『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて⑭

2018年02月10日 | 学ぶ

 DVDのカバーは再見してよかったもの。花マル二つ。初めて見たのでは「パッセンジャー」が花マル二つです。好評の名句選、残りも掲載。

光り輝くウンコ
 停滞感。鬱屈感。
 団を始めた時から感じているのですが、現在(いま)、この国は「二度目の夜明け前」ではないでしょうか? 未来志向や期待感が行き場を失い、それぞれの心の中に「とぐろを巻いたウンコ」のようにたまっていく…そう見えるのです。のっけから臭い話で恐縮ですが、お許しを…「光り輝くウンコ」を出せない「夜明け前」です。
 「新しい時代」や「夢のある未来」へ、というみんなの願望がある(とぼくは信じたい)のですが、「日々のささやかな幸福」にしか「目」と「思い」が届かなくなってしまっている…子どもは元気でかわいくて、ちょっとだけ(?)頭がよく、時にはバレーをしたり、ピアノを弾いてほしい。大きな夢なんか持たなくてもいいわ、私にはわからないから…。
 もし、そうであれば、とても残念です。日々の「ささやかな幸福」はとてもたいせつなものに違いありませんが、それだけでは「ふつうのウンコ」で、時代を変えるような「光り輝くウンコ」は出てきません。これらの感覚の定着が「夜明け前」の停滞の大きな原因なのでしょう

 ぼくは開塾以来、いつも、大きな可能性を秘めている子がたくさんいる、と信じて指導を重ねてきました。そして今もつづけています。最近は子どもたちがどんどん「小粒」になってきているような気がしています。
 うちの子は「元気で、毎日健康なウンコをしてくれればよい」と云う感覚の行く末は、自らと子どもの「小さなウンコ」に終始します。普通にしていれば、「ふつうのウンコ」は出るのですから、お互いに、それ以上楽なことはありません。しかしそれでは、「光り輝くウンコ」は出てきません
 一方で、何かを成し遂げたり、成就したりするためには、それに応じた義務や努力が欠かせません。その裏付けがなければ、かないません。つまり、能力の開花には、それに伴う本人と保護者の努力や鍛錬・研鑚が必要です。「ふつう」ではすみません

 ファインマンが未だ幼児用のハイチェアに座っているとき、サラリーマンだったお父さんが、どこかで古い「色つきのタイル」を手に入れてきて、ファインマンに青や白という色を意識して規則的に並べる「将棋倒し」の遊びをつづけさせました。
 お父さんは何気なくタイルをもって帰ってきたわけではないでしょう。「もって帰って、子どもとどうするか」というイメージを描いていたはずです。つまり、「光り輝くウンコ」を準備し始めたわけです。そしてウンコは、日々だからウンコです
 そのとき、それを見ていたお母さんは、小さいのだから、もっと自由に遊ばせてあげればと諭しますが、お父さんは数学の基礎であるパターンを教えるのだと云って、聞き入れません。「光り輝くウンコ」への誘いです。ここに「一緒にゲームをして、ただ遊ぶだけの子育て」との大きな違いがあります。そして数学から始めても、その後ファインマンは天才物理学者です。要は「きっかけ」です。

 ファインマンのお母さんは、その頃その努力の結果が未知数、当然、やがて天才中の天才と云われる結果が出ることなど思いもよりませんから、「自由に遊ばせてあげなさい」と思ったのでしょう。想像力の差です。
 ここで、もしお父さんがお母さんの「助言(?!)」を素直に(?)聞き入れ、それ以降も続く、さまざまなファインマンとの『遊び(?)』をつづけなければ、彼は、おそらく「天才中の天才」には変身できなかったでしょう。
 こうした能力の開発、脳がもつ可塑性については、後でも紹介する「天才を考察する」(デイビッド・シェンク著 中島由華訳 早川書房)に、多くの天才の成長の例が紹介されています。

