『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

立体授業とは何か? ⑪

2015年01月31日 | 学ぶ

「ほとんど何も知ろうとしない」を克服するには
前回、「ぼくたちは、この世界のことをほとんど何も知ろうとしない」というカール・セーガンの言葉を引用しました。それは「おもしろくなるまでいかないところ」で「考えること」が終わりつづけてきたからではないか。その原因は、「忘れている」・「気がつかない」・「知らない」・・・「ふだん考えることが日常的・現実的(?!)なことばかり」で、それ以外のことは思いつかないから。そうではないでしょうか。つまり原因は自らの経験不足・習慣不足・体験不足であり、習った先生や指導者の指導不足(「力」とは言いません。みんなができると信じているからです)ではないのか。

 学校や教室では習ったことがあっても、あくまで、ただ受験知識やテスト問題としてのみ、受験やテストに対応するだけの一面的な見方で問題提起され、解法を指導され、その知識が『ストック』されてきただけ。「今現実に生きている世界のこと・存在・現象である」という認識までには至らない、「そこまで思いが届いていなかった」からではないでしょうか? その習った知識やテーマをもとに「考え」始めたり、対象を「探して観察」を始めたりすることがないまま、受験対応で終わった記憶が片隅に追いやられている・・・だから考えないし、ほとんど何も知ろうとしないのでしょう。そのままでは『なるほど』や『そうだったのか』という、学ぶこと・知ることがおもしろくなるきっかけはつかめません。当然「次を知ろう」とはしません。

 それによって「知識」や「理解」の『増幅』も行われないので、好奇心を惹かれる対象も、年齢とともにどんどん少なくなります。好奇心がわき起こる子ども時代から、このように逆の「負の」過程をたどっていれば、それが習慣化し「ほとんど何も知ろうとしない」し、「考えようとしなくなる」のは当たり前です。 
 「好奇心」を刺激し、「観察」と「考える」機会をできるだけ増やそうとする、それによって自らの「環境」が立ち上がり、「おもしろいこと」、「考えること」が増えてくる。それが『環覚』の養成であり、子どもたちが『学ぶおもしろさ』を手に入れることができる最善の方法のひとつである、僕はそう考えて今方法を探っています。

 そのためには、日常生活や数少ない自然体験の際、『何を見、何をし、何を考えるか』がとてもたいせつになってきます。先にお話しした、日ごろ実際にはほとんど意識しない『方位』や太陽の「通る道」に対する『焦点』も、そのきっかけづくりです
 現在、学校など多くの教育機関で、林間や臨海学習・遠足が行われていますが、せっかくのその機会が、十年一日ありきたりのバーベキュー・キャンプファイアーや肝試しの『背景』に終わってしまっていれば、学習対象や学習内容との関連は薄く、決して「子どもたちの興味を掘り起こす」ところまではいきません。

 指導者も子どもも、「偶には遊園地やテーマパークに遊びに行くか」と似たような感覚から抜け出せなければ、日常生活で「不思議」や『感動』を発見するまでは至りません。「教室」での学習内容や学習対象に「日々の体験」が「リンク」することによってはじめて「好奇心」や「関心」が立ち上がり、学習に対する「興味」がわき起こってきます。しかし、そのつながりがもてないわけです。ほんとうは小さな狭間なのに、実に大きな境界になってしまっているのです。  
 カール・セーガンのいう「ほとんど何も知ろうとしない」を克服するためには、この小さな『溝』を埋めることが必要です。知的な人、そして高い学力を期待するのであれば「環覚」の養成によって、この『溝』をまたぎ、日々の生活の中でも「そこに何があるのか」、そして「それはどうしてなのか」ということが始まらなくてはならないと考えます。

駅へ向かう道の話

 方位・太陽の通り道・コケの続きです。駅へ向かう道、つまりぼくたちがふだん通る道でも面白い(面白くなる)ものが見つかります
 先日樹脂の鉢を突き破った根の話をしましたが、団のある鶴橋・桃谷近辺には、どういうわけか「桐」の木が多く残っています。傍を通り、大きな葉っぱを見たとき、子どもたちに説明したいことがあります。

