『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く②

2018年02月24日 | 学ぶ

ミツバチは刺すやん!布袋さんー
 光は春めくも年齢は「黄昏・・・」、物思うことが多い年頃です・・・だから炬燵の上には、本が山積み・・・あっ、忘れるとこやった! 前川さん、ミツバチは刺すやんか! ほんまに、もう。
 ミツバチの「毒」のことを、先週お伝えしましたが、念のために調べました。また、「布袋さん」の「騙し」にあうところでした、ハハッ! 以下は、「自然界83の謎 地球が生き残るための知恵」春田俊郎著(PHP文庫)からの引用です。


 「ミツバチは機嫌のよいときと、悪いときがある。機嫌のよいときは、巣箱に近づいても決して刺されることもなく、無数のハタラキバチは、つぎからつぎへと蜜を運ぶのにいそがしく、近くに立っている人間などは見向きもしない」。ふむ、ふむ。なるほど、そうなんや、前川さん、そこそこ正しいなあ。

 ところが「・・・これに対して機嫌の悪いときは、巣から離れていても、むやみに人間を邪魔者あつかいにし、早くどこかに消えうせろといわんばかりに、顔のまわりをぶんぶんブンブンとうるさく群れ飛んで、騒ぎ立てる。巣箱の近くに近寄ると、いきなり数十匹のハチが襲いかかり、うまく逃げないとたちまち何カ所か刺されてしまう」。なんや~あぶない。「刺すやんけ、布袋さん!」というわけです。

 さらに、機嫌が悪くなる時期は、梅雨時らしく、雨が降り続くと蜜を集められず、子どもたちは大きくなる時なので蜜がたくさん必要になる、そこでイライラが始まるようです。あまりにもエサが少なくなると「間引き」も始まるとか、こういう知識が、子どもたちにハチ(昆虫)に興味をもたせる、よいヒントになります。今度、前川さんに教えてあげよう。知らんやろ、布袋さんやから。

立体授業の「きっかけづくり」と「企画実施」までのお手伝いをします
 この本は他にも、身近な動物のエピソードが満載です。
 子どもたちの「環境への興味」は、常識やありきたりの知識を覆すエピソードや、「ふだんよく見ていても、あまり知られていない」「成り立ちとしくみの開示」がきっかけになります。つまり、「知っているつもり」を「粉砕」したり、「奥行きの深さ」を教えたり、という指導からです。

 身近な対象は、当然「人間生活や暮らしと深く関わってきている」はずです。その対象の「新たな一面」を伝えることで、子どもたちの周囲を見る目が深く鋭くなります。その方法が『環覚』育成の基本になります。「環覚」が身につくことによって、周囲の事物に目を向ける回数が増えます

 当然、変化や推移に目が届くようになり、不思議や謎が生まれます。子どもの頃エジソンが『エングル先生に嫌われた質問』もそうした習慣から生まれたものでしょう。そしてそれらが深化・拡大・発展して、諸々の研究や大発見のきっかけにもなり得るのだと、ぼくは思います。


 また、その過程で、当然学習対象や学習事項に対する親近感・環覚が生まれ、「学ぶおもしろさ」を獲得しやすくなる。さらなる「学業や研究」のステージに向かう、というのが、本来望まれるべき学習の流れだと思います。

 掲示の、15才になったOBのお母さんからのメールは、そうした団で指導を受けてくれた「感覚」の一端を表しているのでしょう。「ちがいがわかる成長」と云うわけです。
 さて、こうした書籍によるエピソードの紹介や読書は、そのくりかえしによって、たとえばミツバチのような昆虫の学習でも「奥行き」が生まれ、「からだのしくみ」という受験学習のポイントだけではない「学習」が始まります


 春になって野外に出ると、タンポポやレンゲにとまるハチが唯の「刺すハチ」ではなく、少しずつ正体を現し身近になります。自らに近しい「動物の仲間」が増えていきます。「生態系のつながり」にも目が届きます。「新聞を丸めて追いかけるゴキブリ退治の経験」と大ちがいなのは、よくおわかりでしょう。

 そうした「日々の生活や暮らしの微妙な差」が、「環覚」のちがいを生み、やがて「知性」や「学体力」という大きなちがいに結果してくると云うわけです。気づかない、何気ないような「日々の環覚のトレーニング」が、こうした差に変わります


 先ほどのミツバチの「間引き」の指導の敷衍は、「間引く」ということばから「野菜の栽培」や「杉林の間伐」につながり、「口減らし」に波及し、そこから「飢餓問題」や「地球環境」に話を広げることもできるでしょう。つながりです。その指導内容の考察のきっかけも、元を辿れば、この「自然界83の謎」のような小冊子で可能だということです。

 指導者の能力(努力)やセンスで、「子どもたちの知識の総体」のボリュームが大きく変わります。そしてそれらは、その大きさゆえ、あちこちで学習対象同士の関連や類似・比較が生まれ、立体授業が成立します。立体授業では、学習対象の関連や奥行きについて、子どもたちの興味を引きそうな、また科目を問わず関連をできるだけ多く考えることから、「学ぶおもしろさ」が引き出せます。意外性のトリックです。


 ふつう「勉強」と云えば、イメージは、教科書に書いてある「学習事項」「学習内容」を教える、指導するというところにつきます。ところが、それらは本来、自然にあるもの・事例や事象の抽象(物)です。つまり学習のもっとも先を考えると、ヒトはすべて「自然にある『もの』や『こと』」から学習することをはじめました。行為や行動が「学習」でした。

 ところが、現在はそれらの「まとめ」や「概略」を文字面で学ぶことから学習は始まります。しばらく前までは、知らない間に、小さいころから触れたもの、身の回りにあったものも数多く学習できたはずです。「学習するもの」や「こと」は決して「抽象だけのものに終わらなかった」、もっと馴染みがあったと思われます。

 それらは「手に触れられた」こともあったし、「指の中で動いていた」だろうし、その対象を手にするまでに、さまざまな「やりとり」や「準備」もあったはずです。子どもたちの行動を見ていると、それらの感覚や行動を通じて親しみがわき、おもしろさが増し、集中力もアップしていきます。
 そして、その作業や遊びの間に構造やしくみの理解が行き届き、知識も定着します。お仕着せの観察や実験ではない近しさも生まれます。それは、かつてぼくたちが周囲の事物を「生きるための手がかりや技術や道具」として「取得」していく過程と同じはずです。「学習」とは本来そういうものだったのです
 つまり、今の学習は、「学習のほんの一部」であり、その「周囲にあった『遊び』や『ゆとり』が、ほとんど捨象されてしまったものである」ということです。そうした「学習に対する逆転の発想」からこそ、子どもたちの「学ぶおもしろさ」は生まれるものなのだ、ぼくはそう思っています。こうした発想から課外学習を企画し、立体授業を組み立てていくわけです。

