『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く37

2018年11月03日 | 学ぶ

学びの森へ
 都心でも緑が多い公園は、昼休みや休日になるとみんなが集まってくる憩いの場になります。芽吹き・新緑・紅葉・落葉・・・。四季折々の自然の変化は人生の彩りをより鮮やかに、味わい深くしてくれます。

 ・・・知的空間というものを考えるときに、私がどうしても「自然」ということに関心が向いてしまうのは、自分が東京生まれだからかもしれません。こういう殺風景なところに生まれ育つと、自然の中にいることでどれだけ心が癒されるかということを、豊かな自然の中で生まれ育った人たちよりも、かえって強く感じます・・・
(「知的生活・楽しみのヒント」渡部昇一・林望著 PHPより)

 自然に癒される感覚は、ぼくたちの多くが共通してもっています。森や自然とぼくたちとの近しい関係は、恐竜をおそれて森の奥に逃げ込んだ小動物の時代から五千万年以上続いています。庇護してくれた森への敬慕の思いも身体の奥深くにしっかり根付いていることでしょう。
 生命の維持や感情の動きに関わる古い脳には、全身の感覚器官から受けとった情報を集積し、生きるための反応や行動を繰り返してきた歴史があります。遺伝子には森での生活体験や生命の維持に関わる歴史も刻印されているはずです。
 そう考えれば、自然や森で心が落ち着いたり、癒される感覚は当然かも知れません。自然は気の遠くなるほど長い間私たちの生命を養い、魂を育んでくれた「心とからだの故郷」ですから。
 その自然はぼくたちを癒してくれるだけではありません。子どもたちの健やかな成長にも大きく寄与してくれます。たくさんのことを教えてくれます。

森の音は賢母の声
 「森は、コミュニケーションの基本を教えてくれる」。この感想は、森に何度も何度も分け入った経験がなければ想像つかないことかもしれません。この「自然体験の回数の多寡」は子どもたちの体験の場合も一緒で、「自然体験ごっこ」では、ビールの「あて」や子どもたちの嬌声の原因にはなっても、得るところはほとんどありません。浸らないと見えてこないし、聞こえません。
 お互いの理解を深めるためのコミュニケーションでたいせつなことは、まず相手の意見を聴く姿勢です。夫婦げんかが好例ですが、相手の言うことを聴くようにしないと、聴ける状態にないと、会話は正しく成立しません。「森の声」も聞こえません
 「人が前に立って話をしたら、きちんと話を聴く」というのは、社会生活を送る上でも、たいせつなエチケットのひとつです。今、そういうしつけは、ほとんど無視されていますが…だからクラスの授業が成立しないということを、子をもつ親は自覚するべきでしょう
 森や自然はこれらの姿勢を育てるのにも大きなはたらきをしてくれます。体験学習を重ねて成長し巣立っていく子どもたちを見て、毎年そう感じます
 夏、渓流教室の散歩で森に入ると、森は子どもたちを「大聖堂」のように迎えてくれます。身体の奥に深く染みいるように香りが漂い、みんな、その静寂(しずけさ)に圧倒されます。
 歩を進めるとともに自然の力の豊かさや深さ・その包容力に気づき始め、子どもたちの心は敬虔な思いにさえ満たされていくようです。そのとき聞こえてくる森の音は、ひかえめな中にもそれぞれの主張がきちんとあり、心と身体に深く響いてきます。
 せせらぎの音は朝靄の森を抜け、驚くほど遠くまで涼やかさを運んでくれます。音にも透明感や儚さがあることは、夕暮れのヒグラシが伝えてくれます。
 森の音は子どもたちに、ぼくたちが生命(いのち)あることを見届ける心も準備してくれるのです。生命の存在や有り様(よう)を子どもたちに示してくれるのは喧噪ではなく、森の静寂(しずけさ)です
 人の話を聞くとき、田舎の子は都会の子に比べてうるさく騒いだり、話の邪魔をする子が少ないような気がするのは、気のせいでしょうか。
 自動車の音を始め、見境もなく無遠慮にがなり立てるようなさまざまな音に毒され、聴くという態度の成立そのものさえ困難になるような都会の日常。そのうえ、いやなものは聞かなくていい、見たいものだけ見ればいいと、音や画像を一方的にスイッチで遮断することがふつうになってしまった生活習慣。
 田舎の子は、そういう習慣に染まっている子が、まだまだ少ないからかもしれません。日々の静寂(しずけさ)の中で、小さくとも千変万化に主張する響きが子どもたちを育ててくれているのでしょう。自然の静寂は、「向かい合うものに対する」子どもたちの態度を変え、きちんと「聴く姿勢」も育ててくれるのでしょう。
 ちゃんと話を聴けない習慣や態度はコミュニケーションのエチケットに違反するだけではありません。話が聴けるかどうかは、さらに大きな意味ももっています。学習をスムーズに進めるために欠かせない条件が「話を聴くという姿勢ができていること」です。勉強できるようになるための原則です
 できる子というのは、たいてい「他人や先生の話を聴くことのできる子」です。「集中して聴く」という姿勢がないと、「考えること」は始まりません。「考える段階まで進めないから」です。「頭の中に入らないもの」を考えることはできません。きちんと聴くことができなければ学力の伸長など望むべくもありません。今はみんなそんな当たり前で、単純なことに気づきません。
 また、聴くことができる子は、問題に向かったときにも「答えなければならないこと」をきちんと読みとれます。相手を理解しようとする態度がともなわなければ聴けないからです
 もちろん問題を読める漢字力や読解力も必要ですが、話を聴ける子とそうでない子の注意力や集中力には大きな差ができています。さらに「しっかり聴くという経験を積み重ねること」によって「理解する速さ」もどんどん増していきます。
 螢狩りや渓流教室で森や里山の静けさと親しむ経験を経た子どもたちは、翌年、うららかな春の野辺、土筆ハイクでウグイスと出会うことになります。一生懸命「鳴きまね」をしているのがほほえましく、理由を聞く子どもたちから笑顔がこぼれます。
 でっかい筍掘り、田植えと春から夏の課外学習を重ねる間に、次第にウグイスらしく整っていく声は、子どもたちに自らの成長の姿もかいま見せてくれます。自らを振り返り、少しずつ自信が生まれ、その自信にともなって、さらなる目標が生まれてきます。
 成長しているという自覚があればこそ、責任の自覚も生まれます。優しさと他人に対する気遣いはそれによって生まれます。今そんな自覚がある人はどれだけいるでしょう
 「人の話をきちんと聞きなさい」という注意があまり聞かれなくなってしまってからずいぶん経ちました。子どもたちにとって森の音は、実に、やさしい賢母の声なのです