 ファインマンのお父さんが、多くのお父さん・お母さんとちがうのは、ただ「既製の商品」やゲームソフトを買ってきて一緒に遊ぶという「子守スタイル」「ゲーム相手」ではなくて、「一緒にする行動の裏で、子どものことを思い、その将来を願い、自らも夢見、おもしろく遊べる、また行動できる『共有(共通)体験』とそのしくみを考えつづけたこと」です。「子どもを科学者にするんだ」という夢とともに
 ファインマンのお父さんとは比ぶべくもありませんが、20数年前ファインマンのお父さんのことをまだ存じ上げる(ハッ)前から、その方法論で指導を志していました。ファインマンのお父さんを知ってから(もちろん本の世界で)『我が意を得たり』と、また「専門家ではなく素人がなしえたこと」という「応援メッセージ」をもらったというわけです。素人ですから、ぼくに限らず、だれにでも可能です。あとは「志」と「光り輝くウンコ」です。

 世間では子どもが拒否することもあり勝ちですが、ファインマンは、そうした「お父さんのかかわり」を拒否するのではなく、「おもしろくてしかたがなかった」と回想しています。「無理矢理」、「お仕着せ」ではなく、「子どもの関心・子どものようすをよく観察しながら、考えながら相手を務めていた」というわけですそのあとから「学習(勉強)」はついてきます。モチベーションを倍加されて
 逆に考えれば、このようにふつうのお父さん・お母さんも子どものことをよく見、よく考え(つづけ)ることで天才が開花する可能性があると云うことです。そのあたりのしくみは、先の「天才を考察する」をごらんください。

 仲良くランチやディナー、遊園地という日々も、それなりにすばらしいかもしれませんが、「両親がもっともっと子どもを大きくとらえ発想を広げることで、そしてその『発想のレベル』に応じて子どもたちの可能性も広がる」と、先の書籍に限らず、日々指導による子どもの変化具合・柔軟性を見て、ぼくは感じ、考えるようになりました。

 ウンコには「光るウンコ」と「ただのウンコ」があります。ファインマンのお父さんのウンコは、天才を育てる、「立派な光るウンコ」でした。
 この、「親としての大きな差」をぼくは、自らの子育てがほぼ終わってから悟ったわけで、ものすごく残念で、そして子どもたちに申し訳ない気持ちで一杯になります。「彼らの能力の可能性がわかっていて、それを活かせなかった悔しさ」です。子どもに夢を抱く、あるいは大きな可能性の開花を願う、小さな子どもたちを育てている保護者のみなさんにお伝えしたいことです


 子どもは「信じられないくらい大きな可能性を秘めている」ことに、ぜひもう一度、目を向けてください。生まれた時のことを思い浮かべてください。出せるものが「光り輝くウンコ」のはずなのに、「ただのウンコ」ばかりでは、先人の誰かが云ったように、人間はただの『くそ袋』ではありませんか。それでは、あまりにも寂しいし、哀しい
 ある程度年を経ると、夢や未来という「光るウンコ」を出したり、そのことを口にするのが恥ずかしくもなるようです。ウンコはウンコだから出したくない、みっともないから見られたくない…そういう恥ずかしがりの人が多いかもしれません。
 なかには、もう『ウンコの出ない人』もいるかもしれません。しかし停滞や便秘は、精神的にも肉体的にもよくありません。ぼくたちの夜明けには、夢や未来という栄養を十分からだに供給できた、元気な「光り輝くウンコ」が欠かせません。

「通じ」の悪い場合
 ところで、ウンコが出ないのは、きっと、『ウンコのもとになる』栄養豊富な本を読まないからではないでしょうか。どんな本か?
 まず、古い本棚にあった一冊。「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」(マークス寿子著 草思社)。アマゾンのレビューを見てみると、案の定というか、評価が極端に分かれていて、情けないほど(!)おもしろい。ほとんどみんな、「ボロクソ」です。
 なかには、「著者が貴族と結婚していた」とか、「イギリスに住んでいる」とかの事実にまで、「情けなくも」噛みついているヒトもいます。「あんたは狂犬病か?」という感じです。

