教育界とは、まったく異質の業界や仕事での多くの経験は、子どもの学力や行動・成長の過程を見るときにも、
ぼくにさまざまな視点を用意してくれます。しかも、授業などすべてひとりでの指導です。
(サポーターとして課外学習や野外体験に同行していただく保護者の方々は別として)
課外活動や野外体験などの引率で、食事・宿泊等をともにすれば、
それぞれの子どものあらゆる側面をつぶさに見ることができます。
さらに、その後、前述のようにOB教室に参加してくれれば、
短くとも四~五年、長い場合は十年近く、その成長のようすを客観的に見続けることになります。
したがって、学習姿勢や態度もふくめて、その行動や振る舞いのほとんどを観察でき、
どんな行動・癖・長所・欠点が、その後の成長の過程でどういう変化や影響をもたらしていくのか、
どういう関係があるのかをかなり正確に分析することができます。
それらの経験から、いわゆる頭の良さ、小学生時代からの知的能力・学力の伸長は、
単純に生まれつきの能力だけでは決して決まらず、他の要素が占める割合が、どれほど大きいかということがはっきりわかります。
学力や知的能力の発達には、それ以外、小さいころからのしつけをふくむ習慣や行動パターンが
信じられないほど、大きな影響を与えることになるのです。
関西地方在住で中学受験した子どもがいる保護者のみなさんは先に紹介したA社の四十台の偏差値が、
こと偏差値だけに限れば、どういうレベルなのか、よくご存じだと思います。
したがって、その後国公立大医学部や神戸大等へ進学できた諸君が、いかにぼくの考えを裏付けているかも、
よく理解していただけるのではないでしょうか。
何に興味をもたせるのか、何をどう教えるのか、それに小さいころからのしつけや習慣、それにともなう行動パターンが、
おそらくみなさんの想像以上に、「学ぶこと」や「能力の開発」にも大きな影響を与えます。
それらの指導が、素晴らしく育つための土台として、口を酸っぱくしていってもいい足りないほど重要である、ということです。
知的能力の発達に対して、それらは生まれつきの能力の差の影響をはるかに凌駕する影響を与えることになるのです。
逆に言えば、それぞれの子どもたちの能力の開発や学力の進展については、どの子にも、
これもみなさんの想像以上に大きな可能性が開かれている、ということにもなります。
「偏差値を超えるもの」が身につくのです。
ぼくの今までの手応えでは、十歳前後まで、学年では『四年生までにきちんとした指導がなされれば、素晴らしい成長を重ねる子がたくさん生まれる』のではないでしょうか。
もちろん、そのためには保護者のみなさんの理解と応援が不可欠ですが。
ブログのはじめの方での「過保護」の三年生の例や、先の表中のOB諸君の偏差値とその後の大学進学、
入団時期と団での指導期間を、もう一度ていねいに見ていただければ、もっとよくご理解いただけるのではないでしょうか。
さて、「偏差値を超えるもの」、この項の中で、ぼくはいくつか、そのキーワードともいうべきことばを伝えました。
まず、「学ぶ面白さ」そして「学体力」。
次に「子どもらしい経験知」、「夢の原石」、「努力」「がまん」「命の限り」「人生の実況中継」
そして、OB諸君の想い出の中で、多くの子たちが共通してもっていた特徴、「負けん気」です。
実はこれらは、それぞれ独立したものではなく、補完し合い、すべて関連して学習指導や子育てに関わってくるものです。
それほどおもしろくないときにも学ぶことを続けていくという「学体力」には、
少なくとも「学ぶことの面白さ」を多少でも知っているという体験が不可欠ですし、「学ぶ面白さ」には、その元になる体験・「子どもらしい経験知」が欠かせません。
一定期間つまらなくとも学習を続けるのは「努力」することですし、
もちろん、それにともなう「がまん」もたいせつになります。
子どもたちは、そうして目の前にあるものを学ぶことに真剣に向かっていけば、
それらはいつか大きな夢に変わる「夢の原石」となるはずです。
その「夢を叶える」という思いの底では、「命の限り(自らの生命のたいせつさ・生命の一回性)」という、
自らの生命のかけがえのなさが意識されていなければなりません。
また「人生の実況中継」は、そうして日々がんばって生きている子どもたちに、
自らの「苦い思い」や「感激」「感動」「喜び」を伝えることによってエールを送ること、
「生きていくこと」のすばらしさ、厳しさを理解させる応援団となってくれます。
そして例に挙げたOB諸君の多くに特徴的であった「負けん気」、これは努力や築きあげたものに対する自らのプライドであり、
足りないものやできないことに対する自分への叱咤激励です。
真剣にものごとに向かっているからこそ生まれる意識ではないでしょうか。
競争をしているという自覚が、その意識の形成を後押しします。
よく競争のない社会という実体のないことばが、あちこちで無反省にくり返されることがありますが、
どんな意味においても、ぼくたちは競争を免れることはできないですし、
いくらオブラートに包んでも、オブラートが溶ける前に破れて姿を現すのが「競争」です。
良い意味での競争意識・自らに対する競争意識は、向上の糧・確固とした礎になるはずです。
ぼくたちは受精の瞬間に億を超える競争を勝ち抜いて生まれてきたという現実を忘れることはできません。
さて、この項の終わりに、プロ野球界の「偏差値」でトップを維持し続けているイチロー選手の
小学生時代の作文の一節をご紹介します。「夢の原石」を磨き続けているときのイチロー選手です。
ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。
そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。
ぼくは、その練習にはじしんがあります。ぼくは3歳の時から練習を始めています。3才~7才までは、半年位やっていましたが、3年生の時から今までは、365日中、360日は、はげしい練習をやっています。
だから一週間中、友達と遊べる時間は、5時間~6時間の間です。そんなに、練習をやっているんだから、
必ずプロ野球の選手になれると思います。
(「溺愛」我が子イチロー 鈴木宜之著 小学館・原文まま)
子どもたちに関わるすべての人たちに
現代は、夢がない社会・夢をもちにくい社会だという感想をよく聞きます。が、「夢をもちやすい社会」なんてあったでしょうか。
それは、「夢をなくしてしまった」、「夢をもたなくなってしまった」大人の言い訳に過ぎないのではないでしょうか。
そんな言い訳を「これから夢を叶える」子どもたちに伝えていいものでしょうか。
「夢がない社会だからこそ夢を描ける」のではないでしょうか。
夢は探さなければ見つかりません。求めなければ手に入ることはないでしょう。
「あなた任せ」で待っていても「夢」は向こうから声をかけてくれません。目標は向こうから訪れてきません。
「夢」や目標はあくまで自らが描き、追いかけるもの、自らと自らの限りある命を意識してこそ生まれるもの、だと思います。
自らをふりかえり、問いかけ、考えてこそ生まれてくるものです。
夢を求める自らのアクションを放棄して、夢のなさを、すべて「社会」という使いやすいことばのせいにしているかぎり、
夢は生まれてきません。育ちません。
大きく成長する子どもたちには大きな夢が欠かせません。
ぼくたちは、こどもたちに夢の必要性を語り、大きな声でデッカイ夢を伝えなければなりません。
「子どもたちの成長に関わるみんなが夢をもつこと、そして語ること」で子どもたちの夢も育っていきます。
偏差値にしばられない子どもたちを育て、偏差値を意識する必要のない社会をつくるためにもっとも必要なこと。
それはぼくたち大人が大きな夢をもつこと、それに尽きるのではないでしょうか。
(この項完)
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
立体学習を実践 学習探偵団 http://www.gakutan.com/
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////