『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星・宇宙の誕生と死24

2017年10月28日 | 学ぶ

 ガクの目を見ていると、今週掲載した写真のように、とても表情が豊かなことがわかります。スッポンは、ぼくたちが考えているより、もっと高度で複雑な感情があるかもしれない、そんな気がします。

我が輩はスッポンである
 わたしはスッポンである。名前は「疾うにある」、と云いたいところだが、これには一悶着あった。
 そそっかしいハゲエモンが、あろうことか、オスだと思い込んで「学」と名付けたのだ。あっハゲエモンとは、オーナーである塾の教師のニックネームだ。
 「捕虜」になって間もなく、小うるさい腕白坊主たちが、オスだのメスだの、ギャンギャン騒ぐ中、ハゲエモンが「こいつはオスだろう」。「甲羅からしっぽがはみ出ていたら、オスだというから・・・」と宣った。つまらない本を信じたようだが、知ったかぶりもいい加減にしなさい。中途半端な本は「時々嘘を教える」から、ほんとうに困る。

 「しっぽが長いの、短いの」と云っても、スッポンの間ではそんなに厳密に区別されているものではない。人間だって、デブもいればノッポもいる。「スッポンよりオス・メスの区別がわかりにくくなっている」場合もあるでしょう?
 スッポンも、鼻の下をのばした「おっさんスッポン」が、濁り水の中でメスとまちがえ、同性の「おっさんスッポン」の後を追っかけたこともあるらしい。甘樫丘の下、飛鳥川の美人友だち、スッチーに聞いたことがある。
 単純にしっぽだけで決めつけるのはやめなさい、いろいろいるんですよ、人間もスッポンも。  
 『オイ、まちがえるなよ』と一言文句を云ってやりたかったが、やはり声が出ない。しょうがないから、精一杯睨んでやった。ふんッ。今に見ていろ! 

 思いっきり予想外だったのは、ハゲエモンと、生命の危険さえ感じていた腕白坊主たちが、よく面倒を見てくれることだ。うれしすぎる誤算だ。週に一度みんなで水槽のゴミを掃除し、ポンプをきれいに洗って水を入れ替え、快適な環境を維持してくれている。子どもたちが作業のスピードが遅くて、忙しいハゲエモンに毎回叱られるのはご愛嬌だ。

 思い起こせば、教室に来た当座は不安でしょうがなかった。というのも、飛鳥の田んぼの溝でひっくり返っていたとき、ひとりのチビが、「アあぁ 亀みたいなやつ死んでる~」。
 スッポンに向かって、「亀・ミ・タ・イ・ナ」とは何事だ。「みたい」とは。少し怪我はしていたが、お腹の白さや甲羅の模様を見れば、スッポンのなかでも、飛び抜けた「美人」だとわかるはずだ。それに、ひっくり返っていただけなのに、「死んでる~」とは何だ、縁起でもない!

 こんな、訳も分からない、わたしが生きているのか死んでいるのかもわからない、小うるさいチビどもに連れて帰られたら、たいへんだ。中には「食っちゃおう」という、恐ろしいやつも出てくるかもしれない。生命の保証はない。そんな感じだった。
 子どもたちと一緒だった厳ついおっさんが、農作業をしていた隣の田んぼの持ち主の元に行き、「このスッポン、持って帰ってもいいですか?」と聞いていた。顔なじみだったおじさんが「いいよ。でも殺生しないでよ」と言ってくれた。
「わかっています」。いかついが、ニコッと笑ったオッサン顔が憎めなかった。それがハゲエモンだった。
 こいつは単細胞そうだから、「二言」はなさそうだ。気は向かなくても、からだのデカさから逃亡はムダな抵抗だ。逆らえない。もはや、ついていくしかない。

 現在の住まいは教室にある90cmの水槽である。授業中、周りを囲むように子どもたちが座る。いつでも見ることができるように、というハゲエモンの配慮だが、「他に場所がない」という方が本音かもしれない。
  住まいをあてがわれ、落ち着いたわたしは、オスと取りちがえられていることに、少しずつ腹が立ってきた。セクハラだ。それに、誰彼なしに「ガク、ガク、ガク」。うるさくてしょうがない。

 学じゃないッ。オスじゃないっうの。この美しさがわかんない? 誤解されたままでは「スッポンクイーン・ミス飛鳥」の称号が泣く。
 というわけで、一人のチビが休憩時間に水槽をのぞいているとき、「エエイ」と気張って卵を産んでやった。そのときのチビの、おどろいたのなんの、大声で、「センセエ! ガクが卵みたいなの生んだぁあ」。
  「なんだ? 卵みたいとはなんだ、ミタイとは。タマゴだよ、正真正銘のタマゴっ!」。云ってやりたかったが、残念なことに「声帯不足」で、やはりしゃべれない。
 ハゲエモンと、もう一人のチビがあわてて駆け寄ってきたとき、今度は用がなくなった卵を「ゴクン」と飲み込んでやった。これで、みんな、「ミス」だって認めただろう。

  その後、ハゲエモン先生(一年間お世話になったので、先生をつけるようにしようと思う)によって、わたしの名前は「飛鳥学美(あすかまなび)」に変えられた。飛鳥で捕まって、学習塾だから「まなび」。これなら、「ガクと云う、呼び慣れたニックネームがそのままでいいから」というのが理由だという。
 結構な「手抜き」だが、メスと認知されたのだから、今回は「よし」としよう。もったいないから腹立て卵も、もう生まないことにした。

 そうだ、最近、子どもたちと一緒にハゲエモン先生の講義を聴くようになった。授業中、時に気をそらせて、美しいわたしに見とれる腕白坊主がいる。先生は一言、「エサにするぞ」。
 「みんなア、エサにされちゃたいへんだからサ、勉強なさいョ」。いつもわたしは、心の底から子どもたちに、そうエールをおくっている。
  
