『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

「学体力」が過保護を超克する⑦

2013年06月29日 | 学ぶ

「考えることを知らない」子どもたちⅠ
 約二十年の間、巣立ってくれるOB諸君の成長ぶりを見ていて、「自ら学習するという姿勢を養う」ことができること(つまり「学体力」が身につくこと)が学習指導では何よりも大切だということがわかりました。しかし、「自ら学習を進める」ためには、まず「考えること」ができなければなりません。

 

  ところが、「考えることができない子」「『考える』ということがわからない子」がいる。「信じられない」かもしれませんが、ぼくは塾で学習指導をするようになって、そう思うようになりました

 

 門外漢のぼくの乏しい経験では、学習指導でのこういう視点からの問題提起、また「考える」ということを正面から取りあげられたこともあまり見たことがありません。
 しかし現実に、頭が良くても「考えることができない」子は少なくありません。「それが頭が悪い子ではないのか?」。そう思われるかもしれませんが、決して頭が悪いわけではありません。しかもそういう子が少しずつ増えてきているのではないか、そんな感じがしています
 教壇に立っている人は、少し日ごろの生徒たちの様子を振り返ってみてください。たとえば、教室で生徒たちに質問や問いかけをする時です。思い当たることがないでしょうか。
 質問や問題・問いかけに対して、国語にしろ算数にしろ、本文をていねいに読むこと、あるいは図形の確認など解答するための材料に着目し、いったん自分の頭のなかに落とし込み、その後「問われたことに対する解答を紡いでいく」、あるいは「導き出していく」。そういう対応ができない。そんな子はいませんか? 
 頭はよく切れるのに、自分の思いこみ・自分が知っている知識のなかから、聞かれたこと・問いに対して、きちんと頭の中に落とし込む(つまり、考える)ことができず、「オウム返し」に答を用意する。
 考える習慣がない。つまり、「考えていない」のです。「考えていない」というより、「『考える』ということを教えてもらっていないからわからない」、だから「考えられない」とぼくは観じています。
 こういうケースは「自己主張の強い子」や「いつもちやほやされている過保護の子」に、特によく見られます。「人より注目されないと気が済まない」ので、「考える暇もなく、ことばが口をついて出てしまう・・・」。これらの『症状』は「性格の問題である」とほとんど野放しにされているはずです。
 子どもたちは『思いの他』の「まちがった答え」を連発することになり、周囲から「やっかいもの」として「冷たく」あしらわれ、そのうち「自信をなくしてしまう」。あるいは「嫌気がさしてしまう」。
 結果、学習に拒否感をもつようになります。きちんと指導をされないと、「わかる・わからない」以前に「考えるということ」を知らないで成長してしまう、ということになります。
 当初は勉強の好き嫌いだけだったものが、苦手なことによって「半ば強制的になってしまった」勉強による苦手意識の負の連鎖で、「考えること」そのものに対してストッパーがかかってしまう。

 日常生活や仕事ぶりを見ている限り決して頭が悪いわけではないのに、「俺は勉強が苦手やから」「わたしは頭が悪いから」という言い訳で、「考えることをしない」人たちをよく見ませんか? 考えて答を求める以前に、『考えることを放棄してしまっている』状況です。
 「考えること」に対するこれらの拒否反応は、小さいころの経験にその原因を求められるのではないか、そんな気がします。つまり、大人になるまで「少しがまんして考えつづける」ということに、「慣れること」ができなかった、ということになります。
 ぼくたちは考えるということがわかり、考えることをつづけていくなかで、その過程を楽しむことができるようになり、考えることも次第におもしろくなっていきます。「学ぶこと」も身近なことにするためには、「考えること」ができなければなりません。
 まず、「考えることを自らのものとする」ためには、小さいころの「しつけ(指導)」で、二つのことが大切になってきます。一つは「人の話を聴く姿勢」を育てること、また関連することですが、二つめは「がまんができる子」に育てること
 先ほどの「考えられない子」の例でもわかるように、「ちゃんと考える」ためには、聞かれたことをいったん自らの頭の中に落とし込まなければなりません。「きちんと最後まで話を聴け」なければなりません。小さいころは、ここでいささかの「がまん」が必要になります。
 また「むずかしいことを考える」には「がまんする姿勢」が欠かせません。たとえば、好きな科目であろうと、嫌いな科目であろうと、「何かわからないこと・むずかしいこと」を理解できるまで考えようとすると、「がまんすること」が欠かせません。

