『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

コラム・立体授業の報告①

2013年07月27日 | 学ぶ

巣箱づくり
 指導や企画を一人で展開しているため、気になりながらホームページの更新がおろそかになっています。困ったものです。今週から2~3回は、このページで最近の立体授業の取り組みについて紹介します。

 立体授業は、何よりも学習内容および日ごろの学習と環境をふくめた日ごろの生活との「疎外感」を克服するため、また学習内容に対する親近感を手に入れる「環覚」を養成するための取り組みです
 渓流教室や米づくりなど恒例の定期活動はもちろんですが、毎年、それ以外に遊具づくりなどの工作や作業を企画し、とりいれていきます。表面だけを見れば、「おもしろそうだな」という感想で終わるかもしれませんが、次のように考えていくと、とても大きな意味をもっていることがわかります。

 

 小さいころを振り返ってみると、季節ごとに自然の「生業!」と密着した遊びを楽しんでいました。家の近くに豊富にあった竹を使うことだけを考えてみても、今の子たちの花粉症など信じられない「スギの実でっぽう」や「蛇のひげ」の実鉄砲。水鉄砲はもちろんです。
 竹ぞりや竹の下駄・竹馬・弓矢・竹とんぼ、時には刀やバットにもなりました。そして、長い竹の先を割って二股にすると、手の届かない柿の実を「もいで」取る道具に変わりました。となりのおじさんにたのまれ、野菜畑の支柱とりに走ったこともあります。
 つまり、身近にあるもの、目の前に生えているものを加工して遊具や道具をつくっていたのです。たいせつな遊び道具や道具の材料を探す、そうした日ごろの習慣は、何よりも環境に対する注意力や観察力・親近感を養ってくれます。自然という学習対象に対する「馴染み」です
 前にも触れましたが、遊び道具を上手につくるには「吟味する」ことが不可欠です。それぞれの目的に合致したものであるかどうかを、まず見極めなければなりません。適当に考えて、適当に選んで、適当に作業をすれば、目的のものをつくることができません。

 それぞれの過程では完成イメージとそれを作りあげるべく生の材料や作業との対比や照らし合わせがおこなわれることになります。脳のはたらきがわかるようになった今、こうした作業や行動がメタ認知の育成に、いかに役立つものであるかが想像できます。
 つまり、組み立てキットを使う工作や遊びと、材料から選別を始め、目的に応じた加工を手探りですすめながら、技術とイメージを磨いていく工作や遊びが、脳の発達にどれだけのちがいを生み出すか、ということです
 そして、もうひとつたいせつなことは、作業いずれも、その多くが季節を感じさせるものでした。「室内でエアコンと人工光源のもとでの、年中寒暖から遠ざかることが多い生活」と、「夏でも涼しさがこの上ない、清流の日陰のひととき」で「全身から手に入るもの」のちがいは計りしれません。
 「感覚をもとに生きている」のが人間です。「感覚が変わるということは育っていく人間が変わる」ということです。小さいころのこうした経験がこどもたちの成長に与える影響は、目には見えませんが、おそらくぼくたちの想像をはるかに超えるものではないでしょうか?

 さて、今年の前半も二つの新しい取り組みをおこないました。巣箱づくり(掛け)、アジメドジョウ捕獲。
 現在の教室に引っ越してきたとき、知り合いの大工さんが、造作で余った建築用材を、子どもたち用にと残しておいてくれました。外壁用の材料だったので、そのときは「犬小屋づくり」くらいしか思いつかず、外のテラスの下に保管しておいたのですが、ずーっとそのままになり変色し、痛みかけてきていました。
 4月の筍掘りで飛鳥路を歩いていたとき、瓦屋根の上のスズメを見て、ふと思い出したことがありました。小さいころ、近所の屋根に上って、瓦の間のスズメの巣から小雀を「誘拐」したことです。「そうだ、教室の軒先に、みんなで巣箱をつくってかけてみよう。あの古い板は、彼らの警戒心をとくのにちょうどいいかもしれない・・・」。