逆転の発想
 子どもたちを指導しているぼくたちが指導の際、とくに気をつけなければいけないことを、年を重ねるごとに、より意識するようになりました。天才を育てた「ファインマンのお父さん」と、「天才になるエジソンを育て損ねた」エングル先生との、「認識の大きなちがい」です。
 ファインマンのお父さんはブリタニカこそ読み聞かせましたが、その「教科書」は「避暑地の森」でした。エングル先生の方は、きっと「計算問題の問題集」や「書き取りノート?」だったでしょう。さらに、その中に家で膝にのせてブリタニカを読み聞かせてもらったり、森でおもしろがるお父さんに興味ある話を聞かされた子はほとんどいなかったはずです。
 二人の立場のちがいは当然考慮に入れるべきものとしても、注目すべきは、「教えるときの感覚」です。「ファインマンのお父さんは『自分もおもしろいこと』を教えよう」とし、「エングル先生は『教えなければならないと勝手に思い込んでいるもの』を教えよう」としたことです。「何がおもしろいか。子どもたちが何を知りたがっているか」なども考える余裕はまったくなかったでしょう。
 ふだんよく見えませんが、ここには、予想外に大きな問題が隠れています。「自分がおもしろいこと、おもしろいと思っていること」を教えずに、はたして「教えたいこと」がうまく子どもたちに伝わるだろうか、という問題です
 自分がおもしろいと思っているからこそ、その面白さを何とか伝えたいし、伝えようとする熱意も生まれ、工夫も重ねるのでしょう。教科書で教えるのであれば、「借りてきた教科書」ではなく、その教科書を「自分がおもしろいと思う内容と体裁に自ら変えて伝える」ことこそ求められることではないか。こうした問題は百年を経過しても、その多くは個人的な問題になってしまうので、ほとんど未解決のままではないでしょうか。

 当時より教科書はよくなり、教え方も少し変わってきたかもしれません。教科書をよく教えようとする工夫は重ねられているのかもしれません。もちろん、中にはそう思って指導されている先生方もたくさんいらっしゃるだろうことはわかっています。心からエールを送ります。
 しかし、本質的な問題の解決は図られたでしょうか。エングル先生ではなく、ファインマンのお父さんはどれだけ増えたでしょうか。
 「おせっかい承知」で申しあげると、エングル・スタイル打破の突破口は、まず「子どもたちの感覚」に対する意識改革だと思います。「観念」やイメージではなく、「子どもたちの現実の姿」をもう一度虚心に見なおす。経験から、これは何度やっても、やりすぎることはありません。

 ヒントになればよいですが、「指導をこちらから進めるという意識ではなく、今ある『現実』に彼らが注目するような問いを子どもたちに投げかけ、彼らが考えた解答にアンチテーゼや例外を投げかけ、彼らが自らの考察の枠にそれらを取り入れ、さらに考えを進めていくことをくりかえす」、というスタイルが最良だと思います。結論や解決に至ればそれもよし、たとえ結論が出なくとも、彼らの「考える力」は次に向かいます。
 それがファインマンのおとうさんがやった方法の基本です。古くはソクラテスの問答も、類似のパターンだったのではないでしょうか。それによって、子どもたちは「考えることと、学習対象の奥行きと広がり」を学んでくれると思います。「好奇心のきっかけ」のひとつにもなり得るでしょう。

 釈迦に説法かもしれません。しかし、ぼくが指導を始めたときのことを振り返ると、「反省ばかり」が頭に浮かびます。「学習指導要領」や「それに類するもの」がまず頭にあって、それをいかに教えるか。そこから抜けきれない。抜けられない。「それを教えればよい」と考えている自分がいる。みんな自分自身の経験知がそうだったからです。それ以外の方法に出会うことがほとんどなかったはずです。
 あるいは受験問題「馬鹿裏」(考えながらマックのキーを打っていたら、今こんなふうに変換しました、こいつ! おもしろいやつだ、その通りだ!)が頭にあって、それの得点力をいかに高めるか? それ以外のことが、ほとんど「の売り」(「脳裏」と打とうとしたら、今度はこう!ハハハ最高だナ、こいつ)に浮かばない。

 既定のテキストを使うことを前提に、学習対象・学習内容を教えようとすれば、どうしてもそうなります。さらに、自分たちが指導されてきた姿しか見えない、知らない。なまじ知っている知識がある故に、勉強してわかっている(と思っている)が故に、「結論や理由を知ったつもりになってしゃべってしまい、それで済ませる」。そうなってしまいがちです
 これでは、いつまでたっても「抽象を抽象で教える」という、従来のサイクルから抜け出ることはできません。子どもたちの感覚を脳裏に、学習対象や学習内容をもう一度分解して身近に引き戻し、内容と方法を考え直し新たに組み立ててみる努力は欠かせません。「銀の匙」の灘中の橋本先生の努力に比べれば、元があるのですから、まだ容易ではないでしょうか。
 子どもたちは「抽象」を知りたいのではありません。「自然をはじめとする周囲のこと、身の回りのこと、そのなりたちとしくみ」をもっと知りたいのです。自分がそこで生きていかなくてはならないわけですから…。その現実をどうしても知りたいはずです。「現実」です。それらを考えたいのです
 事情が許さないのであれば、少なくとも彼我の『狭間』を、常に意識して授業を組み立てなければならない。それが次のステップです。子どもたちの興味ある、おもしろい勉強のスタートです。

 左の写真を見てください。これはサヌカイトの切断面です。サヌカイトの切断面は写真のように黒っぽいのですが、表面は風化して「他の石」と区別がつきません。石器に使用された特別な石ですが、現物を知らず風化のままなら、取り立ててなんということはない、ただの石です。意識が向かいません。観察や考察の対象にはなりません。「学び」は進まないのです
 道端の石も、たいていの場合キラキラ光ったり、特徴ある姿をしていることは少なく、また近くでは石ころも見なくなり、子どもたちも忙しく、石ころなんかに目をくれる暇もないので、よけい興味がわきません。つまり『狭間」の存在です。「単なる石」を乗り越えられません。学習内容が「現実の石」ではありません

 それなのに中学校の段階になって、岩石や地殻のことを少し詳しく勉強させられ、主要な岩石として、地殻では大陸地殻が花崗岩、海洋地殻が玄武岩、マントルは橄欖岩と核は鉄等・・・と学習するわけです。受験知識で火山岩や深成岩のでき方をイラストと二・三行の紹介で勉強していても、実際の花崗岩は見たことがない。海洋地殻の玄武岩やマントルの橄欖岩は見たくても見られない・・・。
 さらに、いずれの石も、さっきのサヌカイトのように風化しているので、道を歩いていて、時に岸壁や地層に出会っても、その違いが目には留まりません。「花崗岩が大陸地殻を構成している姿を見たくても見ることができないまま」なのです。地球にとってはそれだけ身近でたいせつな石なのに、です。

 「現実に存在する姿」を知らないまま、そのたいせつさがわからないまま、「勉強する対象」である花崗岩という受験事項を文字の抽象によって頭に溜め込んでいくだけです。学習が進むとともに、「狭間」はさらに広がっていきます
 子どもたちは「身の回りのこと」を知るのではなく、ずうっと「勉強のための勉強」をしているのです。「知りたい周囲のSomethingに何ら興味をもてない感覚」のまま、好奇心が届かないまま中学校に行きます。