 引用は、ノーベル賞をもらった天才科学者ファインマンのことばです。「がまんをすること」のニュアンスがよくわかっていただけると思います。
 ファインマンはむずかしい項目に出会ったとき(小・中学生時代だと思われます)、一人で大英百科事典でその項目を調べたようです。そして次のように言います。

  どうしたかって言えば、はじめの二・三節でわからなくなっても、ともかく最後まで読もうと したんだ。ぼんやりした理解のままで、項目全部を読むんだ。それから、もう一度読み通すと 今までより少しわかるようになってる。自分が説明できるようになったものを除いて、最後までそのやり方を通すんだ。それからノートに書き留める、そうすると一丁上がりだ。
(No Ordinary Genius /CHRISTOPHER SYKES/W.W.NORTON p.33拙訳 )

 また、同じ書物のなかで、次のように書いています

  ぼくはいつも、そんなふうに独特だったんだよ。興味をもった主題は本を読んで手がかりを得ながら、ほとんどすべて一人で理解をすすめたのさ。
(同書p.33 拙訳)

 少年時に、むずかしい項目を「大英百科事典」(!)をひもといて調べ理解していった方法の紹介です。「わからないものを、むずかしい本で調べ、がまんしながら何度も考え、理解にまでいたる様子」です。
 天才ファインマンでさえ、こうなのです。何度も読み返し、理解する努力をつづけました。「読み返す、つまり何度も考えつづけた」のです。そして、それをつづけることができたので天才が開花したのです
 もちろん、ファインマンがこうした「自学」ができるようになったのには他にも理由があります。それについては後日、「子どもたちにとっての本当の教科書とは何か」を考える「夢の教科書」で紹介するつもりです。
 しかし、ここまで読んでいただければ、「がまんのたいせつさ」や「自らむずかしいことにチャレンジし追究することができる『学体力』の養成」が、子どもたちの学力の発達にとっていかにたいせつか、をよく理解していただけたのではないでしょうか?


「学体力」が過保護を超克する⑥

2013年06月22日 | 学ぶ

 

貧しくても手に入るものー子どもたちの「環覚」
 少し「もの」がなかった時代のことを考えてみましょう。

 物がなかったとき―「飢餓状態」や「着たきり雀」―の方が幸せだというわけではありませんが、振り返ってみると、小さいころ物が不足していたぼくたちは、頭や身体・時間を使い、不足を補うために手だてや代用品をそれなりに工夫した(できた)ように思います。いや、「せざるを得なかったこと」が思わぬ経験を生み、得難い体験となり、さまざまな知識や技能が身につきました

 

 

 ボタン付けは自分でできたし、よく切れた電気のヒューズも、自分で取り替えていました。牛乳と砂糖と小麦粉だけしかなかったものの、ホットケーキもひとりで焼けました。ボタンをつけた縫い針は、停電の時のロウソクや石油コンロ(!)の使い勝手と「合体」し、「焼き鈍し」や「焼き入れ」の知識を仕入れて、やがて「釣り針」に変化しました。

 将来の学習を考えれば、「小学生の学習対象は子どもたちの環境すべて」といっても言い過ぎではないと思います。子どもたちはそれらを味わい、踏み込み、駆け抜けることで成長していくわけです。その過程での思わぬ失敗経験や小さな怪我、あるいはうまくいったという経験が、行為する・行動するということに対してのメタ認知も養ってくれます。

 

 外では肥後の守一本あれば、釣り竿に限らず遊び道具をたくさん作れたし、土間に転がっていた五寸釘は格好の遊び道具でした。手元にあるもので、用途以外の遊び方を工夫できたのです。「高価な遊び」では決してなかったけれど、身のまわりの「もの」を使っての「遊びのイメージ」から始まる、「道具やものの身近さと手応え」は格別でした。「経験の総体」がちがうと想像力のはたらきや応用力・脳のはたらきは大きくちがってきます