 帰ってからインターネットや本でいろいろな巣箱の設計図を用意し、それぞれつくりたい巣箱を子どもたちに選ばせました。土曜日に立体授業の時間を設けています(不定期)が、子どもたちに設計図通りに板材を切らせ(もちろん、一人でです)、木ねじや釘で組み立てるまでの作業をさせます。一回二時間で三回、計六時間かかりました。
 もちろん、来年受験する六年生三人も一緒です。ガリガリ受験勉強をさせている家庭なら、「何とも暢気な、無駄遣い・・・」と思うかもしれませんが、子どもたちが、何度も釘を打っては抜き、という試行錯誤をくり返している内に、覚えられるかけがえのないことがたくさんあります

 それは「立体」を頭の中で描けるようになるイメージづくりの練習であり、自らの作業や行動を客観的に見続けるメタ認知の発達です。また、がまんして自ら完成するという自信や満足感です。みんなが仕上げて巣箱を掛け、二週間もたたないうちに、二羽のスズメ、チュンキチとピーコ(名前をつけました)がG君の巣箱で巣作りを始めました。予想通りで、子どもたちも大喜びでした。
 ぼくたちは、すぐには見えない・結果が出ないことを、「ないもの」「意味がないもの」と判断しがちですが、子どもたちの指導や教育の結果が、早々すぐに現れるものではありません。そして、そういう目に見えない力こそ、後々大きな威力を発揮するものだと信じています。子どもを育てるときは、そういう余裕を決して忘れてはいけないと思います
 来週はコラム・立体授業の報告②「アジメドジョウ」の捕獲です。


「学体力」が過保護を超克する⑩

2013年07月20日 | 学ぶ

「考える」機会・「考え続ける」チャンスが奪われていく日々(続)
 作業や行動の過程での思わぬ失敗や降りかかる難題・やむを得ぬ必要性によって「学び」はすすみます。「考える力」が身につきます。

 特に、野外でのインプット・アウトプットを伴った全身を使った活動の場合、感覚器官・脳のはたらきも、そのスケールがちがっているはずです。記憶に関わる印象度もまったくちがいます。そのくり返しによって生まれた経験と工夫で、新しい問題を解決する力が身につき、「生きていく力」も育まれていきます。
 かつて3Cといわれた機器。家事や日常生活を「快適」にする「便利な道具たち」。その発達によって、ぼくたちは「文明の利器」の恩恵に浴する一方で、疑問に思う機会やたくさんの考えるきっかけを失ってしまいました。
 ここ四半世紀は特に、道具のメカニズムやシステムが多くの人の知識水準を遙かに超え、「成り立ちやしくみを考えてみる」というような「身近な感覚」からは遠ざかりました。「スイッチを押す」だけで「考えなくてもよい」。さらに「スイッチ」があるから「考える必要がない、考えてもわからない」という「考えることを放棄する、放棄せざるを得ない」時代が始まっています。
 小さいころから「便利な機械」の中で育つことは、「考える」機会が少なくなるということです。子どもたちの「考える力」が育てられるきっかけの多くは「スイッチ一つの楽な体験」ではなく、「動き、考え、動きという身近なアナログ体験」から得られるはずです。
 「不思議に思うことや疑問に思うこと」、それを「考えること」。子どもたちの日常生活は、かつて遊ぶこと・手伝うことをふくめ、さまざまな一連の作業や手順からなっていて、そのそれぞれに考えることや小さな問題を解決する経験がともなっていました。

 魚を釣ろうと思えば、まず釣り竿づくりから始めなければなりません。竹の種類の判断・竹が生えている場所の探索・生育の年数・太さ長さ重さの判断・しなり具合、そして切り出し、枝の払い方や使い勝手の工作。ざっと振り返っても、これだけの作業や手順を踏み、考え、経験を積みます。意識はしていませんでしたが、すべて考えることがともなっていたはずです。