 そして、年齢から云えば、ほとんど「異性にガンガンの頭」のときに、あるいはそこまででなくとも「興味津々」のときに、いきなり、地層や岩石の区別を詳しく「勉強しなければならない!」のです。
 異性への興味で「燃えるような思い」、「身体が火のように熱くなっている」ときに、教科書の溶岩や爆発なんか、「もうどうでもいい」はずです。ともすれば、自分の肉体が熱で溶け出したり、自分が爆発してしまいそうなんですから。
 偶に真面目な子がいて、我慢して受験知識として蓄えても、所詮そこどまり。裏付けやバックグラウンドがないので、多くの場合そのまま発展性は生まれません。知識は「クイズの解答」のゴミ箱です。

 現在のところ、特に例に挙げた岩石(地学の学習)に限らず、ほとんどの学習(勉強)が、類似のすすみ方をしているのではありませんか?「必要性」にも、「なじみ」にも迫られず、学習対象や学習内容は、子どもたちの中で、こうして疎遠なもの、取り立てて価値が見られないものになりつづけていくのです。学習指導のこの壁はどうしても突破しなければならないと思います

 教育にかかわる人たちはすべて、この「教科書は見知らぬアルバム(過去ブログ参照)状態」から抜け出す発想と方法を現実化する必要に迫られていることを意識すべきだと思います。それによって、ぼくたち(日本)は、数十年後すばらしい科学者を、もっともっと送り出せるはずだ、いつもそれを夢見ています。 


石ころと星・宇宙の誕生と死23

2017年10月21日 | 学ぶ

 今週は新しくなった立体授業のテキストの一部紹介しています。

川遊びと読書の関係 
 もうずいぶん前になりますが、長女に「子どもたちの指導をやらないか」と打診したとき、「わたしはパパのように、いつも子どもたちのことを考えていられないから…」と、やんわり断られました。
 娘にそういわれるまでは意識しなかったのですが、そういえば団を始めてから、子どもたちの学習や指導のことが、いつも頭から離れません。そうだ、写真をやっていた時もそうだった、恋愛もそうだった(そんなこともあったのです!ハハ)・・・何をするときも、いつも、ずっとそうだった・・・。子どもたちには可哀そうなことをしてしまった・・・反省しきりです。
 さて、今日所用でタクシー移動をしている際、どういうわけか「ぼくが本を読むようになったのはなぜか」と、ふと疑問がわきました。小さいころ家にはほとんど本がなく、学校も田舎の小学校で、当時図書室や子どもが手にする本など、あまりありませんでした。
 つまり、まわりには本がなかったのに、「Cパップの器具をつけた上から」苦労しながら眼鏡をかけ(不便です)、眠くなるまで本がないとどうしょうもなくなっている現状はなぜか? それが不思議になったのです

 周囲の本をよく読む子どもたちのことを考えてみると、よく読む子には共通した特徴があります。まちがいなく周囲の影響が大きなポイントです。保護者がいつも本を手にしている、あるいは、さまざまな本をおもしろそうに読んでいる。たいてい、こういうバックグラウンドが垣間見えます。まず、何よりも子どもに大きく影響するのは、おもしろそうに本を読むおとなの姿です。
 もちろんお父さん・お母さんが読まなくても、兄弟やおじいちゃん・おばあちゃんの影響を受ける場合も大いにあります。そして、そういう家庭には、当たり前ですが、身近に本があるので、子どもが手に取ってみる機会もたくさんあります。本になじむためには、格好のアドバンテージです。


 「うちの子は本を買ってあげてもちっとも読まない」という嘆きをよく聞きますが、そういう場合、「買ってあげるだけで、誰も家庭であまり本を読まない(読んでいない)」ことがほとんどです
 あるいは、テレビはガンガン、周りはワアワア。それでは、自ら手に取ってみようというタイミングもなければ、本がおもしろそうなイメージも浮かびません。「何冊かを読み続けて、よく意味がとれるようになり、おもしろさがわかり、そして本が手離せなくなる」、という本にのめり込むパターンの、はるか以前の問題です。


 本を読むには「落ち着いて、あるいは静かに振り返るという経験や習慣」がたいせつになります。静かな雰囲気がなく、物思いにふける習慣もなく、テレビや音楽・足音が、ガンガン・ドヤドヤしているなかでは、誰も本を読もうとは思わないし、読めないでしょう。読書に向かわせようと思えば、手近に本があるだけではなく、そういう雰囲気づくりもたいせつになります。

 さて、それでは家に本がなく、年がら年中、朝から晩まで川遊び、魚とりや魚釣りをしていたぼくは、どうして本を読むようになったのか? 「漁師になっても不思議じゃなかったなあ、ハハッ」。タクシーの道すがら、そう考えて、ふと思い至りました。
 木漏れ日の中、山奥の静かな小川で、気づかれないように魚を追っているという行為は、魚との繊細な駆け引きと試行錯誤(つまりメタ認知の行使)の連続です。水音を立てないように、足を忍ばせ、動きを見ながら、そっと魚を追い込む、という繰り返しです。

 また山中、野池の傍らの木陰で小さな水音に耳を澄ませ、浮子の動きを見逃さず見守る、という行為は、相当な集中力が要求され続けるはずです。ちなみに、そのころ高い木の上からリスもおりてきました。いずれも自らの企てや行動の振り返りと修正の連続です。脳のはたらきのトレーニングです
 これらの行為を日々繰り返していれば、落ち着いた静かな雰囲気の中で、試行錯誤をともないながらメタ認知を強化し、集中力を養うという、まさに「読書に入り込むための格好のトレーニング」になっています。ぼくが幸運だったのは、田舎で、一人で過ごせる川遊びや魚釣りでの精神作用やイメージトレーニングがあったので、きっかけさえつかめば、すぐ読書に入れる状態だったのかもしれませんね。
 「バタバタ・がやがやという、小うるさい友だち関係」や、時には「煩わしいだけのやり取り」の外遊びしか知らない子どもたちが、家に帰ってもなお、テレビ・音楽・おしゃべり、ワンワン・ギャンギャンという、騒がしい世の中では、本に見向きもしなくなる(しない)のは、いわば当然かもしれません。読書好きにするには、「読書に向かわせる環境や条件」をもっと考えてみる必要があるようです

 


A君への手紙

 先日は課外学習の応援、ありがとうございました。助かりました。
 さて、お母さんにはいつもお心遣いをいただき、感謝しています。お礼の連絡をして、最近の君のようすを訊ねると、言葉を濁されていたので、少し心配になりました。


 どうですか、悩み。まだ先が見えないのかな? 大丈夫ですよ、そんなことは。
 ぼくはいろいろな人や子どもたちを、もう長い間見てきて(笑い)、よくわかったことがあります。それは「感受性が豊かで頭が良い、まじめな人ほど悩みが大きく、重い」ということです。