 「昔の子どもたち」の意識にはなくても、当時、「ものがすぐ手に入る」現代では考えられないほど「多くのもの・得がたいもの」を手に入れていたはずです。今とちがって、生きていくうえでたいせつなこと、「自分で考えること・自分で作ること・工夫すること」等、かけがえのないものを数限りなく手に入れることができたのです

 

 ぼくの家も裕福ではありません。父親の長期入院で、家計は母の収入だけが頼りでした。冷蔵庫を開けても、今のように食べるものやおやつが入ってるわけではありません。小さいころは冷蔵庫そのものがなかったような有様です。
 自動販売機もなければお金もありません。山や野原で遊んでいて喉が渇くと水が飲める場所を探さなければなりません。ところが、その途中がこれ以上ないほどおもしろい「探険」なのです
 雌竹をかき分け沢沿いを歩くと、サワガニやヘビはもちろん、時には野ウサギや雉・山鳥にも遭遇します。幸いなことに、そういう場所には必ず、赤い茎でしっかり身の入った柔らかいイタドリが生えています。ウグイスのさえずりを背に、おやつ代わりに食べ、喉の渇きも潤しました。

 

 同じように、杏・ナツメ・グミ(ナツグミ)・ユスラウメやクワの実・イチジク・アケビ・たわわに実った小振りの柿など、真冬を除いて口にできるものを何かしら探すことができました。
 野池で釣りをしていると、ポイントに菱が生えていることもありました。ハリスに絡まった菱の実をそっと引き寄せ、固い皮を破ると上品な甘さが味わえます。

 

 好奇心旺盛なぼくたちは、小学二年生の時、醤油の小瓶と食塩の包みを手に川に向かい、やんちゃ仲間と、ドンコやオイカワを川岸で焼き、「にわか」活け魚料理店を開いたこともあります。次の日、おせっかいな誰かが神経質そうだった女の先生に報告し叱られましたが、翌日、また網をもって川に入りました。子ども時代は「全身で自然(環境)を感じる日々」が続いていたのです。
 「昔の小学生がさまざまな体験を重ねる時間と同じ時間に、今の小学生たちが経験することは『塾通い』・冷蔵庫からの『おやつ』・パソコンやカードでのゲーム」。こう比較してみれば、その「経験や体感の総体の相違、そして貧弱さ」がはっきりしてきます
 当時の「今では得がたい体験」からの情報が、ぼくの場合、学ぶおもしろさや学習に対する興味の喚起にも大きな意味をもっていた。そう考えられるのです。

 

 ぼくたちは見知らぬもの、見たことがないものの文字面の情報を整理し、学び、覚えるだけでは、興味が持続するものではありません。ただの暗記に終わるからです。好奇心が何に対しても醸成されてゆくとき、こんな不幸な学習はないのではないでしょうか。「ものがあること・情報がありすぎること」によって、身の回りのことすべてにたいして「一応」知ったつもりでいるが、おもしろさの根源は知らないという不幸です。知っているつもりでいるし、ものが多すぎるから「おもしろさを見つける環覚」が育ってこない、という不幸です。
 植物が生えている場所や季節、動物が子育てをする様子、そういうさまざまな自然の姿を見た経験が「環覚」を育て、学習の裏付けやバックグラウンドとなり、学習に、より親しみが湧きます。「よく知っているものが教科書に出てくるからおもしろい」のです。おもしろくなり、おもしろさがつづくのです。
 ふだんから学習対象に「なじみ」があれば、そのことについて教科書に書いている以上のことを知っているわけです。学習に対して、好奇心や興味が湧かないはずはありません。そういう経験が多いほど、「勉強そのものに対しても好影響がある」ということは十分想像できるのではないでしょうか。
 ぼくが「勉強することが苦痛ではなかったこと」を振り返り、団の子どもたちの興味が学習に向かい、多くの子が優れた学力を身につけ成長してゆく姿を見るにつけ、その確信を深くします。 経験の「総体」の量によって、学習対象に気づき、日ごろの想像力がはたらく元になる「環覚」の幅や感度は大きくちがってきます

 