 コンピューターの操作はどうでしょう。指先でのキーボードの操作。理由がわからない突然のフリーズ。操作とは別に勝手にピョンピョン飛び跳ねているキャラクター。「中身を知ることが出来ない、知るまでには至らない道具」。素人が分解しても判断は不可能で、無意味です。手がかりがありません。
 身体を使い簡単な遊び道具をつくり、道具使った経験で身についた感覚が勘を育て、「しくみや成り立ち」を理解することで道具の使い方や行動の意味がわかります。手作りですから、思うようにならない作業の過程で「がまん」を覚えます。

 失敗を「肌で感じ、考えていく」なかで応用力や創造力が育まれていきます。多くのこうした「考える機会やきっかけ」がなくなってしまっているのが現代生活です。子どもが「考えられない」という大きな原因の一つに、こうした日常生活の変化は関係していないでしょうか。
 いずれにしろ、「考える習慣」「考え続けるきっかけ」がどんどん少なくなっていきます。小さいころに「考えること」・「考え続けること」を学ばせたいという指導方針の根っこがわかっていただけたでしょうか。

 「学体力」の飛躍は「考えること」・「考え続けること」によってはじまります。そして、「学ぶおもしろさ」は「考えること」によって、「自らの環境や目の前の問題を自ら解決できたこと」ではじまります。そうした環境が日常生活から失われて行きつつあることはまちがいありません。それは、見方を変えれば、学ぶおもしろさを「獲得」する貴重な機会の喪失です。

 相変わらず教育ママゴンや受験社会で強制されつづけている、多くの子にとって「がまん」だけの受験勉強とゲーム三昧の「息抜き」。この「二点セット」では、夢多いはずの小学生時代も、まるで日曜日のゴルフやテレビ観戦「だけ」を楽しみに日々を送る、「生活に疲れたサラリーマン生活」です。 
 自らの学生時代の想い出や反省を踏まえて、できればこれからの子どもたちには少しずつその状態からの脱出を図ってほしい。「学ぶおもしろさ」を取り戻してほしい。「学ぶおもしろさ」がわかれば(身につけば)、たとえば「勉強嫌い・理科離れ・学力低下・・・」などの、勉強に関わる問題点はほとんど解消します。ぼくは、今それを夢見、方向を探っています。


「学体力」が過保護を超克する⑨

2013年07月13日 | 学ぶ

 「考えることができない」「考えるということがわからない」。

 前回、教室での指導上の例を挙げて、そのようすを説明しました。そして、子どもたちが「学ぶ面白さ」を獲得するためにたいせつなこと、それは「考えること・考えつづけることができるようになること」だとお話し、「しつけ」の欠如・「過保護」に端を発した「小さなきっかけ」による「大きな」問題の原因を探ってみました。

 しかし、「考えることができない」「考えるということがわからない」子が育ってしまうのは、他に、もっと原因があるからではないか。子どもたちの生活や行動の様子を間近に見ていくなかで疑念は消えません。

「考える」機会・「考え続ける」チャンスが奪われていく日々
 原因は「日々の生活」ではないのか?

 「考えることができない・わからない」という状態は、見方を変えれば「考える必要がない」・「考える機会がない」という前提があるためです。つまり、「考えなくても困らない」、「考えるステップが必要ない環境がある」からではないのか。「考える」機会喪失です。
 「文明の発達・文明の利器」。機器の発達によって「便利になった、楽になった」・・・と、ぼくたちは無邪気に喜んでいますが、楽な方・便利な方へという欲求がエスカレートすればするほど、「一部の利口と多くのバカ」という方向に進まざるを得ません。つまり、考えなくてもよい、考えられない人をつくる社会です。
 「楽」と「便利」の行き着くところは、いずれにしろ時間をかけなくてよい方向、手をかけなくてもよい方向・考えなくてもよい方向に集約されます。「楽になる」・「便利になる」ということは、日ごろの生活を「より高度な技術開発」で置き換えていくということです。