 ちなみに、『自然界83の謎』の中からおもしろい話ができそうなエピソードをピックアップしてみると、「海―地球こそ水の星である」「ガ―電灯には集まるが、月へは向かわない」「ウサギ―太陽から命令される体毛変化」等々、たくさんあります。
 このような立体授業の企画内容やテキストづくり・実施方法等はご連絡をいただければ、ご相談の上、実際に実施までの指導・応援をします。田舎や街のあちこちで寺子屋をつくりましょう。新しい「夜明け前」です。


発想の転換が可能性を開く①

2018年02月17日 | 学ぶ

子どもたちの大きな可能性に、夢を!
 「子どもたちにとってのほんとうの教科書とは何か」というタイトルでブログアップをはじめて、6年経過しました。プロフィールにもあるように、何よりもまず、「子どもたちの受験(学習)=学習」という認識の『解体』を願って、また「現状の学習指導(法)に対する子どもたちと、周囲の「偏向」に対する疑念」からでした。
 当初、訪問は週数名だったのですが、最近では毎週450~500名の方々に読んでいただけるようになりました。ありがとうございます。ひとりの気楽さで、子どもたちの教育や学習指導(法)を自由に考え続けてきました。かなり効果のある方法も見つかり、理解者が増え、同じ思いを共有できるようになったのは心強い限りです。

 興味をもってご覧いただいているみなさまは、きっと、現状の教育や子育て・学習指導法に対する不安・不満・疑念・強い関心がある方、そして、それらの「より良き方法や方向性を模索していらっしゃる方」ばかりであろうと想像します。
 大手受験塾の、年間100万円以上というようなバカ高い授業料は払えないが、できれば中学受験をさせたいという方がいらっしゃるかもしれません。そうです、機会はもっと均等であるべきです。受験はしないが、子どもには「確かな学力」(ぼくはこの力を『学体力』と呼んでいます)をつけたいと考える方もたくさんいらっしゃるでしょう。そうです、「学体力」が一番大事です。
 また、逆に「指導する子には(受験)学力以上の力を」、と願う指導者もおられるかもしれません。あるいは勉強(学習)や学習指導法に悩んでいらっしゃるお父さん・お母さんも数え切れないと思います。
 以前、シリーズ(「夢の教科書を求めて」)が終わったら、「よほどの難関校でもない限り、家庭でも一日90分弱の勉強で中学受験にも対応できる(きちんとやれば一年でも十分)学習(法)を紹介する」とお約束しました。そう考えはじめた理由はふたつです。
 一つは、以前から多くの方にご指摘いただいていたことなのですが、地域性あるいはロケーションが不安で通塾させられないという意見、また通塾するのに不便だという意見が増えたからです。
 二つ目は以前も書きましたが、僕の願いである団で育ったOB諸君による、「100人の会」という組織をどうしても育てたい、団の指導法の正否を問いたいと考えました。それには指導の展開を大きく変える必要がある、という現実からです。より広く募らないとぼくの夢を、ぼくが考えるリミットまでに成就できない、というわけです。
 お約束に基づき、先の疑問及び要望について、また指導およびお問い合わせ方法等については、次週から順次ご案内します
 
 まず、
ミツバチの「毒」と心の「毒」
 母が幼稚園教諭をしていた関係で、ぼくは明日香村に出会いました。「立体授業」を十分機能させるには、「なじみのフィールド」が必要です。飛鳥は今、団の米づくりや土筆ハイクのフィールド、メインステージです。
 5才くらいだったと思うのですが、日曜出勤で、当時田んぼの真ん中にあった飛鳥幼稚園に同行しました。浮かぶのは、青空と白い雲を背景に、ミツバチがさかんに飛んでいたレンゲ畑でのワンシーン。

 一緒に遊んでいた幼稚園児のひとりが、「ミツバチは刺せへんねんで」とぼくに耳打ち。「えっ、ほんま?」。魚とりや川遊びはよく知っていたぼくも、蜂はまだ興味の対象外でした。アシナガバチには刺されたことがあり、痛いのはよく知っていましたが、「へえ、刺さないハチもいるんや~」と云うわけです。
 そうなると試してみたくなるのが「わんぱく」の常。おそるおそるミツバチをつかむと、瞬時の激痛。見事に一杯食わされました。それでも千切ったアロエを擦り付け、腫れた指のまま、みんなと夢中で遊んでいた想い出です。
 そのときのメンバーの顔もまったく思い出せないまま、ふと、「あの囁きは『いたずら心』からか、それとも『ただミツバチの知識を披露したかっただけか』」と、『ささやき犯人』のことが気になっていました。

 現在「田植え」や「タケノコ掘り」などでお世話になっている前川さん、応援してもらっている福田さんは母の教え子です。園卒業後数十年以上経った今でも、母に世話になったとぼくにも気を使っていただき、いつも感謝しています。
 年齢から云っても、そのときの「犯人!(ハハッ)」は、おそらく彼等の同級生グループのひとりだろう、と思っていたのですが、確認する機会がありませんでした。先週、「お世話になっているから」と、久しぶりに前川さんや福田さんと酒席をともにしたときのことです。
 「前川さん、前から気になってんねんけど、母親について幼稚園に行ったとき、『ミツバチは刺せへんでえ』っていわれて、きっちり痛い目にお~た(あった)ことあんね。おぼえてない? きれいにレンゲ咲いてたころやね・・・」。
 前川さんは鹿肉の鉄板焼きをほおばりながら、想い出を辿るように、「レンゲが咲いてたころなぁ・・・記憶にないなあ・・・せやけど、ミツバチは、こっちから行けへんかったら刺せへんねんで・・・」悪びれることなく、知識の披露。

 「・・・うん?!・・・それやん、そしたら前川さんやん!」とぼく。
 「そら、構いに行ったら刺すわ! ハハァ」と、いつもの調子でニコニコ。「布袋さん笑い?」です。
 「それ、ふつう先に云うやろ、『かもたら(構ったら)さされるで』って。オレ、そのときは、まだハチのこと知らんかったし・・・」と大笑い。
 というわけで、長年探していた犯人が、やっと見つかりました。いつも感じるのですが、心置きなく正面からぶつかることができる「清々しさ」・腹蔵ない人間関係は飛び切り美味い「酒の肴」です。感謝です。荒みきった心・ザラザラした心を、「刺さないミツバチ」が癒して、浄化してくれました。