天才の卵、殻を破ったのは何か?
 自然のなかで遊びはじめる子どもたちの目はみるみる輝きを増していきます。
 里山・森・渓谷。エアコン・照明・ゲーム・テレビというふだんの人工的な環境とはまったく異質の開放感・空気感、光と生命に満ちあふれた世界がそこにはあります。
 緑と鳥の鳴き声・木漏れ日、あらゆるものが生きて動いている中で生きている子どもたちの感覚器官も鋭く立ちあがってきます。高揚感で、動作も機敏になります。
 生きることを学び、食べ物を手に入れる喜びを味わってきた祖先の遠い記憶が、自然との交流で蘇ってくるのかもしれません。生きていくための手がかりを求めるべく情報を入手するために、感覚器官が、はりきって活動を始めるのでしょう
 子どもたちとの自然体験は、視覚・聴覚・触覚・嗅覚、時には山菜や野生の果物の味覚まで、あらゆる感覚へのコンタクトをともないながら進んでいきます。五感全部が刺激されます。
 感覚器官のすべてで受け取る環境は深く心に残ります。刻々と入る全身の感覚器官からの情報を受けとることで、日常生活での感覚器官のはたらき方も大きく変わってくるでしょう。
 お父さんからさまざまな問いかけやレクチャーを受け、自然の成り立ちやしくみのおもしろさに気づいたことで、ファインマンの天才としての一歩がはじまりました。エジソンを天才に導いたのも、残念ながら学校ではなく、小さいころの、周囲の自然の不思議さとそれを解明していくおもしろさでした。
 自然体験の新鮮な感覚に触発されたことが、学ぶおもしろさに目覚める大きなきっかけになったことは明らかでしょう。子ども時代(おとなも)は自然を見るだけでも心が高鳴り、興味をひかれます。
 二人だけではありません。類似の豊富な自然体験によって数々の天才が生まれました・・・ガリレオ・ニュートン・ファーブル・・・自然の観察、不思議さに気づくこと、そのなりたちとしくみを究めるおもしろさが彼らの偉業のきっかけになりました。
 ニュートンは再婚した母と離れたさびしさを、自然の動植物や月や太陽の光の移動をじっと観察することで慰め、その不思議さと驚きや疑問から学問を進めるたいせつさに目覚めたようです。
 ファーブルの伝記からも、彼が最初から虫だけに興味をもっていたのではなく、近くの小川で、貧しい家計の足しになるとの思いから、金のように光る黒雲母やダイヤモンドのようにかがやく石英をいっぱい集めたほほえましい経験、魚や小鳥・キノコ・・・と、あらゆる自然のものを相手に遊び、観察を進め、育っていったことがわかります。マクスウェルもそうでした。
?NO ORDINARY GENIUS“にファインマンの妹で物理学者のジョアン・ファインマンのことばがあります。

 「かれのIQはふつうだったのよ。こどものころ、こっそりファイルでわたしたちのIQを調べたの。私が124で彼は123。だから、本当は私の方が頭がよいってことになるわ!」。(拙訳)                                      

 IQがふつうだったファインマンが希有な天才を発揮するようになったのには理由があるはずです。天才がひとりでに育つわけではありません。ひとりで放っておいても天才ができるなら、無数の天才が生まれたはずです。教育や指導が大きく影響したのです。その自覚がある先生はどれだけいるでしょうか?
 よく「卵が先かニワトリが先か」といわれますが、ニワトリを天才にたとえれば、どちらにしろ生まれなければなりません。天才の卵も殻を破るには「そったく」の相手が必要です。彼らが殻を破る大きな手助けになったのは自然体験・自然の中での遊びと、観察を通じた学びでした。少なくとも天才になってから自然体験をしたのではありません。
 また、そう考えれば、ふつうのIQをもつ多くの子どもたちも、ファインマンとはいわないまでも、大きな可能性を秘めていると考えることができます。子育てに占める自然体験のたいせつさは、いくら強調してもしすぎることはありません。
また受験勉強では天才は生まれません。もし生まれるのならほとんど天才になっているはずです。ぼくたちは、この理不尽を追究しなければならないいのに、目の色を変えて追究されているのは受験テクニックばかり。バカバカしい


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