 まず、いつも言うように、君はたぐいまれな頭脳、素晴らしい能力をもっています。ぼくの見る限り、出会った人の中ではトップクラスです。中学校2年までしかきちんと勉強していないのに、いくらぼくの指導があったとはいえ(ハハ、少し云わせてください)、19歳からの2年間の学習で京都大学の理学部なんて、ふつうじゃありません。そんな人は日本中探しても、あまりいません。
 まずその能力に自信を持ってください。君の能力の大きさがその大きさゆえに、世の中の役に立つには何をするべきかと、今真剣に君に「相談」しているのです。若いんですから、君の心と二人で(!)心行くまで相談にのってあげてください。数日前読んだ本、こんな一節に出会いました。
 釈尊が、この世の苦悩と、自分のなすべきことに悩み続けて、それらを解決してゆく過程の考察です。
 
 釈尊が、その出家に際して胸奥にいだいていた課題は、他でもない、苦の問題でありました。その苦なるものはいかにして存するものであるか。いかにして苦なるものは生起するのであるか。
 (「釈尊のさとり」増谷文雄著 講談社学術文庫より)
 

  苦とは何か。
 
 「比丘(びく)たちよ。苦の聖諦(しょうたい)とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。嘆き、悲しみ、苦しみ、憂え、悩みは苦である。怨憎(おんぞう)するものに会うは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するものはすべて苦である」(前記書p42)
 
 つまり、生そのものが苦である・・・。そんな大変な、しんどい世の中なら生きていたくない、という人がたくさんいるかもしれません。
 そうではありません。それは、「ことば」に縛られ、「苦」を「苦」と規定してしまうから、たいへんなのです。よく考えてください。
 みんながそういうふうに生まれついているのですから、それは「苦」ではありません。「生」なのです。他と比較するから「苦」になるのであって、比べることがなければ「苦」になりません。
 

 ぼくは、長い間生きてきて、「少し賢く」なりました。
 人生は決して良いことばかりではないし、悪いことばかりではありません。たとえば、悪いことだと思っても、もしそれに耐えることができれば、それだけ強くなるわけですから、次はもっと大きな悩みにも立ち向かえるでしょう。人生そのものが苦であるとするなら、そんなうれしいことはありません

 また、こうも考えるようになりました。一見よいことに見えても、見方を変えれば必ず悪いことが隠れているはずで、欲望に任せて動いているぼくたちにはそれがよく見えないのです。それが「苦」のはじまりです
 簡単に言えば、自動車の発明は便利だったが、それによって歩くことがなくなり、荷物を運ぶことがなくなったわけですから、体力や心肺機能は落ちるわけです。また時間は節約されたかもしれないが、ゆっくり見て感じる、という感受性は鈍麻していきます。二酸化炭素の排出などの環境汚染は最大の苦です。

 このように、ふだんはなかなか見えてこないのですが、苦と楽は、実は「相反するものではありません」。「苦を苦と見る」ことばかりではなく、さらに「苦に(から)入ること」をやめれば、苦は苦でなくなる。連鎖を断ち切れる。僭越ですが、釈尊はおそらくそういう発想に至ったのではないでしょうか
 
 悩みが深ければ、人はさらに大きくなれます。悩みが大きければ、ひとはいっそう優しくなれます。ぼくたちは、悩みや問題を解決しようとする志向や努力によって、ひとつずつ成長していきます。
 君は「先生になりたい」と云っていましたね。悩めば悩むほど、人の気持ちがわかる良い先生になれます。悩むことを気に病むことはありません。見えないことを苦しむ必要はありません。
 それは君の頭がよく、感受性がいっそう鋭い証拠です。生まれたばかりの赤ちゃんは最初よく見えません、みんな忘れていますが。自信をもってください。

 寒さが募ります。からだに気をつけてがんばってください。
 もう一つ大きくなった、君の姿、期待しています。
                                                         南淵喜浄


石ころと星・宇宙の誕生と死22―人生が大きく変わる「小さなきっかけ」

2017年10月14日 | 学ぶ

「三者懇談の案内」例から 
 今週は子ども達との稲刈りの写真を多数掲載しました。
 先週、中学受験に対する志望校選択の判断基準について触れました。以下は、冬期講習案内の一節です。(一部改変)


   団員保護者のみなさま

 毎年のことですが、受験をする子どもたちを送り出す時、ぼくの不安を振り払う心の支えになるのは、「自分が精いっぱいやったか」という確認です。
 最近は、中学受験までたいてい4年間指導することになりますが、その間様々な活動や行動をともにし、受験に向かう子どもたちに何を教え、何を指導してきたか。中学に進んで、きちんとついていけるだけの心や態度・学力を養えたか、ということの振り返りです。それが整えば、受験はいずれにしろ、「ただの一里塚」です。受験するのに、もっともたいせつな準備は、そういう「姿勢の確立の手助け」だとぼくは考えています。
 自身がテストで一度もあがったことがなかったのも、いつも「できるだけのことをやったから」という受験前の確信でした。受験塾や予備校に行くことができたわけではなく、学校以外だれかに指導を受けたわけではありません。一人での取り組みを繰り返してきました。
 ぼくだけではなく、人生は誰にとっても、ほんとうは「ひとりの戦い」です。厳しい戦いを勝ち抜くには、やはり裏表のない不断の努力です。「そうした気概と力をもった子に育ってほしい」と、願いながら日ごろ指導しています。
 あまり余計なことを考えず、残された日々、「やるべきこと」と「目標」に向かいましょう。ぼくたちはみんな、「毎日一生懸命やること」しかできません。いずれにしろ、その結果が大きな成長の糧や自信になります。(以下略)
 

 毎回このような案内を保護者に配布しています。「受験及び受験生・受験勉強に対する意識の変革を図ること」で、子どもたちは素晴らしく成長するという確信のもとで指導を重ねています。
 それでも、個別の事例になると、やはり「勉強」が「余裕のない受験勉強の域」にとどまってしまう状況から抜け出ることはなかなかむずかしいようです。ほとんどみんな「それ以外の勉強(法)を教えられた経験がない」から、当然のことかもしれません。「自らの経験からしか判断できないぼくたち」は、視点が全く変わった発想や考察には、なかなかなじみにくいのでしょう。
 以前の「困ったお母さん」の例、「田植えより勉強を教えてほしい」を思い出してください。「田植えも勉強も、同じ人が同じ頭でやる取り組みである」ということがわからない。何をしても、自らがする行動によって、絶えず脳の発達・進化・変化が生まれているという認識の欠落です