ザラザラ
 つきあいも色々あります。「心あるやなしや」、「正邪の理解、あるやなしや」。いや今時に見られるようになった、心を経由しない浅い人間関係では、正邪の判断など余計なことかもしれません。だから、恥も外聞もなく真実の発覚を恐れて家宅侵入したり、手軽な電子機器で虚偽の情報を流したり、自分の罪をごまかすためだけに、無実の人を罪に陥れても平気な犯人が出てくるのでしょう。いくら邪悪な手段を使っても、真実はいつもひとつです。天網恢恢疎にして漏らさず。姑息な手段を使ったり、悪あがきををすればするほど、真実の露呈は早くなります。人の心にいる神様の目はごまかせません。犯罪の糊塗はさらに大きな犯罪を誘発し、後には引けなくなります。 
 表面だけの人間関係しか知らないで、「それ以上の心を遣う必要性」もなく育てば、「人の心の奥行きや深さ」を、信頼も、想像もできません。「関係の深さや心のつながり」というものが、よくわからなくなります。「刺さないミツバチ!」に出会ったことがないからです。写真で見て、刺されれば痛いことはよく知っている・・・しかし、生きて動いていることはわからない。「いきもの!」としての姿は見たことがない。テストには出てくるが、別によく見る必要はない。興味がないし、得にはならない…生きてても死んでても関係がない。問題はそこです。
 文字は読めるが文学鑑賞はできない。美しいものを知らない。受験で出てくるだけだから。知識だけで十分、それ以上のことは必要ない。関係あるところだけ読んでおこう。
 ぼくが今感じている『すさみ』や『ザラザラ』は、そのあたりに起因するのではないか?
 できの悪い政治家のように姑息な手段をとったり、詐欺師に「遜色ない行動やいいわけ」に終始したり・・・質の悪いシュミレーションプレーや反則逃れを探ったり・・・知力が高くて、文字も読めて問題の正解はわかっても、正しいことはわからない。心を忘れた受験に特化した指導や学習は、どんどん、自分だけ大事、心やヒトのことは考えない、そんな面倒なことは関係ない、という人間を育ててしまうのではないか? そうして育った感覚が、次の人を育てる環境にも蔓延すれば・・・先々の社会には大きな懸念が出てくるでしょう。

 怪物が受験をしたわけではありませんが、実は、みんなが怪物小説だと思っている「フランケンシュタイン」は、そうした人間の『心の闇』を抉った深い小説でもあります。国語の時間に子どもたちにも話してあげられる先生がひとりでも増えていくことをねがって、紹介しておきます。心のない解釈は「怪物フランケンシュタイン」をたくさん育てます
 ぼくたちが親としても社会人としても決して忘れてはならないことは、「ルール無視のプレーが悪しき伝統となる、次世代にも波及するということ」です。自分の子や孫の世界がそうなってしまう、ということです。子どもたちは目の前で、そのプレーを見ています。そのできごとや行動がインプットされた脳は、自分が死んでからも、子どもたちのなかで生きてます。その行動を左右します。それを忘れているのではないだろうか。そんな子育てで、いいのだろうか? それでスポーツマンシップや正邪の判断力が育つのか?
 「正邪の判断もできない、ルールを守らない子」が、社会生活をして相手や周囲に迷惑をかけてしまう責任はだれがとるのか? それらの事態を未然に防がなくてはならないのは誰か? 
 邪な政治家や、人の心を忘れた事件を批判するのなら、自らや周辺の日々の振る舞いにまず省察の目を向け、確かな判断を下せることが、事件や陰謀をなくす唯一最善の方法ではないか。それによって正しい判断がくだせるのではないか。改善できる道が開けるのではないか。それが子どもたちに範を示す姿勢ではないのか? それが一個人・市民としての責任と務めではないのか? 
 そうした行動や賢察が権力に対しても有効な攻撃手段となったし、「貧しくとも世界に誇れる近代化という夜明け」を成し遂げた、「日本人のたしなみとパワー」でもあったはずです。そして、今後も世界に誇れる国を維持するためのコンセンサスであるべきでしょう。
 「そんなことは関係ない」という「市民(無)意識」の人はいないと信じたいのですが、人によって、判断や、考え方や、おそらくものを考える深さもまったくちがうでしょう。しかし「建前ばかり」で推移する、よく見られるようになった「底の浅いつきあいや表面だけのコミュニケーション」では、「夜明けに向かう」どころか「闇夜に逆戻り」、「心を一つに」さえできません
 そういう世の中が希求されているのでしょうか? 疲れるだけで、心を許せる、人間らしいつながりが生まれにくいシュミレーションプレーが多いのは、時代の変化なのか、地域性なのか? それとも他に問題があるのか? 大学時代、神田や錦糸町・亀戸など、東京の下町で「明快に」過ごした際の、「裏表のない人間関係」や「目を見るだけで心が通じた」下町の人情を懐かしく思い出します。
 「建前だけの人間関係」は、時に、ミツバチが刺した「指の腫れ」どころではない、強毒を振りまきます。子どもたちには、建前ばかりの悪しき雰囲気は受け継いでもらいたくないものです。できるだけたくさんの、「きちんとした判断力」と「正直でまっすぐな心」を身につけた子どもたちに、ユルヌルや嘘や狡や手抜きのない世界を築きあげてほしいものです。
 さて、気を取り直して、夜明けを迎えましょう。未来を託せるように、子どもたちの学習問題の解決を図りましょう。

発想の転換から
 まず『勉強!』に対する発想の転換をはかってください。学習問題の解決・問題点の解消は考えているより、ずっと簡単です。考え方次第です

 従来から団OB諸君の中学進学実績、またOB教室を経た大学進学実績については、よくご紹介していますが、もう一度、掲示の実績を丁寧にご覧ください。そして次の1・2の二つの条件を考慮に入れて、その指導法の評価・判断をしてください
 
1 団は入塾に際して入塾テストや選抜は一切行っていません。子どもたちのほとんどが近隣の生野区・天王寺区等の公立小学校に通塾する、ごくふつうの子どもたちです

2 開塾から現在まで、そして小学生からOB教室大学受験生の指導まで、塾生の指導はすべてぼくひとりです。もちろん、大学受験ともなれば、すべての科目を国立難関大合格ラインまで指導することは不可能です。
 しかし、別掲のように難関大進学実績校に限らず、バラエティに富む進学校から難関大合格を果たしてくれました。これによって、個人個人が自らで学習を進めていく力・考える力、つまり揺るぎない『学体力』を身につけてくれたことが理解いただけるのではないでしょうか。
 この結果は、みなさんに学習問題について考えていただく、大きなきっかけになると思います。『学校は問わず』と云うことですから・・・。

 たとえば、進学先さえ気をつければ、大学受験は、一人でも乗り切れるということを暗示していませんか? それが『学体力』の基本です。本来、学習によって身につけるべきもの、目指すべきものは、いわゆる一般的に考えられている「学力(つまり、ほぼ=受験学力)」ではなく、「生きていくためには必須の学力」=「学体力」です。その力がついてこそ、ふだんの学習と学習指導も意味をもちます
 現状、学校や学習指導の場において、学力がそういうふうに意識されているでしょうか。最終的には、なにがしかの大学合格に集約する「目安」としてしか意識されていないでしょう。
 それでは、いつまで経っても学習が、受験学力判定の基準にはなっても、「生きていくには欠かせない学習」にはなり得ない。そして、その方向では、多くの子どもたちの「学習」という行動パターンの本来のモチベーションが機能しきれない、とぼくは考えています(このことについては、後日展開します)。

(受験)学力より学体力
 さてOB諸君の人としての成長ぶりによっても、ぼく自身が、「学力より学体力」という指導の有効性を年々確認しています。そのOB諸君の成長の経緯についはブログでも時折紹介していますので、ご存じの方もたくさんいらっしゃるかもしれません。