「昔の子どもたち」はものがなかったから不幸だったのではなくて、幸せだったのです。「家庭の経済条件や学習環境・生活環境の相違によって、それらの貴重な経験や体験を生かすことができなかったこと」が不幸だったのです。それらが必ずしも、学ぶおもしろさ・大学進学や学力の伸長に結びつくわけではなかったことが何よりも不幸だったのです。かつてより学べる環境が整った今、指導方法によって経験の総体が増えれば、ぼくは子どもたちの成長・学力の伸長に圧倒的なアドバンテージが生まれると考えています
 団の指導をよく理解してくれている医師の友人がいます。ある日、小学生の女の子をもつ患者が来て、よい塾を探しているとのこと。ぼくの塾を紹介してくれたそうです。

  「子どもたちに、いろいろな体験をさせて実績を上げている塾があるのよ。田植えなんかもさせてるようよ」

  「田植えなんかはいいんです。女の子だから。勉強さえ教えてくれたら・・・」

 男女を問わず、学習指導に限らず、子育てから見ても、こうした判断は大きな誤りです。ぼくたちは見聞を広めチャレンジし、新しい環境や問題に対し自らの経験をもとに考察し解答し、その誤りや齟齬を修正しながら成長していきます。そうした経験と判断を積み重ね、広い考え方や行動力を身につけることができます。

 何も知らない子どもたちにとって、経験や体験を積ませることがどれほどたいせつか。思考することや判断・行動・もちろん学習に対しての強固なバックグラウンドは経験や体験によって、いかようにも育っていくからです。「人が生きるということは学ぶこと」です
 子どもの成長にとってほんとうにたいせつなことは何か。「子どもにちゃんと勉強させたい」のであれば、まず親が「子どもに勉強させる意味やたいせつさをきちんと考えるべき」ではありませんか? 「子どもたちを丈夫に育てたい」のであれば、「どういうふうに育てれば、丈夫に健康に育つのか」、人や情報に振り回されるばかりではなく、しっかり自分の行動と経験を振り返り、考えを進めることが必要ではないでしょうか。
 そうしてはじめて親子関係が正しく整い、子どもの素晴らしい成長が促されると、ぼくは考えています。


「学体力」が過保護を超克する⑤

2013年06月15日 | 学ぶ

「ものがあること」は幸せなのか?
 貧富の二極化がはじまっているといわれています。そんな傾向もたしかにあります。

 

でも、子どもたちが「食べるもの」や「着るもの」にも事欠く、つまり「着るものがない」、「食べるものがない」という家庭が、どんどんふえているというわけではありません。「小学校に弁当さえもって来られず、こっそり水を飲んでいた」というような話も今は聞きません。ものは有り余っています。
 「ものがあるから、今の子どもたちがうらやましい」。必需品さえ手に入れることがむずかしかった『昔のこども』たちからよく聞くことばです。

 しかし、はたしてそうでしょうか。「もの」があれば幸せでしょうか? 
 ブランド品に群がる人がみんな、それによって「最終的な幸せを得た」という話を聞いた人はいるでしょうか。憧れていたブランド品を買っても、しばらくすると次の新しい物、他人が持っているものが欲しくなったのではないでしょうか。
 「品物を手に入れることでは『精神の飢餓状態』を克服することはできないのではないか。所詮「代用品」ではないのか。それでは心を満たすことができないので「また、新しいもの・次のものを手に入れるが、それでも一時の満足感でしかない・・・」という堂々巡りに終わるのではないか。心からの満足感や幸せは手に入らないのではないか。

 ぼくは塾を始めてから、「ほんとうの幸福感」とは「昨日(前)よりわかるようになった・うまくなった・できるようになった」等という、「自ら自身のスキルが向上した・力がついた・能力が上がったという確認で得られる達成感・充実感」なのだ。さらに「そうした手応えによって可能になる、自らのこれからの可能性のイメージや描くことができる夢ではないか」と考えるようになりました
 以前、「赤ん坊の笑顔」の意味について考えてみました(ブログ「天使のほほえみが意味するもの」二〇一二年六月九日アップ分から引用します)。

 ・・・僕が特に注目したいのは赤ちゃんのあの、天使のほほえみです。見えなくなったお母さんの姿を見つけたとき、ハイハイが上手になって遠くまで行き着けたとき、また何度も失敗した後,やっとつかまり立ちできたとき・・・。
 もちろん一歩歩けたときの嬉しそうな笑顔。あの笑顔も、「生きるためのしくみ」から生まれるものだと考えられないでしょうか。
 ひとりでは生きていけない赤ん坊にとって、見えなくなったお母さんや庇護するものの存在を確認できるかどうかは直接生死に関わることです。庇護してくれるものがいるという安心感は何物にも代え難い大きな喜びでしょう。
 