 これはもちろん、「桐が試験に出るから」ではなく、身近な存在としてのなかまが増えることによって「気づくこと」のトレーニングが進み、環境に対する親近感も増すからです。
 日本国内でとれる木材としてはもっとも軽く、比重は0.3,湿気を通さず割れや狂いが少ない、発火しにくいという特徴があり、高級木材として珍重されてきたこと。高級下駄や箏・タンスの材料であること。特に桐タンスと言えば高級家具の代名詞であり、洗いをかけたり、丁寧にメンテナンスを施せば、何世代にもわたって使い続けられるものであること。
 生長が早いので、昔は女の子が生まれたら桐を何本か庭に植え、結婚する際にはその桐でタンスをつくり嫁に出したこと、だから所々によく残っていること。これで街中にも多い謎も解けました
 また、歴史的にも鳳凰の止まる木として神聖視され、天皇家などで「菊の御紋」に次ぐ高貴な御紋とされ、豊臣秀吉が下賜されたり、勲章の意匠や500円硬貨にも利用されていること。内閣総理大臣の紋章でもあり、ぼくが行った大学(東京教育大学)の校章でもあると・・・。

 何気なく駅への道筋に生えている樹木も、こうした展開を始めれば、子どもたちの前で「親しい存在」として立ち上がってきます。ふだんは目も留めない木ですが、如何にぼくたちと深くかかわりながら生きてきたのか、その歴史がわかれば子どもたちは「放っておきません」。その経験によって桐だけではなく、他の木に対する興味や関心も生まれるでしょう。「環覚の芽生え」です。  
 駅への道際には神社もあります。そこは夏期講習の際、休憩のひとときに蝉の脱皮を観察するところであり、みんなで『釘立て』をして遊ぶところでもあります。どこもそうですが、神社には大きな楠が植えられています。楠という名は「薬の木」または「臭し木」から生まれたという説があります。
 葉をちぎると独特の匂いがします。名前から想像されるように、かつて、その葉や幹、根皮から防虫剤等で使われる樟脳の原料が採られていました。英語名から樟脳は『カンフル』とも言われます。昔から「だめになりかけたものを復活させる」のに『カンフル剤を打つ』という、あのカンフルのことです。

 虫に強いので、飛鳥時代は仏像彫刻によく使われました。歴史教科書に出てくる中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像も楠材です
 また家具・船の材料としても珍重されました。殺虫成分があるので落葉しても(常緑樹です)微生物による分解がなかなか進まず、楠の周りだけ落ち葉の層が厚くなるようです。
 大気汚染に強く、病害虫耐性もあるので街路樹にも向いています。丈夫で長生きするので、日本の巨樹(幹周り)ベスト10のうち8本が楠です。鹿児島にある1位の楠は樹齢1500年、高さ30m幹周りが24m以上あるといいます。
 このように調べ考えを進めると、身のまわりの何気ない対象もさまざまに学習内容と関わっていることがわかります。こうして、子どもたちは学習対象の「肉付き」を手に入れていきます。それが面白くなり忘れない秘訣であり、学習が次のステージに進むスプリングボードにもなります
なお、今週は最近読んで役に立った本を表紙の写真で紹介しておきました(なお、新刊ではありません)。

なお、学習探偵団では2月度新入生を募集しています。
 腕白ゼミ(特進2年生・3年生)・基礎課程・充実課程・発展課程(それぞれ若干名)。
 卒業生のようす・クラス編成・指導法は、ブログ各編・ホームページをごらんください。


立体授業とは何か? ⑩

2015年01月24日 | 学ぶ

わたしたちは、この世界のことをほとんど何も知ろうとしない
 スティーブン・W・ホーキング博士の“A  BRIEF  HISTORY  OF TIME ”〈A Bantam Book ,引用部分はINTRODUCTION by Carl Sagan〉にこういう一節があります。拙訳で紹介します。

 わたしたちは、この世界のことをほとんど何も知ろうとしないまま、日常生活を送っている。生命の存在を可能にしている太陽が光を生み出すしくみや、回っている地球が振り飛ばさないように私たちをつなぎとめている引力、あるいはわたしたちをつくりあげている原子や、わたしたちが信頼を置いているそれら原子の安定性についても、ほとんど考えることをしない。
 
 引用では、主語は「わたしたち」になっていますが、これはもちろん『あなた方』にすれば顰蹙を買うので、謙遜していることは明らかです。これは1988年のコメントで、状況が多少変わっているかもしれませんが、それでもなお僕たちの一面をよく表している感想だと思います。その通りです。