 それは「高い能力をもち高度に専門化した知識や最新の技術によってさまざまに商品開発・システム開発を進める少数派」と、「つくられた道具たちを、何も考えずマニュアル通りに利用するだけの多数派」ができる方向です。一部の研究者・技術者の高度な知識・先端技術の開発が進む一方、一般の人たちの生活シーンのなかでは一種の「魑魅魍魎」がつづいていくという構図です。
 機械や技術がスマートに洗練されるほど、起きてしまった問題や欲求に対して、自ら答を求めたり、解決策を考えつづけたりする必要はなくなります。それは個々人を見ていけば、「考える力」がおとろえ、「考えつづける力」が退化していく方向に他なりません。
 そんな現実を見過ごしてしまって無邪気に喜んでいる場合なのか。「時代が進み、便利になった」と喜ぶのではなく、ほんとうは「考えていく機会を奪われていくこと」に対して悲しむべきではないでしょうか。
 お母さん方にわかりやすいように、ご飯を炊くようすで振り返ってみましょう。

 どの家庭でも今はほとんど炊飯器で、蒸らすまで全部自動です。昔のように蒸気や噴きこぼれを見ながら薪を足し、においや立ち上がる湯気を見て火加減をする必要はありません。
 「お釜のふたを開けて布をかぶせ、あるいはお櫃に入れ・・・」という身体や頭を使う細かい手順や作業も必要ありません。「べたべたのご飯をつくらないように水分を飛ばすだけなら、「蓋を開けたまま」ではなぜいけないのか。問に正しく答えられるお母さんはどれだけいるでしょうか。

 手作業を積み重ねながら失敗と原因の究明・考察を重ね、次第に上手に炊けるようになっていくという経験はできなくなりました。炊飯の経緯について経験や失敗から考えを進める人は、今何人いるでしょうか(ちなみに、電気釜の新発売は一九五六年です)。
 なぜ布をかぶせるのか、なぜお櫃に入れるのか。なぜその作業が必要なのか? 作業の過程で不思議に気づき、疑問に思う機会があって初めて、その意味や理由を考えます。つまり「考えること」が始まります。考えることによって、学ぶことのたいせつさが自覚できます。そのたいせつな経験ができる環境は今整っているでしょうか?


「学体力」が過保護を超克する⑧

2013年07月06日 | 学ぶ

「考えることを知らない」子どもたちⅡ

 

 

「考えることができない」「『考える』ということがわからない」。問いかけや質問・問題をいったん頭の中に落とし込んで、与えられた問題文や材料に着目し、その後「問われたことに対する解答を紡いでいく」、あるいは「導き出していく」。それができない子が少なくない。前回は、そういう問題提起でした。

 数ヶ月前、こんなことがありました。算数の問題を解くとき、問題文に出てきた数字を自分勝手に計算してしまう、つまり本来なら「わり算」で答が求められる問題を、かけ算や引き算など、あり得ない対応をしてしまうのです。わり算の文章題にかけ算をするので、「この答えは『かけ算』では求められないだろう?」というと、次は引き算をしてくる、という具合です。
 何度言っても同じことをするので、ぼくも最初、生まれつき『頭が悪い』のではないのか、と思いました。しかし、日ごろ友だちと遊んでる様子や課外学習での行動を見ても、そんなはずはありません。
 ふと思いついて、
 「『かけ算』とか『わり算』とか、学校で習わなかったのか?」と聞きました。
 「習った」
 「そうしたら『かけ算』をするか『わり算』をするか、練習しただろう?」
 「した! でも、あまりわからなかったので先生に聞いたら、わからなかったら、上(計算ドリルの表題です)に書いてある計算をすればいい、っていわれた」。