 科学上の大発見や真理の多くは、「いわゆる常識」の奥からひっそり顔をのぞかせたように、一度は「学習というものの奥」を丁寧に見直し、再考してみるという姿勢が必要ではないかと思います
 ぼくたちの「学習」は、他の動物の多くとちがう誕生の、たとえば成長過程で「すぐには立ち上がれず摂食行動や防御姿勢もとれない」ヒトの、自らの生きるべき術をできるだけ早く確立し、早く身につけるために進化してきた行動パターンのはずです。決して「抽象的な概念の習得から始まった行動」ではありません。
 そこに大きな秘密があるはずなのに、「『学習の一部である勉強』のしくみ」しか取りあげられていない、ほとんどそれらの行動様式しか研究対象とされていないのが現状ではないでしょうか。それらの学習の「もっと以前」に、ヒトは「学習」を最も有効な「生きる手段」にするべく進化を重ねてきたはずです
 先週の「稲刈り」の帰途、団の指導について「『課外学習』の周辺学習がおもしろくなってきた」と伝えてくれたお母さんがいました。感激でした。指導の狙いはそこにあるからです。
 先の課外学習「二上山の三つの石」で見つけた小さな宝石が、実は「酸素やケイ素がもとになってできているもの」という事実が子どもたちに理解されたとき、彼らの中で化学記号の暗記や計算式から始まるのとは全く異質の「科学の世界」が生まれます。子どもたちは酸素と云えば『呼吸』でしか知らないし、ほとんどの子は「気体」という認識しかありません。これによって呼吸と宝石、酸素の姿や関係性が激変します

 
長い人類の歴史で、ぼくたちはこうした感覚で科学に開眼し続けて来たのではないでしょうか。酸素やケイ素という術語や原子記号・化学式が元々あったわけでは決してありません。子どもの場合、抽象事項や述語からおもしろさや興味は広がりません。それは一部の「クイズマニア」だけです。
 子どもたちが「『そうした時代』から生きることをはじめる」と考えれば、「何がたいせつか」、「どう指導すべきか」がはっきり見えてくるはずなのですが・・・。
 

人生が大きく変わる「小さなきっかけ」1 
 「ぼくは重度の睡眠時無呼吸症候群だったことを知らなかった」、という話をしました。最近はある程度名前や症例もポピュラーになりましたが、ぼくの場合検査を受けてみると、最長79秒(!)という長時間無呼吸(呼吸をしていない)状態を一晩に何十回も繰り返す重症でした。無呼吸が79秒と云うのはどんなものか? 

 あたりまえですが、一晩中、「約一分二十秒の間、『息を止める』ことを何十回も繰り返している」ということです。おどろきませんか?
 ぼくがその危険性をアドバイスしても、軽くしか考えていない人が結構います。若い時は体力があるので身体はもち、日ごろの生活も十分維持できます。しかし健康に大きな影響を与えているのは変わりません。その状況をもう少しわかりやすく、「夜毎、何十回も首を絞められ放されるという拷問をされている」と云ったらわかるでしょうか。

 いつも「酸素不足」だから、当然新陳代謝が滞り、疲労物質の除去もできないし、もちろん熟睡なんかとんでもない。息が苦しくなって、恐ろしい夢を見、動悸と寝汗で目を覚ますなんてことがしょっちゅうでした。
 また、ぼくの場合は熟睡を示す4のステージが一回もありませんでした。これらの症状も、この病気を知らなかったら、「悪い夢を見た」とか、「疲れやすい」とか、「お酒を飲み過ぎた」という軽い判断で見過ごされてしまうことがほとんどでしょう。ぼくの場合もそうでした。逆に、かつては「いびきをかいていれば、熟睡している」と考えられていたものです。
 小学生のころ、何度も溺れている夢を見ました。水のなかでもがいて上にあがろうと手足をバタバタさせようとするのですが、動かず、水面に出られません。もう駄目だと思った時、目が覚めるのです。そのころ、そんな病気があるとは誰一人知らず、「どうしてこんな怖い夢を見るのだろう」という不思議な感じで終わることが毎回でした。

 小学生のころからぼくは電車通学をしていました。ある時、友だちのお母さんと乗り合わせました。母の隣に立っていた僕の顔を見て「目の周り、真っ黒やん!」。「母は今日は疲れてるから」ぐらいの認識しかなかったのでしょう。「病気がまだなかった(!)」わけですから。 
 その「隈」は小さいころからの「ぼくのトレードマーク」みたいなもので、シーパップ治療をするまでとれませんでした。いつも歌舞伎役者のまねをして下手な化粧をしているようなもんです、ハハッ。
 その疲れや「隈」は、この病気を病気と認識できるまでは「原因不明」で、体質や年のせいとしか解釈できません。つまり、子どもたちにとっては(あるいは、この病気や症例を知らないお父さんやお母さんにとっても)、「原因を追究されない(!)異変」なのです。ぼくが子どもたちの日ごろの変化についても、きちんとしっかり見てほしいのは、こういう例があるからです。

 「睡眠時無呼吸の潜在患者」である内は当然「その病気を治療すれば身体がどう変化するのか」に想いが至りません。しかし「いつも眠たい」、「しんどくてやる気が出ない日が多い」、「集中力が続かない」、「毎日怖い夢を見る」…。睡眠時無呼吸の子どもたちは、こういうことが常態化するわけです。当然「思考力や前向きな気持ちの減退」、「怖い夢を見ることによる暗さ」等、性格形成にまで影響が出てしまうでしょう。「本来は元気良い子に育つはずが、暗くて元気のない子に育ってしまう…」。

 今治療をすることで体調がよくなり、前後の体調の大きな相違に気づいた僕は、こうした隠れた阻害因が、子どもたちの健やかな成長と人生を大きく変えることになるかもしれない悪しき可能性を危惧するのです。
 「大きな鼾をかく」、特に「いびきが途中で止まる」、さらに「太っている」、「首が短く太い」、「顎が小さい」、などの心当たりがあれば、念のため検査を受ける(させる)ことをお勧めします。こうした視点は、受験勉強に対する注意喚起よりはるかにたいせつなことだと考えています。
 

人生が大きく変わる「小さなきっかけ」2 
 以前、今年中学に進学したOBと、入学後すぐグレードリーダー(写真)を読み始めたことをお伝えしました。文法や単語もまったく知らないところから始めて週4回一時間ずつ、現在12ページまで。
 最初単語を英和辞典で調べるのにも時間がかかって右往左往していたのに、半年を経過すると、自学がすっかり板についてきました、次はロングマンの“Basic English Dictionary”を引いて講読をすすめたいと計画しています。