 指導はぼくひとりで行っています。ですから指導要領・指導内容をきちんと把握してさえいただければ、またその志と夢と心意気があれば、どこでも、たとえどんな田舎でも、どんな町でも、どんな組織でも、もちろん個人でも、指導展開も学習も十分可能だということが理解いただけるのではないでしょうか
 逆に、地方でこそ、名実ともに『草の根教育』ができます。まだ残っている自然環境をアドバンテージに、ブログでも紹介している、さらなる「立体授業」を取り入れることで、子どもたちは大きく飛躍するはずです
 受験も心配無用です。保護者との認識の共有で、いわゆる『勉強!』という認識の転換をはかり、日ごろから少し注意と工夫を重ねれば、せいぜい合計5000~10000円程度の市販の学習書(小学4~6年)と一日40~90分(団の予定では、日曜日は全休)の家庭学習で、子どもたちの学力は驚くほど伸びます。超難関校でもない限り、中学受験対応も十分可能です(掲示過去18年実績参照)。
 また中学受験を考えていない場合でも、中学進学後、また先々の学力の伸長を考えれば、小学校卒業時点で、難関中学に合格できるくらいの学力(学体力)を身につけておく方が、以降大学受験までの学習移行もスムーズに行えます

 これらの、「単に受験学力に終わらない自ら学びを進める力」、つまり『学体力』は、即座に身につくものではありません。子どもにもよりますが、ふつう半年から一年間を要します。しかし、いったんその力が身につけば、「中学進学以降のすべての学習」はほぼ独りで進みます。それが受験塾・受験指導で覚えた単なる(受験)学力とのちがいです
 みなさん、素晴らしい子どもたちと一緒に、まばゆい光を放つ大きな太陽を迎えましょう。
 日本中、田舎にも、紹介資料を抱えて応援に行きます(交通費・経費は「要負担」ですからね、ハハッ)。塾・小学校・自治体等、対象は問いません。連絡をください、協力します。
 一生を支配するのは(受験)学力ではなく、学体力=本物の学力です。発想の転換を。そして学体力を身につけるには、それ以前に自らの環境に気づく心、「環覚」の育成が欠かせません。
 それらが養成されないと、抽象学習に終わり、学体力を協力に補完する「学ぶおもしろさ」は生まれず、好奇心やモチベーションは機能しません。課外学習と立体授業はその仲介をします。次回は、そのことについてお話しします。


夢の教科書を求めて⑭

2018年02月10日 | 学ぶ

 DVDのカバーは再見してよかったもの。花マル二つ。初めて見たのでは「パッセンジャー」が花マル二つです。好評の名句選、残りも掲載。

光り輝くウンコ
 停滞感。鬱屈感。
 団を始めた時から感じているのですが、現在(いま)、この国は「二度目の夜明け前」ではないでしょうか? 未来志向や期待感が行き場を失い、それぞれの心の中に「とぐろを巻いたウンコ」のようにたまっていく…そう見えるのです。のっけから臭い話で恐縮ですが、お許しを…「光り輝くウンコ」を出せない「夜明け前」です。
 「新しい時代」や「夢のある未来」へ、というみんなの願望がある(とぼくは信じたい)のですが、「日々のささやかな幸福」にしか「目」と「思い」が届かなくなってしまっている…子どもは元気でかわいくて、ちょっとだけ(?)頭がよく、時にはバレーをしたり、ピアノを弾いてほしい。大きな夢なんか持たなくてもいいわ、私にはわからないから…。
 もし、そうであれば、とても残念です。日々の「ささやかな幸福」はとてもたいせつなものに違いありませんが、それだけでは「ふつうのウンコ」で、時代を変えるような「光り輝くウンコ」は出てきません。これらの感覚の定着が「夜明け前」の停滞の大きな原因なのでしょう

 ぼくは開塾以来、いつも、大きな可能性を秘めている子がたくさんいる、と信じて指導を重ねてきました。そして今もつづけています。最近は子どもたちがどんどん「小粒」になってきているような気がしています。
 うちの子は「元気で、毎日健康なウンコをしてくれればよい」と云う感覚の行く末は、自らと子どもの「小さなウンコ」に終始します。普通にしていれば、「ふつうのウンコ」は出るのですから、お互いに、それ以上楽なことはありません。しかしそれでは、「光り輝くウンコ」は出てきません
 一方で、何かを成し遂げたり、成就したりするためには、それに応じた義務や努力が欠かせません。その裏付けがなければ、かないません。つまり、能力の開花には、それに伴う本人と保護者の努力や鍛錬・研鑚が必要です。「ふつう」ではすみません

 ファインマンが未だ幼児用のハイチェアに座っているとき、サラリーマンだったお父さんが、どこかで古い「色つきのタイル」を手に入れてきて、ファインマンに青や白という色を意識して規則的に並べる「将棋倒し」の遊びをつづけさせました。
 お父さんは何気なくタイルをもって帰ってきたわけではないでしょう。「もって帰って、子どもとどうするか」というイメージを描いていたはずです。つまり、「光り輝くウンコ」を準備し始めたわけです。そしてウンコは、日々だからウンコです
 そのとき、それを見ていたお母さんは、小さいのだから、もっと自由に遊ばせてあげればと諭しますが、お父さんは数学の基礎であるパターンを教えるのだと云って、聞き入れません。「光り輝くウンコ」への誘いです。ここに「一緒にゲームをして、ただ遊ぶだけの子育て」との大きな違いがあります。そして数学から始めても、その後ファインマンは天才物理学者です。要は「きっかけ」です。

 ファインマンのお母さんは、その頃その努力の結果が未知数、当然、やがて天才中の天才と云われる結果が出ることなど思いもよりませんから、「自由に遊ばせてあげなさい」と思ったのでしょう。想像力の差です。
 ここで、もしお父さんがお母さんの「助言(?!)」を素直に(?)聞き入れ、それ以降も続く、さまざまなファインマンとの『遊び(?)』をつづけなければ、彼は、おそらく「天才中の天才」には変身できなかったでしょう。
 こうした能力の開発、脳がもつ可塑性については、後でも紹介する「天才を考察する」(デイビッド・シェンク著 中島由華訳 早川書房)に、多くの天才の成長の例が紹介されています。

 ファインマンのお父さんが、多くのお父さん・お母さんとちがうのは、ただ「既製の商品」やゲームソフトを買ってきて一緒に遊ぶという「子守スタイル」「ゲーム相手」ではなくて、「一緒にする行動の裏で、子どものことを思い、その将来を願い、自らも夢見、おもしろく遊べる、また行動できる『共有(共通)体験』とそのしくみを考えつづけたこと」です。「子どもを科学者にするんだ」という夢とともに
 ファインマンのお父さんとは比ぶべくもありませんが、20数年前ファインマンのお父さんのことをまだ存じ上げる(ハッ)前から、その方法論で指導を志していました。ファインマンのお父さんを知ってから(もちろん本の世界で)『我が意を得たり』と、また「専門家ではなく素人がなしえたこと」という「応援メッセージ」をもらったというわけです。素人ですから、ぼくに限らず、だれにでも可能です。あとは「志」と「光り輝くウンコ」です。