また、はじめてつかまり立ちや歩き出したときは、自分の行動範囲がそれだけ拡大したとき・行動できるという自信が生まれたときです。つまり生きていける可能性が大きく広がったときです。生きるために備わっている心と身体のしくみに手応えや自信ができたときの快感。あの天使のほほえみのうれしさの秘密はそこにあるのではないか。
 生きるためのしくみに手応えが得られたとき、あるいはその有効性が確かめられたとき、またそのための行動を可能にするような手がかりが得られたとき。生きていけるという自信が生まれたときほど嬉しいことはないはずです・・・。

 つまり、何よりも「生命を維持・存続できる手だてや方法、またそれを手に入れることができるという感覚や確信によってこそ、この上ない幸福感が得られるのではないか」と考えるのです。

    「この快(報酬系―南淵・注)と不快(罰系―同・注)に関する脳の機能は、いわゆる高等生物 の場合、別の意味で自己複製に欠かせない機能となっています。なぜなら、有益な餌、有毒な 餌というものは、例外はあるものの、有益なものはおいしく、有害なものはまずく感じるように なっています。また、この餌場では有益な食料にありつけるということを快感という形で脳が感じ、別の場所では得られないということを不快という形で経験することは、極めて合目的な内容になっています。このように考えると、快と不快が、個体に維持や種の維持に大きな役割を果たしてきたことがうなずけると思います。そういう意味では、この脳の構造も進化の過程で研ぎすまされ、人間でもラットでも、機能や組織という基本が同じものとして保持されてきているのです。」        (「自己治癒力を高める」 川村則行著 講談社現代新書・一一〇ページ・文責・傍線は南淵)

 引用のように、脳には快感神経(報酬系)があり、主に生命維持を司っている脳幹部と脳のさまざまな部位と結ばれているようです。例外はあるものの、「生きるために有益なものは快感という感じで捉えるようなしくみ」ができあがっているということです。そうであれば、赤ん坊のしぐさについても、「生きる可能性が広がる」方向が、「快―大きな喜び」として進化してきたと考える方が自然ではないでしょうか。

 ぼくたちの最高の「快感」は、「生命を存続させること」つまり「生き延びることができること」に対する可能性の拡大によって得られるのであれば、赤ん坊に限らず、人間の潜在意識がほんとうにほしがっているのは「自らがこの世界で生きていくことができるという力」、この世界で生きていけるという自らに対する「効力感のはずです。その効力感が、何よりの「快感」、つまり、ほんとうの「幸福感」をもたらすのではないかと考えられます
 物を手に入れたからといって、それだけでは、必ずしも生命の存続が保証されるわけではありません。したがって、全身で喜べる幸福感は物では得られないのではないか。「ほんとうの幸せ」とは「自らがこの世界で生きていくだけの力がある」とイメージできたとき、実感が生まれたとき、「生きていくため」の自らの能力の向上や成長の実感得られたとき」と考えたほうが自然です。

 莫大な財産をもった資産家であれば、物で得られる、それなりの幸せを一生追いかければよいし、追いかけることが可能かもしれません。しかし、大多数はそんなわけにはいきません。いつの時代・どんな地域でも、「みんなが資産家」などということは考えられません。経済のしくみや歴史をさまざまなスケールで考えても、貧富の差が解消されるということは望めません。
 「ものを手に入れるから幸せ」という「幸せ感の確証のなさ」を考えれば、「物に対する執着」から少し離れ、『自らの知的能力・さまざまにパフォーマンスできる力を向上させる方の幸福感』に意識をシフトし始める方が「幸せになれる」と思うのです
 物を手に入れて幸福になろうとすれば「いたちごっこ」で、ストレスや飢餓状態を増幅させ、諍いを招き、不幸な状態をつくるばかりではないでしょうか。物に目を奪われ、物が増え、物が有り余るほど不幸な時代を招く、多くの人のフラストレーションがたまり、幸福感は薄れかねないのではないか、ぼくはそんな気がします。
 それより「『生きるしくみ』のなかにインプットされているであろう、たいせつな財産―「自らの知的能力の確認やその向上に喜びを見出せる―の方向に考え方の舵を切ること」で大きな幸せが得られるようになるのではないでしょうか
 さて、「物があることによって生まれる、もうひとつの不幸」を次週考えてみます。 