 かつて夏目漱石は、「語学養成法」で、学生たちの英語力が自分たちのころより、かなり衰えてきたという現状について、次のように感想を述べています。

 われわれの学問をした時代は、すべての普通学は皆英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科も皆外国語の教科書で学んだが、われわれより少し以前の人になると、答案まで英語で書いたものが多い。
 

 理由は、日本語で教育をやるだけの余裕や設備が整っていなかった。日本語での教科書が存在せず、教える先生がいなかった。だから外国語の教科書を使い外人の先生が教えたので、「英語を教わる」というより「英語ですべての学問を習っていた」からできるようになった、特に漱石より少し前の人たちはテストの解答も英語で書いていた、ということです。つまり、英語漬けだった環境が、現在(漱石が年をとった頃)はすっかり変わってしまったという認識です。そこに英語力衰退の原因の一つを求めています。
 参考にすれば、たとえ時代が変わっても、初学者が辞書を引きながら、かんたんな本(英文)を読むのも、それほど無茶ではないと考えられないでしょうか。江戸時代はそうだったでしょう? それによって、「英文を読むことばかりか、日本語の書き方まで『感じてくれる』」はず。そんな思いでぼくは指導を始めました。「受験方式じゃない英語の読書(自学)」を始めてほしい、というわけです

 H君は、最初短い英文を日本語に直すのも四苦八苦して、「たどたどしい」ものでした。
 「君がこの小説を書いているとすれば、今の云い方で何を言おうとしているかわかってもらえるか?」 「最初はどういう話で始まり、どういう状況で話が続いてきたか?」 「今どこで誰と誰が何をしているのか?」等々と指導を続けていきました。彼の口から次第に日本語らしい日本語の訳も出てくるようになりました。意味をとらえた、相手(ぼく)にわかる日本語が出てきます。
 
 「どうだ、H。おもしろくなったか?英語」。
 「はい、おもしろいです」。
 「!」
 「先生、学校(N学園)の実力テストの成績、返ってきました。26番でした(約150人中)」。
 
 ニコニコ笑って自分から話してくれました。もう安心です。もちろん、こうしたすすめ方ができるようになるまでには、「人知れぬ苦労(!)」があります。それは保護者と本人とぼくとの信頼関係の構築です。
 特にH君の場合、難関中高一貫校や大学まで数多くの学校を統括されている理事長のお孫さんです。ぼくの方法論と指導に対する確信と自信が一層要求されました。彼は大手受験塾の指導に嫌気がさして、勉強が嫌になっていたから余計です
 最初入団してくれた時は、渓流教室のバーベキューの後始末の指導から始まりました。以前のブログで触れたことがありますが、「バーベキューの網を洗っているのに、肝心の網に注意をしないで、ただ無目的に束子でこする」というような行動パターンがあったのです。
 最近の子たちはお手伝いや家での作業等の経験が少ないので、「何のための行動か」という目的意識をもてなかったり、「作業の目標が見えなくなっている」ことが多いのです。そのまま成長すると「自らの行動に対して、メタ認知がはたらきにくいという致命的な欠陥」になりかねません。そうした指導から始めるわけです
 よく見られる考え方や視点の狭い保護者や関係者であれば、ぼくが「なぜ叱っているのか」の理由が見つからないかもしれません。しかし自ら行っている作業や行動に対するメタ認知がはたらかず、目的意識も見えなければ、それを最も必要とするだろう、テストの解答や学習が順調に進むわけがありません
 最近の子育てでは、そういう方向からの視点は存在せず、それゆえ指導もまったく欠落しているのではないでしょうか。それらを補っていくことは普通なら当然のことであるにもかかわらず。そうした指導の継続による成長が、理解のある保護者のみなさんに十分認識されてこそ、強い信頼関係が生まれます。
 「受験頭(?!)」のお父さんやお母さんや先生には理解することがむずかしいかもしれません。「難関校に進んだ」はよいが、「学校の勉強を応援するのではなく(実際はテスト指導もし、質問にも答えますが)、いわば、英語の本が読めるようになる指導を進めている」のですから。
 しかしそこで、たとえば大学へ入った時点で、入試問題の解答に終わらず英語の本を何の苦労もなく読み続けられれば、どれほど実りの多い、未来を見通せる学生生活を送れるか、と発想する余裕はあったでしょうか?
 また、先のH君の報告にもあったように、すでに「学校の勉強は学校の勉強でちゃんと進めてくれている」こともわかると思います。保護者との理解が整えば、子どもたちの成長は、こう進みます。
 これが、やがて難関大学へ進学するOB諸君の途中経過なのです。人生が大きく変わる「小さなきっかけ」二例です。
 学習指導に悩む若いお父さんやお母さん・先生方、何か困ったことがあれば、ご遠慮なくご相談ください。一緒に問題解決しましょう


石ころと星・宇宙の誕生と死21 立体授業 「二上山の三つの石」Ⅱ

2017年10月07日 | 学ぶ

受験校選択への疑念 
 受験する小学生のお母さん・お父さんたちは、この時期になると受験校の選択・決定に大わらわでしょう。しかし、その段階で「何を選択の基準にするべきか」という落着いた判断力はともなっているでしょうか?

 「難関大学への進学率とその伝統」、あるいは「雲をつかむようなうわさや風評」、「個人の感想」「受験塾のある意味無責任なアドバイスと洗脳」、そして「周囲のプライドや見栄」。それらが選択基準になっている場合が多いのかもしれません。そこで忘れられがちなのは「受験生本人の学力レベルやキャパシティ」を冷静に判断する「作業!」です。
 まず一つ目、「難関大学への進学率」から考えてみましょう。
 団ではこのブログでの塾紹介以外、塾生募集の告知は行ってはいません。その理由は「『学力のみに限らず、さまざまな面で子どもの成長をたいせつに考えている』お父さんやお母さんと子どもたちを、じっくり育ててみたいという思いがあるから」です。中学受験での優劣判断ではなく、その先にある子どもたちのたいせつな人生についても、考えたいと思っています。彼らがどういう夢や目標をもつにしろ、「それらをかなえるためには何がたいせつで、何が必要かを考えたい」のです。それが子育ての基本です

 子どもたちの人生は中学受験で終わるのではありません。そして「学校は何のための学校」か?
 自らが、そこで力を養い、切磋琢磨し、独り立ちできる能力を養うことができること。できれば、自らの夢以外に自らが生きている社会の夢を担える度量や学力を蓄えられること。それしかありません
 これらの力は学校だけで養えるものではありません。周囲に夢や理想を抱え、子どもに接する人の存在がなくては、まず不可能です。さらに「『それらを心から願い、いつも忘れず原点に戻る』という冷静さ」が周囲になくてはなりません。
 定評あるトップ校へ行ったらすばらしい成長が可能になる、という単純なものではありません。何よりも必要なことは「行く学校」ではなく、ふだんからそれらの夢や理想を自らも忘れない客観的な視点であり、広い心であり、そのために自らを律する冷静なセルフ・コントロールです。成長は進学先のみに頼れるものではありません。それが団の実績です。

