になっていってるような気がします。
 「自分さえよければいい、その場を隠し通せばいい、相手は関係ない」というような子育てや仕業は、やがて忘れたころに、とんでもない「しっぺ返し」が当人と周囲に降りかかるというのが、長い経験から手に入れた真理です。「天網恢恢疎にして漏らさず」。でも、残念ながら、そこまで想いが至らないから、起きることなんだろうな、合掌。

「正月休み」と「小石の学習」
 さて、正月、久しぶりに家族で顔を合わせ、橿原神宮に恒例の初詣に行きました。
 KAEDEの動向が楽しみだったのですが、やはり、参道の小石に興味をもってくれました。きれいな石英をまず集め、長石やチャートと・・・、「石の説明」のひととき。拡大鏡をもって行かなかったことを後悔しきり、です。
 子どもたちの、「石への興味を引き起こす(何につけてもそうだと思うのですが)」には、まず触れさせて、「それぞれのちがい」に目を向けさせること。そのとき、たとえば拡大鏡で、「ふだん見馴れていない姿」を見せること。それによって、もっと興味が深くなる・・・そういうことだと考えています。

 これら、身のまわりの小石や砂・土に気づき、その区別ができ、見つけた「謎」に思いを凝らし、「不思議」に思いを巡らすこと。「『環覚』が立ち上がるしくみ」です。はじめは石からはじまりますが、石では終わりません。その発想や考察のしくみは、あらゆることに共通するはずです。
 5~6年前、下市(奈良県)の「やすらぎ村」に課外学習の『下見』に行ったとき、宿舎裏手の丹生川の上流の川原が、「ほとんど丸くて平たい石だった」のに驚きました。川原一面に写真のような石が散らばっていました。

 「こんなところまで、どこかから『平たい石だけ』わざわざ運んでくる」というようなことはないはずだ。しかし、「そんなところで角が取れて平べったい石ができた原因」がわかりませんでした。
 不明のまま数年経ち、あるとき課外学習の資料をつくっていた際、その思いが、心の隅にずっと残っていたのでしょう、イラストに目が留まりました。海浜礫。海岸まで運ばれてきた石が、長い間波に揺り戻されていると、そのような石ができあがることがわかったのです。腑に落ちたうれしさ・気持ちよさ

 古い昔(まだ調べていません)あのあたりは海岸だった、そして石の大きさからすると、それほど「長くない川」が流れ込んでいた(はず)、というわけです。
 ぼくたちは、「謎」や『疑問』が解決すると「気持ちよく」なります。「快感!」を覚えます。
 「周囲に潜む謎や疑問が解けること」は、ぼくたちが「自らの生きていく環境に対してアプローチできること、不安が解消すること、対処法や利用法が獲得できること」という、「生きる(生きていく)方向にプラスにはたらく行動が可能になるから」でしょう。「快感」はそのためです(南淵説)。
 つまり、「『学び』は、本来それらを可能にするため生まれた行動」のはずで、受験は、その益をほとんどなしません。いくらやっても、「かりそめの快感」しかありません。
 「生きていくための意味!」とは、現実的に結びつきにくい。ですから学習の本来の意味と役割をもっと考え、子どもたちの学習指導を改革していかないと、「学習はどんどん地に落ちる」のではないでしょうか。

 橿原神宮の小石がKAEDEの心の中で、やがて、二上山のふもとの竹田川の金剛砂を仲間に引き入れ、吉野川の餅鉄や室生川のさまざまな火成岩を誘い、クワガタ探しでの腐葉土や飛鳥川の粘土を取り込むことで、平面的ではなく、自らと同じ地平に立つ立体的な「知の体系」として立ち上がってくれること。心から願っています
 さまざまな学校行事を散見して思うのは、そうして「『環境に目を見開く学習』がまだまだ足りない」と云うことです。よく見かけますが、例えば「お仕着せ」や「右に習え」の、味見や立ち食い目当ての課外活動に寄るべき、大きな意味や理由が果たしてどれだけあるものか? それより先生・生徒共々道いっぱいに広がり、通行の邪魔になっているという、心遣いを学ぶことの方がたいせつではないのか。
 『税金の無駄遣い』はよく聞きますが、一方で、さらにたいせつな『未来を担う子どものかけがえのない時間の無駄遣い』が相当見逃されているのではないでしょうか。

「どんぐり」が先か、「計算」が先か
 さて、KAEDEはトイレを待つ間に姿が見えなくなったと思ったら、いつの間にか参道のすぐ脇でどんぐりの「群れ」を見つけ、さまざまなどんぐりを拾っていました。いいタイミングと、割って中のようすを見せたり、殻斗を集めたり・・・ぼくも心休まるひとときでした。
 「身のまわりにあるもの(こと)に目を留められること」で不思議や謎が開けます。「不思議や謎が開けること」で、学習のモチベーションが機能します。それによって積極的な学習がはじまります
 エジソンが、訳のわからない計算問題や書き取り(おそらく)しか教えないエンゲル先生の授業に退屈し、授業中さまざまな不思議や謎を問いかけたのは、こうした理由だとわかっていただけたでしょうか。
 「知りたいこと」がたくさんあったのです。それらを無視されて、「そのときほとんど興味の持てなかったこと」ばかり、次々強制されたのです。