 そんなことは内容や評価とは全く関係ありません。自らと自らの国の現状を正視すること。よく見てよく考えること。それでなければ何にも始まらないし、どこへも進めません。数十年「日本だけで」生きてきて、「巷」をあちこち渡り歩いて、ぼくに見えてきた現実(現在)を、この本は見事に喝破しています
 件のレビュアーに云いたいのは、「云われる前に気づきなさい、だから云われるんだろ」という一言です。まず、虚心に目を向け、そこから出発すべきです。向上や進歩・反撃はすべて、「冷静に観察すること」から始まります。先のレビュアーは「誤字だらけ、文法めちゃくちゃのレビュー」を、「まず恥ずかしいと思う」心が先です。日本の言語です。そうでないと「日本の云々」は云えないはずです。だから云われるのです
 さて、「フワフワ~」の見出しを一部紹介すると、「食いものにされた福祉―厚生省の汚職事件」「中流意識と見せかけの豊かさ(これは章タイトル)」…この『見せかけの豊かさ』の意味が、現在では、もうすでに分からなくなってきているのでしょう(1997年8月初版)。
 さて、「伝統あっての流行―日本人に個性はあるのか」「文化の屋台骨はしつけ―まずは伝統を見直せ」「のぞき趣味の番組―ユーモア精神に反する」「人生にリプレイはない―日本の若者のゆくえ」…これくらいにします。

 いちいちもっともだと思いませんか? これらのひとつひとつは、今日本が抱えている問題点です。ある程度の年嵩の人がこれを見て、「なるほどな」と思わなかった(思えなかった)ら、日本が相当ひどい末期症状に入ってしまったな、それこそ日本ではない他国と、並べたくない「肩を並べてしまったな」との判断になるのではありませんか?
 「貴族」であろうと、「橋の下で寝起きするおじさん」が云おうと、正しいものは正しいし、まちがっているものはまちがっている。そこが原点です。まずそこから出発しないと、進歩も改善も改良もありえません、どこの国でも

 これらのレビューを見ていると、「あんたは新幹線に乗っているから…。それもグリーン車でしょ。鈍行の普通車のことはわからないでしょ。黙ってなさい」と云ってるようなものです。バカらしくて聞いていられない。
 「新幹線に乗っているからこそよくわかること」はあるし、「鈍行に乗っているから見えること」もあるし、「見なければならないこと」があります。また、見えなければ、乗った人の感想や観察をていねいに聞き取り考えること、鈍行に乗ることしかできなければ、逆に新幹線から見た鈍行の不便さや居心地の悪さをしっかり「想像」し、考え直し、改善を図るべきでしょう。
 現在は、「日本人としての誇りや自負など関係ない、あるいは考えない」という人も増えているように思いますが、ぼくは日本人としての矜持は人並み以上に持っています。だから決して「日本マゾヒスト(?!)」ではありません。悪いところは悪いし、良いところは良い。これらのレビューに書かれている「反論にもならない反論(?)」や「気づけない心」、島国根性(!)や「劣等感」丸出しなのが、腹立たしく、ほんとうに情けない。そこなんですよ、著者に指摘されているところは。

夜明け前
 「『自分たちの子育てや教育・指導を客観的にきちんと見ることなく過ごしているから、こういう指摘を受けてしまうのだ』という視点を、なぜもてないようになってしまったのか?」。 日本のモチベーションや活力は、本来そういうところ(気概)から生まれていたはずです。
 現在と似ていると(ぼくが勝手に)思っている江戸後期から明治維新の新時代に輩出した、「それぞれの(!)」グループのリーダーたちはみんな、伝統や歴史・文化、さらに新しい情報や文明を一生懸命消化し、「光り輝くウンコ」を出し続けたでしょう。
 「貴族」が云おうと、「すぐ入れ歯が外れる隣のご隠居さん」が云おうと、「良いものは良い」し「考えるべきものは考える」という視点をもたないと…素晴らしい未来や前進はありません。「しっかりしましょうね」、という思いでいっぱいです。あたりまえですが、世の中のことは自分のことだけ見ていては見えません。