「過保護」を超克する学体力④

2013年06月08日 | 学ぶ

「過保護」で失ってしまうもの(3)ー「やりとげる力」

 ぼくは授業や課外の指導テキスト・テスト問題の作成・立体授業の企画や下準備など、すべて一人でおこなっています。こうした原稿を始め、さまざまな準備や連絡などもあり、なかなか時間がとれません。学習内容の予定や進度・子どもたちの理解度の確認も欠かすことができません。
 年に何回かは、残っている仕事を整理したり計画を検討したりの、まとまった時間が必要になってきます。連休を取らなければならないこともあります。そういうときは決まっている曜日以外の日に授業することになります。
 しかし、それぞれの家庭の予定もあることなので、できるだけ迷惑をかけないように、年間予定を作成し、それに基づき月間予定をつくり、事前に子どもたちに渡しています(別紙参照)。
 ずいぶん前の話になります。兄妹の塾生がいました。

 お父さん・お母さんは課外学習にも協力的で一生懸命でしたが、気になったのが、お父さんの「子どもに対するコントロールの甘さ」でした。わかりやすくいえば、ほとんど言うがままで「なだめて言うことを聞いてもらう」というやり方です。
 このお父さんに限らず、昔と比べて近年は、お父さんの姿がまったく正反対になってしまっているのです。「お父さんがにらみをきかす存在ではなくなり、横目で子どものご機嫌をうかがう」という感じです
 小学生特に低中学年で、きちんと常識を備えたおとなと同じように、ものごとの基準を正しく判断できる子はどれだけいるでしょうか。小さな子が規範を理解し、行動の基準を正しく判断できれば、教育・しつけ・指導はまったく必要ありません。ひとりの人間として、ものごとを正しく判断できるようになるために教育や指導があるわけです。
 今よくおこなわれているように、「子どもの意見をきく」という方法は、ひとつまちがえば「何でも好きなようにやりなさい」ということになりかねません。そうした方針で育てれば、身体も大きくなる高学年や中学生になると「自分でも他人からもコントロールできない子」に育ってしまうことになります。ちなみに、団は小学生の間は厳しく指導し、中学生になったOB諸君には「一人前の人格を認め、注意をしない、叱らない」と決めています。

 いつの時代でも、どの家庭でも、それぞれさまざまな事情があります。経済条件・家族構成・地域環境・教育環境などすべて異なります。その中で保護者はきちんと子どもを育てなければなりません。そこでたいせつになるのは、お父さんとお母さんで決める「我が家のポリシー」であり「憲法」です。
 他の家庭や環境とは条件が異なるわけですから、家庭で「何も考えていない」「判断の基準がない」場合、話はややこしくなります。「友だちの家庭と比べてクレームをつける」子どもに対して何も言えなくなります。「親ですから」有無を言わせず黙らせればいいものを、できないのが今の若いお父さん・お母さんです。
 「よい意味でも悪い意味でも」子どもの「芯」になる基準を提示することができません。それでは子どもは「野放図」になるばかりです。わがままにはなっても、しっかりした「芯」は育ちません。
 さて、女の子とお父さんのやりとりを見ていて、「やがて何か問題が起きるのではないか」、予感めいたものがありました。彼女は機嫌よく一年近く通ってきました。課外学習も楽しそうでした。塾が面白くなってきたのか、学校で「無二の親友!」を説得して一緒に習いに来ることになりました。

 ところが、この親友は、「友だちが行っている塾だという興味だけ」で通い始め、お母さんも本人も、「塾に通うこと」や「勉強」に必要性や意味を認め、関心があったわけではありません(地域柄か、そういう場合も珍しくありません)。そんな入団ですから数ヶ月後もたたないうちに無二の親友がやめることになりました。
 その頃前記のようなスケジュール上の理由で、三日間ぐらい(!)連続で彼女のクラスの授業が続きました。彼女は、それに「かこつけて」ゴネだしたのです。お父さんが来て、「M(娘の名)が予定のない日に授業があるから行かないと言っている。先生、Mに謝ってくれ」(!)。耳を疑いました。
 お兄ちゃんは二年間の指導で難関校に進学したので団の指導に信頼があったお父さんはやめさせたくなかったようです。しかし、予定表を出している団の授業時間にクレームをつけられても困ります。もちろん、謝るなんてもってのほかです。彼女の将来のためになりません。お父さんは、「あの子(彼女の友だち)が入ったのが余計やったんや」とボヤきながら帰って行きました。私立進学をめざしていた彼女ですが、やはり転塾後挫折しました。