 計算問題や書き取りがたいせつなのは当然ですが、子どもがおもしろく感じるもの(決してゲームばかりではありません)を「少しも教えない」で、読み書きそろばん一辺倒では、やんちゃ坊主は誰でも嫌になり、当然反抗的にもなるでしょう。今の受験指導はどうでしょうか?
 エジソンは、幸運なことにお母さんが賢明だったので、本にも目を開かれ、少年時代に街の図書館の本を制覇するというチャレンジもしたようです。ここに、考えなければならない「どんぐりが先か、計算が先か」という問題があります。こういう学習の進み方の経緯を、ぼくたちはもっともっと深く考察すべきではないでしょうか。エジソンのことを「学習困難児や多動症」などという論評を否定できる根拠をもたないと学習問題の解決は成就できません。

 さて、神宮駅の切符売り場で、黄色の点字ブロックが目についたので、ふと思いつき、「これは何?」とKAEDEに問いかけました。知らなかったので、目の不自由な人のためのしくみを、棒を杖代わりにして考えさせました。
 駅の待ち時間には、名所案内のパンフレットに目を留め、紙飛行機を作り始めたので、一緒に作りました・・・それらの積み重ねが、少しずつ彼女の『環覚』を育ててくれるよう祈りながら・・・(カエデは「学(スッポン)に」と、紙飛行機のお土産をくれました)。

「どんぐり」から「奇数の情緒」
 もう十年以上前になりますが、吉田武さんの「奇数の情緒」を買いました。団で育った子どもが中学に進学したら、ぜひ読んでもらいたいと思ったのです。
 今まで京大に進学したY君やA君にも勧めたのですが、ちょっと手に負えなかったようで、手をつけたOBがいませんでした(毎年1~2人だし、勧められない子もいますので、ハハ)。

 今年N学園に入学したH君が国語の力があるので、「読んでみるか?」と勧めたら、「ハイッ」と早速持って帰りました。少しずつ読んでいるようです。「中学生であれを読み通したら相当だよ」と激励しています。
 先ほども書きましたが、エジソンだけではなく、多くの科学者が「少年時代」に、大人の本や専門書に読み耽るということが、なぜ行われるか?(ファインマン・アインシュタイン・マクスウェル・・・たいていの科学者はそうです)
 もちろん「身のまわりのものごと」に対する興味や好奇心が増し、知識欲が旺盛になるという前提がなくてはなりません。では、それはどうして起こるのか? 頭がいいからでしょうか? 決してそれだけではないと思います。
 頭がいい子はたくさんいますが、物語は読んでも、それらの本には見向きもしない子がたくさんいます。好奇心が機能しないからです。
 ただイメージするだけでも、明らかにそれらが、抽象的なまとめや概要の学習習慣からははじまらないだろう、ということがわかるのではないでしょうか。物語は読めても、科学書や専門書には「キャラクター!」は出てきません。みなさんはどうでしたか?
 教科書やテキストの、抽出した学習要項・まとめでは、覚えるだけで終わるのです。おもしろくない。『知りたい』に行きません(あっても稀でしょう)。

 好奇心は『学習対象や学習内容に書かれていないこと』からはじまります。以前も例を挙げましたが、「見知らぬ人の卒業アルバム」を見せられて興味がわくでしょうか? 見る気になるのは、恋をしていたり、「きれいな人」であったり、あるいは身内のおじいさん・おばあさんやお父さん・お母さんものでしょう。
 つまり、よく知っている人のものなので、興味を掻き立てられるわけです。そのもの、ものの全容、ものの本体を知っているから見たいし、『知りたい謎』が生まれるのです

 以前、石の組成で「ケイ素」のことに触れました。
 「なぜ地球にケイ素が多いのか」、というより「ケイ素ってどんなもので、何?」 という「疑問」が、学習年齢的にも、「教科書の『ケイ素』の文字」からはじまる子どもがどれだけいるでしょう。それらは、あくまで『述語止まり』で、記憶のストックに、そのまま収納されませんか? 使われないまま・・・。
 ところが、石英をはじめとする造岩鉱物の美しさ・実体に、「現実感」があれば、知りたくはならないでしょうか?  さらに、『知りたい』という精神状態になって調べはじめれば(そこまで上手く育てていると―つまり「学体力」が整ってくると)、「知りたい」を調べているうちに、その中から次の『新しい知りたい』が生まれる(というより、出てくる)のです。
 専門書にまで進むのは、科学者やスペシャリストとして知識や考察が深化していくのは、そうした「心のシステム」によって、だと考えます。「日ごろの自らの心の動き」を考えても、そう思えてなりません。そうした心が整ったとき、「奇数の情緒」から、さらに深化がはじまるのでしょう。
 「奇数の情緒」は決して受験勉強や入試問題からはじまるのではありません。それは「『どんぐり』からはじまる」のです
 さて「奇数の情緒」を読んでいるH君は学期末の成績で17番になってくれました。九州から帰ってきたお父さんに、「もう大丈夫ですよ」と報告しました。4日のことです。


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