 「光り輝くウンコ」を出すための本は他に、同著者では、「ふにゃふにゃになった日本人」(草思社)ですが、今読んでいる本で目先を変えるならば、先日も紹介した「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏 文春新書)も手ごろです。ただ、この本に書かれていることの実践は、その前段階として、もっと小さいころに、ぼくがいう「学体力」や「環覚」の育成を心がけておく必要があると思います(ファインマンの小さいころのように)。「さらなるファインマン」については、以前のブログ「ファインマンの父とエジソンの母」シリーズを、また「ファインマンさんは超天才」(C.サイクス著 大貫昌子訳 岩波現代文庫)が参考になります。また江戸時代から明治維新前後の欧米人の滞日記録に目を通してください。云っていることがよくわかると思います。

 「素晴らしい才能というのは、実は継続する努力だ」ということを先にも再確認しましたが、「『あの子は天才だから』という、本人も周囲も、その努力を放棄した、ありがちな子育て」が、「いかにまちがいであるか」を考察した「天才を考察する」(デイビッド・シェンク著 中島由華訳 早川書房)も、子どものしつけや教育を見直せる良い本だと思います。 この本を読めば、自分も子どもも、まだまだ「でっかい光り輝くウンコ」を生み出せる可能性があることが、よくわかります。特に若い人には。
 さて明治維新、「先の夜明け前」と「現在の夜明け前」では、何がちがうか。どうして「停滞の気運」から抜け出せないのか? 
 入試も一段落して、DVD「ディ・アフター・トゥモロー」を見直しているとき、思い至りました。ご存じの「地球温暖化による環境変化」を描いたパニック映画です。
 見ている途中、なぜか明治維新と、ぼくの曰く、現在の「夜明け前」の何がちがうのか、どこか違うのか。それが頭から消えません。「時代がちがう」では解決になりません。


 「ディ・アフタ~」は行動指針・行動選択の小さな差によって、多くの生命が失われ、あるいは助かってゆく。なるほど、そういうものかと思い、今こうしてパニック映画の極寒のシーンを見ているぼくたちの部屋は暖かく、凍死するわけではありません。いつでも画面を自由にコントロールできるリモコンを脇に、他人事を「鑑賞」している・・・そして「おもしろい」というわけです。しかし明治維新の夜明け前はそうではありません。
 生命のやりとりが人々の目前で起きたであろうし、刑死やさまざまな生命の消滅が、『画面』ではなく日常だったはずです。「極寒」を暖かい部屋で見ているのではなく、「身を切るような冷たさ」を肌で感じながら、実際にヒトが殺される(死ぬ)恐怖を体験しました。「明日しれぬ生命こそ現実のもの」だったわけです。
 それぞれがそういう現実を背負った、夜明け前の覚悟とパワーは尋常ではなかったでしょう。みんなが「光り輝くウンコ」を出せたのは、おそらく、そういう環境が大きな力として働いたからでしょう

 「寿命のあること」、「生命の限り」を忘れてしまったユルヌルが停滞の大きな原因であること。それとともに「光り輝くウンコ」が「ただのウンコ」になり、「くそ袋」になり・・・想像したくもないことですね。 
 その覚悟やパワーを少しでも取り戻そうと思えば、現在はイマジネーションしかありません。しかし、かけがえのないもの、人と人との信頼関係や敬意・愛・義理・責任・義務など、なくしてはならないものが薄くなり(そうではないですか?)、なくなりつつある今、何としても、その想像力を取り戻す必要があるようです。夜明け前


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