 世間では子どもが拒否することもあり勝ちですが、ファインマンは、そうした「お父さんのかかわり」を拒否するのではなく、「おもしろくてしかたがなかった」と回想しています。「無理矢理」、「お仕着せ」ではなく、「子どもの関心・子どものようすをよく観察しながら、考えながら相手を務めていた」というわけですそのあとから「学習(勉強)」はついてきます。モチベーションを倍加されて
 逆に考えれば、このようにふつうのお父さん・お母さんも子どものことをよく見、よく考え(つづけ)ることで天才が開花する可能性があると云うことです。そのあたりのしくみは、先の「天才を考察する」をごらんください。

 仲良くランチやディナー、遊園地という日々も、それなりにすばらしいかもしれませんが、「両親がもっともっと子どもを大きくとらえ発想を広げることで、そしてその『発想のレベル』に応じて子どもたちの可能性も広がる」と、先の書籍に限らず、日々指導による子どもの変化具合・柔軟性を見て、ぼくは感じ、考えるようになりました。

 ウンコには「光るウンコ」と「ただのウンコ」があります。ファインマンのお父さんのウンコは、天才を育てる、「立派な光るウンコ」でした。
 この、「親としての大きな差」をぼくは、自らの子育てがほぼ終わってから悟ったわけで、ものすごく残念で、そして子どもたちに申し訳ない気持ちで一杯になります。「彼らの能力の可能性がわかっていて、それを活かせなかった悔しさ」です。子どもに夢を抱く、あるいは大きな可能性の開花を願う、小さな子どもたちを育てている保護者のみなさんにお伝えしたいことです


 子どもは「信じられないくらい大きな可能性を秘めている」ことに、ぜひもう一度、目を向けてください。生まれた時のことを思い浮かべてください。出せるものが「光り輝くウンコ」のはずなのに、「ただのウンコ」ばかりでは、先人の誰かが云ったように、人間はただの『くそ袋』ではありませんか。それでは、あまりにも寂しいし、哀しい
 ある程度年を経ると、夢や未来という「光るウンコ」を出したり、そのことを口にするのが恥ずかしくもなるようです。ウンコはウンコだから出したくない、みっともないから見られたくない…そういう恥ずかしがりの人が多いかもしれません。
 なかには、もう『ウンコの出ない人』もいるかもしれません。しかし停滞や便秘は、精神的にも肉体的にもよくありません。ぼくたちの夜明けには、夢や未来という栄養を十分からだに供給できた、元気な「光り輝くウンコ」が欠かせません。

「通じ」の悪い場合
 ところで、ウンコが出ないのは、きっと、『ウンコのもとになる』栄養豊富な本を読まないからではないでしょうか。どんな本か?
 まず、古い本棚にあった一冊。「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」(マークス寿子著 草思社)。アマゾンのレビューを見てみると、案の定というか、評価が極端に分かれていて、情けないほど(!)おもしろい。ほとんどみんな、「ボロクソ」です。
 なかには、「著者が貴族と結婚していた」とか、「イギリスに住んでいる」とかの事実にまで、「情けなくも」噛みついているヒトもいます。「あんたは狂犬病か?」という感じです。

 そんなことは内容や評価とは全く関係ありません。自らと自らの国の現状を正視すること。よく見てよく考えること。それでなければ何にも始まらないし、どこへも進めません。数十年「日本だけで」生きてきて、「巷」をあちこち渡り歩いて、ぼくに見えてきた現実(現在)を、この本は見事に喝破しています
 件のレビュアーに云いたいのは、「云われる前に気づきなさい、だから云われるんだろ」という一言です。まず、虚心に目を向け、そこから出発すべきです。向上や進歩・反撃はすべて、「冷静に観察すること」から始まります。先のレビュアーは「誤字だらけ、文法めちゃくちゃのレビュー」を、「まず恥ずかしいと思う」心が先です。日本の言語です。そうでないと「日本の云々」は云えないはずです。だから云われるのです
 さて、「フワフワ~」の見出しを一部紹介すると、「食いものにされた福祉―厚生省の汚職事件」「中流意識と見せかけの豊かさ(これは章タイトル)」…この『見せかけの豊かさ』の意味が、現在では、もうすでに分からなくなってきているのでしょう(1997年8月初版)。
 さて、「伝統あっての流行―日本人に個性はあるのか」「文化の屋台骨はしつけ―まずは伝統を見直せ」「のぞき趣味の番組―ユーモア精神に反する」「人生にリプレイはない―日本の若者のゆくえ」…これくらいにします。

 いちいちもっともだと思いませんか? これらのひとつひとつは、今日本が抱えている問題点です。ある程度の年嵩の人がこれを見て、「なるほどな」と思わなかった(思えなかった)ら、日本が相当ひどい末期症状に入ってしまったな、それこそ日本ではない他国と、並べたくない「肩を並べてしまったな」との判断になるのではありませんか?
 「貴族」であろうと、「橋の下で寝起きするおじさん」が云おうと、正しいものは正しいし、まちがっているものはまちがっている。そこが原点です。まずそこから出発しないと、進歩も改善も改良もありえません、どこの国でも

 これらのレビューを見ていると、「あんたは新幹線に乗っているから…。それもグリーン車でしょ。鈍行の普通車のことはわからないでしょ。黙ってなさい」と云ってるようなものです。バカらしくて聞いていられない。
 「新幹線に乗っているからこそよくわかること」はあるし、「鈍行に乗っているから見えること」もあるし、「見なければならないこと」があります。また、見えなければ、乗った人の感想や観察をていねいに聞き取り考えること、鈍行に乗ることしかできなければ、逆に新幹線から見た鈍行の不便さや居心地の悪さをしっかり「想像」し、考え直し、改善を図るべきでしょう。
 現在は、「日本人としての誇りや自負など関係ない、あるいは考えない」という人も増えているように思いますが、ぼくは日本人としての矜持は人並み以上に持っています。だから決して「日本マゾヒスト(?!)」ではありません。悪いところは悪いし、良いところは良い。これらのレビューに書かれている「反論にもならない反論(?)」や「気づけない心」、島国根性(!)や「劣等感」丸出しなのが、腹立たしく、ほんとうに情けない。そこなんですよ、著者に指摘されているところは。

夜明け前
 「『自分たちの子育てや教育・指導を客観的にきちんと見ることなく過ごしているから、こういう指摘を受けてしまうのだ』という視点を、なぜもてないようになってしまったのか?」。 日本のモチベーションや活力は、本来そういうところ(気概)から生まれていたはずです。
 現在と似ていると(ぼくが勝手に)思っている江戸後期から明治維新の新時代に輩出した、「それぞれの(!)」グループのリーダーたちはみんな、伝統や歴史・文化、さらに新しい情報や文明を一生懸命消化し、「光り輝くウンコ」を出し続けたでしょう。
 「貴族」が云おうと、「すぐ入れ歯が外れる隣のご隠居さん」が云おうと、「良いものは良い」し「考えるべきものは考える」という視点をもたないと…素晴らしい未来や前進はありません。「しっかりしましょうね」、という思いでいっぱいです。あたりまえですが、世の中のことは自分のことだけ見ていては見えません。