 もっと誤解を恐れずに云えば、学校はあまり関係ありません。整うもの・整うことが整えば、よほどレベルの低い学校でもないかぎり、どこへ行こうと「素晴らしい成長」は可能だとぼくは思います。OB教室を経た団員の中学進学先と進学大学、そして時折紹介しているOB生の姿を、もう一度振り返ってみてください。

 京大院卒業後就職し神戸大医学部に難関を突破し学士入学、もう次の目標を掲げ合格後すぐケニヤに飛んだK君、医大へ行くというので何を専攻するのと聞いたら、「センセイ、わたし、日本一の看護師になりたい!」といったYさん。
 同じく医大に行くので、「何をやりたいの?」と聞くと、「ぼくがアトピーで苦しんだから、皮膚科に行きます」と夢を語ったKS君(今は北海道で、救急医療に邁進しています)、Kさんは「高校のときにいじめにあい、カウンセラーの先生にお世話になったから、精神科に行きます」。そして、ことばの発生の研究でベトナムに飛んだ京大院のY君・・・進学中学は関係なく、こうして育ってくれたOBがいます。ちがいが分かっていただけますか。

 まず大切なことは、学校ではなく「学ぶことのたいせつさを自覚する(できる)環境」。「学ぶおもしろさに気づくことができる指導と環境」。そして「本人が責任や夢を自覚できる余裕」。
 これらを可能にするには何が必要か? 決して学校ではありません。必要なことは、日々の「周囲の」細やかな対応と指導です。そして、指導者・保護者の「思いの共有」であり、「熱さ」であり、「両者の協力と信頼関係」です
 それらによって、子どもたちの「学体力」が育まれ、健やかな成長を重ねていきます。たいせつなものは、まず「これらの環境がもっともたいせつであるという自覚」と、「それに対するアプローチ」です。
 学校ではありません。「学校の指導力を当てにしない本人の『学体力』の養成が根本」です。その方法については、五年間のブログを参考にしてみてください。ヒントがたくさんあると思います。

進学中学レベルより「学体力」
 進学先の選択をすることについてのアドバイスです。先の進学中学や子どもたちの成長のようすをヒントにしていただくと、「無理矢理進学」はどういう結果をもたらすか、想像できると思いますが、そんな例を一つ。
 以前、ぼくは「小学校3~4年生のときに、京大や阪大へ行ける(進学可能性のある)子がわかる」と述べました。学力については「このまま僕のところで指導を受け、保護者の適切な理解と協力はあればまちがいない」という確信があります。表の京大・阪大へ進学した8人は、小学校の段階で本人や保護者にそう伝えたはずです。そして、そのために必要な頭のはたらきの判断の基準についても以前披露しました。もうひとつ、彼らの保護者のみなさんはアドバイスをきちんと聞き入れ、指導にもすこぶる協力的でした。

 逆に、そうではない場合、例えば背伸びして進学しても、本人には過重負担で、良くない結果を招くだろう(たとえば低迷するだろう)ことも、はっきりわかります。そうしたとき、保護者や本人には、それとなく何回も懇談等で伝えていきます。しかし、なかには冷静に対処できないお母さん・お父さんたちもいます。
 自らの学生時代、友人たちのようすや指導経験を振り返ると、日々自らの手に余る過酷な競争の中で、過重な負担とコンプレックスを背負い続けるだろう悪影響は痛いほどわかり、一生にかかわる自負や自信にも影響するので、何度もアドバイスを繰り返すのですが、わかってもらえないこともよくあります。近年もそんな例がありました。

 5年生初めの段階で、模擬テストではほぼ同じ成績だった子がいました。ひとりは5年生で入団した子で、もう一人は3年生から団で学んでいた子(B君)です。模擬テストの成績は、その時点ではほぼ同じでも、「関連をとらえる力」や「ひらめき」が、A君とB君では明らかにちがいます。
 つまり、学力を究めるための「前提」が大きくちがうのです。B君は私立小学校で、1年生からそれなりの受験学習をしていたので、模擬テストの基礎点ぐらいはとれます。もう一人のA君は公立ですが、明らかに勘が鋭くひらめきが豊かです。経験は不足ですが、現在の力と将来の可能性や能力はまったく別です

 6年生になったとき、三者懇談で、ぼくは、進学しようとしている中学での生徒の能力レベルや学習内容がそんなに甘いものではないこと、ついていこうと思えば、おそらく相当の学習量をこなさなくてはならないことを、当該のB君のお母さんにも本人にも伝えましたが、聞き入れてもらえません。
 それよりも、ランクを少し落としてでも、プライドを保てる余裕のあるなかで、先々の学習を進めたほうが良い結果が出るだろうことを、やはりそれとなくほのめかすのですが、「本人が行きたいというので」の一点張りです。冷静な判断ができず、こちらの進学先アドバイスも効果がありません。

 残念に思いましたが、強制的にあきらめさせるわけにはいかず、そういう結果であれば、ぼくはその方向で最善を尽くすしかありません。できるだけ思いをかなえてあげたいからです。彼の学力と受験先レベルを考え、受験対応をしていきました。そして、二人とも合格できました。
 B君(と呼んでおきます)もなんとか合格はさせましたが、わがままに甘やかされて育てられた子ですから、調子に乗り、合格後の注意を聞かず、すぐ手抜きです。最初の中間テストで、ビリから5番になりました。

 最近、進学先の先生があいさつに来られ、「センセイ、A君は素晴らしいですね」。ぼく「そうでしょう、今のまま育ってくれれば阪大は大丈夫でしょ」。「ですけど、B君の方がちょっとシンドイんですわ」。「わかっています、進学先について、何度もアドバイスしてみたんですが、聞き入れてもらえなかったんです・・・」(B君はすでに退塾)。
 進学先を決める場合、きちんと子どもたちを見ている能力の高い先生ならば、学校と子どものレベルのイメージは高い確率で合致するはずです。選択のアドバイスを聞くことが大切です。学校レベル優先では決してありません。学校と本人の可能性レベルの比較が、まず優先です
 子どもの将来は日ごろの観察ときめの細かいしつけや指導が基本です。やるべきことをやるべき時にやる。やってはいけないことをやらない。それを教えること。可能性は、きちんとした指導やしつけによる人間性の確立、余裕ある学習の中での教養の定着、それらと本人の能力という、「総合力」の展開です。他力を期待しすぎることはできません
 単純な基準をまず徹底し、学ぶおもしろさや学ぶ大切さを心の底から伝える努力をする。それによって、彼らは、もっている能力をはるかに凌駕して、花開く未来を手にすることができるのではないでしょうか?