 しかし、ほんとうの問題はここからです。なぜ、そうなのか? わからないことが、いかにも残念です。その原因と理由について、いちばんはっきり究明できるはずの一流の科学者から、まとまった考察を聞くことはできません。それがなければ、次世代も同じことの繰り返しが続きます
 「一流の科学者や優れた頭脳をもつ人たちは、多くの場合、その高い能力や鋭い感覚の故に、今のステージで躍動するようになったことが追究を重ねるほど不思議なことではない」のではないでしょうか。
 さらなる高みを目指さなければならないが故に、また自ら考えることがおもしろくてしかたがないが故に、どこで、どうしてそういう能力が身についたか、凡人が指導の参考にできる小さいころの姿を分析する必要や時間がないのかもしれません。

 
優れた頭脳を発揮する前、「何をどうして」いたのか。抽象の科学を展開できる前、「何を見、何を感じて」いたのか。知りたいのはそこです。
 今子どもたちを育てているぼくたちは、その「どうして」を考えなければなりません。宇宙の不思議や自然・科学の課題の解明・考察をする前に、「ふつうのおとなは、なぜ考えなくなってしまったのか?」を見極めなくてはなりません。ぼくたちのように『考え(られ)なくなった』大人を再生産しないためにも、大きな可能性をもつ子どもたちの未来に夢を託すためにも。

 前回(先々週)は立体授業「土筆ハイク」の紹介で、「指導は朝教室を出た時から始まっている」ことをお伝えしました。その理由です。
 ぼくは、『考え(られ)なくなった』大きな原因は、「自らの周囲のSOMETHING」に向かう「環覚」の欠如にあると考えています。子どものときから「自らが生きている世界」に目を留め、不思議に気づいたり、考えることなく、「学習」として「受験勉強」としてしか「科学(!)」を消化してこなかった結果だと思います。

 つまり、「テストの点」にさえなれば満足で、「それ以上」を考えることがなかった・考えることを教えてもらえなかった人が多かったからではないでしょうか。そのころ、実際に「周囲のSOMETHING」に自ら目を留め、小さな不思議にでも気づいていれば、その後は大きく変わったのではないか。そう思えてなりません。
 課外学習の駅までの間、つまり何気なく通るふだんの道にこそ、子どもたちの興味をひき「環覚」を育てるためのテーマが「転がって」いるのではないか。それによって、「環境」に目を留めるきっかけが生まれるのではないか、そう考えています。(なお、こうした指導法については、ブログ「ファインマンの父とエジソンの母」等を参照してください)

 引用のような疑問・考察に目が向く大人になるには、「偏差値」や「志望校」にがんじがらめにされた環境・「受験勉強の積み重ね」だけから手に入る知識や結論では望み薄でしょう。子どもたちには、それらの解明や考察に向かう、好奇心や興味の喚起をもたらしてくれる前提を用意しなければならない。「凡人」のぼくたちに課せられた「数少ない(?!)」使命だと思います。
 生きている『場』に自ら目を向けてほしい。自ら『考える』というきっかけを見つけてほしい。自然の生業や不思議に興味をかきたてられ、その道理を考え、「しくみ」や「過程」を考察していくような「現場感覚」がないと奥行きが狭く、興味や関心・考察も長続きしないのではないでしょうか。また、このように指導をつづけることで、「理科離れ」の解消も進むと思います。

立体授業は「通り」から始まる(続)
 さて、前回、立体授業の一例として、駅へ抜ける道横の空き地に生えているコケは「方位を考える手がかり」になるし、「プラスチックの植木鉢を突き破っているたくましい根は、植物等による岩石の風化・変遷の学習」になることをお伝えしました。その後の展開です。

 この「コケ」と「植物の根による岩石の崩壊」等の指導は、「それだけ、その場所だけ、そのときだけ」では終わりません。団の立体授業は、田舎へ出かける課外学習が年間十数回、それ以外に教室での関連指導や生育作業など、同じく年間十回程度の補助授業があります。その中では同一の対象に何度も出会います
 川岸に同居する岩とコケ、苔むす樹木、切り立った断崖・・・。実見と指導で、子どもたちの中で、それぞれの対象は存在感を増していきます。もちろん、これらに限らず、体験や観察の機会が増えるごとに、さまざまなテーマが子どもたちの中で、居場所を占め、「立体的に」組みあげられていきます。