 「光り輝くウンコ」を出すための本は他に、同著者では、「ふにゃふにゃになった日本人」(草思社)ですが、今読んでいる本で目先を変えるならば、先日も紹介した「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏 文春新書)も手ごろです。ただ、この本に書かれていることの実践は、その前段階として、もっと小さいころに、ぼくがいう「学体力」や「環覚」の育成を心がけておく必要があると思います(ファインマンの小さいころのように)。「さらなるファインマン」については、以前のブログ「ファインマンの父とエジソンの母」シリーズを、また「ファインマンさんは超天才」(C.サイクス著 大貫昌子訳 岩波現代文庫)が参考になります。また江戸時代から明治維新前後の欧米人の滞日記録に目を通してください。云っていることがよくわかると思います。

 「素晴らしい才能というのは、実は継続する努力だ」ということを先にも再確認しましたが、「『あの子は天才だから』という、本人も周囲も、その努力を放棄した、ありがちな子育て」が、「いかにまちがいであるか」を考察した「天才を考察する」(デイビッド・シェンク著 中島由華訳 早川書房)も、子どものしつけや教育を見直せる良い本だと思います。 この本を読めば、自分も子どもも、まだまだ「でっかい光り輝くウンコ」を生み出せる可能性があることが、よくわかります。特に若い人には。
 さて明治維新、「先の夜明け前」と「現在の夜明け前」では、何がちがうか。どうして「停滞の気運」から抜け出せないのか? 
 入試も一段落して、DVD「ディ・アフター・トゥモロー」を見直しているとき、思い至りました。ご存じの「地球温暖化による環境変化」を描いたパニック映画です。
 見ている途中、なぜか明治維新と、ぼくの曰く、現在の「夜明け前」の何がちがうのか、どこか違うのか。それが頭から消えません。「時代がちがう」では解決になりません。


 「ディ・アフタ~」は行動指針・行動選択の小さな差によって、多くの生命が失われ、あるいは助かってゆく。なるほど、そういうものかと思い、今こうしてパニック映画の極寒のシーンを見ているぼくたちの部屋は暖かく、凍死するわけではありません。いつでも画面を自由にコントロールできるリモコンを脇に、他人事を「鑑賞」している・・・そして「おもしろい」というわけです。しかし明治維新の夜明け前はそうではありません。
 生命のやりとりが人々の目前で起きたであろうし、刑死やさまざまな生命の消滅が、『画面』ではなく日常だったはずです。「極寒」を暖かい部屋で見ているのではなく、「身を切るような冷たさ」を肌で感じながら、実際にヒトが殺される(死ぬ)恐怖を体験しました。「明日しれぬ生命こそ現実のもの」だったわけです。
 それぞれがそういう現実を背負った、夜明け前の覚悟とパワーは尋常ではなかったでしょう。みんなが「光り輝くウンコ」を出せたのは、おそらく、そういう環境が大きな力として働いたからでしょう

 「寿命のあること」、「生命の限り」を忘れてしまったユルヌルが停滞の大きな原因であること。それとともに「光り輝くウンコ」が「ただのウンコ」になり、「くそ袋」になり・・・想像したくもないことですね。 
 その覚悟やパワーを少しでも取り戻そうと思えば、現在はイマジネーションしかありません。しかし、かけがえのないもの、人と人との信頼関係や敬意・愛・義理・責任・義務など、なくしてはならないものが薄くなり(そうではないですか?)、なくなりつつある今、何としても、その想像力を取り戻す必要があるようです。夜明け前


夢の教科書を求めて⑬

2018年02月03日 | 学ぶ

 先週「笑い転げた」と連絡をくれた同級生の要望に応えて、今週も卒業文集から「笑撃の名句選」のスライド残りも掲載しておきます。
云わずばおけまい
 「云わずにおくまい」でも「云わずにおけまい」でもありません。今日の話は、「云わずばおけまい」です。
 「本来なら」もっと真剣に取りあげられ、子育てや学習指導法検討の対象となり、参考図書になるべき(と考えます)本がここにあります。

 「本来なら」とカッコつきにしたのは、おそらく「より、売らんがため」、「目立たんがために」つけようとしたネーミングが仇になってしまった(だろう)からです。ひとつまちがえば「グズグズの環境をつくってしまう」、「正視することに対する躊躇」や「ユルヌルの環境を求めがちになってしまった現今の社会の精神性のゆえだろう」という意味です。
 「ほめると子どもはダメになる」(榎本博明著 新潮選書)。
 いずれにしろ、「正論でも、断言すると拒否感や敵をつくってしまう」、また「出る杭は打たれる」という反感を招く国民性のせいでしょう。このネーミングを「『ほめて育てる』子育ての嘘」や「ほめて育てた過誤」「褒められなければ死ねない」(笑い)くらいにしておけばよかったのかもしれません。

 ずいぶん昔になりますが、「うちのママは世界一」だの、「パパは何でも知っている」という「甘いタイトル」のアメリカ製ホームドラマが圧倒的な人気で迎えられたことがありました。毎週楽しみにしている家庭がたくさんあったはずです。当時、いかにも、それらが家庭や父親・母親の理想のようにとらえられ、あるべき家庭の姿と誤解されたゆえでしょう。
 戦後の混乱と自己否定の方向性は、日本の「味噌」も「糞」も、分別なく「ゴミ箱送り」に加速しました。何も知らないぼくたちの目の前でテレビから流れるそれらのシーンの数々は、自らや近所の家庭では「ありえない姿」でした。はたして、それがよかったのか? それでよかったのか?

 
 頑張れない、傷つきやすい、意志が弱い。生きる力に欠けた若者たちは、欧米流「ほめて育てる」思想の産物である。1990年代に流入した新しい教育論は、日本社会特有の「甘さ」と結びつき様々な歪みを引き起こした。「ほめても自己肯定感は育たない」「欧米の親はやさしい、は大誤解」「母性の暴走が弊害のもと」・・・臨床心理学データで欧米の真似ごとを一刀両断!
 (「ほめると子どもはダメになる」(榎本博明著 新潮選書より)
 
 前記書カバーのキャッチコピーです。新潮のセールスマンではありませんが、紹介しておきます。
 「ほめて育てる」指導を、「自らの実践経験や指導体験と照らし合わせず、右から左に、あるいは教条的に信奉する」指導は、百害あって一利なしです。学習指導法や子育ての今後の検討材料に加えてみてはいかがでしょう。