立体授業 「二上山の三つの石」Ⅱ

 この立体授業の学習指導内容については、次の書籍・リーフレットの内容を参考、また引用させていただきました。なお、ご紹介できなかった学術内容引用分があるかもしれません。お詫びとともに、厚くお礼を申し上げます。内容に誤謬があれば、ご教示いただければ光栄です。また、今回の二上山の写真は、畏友の写真家辻本勝英氏の撮影です。
 日本列島地学散歩 近畿・中国編 竹内均 平凡社カラー新書/大地のおいたち 地学団体研究会大阪支部編著 築地書館/日本列島の誕生 平 朝彦著 岩波新書/よみがえる二上山の3つの石 展示解説 二上山博物館/山はどうしてできるのか 藤岡換太郎著 講談社ブルーバックス/二上山博物館案内リーフレット他

近畿地方
  近畿地方は、北部には中国山地の延長と云ってよい丹波山地・比良山地など、平均高度約600mの高原状の山地が続いている。日本海側は急な崖になっているところが多く、若狭湾沿岸はリアス式海岸である。
 南の方には、高く険しい壮年期の山である紀伊山地の北の端には日本の二大構造線のひとつである中央構造線が走り、紀伊山地は海にまで迫り、熊野灘や志摩半島は複雑なリアス式海岸が発達している。紀伊山地は日本有数の多雨地帯で、尾鷲市は日本一降水量の多い市である。
  中央低地には、ほぼ南北に並行して走る伊吹・鈴鹿・笠置・生駒・金剛・和泉などの小さな地塁山地があり、その間に近江・京都・亀岡・上野・奈良等の、これまた小さな地溝盆地がある。地塁・地溝というのは、ほぼ平行には知る『断層』によって区切られ、その両側より高まったところを地塁といい、低まったところを地溝と呼ぶ。鈴鹿山脈や生駒山脈をつくる褶曲運動が始まったのは、第三紀の終わりに近い約500万年前である。その後その運動がはげしくなり、断層やこれらの山々ができた。
 ヒマラヤ山脈の誕生のときも学んだが、歴史を大きくとらえると、おもしろいことがわかる。仮に1000メートル級の山であっても、100万年でできたとすれば、その隆起スピードは年1mmにすぎない。また、このような隆起は現在でも日本列島のあちこちで見られる。
 つまり、地球は今でも絶えず変化している、生きているのである。立体授業の化石採集地は約1500万年前の地層と云われているが、その間、もし毎年1mmずつ成長している山があったとすれば、現在標高15000メートルと云うような、飛行機が飛ぶ高さを超える、とんでもない山ができていることになる。

サヌカイトと1500万年前の火山活動
 サヌカイトという名前は外国人の命名だった。今から100年以上前、ナウマン象でおなじみのドイツのナウマン教授が、ドイツの学術誌に「日本の讃岐地方(香川県)に、カンカンと澄んだ音を立てる珍しい石がある」と書いて、そのサンプルをワインシェンクという知人の学者に届けたことによる。それを調べたワインシェンクが岩石学的にも珍しいタイプだと、1891年に「サヌカイト(讃岐の石)」と名付けた。
 それはサヌカイトが火山岩で安山岩であるにも関わらず、安山岩に特徴的な大きな結晶(班晶)と小さな結晶(石基)の区別がないガラス質であることだ。これはサヌカイトが特に急冷されてできた石であることを物語る。ガラス質は黒曜石などと同じく、鋭い刃をつける石器に最適だ。そのため、サヌカイトは、名前で有名になった香川県産ばかりではなく、みんなも知っている二上山産でも旧石器時代から弥生時代にかけて、さかんに石器に利用されていった。
 なお、香川県下では、7カ所でサヌカイトが見つかっているが、その成分の微妙なちがいにより、それぞれの産地が特定されるという。サヌカイトは、類似の石もあわせて『サヌキトイド』と総称される。

 サヌキトイドは、この二カ所に終わらず西南日本の数カ所で発見されている。また香川県下の1300万年前をはじめとして、生成されたのが1400から1200万年前の間だけであることがわかっている。それはサヌキトイドがふつうの安山岩によく見られる化学組成以外に、マグネシウムを極端に多く含んでいること(学会での呼び名は、高マグネシア安山岩)から判明した。
 マグネシウムが多くなるには、マントルの物質に多くの水が供給されなければならないというが、この時代の少し前、1500万年前くらいからアジア大陸にくっついていた日本列島が日本海の拡大により太平洋に向かって押し出された時期があったという。それによって太平洋の水をいっぱい含んだ堆積物の上に乗り上げ、その堆積物が日本海溝からマントルに引きずり込まれ、マントルに水が供給されたからと想定されている。そのため西南日本に一時的にサヌカイトのできやすいマグマが発生したと云うわけである。
 1500万年前の日本列島は二上山近辺に限らず、現在の地形で云えば、屋久島から九州・瀬戸内海・四国の足摺岬をこえ、紀伊半島の奈良・三重県境の室生を抜け、千葉の銚子あたりにかけて短い期間であるが、全域にわたり火山活動が起った。渓流教室で、赤目の地勢を学習した時にも述べたが、先の室生をはじめ、大和三山の畝傍山・耳成山や生駒山周辺も激しい火山活動があった(左図は「上記「大地のおいたちより))。

 二上山は約1300万年前には活動を終えたが、その間サヌカイトなどの安山岩の生成だけではなく、屯鶴峯の白い凝灰岩の景観や、石切場火山岩(シソ輝石ザクロ石黒雲母デイサイト)と呼ばれる岩石にザクロ石を大量に含むような地殻変動が続いた。それらの岩石が長い間に風化し、周辺にザクロ石が大量に堆積した。「金剛砂」である。
 これらは平安時代から昭和初期までさかんに採掘され、利用されていた。平安時代には天皇の住まいの御所の敷き砂としても利用され、室町時代には、特産品として税の代わりに納められた。江戸時代の終わりには、瑪瑙の研磨用として利用され、その後戦闘機のガラスを研くのに利用されたり、サンドペーパーの材料として盛んに使われた。

 金剛砂の中にはザクロ石ばかりではなく、サファイアや石英・ジルコン・紅柱石など、さまざまな小さな鉱物が含まれているが、このサファイアを産する元の岩石は見つかっていない。しかし、この石切場火山岩に「捕獲岩」となっている片麻岩礫の中に含まれているのではないかと考えられている。