 「やり遂げる力」のたいせつさがわからないままで「やり遂げる力がさらに必要になる」中学校へ進学しても、大きな成果は望めません。学習をスムーズに進めることはもっと困難になります。甘やかして「子育て」している家庭に必要な展望です。子どもはいつまでも、子どもではありません。 

 一生を通じてたいせつになる力、「学体力」。生きている限り、ぼくたちは学びつづけることになります。「生きていることは学んでいること」です。「好き嫌い」にかかわらず、「学びつづけること」で、おもしろくなかったことがおもしろくなる場合もたくさんあります。学ぶこと如何で人生は楽しく豊かにもなり、また貧しくさびしくもなります。

 「学体力」をつけるためには、「少々のことでへこたれない精神力」「やり遂げる力」も育っていなければなりません。人生が思い通り・理想通りにいくことは、ほとんどありません。「思い通りにいかないときもあきらめず、できるだけ理想に近づけるよう努力することが生きていくということ」だと思います。子どもたちにそれをいつ教えるのか。子どもたちがどこで身につけるのか。
 「あの子が悪い」のでも、「団の予定が悪い」わけでもありません。「子どもに対するしつけや指導の基準が悪ければ、子どもは夢を追うこともままならず、将来が大きく変わってしまう」可能性もあるわけです。

 

 


 


「過保護」を超克する学体力③

2013年06月01日 | 学ぶ

過保護を超克する「学体力」

 「腕白大学」に参加させてもらえなかった、この「超保護」の男の子はかなり優秀な頭脳をもっていることがみてとれました。後々の成長が楽しみでした(左の団の学力コンクール成績表参照・A君で表示)。ごらんのように一学年上の子と競争しても楽にトップがとれるほどの力です。

順調に育ってくれれば、おそらく最難関校進学も可能だろうと予測できました。
 ところが、入団してまもなく大きな欠点に気づきました。

 新しい単元や(見たことのない)問題に自主的に取り組み、解答しようとする姿勢が身についていないこと。つまり、教えてもらっている問題なら解答でき高得点するが、新しい単元や解説を自ら読み、自主的に理解を進めよう・考えを進めようとする姿勢が不足していること。また、視点を変えたり、問い方を変えられると「立ち往生」してしまうところ。「高い学力を求めるには、できるだけ早く解消しなければならないこと」ばかりです。いつも手を添え、助けてもらっている弊害であることは一目瞭然でした。

 潜在能力は高くても、今の姿勢や態度のままでは先々「頭打ち」になることは目に見えています。中堅校の中学受験くらいは乗り越えられても、難関校の合格や中学進学以降に華々しく活躍できる可能性は少ないだろうと判断しました。
 指示待ち・指導待ちは、しばらく前から大卒のサラリーマンの問題点としても取りざたされていますが、「すでに小さいころにこうした問題点を抱えこむようになっている」という現実を、子育てに関わるすべての人たちが心に留めておくべきだと思います。
 自らの学習経験、そして幸か不幸か、ぼくには教職以外のさまざまな社会経験があります。また、団は学習指導をはじめ、すべてぼく一人の指導ですから、毎年の課外学習等の宿泊や引率(つまり、行動のほとんどすべての側面を見ることができるわけです)によって「性格や育てられ方」をひとりひとりきちんと把握できます。さらに、同じ子を少なくともつづけて二・三年、長い場合は十年間も見ることになります。