 現在の「子育て」の、そして子どもたちの「甘さ」や「ずるさ」を目にすると、そんな「剥製」の番組を見ていた、「頑固おやじ」や「よく観察していたのに知らんふりをして、さりげなく気を遣う」母ちゃんが多かった、当時の日本の貧しい家庭が、たとえそこに、北野武さんが「たけしくんハイ!」で、面白おかしく強調しているような親父やお袋がいたとしても、いかにも子どもが「夢」や「良心」や「思いやり」にあふれていた気がするのです
 小さな汚い家ばかり並んでいたそのころ、家が大きくても金持ちでも、「そのことだけ」を自慢にする子なんか、ほとんど見られませんでした、ぼくの周りでは・・・。周りのみんながうらやんだり、勝手に憧れたりすることはありましたが・・・。
 つまり、金持ちであろうと、貧乏人であろうとみんな、「そんなことを自慢にすること」が、「はしたないこと(!)」であり、「みっともないこと(!)」だと考えていた、知っていた、また教えられていた子が多かったのでしょう。「そんなことより、もっともっとたいせつなことがたくさんあること」が「わかっていた」わけです

 「街中のちょっとだけ大きい家より『大草原の小さな家』の方がどんなに良いか」、「『大きな心』や『大きな夢』の方がどんなに素晴らしいか」を、周囲の誰かに、あるいは、他の何かによってきっちり伝えられていたのだと思います
 ところが、大きくちがってきました、今は。
 「努力してまちがいを正したり、技術を高めたり、という日々のたいせつさや尊さ」を伝えても「私、そんなん、全然気にならんわ」と「高を括る(!)」ような子が、何か話題になれば、大きな家(?!)や家にあるもの、買ってもらったものを、ことあるごとに持ち出し、強調し、自慢する、という塩梅です。いずれも「飾り物」です。美しい心や正しい心以上にたいせつなものではありません。何がたいせつなのか? ほんとうに大切なものを、育てている人がわかっていない(考えていない)のでしょう。

 「怖い人」の前や「得をする人」の前ではおべっかを使ったり、よい子ぶったりして、それ以外、つまり「得にならない人」や「おとなしい友だち」の前では態度が豹変する、そういう「飾る」子、「たいせつなことを忘れた子」でよいのか? そういう「心を忘れた子育て」でよいのか? みなさんは、いかがですか?
 子どもたちのようすは、日ごろ言動をよく注意するとわかるはずです。それが見えないのか?「それでよい」と感じているのだろうか?
 「はしたないよ!」とすぐたしなめ、そんなことより、「大きな夢を描くことの方がいかに大切か」、「その夢をかなえるためには努力する(を続ける)ことがどれだけ大事か」などを、どうしてきちんと伝え続けないのか?
 時の言動に注意していると、子どもには、こんこんと説くべきことがたくさんあります。その務めを果たすことが、きちんとした親の責任であり、役割です。そして、それらを教えられている子どもたちが、ぼくが見ているかぎり、ちゃんと育っていきます(いきました)

 そういう指導ができないのは、「子どもを一人前に育てるには何がたいせつか」、「どうすればよいのか」を日々きちんと考えていない証ではないでしょうか。あるいは、そういう判断力を持ってない大人だと思われても仕方がありません。死ぬ前に、家は小さくとも、金はあってもなくても「うちのおやじは世界一」、「うちのお母んは世界一」と云われるような、「おとな」になりたいものです。

 さて、今年、あこがれの中学校に合格したN君とF君に、最後になる昨年の「稲刈り」の途次、
「N、人が、なんで生きてるのか、考えたことがあるか?」と問いかけました。甘やかされて育ってきた(ことがわかっていた)ので、試験を受ける前に、中学へ進む前に、ぜひ伝えておかなくては、と思ったのです
 しばらく考えていたN君は「・・・いや、わかりません・・・」。
 考えたこともなかったのでしょう。「Nなあ、人はな、一緒に生きてる周りの人を喜ばせるために生きてんねんで・・・。自分一人のためには絶対生きられへん・・・長い人生からの教訓や」。「君のお母さんも、おとうさんも、みんなそうなんやで・・・そういうこと考えられる人にならんとナ・・・なってや」。自らも反芻しながら、話しました。
 団から駅までの間のできごとです。ぼくと子どもたちの間では、短い時間ですが、時にこうした会話が続きます。こういう伝達も、お父さんやお母さんの理解と共感がなければ、うまくいきません。その時、同行されて話を聞いていた親御さんは、はたしてわかってくれたでしょうか。

「ねえ、ねえ、あのエアガンどこにあったの?」
 団では、子どもたちに元気よく「腕白遊び」をさせたいため、さまざまな遊びや取り組みを行います。渓流教室で毎年行う「射的大会」。釣り道具やアーミーナイフなどの景品を用意し、手作りの弓矢・吹き矢・パチンコなどを使って行う射的大会も、その「腕白遊び(!)」のひとつです。

 数年前、鶴橋駅近くの路上で、団で育った「レジェンド腕白」のひとりM君に遭遇(!)しました。4年生の時、魚釣りで川に行って釣りあげた魚をパチンコで撃って、「力も能力も勝っているものが逃げられない相手に危害を加えるなんて絶対やっちゃいけない。ルール違反だ(誤解を生まないように。逃げられる相手でもよくないことです)」と、こっぴどく叱られた「やんちゃ坊主」です。
 頭をきれいにセットし、きちんとスーツを着こなしています。就職して初任給をもらった旨、嬉しそうに教えてくれました。腕白当時の面影はまったくありません。はア、こうなるんや・・・。
 ひとしきり「思い出話」をした後、ふと思いついて、「M(彼の名)、お前、やんちゃしてたから、もう使てないエアガンもってるやろ?」とたずねると、「あります。あります」。
 「後輩に、渓流教室で使わせたいから貸してくれへんか」と云うと、「いいです、いいです。わかりました」。

 数日後、彼はきれいな箱入りの新品のエアガンをもってきてくれました。一週間コンビニでバイトしなければ買えないほど高価なものでした。「新しいやん、こんなんええんか?」とぼく
 「センセにお世話になったし、給料もらったし、良い記念です。後輩たちに勉強も遊びも頑張ってほしいし、プレゼントします。使ってください」。それから数年、毎年、そのエアガンの由来を子どもたちに伝え、楽しく、おもしろく射的大会を続けていました。
 ある年のこと。いつものように、優しい先輩OBの話を伝え、渓流教室の楽しいイメージを膨らませるために、教室の後ろに置いていたエアガンが、消えました
 ぼくはひとりで指導しているので、教室を空けるときがあります。その間子どもたちはひとりのときもあれば、数人でいるときもあります。それでもいつ消えたかは、想定がつくものです。


 あえて黙っていました。それから数日、教室に来たある団員が教室入るなり、教室に飾ってある古いスペイン銃のレプリカに触りながら、唐突に、「ぼく、この銃ほしくないねん・・・」。ぼく「・・・ん?!」。それでも子どもたちを疑いたくはありません。
 もし出来心で持って帰ってしまったとしても、そんな過ちを責めることはできません。低学年ではありがちなことです。しかし、親がそれを見のがしては話になりません。子どもにたいしても、迷惑をかけた相手に対しても、親は大きな責任があります。その後始末(責任の処理)の如何で、自分の子どもの人間性や社会的感覚・成長の方向が大きく変わってきます。「その子の人格を左右する」分岐点と云っても過言ではありません
 つまり両親は、子どもとともに自らの倫理感の確認をし、社会性を身につけ、子どもをより良き方向に導く絶好の機会です。