 ここで「土筆ハイク」のスライド紹介をちょっと思い出してください。土筆は「生きている化石」である「トクサ」の仲間でした。トクサやスギナはシダ植物でした。そこにコケが現れます。両者を比較することで、植物の進化におけるからだのしくみの大きな変化、「維管束」の成立と存在が、子どもたちの眼前にはっきり意味をもって現れます

 立体授業では、この後タケノコ掘りやクワガタ探しで竹やクヌギやナラが現れてきます。コメ作りの稲も仲間に加わります。植物の進化や生態が被子植物までたどれます。植物の総体が身近な存在として立体的に立ち上がってくるしくみがわかっていただけたでしょうか。もちろん、一方では、蛍狩りや渓流教室での折々の動物との遭遇と指導で、動物の「総合」学習も進んでいきます。

 ちなみに、もう一方の「岩」の方では「でっかいナマズ釣り」での河原や「もち鉄探し」「トレジャーハンティング」「土器づくりの粘土」などの取り組みを通じて「石ころ」の成り立ちやしくみ、その「一生」の転変も理解していくことになります。「道」で出会った「コケ」と「岩石と根」の学習は、こうして、その都度「仲」や「親せき」を集めながら立体的に関連し、子どもたちの頭に収まっていくことになります

 しかし、こうした指導は一年間・ワンクールだけですべての子に大きな効果があらわれるとは限りません。はじめる時期が大切です。特に、「4年生半ば以降まで『今風に』甘やかされ、時間があればゲーム三昧」というような、けじめのない状況では、自然や野外でのおもしろさに目覚めることはむずかしくなります。「他にもこんなにおもしろいことがある」という意識にはなかなか至りません。残念なことです。
 4年生以降特に5年生以上になると、このように、「おもしろいけど、ゲームがいい」という程度の子が増えます。「外に出るよりゲーム」というわけです。これでは環覚の発達は期待できません。

 左のOB諸君の在籍年と進学先を参照していただければ、こうした指導を始めるのには3年生ぐらい(まで)がよい」ということもよく理解できるのではないでしょうか。

 立体授業と日々の学習を進めながら、子どもたちは、団で、さらに「やらなければならないことはやらなければならない」「やってはいけないことはやってはいけない」という、ごく当たり前のこと・社会で生きていくための基本も覚えていきます。(ブログ『米作りで学ぶこと』ほか参照)
哲学と科学を成立させたもの
 最後に先ほどのホーキング博士の著書のカール・セーガンの序文、後半部分を紹介します。
 
 これらのたいせつな質問をしなければ、十分わからないという子どもたちをのぞけば、わたしたち大人はほとんど、なぜ自然界がそうなっているか、宇宙はどこから生まれたのか、それともずっとここにあったのか、いつか時が逆転し原因の前に結果が来ることはないのか、人間が知りうることに究極の限界はあるのか、などを不思議に思って多くの時間を費やすことなどない。(中略) わたしたちの社会では今なお、親や先生たちは大抵、これらの質問に首をすくめたり、おぼつかない宗教の教義を思い起こして答えることが慣例である。中には、人間の知識の限界がはっきり露見するのが嫌だという理由でこうした議論を不快に思う人もいる。しかし哲学にしろ科学にしろ、その多くが、こうした疑問によって進歩を遂げてきたのだ。(前掲書 拙訳)
 
 こうした『環覚』の育成によって子どもたちの関心や興味が向かうところは、決して『理系』のみには限りません。引用にあるように、団のOBたちの進路も、阪大の「哲学」専攻をはじめとする文系にも開きました。幅広い『環覚』がそれを可能にしたと僕は信じています。
 なお、学習探偵団では2月度新入生を募集しています。
 腕白ゼミ(特進2年生・3年生)・基礎課程・充実課程・発展課程(それぞれ若干名)。
 卒業生のようす・クラス編成・指導法は、ブログ各編・ホームページをごらんください。


2015/1・19中学受験速報

2015年01月19日 | 学ぶ

2015中学受験速報
*入塾テストはありません
*単一クラス・指導者ひとりでの実績です
*今年の6年生は全員中学受験志望・計3名
 なお、OB教室を経た大学進学実績等、詳細はリーフレット/ブログ「学体力は偏差値を超克する」等をお読みください

 

学探兄弟の近況です、長男の太郎はバイクに乗って赤目四十八滝へツーリングに行きました(笑い)。