 おどろきました。つまり、「どう計算すればよいかわからないときは、かけ算と書いていればかけ算をする。わり算と書いていればわり算をする」と教えられたのです。
 信じられますか? 実話です。彼は「問題を読んで計算方法を判断する」のではなく、ずっと「表題!」を見て計算をしてきたのです。そう覚えてきて、ずっとそれを通してきたのです。「考えてきたのではない」のです
 塾の問題やテストは、あたりまえですが、「かけ算」や「わり算」という「表題!」はありません。どう計算して良いかわからないので、好き勝手・でたらめに計算していたというわけです。
 一人っ子で甘やかされていたので自己主張が強く、「話を最後まで聞く」ということも、当初できませんでした。しかし、頭が悪いわけではないので、修正指導は十分可能だ。一生を考えた場合、このタイミングが、この子の人生の大きなターニングポイントになる・・・。そういう判断でぼくは、「わがまま」にも少し厳しくあたることにしました。

 子どもたちの指導を始めて、「『考える楽しみをもてる人』と前回の例のような『考えることが苦手な人・考えたくない人』という相違が生まれるのは、ほんのちょっとしたきっかけの差だ」と考えられるようになりました。しかし、そのちょっとしたきっかけの差は、一生取り返しのつかない大きな相違に変わります。
 こうした現状に対して何ら適当な対策がとられず、放置されたままの指導がつづいている、今はそうではないですか。現象や問題を表面的にとらえただけで単純に「頭が悪い」と判断し、原因を掘り起こして解決を図ることをしない、「本来求められるべき学習指導」がないがしろになってしまっている、そんな気味はないでしょうか?
 小学校では、そうした欠点に気がついた先生がいたとしても、なかなか克服させることはできません。なぜなら、多くの場合受け持ちは一年間ですから、進級の段階でゼロにもどり、「その状況を解決する」という個人ベースでの引き継ぎは、ほとんどできないのではないでしょうか。学習に対するイメージが定着してしまってからでは、中学校での軌道修正はなおさら困難です。
 一方、名うての受験塾の指導では、「用意された受験用問題に対して用意された解法や答を効率よく覚えていく」、そんな指導が行われているのではないでしょうか。こうした学習指導の中で、果たして「考えつづけること」が始まるでしょうか? 「考える力」が本当についていくでしょうか? 
 先ほどのような子には、「話をちゃんと聞く」ように注意しつづけ、「ていねいに本(文字)を読むこと」、あるいはおもしろそうな本や文章を「筆写させること」、「漢字やことばを調べること」、「自らの答えたことを考え直す機会を何度も与えること」などの「地道な指導」を日々つづけてください。
 もちろん、一筋縄ではいかないし、指導には「年単位」の時間もかかりますが、次第に本来の頭の良さと「質問」や「問いかけ」がきちんとかみ合い、「考えること・考えつづけること」ができるようになります。元々頭が悪いわけではないのですから、いったん「考えることの要領」がわかると、素晴らしい進歩を見せ始めます。
 そもそも「考えること」ができないと学習は始まりません。「考えつづけること」ができないと、学ぶ面白さは生まれません。病的な場合はべつですが、小さいころなら多くの場合、修正は可能だと思っています。

 団のOB諸君の成長ぶりを見て、指導の如何によっては有名進学塾や進学校のトップクラスの子に負けず劣らず能力を発揮できる子が、まだまだたくさんいるのではないか。「頭が悪い」と誤解され、本人は「勉強なんか嫌い」と思い、その貴重な才能を「どぶに捨ててしまっている」という例は数知れないのではないか、と想像しています。
 子どもたちの成長の過程でいちばんたいせつな「学ぶ面白さ」がわかるためには、まず「考えること」ができなければなりません。ぼくたちは、「問題や疑問を考えつづけ、それらを自ら解決すること」によって大きな喜びを手に入れることができます。
 その体験が「問題を解決するために要した努力」即ち「学ぶこと」のたいせつさやおもしろさを教えてくれます。そのくりかえしが「学ぶことのたいせつさ」の再確認となり、「学ぶ面白さ」が定着します。
 この章を読んでいただいた人のなかには、こうしたちょっとしたきっかけで勉強が嫌いになったのではないか、と思い当たる人もたくさんいるのではないでしょうか。
 先週、「考えることができない子」「『考える』ということがわからない子」が増えているのではないか、と書きました。次週は、「どうして『考えられない子』が増えてきたのか」を探ってみます。