『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く㉝

2018年10月06日 | 学ぶ

夢の教科書と学びのリズム
 今ぼくはヘルニアで、立体授業の際はやむを得ず自転車移動していますが、それは決して本意ではないことをご理解の上、読んでください。

  ふだん意識はしませんが、「生きること」は、「見ること」「感じること」「考えること」とともにあります。「環覚」を養うことで、単に「道を歩いていくこと」だけでも、日々「学び」は深くなります。おとなも子どもたちも、感じること、考えること、分かることがもっとあるはずです。それなのに逆にどんどん少なくなってしまっているのではないか
 ・・・その大きな原因。それはからだを自分で移動することがなくなったからではないか? 何百万年も徒歩で移動し、それに適応してきた目の動き、視点や視覚が現在の身体の動きにうまく適応できないのではないか、そんな気がします。ふと立ち止まる瞬間さえなくなってしまいました

 徒歩から自転車、自転車から電車、自動車・・・。身体を運ぶことが自分の足を離れ、動力・機動力に任せることがふつうになりました。ところがまだ高々200年足らずです。豊かな時間をもてるように、充実した時間をすごせるように文明を発達させスピードを求めていったはずですが、スピードを求めたことによって、見たり、それによって感じたりすることがどんどん少なくなり、思いとはまったく逆に、豊かな時間がなくなってしまった・・・「時間」は次第に中身がなく、希薄なものになりつつあるのではないでしょうか
 触れることのない時間、浸る刻のない時間・・・いたずらに過ぎてゆく時間。その反動で子どもたちは次第にエスカレートした刺激に向かうのではないか。
  課外学習でいつも降り立つ飛鳥の駅前には「貸し自転車」が、たくさん並んでいて、呼び込みの人たちがさかんに自転車の利用を勧めています。しかし、自転車に乗って分かることとゆっくり歩きながら分かることは明らかにちがいます。むしろ、自転車に乗っていれば分からないことの方が多いといった方がよいかもしれません。「遺跡巡り」には好都合であっても、「自然と田舎の時間の流れを本当に感じるには自転車でさえ速すぎる」のです。

 ペダルをこぐときの呼吸や心臓の鼓動のリズムは、道ばたの小さいスミレやレンゲソウに戯れるミツバチに見入ったり、綿毛を運ぶ風を感じたりするリズムではありません。「流れるリズム」ではあっても、「振り返るリズム」ではありません。子どもたちの成長に必要なのは、ちょっと立ち止まったり、ふと「振り返るリズム」のはずです。
  子どもたちは、こちらの「問いかけ」やちょっとした動作・目や身体の微妙な動きに鋭く反応します。その「問いかけ」という「撞木の一突き」で、彼等の中に「鐘の音の余韻」が残ったことを、しばしば感じます。そうした「余韻」が、ちょっと立ち止まったり振り返ることによって育まれ、身体いっぱいにため込んだ子が能力高く、優しく育ちます。それらを求めての立体授業です。団の一年は課外学習と立体授業の一年です。
 

 課外学習の「土筆ハイク」や「竹の子掘り」、そして「田植え」をはじめとする一連の「米作り」「蛍狩り」などは、古代の都「飛鳥」中心の活動です。
 まだきれいな飛鳥川の清流に足を浸しながら、キラキラと輝く水面を眺めていると・・・この水温の冷たさを説明しなければ・・・光のことも話せる、梢を抜ける木漏れ日で写真や光合成の話ができる。繪やスギの話もできるな・・・光と色だ! 落ち葉を浮かべ、岩間を抜ける水音は音楽だ・・・川底で白く光る石や雲母。地球の歴史が出て来るな。
 道沿いや清流で時折見つかる瓦のかけらは子どもたちの宝物・・・大化の改新だ。・・・側を流れてい飛鳥川の水が少なくなったのは森林の消失や田んぼの消滅が大きな原因だろう。・・・大和川に連なり、海まで・・・。古代の日本の歴史を、ほとんどたどることができる。
 ・・・と、田んぼの向こうに虹が出ている。水蒸気、水。雲。風だ。空気・天気・・・水の循環、公害・・・甘樫の丘は万葉集、国語を深く話せる・・・。
 「飛鳥川ひとつ」でも、子どもたちの学ぶべき学習内容をほとんどすべて網羅した一冊の教科書です。撞木の一突きは一年を通じて百八つではききません

 気づかず学習対象が「生きていることから遠くなる」につれて「子どもたちの興味をひかなくなる」ことはまちがいありません。自らがいつも「学び」の中心に立っている、子どもたちがそういう意識になれるものを作ろう。
 自分の「立ち位置」でふとふりかえり、そこで感じるもの、考えることから、あらゆる学びが広がっていけば、学ぶことが絶対におもしろくなる・・・「環覚」の概念は、こうしてできあがりました。  
 「子どもたちがいるところ」が「学びの場」になる、自らの立っているところで何を感じるか、何を考えるか、そういう教科書を作ることができれば・・・夢の教科書です。