 かつてぼくの村には、乾物や日用品はもちろん、釣竿や空気銃の鉛の弾まで売っている「駄菓子屋?」がありました。子どもたちは乏しい小遣いを工面し、そこへメンコやビー玉を買いに行き、野辺や神社の境内・路地で腕白遊びをしていました。
 ある時、お金がなかった一人の子が5円のガムを数枚ポケットに入れてしまったのです。そのことを知ったお母さんがその子を連れて駄菓子屋まで行き、地面につくほど頭を下げて、横に並ぶ息子の頭を押さえながら、涙を流して何度も何度もお辞儀をしているのを見たことがあります。 
 小さな村、数十軒ですから、そんな話はたちまち知れ渡ります。しかし、そういう事件も含めて「人間社会らしい村」が成立していました。温かい血も流れていました。思いやりもありました。小さいころ、子どもたちはそうしたことに出会い、その様子を見て、心ならずもやってしまったことの責任と罪も覚えていきました


 「盗み」は家庭内の叱責で済む問題ではありません。被害を被る人がいるわけです。迷惑をかけてしまった相手がいます。
 それを忘れたり、その責任をどうするかを小さい間に教えておかなければ、正常な社会は成立しません。現状の多くの新聞ダネを見ればよくわかるのではないでしょうか。さらに責任を放棄し、放置すれば、そうした「倫理観」の欠如や乱れの底流が、やがて大きく社会構造を変えてしまうことになるでしょう。
 子どもたちを指導されている先生方にお尋ねしたいのですが、以前お伝えした、「ワオ!ワオ!ワオ!耳ダンボ~」もそうですが、こうした事例が多いのは、ぼくの近辺だけでしょうか? また、そういう時に、どう対処されているのでしょうか? そして、こうした事例が増加していくことについて、どう考えられているのでしょうか? 
 数十年の間に、これだけ社会構造や倫理が変わってしまっているのか、こうした底流が、どこでも一般的だとすれば、ものすごく先々が思いやられますね。

 ちなみに、スペイン銃のことに触れた子が、それ以後、団に友だち(!)と来たことがありました。
 「ねえ、ねえ、あのエアガン、どこにあったの? ねえ、どこにあったの?」と友だち。「ムニャ、ムニャ」と彼。「!!」とぼく。
 後輩に初任給で「飛び切り」のやさしさを見せてくれたOBのM君の思いも、温かい団の心のつながりも吹っ飛んでしまいました
 ぼくはその事件以降も、その子も含めた授業の度に、「人のものを黙って取ることはよくないこと」「ヒトのものを盗って自分は良くても、それをなくして困ったり、悲しんだりする人がいることがわからなければいけないこと」「過ちは誰にでもあることだから、間違ったと思ったら正直に謝ること」「人間は心底悪い人はいないと思うから、悪いことを認めない、また謝っておかないと、そのことで心の底に澱がたまり、性格や人相まで変わってしまうこと」「嘘や罪を隠すために使わなければいけないのは交感神経で、嘘をつき続けることで交感神経の緊張が続き、身体も不調になってしまうこと」等々、みんなを前に特定せず諭し続けました。機会がある度に、保護者に匂わせ続けましたが、動揺が見えても、「なしのつぶて」でした。そういう感覚で、子どもはちゃんと育ちますか? 責任は持てますか? 
 「ワオ!ワオ!ワオ!耳ダンボ」に続く、「なしのつぶて」の哀感です。
貴乃花元理事とサッカー
 「数十年前までの姿がすべてよい」という気は毛頭ありませんが、年末から続いている大相撲界の「トラブル(?)」での貴乃花元理事の主張を忖度すると、日本古来の精神性と歴史を内包している相撲道の伝統をいかに存続させていくか、という熱い思いが見えてきます。
 彼の方法は賛否両論でしょうが、日本古来の神事であるべき相撲が、ただの「プロ格闘技集団」に堕する姿を見ておけないのでしょう。「強ければ何でもよい」、「勝てばよい」。
 そのためには「かちあげ」とはとても云えない「ブレンバスター」や「ひじうち」、パンチまがいの「張り手」でひるませ(張り手は一瞬「意識が飛ぶ」、と聞いたことがあります)、美しくない「振る舞い」や勝ち方をする横綱。
 腹が立てば、負けが決まった相手を土俵外まで吹っ飛ばしたサッカーが好きだった元横綱。見方によれば、「相撲道」とその精神性が堕落していく過程だといえます。

 「伝統」は姿かたちだけではありません。精神性も含めて残していく努力をしないと、伝統は「まったく別もの」に変身してしまいます。「伝統」が伝統ではなくなります。
 日本が独自に持っていた(だから、世界中に「それぞれの国が存在する意味と価値」が生まれます)美しさも規律も精神性も見られなくなった相撲道など、世界から賞賛され、たいせつにされる道理はありません。存続させる意味はありません。
 そういう伝統や精神性にどんどんひびが入って、壊れていく過程を、ぼくたちの時代は見ているような気がします。「よいものを残しておこう」とするのは当たり前です。「貴乃花、頑張れ」です。

 ところで、ぼくはサッカーの試合も見て、もちろん日本代表を応援しますが、いつも、いつまでたってもすっきりと腑に落ちない、なにか「カスのようなもの」が心に残ります。
 何だろうか、と考えたのですが、あの接触プレーでのファウルをもらう、「倒れる姿」だとわかりました。それほど強く押されたわけでもない(と思えるときが多い)し、脚が少し接触しただけでも倒れる姿が、ぼくの中のスポーツマインドにフィットしないのです。
 メキシコオリンピックで3位になったサッカー(1968年)が、今の隆盛を思うと信じられないくらい長い間ポピュラーになれなかった(Jリーグ発足が1993年)のは、何か、そうしたプレーやルールが日本人の心に残る精神性と相いれない部分もあったのではないかと感じています。さすれば、日本人の心性も最近は変わってきたのかもしれません。


 いずれにしろ、サッカーの人気度や台頭が、今回の日本古来の相撲道の問題と相対して見えるのは僕だけでしょうか。それらの時代の変遷がよいか悪いか、是非は歴史にゆだねるとしても、それぞれの国の残しておくべき文化や伝統は、例えばクジラやイルカの問題も含めてしっかり考え、子どもたちに伝えていかなくてはならない課題だと思っています。
 補足。サッカーの台頭により、当時卒業式や諸々の機会にあれほど受け入れられがたかった国歌の斉唱への抵抗が一般的に激減したように見えるのは、どの国も国歌を厳粛に歌う、サッカーのオープニングセレモニーの力でしょう。 国歌は国歌。