 それらを総合し、脳のはたらきをイメージし、小学生時のようすとOB教室での年々の成長ぶりなどを判断すると、学習だけに限らず、子どもたちが順調に成長していくためにたいせつな指導上の「大きな柱」が見えてきます。
 それは「学体力」の養成です。「新しいこと」・「わからないこと」や「むずかしいこと」に対して、「ひるまず向かっていく気概をもつこと」や「チャレンジする姿勢を育てること」です。学習を順調に進め、どんどん伸びていく子は、「学ぶ面白さを知っていること」はもちろんですが、一方で、「何ごとに対しても、逡巡せず頑張って向かっていく姿勢も同時に身につけた子どもたち」なのです。
 したがって、学習指導の上でもたいせつな方針のひとつも、「見たこともない問題に対しても、子どもたち自身が自ら何度も読み返し、考え、手がかりを探し解決しようとする姿勢を養う」というところにおいています。
 「『必要以上の至れり尽くせり』はできるだけしない」ことを意識しています。問題の解読から解答に至るまで、「当人が考える必要がないような『ていねいすぎる解説』を施し、後は覚えるだけ」という今風の「過保護の学習指導」とは一線を画します。
 「解答する道筋で、ときに右往左往し、試行錯誤をくりかえし、それでも誤答に至り、悔しい思いをしながらチャレンジをくり返す」。そういう経験ができることが、以降の子どもたちが学習を進めていく―「学体力」をつけるためにどれだけ大切かがよくわかっているからです。
 そんな経験の積み重ねが、後々社会で自らの存在感を発揮するための大きな底力になると確信しています。
 小さい子を育てているお父さん・お母さん方に、「よい塾探し」の前に、ぜひ振り返ってほしいポイントです。

「過保護」で失ってしまうもの(2)ー「学んでいく力」と「生きていく力」
 さて、超保護で育てられているA君ですから、「自主的に学習を進めさせようとする団の指導」に「面食らった」のでしょう、ある日、お母さんから電話がかかってきました。「子どもが勉強を教えてもらえないと言っている」というのです。
 「案の定か・・・」、入団のとき話しておいたのですが、「指導の方法とその意味」を再度両親に伝えました。やはり理解してもらえず、退団ということになりました。

 数日後、同級生だったB君(先の成績表を参照)の懇談のとき、お父さんに「三年後に結果がわかりますからね」。確信がありました。
 転塾後、大手受験塾の難関校受験クラスを三年間受講したA君は難関校受験にすべて失敗し、中堅校のS学園に滑り込んだということです。先の結果です。みなさんは、この結果を「偶然」だと思われるでしょうか? ぼくは類似の経過と結果を、もう何回も見聞しています。
 いつも手を添えてもらえる。用意してもらえる、助けてもらえる。
 自ら夢中で突き進み、壁に当たり、べそをかきながら、また、気を取り直して前に進むという「貴重な体験」は、「過保護」の家庭では望むべくもありません。そして、「過保護のレベルがわからなくなっている人が多い」のが今の子育ての現状です。
 「一流(!)受験塾」の受験テクニックの指導や難問解法講座以前に、そんな些末で目先のものとは比較にならない、子どもたちの成長にとってたいせつなことがあります。その準備がともなっていなければ、生来の能力も花開きません。つまり優秀さが意味をもたなくなるのです。

 一般の受験塾ではそんなことまで指導しません。「しつけが悪い」子どもたち、「過保護」の子どもたちも放っておいて、「学習指導」をマイペースで進めます。
 余計なことだからです。経営には関係ないし、自分の成績にも関係ないと思っている先生が多いからです。同じようにこうした指導を「余計なこと」だと思っているお母さん方もたくさんいるかもしれません。
 しかし、大学進学時に大きく花開く団の子どもたちの秘密はそこにあります。OB諸君たちに備わった学力とやさしい人柄が、子どもを指導する方向性の正しさを示してくれます。
 子どもをきちんと育てるには、日々、子どもの一挙手一投足をしっかり見守り、その行動を判断し、叱り、褒め、アドバイスしていく視線と視点が何よりもたいせつです。小さい子を育てているお母さん・お父さん方に、受験校の選択や塾のIT化に振り回される前に、ぜひとも考えていただきたいことです。
 日々のしつけや指導の試行錯誤のなかから、子どもをきちんと育てるための判断基準が次第にはっきりしてきます。子どもの「指導」は、「ただ子どもの意向をきいていること」ではありません。親が考え、方向を「指」示し、子どもを「導」くべきです。きちんと育てれば、中学に進学するようになったら、自分でちゃんと羽ばたくようになります。