  立体授業は、まだ風や山の水が冷たい春先3月、春期講習の間に行う「土筆ハイク」から始まります。そして水が温み、桜が舞い、若葉が伸び始める頃、大きな孟宗竹の竹の子と格闘する「でっかい竹の子掘り」は4月の半ば過ぎです。フナたちが「乗っ込み」を始めるころ、頭が人間の赤ちゃんのものほどあるナマズがいる川で「でっかいナマズ釣り」。
 「ナマズ釣り」以外でも、それぞれの活動の際、川での魚とりや魚釣りは課外学習の「デザート」です。4年生になると団員ひとりひとりに一本ずつプレゼントする肥後の守を使い、手頃な竹で釣り竿を造ります。川岸近くで掘ったミミズ、川虫、蜘蛛が格好のえさ。お弁当のおかずの残りを餌にする子もいます。

 6月に入るとすぐ、年間活動の「米作り」が始まり、管理をしてもらっている人に指導を受けながらの「田植え」、それが終わるとすぐティンカーベルのような蛍の乱舞を楽しむ「蛍狩り」が待っています。
 蛍狩りは一泊になりますから、その夜は、クヌギ林で活動を始めたクワガタ探しも楽しみのひとつです。腕白ゼミ(三年生)から入団の諸君にとっては飛鳥や赤目の「蛍狩り」のフィールドも「自分の庭」。翌朝早く団員諸君は自分たちだけで連れ立ってクワガタ探しに再チャレンジです。
  8月はじめ、「赤目渓流教室」。子どもたちの遊びのすべてが凝縮しています。渓流での水遊び、釣り、魚捕り。オオサンショウウオも、よく顔を出します。

 夕方は持ち込んだ牛肉、用意してもらった野菜でバーベキュー。昼に川で釣った魚を団員諸君はナイフで上手にさばき、串に刺します。サポーターのお父さん、お母さん方が炭火の当番です。沢ガニは素揚げで真っ赤に色づき、どちらも頃合いよく、団員の胃袋におさまります。
 楽しい食事の後は花火、カブトムシ、透き通って翡翠のような美しさを見せてくれるアブラゼミやヒグラシの脱皮。「めくるめく」夜はこうして暮れていきます。
 翌朝、今年(2007年)は「ツバメの旅立ち」でした。胸に想い出をいっぱい詰め込んだ団員諸君の二泊三日は夢のように過ぎていきます。

 最終日、料理好きが高じて、おいしいものを食べさせたいと二日間かけてつくる特製「ハゲエモン」カレーが渓流教室の仕上げ。さわやかな谷間の風を名残惜しげに、子どもたちは宿舎のバスに送られ駅に向かいます。
  夏休みの終わり、子どもたちの楽しみはもう一つあります。「わっしょい・プール」。みんなでプールに繰り出します。今年(2007年)は多数決で「赤目へ再チャレンジ(日帰り)」になりました。
   9月はその年によってさまざまな取り組みがあります。今年の予定は石器作り、化石採集。
そして、10月には米作りのクライマックス「稲刈り」が待っています。
 
 めっきり少なくなりましたが、イナゴが飛び交う田んぼで、目に入る汗や独特のかゆさに苦労しながら作業を進めます。よく切れる鎌は、ちょっと注意を怠ると、自分の指や周りの人を傷つけてしまいます。集中力と細かい気配りを忘れることはできません。稲刈りは刈っただけで終わらず、きちんと束ね、干さなくてはなりません。
  作業の最後に田んぼに落ちた穂を丁寧に探していく「落ち穂拾い」。指導を受け経験を重ねた子どもたちは、「落ち穂拾い」の大切さがよく分かっています。「落ち穂」にも、自らの努力と思いが詰まっているからです。踏まれて田の土に「めり込んだ穂」も見逃さず、面倒がらず拾いあげます。
 しんどい仕事が終わると、次は目の色を変えてイナゴとりです。もちろんとることがおもしろくもあるし、たくさんとれれば、「佃煮」にもかわります。イナゴも年々少なくなってしまい、もうすぐ「幻の味」になるでしょう。
 ひとつ忘れていました。本物の車を団員諸君が運転し、教習員付きでコースを走る「君は名ドライバー」も、秋です。小さなコースの周回を三回もすると慣れ、なめらかなドライビング・テクニックは大人顔負けです。教習所の先生たちを驚かせ、それがまた子どもたちの大きな自信になります。


 同時に自動車には手に負えない力があることに気づきます。車の怖さがよくわかり、信号や周りに目を配り注意を怠らないこと、交通ルールを守ることが、いかに大切かよく学ぶことができます
  このほか知人の小料理屋さんに頼んで、生きたままのふぐやスッポン・伊勢エビを、子どもたちに実際に包丁を握らせ、調理し、食べるまでを行い「食」の意味を考える「生きた魚の命をいただくシリーズ」。
 撮影から現像まで、かつてはほとんど自分の全存在をかけていた写真。約50年前のマニュアル作動のカメラ(アサヒペンタックスSP)を使った「古いカメラで世界を見る」という、取り組み(腕白大学)も行いました。「古いカメラ―」は、「ものをじっとよく見ることができなくなった子どもたち」に「きちんとものを見る目」を身につけてほしかったからです

  そして、11月になると干してあった米も乾き、最後の課外学習「脱穀・精米」を経て、いよいよ「新米」に姿を変えます。とれたての新米は土鍋で炊きます。当たり前ですが、自分たちで作った米の味は、やはり格別です。学習探偵団の一年は、そうして終わります。その間、日々教室でしっかり勉強を重ねていたことは、もちろんです。 


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